2017年7月

北海道開拓の村からVer.3:近代化日本の栄光と挫折

2017 7/19 総合政策学部の皆さんへ

 北海道開拓の村を訪れてからすでに2年もたってしまいましたが、その時に強く感じたことの一つは「この北海道から、近代日本の膨張あるいは侵略が始まり、そして、北海道のでの成功の延長線上に、朝鮮、台湾、そして旧満州への進出を夢みて、そして現実にであって挫折したのではないか」という圧倒的な実感でした。それまでは、私も北海道が“日本の一部”ということにまったく疑いを思っていなかったのですが、開拓の村で復元されたかつてのフロンティアは、ちょうどアメリカ合衆国で“西部”がどんどん広がっていき、その地域に白人の勢力をおよぼすことが“Manifest Destiny(「明白なる使命」)”として疑われることがなかった(それが結局、1898年のハワイ王国併合まで突進するわけですが)世界と重なり合ったのです。

 ひょっとしたら、当時、人口が希薄な北海道の大地を、先住民アイヌの存在をもほとんど無視し、近代国家建設というManifest Destinyのもとに踏みにじって、隣国たるロシアとの国境協定もなんとかこなす。その結果、あいまいな境界地を植民地化 → 自国領土化に成功、その成功体験という実績にたかをくくって、次ぎに台湾、そして朝鮮半島、さらには中国東北地方(旧満州)とはてしもなく夢を広げていったのではないか、その間に多くのことを見失い、その結果として、「左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候」と安国寺恵瓊が信長を評したような結果になってしまったのではないか、という印象です。

 それでは、明治の新生国家、あるいは“遅れてきた帝国主義国家”にとって、“植民地”とはいかなるものであったのでしょうか? その点、まず、“植民地”を分類してみると、「定住植民地」と「行政植民地」の相違に気づきます。この「定住植民地」こそが北海道の成功につながり、一方、すでに先住民族がすみついていた台湾、そして朝鮮半島こそが「行政植民地」として、近代化日本の失敗(高ころび)につながったのではないでしょうか?

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 さて、「定住植民地」が人口の少ない場所に住み着き(定住化)、開拓していくのに対して、「行政植民地」は人口が多い土地を政治的に“支配”していく。そうすると、植民地には大きな色分けがあることに気付きます。

 一つのパターンを歴史に求めれば、モーリシャスフォークランド(マルビナス)、小笠原諸島のような人跡未踏の地を領土化する。ここでも、誰が先有権/領有権/占有権を持つのかでフォークランドのような紛争が起きてしまいますが、それはこの際おいておくことにしましょう。

 二つ目のパターンは、先進国が手を伸ばしてきた時、狩猟採集生活や低い農業生産から人口密度がきわめて薄く、定住した先進国人に圧倒/圧迫(タスマニア島人のように虐殺されたりする)されて、先住民が絶滅してしまう。キューバのように、先進国とともに感染症が伝わり、病気で絶滅する例もあります。北海道は先住民アイヌの生業形態が多少の農業を伴ったとは言え、採集狩猟生活をベースとしていたため、江戸期には最大でも数万人程度でしたから、これに該当するでしょう。

 三つ目は、相当の人口を維持しながら、政治的な体制が必ずしもはっきりしていない地域、あるいは国境などが確定していない地域(中国流にいえば、“化外の地”をいち早く支配使用とするケース。日本の近代化では、例えば、明治7年の台湾出兵が該当するでしょう。

 四つ目は、かなりの程度に整備された国家組織を持っている途上国を、戦争等をともなう暴力行為でもって占領する。これが19世紀から20世紀にかけて帝国主義華やかなりしことに世界的に広がる植民地です。典型的な例としてオランダによるインドネシア領有をあげておきましょう。

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 このような視点で観れば、近代日本にとって、もっとも都合がよかった未開地、それが北海道だった、ということになります。それは成功でもあり、そして長い眼で見れば、1945年に日本に訪れた破局への第一歩であったとも言え、そしてヒューマン・エコロジー的には先住民と侵略者の人口比という現実をつきつけるものと言えるかもしれません。

 ちなみに、Wikipediaの「植民地」では、日本の植民地として「外地」という言葉を紹介、以下をあげています。
・台湾(下関条約による割譲)
・南樺太(ポーツマス条約による割譲、後に内地編入)
・関東州(ポーツマス条約による租借地承継。満鉄付属地を含む)
・朝鮮(日韓併合条約による大韓帝国の併合)
・南洋群島(国際連盟規約による委任統治)
そして、「これらの地域のうち、台湾、南樺太、朝鮮は日本の領土であったのに対して関東州と南洋群島は領土ではなかったが、いずれも日本の統治権が及んでいた地域であり外地と総称されていた。さらに、日本の影響下にあった満州国も、事実上の植民地に相当する。ただし、南樺太に関しては統治の初期より準内地的扱いがされ、各地域の法令の適用範囲の確定等を目的とした共通法(1918年制定)では内地の一部として扱われている。さらに1943年4月には完全に内地に編入された」とあります。かくも、植民地の内実も複雑なのです。

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 ところで、日本政府は「外地」または「属地」という言葉を用いて、「植民地」という言葉を基本的には使わなかったそうです。また、そもそも、旧憲法、新憲法とも、領土規定がなく、世界的には異例なようです。つまり、どこまでが日本か、憲法に明記されていない。したがって、本稿で「植民地」とするのは、憲法や法的厳密さをベースにするものではなく、ただただごく一般的な解釈として可能かもしれない、程度のことです。いかにも、あいまいさを尊ぶ日本の政治を象徴しているかのようです。もっとも、敗戦後はこの曖昧さこそが、自分の首を絞める一因にもなっているようですが。

 Wikipediaでは「明治憲法には領土規定がなく、ヘルマン・ロエスレルの案の段階においては、領土は自明のものであり、また国体に関わり議院に属さないものだとして領土規定は立ち消えたのであるが、実際にはロエスレルの認識とは異なり、日本の領土は北(樺太・北海道)も南(琉球)も対外政策は不安定な中にあった。この事情は明治政府にとって好都合であったことは確かで露骨なものとしては「我カ憲法ハ領土ニ就イテ規定スル所ナシ、諸国憲法ノ或ハ領土ヲ列挙スルト甚タ異レリ、サレハ我ニ在リテハ、領土ノ獲得ハ憲法改正ノ手続ヲ要セス」(上杉慎吉「新稿・憲法述義」1924年P.143)と解されていた」という石井修氏の意見を紹介しています(「憲法における領土」法制理論39:158-185.2007-03.新潟大学法学会等)。なかなか興味深いことです。ちなみに、この上杉慎吉は戦前、天皇主権説を主張する君権学派(神権学派)の憲法学者であり、かの昭和の妖怪こと安倍現首相の祖父である岸信介の恩師として、国家官僚を志す岸に東大に残るように薦めた人物です。

 ということで、このあたりで to be continued….としましょう。

海外流出美術品と日本の近代化:売立目録所収美術作品のデータベースよりアートを考える(下編)

2017 7/8 総合政策学部の皆さんへ

 前編に引き続き、『売立目録所収美術作品のデータベース』からもう少し探ってみましょう。売り立てには色々なパターンがあります。前編では松浦家のいわば没落にともなう売り立てを紹介しましたが、下村家が大丸再建を願って、自家の家財を売り払ったように(資本主義としては前近代的とも言えますが)、“攻め”の売り立てもあります。

 その典型は、大正10年11月5日・6日下見、同年11月7日入札の尾州徳川家御蔵品売立。政治家、植物学者、狩猟家(北海道で熊狩り、マレーで虎狩り)で、かつ現在の北海道土産の定番「木彫りのクマ」の原案をスイスから紹介したという尾張徳川家第19代当主徳川義親が「尾張家伝来の優れた美術品・文化財の永続的な保存のため、財団法人徳川黎明会を設立し、美術品の保存、公開施設としての徳川美術館を建設する資金を得るため」(報告書)、主催者の高橋箒庵に依頼したものです。これぞ「攻めの売り立て」とも言えるでしょう。ちなみに、Wikipediaではこの多才な「最後の殿様」について、他家の財政逼迫にも積極的に支援に乗り出し「理財の天才」と讃えています。

 ところで、この時、札元には山澄力蔵・中村好古堂・梅沢安蔵・川部商会・多門店・本山幽篁堂・伊丹信太郎・池田慶次郎・林新助・土橋永昌堂・服部来々堂・戸田弥七・山中吉郎兵衛・池戸宗三郎・春海商店・野崎久兵衛・米万商店・味岡由兵衛・伊藤喜兵衛・横山守雄・長谷川長宣堂と並んでいます。なお、この一人山中吉郎兵衛こそ、「(日本、そして中国等の)東アジアの秘宝を欧米人に売り込み」、戦後は其一の「朝顔図屏風」をメトロポリタン美術館に納入する山中商会中興の祖、山中定次郎(三代目山中吉郎兵衛)でしょう。

 調べてみると、古美術商としては土橋永昌堂、中村好古堂、春海商店等が現役です。古美術商もなかなか老舗ぞろいのようです。

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 さて、報告書に戻ると、この売立も「高橋箒庵が、世話方として関わっているが、その出品作品に価値の高い物が少なかったため、度々、価値のある作品の出品を尾張家に求めたが、優品を美術館で保存しようという尾張家側の意向を崩すことはできなかったという。・・・出品作に優品が少ないという当時の世評にも拘らず、第1回の総売り上げは、570,000円余に及んだ」とあります。

 義親はこの資金で、徳川美術館(運営母体は財団法人尾張徳川黎明会)の開設に邁進しますが、その間、なんと他家から流出の古美術品をさらに収集、「豊国祭礼図屏風」(蜂須賀家)、「清正公兜」(紀伊徳川家)、「侍中群要」(近衛家)から入手するなど、美術のパトロンとして八面六臂の活躍です。

 実は、義親は美術館以外にも、徳川生物学研究所(のち、ヤクルトに譲渡)、徳川林政史研究所も設立。ここまで自分が所有する資源を社会貢献に各種有効活用された方も少ないかもしれません。

 ちなみに、『売立目録所収美術作品のデータベース』では、 大正14年5月25日に前田侯爵邸で開催された“前田侯爵家御蔵器入札”でも、旧金沢藩主前田家は「入札で得た利益をもとに、所蔵品のうち重要なものを保存するための体制を固める」ため、当主前田利為が同年2月26日、公益法人育徳財団(現、前田育徳会)を設立、その資金をえることが目的のようだと記されています。

 その結果、「前田家伝来の作品の中で特に優れたものが出品されたとはいえないが、「織部餓鬼腹茶入」(現野村美術館)が57,800 円など、茶器を中心に高額落札が相次ぎ、総落札額は1,090,000 円を超えた」とありました。

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 最後に、話のそもそもの発端である其一の朝顔図屏風に話を戻すと、かつての豪商松澤家から流出後、1894年以来、ニューヨーク・ボストン・ロンドンなどで東洋美術を欧米のブルジョアジーや美術館に売り込んでいた山中商会の手を経て、1954年にメトロポリタン美術館に収蔵されます。またその前年には、光琳の「八橋図屏風」もメトロポリタン美術館に渡っています(朽木ゆり子 『ハウス・オブ・ヤマナカ 東洋の至宝を欧米に売った美術商』 )。こうして、故郷を離れた美術品自身にとって、異郷の地で多くの人びとの眼にふれることがよいのか、それとも故郷に再び帰ることがよいのか、皆さんはどう思いますか?

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...