2015年3月

オスマン朝大宰相と軍隊と人民:国際帝国の本質について#4

2015 3/27 総合政策学部の皆さんへ

 「オスマン朝皇帝と人民:国際帝国の本質について#3」では、トルコ皇帝がかぎりもなくトルコ民族と遺伝子的に離れていくことに触れましたが、それでは、トルコ皇帝はどのように巨大な帝国を維持していたか、とくに大宰相について少し解説したいと思います。

 上記のブログで触れたスレイマン大帝(スレイマン1世)は、義弟でもあるイブラヒム・パシャを大宰相に抜擢しますが、イブラヒムは実はイスラームの生まれではありません。もちろん、いわゆるトルコ人でもない。

 Wikipedia英語版から引用すると、“Ibrahim, born a Christian, was enslaved during his youth. He and Suleiman became close friends as children. In 1523, Suleiman appointed Ibrahim as Grand Vizier to replace Piri Mehmed Pasha, who had been appointed in 1518 by Suleiman’s father, the preceding sultan Selim I.”とあります。

 イブラヒムの出身についてさらに触れると、“Ibrahim was a Greek born to Greek Orthodox Christian parents, in Parga, Epirus, Northern Greece, then part of the Republic of Venice.”、“He was the son of a sailor in Parga, and as a child, he was carried off by pirates and sold as a slave to the Manisa Palace in western Anatolia, where Ottoman crown princes (şehzade) were being educated”とあります。

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 北部ギリシャのパルガ(後にヴェネツイアの植民地化)生まれのギリシャ正教徒、それが海賊にさらわれ、奴隷として宮廷入りし、後の大帝スレイマン王子とお友達になって、やがては帝国の官僚のトップになる。数奇な運命です。

 なお、イブラヒムの前任者でセリム1世の大宰相であったPiri Mehmed Pashaはトルコ生まれのイスラーム教徒出身ですが、さらにその前任の大宰相Yunus PashaのEthnicityは“Unknown; of Christian origin”とあります。Wikipediaでは“It has been debated but never definitely resolved whether Yunus was of Greek, Pomak, Serbian, or Croatian origin”とあって、正確な出身地はわからないようです。

 さて、この“奴隷”というシステムは、オスマントルコの社会に深く組み込まれた社会的システムで、Wikipediaではとくに一項が立てられています(Slavery in the Ottoman Empire)。

 少し紹介すると、“Slavery in the Ottoman Empire was a legal and important part of the Ottoman Empire‘s economy and society until the slavery of peoples of the Caucasus was banned in the early 19th century, although slaves from other groups were allowed.”、“A member of the Ottoman slave class, called a kul in Turkish, could achieve high status. Harem guards and janissaries are some of the better known positions a slave could hold, but slaves were actually often at the forefront of Ottoman politics.

 The majority of officials in the Ottoman government were bought slaves, raised free, and integral to the success of the Ottoman Empire from the 14th century into the 19th. Many officials themselves owned a large number of slaves, although the Sultan himself owned by far the largest amount. By raising and specially training slaves as officials in palace schools such as Enderun, the Ottomans created administrators with intricate knowledge of government and fanatic loyalty.”

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 「奴隷制度はオスマン帝国では合法的で、かつ重要な社会システムであった」と堂々と記述されています。さらには、この奴隷たちから優秀な官僚を育てるため、学校まであるのです。

 なお、Yunus Pashaは奴隷とはまたちょっと異なるデヴシルメ制(“the devşirme system (taken from his family and converted to Islam in order to become an Ottoman bureaucrat/soldier)”でスカウトされたものです。

 このデヴシルメ制について、Wikipediaでは「「強制徴用」を意味する。アナトリア地方やバルカン地方に住むキリスト教徒の少年を定期的に強制徴用(デヴシルメ)し、イスラム教に改宗させて教育・訓練した。この制度は奴隷(マムルーク)を商人から買い、軍人化するイスラムの伝統の発展形で、デヴシルメ制によって徴用された者はスルタン個人の奴隷でもあった」と説明しています。

 いずれにせよ、オスマン・トルコでは、トルコ人民から遺伝子的に離れてしまっているかもしれない皇帝の元、これもまた異教徒出身の官僚たちによって支配されることもある(現在の“民族国家”の概念とは少なからず異なる)世界だったと言えるでしょう。

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 さて、こうして“奴隷”という身分さえ厭わなければ、才能のある者は異教徒出身でも皇帝の側近になれる。あまりにも対照的に、家柄でしばられていたヨーロッパの知識人にとって、ある意味での理想かもしれない。これが中世イスラームの“帝国”の本質である、とも言えるかもしれません。

 逆に皇帝からすれば、自分の一存ですぐさま“首を切れる”官僚たちは、便利な存在かもしれません。背後に勢力を持ち、簡単には抹殺できない“貴族”よりも、異邦の生まれ、異教徒出身、頼るのはひとえに皇帝の恩顧のみの“大宰相”ならば、自分にとってまずいことはするはずがないかもしれません。

 イブラヒム・パシャを例に出せば、Wikipediaでは“He attained a level of authority and influence rivaled by only a handful of other grand viziers of the Empire, but in 1536, he was executed on Suleiman’s orders and his property was confiscated by the state.”、すなわち1536年、長年の友人であったはずのスレイマン1世の命令で殺され、財産は没収(結局、皇帝のふところに入る)になります。

 この背景には、「最初の遠征終了後の1536年にこの遠征の責任者だったイブラヒム・パシャは処刑されたが、決着を着けられなかったことが一因とも、増長したためスレイマン1世の不興を買ったとも、宮廷闘争に敗れたためともいわれているが、いずれも伝聞に過ぎず真相は不明」(Wikipedia日本語版)。

 一説には、自ら見いだしてスレイマンに献上したロクセラーナに疎まれてのこと、とも言われています。

 さて、“民族国家/国民国家”の誕生前、“外国人”でさえも重職につける。あるいは、外国人の軍隊に守ってもらう。これはヨーロッパの世界も常識でした。

 例えば、ルイ15世の統治初期、フランスの財政を破綻させたと言われる、真手形主義 や稀少価値論 を提えて、フランスの財務総監としてフランス初の紙幣を発行、そのあげく未曾有の大恐慌を引き起こしたジョン・ローはスコットランド人ですし、ルイの孫のルイ16世が最後に頼った財務長官ジャック・ネッケルはスイス人です(ネッケルも財政改革に失敗、それがルイ16世の致命傷になります)。そして、そのルイ16世のため、最後まで奮戦して、パリ市民に虐殺されるのがスイス人傭兵たちでした。

 ということで、次回はトルコ皇帝下での“兵士たち”ということにしましょう。

なぜ、中国は一つにまとまるのか?Part 1:溥儀が紫禁城にとどまった意味について

2015 3/15 総合政策学部の皆さんへ

 皆さんは、どうして中国が一つの国にまとまっているのか、不思議に思ったことはありませんか? これがヨーロッパであれば、四分五裂に分裂してもおかしくはないのに? そこで歴史をさかのぼれば、仮に古代周王朝の成立を紀元前1046年として、紀元2015年までに経過した3061年のうち、以下の期間で中国は複数の国に分裂していました。
(1)春秋時代:紀元前770~403年
(2)戦国時代:紀元前403~221年
(3)三国時代:紀元222~280年
(4)五胡十六国時代:304~439年
(5)南北朝時代:439~589年
(6)五代十国時代:907~ 960年
(7)宋時代:960~1297年(現在の中国の領土内にほかに遼、西夏等が存在)
(8)中華民国成立から中華人民共和国成立:1912~1949年
 上記の期間を全部足し合わせると1350年、3061年の実に44.1%。

  長い歴史の4割強で分裂しながらも、なおかつ、幾度となく統一しようという意識が働き、かつ統一されている点こそが、中国の歴史の特徴になるかもしれません。もう一つ付け加えれえば、この分裂期、絶え間なく戦乱があった。つまり、統一された時代は(あくまでも相対的に)平和な時代、分裂している時代は“覇権”をめぐって争う時代なのです。

 これとは対照的にヨーロッパ等ほかの地域では、ローマ帝国で(帝政開始(紀元前27年)から西ローマ帝国が滅びる476年までとして)503年、オスマントルコ帝国で(オスマン1世が父の後をついだ1281年から数えて1922年までとして)641年、そしてロシア・ツアーリ国で(イヴァン4世の称号授与(1571年)からロシア革命(1917年)までと考えると)346年、それを継いだソ連が1922年から1991年までで69年で、それぞれ“帝国”は崩壊、民族国家に分裂します。

  そのあたりに、“中国”という国がもつ“統合原理”に何とも言えない不思議さが漂ってきます。もちろん、カエサルが創設したローマ帝国の骨組みが、1500年後、現在のEUとなって蘇っているとも言えなくはないのですが。

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 「ある国の未来を予測する時:西徳二郎の驚くべき炯眼について」で紹介した外交官西德二郞による1898年での3つの中長期的予測を思い出して下さい。清朝が傾いた19世紀末、日本の少壮外交官西は、中国について、予測を試します。

  (1)清国の独立国家としての解体、(2)一定の近代化・軍拡に成功、「陸軍ハ独逸一カ国位ハ追払ヒ得ル程」になる、(3)近代化・軍国化は進まないが、国家崩壊には至らず、現状を維持する。

 この3つの予測のうち、最後の予測に近い形で(1911年の辛亥革命によって)清朝は倒れますが、“中国”というナショナリティは“中華民国”の形でかろうじて存続して、やがて1949年の中華人民共和国の成立にいたる)国家の統一を守った。その理由は何なのか? というあたりが、今回のテーマになります。 

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  さて、近代中国が清朝の領土をそのまま継承するかたちで近代国家化できた理由の一つは、1911年の辛亥革命のあとで、清朝最後の皇帝である幼帝宣統帝こと、のちの満州国皇帝愛新覚羅溥儀が革命後も、廃帝として1924年まで北京紫禁城にとどまることを許されたことも預かっているのではないか、と私は思っています。

 すなわち、かつて清朝と同様に制服王朝であったは、1368年、台頭する漢民族王朝であるの太祖朱元璋に追われて、北走します。

 すなわち「モンゴル人たちは最早中国の保持は不可能であると見切りをつけ、1368年にトゴン・テムルは、大都を放棄して北のモンゴル高原へと退去した」。ただし、「一般的な中国史の叙述では、トゴン・テムルの北走によって元朝は終焉したと見なされるが、トゴン・テムルのモンゴル皇帝政権は以後もモンゴル高原で存続した。したがって、王朝の連続性をみれば元朝は1368年をもって滅亡とは言えないが、これ以降の元朝は北元と呼んでこれまでの元と区別するのが普通である」。

 つまり、元朝は“北走”によって、漢族+中国への支配権を失うも、自らの本願の地は確保することになる。

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 となると、「最後の皇帝愛新覚羅溥儀がその時点で“北走”して、故地満州に逃げ戻っていたら、現中国東北部はあるいは中華人民共和国と別国家として成立していたかもしれない」と空想するのもおもしろいかもしれません。

 もちろん、皆さんがご存じの通り、現実には辛亥革命の21年後、大日本帝国陸軍の謀略によって溥儀は満州国執政、のち満州国皇帝として故地に赴くことになります。しかし、これもご周知の通り、この時すでに国際的には「満州に独立の民族国家を認める」との合意はもはや成立しにくい状況になっていた訳です(当時の国際連盟加盟国の多くは満洲地域は法的には中華民国の主権下にあるべきとしたが、このことが1933年(昭和8年)に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となった(Wikipedia))。

  この微妙な結果を生んだきっかけこそ、20世紀初頭に自ら皇帝になろうと(時代錯誤な夢を追った)大清帝国第2代内閣総理大臣にして、(清朝崩壊後)第2代中華民国臨時大総統、初代中華民国大総統に就任し、そして一時期中華帝国皇帝(洪憲皇帝)になった袁世凱が、溥儀の退位の際に提示した「清帝退位優待条件」、①退位後も『大清皇帝』の尊号を保持、②引き続き紫禁城(と頤和園)で生活、③中華民国政府は清朝皇室に対して毎年400万両を支払い、清朝の陵墓を永久に保護する(Wikipediaより)だったかもしれません。

 こうして溥儀は(1924年10月に馮玉祥らが引き起こす)北京政変まで、しばし紫禁城にとどまるわけですが、それと引き替えに、故地、現中国東北地方での民族(女真族満州族)国家成立のチャンスを失ったことに、あるいはなるのかもしれません。

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 と、ここまで筆を進めれば、次は、現新疆ウイグル自治区で民族国家成立の夢を追った東トルキスタン共和国や、国民党と組んでその東トルキスタン共和国等を制圧した馬家軍のリーダー、馬仲英、あるいは「1933年から1944年にかけて新疆を事実上の独立国のように統治した。その独裁的な治世から、「新疆王」とも呼ばれた盛世才などにも触れなければ。

維新前後のベンチャービジネス家たち:東芝、資生堂、そしてセイコー

2015 3/1 総合政策学部の皆さんへ

 今、NHKの朝ドラは「マッサン」、主人公はいまや人口に膾炙しているニッカウヰスキーの創業者竹鶴政孝とその愛妻リタですが、彼らは立派なベンチャービジネス家です(もちろん、マッサンでの「鴨居の大将」こと、サントリーの創業者鳥居信治郎も同様です)。

  彼らはウィスキーを国産する(+それをビジネスとして確立させる)ことに血道をあげますが、竹鶴が山崎にウィスキー醸造所を作ったのが1923年、すでに明治維新から半世紀以上が過ぎていました。

 その明治維新の前後、何名かのベンチャービジネス家が日本に現れ、(ほんのちょっと前はちょんまげを結って暮らしていたのに)あっという間に散切り頭になって次々に舶来商品に手をだしていく。その気概と苦闘を振り返ってみましょう、というのが今回のテーマです。

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 さて、鳥居信治郎は1879年に大阪の両替商・米穀商の鳥居忠兵衛の子として、竹鶴政孝は1894年に広島で1733年より酒造を手がける竹鶴酒造の本家に生まれます(つまり、鳥居は経営者として、竹鶴は製造業者として出発するわけですが、明治12年生まれの鳥居が近代教育を受けることなく丁稚奉公から始めるのに対して、竹鶴は忠海中学から大阪高等工業学校(現大阪大学工学部)で学んだインテリです(もし、「マッサン」を観ている人がいれば、そのあたりの時代差、階級差を頭に入れておいて下さいね)。

  それでは、これからご紹介する方々はどのぐらいの年齢で、明治維新を迎えたのか?

 例えば、現在の大メーカー東芝の前身、芝浦製作所のさらに前身である電信機工場(田中製作所)を1875年に建てた田中久重(別名、からくり儀右衛門)は1799年生まれだから、明治維新時は69歳、既に「季節により文字盤の間隔が全自動で動く」等、世界初となる様々な仕掛けを施した「万年自鳴鐘」や、佐賀藩に招かれた後のこれは日本初の蒸気機関車・蒸気船模型の製造、反射炉の設計(改築)、大砲製造、そして国産蒸気船「凌風丸」等を手がけています。

   田中製作所設立の時は実に75歳、これが東芝の出発点です。お言葉としては「知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に、成就があるのである」だそうです(Wikipediaより)。

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 田中が69歳の晩年で明治維新を迎えたのに対して、1848年生まれの福原有信はちょうど20歳、青雲の志に燃えている年齢です。安房国松岡村(現千葉県館山市)に生まれた福原は、まさに時代の子、新知識を授けてくれる官立学校から官吏へ、しかし、そこで民間に転出という一つのパターンの先駆者とも言えるキャリアをたどります。

   福原は幕末に設けられた幕府医学所を経て、明治に入ってから設置の大学東校(現東京大学医学部)で西洋薬学を学び、海軍病院薬局長となります。しかし、23歳で民間に転出、1872年に洋風調剤薬局を開きます。この薬局の発展した姿が現在の資生堂なのです。

 この薬局を手始めに、福原は1880年に育毛剤の販売開始、1888年に日本初の練歯磨「福原衛生歯磨石鹸」発売、そして1897年に化粧品業界へ進出して、高等化粧水として「オイデルミン」を発売する(Wikipediaより)。これが今日に至る資生堂の快進撃の始まりです。 

 その一方、有信の子福原信三福原路風、そしてさらに孫の福原義春と続く、会社経営と余技としての芸術(写真撮影)を両立させる文化人経営者の系譜を作っていきます(義春氏は現在東京都写真美術館館長)。

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   その福原に干支一回り分若い服部金太郎は1860年の生まれ、明治維新時はまだ8歳。彼は後年の鳥居同様、最初は丁稚奉公で世にでます。しかし、鳥居が経営者に向けての丁稚奉公だったのに対して、服部は途中で手職をつけます。

 Wikipediaによれば、丁稚を始めた服部は「近所の老舗時計店に強い印象を受ける。「時計店は販売だけでなく、その後の修理でも利益を得ることができる」と考えた金太郎は、14歳の時に日本橋の時計店、2年後には上野の時計店に入り時計修繕の技術を学んだ。1877年(明治10年)、金太郎は采女町の実家に戻り、「服部時計修繕所」を開業。自宅で時計修繕をする傍ら、他の時計店で職人としての仕事も続け、時計店開業のための資金を貯めた」。

 順調に事業を発展させた金太郎は、1887年に銀座4丁目に店を移転します。上記資生堂より15年遅れたことになります。この服部時計店こそ、その後、時計の製造にも手をだして発展する、と言えば、おわかりになるかと思いますが、現在の“セイコー”につながる精工舎の設立です(1892年)。

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 こうして“国産”の夢は広がります。電信機(田中)、化粧品(福原)、時計(服部)、ウィスキー(竹鶴、鳥居)等々。そこに自動車(トヨタ)も付け加えるべきでしょう。

 世界のトヨタのそもそもの始まりである豊田自動織機創設者豊田佐吉は現在の静岡県湖西市で生まれたのが慶応3年(1867年)、明治維新にはまだ1歳にも足りません。彼の学歴は寺子屋で始まり、途中で小学校に転学、小卒後、大工の修業を始めるも、「18歳の頃、「教育も金もない自分は、発明で社会に役立とう」と決心し、手近な手機織機の改良を始めた」(Wikipedia)。

 これが今のトヨタのキックオフで、自動織機の発明につながります。そして、織機で蓄えた財を蕩尽して、2代目豊田喜一郎は「1929年から1930年4月まで欧米に出張し、当時、黎明期にあった自動車産業が将来大きく発展すると考え、1933年9月1日に豊田自動織機製作所内に自動車製作部門(のちに自動車部)を新設。1936年に自動車製造事業法の許可会社に指定されたことから、これが1937年にトヨタ自動車工業株式会社として独立し、同年同社の副社長に就任。1941年には社長に就任した」。

 ちなみに、この2代目は「旧制明倫中学校(現愛知県立明和高等学校)、第二高等学校(現東北大学)甲組工科を経て、1920年東京帝国大学工学部機械工学科卒」ですから、この半世紀の日本の社会の変化の激しさが、皆さんにもおわかりになるかと思います。この親子2代続けてのベンチャー精神こそが、トヨタを支える土性骨なのです。

 

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...