なぜ、中国は一つにまとまるのか?Part 1:溥儀が紫禁城にとどまった意味について

2015 3/15 総合政策学部の皆さんへ

 皆さんは、どうして中国が一つの国にまとまっているのか、不思議に思ったことはありませんか? これがヨーロッパであれば、四分五裂に分裂してもおかしくはないのに? そこで歴史をさかのぼれば、仮に古代周王朝の成立を紀元前1046年として、紀元2015年までに経過した3061年のうち、以下の期間で中国は複数の国に分裂していました。
(1)春秋時代:紀元前770~403年
(2)戦国時代:紀元前403~221年
(3)三国時代:紀元222~280年
(4)五胡十六国時代:304~439年
(5)南北朝時代:439~589年
(6)五代十国時代:907~ 960年
(7)宋時代:960~1297年(現在の中国の領土内にほかに遼、西夏等が存在)
(8)中華民国成立から中華人民共和国成立:1912~1949年
 上記の期間を全部足し合わせると1350年、3061年の実に44.1%。

  長い歴史の4割強で分裂しながらも、なおかつ、幾度となく統一しようという意識が働き、かつ統一されている点こそが、中国の歴史の特徴になるかもしれません。もう一つ付け加えれえば、この分裂期、絶え間なく戦乱があった。つまり、統一された時代は(あくまでも相対的に)平和な時代、分裂している時代は“覇権”をめぐって争う時代なのです。

 これとは対照的にヨーロッパ等ほかの地域では、ローマ帝国で(帝政開始(紀元前27年)から西ローマ帝国が滅びる476年までとして)503年、オスマントルコ帝国で(オスマン1世が父の後をついだ1281年から数えて1922年までとして)641年、そしてロシア・ツアーリ国で(イヴァン4世の称号授与(1571年)からロシア革命(1917年)までと考えると)346年、それを継いだソ連が1922年から1991年までで69年で、それぞれ“帝国”は崩壊、民族国家に分裂します。

  そのあたりに、“中国”という国がもつ“統合原理”に何とも言えない不思議さが漂ってきます。もちろん、カエサルが創設したローマ帝国の骨組みが、1500年後、現在のEUとなって蘇っているとも言えなくはないのですが。

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 「ある国の未来を予測する時:西徳二郎の驚くべき炯眼について」で紹介した外交官西德二郞による1898年での3つの中長期的予測を思い出して下さい。清朝が傾いた19世紀末、日本の少壮外交官西は、中国について、予測を試します。

  (1)清国の独立国家としての解体、(2)一定の近代化・軍拡に成功、「陸軍ハ独逸一カ国位ハ追払ヒ得ル程」になる、(3)近代化・軍国化は進まないが、国家崩壊には至らず、現状を維持する。

 この3つの予測のうち、最後の予測に近い形で(1911年の辛亥革命によって)清朝は倒れますが、“中国”というナショナリティは“中華民国”の形でかろうじて存続して、やがて1949年の中華人民共和国の成立にいたる)国家の統一を守った。その理由は何なのか? というあたりが、今回のテーマになります。 

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  さて、近代中国が清朝の領土をそのまま継承するかたちで近代国家化できた理由の一つは、1911年の辛亥革命のあとで、清朝最後の皇帝である幼帝宣統帝こと、のちの満州国皇帝愛新覚羅溥儀が革命後も、廃帝として1924年まで北京紫禁城にとどまることを許されたことも預かっているのではないか、と私は思っています。

 すなわち、かつて清朝と同様に制服王朝であったは、1368年、台頭する漢民族王朝であるの太祖朱元璋に追われて、北走します。

 すなわち「モンゴル人たちは最早中国の保持は不可能であると見切りをつけ、1368年にトゴン・テムルは、大都を放棄して北のモンゴル高原へと退去した」。ただし、「一般的な中国史の叙述では、トゴン・テムルの北走によって元朝は終焉したと見なされるが、トゴン・テムルのモンゴル皇帝政権は以後もモンゴル高原で存続した。したがって、王朝の連続性をみれば元朝は1368年をもって滅亡とは言えないが、これ以降の元朝は北元と呼んでこれまでの元と区別するのが普通である」。

 つまり、元朝は“北走”によって、漢族+中国への支配権を失うも、自らの本願の地は確保することになる。

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 となると、「最後の皇帝愛新覚羅溥儀がその時点で“北走”して、故地満州に逃げ戻っていたら、現中国東北部はあるいは中華人民共和国と別国家として成立していたかもしれない」と空想するのもおもしろいかもしれません。

 もちろん、皆さんがご存じの通り、現実には辛亥革命の21年後、大日本帝国陸軍の謀略によって溥儀は満州国執政、のち満州国皇帝として故地に赴くことになります。しかし、これもご周知の通り、この時すでに国際的には「満州に独立の民族国家を認める」との合意はもはや成立しにくい状況になっていた訳です(当時の国際連盟加盟国の多くは満洲地域は法的には中華民国の主権下にあるべきとしたが、このことが1933年(昭和8年)に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となった(Wikipedia))。

  この微妙な結果を生んだきっかけこそ、20世紀初頭に自ら皇帝になろうと(時代錯誤な夢を追った)大清帝国第2代内閣総理大臣にして、(清朝崩壊後)第2代中華民国臨時大総統、初代中華民国大総統に就任し、そして一時期中華帝国皇帝(洪憲皇帝)になった袁世凱が、溥儀の退位の際に提示した「清帝退位優待条件」、①退位後も『大清皇帝』の尊号を保持、②引き続き紫禁城(と頤和園)で生活、③中華民国政府は清朝皇室に対して毎年400万両を支払い、清朝の陵墓を永久に保護する(Wikipediaより)だったかもしれません。

 こうして溥儀は(1924年10月に馮玉祥らが引き起こす)北京政変まで、しばし紫禁城にとどまるわけですが、それと引き替えに、故地、現中国東北地方での民族(女真族満州族)国家成立のチャンスを失ったことに、あるいはなるのかもしれません。

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 と、ここまで筆を進めれば、次は、現新疆ウイグル自治区で民族国家成立の夢を追った東トルキスタン共和国や、国民党と組んでその東トルキスタン共和国等を制圧した馬家軍のリーダー、馬仲英、あるいは「1933年から1944年にかけて新疆を事実上の独立国のように統治した。その独裁的な治世から、「新疆王」とも呼ばれた盛世才などにも触れなければ。

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プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...

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