2013年8月

イスラームと政治Part5:トルコとエジプトの悩み

2013 8/28 総合政策学部の皆さんへ

 2012/03/23付けで投稿した「 政策について考える:イスラームと政治Part1」では、「アラブの春」以来のイスラーム社会の政治的成長についてとりあげて「今はイランの民衆も、宗教と政治のバランスについて慎重に学んでいる時期にあたる、と考えるべきかもしれません。それは長い長い時間がかかる事かもしれませんが、いまはイスラームの近代化、長い熟成の時の一断面なのだ、ということで考えいただければ、とも思います。

 とすれば、イスラームの近代化について剛腕を振るったケマル・アタチュルクのほぼ1世紀後の後継者とも言うべきかも知れないトルコのエルドアン首相、そして民族自決と開発独裁に揺れ動いた大国インドネシアをなんとか経営しているユドヨノ大統領こそ、このテーマにふさわしいケース・スタディかもしれません」と書いたにもかかわらず、というか、やっぱりというか、イスラームの近代化、なかなかの難問であることが、公園再開発という(権力者から見れば)どうってことはなさそうなことから、権力基盤が屋さぶられているエルドアン、そして軍部の実質的クーデターで政権を(現時点では)追われているエジプトのムルシ・・・・などなどを見れば、身に染みてしまうところです。

 ヨーロッパの近代政治の流れが、とりわけカトリック教会に対して冷静な視線を走らせたマキャヴェッリとグイッチャルディーニ以来、あるいは「パリはミサに値する」との名文句とともに「とんぼ返り」を打ってプロテスタントからカトリックに改宗することでフランス人の心をとらえたアンリ4世以来、21世紀の今日にいたるまで、政治と宗教の複雑な関係に足をとられつつも、なんとか前進してきたことを思えば、イスラームの近代化にも気を長くみまもる必要がありそうです。

 ちなみに、現時点の大統領や首相等、最高権力者が属する宗教はどんなものなのでしょうか? 例えば、オバマ大統領はWikipediaによれば「プロテスタントに属するキリスト合同教会(英語では”the United Church of Christ ;UCC”)」だそうです。アメリカ大統領の中には、厳格な(平和主義で知られる)クエーカー教徒の母に育てられながら、在任中はベトナム戦争からの撤退という泥沼に苦しみ、ウオーターゲート事件で失脚するニクソン大統領もいます。

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 さて、トルコとエジプトの現状ですが、2013年8月28日現在、エルドアンはかろうじて事態をしのいでいるようですが、しかし、10年の長期政権で築き上げてきたイメージが、(EU加盟、オリンピック開催も含めて)かなりのダメージを受けたことは確実でしょう。12日付きのWebでのニュースでは、

トルコのエルドアン首相事務所、入院報道を否定: トルコのエルドアン首相が体調不良を訴え、先週入院したとの一部報道について、首相の事務所は12日、「根拠のない主張」として否定した。12日付の国内各紙は、首相が胃腸の不調を訴え、5日間入院したと情報源を明かさず伝えた。事務所の声明によると、首相はイスラム教の断食月ラマダン明けの祝祭期間を経て、今週末から通常の日程を再開する。首相は通常、テレビの生放送で毎日発言するほか、国内各地を移動する。ただ、この祝祭期間中は公の場に姿を見せていない」(ロイター;http://newsbiz.yahoo.co.jp/detail?a=20130813-00000017-biz_reut-nb)

とあります。なかなか微妙です。エルドアンが失地回復できるのか、まだまだわかりません。ちなみに記事を検索する仮定で、Yahooでは(EUに先駆けて)トルコを“ヨーロッパ”の欄に入れていることがわかりました。つまり、ネットの世界では(Yahooジャパンだけかもしれませんが)、トルコはすでにヨーロッパなのです。

 ついで、15日のロイター電では

トルコのエルドアン首相は15日、エジプト情勢をめぐり、国連安全保障理事会の即時開催を求めた。エジプト治安部隊が前日、モルシ前大統領支持派の強制排除を開始したことに懸念を表明、流血の事態を回避できなかったとして西側諸国を非難した。
 首相は記者会見で「大虐殺を前にして沈黙している者は、それを実行した者と同じくらい罪深い。国連安保理はすぐにでも開催しなければならない」などと訴えた
」とあります(http://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPTYE97E05S20130815?rpc=102)。

 エルドゥアンもしたたかです。エジプトを引き合いにだして、アメリカ・西欧をけん制しながら、国内政治をどう軟着陸されるのか? 彼にとって(もちろん、トルコ国民にとってもさらに切実でしょうが)まだまだ綱渡りが続いているようです。

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 そして、エジプトの方はさらに混沌として、AFPが13日付けで、

モルシ前大統領の拘束延長を決定、エジプト司法当局:エジプトの司法当局は12日、ムハンマド・モルシ(Mohamed Morsi)前大統領の拘束をさらに15日間延長することを決めた。パレスチナのイスラム原理主義組織ハマスとの共謀について捜査が終わっていないためとした。
 モルシ氏は、7月3日に軍に解任されそのまま軍によって「予防的に拘束」され、その後同月26日には裁判所の正式な命令により、延長可能な15日間の拘束下に置かれた。ホスニ・ムバラク元大統領が失脚した2011年のエジプト革命時に、ハマスと共謀して警察署の襲撃や、イスラム原理主義派の囚人の脱獄に関与した疑いなどで拘束された」「首都カイロでは12日も、エジプト国旗を振り、モルシ氏の写真を掲げた数百人のデモ隊が抗議活動を続けた。治安当局はモルシ支持派のデモ隊の強制排除を段階的に行っていくと11日に警告したが、デモ隊は抵抗する姿勢を崩しておらず、緊張が高まっている
」(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130813-00000005-jij_afp-int

と書いています。こういう司法的手続きが正当なのか、誰しも疑問がわくところとです。結局は、クーデター以外の何物でもないわけですが、それでは、このクーデターをどのように収めるのか? かつてトルコは冷戦下、軍事クーデターによって近代化の道をたどってきましたが、その苦い、苦しい道をエジプトもたどるのか、あるいは別の道があるのか?

 そして、この直後の14日の強制排除から始まった暫定政府とイスラム同胞団の衝突は今のところ、収めどころがまったく見当がつかない状態です。このまま、暫定政府がいわば強権で押し切るか、それともイスラム同胞団が“大儀”を通すのか。微妙な山場にさしかかっているのかもしれません。26日の時事通信では

エジプトの政変で一時停止された2012年憲法の改正草案について検討を進めてきた法律専門家10人による司法委員会は25日、約1カ月の議論を経てまとめた草案を大統領に提出した。地元メディアが26日伝えた。草案では宗教組織による政党設立を禁止すると規定、イスラム組織ムスリム同胞団の政治部門で旧与党の「自由公正党」は活動を阻まれる見通しだ。

 また「法学者の解釈もイスラム法と見なす」とした条項の廃止もうたい、イスラム法の厳格適用を求める政党「光の党」から早速反発が出ている。諮問評議会(上院)を廃止して人民議会のみの一院制とすることなども盛り込まれた」とあります(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130826-00000123-jij-m_est)。

 暫定政権側がこのまま乗り切れるのか、それとも? いずれにしても、エジプトにおける政治的近代化はまだ紆余曲折が避けられそうにありません。この点、トルコはケマル以来の伝統によって、一日の長があるとも言えそうです(クルドとキプロスというトゲがあるにせよ)。それにしても、政治家の皆さん、マッキャヴェッリぐらいは読んだことはあるのでしょうね。

マンガ(コミック)で世界を知ろうPart4:チェーザレ、毀誉褒貶の栄光#3:「君主はつねに慈悲深く、けっして残酷であってはならぬ、しかもこの慈悲を悪用しないよう注意することが肝要である」

2013 8/21 総合政策学部の皆さんへ

  毀誉褒貶の彼岸を生きるチェーザレ・ボルジアを描くコミック『チェーザレ 破壊の創造者』を紹介した#1・#2に続き、#3です。

本日の標語は『君主論』第16章「冷酷と仁慈、および恐れられることと慕われることの優劣」からとりましょう。すなわち、「君主はつねに慈悲深く、けっして残酷であってはならぬ、しかもこの慈悲を悪用しないよう注意することが肝要である」(岩波文庫版、黒田正利訳)。

あいかわらず、マキャッヴェリの言葉は陰影がありすぎて、なかなかストレートには受け取れません。気の短い現代人は、「それでは、どっちがよいのだ、さっさと言ってくれ!」と怒鳴るところですが、マッキャヴェリは「それでは、まるでフランク人みたいだよ」と軽くいなすに違いありません。

マッキャヴェリはこう続けます、「チェーザレ・ボルジアは残酷な人間だといわれるが、残酷なるがゆえに彼はよくロマニア(地方)を平定し、統一し、平和と信頼とを招来したのである」、「君主は自分の臣下を一致させ忠節であらせる必要のためには、残酷のそしりを恐れてはならぬ。何となればきわめて僅少の慈悲の例を持ってする者は、過度の慈悲によって争乱と殺人と略奪を引き起こす者に比べると、はなはだ勝っている。後者の場合は国民一般に危害を与えるが、前者の場合における処刑は少数の特殊の人を害うに過ぎないからである。あらゆる君主たちの中でも、新たに主権者となった者には、新設国家に多大の危険をはらんでいるので、残酷の悪名を逃れるわけにはいかない」。

ということで、学生の皆さんにはまだ遠い話のように聞こえるかもしれませんが、皆さんが権力の座についた時、あるいは権力者に策を教えるスタッフに身を置いた時、“冷酷”と“仁慈”のバランスをどのように考えますか?

これこそ、歴史作家の塩野七生が出世作『ルネサンスの女たち』を書き上げた後、第2作のテーマにチェーザレをとりあげ、そのタイトルを『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』と名付けた理由でもあります。「優雅な残酷」、魅力的ですね。

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 と言いながら、マキャッヴェリは別の著作『ディスコルシ』では、57章で「人間は、悪党になりきることも善良になるきることも、まずできないものである」と言い放ちます。まったくもって、「それでは、どうすればいいんだよ、さっさと言ってくれ!」とまたどなってしまいそうです。

 ここでマキャッヴェリが取り上げるケース・スタディはユリウス2世、そう、『破壊の創造者』では、チェーザレとその父ボルジア枢機卿の不倶戴天の敵、田舎者であまりに政治的過ぎる(しかし、その後、ミケランジェロの後援者として美術史上の大パトロンともなる)ローヴェレ枢機卿のその後です。1505年ですから、およそ15年後ですね。

 ユリウス2世は、しかし、彼自身の思うところにもとづき、チェーザレと異なる形で神権と俗権の統一を行おうと奮闘します。彼は法王庁領の統一に乗りだし、「ペルージアの潜主、ジョバンパゴロ・バイオーニ(ジャン・パウロ・バリオーニ)をも追い出そうと、もくろ」みます。

 法王自らが軍を率いて遠征をおこなう。まったくとんでもないことですが、マッキャヴェッリはこの扱いに困る最高権力者を、冷静に、かつやや皮肉に眺めます。

ユリウスは、護衛の兵力をひきつれてペルージアに入城するのを待たなかった。つまり、場内にはジョパンパゴロが防衛のため大軍を集結していたにもかかわらず、教皇は軍隊を伴わずに入城してしまったのである。

 ユリウスは彼の全行動を一貫するいつもの熱狂的な傾向に導かれて、ごく身の回りの護衛だけを伴って敵中に身を投じたのだった」

「その時教皇と行動をともにしていた具眼の士は、教皇のいつに変わらぬ大胆不敵な行動に舌を巻くと同時に、ジョバンパゴロの臆病さに気づいたのである」

「これらの同行者には、ジョバンパゴロがなぜ(この好機をとらえて敵である教皇に)一撃を食らわさなかったのか、どうしても納得できなかった。なぜなら、思いきって彼がそれを断行していたら、後の世までも名声をとどろかせたろうし、また同時に、略奪で大変な富を手中にできたはずなのに

「この挙にでないように、ジョヴァンパゴロを押しとどめたものが、彼の心の中の善意とか良心とかだとは信じられない。というのは、実の妹と近親相姦の事実があり、王位を奪うためには、従兄も甥も殺してしまったこの破廉恥漢の心の片隅には、いかなる慈悲心めいたものも残っていることはあり得なかったからだ。

「ジョヴァンパゴロのこの行動から、人間とはどんな悪でも平気で犯せる者ではないし、かといって、完全無欠な聖人でいることもできないものだという事実を引き出すことができる。そして悪事が、それ自体にスケールの大きさといくらかの大まかさとを持つ場合には、ジョバンパゴロは悪事に手を出すことができなかった」(永井三明訳『ディスコルシ「ローマ史」論』ちくま学芸文庫版)

 ジャン・パウロ・バリオーニにとってはまったくの言われようですが、要するに善をなすも、悪をなすも、それぞれそれを断行するにはよほどの器量が必要で(チェーザレやユリウス2世などがそのものですが)、それが無理ならそもそも文句は言わない方がよい、ということなのでしょう。

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 実は、ジャン・パウロ・バリオーニはこのたった3年前の1502年10月、チェーザレ配下にありながら、他の4人の傭兵隊長と組んで反乱を起こした「マジョーネの乱」でチェーザレの失脚まであと一歩に迫ります。

 しかし、互いの意見のまとまりのなさ(=マッキャヴェッリがもっとも軽蔑するところですね)、見事にチェーザレに付け込まれ、一気に再逆転、彼以外の4名の傭兵隊長(およびその部下たち)が殺戮されるシニガッリア事件を、病気という名目でかろうじてのがれた経験があるだけに、ローヴェレやチェーザレとの格の違いを自覚せざるを得なかったとも言えないわけではなさそうです。

政策について考える:“国境”とはどこか? Part2

2013 8/6 総合政策学部の皆さんへ

 「“国境”とはどこか?」のPart2ですが、それでは最も直線的な国境はどこかわかりますか? いわゆる“人為的国境”の極致ですが、それがアメリカとカナダの国境だそうです。

 全長8891km、そのうち2475kmがアラスカ州とカナダ、そして残り約6400kmがアメリカ合衆国では大西洋岸のメイン州から太平洋岸のワシントン州までの長大な国境となります。

 このうち、アラスカ州とカナダの国境の大半は西経141度で、またノースウェスト・アングルからワシントン州までの国境は北緯49度で、緯度・経度によってきわめて人為的に直線に切り取られています。

 これらの国境は、1783年のパリ条約1794年のジェイ条約、1818年のアメリカ・イギリス間協定、1842年のウェブスター=アッシュバートン条約、1846年のオレゴン条約、さらに1859年の“ブタ戦争”と、1872年のドイツ皇帝による仲介、そして1903年のイギリス、カナダ、アメリカの合同採決による確定を経ているとのこと(Wikipedia)。

 なんだか、ため息の一つでもでてきそうな塩梅です。皆さんは、こうした“息の長い交渉ごと”に耐えられますか? 耐えられそうもなかったら、外交官という職業はあきらめた方がよいかもしれません。

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 こうした陸上国境の管理の難しさ(=経費がかかる)を考えれば、明治8年、ロシアとの国境確定作業(樺太・千島交換条約)において、「遠隔地のカラフトを放棄し(=ロシア領として)、択捉以北の千島18島をロシアが日本に譲渡する」ことで、樺太・千島交換条約を締結した黒田清隆の判断は慧眼であったと言えるかもしれません。

 もっとも、この黒田の判断も、その後の日ロ関係に翻弄され、今に至るも、北方領土問題等に関連してしまうわけですが。

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 同じように直線的な国境はアフリカでもよく見られます。たとえば、もともとそんな国家は存在しなかったケニアとタンザニアの国境は、ペンバ島(タンザニア)対岸のアフリカ大陸東岸からまっすぐ、キリマンジャロのふもとまで直線です。

 このおかげで、日本でもよく知られている民族マサイは、この国境に真っ二つに引き裂かれたわけですが、この直線は世界史を勉強した方は教えられる1885年のベルリン会議の産物です。

 このベルリン会議は、19世紀後半のヨーロッパの外交を取り仕切り、1871年の普仏戦争以来1914年の第一次大戦までまがりなりにもヨーロッパの平和を、“協調”というアクロバティックなまでの手腕で達成した鉄血宰相ビスマルクの傑作のひとつとも言えますが、同時にそれは、そもそも民族が存在していても、民族国家が成立していなかったアフリカの大地を引き裂く所業であったわけです。

 Wikipediaによれば、「急速なベルギーのコンゴ進出に対し、以前より沿岸部の権益拡大を進めていたポルトガルが反発し、1882年にはコンゴ川河口地域における主権を宣言した。イギリスはこれを支持したが、アフリカ植民地化をめぐりイギリスと対立していたフランスは、ポルトガルを支持せずにベルギーを支持する一方、自ら探検家ピエール・ド・ブラザをアフリカ内陸部に派遣した。宰相ビスマルクのもとにあったドイツもポルトガル支持を見送った。このように、各国の思惑が錯綜する中で、ドイツのベルリンで、アフリカをめぐる一連の問題解決を目指し、国際会議が開催された」というわけですね。

 そして、この会議には「イギリス、ドイツ帝国、オーストリア、ベルギー、デンマーク、スペイン、アメリカ合衆国、フランス、イタリア、オランダ、ポルトガル、ロシア帝国、スウェーデン、オスマン帝国の計14カ国」が集まる。この14カ国が、(現地アフリカからは誰の参加もなく)、アフリカ大陸を分け取りするわけです。

 この30年後、もはやビスマルクの威令もおよばぬ中で勃発する第一次大戦により、ロシア、オーストリア、オスマン帝国は解体・変遷の嵐に飲み込まれ、19世紀的国際秩序が崩壊することになるわけですが。

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 さて、現在、ケニアとタンザニアの国境線をインド洋から追っていくと、アフリカ第一の高峰キリマンジャロの手前で屈曲して、この高峰はすべてタンザニア領になっています。

 これもまた、(アフリカの人々から見ればめちゃくちゃな話ですが)、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世がイギリスに、「おたくのケニアにはすでに高峰ケニア山があるので、おれにくれ!」と要求した、というアネクドートを聞いたことがあります。

 ちなみに要求相手のイギリス国王はヴィクトリア女王ですが、このヴィルヘルム1世の息子フリードリッヒ3世がヴィクトリア女王の長女ヴィッキー(正式には母親と同じヴィクトリア)と結婚しているので、ほとんど親類同士の話合い、のようなものです。

 ためしに、これもWikipediaを閲覧すると、「ヨーロッパ列強によるアフリカ分割が進んでいくとキリマンジャロはイギリス植民地領(現在のケニア)とドイツ領タンガニーカの境界線に位置するにようになったが、後に、アフリカ最高峰だと知ったドイツ皇帝ヴィルヘルム1世は、イギリスに国境線の変更を要求する。結局、その要求は受け入れられ、1885年のベルリン会議においてこの地域はヴィルヘルム1世の誕生日のプレゼントとしてイギリスからドイツへと割譲された。 このため、当初直線だった国境は、キリマンジャロ付近で大きくケニア側に湾曲した線になっており、山麓部分も含めた山体すべてがタンザニア領となっている」。

 これが、ヨーロッパというか、その時代、その時代のパワーを持った国々のやり方なのだ、ということを、“国境”を議論する際には、覚えておいた方がよいかもしれません。  

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...