2015年11月

地方新聞広告欄にみる日本の近代化:“北海道開拓の村”からVer.2

2015 11/23 総合政策学部の皆さんへ

 北海道開拓の村シリーズ、次は、旧小樽新聞社に展示してあった広告欄をとりあげましょう(こちらは旧小樽新聞社の写真です;私のFacebookからですが、どうどうたる石造りの外観です)。

 その広告欄、時は明治29年、宮内省御用達のサッポロビール定価変更のお知らせです。どうやら札幌ビールと黒ビールの2ブランド、前者が1打(ダース?)一函2円、後者は2円30銭です。4ダース入りで少し安くなって、1函7円80銭と9円、とすればビールは1本16銭2厘5毛と18銭7厘5毛。

 日本銀行HPの「昭和40年の1万円を、今のお金に換算するとどのくらいになりますか?」という記事を見ると、明治34年の「企業物価戦前基準指数」が年平均0.469、2014年が735.4なので、1568.017倍ですから、ビール1瓶が254.8円、それで価格.comでスーパードライの大瓶を調べると317.4円、まあ良い勝負かもしれません。とはいえ、これには税金がどのぐらいかかっているか? さらに他の酒類との価格比較ではどうなるのか? 調べは尽きないという感じです。

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 ちなみに、日本で最初にビール製造を試みたのは三田出身の蘭学者川本幸民とのことですが、それは1853年、嘉永6年あたかもペリー来航の砌、試作したビールを浅草の曹限寺で試飲したとのこと(Wikipedia「川本幸民」)。そこで少し調べると、サッポロビールの松山茂助氏の「日本のビールの歴史」には、以下のように記されています。

 「ペルリの幕府への献上品目の中に「土色を呈しおびただしき泡を立てる酒三樽」とあるが、これは恐らくビールであったと思われる。この折もビールの評判は香しくなく「馬のいぼり様の皆い酒」といわれている。しかしこのとき、接待役としてビールを味わった蘭医川本幸民が、自宅に炉を築ぎビールを醸造したというから、既にビールの味に魅せられた人がいたということになる。川本幸民は兵庫県三田の蘭医で、一説には薗書を手引きとして作ったともいわれているが、とにかく日木で最初にビール醸造を試みた人である」とあります(『日本釀造協會雜誌』63:6111-612、1968)。

 そのビールがなぜ開拓真っ盛りの札幌で作られるようになったかというと、「北海道開拓使では、道開発の一助として道産大麦による麦酒醸造の計画を樹て、明治8年中川清兵衛氏を御用雇とし、明治9年に開拓使麦酒醸造所を開設した。中川氏は、明治6年から8年まで、ベルリン、チボリー醸造所で、麦酒醸造技術を修得してきた人で、札幌麦酒はすべて独逸式醸造法にしたがい、その品質は頗る良好であったという。当初の年産は、僅か100石内外であった。明治10年に中川清兵衛が東京におけるビール相場を開拓使へ報告しており、その中に横浜天沼米人製麦酒の外に、東京小石川製麦酒、東京新橋アラガネマ麦酒の名が出ているが、他にもこのような小相模のビール醸造所があったと思われる。開拓使麦酒醸造所は、明治19年1月北海道庁の所管に移り、同12月大倉組に払下げられ、これは後さらに、札幌麦酒株式会社へ引つがれるのである」と続きます。

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  こうしてビール製造を手がけた中川清兵衛も時代の子、ご一新の荒波の中、自らの人生を切り開こうとした方です。Wikipediaによれば「17歳で郷里・与板を離れ開港間もない横浜へ向かい、ドイツ商館に勤務」「程なく幕府の禁を犯して慶応元年(1865年)4月イギリスへ渡航した。その後1872年にドイツへ移り、その地で青木周蔵と出会う。青木の支援によって、1873年3月に当時ベルリン最大のビール製販会社であったベルリンビール醸造会社ティボリ工場で修業し、厳しい職場環境の中でビール醸造の技術習得に心血を注いだ。2年2ヶ月後の1875年5月、同社は中川の修業に対しチンメルマン社長・工場長・技師長連名の豪華な羊皮紙の修業証書を与えた。この証書はサッポロビール博物館に保存されている

 1875年に日本へ帰国。当時開拓使管轄の札幌へ移り、開拓使麦酒醸造所の開業に技術者として貢献」「日本初の国産ビール製造の技術開発者として中川はその名が知られる様になった。札幌では大きな洋風の官舎に住み、開拓使から高給を支給され名士の一人となった。ヨーロッパ生活が長かったため生活も西洋風で、毎年春には札幌の著名人を招待し、自邸の庭でビールを振舞う園遊会を開く程であったという

 しかし、その後、彼の運命は暗転します。おそらくは大倉組に追い出されたのでしょう、「1891年2月、当時44歳であった中川は追われる様にビール醸造の世界から去り、家族を率いて小樽へ移住」、「現在の小樽運河沿いに船宿「中川旅館」を開業。船着場から近く桟橋が旅館前にある事から繁盛した。その後海上交通が不便な利尻島の窮状を見かねた中川は、工事資金を低金利で貸しオシドマリ港の防波堤や船着場の整備を支援して一定の成果を挙げたが、工事費の大幅な膨張で提供した資金の配当金は元より、元金の返済も絶望的となってしまった。その為1898年、中川は繁盛していた旅館を手放し妻と二人で横浜へ移住した。1916年食道癌により死去、享年69」「末期の水は生前の彼の希望通りサッポロビールで浸した」とあります(Wikipedia「中川清い兵衛」)。

 前出の新聞広告に話を戻すと、明治29年ですから、この広告は大倉組による札幌麦酒会社(現サッポロビール)支配で、中川が追われてから5年後の広告になりますが、(朝ドラではありませんが)日本の近代化というこの時期に、時代に波乗りしながら、あるいは乗り切り、あるいは流されていった庶民の姿が浮かびます。それにしてもドイツ公使(神余先生の大先輩になるわけですね)を経て、外務大臣にまでなった青木周蔵が、若い頃にビールの国産化にも関係したとは初めて知りました。

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  新聞広告には、さらに(当時はまだ専売制でなかった)煙草や、ランプ、札幌電灯会社の株式募集広告等々、明治の世相が迫ってきます。煙草のパイレイトはパイレーツ(海賊)印ということなのでしょう。梅毒等の性病関係の広告も堂々と登場です。

この中にも、北海道、そして日本の近代化の様々な面を照らし出してくれるものがありそうです。例えば、札幌電灯会社の株式。これは札幌電灯舎として明治22年設立されたもののの、経営難で札幌電灯会社に譲渡されたものです。この会社はさらに明治38年、北海電気株式会社に変わり、初期のガス発電から水力発電へと転換していったそうです。

 それがやがて戦時下の配電統制令等によって、北海道配電が設立され、さらに戦後、電気事業再編成令によって北海道電力に統合されていく(「ほっかいどう宝島2015」http://www.air-g.co.jp/takarajima/onair/?date=1351954800)。総力戦での戦時統制経済、そして戦後の精算としての九電力会社の誕生、と続く道筋です。そして、小樽新聞社自身が、戦時中に強制的な合併で北海道新聞社に統合されていくのです。

明治~昭和期を生きた一北海道人の読書歴にもとづく書誌学的探索:“北海道開拓の村”から

2015 11/4 総合政策学部の皆さんへ

 夏に訪れた北海道は札幌郊外の“北海道開拓の村”、訪れるとなかなかに興味をそそるものです。

 何よりも、ペリー来航の衝撃から、突然“近代化”へのヒステリー的とも言える衝動に駆られ、様々な理由こそあれ、乗り出した“新天地”。しかしそこは本来アイヌ民族の土地であるはずが、理不尽なまでに“日本化”を強行した歴史を“圧縮”しているかのようです。そして何よりもこの動きが、やがて“大陸”へと指向していくそのいわば助走のような姿にも思えて、日本の近代化の本質が垣間見えるように感じました。

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 ということで、開拓の村から、まずは旧松橋吉之助(1875~1943)宅の蔵書を紹介しましょう。中学中退ながら会社経営とともに様々な分野を独学、『思念術 : 諸病治療及諸法術原理』等の著作もあるという吉之助氏は、その旧宅に膨大な蔵書を遺しています。それはそのまま訪れた客に背表紙を見せています。とは言え、本棚にはガラス戸がかかり、本自体をひもとくわけにはいかない。それで、背表紙をひたすら写真撮影していたら、ストロボを使ったためにカメラのバッテリーがあがってしまいました。

 私のFacebookに写真を載せているので、まず最初の写真から説明しましょう。この写真の右端に『戦時統制経済論』がありますが、著者の森武夫は帝国陸軍現役将校でありながら、法政大学から経済学博士の学位を受けた方だそうです(1933年11月)。統制経済(つまり計画経済)、現在の安倍首相の祖父、岸信介が展開したものですが、時代を感じさせます。すでに60前後に達した頃の松橋氏は、国家統制経済の本を読んで、何を考えたのでしょう。ちなみに、この森健夫は、『戦時統制経済論』の3冊左の『統制国民経済』の著者高木友三郎(東京帝国大学で金井延のもとで研究、内閣調査局専門委員から法政大学経済学に移る)から指導を受けたようです。

 別の写真には、『世渡りの道』(著者はなんと新渡戸稲造)、『哲学概論』(桑木 厳翼;専門はカントとのことで、鎌田先生向けかもしれません)、加藤弘之『自然と倫理』が並びます。と思えば、さらに別の本棚では、『理想的家の作り方』(角野、八木、山根先生向け?)、『素人に作れる無線電話の実験』(こちらは中野先生向けですね)等、多士済々、明治の人々の知識欲は無限大だったようです。 

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 それにしても、新渡戸稲造の『世渡りの道』!

 1862年9月1日(文久2年8月8日)すなわちペリー来航の9年後に生まれ、 1933年(昭和8年)10月15日、ドイツが国際連盟を脱退した翌日に死亡したこの教育者・思想家・農業経済学者はどんな「世渡り」を説いたのでしょう。

 ちなみに、新渡戸は現在の盛岡市に出生、農学を志し、東京英語学校(のち東京大学)を経て、札幌農学校の2期生として札幌に学びます。吉之助とは同じ“北海道”つながりです。新渡戸は最終的に1884年、アメリカのジョンズ・ホプキンス大学に私費留学しますが、このジョンズ・ホプキンス大学は1876年に世界初の研究大学院大学として設立され、大学院教育のシステムを確立したばかりの頃で、新渡戸は当時最先端の教育を受けたことになります。

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 その後、同じ岩手出身の後藤新平の招聘により、当時の日本の植民地である台湾総督府技師に就任(1901年)、台湾でのサトウキビ栽培、精糖業を推進します。その経験が新渡戸に「植民地経営」学への道を開き、1903年に京都帝国大学で植民政策を講義(植民政策で京都帝国大学より法学博士号授与)、東京帝国大学法科大学教授兼第一高等学校校長に転じます。1920年には国際連盟事務次長となり1927年まで勤めることになります。

 さて、『世渡りの道』ですが、アマゾンで調べると、なんと今年4月には文春文庫で再刊されています。アマゾンによれば「『武士道』を書いた新渡戸稲造が今も役立つ「処世術」のベストセラーを書いていた。「人から好かれるにはどうすればいいのか」という人間関係の悩みから「いかに生きるべきか」という人生の根本問題まで、日本を代表する教育者にして国際人が平易な言葉で答える」本だそうです。

 ちなみにこの本は1912年、すなわち「1911~1912年、日米交換教授の制度創設により、アメリカで日本理解の講義を行うため、渡米」(Wikipedia)した頃の出版のようです。「人に好かれ、仕事がうまくいき、夢がかなう! 「いい人生」を送れる人とは、生き方の王道を着実に歩める人だ。自分の生き方に絶対の自信がつき、生きることの限りない喜びが満ちてくる新渡戸流「人生論」の決定版!」というキャッチコピーがついています(同じくアマゾンから)。皆さんにもお勧めかもしれません。

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 とここまで話を進めたところで、新渡戸のこうしたライフ・ヒストリーを概観する時、そこにはやはり北海道開拓から植民地行政へと突き進む日本の近代化への情熱の光と影が透けて見えるようです。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...