オスマン朝皇帝と人民:国際帝国の本質について#3

2015 1/31 総合政策学部の皆さんへ

 オスマン朝トルコの皇帝は遺伝的(生物学的)にはどんな人物であったのか? 考えたことはありますか?

 例えば、オスマントルコ第10代皇帝にして、西へはるばるウィーンまで遠征したスレイマン大帝(スレイマン1世)は、皇帝たちの中では異例なことに、後宮(いわゆるハーレム)の女奴隷だったヒュッレム・スルタン(ロクセラーナ)を愛して、1534年、正式な皇后として結婚します。

 このヒュッレムは通称ロクセラーナ、つまり“ルーシ人の女”という意味で、ロシアかポーランドの出身、ポーランドの伝承では本名アレクサンドラ・リソフスカが、タタール人に捕まり、奴隷として売られてスレイマン1世の後宮に落ち着くことになります。

 ヒュッレムが産んだ二人の息子セリムとバヤズィトは、ヒュッレムの死後、スレイマン1世の後継を狙って衝突、結局、バヤズィトはセリムの手で処刑され、セリム2世として即位しますが、したがって、彼の遺伝子の半分はトルコ人ではなく、ロシア/ポーランド人の遺伝子が流れていることになります。

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 そのセリム2世の後宮に、ヴェネツィア貴族の娘が一人、やはり奴隷として入れられます。

 通称ヌール・バヌ(本名チェチーリア・ヴェニエル=バッフォ)。彼女はセリム2世に気に入られて、やがて息子ムラト3世を産み、セリム2世の死後、摂政としてオスマントルコの政治まで動かします。

 Wikipediaでは「ヌール・バーヌーは後宮の実権を握ったのみならず、大宰相ソコルル・メフメト・パシャと協力し皇帝の摂政として政治を後宮から動かした。

 彼女は、ハレム女性の最高位であるヴァリデ・スルタン(Valide Sultan 皇帝の生母。母太后)の称号を得た初めての女性だった 摂政であった1574年から1583年まで、ヌール・バーヌーはカトリーヌ・ド・メディシスエリザベス1世らと協力関係を結び、親ヴェネツィア共和国の強力な同盟を築いた」とあります。

 彼女の手腕もさることながら、ムラト3世の遺伝子はトルコ人4分の1、ロシア/ポーランド人4分の1、ヴェネツィア人2分の1になってしまうことにお気づきでしょうか?

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 さらにそのムラト3世が寵愛したサーフィエ・スルタンは本名ソフィア・バッフォ、すぐお気づきのように上記ヌール・バヌの親戚です(同じように、海賊にさらわれて後宮入りする)。

 したがって、彼女が産んでムラト3世を継いだ第13代皇帝メフメト3世の遺伝子はトルコ人8分の1、ロシア/ポーランド人8分の1、ヴェネツィア人4分の3になってしまいます。どんどん、トルコ人から離れるばかりではありませんか。

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 ちなみに、このサーフィエ・スルタンもムラト3世の死後、国政を取り仕切り、「母国の便宜を計るため、ヴェネツィア大使マルコ・アントニオ・バルバロと秘密裏に交信していた。密使には、トルコ人やヴェネツィア人では怪しまれると考えた彼女により、ユダヤ人の女が選ばれた。

 これらの事実上国家反逆罪である彼女の行為により、ムラト3世や大宰相ソコルル・メフメト・パシャの思惑は、既に会談の前にヴェネツィア側に筒抜けとなった。

 そして1575年には、1573年に締結されていたヴェネツィア・オスマン間の条約は、よりヴェネツィア側に有利な条件に改定される事になった。

 サーフィエはヴェネツィア大使のみならず、エリザベス1世とも交信していた。両者の間でのやりとりの内容は不明だが、サーフィエが母国の利益のために、カトリーヌに接触したらしい。

 エリザベスとの交信の方は、彼女達の交信を知ったエリザベスが、イングランドの利益のために、彼女を利用しようと多くの贈り物でサーフィエの心を掴んだという事情があったらしい。このことがきっかけとなり、後にエリザベスからサーフィエの息子メフメト3世に、ハープシコードなどが贈られている」(Wikipediaより)。

 おそらくは、異国のハーレムの過酷な状況で知恵を絞って生き延びることが、ヒュッレムに始まる母后たちにたぐいまれなる政治的スキルを磨かせたことでしょう(さらに付け加えれば、母国ヴェネツィアでは女性がこのような政治的パワーを得る機会はほとんどあり得なかったはずです;そのあたり、塩野七生の傑作『ルネサンスの女たち』を是非お読み下さい)。

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 とまあ、ここまで紹介したらおわかりになるかと思いますが、かつての“帝国”では皇帝の遺伝子と人民の遺伝子が異なっても、それでかまわない(というよりも、そんなことは考えない)。いわゆる国民国家(人民と支配者は同一民族、同一人種だという共同幻想のもとに振る舞う)とはずいぶん違ったものである、とも思っていただければと思います。

 それでは、母后サーフィエ・スルタンに裏切られながら、なおかつ、無能だとの評判の高い彼女の舅、夫、息子たち、すなわちセリム2世、ムラト3世、そしてメフメト3世を支えたオスマントルコの大宰相ソコルル・メフメト・パシャは何者か、と言えば、なんと彼も異邦人、「1506年、ボスニアに住む正教徒の家に生まれる。10歳のときデヴシルメによって徴集されイスラム教に改宗したが、イェニチェリではなく軍学校に送られ(Wikipedia)」、そこで大帝スレイマン1世に見いだされて、息子たちの「暗愚さを知るスレイマンが息子のために残した懐刀がソコルル・メフメトである。大宰相就任から没までの約15年間は、ソコルル・メフメトが事実上の国のトップであった」という人生を送ります。

 それでは、デヴシルメと何か? イエニチェリとは何か? そのあたりはto be continuedとしましょう。

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高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...

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