2016年2月

日本の近代化と人々のキャリアPart 1:「時世で人が出来て、逆境がよく人をこさえる時代」(勝海舟の言葉)

2016 2/18 総合政策学部の皆さんへ

 江戸時代、多くの日本人は身分制度のもと、自らの家業を継ぐのが当然でした。それが御一新後、日本の近代化でキャリアの展開が多様化し、(漱石の小説の登場人物がそうであるように)日本人はキャリア選択に悩み始めます。“選択の自由”を与えられることは、選択に“悩む”ことでもある。時には失敗したり、時勢に翻弄されることもある。「俺はそれを見てきたぜ」というのが勝海舟の決めぜりふです。

 例えば、『幕府衰亡論』の著者福地源一郎長崎新石灰の儒医の息子に生まれながら、15歳で長崎通事に学び、長崎海軍伝習所伝習生に従い江戸に出府、通事森山多吉郎(こちらも長崎通事出身)のもと外国奉行支配通弁御用雇い(現在だと、非正規雇用任期制通訳か)、19歳で御家人に取り立てられ(つまり、正規雇用)、20歳で通訳として文久遣欧使節に参加、慶応元年(1865年)にも幕府使節として渡欧、フランス語を学び、帰国後は外国奉行支配調役格、通詞御用頭取として旗本に取り立てられます(ついにキャリア専門職コースにのる!)。

 現在で言えばグローバル化担当部署というわけでしょうが、そこで幕府内の守旧派との軋轢に悩むうちに、肝心の幕府が崩壊してしまう。上を目指して一心に登っていったはずの人生が暗転してしまいます。

 福地は、この幕府瓦解の瀬戸際の慶応3年10月、「徳川慶喜が自ら大統領になり新政府の主導権を握るべしとの内容の意見書を小栗忠順に対して提出」します。当然、ここまで出世した立場を失いたくはない。しかし、皆さんがご存じのように、この献策は肝心の慶喜が採用するところではなく、天下は新政府に移行します。福地はそこで一転、官を離れて、ジャーナリストへの転身をめざします。

 ところが、『江湖新聞』発刊による政府批判に対して発禁処分をくらい、いったんは戯作家に変身するも、旧慶喜臣下のよしみから渋沢栄一の紹介で大蔵省入省、さらに岩倉使節団参加とめでたく官職の道を歩むかと思えば、明治9年辞職、再び政府系新聞社ジャーナリストに転身します。このめまぐるしさには、本人とても“びっくりぽん”かもしれません。その後も、渋沢と組んで東京商法会議所開設等の実業家へ、さらに立憲帝政党を結成して政治家の道も試みますが、どれも長続きせず、結局は演劇文学活動(演劇改良運動と歌舞伎座付き作者)として名を残す結果となります。

 この山気たっぷりに時世に波乗りしようとしながら、みごとに時勢に翻弄された顛末は、福地自らが(ついつい話を面白く書き記してしまった)傑作『懐往事談』にあきらかです。それにしても、時期がもう少し遅れ、福地が最初に新政府=薩長土肥に就活していたら、まったく別の人生があったのかもしれません。また、福地の先輩である森山多吉郎、あるいは『懐往事談』に輩出する江戸幕府最後の栄光をになう開明派の小栗上野介水野築後守岩瀬庇護守、そして川路利明たちはあの世から、後輩福地の迷走をどんな思いで眺めていたでしょう?

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 その福地より 13年遅れて幕府御用絵師の子供にうまれた高橋是清は仙台藩足軽の家に養子にもらわれ、福地と同じく外国語を武器に、ヘボン塾をへてアメリカ留学に志すも、どういう拍子か騙されて、奴隷同様の年季奉公の契約書にサインしてしまい、カリフォルニアの牧場や葡萄園で働かされます(『怒りの葡萄』の約60年前)。

 もっとも、この経験のうちに英語を覚えたことが幸いして、アメリカからなんとか逃げ出し帰国すると、19歳で文部省入り、大学南校(現東大)教員などを経て、さらに就職した農商務省でまた山っ気が出てしまい、職を辞してまで志したペルーの銀山経営にものの見事に失敗。帰国後に日銀入行、日銀総裁を経て大蔵大臣、そして総理大臣、さらにまた大蔵大臣に復帰、軍事費抑制を軍部にうらまれ、2・26事件で暗殺される、というジェットコースターのような人生です(ちなみに高橋は酒好きで、『高橋是清自伝』にも酒での失敗がしばしば出てきますが、国会の場でもどうどう茶碗酒をあおっていたとのこと、今日では想像もできません)。

 また、庄内藩士関口牧三郎の次男利八が生まれたのは、福地よりちょうど20年前の1821年、しかし、父牧三郎は養子先を息子とともに出奔、諸国を流浪、江戸に出ます。つまりは“流れ者”、映画・テレビに登場の“浪人”ですね。その利八がやがて、その才覚ゆえに幕府開明派小栗上野介の知遇をえて、幕府と三井の橋渡しをして、それがきっかけで幕末に進路を迷う三井にスカウトされると、今度は三井と新政府の仲立ちして三井組大番頭に出世する。

 流れ者ゆえに、ひらがなしか読めなかったという利八は三野村利左衛門と改名、やがて三井財閥中興の祖として辣腕をふるいます(一方で、新政府に処刑された小栗の家族を手厚く面倒をみたとのこと)。まさに「時世で人が出来て、逆境がよく人をこさえるということは、事実を私は確かに見ました」と嘯く勝海舟が生きぬいた時代にふさわしいキャリアです。勝自身、曾祖父銀一は越後から出てきた盲目の青年で、江戸で盲人に許されていた金貸し業から身を立て、検校に出世、息子たちを御家人の養子にしていった末裔です。

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 その一方で、福地の出身地長崎に話を戻せば、福地に16年遅れて長崎町年寄の家に生まれた伊東巳代治は、やはり語学を武器に出世街道に打って出ます。当然、福地と違って新政府、しかもここで自らの才知で位人臣を極めるまでに出世します。この時分になれば幕末の乱世も次第におさまり、福地や高橋、三野村らの破天荒さはやがて影を潜め、近代的キャリア官僚としての出世コースが顔を出します(それゆえこそ、勝海舟には嫌われますが)。

 伊東はフルベッキから英語を学び、工部省電気技師や兵庫県通訳官を経て、伊藤博文の側近として官僚人生を歩みます。福地が江戸幕府内で果たすべきだった立場を新政府で占める=高級官僚(ビューロクラート)の誕生ともいうべき新しいキャリアです。第一次伊藤内閣では首相秘書官をつとめ、さらに伊藤のもとに大日本国憲法起草に参画。国家の骨子を作る作業に加わり、官僚冥利に尽きるというべきでしょう。

 実は、この後、伊東の人生は親分伊藤博文との愛憎入り混じった関係に翻弄されます。互いに相手を頼りあいながらもついつい傷つけあう。やがて伊藤のライバルである山形有朋の知遇も得て、保守政治家としての地歩を占めます。このあたりの機微を講談社版『日本の歴史21巻』では、「(伊東は)山形接近で伊藤の動揺を誘い、引き留めさせることにあったようだ。仲間うちで「拗ね」と呼ばれた行動パターンだが、伊東はそれほどまでに傷ついたプライドの回復を切望していたのである。未熟と言い捨てればそれまでだが、伊東は死ぬまでこの行動様式を墨守していたのだから一つの美学ではある」とまで描かれています。

 とは言え、伊東の政治的な動きについて、私が知っている限りでは、「銀座の大地主」として後藤新平の関東大震災後の帝都復興計画を妨害したり、ロンドン条約に反対したり、いかにも保守派・守旧派的態度に終始します。最終的には正二位、勲一等、伯爵までに出世しますが、福地のちょっとパッパラパーな人生の方がはるかに好感を持てそうです(一方で、現在に残る写真を見ると、明治の政治家の中では随一のイケメンです。国立国会図書館のHPの写真)。

 最後に、皆さんもこれから様々な逆境があるかもしれませんが、それは勝海舟が言うように、皆さんを鍛え、人をつくるものなのだ、と思って下さい。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...