2014年6月

本日は6月28日、ちょうど100年前のこの日、サラエヴォでオーストリア皇太子夫妻が暗殺されました

2014 6/28 総合政策学部の皆さんへ

 本日は6月28日、第一次世界大戦が始まる直接のきっかけ、サラエヴォ事件の日です。今日でちょうど100年、1世紀も前なのか、というよりもあれから100年しか経っていないのか! という気もします。

 それにしてもこの間の激動はあまりにも激しい。19世紀的世界秩序が崩壊し、オーストリアとオスマン・トルコという国際帝国が崩壊、同じく巨大帝国だったロシアがロシア革命で消滅、いったんはソ連の一国共産主義になりながら、やがて第2次世界大戦を経て、東西冷戦を引き起こす2大陣営が誕生し、それがいったん崩壊するも、次の秩序をはたしてG8が支配するのか、ロシアをはずしたG7なのか、それとも中国も含むG20なのか、誰も確信を持てない、そんな100年です。

  さて、サラエヴォ事件の犠牲者、オーストリア=ハンガリー帝国皇太子フェルディナントは、正確にはフランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ、100年前のこの日、愛妻ゾフィー・ホテクとともに、セルビア人の暗殺者によってパレードの自動車上で射殺されます。

 ゾフィー・ホテクはボヘミアの伯爵家出身で、ハプスブルグ家とは家格がつりあわぬことから、周囲から結婚を反対され、二人の間に産まれた子供は帝位継承権を持たない、という条件でやっと挙式があげられるも、その14年後に、二人は3人の子どもを残して、死ぬことになります。

 なお、事件時、ゾフィーは妊娠中で、自らも死に瀕したフェルディナントが傍らの妻に語った最後の言葉は「ゾフィー、死んではいけない。子ども達のために生きなくては」と伝えられています。、しかし、二人の死は第1次大戦の勃発を引き起こし、その結果、その後の5年間に積み上げられる2000万人の死の前触れとなりました。

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 その後の歴史は、オーストリアー=ハンガリー帝国やオスマン・トルコのような「複数の民族を包含する国際的秩序」vs.「共通のアイデンティティに依拠して、“異人”を排除する民族国家」という二つのモデルのせめぎあいというべきでしょう。

 そして、イラクやシリアのように、オスマン・トルコ崩壊後の列強の思惑によって誕生した国家が、100年後も安定していないのも、その一つの象徴かもしれません(この両国は1916年にイギリスとフランスの間で結ばれたサイクス・ピコ協定によって成立)。なにしろ、成立したイラク王国の初代国王は映画『アラビアのロレンス』でアレック・ギネス扮するメッカのシャリーフ(宗教的指導者)ハシーム家の当主フサインの三男ファイサルなのですから、イラクの土地とはもとと縁が無いわけです。

 かつ、イラク自身は民族構成が住民はアラブ人が79%、クルド人16%、アッシリア人3%、トルコマン人(テュルク系)2%、かつ宗教はスンニー派とシーア派が混じっているわけです。互いに“異人”を排除しようとすれば、国家自体が崩壊することになります(現時点では、スンニー派の攻勢で崩壊しかねる状態です;かつて、情熱をこめてファイサルを支援したロレンスなら、何を思うところでしょう)。

 ちなみに、ファイサルの孫ファイサル2世は、1958年7月14日軍のクーデターによって親族もろとも射殺され、イラク王国は26年で幕を閉じます。

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 フェルディナントに話を戻せば、誰の目から見ても落日の“国際帝国”維持について、彼なりに私案を持っていたようです。

 19世紀、民族意識の高まりから、オーストリー=ハンガリーという二重帝国に構成しなおしたハプスブルグ帝国について、「チェコ人(ゾフィー・ホテク)と結婚しただけあって、フランツ・フェルディナント大公は親スラブ的な傾向があり、その反面で大のハンガリー嫌いだった。政治的思想も親スラヴ的で、皇帝のボヘミア王戴冠による三重君主国の大連邦国家制を望んでいた時期もあった」(Wikipedia)。

 なんとややっこしいといわれるかもしれません。民族を超えた存在であり続けたいのなら、配下の民族にそれぞれ自治権をもたせつつ、その上に君臨して国際秩序を保とうとする。

 しかし、それも配下の臣民たちが皇位を認められばこそ。もちろん、セルビア民族主義者たちがそれで納得するはずはなく、フェルディナントの現状維持を願って作り上げようとしたあまりにアーティファクトな政治構想は、数発の銃弾によって崩壊に至ります。

 一方、フェルディナントはハプスブルグ家後継者として、子供の帝位継承権をはく奪されても、“恋愛”を押し通して“貴賤結婚”に踏み切ったため、おじでもある老いた皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から嫌われ、その政治的立場は極めて微妙なものでもありました。旧来の帝国秩序に固執するフランツ・ヨーゼフとの対立が、フェルディナンドの政治的動きを加速させ、その結果としての暗殺とも言えなくはありません。もっとも、フランツ・ヨーゼフ自身も、愛妻シシィ(下記)との結婚の際、母親の反対を押し切っているので、この恋愛を認めてやってもよかったのに、と思わずにはいられません。

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 なお、フェルディナントは20歳を前にして、ほぼ1年間をかけて世界周遊に出かけます。皇位継承者の身でそんな挙に出ること自体に、これもまた反対があったそうですが、このちょっと“はずれ者”の唯一の共感者、これもハプスブルグ家の“はずれ者”、フランツ・ヨーゼフ1世の妻シシィことエリーザベト皇后の口添えでなんとか旅に出ることができたとのこと。

 その際、彼は日本も訪問、非常に詳しい手記を残していますが、その中で日本の従来の文化を称揚し、ヨーロッパ人から見れば醜悪にも見える急速な“欧化=近代化政策”に疑問を呈しています(『オーストリア皇太子の日本日記―明治26年夏の記録』(講談社学術文庫)。

鶴橋について#1:フィールドワークをしてみましょう:そもそも、鶴橋駅は何時、どんな風に出現したのか?

2014 6/15 総合政策学部の皆さんへ

 皆さんは鶴橋をご存じでしょうか? JRと近鉄の両鶴橋駅周辺に広がる、商店街の巨大複合体(全体で800~900店舗があると言われています)。商店街としては以下の6つの名前が挙がります。

①鶴橋西商店街(通称焼き肉通り)
②鶴橋商店街振興組合(コリア系日用品・食材)
③高麗市場(コリア系食材)
④東小橋南商店街(鶴橋本通沿い)
⑤大阪鶴橋市場商店街振興組合(鶴橋本通沿い、和食食材)
⑥大阪鶴橋卸売り市場共同組合(問屋街)

 和韓とりまぜてのこの巨大商店が、そもそも、どうしてできあがったのか? かつ、全国で「商店街が衰退していく」と指摘されながら、どうしてまた生き残っているのか? これが今回のテーマといえるでしょう。

 さて、この1月初旬には(ちょっとした経緯で)山田先生のゼミ生と鶴橋めぐりをする機会がありました。その際に、少しはためになるかもしれないと思い、色々資料を用意すると、なかなかにおもしろいことがわかってきました。ということで、ここでは“鶴橋”を話のきっかけとして、“日常”の中のフィールドワーク、そしてリサーチのやり方について述べていきましょう。

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 それではまず、“商店街”をリサーチする際のポイントを考えてみましょう! まず、そもそも、“商店街”とは何か?これには、日本の近代化をベースに、二つの見方があります。

①本来、商業地や交通の要地に自然発生したもの。
②近代化で誕生:20世紀前半、農民層が減少、都市人口が急増したが、都市流入者の多くが資本を必要としない貧相な店舗、屋台、行商の小売業の零細自営業を始める。これら零細自営業を増やさないことと貧困化させないことから「商店街」という理念が作られた。
(新雅史『商店街はなぜ滅びるのか』光文社新書)。

 ①のタイプであれ、②のタイプであれ、日本の都市は第2次大戦という大きな試練を経ます。言うまでもなく、連合軍による空爆その他で、日本の都市の多くは焦土と化しました。

 商店街は「その戦争で焼け野原となった地域に再び発展。当時、都市の中央商店街に一家揃って出かけることは数少ない楽しみの一つであり、どの都市でも「一等地」だった。それが、いつの間にか衰退への道をたどることになる」のです(Wikipedia「商店街」)。

 それでは、どうしてそこに商店街が発生したのでしょうか? どうやら鶴橋の歴史を考える必要があります。その歴史に、どんな独自性があるのか? 言うまでもなく鶴橋のポイントは「駅」です。そこで、皆さん、考えて下さいね。

 そもそも、江戸時代には、鶴橋に(いや日本に)鉄道駅などいっさいなかった。あるわけがない。日本での鉄道開業は1872年6月12日(明治5年5月7日)の品川駅 – 横浜駅間の仮開業;Wikipedia「横浜駅」)です。それでは、現在、JR、近鉄、地下鉄等が交錯する鶴橋駅はどんな順番で設置されたのか?

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 ということで、とりあえず、駅が解説された順番を調べてみましょう。

 鶴橋を通過する公共交通(JR、近鉄、地下鉄)の中で、そもそも初めに敷設されたのは1889年湊町 – 柏原間で開業した大阪鉄道(現在のJR環状線の一部ですが、当時は私鉄です)が、1895年(明治28年)5月28日に天王寺と玉造、ついで玉造から大阪駅まで開業します。これがいわゆる城東線(大阪城の東という意味ですよね)ですが、その時には鶴橋駅はありません。

 当時の地図を見ると、ほとんど田畑で駅を設ける必要もなかったように見受けられます。これが現在の環状線に結びつくわけです。1907年(明治40年)10月1日に国有化されて、いわゆる国鉄に発展します。これを運営したのが鉄道省、昔は、国鉄の運営のために一つの省があったのですね。

 ここで、古地図を探してみましょう。Googleで「鶴橋、地図、明治」とキーワードを入力、画像で検索すると、まっさきに「混雑するけど不遇の駅」と題するHPが見つかりました(http://oldmaproom.aki.gs/m03e_station/m03e_tsuruhashi/tsuruhashi.htm;後註、その後、このURLは使えなくなってしまったようです)。そのサイトを見ると、なんと明治31年修正「天王寺村」、明治32年修正「大阪」の2万分の一の地図がでてきました。その図では、たしかに鉄道(現在のJR環状線)が通っていますが、鶴橋駅は影も形もありません。そもそも、田んぼ、湿地、果樹園で、街がないのです!
 
 その田んぼが、時間の経過とともにどう変化するのか? 同じHPには、明治41年測図の「大阪東南部」もあるのですが、約10年をへて次第に家が増えていることがわかります。しかし、同時に駅はまだ影も形もありません。 街がなければ、商店街もあるはずがない。

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 そんな状況下で、現在の近鉄がこちらも“大阪電気軌道”、略称“大鉄”として、大阪と奈良を結ぶ鉄道として敷設されます。この開業は1914年(大正3年)4月、そして、ついに鶴橋駅が誕生します。つまり、そもそもは近鉄の駅だったのですね。

 ところが、その位置は現在から300mほど東、つまりJRから少しはずれたところでの開業です。これでは、国鉄との乗り合わせが不便ですね。(先ほどのHPでは、大正10年の1万分の1地形図「大阪南部」「大阪東南部」があって、この図に鶴橋駅が登場します9。

 それが1932年(昭和7年)8月23日、鉄道省線(城東線=現環状線)についに現在の鶴橋駅が開業されることになります。それにともなって、近鉄の鶴橋駅が西へ移設されたというわけです。これが現在のJR・近鉄の乗り換え駅としての鶴橋駅になります。

なお、大鉄は1941年(昭和16年)3月15日、参宮急行電鉄と合併して、関西急行鉄道と改称、さらに1944年(昭和19年)6月1日に近畿日本鉄道となります。

 同じHPの昭和27年修正測量、1万分の1地形図「大阪南部」「大阪東南部」でははっきりと国鉄、近鉄、そして路面電車(大阪市電)の駅が集中しているのがわかります。ついに、交通の要衝となったのです。

 この大阪市電が地下化、1969年(昭和44年)7月25日に大阪市営地下鉄千日前線として鶴橋駅が設置される。ここでめでたく、現在のJR、近鉄、地下鉄が交差する“鶴橋駅”となります(Wikipedia「鶴橋駅」より)。

 ということで、一つの駅にもそれなりの歴史があり、街もいつの間にかできあがっていく。そのあたりをわかっていただいたところで、to be continued・・・・・・・・といたしましょう。

本日で、ノルマンディー上陸作戦から70年です

2014 6/6 総合政策学部の皆さんへ

 本日もそろそろ終わりかけていますが、実は”The longest day”、すなわち「史上最大の作戦」こと連合軍によるノルマンディー上陸作戦からちょうど70年です。1944年6月6日午前零時15分、オールアメリカンこと第82空挺師団505連隊の降下兵がドイツ軍占領下のサント・メール・レグリーズに着地することで始まります。

 この作戦の正式名称は 「オーバーロード作戦(Operation Overlord)」。オーバーロードとは大君主、あるいは天帝、神のことで、この名前を用いた事自体が、連合軍司令部の並々ならぬ決意を物語っているとも言えるでしょう。天帝が、邪悪なドイツ軍が支配するノルマンディーに降臨するわけです。

 この日の戦いに何らかの形で関与した軍隊は、第3帝国を防衛すべきドイツ軍38万人、空と海からノルマンディー半島に殺到した連合軍15.5万人、最高指揮官は「最後の黒騎士」ことゲルト・フォン・ルントシュテット元帥(職務上は西方総軍司令官)と「砂漠のキツネ」ことエルヴィン・ロンメル元帥(同B軍集団司令官)、一方、連合軍はその名にふさわしくアメリカ合衆国、イギリス、カナダ、自由フランス軍、ポーランド、オーストラリア、自由ベルギー軍、ニュージーランド、オランダ、ノルウェー、自由チェコスロバキア軍、ギリシャ王国等、最高指揮官はドワイト・アイゼンハワー、副司令官がアーサー・テダー、陸軍総司令官が(マッチョの塊とも、人種差別主義者ともささやかれる)バーナード・モントゴメリー、空軍総司令官がトラフォード・リー=マロリー、海軍総司令官がバートラム・ラムゼー、そして第一軍指令官としていつも冷静なオマール・ブラッドレーがつきます。

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 この一戦のほぼ1年後のドイツの敗戦は、しかし、同時に東西冷戦に発展し、自由フランス軍、自由ベルギー軍、オランダ軍、ギリシャ軍はナチス・ドイツの魔手から祖国を救い出すものの、ポーランド軍、自由チェコスロバキア軍にとって、祖国は恐るべきソ連の指導者スターリンの手によって設定された鉄のカーテンの向こう側で社会主義化し、或る者は亡命を余儀なくされ、或る者は粛正され、不幸な道をたどる。

 もちろん、世界はそれにとどまらず、フランス軍はいずれインドシナとアルジェリアを、ベルギーはアフリカのコンゴを、オランダはインドネシアを失うこととなり、ギリシャは1946~49年に英米のバックアップを受けた右派政権と、ソ連(スターリン)の支援を得た共産主義ゲリラELASとの間で血みどろの争いになる・・・・

 それぞれの勝利者たちにとってのこのあまりに苦い結末は、しかし、この6月6日のノルマンディーの海岸では、まだ遠い先のことです。

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 この一日を描いたコーネリアス・ライアンの『いちばん長い日』は、連合軍・ドイツ軍、そして戦場として踏みにじられるフランス、どちらの側にも目を配った傑作ノンフィクションです。

 「上陸にそなえた艦艇では、「船上で過ごした長い時間の間に、固い友情に結ばれた陸兵と水兵は、お互いの幸運を祈り愛、そして何百という兵士は、暇をぬすんで、「たまたま生きてかえれば」と互いの住所を交換しあった。

 第29師団のロイ・スチーブン技術軍曹は、双生児の弟をみつけようと、ひじで押し分けて雑踏の中を行った。「私はとうとう弟を捉まえた。弟は私に向かって微笑し、手を差し出した。前に決めておいたように、フランスの十字路で握手しようといい、お互いに別れを告げたが、もう二度とふたたび彼に会うことはなかった」

 同じ頃、自由フランス軍所属計巡洋艦モシカルムでは、ジォジアール少将が水兵たちに話しかけます。「われわれの祖国に砲火を浴びせねばならぬとは、恐ろしくも非道なことだ。だが、私は諸君に、きょうはそれをおこなうことを要求する」。

 そう、ノルマンディー上陸作戦は、フランスへの上陸であり、その前触れとしての空襲と艦砲射撃はドイツ軍に向けられたものとはいえ、フランスの市民(その中には、ナチスへの協力者もいれば、レジスタンス要員もいるはず)にも容赦なく飛んでいく。それが総力戦の本質です(なお、上陸前の方爆撃開始とともに、BBC放送はフランス市民に海岸からの避難を呼びかけます)。

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 一方、連合軍の爆撃・砲撃をあびる通称オマハ・ビーチ(血まみれのオマハこと、Braddy Omaha)のドイツ軍砲兵隊ウェルナー・ブルースカット少佐は早朝の海岸に突然出現した大船団に息を飲みます。

 「その瞬間、よき兵士ブルースカットの世界はくずれかけた。彼の記憶によれば、ブルースカットはそのとき、平静さと確認とをもって、「ドイツの終わりが来た」ことを確信したのだった」。彼は部下を振り返り、ひとごとのような調子で言います「上陸だよ、見てみなさい」。

 「それから、(ブルースカットは)352師団のブロック少佐を電話で呼び出していった。「ブロック、確かに上陸だよ。少なくとも1万隻の船がいる-私のこの目の前で」(中略)「本当だとも」と彼は叫んだ。「信用しないなら、ここに来て、自分の目で見たまえ! 夢みたいだ! 信じられないことだ!」 ちょっと沈黙があった。やがてブロックが尋ねた。「その船はどちらに向かっているのかね」(略)「こっちへだ。まっすぐこっちへだよ!」

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 やがて上陸地点の一つスウォード・ビーチに上陸したイギリス特別攻撃隊隊長のローバット卿は、「煙が立ち上るのが見え、臼砲弾の爆裂音が聞こえる」、脇までも水につかった状態で従者の風笛手ウィリアム・ミリンに怒鳴ります。「おい、ハイランド・ラディを吹け」。

 ミリンは命令に従い、銃弾が飛び交う中、歩きながらバグパイプを吹き始め、その前を進む僚友たちは「おい、ジャック、しっかりやれ」、「伏せろ」等とてんでに叫びます。

 ミリンは結局その日、13時間以上も前からオルヌ川とカン運河にかかった橋をドイツ軍から奪取・確保していた第6空挺部隊の挺身隊に合流するまで、戦場をバグパイプを吹き続けながら進むこととなります。そして、

 いくらか銃火が小やみになったと思われたときに、隣に伏せていた(第6空挺部隊の)戦友のジョン・ウイルクス二等兵が突然グレイに注意した。「おい、風笛が聞こえるようだが、おまえどうだ」。グレイは、馬鹿にしたようにウィルクスをじっとみて、「おまえは馬鹿だ」とあっさりいった。ちょっとして、またウィルクスは彼の方をみて、「たしかに変え笛が聞こえるんだ」と主張した。こんどは、グレイの耳にも、たしかに聞こえた。

 ビル・ミリンは自分は「弾には当たらないという運だけを頼みにしていた」ことを覚えている。なにしろ、「自分の風笛の音のほかは、何も耳にはいらなかった」のだ。(略)橋のまん中に着くと、ミリンはローバット卿のほうを振り向いた。「彼は自分の領地を散歩でもしているように静かに歩いていた」。そして「吹き続けるように私に合図をした」とミリンは回想している。(『いちばん長い日』)

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 どうやら、このノルマンディーへの第1歩から、世界はどんどん変わっていた、そして今でも変わり続けているような気もします。

 この戦場に巻き込まれた人たち、例えば、オマハビーチで写真を撮る(しかし、逃げるようにいったんは戦場から去ってしまった)ロバート・キャパユタ・ビーチに上陸しながらやがて神経衰弱にかかる未来の作家サリンジャー、あれほど連合軍の到来を待ちながら、その瞬間に居合わすことができなかったロンメル、戦時神経症をやんだ部下を(どうやら事情を知らなかったらしいのですが)殴打したため、謹慎を命じられ、とっておきのこの舞台に登場できなかったパットン、そしてリーダーの孤独をかみしめながら決断するアイゼンハワー。

 そして、先にも触れた自由フランス軍、オランダ軍、自由チェコスラバキア軍、ギリシャ軍の参加者たち。

 その中には、当然、パリの次はマドリードだと思っていたスペインからの亡命者たちも。

、そのあたりも、また触れていきたいと思います。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...