維新前後のベンチャービジネス家たち:東芝、資生堂、そしてセイコー

2015 3/1 総合政策学部の皆さんへ

 今、NHKの朝ドラは「マッサン」、主人公はいまや人口に膾炙しているニッカウヰスキーの創業者竹鶴政孝とその愛妻リタですが、彼らは立派なベンチャービジネス家です(もちろん、マッサンでの「鴨居の大将」こと、サントリーの創業者鳥居信治郎も同様です)。

  彼らはウィスキーを国産する(+それをビジネスとして確立させる)ことに血道をあげますが、竹鶴が山崎にウィスキー醸造所を作ったのが1923年、すでに明治維新から半世紀以上が過ぎていました。

 その明治維新の前後、何名かのベンチャービジネス家が日本に現れ、(ほんのちょっと前はちょんまげを結って暮らしていたのに)あっという間に散切り頭になって次々に舶来商品に手をだしていく。その気概と苦闘を振り返ってみましょう、というのが今回のテーマです。

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 さて、鳥居信治郎は1879年に大阪の両替商・米穀商の鳥居忠兵衛の子として、竹鶴政孝は1894年に広島で1733年より酒造を手がける竹鶴酒造の本家に生まれます(つまり、鳥居は経営者として、竹鶴は製造業者として出発するわけですが、明治12年生まれの鳥居が近代教育を受けることなく丁稚奉公から始めるのに対して、竹鶴は忠海中学から大阪高等工業学校(現大阪大学工学部)で学んだインテリです(もし、「マッサン」を観ている人がいれば、そのあたりの時代差、階級差を頭に入れておいて下さいね)。

  それでは、これからご紹介する方々はどのぐらいの年齢で、明治維新を迎えたのか?

 例えば、現在の大メーカー東芝の前身、芝浦製作所のさらに前身である電信機工場(田中製作所)を1875年に建てた田中久重(別名、からくり儀右衛門)は1799年生まれだから、明治維新時は69歳、既に「季節により文字盤の間隔が全自動で動く」等、世界初となる様々な仕掛けを施した「万年自鳴鐘」や、佐賀藩に招かれた後のこれは日本初の蒸気機関車・蒸気船模型の製造、反射炉の設計(改築)、大砲製造、そして国産蒸気船「凌風丸」等を手がけています。

   田中製作所設立の時は実に75歳、これが東芝の出発点です。お言葉としては「知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に、成就があるのである」だそうです(Wikipediaより)。

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 田中が69歳の晩年で明治維新を迎えたのに対して、1848年生まれの福原有信はちょうど20歳、青雲の志に燃えている年齢です。安房国松岡村(現千葉県館山市)に生まれた福原は、まさに時代の子、新知識を授けてくれる官立学校から官吏へ、しかし、そこで民間に転出という一つのパターンの先駆者とも言えるキャリアをたどります。

   福原は幕末に設けられた幕府医学所を経て、明治に入ってから設置の大学東校(現東京大学医学部)で西洋薬学を学び、海軍病院薬局長となります。しかし、23歳で民間に転出、1872年に洋風調剤薬局を開きます。この薬局の発展した姿が現在の資生堂なのです。

 この薬局を手始めに、福原は1880年に育毛剤の販売開始、1888年に日本初の練歯磨「福原衛生歯磨石鹸」発売、そして1897年に化粧品業界へ進出して、高等化粧水として「オイデルミン」を発売する(Wikipediaより)。これが今日に至る資生堂の快進撃の始まりです。 

 その一方、有信の子福原信三福原路風、そしてさらに孫の福原義春と続く、会社経営と余技としての芸術(写真撮影)を両立させる文化人経営者の系譜を作っていきます(義春氏は現在東京都写真美術館館長)。

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   その福原に干支一回り分若い服部金太郎は1860年の生まれ、明治維新時はまだ8歳。彼は後年の鳥居同様、最初は丁稚奉公で世にでます。しかし、鳥居が経営者に向けての丁稚奉公だったのに対して、服部は途中で手職をつけます。

 Wikipediaによれば、丁稚を始めた服部は「近所の老舗時計店に強い印象を受ける。「時計店は販売だけでなく、その後の修理でも利益を得ることができる」と考えた金太郎は、14歳の時に日本橋の時計店、2年後には上野の時計店に入り時計修繕の技術を学んだ。1877年(明治10年)、金太郎は采女町の実家に戻り、「服部時計修繕所」を開業。自宅で時計修繕をする傍ら、他の時計店で職人としての仕事も続け、時計店開業のための資金を貯めた」。

 順調に事業を発展させた金太郎は、1887年に銀座4丁目に店を移転します。上記資生堂より15年遅れたことになります。この服部時計店こそ、その後、時計の製造にも手をだして発展する、と言えば、おわかりになるかと思いますが、現在の“セイコー”につながる精工舎の設立です(1892年)。

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 こうして“国産”の夢は広がります。電信機(田中)、化粧品(福原)、時計(服部)、ウィスキー(竹鶴、鳥居)等々。そこに自動車(トヨタ)も付け加えるべきでしょう。

 世界のトヨタのそもそもの始まりである豊田自動織機創設者豊田佐吉は現在の静岡県湖西市で生まれたのが慶応3年(1867年)、明治維新にはまだ1歳にも足りません。彼の学歴は寺子屋で始まり、途中で小学校に転学、小卒後、大工の修業を始めるも、「18歳の頃、「教育も金もない自分は、発明で社会に役立とう」と決心し、手近な手機織機の改良を始めた」(Wikipedia)。

 これが今のトヨタのキックオフで、自動織機の発明につながります。そして、織機で蓄えた財を蕩尽して、2代目豊田喜一郎は「1929年から1930年4月まで欧米に出張し、当時、黎明期にあった自動車産業が将来大きく発展すると考え、1933年9月1日に豊田自動織機製作所内に自動車製作部門(のちに自動車部)を新設。1936年に自動車製造事業法の許可会社に指定されたことから、これが1937年にトヨタ自動車工業株式会社として独立し、同年同社の副社長に就任。1941年には社長に就任した」。

 ちなみに、この2代目は「旧制明倫中学校(現愛知県立明和高等学校)、第二高等学校(現東北大学)甲組工科を経て、1920年東京帝国大学工学部機械工学科卒」ですから、この半世紀の日本の社会の変化の激しさが、皆さんにもおわかりになるかと思います。この親子2代続けてのベンチャー精神こそが、トヨタを支える土性骨なのです。

 

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高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...

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