2014年7月

第一次世界大戦勃発から100年#3:新兵器の登場:秋山好古によるイノベーション

2014 7/25

 総合政策学部の皆さんへ 第一次世界大戦勃発のきっかけとなったサラエボ事件が6月28日、そろそろなんと100周年です。それにしては、日本ではあまり話題が盛り上がっていないようにも思えます。

 やはり、第1次世界大戦は、遠いヨーロッパの戦いが中心で、日本は火事場泥棒的に、ドイツの海外植民地を占領していたった、ぐらいの感覚なのかもしれません。

 しかし、ヨーロッパ人にとって、なかんづく、戦場となったフランス、ドイツ、そして海を渡った(あのキッチナー・アーミーたち、そしてアンザックたち!)イギリス人にとって、第一次大戦とは、それまでとは全く異なる新世紀への突入であったに違いありません。それは、言うまでもなく、大量の死と向かい合うことです。

 その第一次大戦がオーストリア帝国によるセルビアへの宣戦布告で幕を上げたのがサラエボ事件のちょうど1カ月後の7月28日、この1月の間に破局を避けようとした何人かの人たちの努力を粉砕して火蓋が切られたとたん、連鎖反応のように宣戦布告の連続で、8月4日ドイツ軍はシュリーフェン・プランを発動、中立国であるはずのベルギーを侵攻して、フランスに短期決戦を挑みます。

 その急襲を支えきれず、後退に後退を重ねて、かろうじてパリの手前でドイツ軍の猛攻を押しとどめることになった(=結果として、シュリーフェン・プランを挫折=ドイツの短期決戦戦略を破綻させ、最終的に世界秩序を一新することになる)マルヌの会戦が9月5日~12日、参加者数フランス・イギリス連合軍107万1千人、ドイツ軍148万5千人(合計すると名古屋市の人口約227万人を上回ります)。

 そしてマルヌの会戦での戦死傷者連合軍26万3千人(損耗率24.6%)、ドイツ軍25万人(同16.8%)、損耗率が30%を超えれば戦闘継続能力がなくなるというのが経験則だとすれば、その値に近い。このたった1回の戦闘の結果に、20世紀の戦争の本質が早くもあらわになったわけです。

 ちなみに、このたった9年前、1905年2月21日~3月10日に中国・東北地方で日本軍とロシア軍が死闘を重ねた奉天会戦が、日本軍24万人、ロシア軍36万人、損害は日本軍死者15,892人、負傷者59,612人(あわせて75504人、損耗率31.5%)、ロシア軍死者8,705人、行方不明7,539人、負傷者51,438人(併せて67,682人、損耗率18.8%;ただし捕虜28,209人が別にいます)に比べて、単純に比較しても総兵力で4.23倍、戦死傷者数で3.58倍までに増加しています。 

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 この物量の重みに、各国は“総力”を発揮せねばならず、その結果、前線と銃後の区別、あるいは戦闘員と一般市民の差が薄れ、ドイツ軍によるゲルニカ爆撃、日本軍による重慶爆撃等を経て、連合軍のB-29による日本本土爆撃そして原爆へとつながることになっていきます。

 それにしても、皆さん、想像できますか? 250万人の人間が戦う、その際、250万人に毎日飯を食べさせ、砲弾や銃弾を補給し、負傷者を収容・野戦病院まで運ぶ、かつ、損耗率を補うべく、兵員を補給する、という手順を考えることを。これがロジスティック(兵站)です。戦術の名手であったピュロスではとうに及ばず(ローマ軍との死闘で、はやくも兵站の未熟さを自ら嘆くはめになります)、ナポレオンの天才をもってしても及ばなかったこの事態こそが、近代の本質の一つとも言えましょう。

 ところで、マルヌの会戦での大量死は、実に1918年11月11日の連合軍とドイツ軍の休戦協定まで、延々と繰り返されます。例えば、大戦末期、1918年3月21日から8月18日まで続く春季攻勢で、ドイツ軍192個師団、連合軍173個師団が激突、その結果、ドイツ軍死者239,000以上、連合軍死者死者255,000以上、計49.4万人が死亡ということです。これに、死者の数倍の負傷者が加わるはずです。

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 この大量死の一因は、レマルクの名作『西部戦線異状なし』に描写されている延々4年も続く塹壕戦において、「機関銃の大規模運用により正面突撃を完全に破砕しうる火線が完成した(Wikipedia)」ことが原因とされています。要するに、塹壕に新兵器=機関銃を配置して、突撃してくる敵の歩兵を掃射し続ける限り、塹壕を守りうる。しかし、それは敵方も同じことの故、4年間、攻勢をかける敵を互いに殺し合いながら、肝心の戦線はほとんど動くことが無かったわけです。

 この間、砲撃、毒ガス、戦車(史上最初の戦車イギリス軍のマーク1の使用が1916年のソンムの戦い)等が次々に改良されますが、盾と矛の争い(つまり、矛盾)はどちらかと言えば盾(=塹壕)の勝利に終始します。

 この事態、つまり塹壕に籠もり、機関銃で防御する、というのは、実はこの10年前、日露戦争の旅順攻囲戦でロシア軍が、そして黒溝台会戦では今度は日本軍の秋山旅団が展開した戦法なのですが、ヨーロッパの先進国はそれをまったく学ばず、第1次世界大戦の西部戦線でスケールアップしたあげく、膨大な死傷者を出した、ということになります。「将軍たちは、現在の戦闘を過去の知識で戦いたがる」が、結局勝つのは「未来を考える者たち」になる、というのが本日の教訓話になるのかもしれません。そして、案外、これは戦争以外のビジネスなどにも通用するのではないでしょうか。すなわち、イノベーション、もしくはブレークスルーについてのケース・スタディなのです。

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 ジョン・エリスの『機関銃の歴史』では、第3章「士官と紳士」に日露戦争のエピソードが出てきます。例えば、旅順防衛では「ロシア軍は砦の銃眼から必殺の機関銃を乱射し、現実とはおもえないほどの大殺戮を行った」「機関銃に立ち向かえるものなどありはしない。日本軍が恐れるのは当然だ。敵の機関銃がうなりだせば、どんなに勇敢な男でも背筋が寒くなってしまう」。

 しかし、日本軍も(黒溝台で5倍の敵を撃退した秋山好古を嚆矢として)、野戦でも機関銃が有効であることを示します。「攻撃において日本軍はしばしば機関銃をうまく使っている。歩兵が襲撃を仕掛けるときにはそれを援護に用い、前もってさだめておいた目標めがけて一斉射撃をおこなう・・・機関銃はその機能を上手に利用すれば、野戦砲よりはるかに役に立つだろう」。

 これらの観戦武官の報告をドイツ軍はすぐに反応し、フランスもそれに習いますが、「この時点にいたってもなお、イギリスで改革を志しものは、現職の最高司令部の伝統主義と近視眼に邪魔をされた」。とは言え、ドイツ軍もフランス軍も塹壕を守る機関銃の射撃を突破するすべをついに大戦の間、思いつくことはできなかったのです。

遣米使節と柳原白蓮、および小栗忠順あるいは熊本協同隊

2014 7/2 総合政策学部の皆さんへ

 本日のテーマはちょっと変わっているかもしれません。話のマクラは、現在NHKで放映中の「花子とアン」、ご存じ『赤毛のアン』の翻訳者村岡花子の一生をベースにした物語ですが(実は、私自身はほとんど観ていません)、その村岡花子の親友として登場の柳原白蓮こと柳原燁子が本日の主題です。そしてさらに言ってしまえば、本当の主役はその燁子の母方の祖父、新見正興です。

 新見正興、1822年に西御丸小納戸役の子として生まれながら、大坂町奉行の養子として1839年に小姓、ついで、1854年8月小普請組支配、1856年3月に小姓組番頭、1859年7月に外国奉行、その8月には神奈川奉行を兼帯した後に、万延元年(1860年)に”万延元年遣米使節” の正使の重責をにないます(Wikipedia)。時に38歳、若いですね。交渉相手の第15代アメリカ大統領ブキャナンは69歳、国務長官ルイス・カスはなんと78歳です。若い日本人代表と老人のアメリカ大統領、なんだか印象が逆転しそうです。

 この時、副使の村垣範正はお庭番あがりの47歳で、目付こと監察の小栗忠順は33歳です。ちなみにこの3人に決まった理由を、当時のたたき上げ学歴エリート福地源一郎は「新見は奥の衆とて、将軍家の左右に侍したる御小姓の出身、その人物は温厚の長者なれども、けっして良吏の才にあらず。村垣は純呼たる俗吏にていささか経験を積みたる人物なれば、もとよりその器にあらず。ひとり小栗は活発にして機敏の才に富みたりしかば、三人中にてわずかにこの人ありしのみ」(『懐往事談』より)と片付けています。

 井伊大老による一種のクーデター的人事で、遣米使節をそもそも構想した水野筑後守、岩瀬肥後守、永井玄蕃守等の知外派エリートを一掃されたあとの人事ゆえ、福地が慨嘆するのも無理がないところではありますが。

 ちなみに同時に太平洋を横断した咸臨丸総督の木村喜毅こと芥舟は30歳、艦長として乗り込んだ勝海舟が37歳、木村の従者としてアメリカの地を踏む福澤諭吉が25歳、皆さん、お若いですね。我々が彼ら幕末から明治のに活躍した方々を想起すると、つい老けた顔を思い出してしまいますが、実際に事にあたっていた時にはそれぞれ若かったのです。

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 さて、この新見正興に話を戻すと、その後の幕末から明治への変遷は、しかし、彼とその家族にとっては過酷なものとなってしまいました。幕吏としての身分を失った彼は、明治2年4月、江戸ならぬ東京で病気療養につとめますが、10月病死、享年は48歳、彼の死とともに家族は没落します(Wikipedia)。

 とくに娘3人のうち二人、次女ゑつと三女りょうは紆余曲折の末、柳橋に芸者として売られます。幕府エリートの子女が、芸者として座敷にでる。Wikipediaによれば、「姉妹は並んで歩くと日頃から美形に見慣れた柳橋界隈の人々も振り返るほどの艶姿であったという。二人とも芸で身を立て、姉のゑつは特に柳橋一の芸達といわれるほどだった」とのことです。

 このりょうが16歳で、「伊藤博文と柳原前光が落籍を競い、妾として前光に囲われる事になる。柳原本邸近くの家を与えられ、18歳で女児を出産したが、これが後のちの柳原白蓮である」。ということの次第なのです。

 ちなみに柳原前光は大正天皇の生母である柳原愛子の兄にあたります。つまり、遣米使節正史の娘が幕末の転落の末、芸者にまで身を落とし、後の総理大臣(伊藤博文)と天皇の母方伯父(柳原前光)が落籍を争って、その柳原の間に産まれた娘(孫)が柳原白蓮で、これが大正天皇のいとこにあたる。そして、女学校で、後の英訳家村岡花子と出会う・・・・そうした転変の時代が明治だったわけです。

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 さらに話を引き継げば、(「花子とアン」ではこの白蓮事件で佳境に入りつつありますが)柳原白蓮が婚家を出奔、駆け落ちする帝大生宮崎龍介もそれなりの来歴がある方です。彼の父は、孫文とも親しい熊本出身の革命家宮崎滔天なのですが、この滔天の兄は西南戦争の際に熊本協同隊として、西郷隆盛に助勢して戦死する宮崎八郎なのです。戦死した際、懐にルソーの『民約論』があった、というのは有名な話です。

 その一方で、西南戦争の際に政府から、中立を守るかどうか、去就さだかならぬ島津久光に対して勅使として派遣されたのが、まだ若かった頃の柳沢前光なのです。ちなみに勅使をつとめた時は27、8歳、りゅうを巡って伊藤博文と争ったのがそのしばらく後になります。

 その柳沢前光が、新見の娘を妾として囲い、さらにその娘が白蓮となって、西南戦争の時の賊軍の首魁の一人の弟の息子と駆け落ちする。明治という時代は、そうしたことがごく当たり前に起きる時代でした(同時代、本来は幕府の金座の役人の倅が、やはり身分を失い、歌舞伎界に養子としてもらわれ、5代目中村歌右衛門になります)。

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 今回の話はやたらに人間関係を錯綜させすぎたようです。最後にもう一つ付け加えさせていただくと、上記の遣米使節の3名は、副使の村垣こそ全うしますが、もう一人の小栗は明治政府に反逆の疑いをかけられ、家臣等ともに斬罪に処せられます。この3人、あるいはその子孫がたどった途もまた、日本の近代化における犠牲の一コマと言えるかもしれません。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...