2014年2月

単位について;インチ、フィート、ヤード、ポンド、そして口径#2

2014 2/22 総合政策学部の皆さんへ

 #1で述べたように、ヤード・ポンド法が幅をきかす(=デファクト・スタンダードである)軍需物資の世界で、小火器も例外ではなりません。最近、ある犯罪事件で“25口径”という言葉が流れましたが、この“口径”もわかったようで、なかなかわかりにくい代物です。というのもこの言葉には、①銃口(砲口)の直径と、もう一つ、②銃身(砲身)の相対的な長さ=銃身(砲身)÷銃(砲)口の直径)という、二つの意味があるのです。

 ピストルの場合、口径と言えば基本的に①を指すわけですが、その場合は、数値はさらに①ヤード・ポンド法に基づくケース(言うまでもなく、アメリカ・イギリス製)と、②メートル法のケースに分かれます。もちろん、25口径の場合は①の意味、つまり銃口の直径が25÷100分の1インチ=6.35mmをあらわします。そしてその弾丸はこれより少し大きな6.4mmなのです(=0.251インチ;.25ACP弾の場合)。
 
 そして、かつてアメリカ軍の正式拳銃であったM1911になると、軍用拳銃ですからずっと大きくなって、45口径=45÷100分の1インチ=11.4mm、弾丸は.45ACP弾の直径が0.451インチ=11.5mmとなります。

 これが、ヤード・ポンド圏以外の例を持ち出すと、例えば現在、世界でもっとも広く使用されている拳銃弾9×19mmパラベラム弾は、ドイツのルガーが開発したのでメートル法をつかっています。この場合、弾丸の直径は9mmで、薬莢の長さが19mmという意味です。また、パラベラムとは「ラテン語の諺「Si Vis Pacem, Para Bellum」(平和を望むならば戦いに備えよ)」に由来するということです(平和と軍備を論じるのに、とても微妙な表現ですね)。

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 (後で紹介するように、銃身の長さにも影響されますが)拳銃弾の威力は火薬が詰まっている薬莢の長さ(というより容量)に影響されます。パラベラム弾とほぼ同じ大きさの弾丸と言えば、ブローニングが開発した.380ACP弾ですが、同じ口径9mm(=38÷100インチ)で薬莢の長さが17.3mmとなり、9×17.3mmとなります。したがって、同じ銃身長の場合は、威力が若干低いわけです。

 詳しく言うと、.380ACP弾が3.75インチの銃身(95.25mm)から発射された場合、弾頭重量が6grで、初速が300m/s(1秒間に300m)、エネルギーが270Jになります。

 それに対して、9mmパラベラム弾は銃身が102mmの拳銃から発された場合、弾頭重量が7.5gr(8.0grと9.5grのものもあるようです)、初速が360m/s(=音速)、エネルギーが483Jとなります。

 ちなみに、.45ACP弾では、銃身が5インチ(12.5mm;M1911ガバメントでは106mm)の場合、直径0.451(11.5mm)で弾頭重量15gr(11grと12grのものもあるようです)、初速は270m/sで遅いが、弾頭重量が重いため、エネルギーは561J。.38ACP弾やパラベラム弾に比べて大きいですね。これが俗に「馬でも昏倒する」と言われた「ストッピング・パワー」です。 

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 さて、②銃(砲)身の相対的な長さの口径ですが、これが重要なのは、時間が銃(砲)身が長いほど弾丸に発射薬からの運動エネルギーが多く伝わるため、威力が増すからです。はっきり言えば、ピストルは重心が短い故にごく短距離しか効果がないのに対して、狙撃銃のように長距離の狙撃に特殊化したものほど、遠くまで威力を発揮するというわけです。

 例えば、コルト社製でもっとも小さいというコルト・ベスト・ポケットは銃身長が2インチ(51mm)しかありません。これで0.25ACP弾を打っても、2grの弾丸を初速350m/Sで発射して、エネルギーは140Jとなるので、銃身長が106mmのコルト・ガバメントの4分の1しかありません。銃身長がさらに長い(西部劇等でおなじみの)コルト・ピースメーカーことコルト・シングル・アクション・アーミーの銃身長は140mm、使う銃弾は.45ロング・コルト弾(他に36種類が使用可)です。ちなみに、この.45ロングコルト弾を銃身長190mmの拳銃で撃つと、17grの弾丸が293m/sで打ち出され、エネルギーは709Jとなります。

 こうした状況は大砲になるとさらに重要になります。つまり、大砲は砲口の直径だけが重要ではなく、砲身の相対的な長さ(正式には口径長というそうです)が重要になってくる、というわけです。したがって、大砲は例えば75mm×70口径(砲口の直径が75mmで、砲身長が75mm×70=5,250mm=5.25m)等と表わされます。
 

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 具体的な例をあげると、第2次大戦突入時のドイツ軍の主力戦車Ⅲ号戦車の主砲は50mm×42口径でしたが、これでは連合軍の戦車に対応することができず、急遽、50mm×60口径に格上げされますが、あっという間に時代遅れになってしまいます。

 最初は、火力支援用のはずだったⅣ号戦車が主役に躍り出ますが、こちらも大戦初期は75mm×24口径(砲身長がたったの1.77m)でまったく対応できず、こちらも75mm×43口径に、そしてさらには75mm×48口径と格上げしていきます。この間、同じ徹甲弾Pzgr.39(6.8kg)を撃った場合、初速は385m/sからなんと740m/sへ、そして790m/sに向上、距離500mで侵徹できる装甲の厚さは39mmから91mm、そして96mmに向上します。

 さらに新型Ⅴ号戦車パンテルに搭載されたのは70口径(砲身長は5.25mに達します)、この場合は初速は935m/Sに達して、装甲貫徹力は124mm(24口径の場合の3.18倍)になります。その代わり、砲重量はあっというまに重くなるわけで、装甲板の厚さの増大もともなって、Ⅲ号戦車の重量が22.7トン、Ⅳ号戦車が25.0トン、そしてⅤ号戦車が44.8トンに達します。

 言うまでもなく、中国古典に由来するあの言葉“矛盾”、すなわち盾(どんな矛をも通さない装甲)と矛(どんな盾をも貫く戦車砲)の間のはてしもない競争がここに本格化します。

イギリスでなぜカレーが受け入れられたか?:食についてPart15

2014 2/20 総合政策学部の皆さんへ

 日本にはカレーは、インドから直接ではなく、イギリスからやってきた。というのが通説のようです。例えば、Wikipediaでは「日本では、明治時代にイギリスから伝わった。インド風のIndian curry、タイ風のThai curryと同じく、日本のカレーも独自の料理となり、カレーライス(ライスカレーとも)は国民食と呼ばれて、日本でカレーといえばカレーライスを指す場合が多い」とあります。

 この手の話が出るとすぐに引用されるのが明治5年刊行、敬学堂主人著『西洋料理指南』ですが(pdfが『近代デジタルライブラリー』にありますhttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849074/31)、かの有名なレシピには「葱1本、 生姜半個、 ニンニク少々、 バター大さじ1杯、 水270cc、とり、海老、鯛、かき、赤蛙、カレー粉小さじ1杯、小麦粉大さじ2杯 」とあって、このレシピ自体が近代食品工業による食物商品“カレー粉”を前提としていることを示しています。つまり、現地インドでの多様なスパイス・ハーブを組み合わせたレシピではなく、18世紀に発明されたイギリス食品工業の成果の一つカレー粉なのです。

 ということは、あの「食事が不味い」と評判のイギリスで、わざわざインドから“カレー”を受け入れる、それはまたどうしてなのか? というのが本日の話題です。イギリス家庭料理に“カレー粉”が普及した理由? 皆さんは思いつきますか? 食品会社に入ったら、重要ですよね? 新規食品事業の立ち上げに。

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 ということで、調べてみると、それは実はイギリスの“肉料理”に関わることらしいのです。というのは、イギリス料理はともかくシンプル(素朴といえばほめ言葉、大味といえばけなし言葉になるわけですが)、その中で令名が高いものにローストビーフがあります。

 「牛肉の塊」をローストする=さすがに、“Beefeater”の名に恥じない食べ物ですが、このローストビーフの食べきれない分を、翌日以降にいただくとき、究極の香辛料の一つとして(臭い消しという意味もあるかもしれません)、カレー粉が利用された、というわけです。

 したがって、もはやローストビーフを家庭では焼かなくなってしまった今、家庭でカレー粉を使う機会も激減してしまう。もっとも、レストランの料理として(イギリスでは、田舎でもインド料理屋がある、と英国系研究者に聞いたことがあります)、カレー料理は今も残っている、というのがWikipediaでの解説です。

 このように、冷蔵庫も無かった時代、巨大な肉塊を何日もかけて消費していく際の必須アイテムの一つが、カレー粉であったというわけです。なお、私の記憶では、シャーロック・ホームズ物にも一つ、麻酔薬をごまかすためにカレー料理が使われていた1編があったはず。たしか、競馬馬をめぐる不正事件の話だったかと思います。
 

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 (講義でも話題に出てくるはずですが)肉を食べようと思うと、家畜を殺さなければならないが、その時に大量にでてくる肉を食いつないでいく工夫がいる。

 秋のカシ・カシワ林のドングリで太らせたブタたちや牧草で肥育したウシたちを、冬の餌がないために(=これを解決したのがいわゆる農業革命ですが)屠らなければならないが、その肉を食いつなぐための工夫が、例えばハムであり、ソーセージであり、ベーコンでした。

 そして、その臭い消しのためのスパイスが必要で、そのためにコロンブスもバスコ=ダ=ガマも、マジェランも、みんな自らの命を賭けて大航海に乗り出した・・・ そのスパイスの正当な末裔が、イギリスで食品工業化されてできあがったカレー粉であり、それが根っからの米食文化圏の日本に紹介されたあと、カレー粉さえ使わぬカレー・ルーの展開によって、国民料理にまで発展したのが日本の家庭料理=カレーライスであるというところで、今回は一段落にしましょう。

第一次世界大戦勃発から100年#2:植民地を争う戦争は、動員数も不足して、その結果、被抑圧民(=先住民)をも目覚めさせることとなります

2014 2/12 総合政策学部の皆さんへ

 第1次大戦で“国際帝国”を崩壊させ、多数の“国民国家”を誕生させることになった、“連合軍”の勝利者たちは、植民地をさらに拡大して、第2次大戦までの戦間期、世界の多くを支配します(日本もその例に漏れません)。その多くは単一民族(アングロサクソン、フランス等)の幻想のもとに統一化された民族国家が、異民族を植民地として、収奪的に支配するパターンです。つまり、真っ向からの“異民族支配”です。

 これがいわゆる帝国主義ですが、これもうまくいかない。第2次大戦後、こうした帝国主義は自ら崩壊していきます。考えてみれば、植民地体制等、永遠に持続するのも無理な話です。例えば、1913年にイギリスの人口は4563万人(ただし、これはアイルランドを含むのかな? 統計上、含むのでしょうね)、世界人口の2.47%ですが、この人口で全世界の4分の1を支配しようとするのだから、優秀な人手もたりない。かなり大変な状況であることはおわかりになるでしょうか?

 もう一つ、授業でもたまに指摘していますが、植民地経営は金もヒトもかかる。したがって、もし、被支配者が目覚めれば、とうてい押さえつけていくわけにはいかなくなる。民族自決で団結すれば、敵うわけがありません。

 こうして、第1次大戦から戦間期の混乱をへて(ガンジーが主導したインドの不服従運動や、国民国家としてのトルコの成立等、様々な要素を含みます)、第2次大戦、植民地の独立運動(アルジェリア独立からアフリカの独立、最後の植民帝国ポルトガルの崩壊等々)で、現在までに至るのが20世紀の激動でした。

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 ところで、話を少し脱線して、皆さん、人口あたり、どのぐらいの軍隊を維持できるとおもいますか? 例えば、江戸時代、1万石がざっと人口1万人を支えられるとして、この1万石の藩が幕府に提供する軍事要員は鉄砲20、鑓50但持鑓共、弓10、騎馬14、旗3、これに輜重を司る小荷駄隊や人夫もあわせると、豊臣氏による軍役「1万石に付き250人」に近くなります。つまり、総人口に占める軍事要員の割合は2.5%?

 ちなみにアメリカ合衆国では、徴兵制をとった第二次世界大戦中の1945年度は1,205万人(総人口の8.6%)、朝鮮戦争中の1952年は363万人(同2.3%)、ベトナム戦争中の1968年354万人(同1.8%)、それが冷戦終結後の1998年は147万人(同0.5%)です。
 
   平常時の徴兵率の限界は、現在絶えず戦争の危機に取り囲まれているイスラエルでは人口が717万人、イスラエル国防軍が(2004年度のデータですが)16.8万人(同2.3%)。もっとも、非常時に招集をかけると57.6万人(8.03%)。

 つまり、平時は総人口の2.5%、非常時は8%が軍事動員の一つの目安! こうしてみると、「豊臣体制での人口1万にあたり軍事要員250人」というのはそれなりに合理性がある!!」のかもしれません。権力者になりたい方は是非ご記憶を。ところで、現在の自衛隊の定員は約24万人、日本の人口1億2756万人(2012)の0.188%になります。かなり低い値ですね。

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 さて、第1次大戦直前に話を戻して、イギリスの人口4563万人、これで軍事要員を2.5%とすると114万人になりますが、実は、第1次大戦突入直前のイギリス軍は徴兵制をとっていませんでした。そのため、大戦突入時の戦力は必要を満たすにはほど遠く、(誰も予想だにしなかった)総力戦に耐えられるものではありませんでした。

 この現状に気づいた“具眼の士”も当然いるわけで、大戦前半をかずかずの直感で切り抜ける陸軍大臣ホレーショ・キッチナーは急遽、大量の志願兵を募ります。そのためのキャッチコピーが傑作“Britons wants you”であり、キッチナーほど先の見えない大衆は熱狂のあまり次々に志願します(これほど慧眼であったキッチナーにしても、徴兵制を嫌い、大戦中に不慮の戦死を遂げるまで、志願兵でなんとかなるのでは、と甘く考えていました)。

 こうして志願して(=ヨーロッパに死にわたった)者たちこそが陸軍大臣自らの名前をいただいた“キッチナー・アーミー”で、「クリスマスまでには終わる」という楽観的な見方から1回目で志願した若者は実に48万人、それでも到底たりず、1917年、ついに徴兵制に踏み切った結果、動員された兵士は計615万人(1413年の人口の13.4%)、推定志望者は72万人(総動員者の12%;8人に1人が戦死)、負傷者が167万人(28%)、20代前半のイギリス国民の16%が死亡するという事態に発展します(津田博司、2012『戦争の記憶とイギリス帝国』)。

 しかも、これでももちろん足りずに、カナダ軍63万人(6万1千人戦死、17万人負傷)、オーストラリア軍33万1千人(戦死6万人)をつぎ込み、さらに英領インド軍(5万4千人戦死)、ニュージーランド軍(1万6千人)、南アフリカ植民地軍(7千人)を注ぎ込みます。この結果、総人口に対する戦死者の比率は実は第2次大戦での比率よりも2.5倍も高いものとなりました。

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 しかも、この軍隊には多くの被支配民族(アジア・アフリカ人)がやがて混じってきます。つまり、被支配地域・民族をめぐる帝国主義者同士の戦いに、肝心の被支配者まで動員しないと勝てない。この現実を冷静に理解し、鉄の意志で東アフリカの戦いを貫徹したのが、ドイツ軍指揮官パウル・フォン・レットウ=フォルベック将軍なのですが、その対極と言えば、もちろん、アラブ独立運動を支援すると称して、対オスマン・トルコ戦にむけてアラブの反乱を指導した“アラビアのロレンス”ことT.E.ロレンス中佐でしょう。

 このロレンス中佐はハーシム家を“アラブの反乱”の主役として引き立てますが、(裏切り者フィルビーの父)セントジョン・フィルビーは逆に現在のサウディ・アラビア王家につながるサウード家を支援します。近代的武器(機関銃、迫撃砲、山砲、地雷、その他)を与えられたアラビア兵は、やがて(ドイツ軍がバックの)トルコ軍を追い詰めていきます。

 また、中国系+インド系オーストラリア移民出身のスナイパー、“ガリポリの暗殺者”ことビリー・シンは、ガリポリの橋頭堡でトルコ兵150人を射殺し、一躍英雄になりながら、戦後、不幸な人生を歩みます。

 こうして動員されたアラビア兵、アフリカ兵、インド兵をはじめとする各地の先住民出身の兵士たちは、やがて世界の潮流に気づき、自らの権利とパワーにめざめることになっていく。これこそが植民地支配の自己矛盾・自己崩壊の過程です(to be continued・・・・・・・)。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...