2014年4月

マンデラ大統領について

2014 4/28 総合政策学部の皆さんへ

 本日の話題は、昨年末になくなられた南アフリカ共和国の元大統領ネルソン・マンデラです。

 私が1980年代前半、タンザニアで国際協力事業団(現、国際協力機構)の派遣専門家をしていた頃には、タンザニアのほぼすべての公共施設にポスターが貼ってありました。

 そのために否が応でもマンデラ元大統領の顔を覚えた次第なのですが、その写真には40代半ばぐらいの精悍で眼光鋭い男性が、明らかに拘束されている姿が、ほぼ正面から写っていました。

 もちろん、その頃(振り返れば、社会主義の崩壊、冷戦の終焉がすぐそこに迫っていたわけですが)、南アフリカ共和国で悪名名高かったアパルトヘイト(人種隔離政策)がいずれ終焉をとげることも、黒人たちが参政権を得ることも、ましてやマンデラ氏が釈放され、大統領に選出されることも、凡百の身としてまったく想像もできぬことでした。

 そんな時代だったのです(ちなみに、私が滞在していたのは、タンザニアの社会主義政策時代の末期、まったくの経済不振に、国全体があえいでいました)。

 2年の専門家としての滞在を終えて日本に戻ったのが1984年10月、アフリカ社会主義を標榜して第3世界のリーダーの一人だったニエレレ大統領が退陣したのがその翌年1985年、後継者のアリ・ハッサン・ムウィニがついに世界銀行・IMFの軍門に下り、、「第1次経済復興計画 Economic Recovery Programme Ⅰ:ERPI 1986-89」として構造調整に舵を切ったのが1986年7月、ベルリンの壁が崩壊するのがそのさらに3年後の1989年11月10日、ソ連の解体が1991年12月26日ですから、今思うと、めまぐるしいまでの変化です。

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 ところで、マンデラ大統領のフルネームは、ネルソン・ホリシャシャ・マンデラ(Nelson Rolihlahla Mandela)。なお、“Rolihlahla Mandela”は現地の公用語であるコサ語とのこと。Nelsonは言うまでもなく英語名ですね。

 アフリカの方のお名前は、母語(民族語)に加えて、イスラーム名(例えば、私が3年暮らした西部タンザニアではMohamedi[言うまでもなく、予言者ムハンマッド]やRamadhani[これは断食月ラマダーンから来ているかもしれません]など)、クリスチャン名などが混じっていて、戸惑う時があります。

 さて、1980年代までのマンデラ氏の経歴を振り返ると、1918年7月18日にトランスカイの生まれで、フォート・ヘア大学で学ぶも学生ストライキを主導したとして退学、南アフリカ大学の夜通信課程、ウィットワーテルスランド大学で法学を学び、1944年にアフリカ民族会議(ANC)に入党します。

 その後、青年同盟を創設してアパルトヘイト運動に取組む。1952年8月に弁護士事務所を開業するが、同年12月にANC副議長就任、ウムコント・ウェ・シズウェ(民族の槍)という軍事組織を作って司令官になる。それらの活動などで1962年8月に逮捕される(Wikipediaより)。

  当時の南アフリカ共和国による国是=アパルトヘイト政策に対する反抗者、軍事組織というわけですから、“過激派”と見られてもしかたがないところだったのかもしれません。

 私がタンザニアの役所で見たポスターは、たぶんこの1962年頃、44歳頃の写真だったわけです。思えば、当時のタンザニアはニエレレ大統領のもと、アフリカ社会主義を標榜して左よりの政策をとっていましたから、「同士奪還」のメッセージでもありました。

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 そのマンデラ氏が悪名高い孤島の収容所(もっとも、現在は、その悪名ゆえに世界遺産に指定され、観光地になっているそうですが)であるロベン島に収容されること27年、1989年12月にデクラーク大統領(当時)と突然会談、1990年2月に釈放、1991年ANC議長就任、1993年にデクラーク大統領とともにノーベル平和賞受賞、1994年に全人種参加選挙実施、大統領就任、とあっという間の急展開だったわけです。先に書いたように、1984年から1991年にかけての怒濤のような変化です。

 しかし、マンデラ氏の釈放時、私が何より驚いたのは、タンザニアの役所で掲げられていたポスターとあまりに異なり様でした。(当然のことなのですが)、長いとらわれの時間の中で、40代の精悍な闘士はいかにも穏やかな佇まいの、知に満ちた長老(スワヒリ語では“Mzee”)に変わっていたのです。

 27年の収監は、人生でもっとも輝くべき時間を彼から奪っていたわけですが、その間、この過酷な状況で人間としての成長、熟成を続けていったことが、マンデラ氏にとっても、そして南アフリカにとっても、(あくまでも結果的にですが)幸いであった、と言うべきかもしれません。

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 その一方で、デクラークの苦悩も大きかったかと思います。しかし、アパルトヘイトを何時までも続けることはできない。

 どこまでもアパルトヘイトを突っ張っていると、やがてとんでもないカタストロフィーがやってくる。それを避けるのならば、今、この瞬間、自分が権力を持ち、アフリカの先住民を武力でもって鎮圧し続ける能力を持っているこの時こそ、決断しなければいけない、ということなのです。

 それはたぶん、ほとんどの人間が決断できないような、苦渋の上での決定だったのではないでしょうか。と思うと、この決断が出来なかった幾多の権力者たちが、幾万の人々を塗炭の苦しみにさらしたことか、なんとも言えない気持ちに襲われます。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...