2017年1月

日本の近代化と人々のキャリアPart 2:“学歴”あるいは学歴貴族の誕生、そしてそこからの離反

2017 1/31 総合政策学部の皆さんへ

 “学歴”の誕生などとふりかざすと、皆さんは何を想起するでしょうか? 個人的な体験で“学歴”をもっとも意識した瞬間とは、国際協力事業団(現国際協力機構)派遣専門家として滞在中の東アフリカ、タンザニア共和国の公務員資格の書類に、大卒学士(Bachelor)はとことんまで出世できず、大学院で修士号(Master)をとる必要がある、と明記されているのを見た時かもしれません。

 途上国で出世しようとすれば、一番“客観的”に見える指標は何か? それが“学歴”です。「えこひいきではない」と振る舞おうとすれば、“学歴”に頼らざるを得ない。第三世界こそが学歴がものを言う社会なのです。

 当時のタンザニアは中学校への進学者すらほんの数%、スワヒリ語での初等教育からいきなり英語での中等教育を経て大学や大学院まで突破するには、ほんの一握りの特権階級的な人々しかわずかなチャンスがないこと(つまり、一見、平等そうな学歴は、本当は平等ではない)は、皆さんにもすぐにおわかり頂けることでしょう。

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 さて、幕末から明治にかけて、日本も欧米から見れば未発展国、1853年7月8日、江戸湾に侵入したペリーは、投錨日の夜半過ぎ、夜空に出現した流星にかこつけて、以下のように記します。

 「古人ならば、この驚くべき天界の現象を、明るい前途を約束する吉兆と解しただろう。特異かつ半野蛮の国(=日本)を文明諸国の仲間に迎えようという我々の企てが、流血を見ることなく成功するという神の加護を祈りたい」(『ペリー提督日本遠征日記』より)。

 この半野蛮の国から、どうやったら文明諸国の仲間に入れてもらえるのか? それには教育が一つの道であり、その志に目覚めた者たちは“書生”と呼ばれます。例えば、当時、緒方洪庵の適々斎塾生だった福沢諭吉は、『福翁自伝』において気概をこめて「緒方の書生は学問上のことについては、ちょいとも怠ったことはない」と振り返ります。

 また、学校制度も整わぬ頃から、維新の出頭人たちは有為な人材としてこれらの“書生”を支援します。例えば、後の満鉄総裁・東京市長の後藤新平は肥後出身の安場保和によって、これもまた後の海軍大将/総理大臣の斉藤実とともに、書生として胆沢県庁に採用され、そのキャリアを開始します。仙台藩士出身の後藤・斉藤にとって、肥後出身の安場はいわば敵軍出身なのですが、その枠を越えての有為な人材への支援なのです。後藤新平は後年、「金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ」と喝破していたそうですが、この言葉はおそらく自らの人生を振り返っての実感だったでしょう。

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 さて、明治期、新政府がいち早く教育に手をつけたのは、勤王の志士の多くがそれぞれに新しい学問に取り組んでいたことが預かっているに違いありません。

 例えば、伊藤博文と井上馨はいわゆる“長州ファイブ”として、 きわめて短期間ながらにロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジなどに遊学、終生、堪能な英語を自らの政治的基盤の一つとしていました(伊藤は、日本発の女子留学生津田梅子に、(かのトランプ君のような存在の出現をすでに19世紀に危惧していたかもしれぬトクヴィルの『アメリカのデモクラシー』の英訳本を薦めているそうです。)。大隈重信もまた鍋島藩校弘道館の儒教を嫌い、洋学を志し、英学塾「致遠館」で宣教師フルベッキに学び、その知識をもとにイギリス公使パークスと正面から渡り合います。

 こうして明治政府は教育を国家建設への投資として、国外留学を積極的に推進しようとしてますが、当然、それはある種の迷走がともないます。例えば、各藩からの推薦を受けた若者を、“貢進生”として(東大に発展する)大学南校に入学させます。Wikipediaによれば、1871年(明治4年)に英語219名、フランス語74名、ドイツ語17名が学んでいたとのこと。このちょっと前まで“攘夷の志士”が横行し、夷人を“人斬り”していたというのに、あっというまに“外国かぶれ”になってしまう(伊藤博文自身が、一度は、人切りに手を染めています)。狂騒も良いところですが、しかし、明治政府が“教育”を新興国家にとっては未来の投資だと思い定めていたこともまたよく表しています。

 もちろん、この“藩からの推薦”が必ずしも当てにならないのはよくあること。Wikipediaでは「各藩からの推薦に問題があったケースも多く、貢進生のうち半数近くが、このようなエリートコースを辿らずに、学校を退学・脱落していった」とあります。とは言え、それでも半数がエリートコースをたどっていったわけですから、これもまた評価すべき事象として、これを“学歴貴族”の誕生とみなすことができるでしょう。

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 こうした学歴エリートのトップクラスが、なんといっても、第1回(明治8年)文部省派遣海外留学生鳩山和夫から続く鳩山家でしょう。1856年、美作勝山藩士の家に生まれた彼は、大学南校あらため開成学校卒業後、コロンビア大学で法学士、1880年イェール大学で法学博士号を取得、帰国後、東京帝国大学講師を経て、東京府会議員、外務省取締局長、東京帝国大学教授、東京専門学校(早稲田大学)校長、衆議院議員・議長、外務次官、東京弁護士会会長等を歴任するも、55歳で食道癌のため死去します。ちなみに、帰国後結婚する多賀春子ですが、彼女もまたお茶の水東京女子師範学校師範科本科在学中、フィラデルフィア府女子師範学校入学の許可がおりながら、中止になってしまい、その代わりに「鳩山と一緒になるような事になったのです」(鳩山春子『五十年前』)。

 その和夫・春子の息子長男鳩山一郎は 旧制一高を経て東京帝国大学英法科卒、東京市会議員、衆議院議員を経て、第52・53・54代内閣総理大臣として位人臣をきわめます。その長男鳩山威一郎は、1941年に東京帝国大学法学部を卒業、大蔵省入省、大蔵事務次官から参議院議員、その長男・次男が鳩山由紀夫邦夫でそれぞれ東大工学部・東大法学部卒、その後の紆余曲折の末、鳩山由紀夫は衆議院議員から、第93代内閣総理大臣となるのは、記憶に新しいところです。

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 おもしろいのは、学歴エリート層の確立と同時に、そこからの離脱もまたほぼ同時に始まっていることです。前節で紹介の鳩山家の華麗な学歴エリートぶりとは対照的に、同じ貢進生のあととりに生まれながら、エリートとしての道を踏み外し、“戯作者”として“市中の陋巷”に潜むことを願った者こそ、荷風散人こと、永井壮吉にほかなりません。

 彼の父 永井久一郎は尾張藩の豪農の家に生まれながら、幕末の乱世に尾張藩藩儒鷲津毅堂塾生となり、名古屋藩貢進生として明治4年に渡米、プリンストン大学、ラットガス大学などで修学、明治6年帰国、、工部省・文部省官僚を経て実業界に転じ、日本郵船上海・横浜支店長を勤めます。その長男たる永井壮吉は、しかし、この学歴エリートを継ぐことができません。

 東京府尋常師範学校附属小学校高等科から、高等師範学校附属尋常中学校と絵に描いたようなエリートコースをたどると思いきや、病気による休学とその間に江戸戯作の世界に惹かれたのが機縁か、一高受験に失敗(正統学歴エリートの道をはずれ)、官立高等商業学校(現一橋大学)附属外国語学校清語科に入学するも中退(スペシャリスト養成コースにも挫折)、やがて文学の道に迷い込みます。

 それでも一時は、父親久一郎の意向を汲んで実業を学ぶべく渡米・渡仏するも、その成果は『あめりか物語』や『フランス物語』に結晶、帰朝後は新進文学者として名をはせ、一時は慶応大学でフランス語も教えます。つまり、正規エリートコース、実業教育エリートコース、そして実業すべてを踏み外した上での、文学者永井荷風の誕生となります。

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 そこでひときわ興味深いことは、この間、立身出世の道に邁進・成功した出頭人の一人、なにより厳格なはずの父久一郎が(西園寺公望には息子の迷走を愚痴りながらも)この放蕩息子を絶えず支え続けます。

 さらに、すでに名をなしている文豪夏目漱石は荷風に朝日新聞での小説連載を世話し、また別の文豪森鴎外と詩人上田敏に慶応義塾大学教授に推薦してもらうなど、この“洋行帰りの新進文士”は先輩たちに大きく助けられていくのです(そして、荷風自身もまたやがて後輩谷崎潤一郎を見いだします)。

 一面では傲岸不遜・傍若無人とも受け取られかねない『断腸亭日乗』において、もっともほほえましい風景の一つはおそらく、与謝野鉄幹宅での雑誌『明星』編集相談会において、鴎外から「先生余を見て笑って言ふ。我が家の娘ども近頃君の小説を読み江戸趣味に感染せり」と言われ、恐縮のあまり答えることもできなかったというくだりかもしれません(1921年10月2日)。

 ところで、この“娘ども”とは後年の女流作家森茉莉とエッセイスト小堀杏奴と思われます(1903年と1909年生まれなので、この時18歳と12歳。それにしても、森茉莉と荷風散人そして江戸趣味、なかなか興味深い組み合わせかもしれません)。

 最後に、永井久一郎をはじめ明治初めの出頭人たちの(世間的には不出来な)子弟・後輩への暖かいまなざしは、言うまでもなく、(冒頭引用したペリーの“期待”に応えて)“文明国”としての日本の懐の暖かさ・奥行きの広がりを物語っているとも、言えなくはなさそうです。

海外流出美術品と日本の近代化:売立目録所収美術作品のデータベースよりアートを考える(前編)

2017 1/22 総合政策学部の皆さんへ

 皆さんは鈴木其一をご存じでしょうか? 酒井抱一に師事した琳派の画家(寛政7年(1795)~安政5年(1858))、代表作に「夏秋渓流図」「群鶴図屏風」等、とくに「朝顔図屏風」はメトロポリタン美術館から久々の里帰り中。ちなみに、同美術館のHPは「Suzuki Kiitsu (Japanese, 1796–1858)、Edo period (1615–1868)、early 19th century、Medium:Pair of six-panel folding screens; ink, color, and gold leaf on paper」と紹介しています。いわゆる海外流出美術品の代表格です。

 こうした海外流失美術品は、明治初期の廃仏毀釈運動で二束三文でたたき売られたあたりから始まるということですが、この屏風ははじめ、どんな経緯で流失しいったのか? そして、その過程に日本の近代化がどうかかわったか? これが今回のテーマです。

 そもそも「朝顔図屏風」は江戸の油問屋松澤家伝来のものでした。この松澤家とは通称大孫、こと大阪屋松沢孫八商店が元禄年間に大阪から江戸日本橋本石町に進出し、薬種問屋からやがて江戸最大の油問屋として大江戸十人衆にも挙げられ,将軍家献上御用金も万両にのぼった有徳人です(油屋の歴史61 – 東京油問屋市場;http://www.abura.gr.jp/contents/shiryoukan/rekishi/rekish61.html)。この「大孫」こと「松澤家」こそ鈴木其一のパトロンで、高価だった絵の具を惜しげもなく使ったのもすべては松澤家のパトロネージゆえというわけです。

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 それでは、この松澤家からどうやって屏風が流出したか?

 Webで調べると、『売立目録所収美術作品のデータベース化とその近代日本における美術受容史研究への応用』という資料がみつかりました。静岡大学情報学部髙松良幸教授が代表の科研費報告書なのですが、「戦前の美術品の売立目録のうち100冊について、所収の作品の写真・テキストをデジタルデータとして記録し、その各種データを所蔵履歴、活用履歴などさまざまな角度から検索可能なデータベース化を試みた」とのよし、これがなかなかに面白い。

 まず、“売り立て”とは何か? 報告書の序は「戦前、日本・東洋美術の取引の主役をなしたのが入札会である。特に大正期から昭和初期においては、旧大名家などの華族層のなかで経済的苦境に陥るものが多く、その苦境から逃れることを目的に「家宝」である伝家の名品を売却することが多くなった。そして、それらの多くを購入したのが、近代以降の日本経済の牽引者となった財閥経営者などを中心とする財界人たちであった。その際に用いられたのが入札会という手法であり、入札会に関する記録は、時代の変遷とともに権力の象徴としての「家宝」がどのように移動したかを知るための資料として重要視されるものである」と説明します。

 つまり、日本の近代化での“資産家=金持ち階級”の入れ替わり、そしてその結果、一部が海外まで流出していく、この屏風はその過程の“証人”なのです。

 さて、本報告書が扱う第1回・2回の売り立ては下村正太郎氏御所蔵品で、下見を経て、1910年12月5日、そして1911年6月8日の2回にわたっての売り立てです。荷主の下村氏は実は京都の呉服店・デパート大丸の創業者、この売り立ては、1908年に個人商店「大丸呉服店」を株式合資会社に転換して経営改革に乗り出すも、失敗、東京・名古屋店を閉じて、京都・大阪・神戸店で再建するための資金作りだったのですね。その中の逸品は、祇園南海「墨竹図掻取」(現メトロポリタン美術館)で、泉州泉佐野の豪商唐金家から嫁入りの際、持参されたものだそうです。

 こうして下村家はなんとか家業を立て直しますが、その大丸も高度成長期以降のデパート業界の停滞に直面、大丸は2007年に松坂屋と経営統合、持株会社「J.フロント リテイリング株式会社」を設立し、2010年には株式会社松坂屋に合併して解散、株式会社松坂屋は「株式会社大丸松坂屋百貨店」に商号変更して現在に至ります。時代の流れを感じさせますね。

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 こういう視点で売り立てを眺めていくと、まず目立つのは旧支配層・豪商の没落ですが、その典型は旧大名・旧華族等です。例えば、旧平戸藩主松浦伯爵家並某家蔵器展覧入札が 昭和9年11月5日、東京美術倶楽部で開かれています。

 この松浦家は松浦党に由来する武家の名門、とくに9代藩主松浦清は静山と号し、江戸きっての随筆『甲子夜話』を著しつつ、現大和文華館所蔵の国宝「婦女遊楽図屏風」(通称松浦屏風)を購入もしています。また、心形刀流達人としても『剣談』を残しています(ちなみに野村克也が好んで口にする「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」はこの松浦静山の言葉とのこと)。

 しかし、その松浦家も昭和の不況等で、家宝たるべき美術品を昭和2年、6年、9年等に続けざまに売立ます。報告書によれば、昭和9年(第3回)の売立が作品の質において最も高いものととして、牧谿「遠寺晩鐘図」が83,000円(現、畠山記念館)、「大江山絵巻」(現、逸翁美術館)が28350円などで落札され、総落札額は430,000円に達したとのことでした(米の価格で換算すると、当時の1円を3200円として、現在のお金で言えば13,4億円ぐらいになるのでしょうか?)。

 なお、上記畠山記念館は実業家畠山一清(号:即翁、1881 – 1971;荏原製作所創始者)、逸翁美術館は(関学にも深く関わった)阪急電鉄創始者小林一三がその収集品を納めたもので、ここに日本の近代化にともなって美術品とその持ち主の変遷(旧華族・豪商から、近代的産業資本家へ)、そして大衆への公開(美術館の誕生)という過程に、まさに文化政策論のトピックを見る思いがあります。

 ちなみに畠山一清は東京帝国大学機械工学科、小林一三は慶應義塾正科のいわば学歴エリートあがりの実業家だったことも目を引く。結果として、これらの美術品は以下の道筋をたどったわけです:旧家の私的所有(公開されず、プライベートにしか見ることができない) → 旧家の経済的苦境 → 売り立て(市場への流出) → 新興資本家層の所有(あるいは、美術商を経て海外流出=「朝顔図屏風」のケース) → 相続税等への対応 → 法人化=美術館としての公開(欧米では個人所有から美術館への寄付・売却)
(to be continued)

「アメリカの大統領になったら?」、「なったところで面白くないぜ」:キャナリー・ロウ再訪

2017 1/13 総合政策学部の皆さんへ

 D・トランプ氏の大統領当選は、世界に波紋を及ぼしているようですが(全世界がはたして今後4年間、どんな“悪夢”に苛まされるか? それとも意外にも“天国の甘い香り”に包まれるのか? 人類学者なら、見てのお楽しみ)、いよいよその就任も迫ってきました!

 いまや、誰しもが19世紀のフランスの賢人トクヴィルの予言を思い出してしまう! というところですが、本日の話題はそのトランプ氏自身ではなく、高畑ゼミの100冊Part24:「それどころか真実に憎しみさえ抱いていたのさ!」スタインベック『キャナリー・ロウ』を中心に」から、ノーベル賞受賞作家スタインベックに今回の大統領選の結果について感想を聞きたいものだ、というところから始めましょう。

 自称「猛毒入りのシュークリーム」こと『キャナリー・ロウ』ですが、この小説の全編に「パーティをいかに開くべきか?」というテーマを巡って数々の人々が想いをこらすというストーリーが、二人の主役を中心に躍動します。

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 まず、ワキとして「狂えるモントレーの力天使、美神、精華」にほかならない浮浪者マック(とその仲間たち)です。このマックは「胃潰瘍にかかった虎たちに支配され、狭窄症の雄牛に追いかけられ、盲目の山犬が腐肉を食っている世界で、優雅に虎たちと食事を共にし、半狂乱の若い牝牛たちをやさしく撫でてやり、パン屑を包んでいって、キャナリー・ロウのかもめに食べさせて」います。ちなみに、「胃潰瘍にかかった虎たち」や「狭窄症の牡牛」、そして「盲目の山犬」とはまさに某次期大統領とその取り巻きたちそのもの!! と感嘆してしまうほどです。

 それでは、もう片方のシテはと言えば、「海綿、イソギンチャク、ヒトデやバトルヒトデ、ニチリンヒトデ、・・・タツノオトシゴ、スナモグリ、ガラガラヘビ、ネズミ、蜜蜂、オオトカゲ」を売り物にしながら、どんな生物でも注文に応じる西部生物実験所の経営者、通称ドク(実在の生態学者エド・リケッツがモデル)。

 近所の商売女たちに生まれて初めてグレゴリオ聖歌を聴かせ、友達の中国出身の商人リー・チョンには英訳の李白を読んであげ、日曜画家のアンリには古代エジプトの『死者の書』を紹介しながら、「大勢の女たちを悩み事から救い、別の悩み事に巻き込」みながら、脳外科医の手と冷静な暖かい心の持ち主だとされている。要は、このドクのために「本当になにかいいことをしなくちゃならないぞ」、それはパーティーだ! という小説です。

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 それでは、この“のらくろ”どもの日常のどこに“アメリカ大統領”がでてくるのか? それは福武文庫版(私が購入したのは1989年。残念ながら、絶版のはず。日本人にはキャナリー・ロウは受けないのかな?)では第13章、93~106頁の末尾です。

 ある日、「先生のために何か 何かいいことをしてやれないものかって」と言い出したマックは、先生を驚かせるべく“びっくりパーティー”を考え付きますが、いかんせん、まったく文無しの力天使たち、彼らが住む“ドヤ”御殿の家主でもあるリー・チョンに「先生のためにカエルを採集してくる(1匹5セント)」と称してなんとかカネを調達、がたがたの中古フォードT型に便乗、カエル取りに出かけますが、大猟前祝いにたき火で(途次でくすねた鶏などで)一杯やっているところを地主に見つかり、「わしの地所で焚き火をすることは許さん」と怒鳴りつけられます。

 マックは巧みに相手の態度・雰囲気を読みとって、「大尉殿、我々は(立て札を)見落としたのであります。申し訳ありません」と正面から謝ってから、「あなたは軍人でありませんか? いつでも自分にはわかるんです。軍人と一般の人間とは肩の張り方が違います。自分は軍隊に長くいたので、いつでも自分にわかるんです」と相手の心に忍び込みます。そして、地所に潜り込んだわけについて「われわれはある科学者のために仕事をしているのです。蛙を捕ろうとしているのであります」「蛙にガンを移すのです。蛙をなにがしか手に入れれば、先生方はガンをほとんど退治できるのです」と巧みにかき口説きます。

 結局、“大尉”は自らも“科学者”のために、マックたちとともに蛙捕獲大作戦に乗り出す、という寸法です。無数のカエルらをつかまえ、

 大尉がそれまで、こんなに面白がったことがあったかどうか疑問である。マックとその仲間たちのおかげだった。後でカーテンに火がつき、小さなタオルで消し止めたときでも、大尉は彼らに気にしなくていいと言ったものである。彼らが家を燃やしたければ、さっぱり燃やしてもらうことは栄光である、と思っていたのだった。・・・彼は水差しにウイスキーを満たすと、マックに渡した。(マックたちが住む)ドヤ御殿に行って連中と一緒に暮らしたかったのだ。 

 こうして、大尉が自宅で秘蔵していた禁制品のウィスキーはタルごと飲み干され、飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎを始めてしまう、というストーリーが展開するのですが、そこまで発展する前に、マックが大尉を言いくるめてとりあえず大尉の自宅に向かおうとする時、二人の後を追うマックの仲間たちが会話をかわします。

ヘイズルは砂をけとばして火の上にかけた。
「マックという奴はその気になればきっとアメリカの大統領になれただろうよ」彼は言った。
「なったところで、どうしようというんだ?」ジョージがたずねた。「なったところで、面白くないぜ」

 このやりとりの妙味を会得さえしていれば、ヒラリーもトランプ氏に勝てたかもしれないのに、とこれまたつい思ってしまいます。

中島みゆきの歌詞考:“買いはたく”とは? そして、願い事は叶わなったか? 叶い過ぎたか?

2017 1/11 総合政策学部の皆さんへ

 ボブ・ディランがノーベル文学賞受賞という昨今、流行歌(“はやりうた”と読んで下さいね)もめでたくアートという立ち位置を占めたわけですが、皆さんはどんな“流行歌”に衝撃を受けました? “声の質”なら、私の場合、最初の衝撃を感じたのは森進一です。彼のデビュー曲「女のためいき」(1966年、猪俣公章作曲、吉川静夫作詞)が流れてきた時、当時13歳の私は「こんな声でも歌手になれるのか!!」と驚愕したものです。世間でもおおかた「ゲテモノ」あるいは「一発屋」と酷評されていたそうです(Wikipedia)。

 その次の衝撃は私より1つ年上の中島みゆきの「アザミ嬢のララバイ」を深夜ラジオで聴いた時でした。1975年9月のレコード発売で私は22歳、大学4年、翌月から卒論(ニホンザルの性行動)に取りかかる頃です。しかし、彼女の場合、声質もさることながら、“言葉使い”も縦横無尽です。例えば、「サヨナラを伝えて」は以下のように展開します(アルバム「おかえりなさい」から)。

 まさかあなたが 恋の身代わりを
  あたしに紹介してくれるために
   あとでおまえの部屋をたずねる と
    耳うちしたとは 思わなかったから
 表通りの花屋に寄って
  目に映る花を買いはたいてきた
   今ならわかる 恋の花言葉
    黄色いローズマリー
      伝えてサヨウナラ

 “花を買いはたく”! Googleでこの言葉を検索してみても、同じ表現が出てきません。ということは、日本語をあやつる人たちのなかで、中島みゆきだけの表現なのか? そうなのでしょうね。この何とも言えない、言葉の浮遊感こそが彼女の魅力の一つです。

 それにしても、あなたは何かを“買いはたいた”ことはありますか? また、それはどんな時でしょう? たぶん、“買いはたいた”時には、自分がいま何をやっているのか、意識の外かもしれません。そして、“今ならわかる”時がいつか来る、それが“別れの花言葉”なのを・・・・

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 次に紹介するのは、こちらも初期の傑作「悲しいことはいつもある」から(アルバム『私の声が聞こえますか』)、

誰も悪くはないのに
 悲しいことはいつもある
  願いごとが叶わなかったり
   願いごとが叶いすぎたり
誰も悪くはないのに
 悲しいことはいつもある

 最後の2行がリフレーンで終わる、ただこれだけの歌詞・・・・感じるのは、『コヘレト書』に匹敵するような圧倒的な透徹観! 誰が悪いのでもないのに、悲しいことは必ずある、あなたにも私にも・・・・

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 最後に、アルバム『私の声が聞こえますか』から、「あぶな坂」を(この「あぶな坂」というタイトル自体が、ほとんど言葉になりませんね)。

あぶな坂を越えたところに
 あたしは住んでいる
  坂を越えてくる人たちは
   みんな けがをしてくる
橋をこわした おまえのせいと
 口をそろえて なじるけど
  遠いふるさとで 傷ついた言いわけに
   坂を 落ちてくるのが ここからは見える

 この歌詞だけで、映画が一本撮れそうな気もします。

総合政策学部の名言集No.18:“いつも幸運に恵まれたければ時代とともに自分を変えなければならない”(前編)

2017 1/5 総合政策学部の皆さんへ

 新年を迎える話題にふさわしいかどうか、今回の名言は皆さんご存じのニッコロ・マキャヴェッリ渾身の大作『ディスコルシ』から、第3巻9節のタイトル、「いつも幸運に恵まれたければ時代とともに自分を変えなければならない」です(『ちくま学芸文庫』版では519頁)。

 マキャヴェッリは本節で「人の運不運は時代に合わせて行動を吟味するか否かにかかっている」と指摘した上で、「誤りを犯すことも少なく、前途は洋洋たる幸運にいろどられている人々は、何度も述べてきたように、時代の性格を敏感に感じ取り、いつも自然が命ずるままに事を運んでいくものである」と断言します(ここで“自然”と訳されていますが、“環境”という言葉の方がよりふさわしいかもしれません)。

 この言葉を耳にすると、何年か前に関学の宮原明現理事長からお聞きした京都の村田製作所村田さんの言葉を思い出します。それは、村田さんがある席で、宮原さんに「京都の老舗は何も変わっていない、と思ってらっしゃるでしょう!」と切り出し、「とんでもない、京都の老舗は絶えず変わっているんでっせ!」、「変わっているからこそ、老舗として生き残ってこられたんでっせ!」とたたみかけたとのこと。時代(あるいは環境)とともに、自分を変えることができる者だけが生き残る。まさに、ダーウィンの進化論にも通じる至言です。

ということで、これが今回のマクラです。

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 それでは、マキャヴェッリは「時代とともに自分を変える」例として、ティトウス・リウィウスの『ローマ史』から誰をとりあげたか?

 それはクィントゥス・ファビウス・マクシムス( 紀元前275~203年)です。第二次ポエニ戦争においてカルタゴ軍を率いる(ローマ人にとっては悪鬼のごとき)ハンニバルに対して、執政官・独裁官として立ち向かい、「勝てないけれども、決して負けない」持久戦略で相手を苦しめる人物で、「ローマの盾」と称されます。

 この持久戦略ですが、(自らをアレクサンドロス大王、“ピュロスの勝利”のエピロス王ピュロスに次ぐ戦術の名手と自負する)ハンニバルに激突しても勝ち目がないと悟ったファビウスは故地から遠く離れているカルタゴ軍の兵站をついて消耗させ(消耗戦)、ついでカルタゴ軍の予想進出地を焦土化します(焦土戦術)。そして、カルタゴ軍にずっとつきまといながら、決戦を避け、相手の消耗を待つという近代的戦略をとります(なお、一回々々の勝利を求める戦術ではなく、戦争の趨勢を決定させる戦略であることに注意して下さいね)。

 この故事から、やがて持久戦略はファビアン戦略とも呼ばれるようになり、保守派として暴力革命を否定しながら社会改良をめざす運動をフェビアニズムと呼ぶことになります。

というのは、しかし、いわば後世の後知恵、ポエニ戦争当時のファビウスのあだ名は“クンクタートル ”、「のろま」あるいは「ぐず」の類で、彼の「勝てない」持久戦略は大衆にはまったく人気があがらず、かつ、最終的勝利も得られないまま、ファビウスは任期を終えます。もちろん、彼の任期が切れたことにもっとも安堵したのはほかならない当の相手のハンニバルでした。

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 そして、紀元前216年、執政官に選ばれたガイウス・テレンティウス・ウァロは大衆の支持をベースに(こうした政治家が欧米では今はやりのようですね)、主戦論をふりかざし、カンナエでハンニバルと正面対決を決断します。

 この日のために満を持したローマ軍は重装歩兵5万5千、軽装歩兵8~9千、騎兵6千、実に計7万人を準備、さらに予備兵力1万が背後に控えます(もっとも、この予備勢力は戦いにまったく寄与せず、虚しく捕虜になります)。対するハンニバルは、故国カルタゴを離れてすでに数十年、異郷の地でローマ軍と激戦を繰り返し、そのたびにたたき伏せてきたとは言いながら、支援も補給もままなりません。このため、カルタゴ軍は計5万( 重装歩兵3万2千、軽装歩兵8千、騎兵1万)に過ぎません。ウァロはこの優勢をかって、少数のカルタゴ軍を包囲・殲滅しようとします。

 しかし、ローマ軍はハンニバルの罠にまんまとはまり、少数のはずのカルタゴ軍に包囲されて惨敗、6万人が死傷、1万人が捕虜となります。カルタゴ軍の鉄の罠から脱出できたのは1万にとどまります(カルタゴ軍の死傷者は約6千人)。これが2000年後のドイツ軍のシュリーフェン・プラン奉天会戦にまで影響を与えたとする、カンナエの戦いの結末です。

 この敗北を機に、大衆もまた元老院の貴族もファビウスの慧眼に気付き、「クンクタトルは「のろま、ぐず」といった蔑称から「細心、周到」といった敬称へと意味を変えた」(Wikipedia)。このことは、古来、カンナエの戦いを軍事教本にとりあげてきた欧米社会で衆知のことですが、マキャヴェッリの考察はさらにその奥に進んでいきます。それは後編にまわしましょう(この項、to be continued)

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...