2014年3月

総政100本の映画Part 16:男の野望と挫折:ジョン・ヒューストンについて

2014 3/26 総合政策学部の皆さんへ

ハリウッド映画のパターンの中に、“男の野望と挫折”というテーマがあります。Wikipediaでは、「男性的で骨太なタッチの作品が多く、また、目的を持って行動する主人公たちが徒労の果てに挫折していくというストーリーをしばしば取り上げる」と評される映画監督ジョン・ヒューストンこそ、その典型とも言うべき映画作家です。

そして、この“男の野望と挫折”にもっともふさわしいものとしては2作、1948年制作、アカデミー監督賞・脚本賞を勝ち取った『黄金』(主役は自分の父親ウオルター・ヒューストン、準主役にはハードボイルド・ヒーローの誇りも微塵も見られぬ、卑屈で自己中心的なハンフリー・ボガード。傑作です!;映画番号#63)と、その30年後、本当はハンフリー・ボガードで撮りたかったノーベル文学賞作家キプリングの中編小説の映画化『王になろうとした男』(1975年;映画番号#64)をあげるべきでしょう。

同じように、男の野望を追いかけながら、さらに複雑で微妙な結末に、苦い思いをかみしめるクリント・イーストウッドが、このヒューストンへのオマージュとして制作したのが(しかし、興行的にはみごとに失敗)、1990年制作の『ホワイトハンター ブラックハート』です。なお、この作品で描かれれるヒューストンがアフリカロケを敢行した傑作は『北アフリカの女王』(この作品で、ついにボギーはアカデミー主演男優賞を獲得;映画番号#65)です。

Wikipediaでは、この作品の撮影について「リアリズムを追求するべく、アフリカで本格的なロケを敢行したこの映画の撮影は困難を極めた。天候不順でセットが流されるやら、体調悪化や病気で倒れる出演者やスタッフが続出するやらで、撮影は長引いた。にもかかわらず監督のヒューストンは、映画そっちのけでひたすらハンティングに興じる始末だった。キャサリン・ヘプバーンはこの時の監督の態度によほど憤懣やるかたなかったか、後年『アフリカの女王とわたし』という本を出版して一矢報いた」とあります。

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 それでは、「男の野望と挫折」の巨匠ヒューストンに、そのあたりを自ら語らせると、

ルイキ川の撮影基地にアフリカのどの河川でもまずお目にかかれない奇妙な船団が組まれた」「母船の後ろに4隻(の筏)が従う船体を組織し、第1の筏には、そしてこれは私の発案だったのだが、アフリカの女王号のレプリカを載せた。言い換えれば、この筏は撮影用のステージだった」。しかし、「四艘の筏はアフリカの女王号には少々荷がかちすぎていた。やむな四艘目をあきらめ、ケィティ(=キャサリーン・ヘップバーン)には私たちと同じくジャングルのなかのトイレを使ってもらった。大きな姿見はすぐに割れ、半分のサイズになった鏡もさらに割れて、最終的にはケイティは小さな破片を手鏡にしてメイキャップをおこなうようになった

 しかも、ロケ中に、肝心のアフリカの女王号が浸水で沈没してしまう! ヒューストンはアメリカまで電話をかけて、プロデューサーのサム・スピーゲルと話を交わします。

  • どんな具合だ?」「すべて順調だよ。アフリカの女王号が夜の間に沈んだのを除けば」
  • しばらく沈黙が続いた後、スピーゲルは笑い声で「アフリカの女王が沈んだ、と言ったのかと思ったよ」
  • 「そう言ったのさ」
  • 「何だって!」

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 当時、キャサリン・へップパーンは44, 5歳、とはいえ96歳という長い生涯に4度アカデミー主演女優賞に輝く彼女のキャリアでは、まだまだ中途です(1994年の“Love Affair”出演時で87歳、『アフリカの女王』の時には主演女優賞獲得はまだ1本だけ)。それでもすでに大女優、ヒューストンは彼女の1歳年長とはいえ、これまた長い監督人生は始まったばかり(最初の監督作品『マルタの鷹』からまだ10年で、相方である主演男優のハンフリー・ボガードも長い間の下積み暮らしで、堂々と主役を張るのはこれまた『マルタの鷹』のあたりからです。ヒューストンの筆を借りれば、

 「撮影時に初めて合流したときのケィティは、この映画製作そのものをいぶかしげに見ているところがあった。私のことも経験の浅い若造監督とみなしていて、そういう気持ちをとくに隠そうともしなかった。ケィティには、相手が自らを証明するまでその人物に対する不信の念を容易には解かない傾向があったのだと思う

 それで、ヒューストンは愛すべきケィティに“さし”での会談を申し込みます。ケィティが先に発言します。

  • それで、ジョン? 何をはなしあいたいというの?」
  • ケィティ、たがいの意見をぶつけてもしょうがない。まず私の言うことを黙って聞いてくれないか。私の話がすんだあとで、こちらの言い分が正しいか正しくないか決めてもらいたい
  • いいでしょう

誰が「ボス」なのか、若造(未来の巨匠)は扱いにくい大女優(やがて、さらに大女優になってしまう)に、率直に切り出します。

皆さんも、卒業して、会社や組織に入れば、否応なしに直面する“交渉”の世界ですが、きちんと身につけて下さいね。それこそがリーダーシップであり、ハリウッドの超大物プロデューサー、ダリル・ザナックの名セリフ「俺が話し終える前に、“イエス”と言うな(”Don’t Say Yes Until I Finish Talking”)」につながるものです。

小林一三と阪急文化圏、そして関西学院Part2:百貨店について

2014 3/8 総合政策学部の皆さんへ

 「小林一三と阪急文化圏、そして関西学院Part1」を投稿してから、結構時間が経ってしまいました。この小林一三が電鉄会社経営の一貫として、すなわち「電車に乗せるべき客」を創造するため、設けた一つの策がターミナル駅に設けた百貨店だったわけですが、皆さんは世界で最初の百貨店とはどこにあった、どんな店だと思いますか? デパート業界(というか流通業界)に就職したい方は、是非、就活前に少しは“企業研究”をして下さい。

 ということで、まずは世界最初の百貨店と言えば、通常、1852年にパリにアリスティッドマルグリットのブシコー夫妻によって設立され、現在も営業しているボン・マルシェがあげられるのが普通です(この店の創設話は、鹿島茂(1991)『デパートを発明した夫婦』(講談社現代新書)がお手頃です。なお、“ボン”とは大塚食品の“ボン・カレー”の語源ですね)。

 とは言え、様々な店舗販売の歴史の中で形成されてきた形態ですから、異説があって当然。Wikipediaによれば、イングランドのダービーにある「1734年創業のベネッツ・オブ・アイアンゲート が記録に残る中ではイギリス最古、さらには世界最古の起源をもつ可能性のある百貨店であるとされる」とあり、さらに続けて「マンチェスターに位置するケンダルズ もイギリスで最も古くに創業した百貨店であることを主張している。(中略)。マンチェスターで開業したのは1836年にまで遡るが、それ以前の1796年以来ワッツ・バザール (Watts Bazaar) の名で営業していたとされる」とあります。

 しかし、おそらくは近代的スタイルで百貨店経営を成功させ、何より、“百貨店”というイメージの形成にブシケー夫妻が貢献したのは間違いないところでしょう。Wikipediaによれば「バーゲンセール、ショーケースによる商品の展示、値札をつけ定価販売」、「返品を認める」、そして、「ショーウィンドウと大安売りの季節物で客を呼び込む」、つまり「ウィンド・ショッピング」そして「セール」の伝統をつくりあげたことになります。これこそ、ビジネス・プランにおけるイノベーション、ブレークスルーなわけです。

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 さて、小林ももちろん、“流通業界”についてのノウハウをはじめから持っているわけではありません(慶応卒業後、銀行を経ての鉄道業ですから)。そのため、彼はそれなりの“勉強代”を払うことにになります(何事も、“勉強”ですね)。そもそも阪急梅田駅の開設は1910年ですが、その10年後、駅にまず5階立ての阪急梅田ビルを建て、その1階を江戸時代からの老舗白木屋にレンタル、白木屋梅田出張店(55坪=たった180㎡)として食料品・日用雑貨を販売、つづいて2階に阪急食堂を開設したということです(これが、その後の阪急百貨店のシンボル=大レストランの始まりですね)。180㎡からの出発、ですね。

 さらに5年が過ぎた1925年6月、 白木屋との契約が終了した時点で、今度は2・3階に阪急マーケット、4・5階にレストランを開業、さらに1929年4月に地上8階地下2階のターミナルデパート阪急百貨店(竹中工務店が設計・施工)を開業という段取りです。この時点で敷地面積328坪(1,082㎡)、延べ床3,280坪(10,820㎡)となります。

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 ところで、(とまた、寄り道をすることにして)小林一三に貴重なノウハウを教える羽目になった白木屋ですが、これは大村彦太郎が京都で創業した小間物・呉服問屋が、1662年(寛文2年)、江戸日本橋通に江戸支店をもうけたものです。当時は基本的に、京都等が本店、江戸が支店だったわけで、これがいつしか逆転していくのが“近代化”というわけです。

 ちなみに、三越の始祖三井高利は実家が松阪ですが、江戸等を経験したあと、本拠を京都としてます。大丸は、創業者下村彦右衛門が1717年まず伏見に古着商「大文字屋」を、1726年大阪に「松屋」を、1728年名古屋店として「大丸屋」を、1736年京都に総本店「大文字屋」、1743年江戸日本橋に江戸店を開店という道筋をたどります。

 この白木屋は、今述べた三越(当時、越後屋)、大丸とともに江戸三大呉服店として生き残り、1903年には日本初の和洋折衷建築のデパート(3階立て)を設立しますが、その17年後に阪急にノウハウを提供する、という曲折になるのですね。

 なお、Wikipediaによれば、この間、白木屋は
座売りを廃し陳列式とし、ショウウィンドウ、女子店員を採用。 日本の百貨店初の「食堂」設置。ただし、近隣のすし屋、しるこ屋、そば屋が出店、子ども遊戯室での営業。
・1904年(明治37年) 独立した「食堂」としての営業開始。
・1905年(明治38年)1月6日   日本の百貨店初の「福引き」を開催。
・1911年(明治44年) 10月1日  一部5階建てに増築。日本の百貨店初の「客用エレベーター」及び「回転ドア」設置。 本居長世を中心とする、日本初の少女歌劇「白木屋少女音楽隊」を創設

と発展します。
 
 こうしたノウハウが阪急百貨店を通して、関西の電鉄系流通業界にも流れ込んでいったのでしょう(ちなみに、阪神百貨店は、この白木屋出張所が先ほどの1925年4月の契約満了にともない、1926年10月に阪神電気鉄道梅田停留所構内に白木屋阪神出張店を開業[させたのが始まりだそうです。それが阪神直営に移るのは、1933年3月に開業の阪神マートからだそうです(Wikipedia)。

 こうして阪急、阪神両百貨店の開業にかかわりながら、関西には居着けなかった白木屋については、また別稿にしたいと思います。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...