2017年9月

北海道開拓の村からVer.4:植民地経営のための手段としての“植民地政策学”

2017 9/22 総合政策学部の皆さんへ

 さて、先回の「北海道開拓の村からVer.3:近代化日本の栄光と挫折」では、Wikipediaをひいて近代日本にとっての「行政型植民地」のはしりを下関条約による台湾の割譲としました。しかし、よく考えてみれば、その前に「琉球処分」による琉球の強制併合があったはずです(1872~1879年にかけての琉球王国の滅亡)。「定住型植民地」としての北海道開拓と台湾割譲による「行政型植民地」経営の間に、琉球処分がはさまっているわけです。

 もっとも、こう述べると、琉球処分当初の琉球(現沖縄)を“植民地”とみなす根拠を述べなければいけませんね。それでは、どこが本国と植民地、あるいは口語的日本語でいえば“内地”と“外地”をわけるのでしょう? 手っ取り早いところは法行政体系の整備のタイムラグかもしれません。というのも、「同じ国だ!」と主張するなら権利も義務も同等でなければいけません。いわゆる「代表なくして課税なし」の原則です。

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 ということで、本土と沖縄を比較しましょう。例えば、国家の税体系を確立したとも言える地租改正については、本土が1873~1879年に施行ですが、沖縄は1899~1903年です。実は、沖縄では「琉球王国により宮古島・八重山諸島において「正頭(しょうず)」と呼ばれる(人頭税が)15歳から50歳までの男女を対象に1637年から制度化され、年齢と性別・身分、居住地域の耕地状況(村位)を組み合わせて算定された額によって賦課が行われた(古琉球時代説もある)。この税制度は平均税率が八公二民と言われるほどの重税であり、しかも農作物の収穫が少ない年でも払わなければならず島民を苦しめた。この正頭は廃藩置県後も旧琉球王国の既得権益層への懐柔のために執られた旧慣温存策により存続した」(Wikipedia)。これを廃止したのが実に1903年なのです。こうして先島諸島では二重支配ともいえる状況にありました(植民地行政では二重支配、分割支配などよくあることだ、とも言えるでしょう)。

 一方、本土では1873年公布の徴兵令は、沖縄では1896年に小学校教員にのみ施行され、1898年に一般人も対象となります。こうして税もとられ、徴兵の対象にもなった沖縄人民ですが、本土では1890年の選挙法公布が、北海道で1903年に、そして沖縄では1912年にずれこみます。どの項目でもほぼ20年(人間でいえば一世代)のタイムラグがあることがわかります。こうした過程を経て、植民地的存在から、次第に本土(本国)化していくわけですが、こうした琉球王国以来の制度の温存は、王族や上級士族(有禄士族)を優遇して、その不満をなだめるためのものでもあったようで、旧慣温存政策あるいは旧慣存置政策と呼ばれます。

 それに対して、他の外地の樺太・朝鮮・台湾での選挙法公布は1945年1月、もうお気づきでしょう! これは敗戦のため、ついに実施されることはありませんでした。つまり、“国民”の代表を送り出すわけではない。としたら、“本国”とは言えない。こうした政治的決定の順番はまさに明治政府における本国(本土)と、植民地(外地)としての北海道、沖縄、台湾、樺太、朝鮮のレーテイングを表しているようです。こうして植民地から本国(本土)に組み込まれていったいわば“内部化”の過程(それは同時に、先住民の人たちにとって、戦争で徴兵され、そして戦死することを意味します)を見ることで、第2次世界大戦における敗戦ぎりぎりまで植民地的存在であり、敗戦によってそれぞれ外在化された地域が浮き彫りになってきます。

 ちなみに第1次世界大戦では、多くの植民地人が宗主国の都合で、ヨーロッパの戦場(あるいはタンザニアの場合は、アフリカでのイギリス=ドイツ両植民地軍の戦闘)に狩り出され、ある者は一時的に英雄になり(例えば、ガリポリの暗殺者ことビリー・シン[中国系オーストラリア移民とインド系移民の子供、ガリポリで150~250名ほどを射殺])、ある者は戦場の屍となり、ある者は西洋社会に触れたことで、己の抑圧的状況に気付き始めることになります。言うまでもなく、第2次世界大戦はそれがさらに拡大化するわけですが、例によって、帝国陸海軍はそうした事態にうまく対応できませんでした。

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 さて、前回は日本政府は「植民地」という言葉を嫌ったようだと紹介しましたが(=あいまいさの中に、自己の利益の最大化をはかろうとした?)、それとは裏腹というか、あるいは本音丸出しというべきか、高等教育機関では純然たる植民地経営=植民政策が講義されていたことも興味深いかもしれません。たしかに、講義名が「外地経営」あるいは「外地政策」等ならば、意味がとれないかもしれません。

 Wikipediaの「植民政策学」では、「日露戦争前後よりその他の大学・高等教育機関も植民政策学の講座を設置するようになり制度的な整備が進んだ。特に著名な植民政策学講座は、東京帝国大学経済学部に設置されていたもの(正確には「植民政策」講座)で、札幌農学校の農学的植民政策学を導入した新渡戸稲造を初代の主任教授(1909〜1920年)とし、これを新渡戸の弟子であった矢内原忠雄(1923〜37年在任)が継承、矢内原が筆禍事件で辞職をよぎなくされたのち実質的には3代目の東畑精一(1939〜45年在任)に引き継がれた」とあります。

 もちろん、こうした体制は1945年の敗戦で一変、「GHQの指令により、各大学の「植民政策学」講座は廃止され、存続する場合も「国際経済学」(東大経済学部の場合)などへの改称を迫られた。現在、かつての植民政策学の伝統は国際経済学や開発経済学、国際関係論研究、低開発地域研究などの諸分野に継承されている」とのこと。つまり、総合政策学部の科目にもその流れがある、ということになるのでしょうか?

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 なお、「近代日本における本格的な植民政策学は、日清戦争で初の海外植民地として獲得された台湾において始まった。すなわち行政機関として設置された台湾総督府が、イギリス的な「自治主義」(自主主義)あるいはフランス的な「同化主義」(同化画一主義・内地延長主義)のいずれかを統治形式として採用するかという政策研究を行ったことが嚆矢であることです」。このあたりにも、「植民地とは何か?」という根源的な問いがあるようです。

 イギリス型自治主義は、植民者が先住民を圧倒した場合、「定住型植民地」だったアメリカ合衆国が「代表なくして課税なし」の原則を振りかざして独立、オーストラリアやニュージーランドがイギリス連邦内での植民者優先型の独立をとげます。その一方で、行政型植民地はほとんど手放す(シンガポールや香港さえも)ということになりました。

 一方、フランス型植民地はインドシナやアルジェリアで「定住型植民地」を展開します。その結果、いわゆるコロン、あるいはピエ・ノワールが生まれます。彼らは、「1830年6月18日のフランス侵攻から、1962年のアルジェリア戦争終結に伴うアルジェリア独立までのフランス領アルジェリアに居たヨーロッパ系(フランス、スペイン、イタリア、マルタ、ユダヤ系)植民者。また、アルジェリアだけでなくモロッコ、チュニジアを加えたマグレブ諸国のヨーロッパ系住民を含める場合もある。独立時点までのピエ・ノワールの人口は約100万人だと推される」人たちです(Wikipedia)。

 その代表が例えば『異邦人』の作者カミュですが、その結果として、コロンたちは自らの権利を放棄しようとせず、凄惨なアルジェリア独立戦争となってしまいます。そこではフランス人(コロンおよびフランス軍)とアラブ人との争いでもあり、コロンたちとフランス政府の争いにもなり、戦死者は100万人に達したともされることに! この大混乱をおさめたのは、度重なる暗殺をものともせず、鉄の意志でアルジェリア撤退を貫徹したド・ゴール大統領です(暗殺者たちから銃弾を浴びせられながら、無傷で生き残ったこの鉄人は「4人がかりで人1人殺せないとは銃の扱いが下手くそなやつらだ」との感想をもらしたと伝えられています」)。

 こうして先住民族も移民者も、ともに不幸な事態がひきおこされる。これは大日本帝国が進めた満州移民政策もおなじことでした。この政策に“植民地政策学”がどのように関わったか、ちょっと知りたいと思わないわけではありません。
to be continued・・・・・

国家の誕生:国名はどうやって決まるのか?Part 2

2017 9/16 総合政策学部の皆さんへ

 さて、皆さんは「日本」という国号が、どんな目線で語られる言葉か、考えたことはありますか? 「ひのもと」というわけですが、これは明らかに中国大陸の方からの目線で、「太陽があがる方角にある国」という意味である。したがって、その肝心の「日本」に住む我々自信の目線=他称であって、“日本人”による自称とは言えないのではないか? という議論はすでに江戸時代からあったそうです。

 また、「日本」とは基本的に漢語であって、大和言葉でない、とも言えます(この場合、大和言葉(やまとことば)とは「日本(やまと)に大陸文化が伝来する以前の、日本列島で話されていた言語そのものを指すというニュアンスがある」(Wikipedia)という解釈にそったものですね)。

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 Wikipedidaによれば、「ニッポン」は呉音漢音では「ジッポン」(漢音)と読まれたものとの推測もあるとここと。マルコ・ポーロが元に使えたときに書き留めたのはCipangu(Chipangu)だそうですが、これは当然中国音での発声によるもので、これがJipangの、そしてさらにはJapanの語源になったといわれています。

 それでは、日本に住んでいる人びと(ここで私が“日本人”と簡単に言わないことに気付いて下さいね)からの自称は何か? あきつしま(秋津島)、大倭豊秋津島、大日本豊秋津洲、あしはらなかつくに、葦原中国(あしはらのなかつくに)、豊葦原(とよあしはら)、豊葦原之千秋長五百秋之水穂国(とよあしはらのちあきながいほあきのみずほのくに)、豊葦原千五百秋瑞穂国(とよあしはらのちいほあきのみずほのくに)、うらやすのくに(浦安国)、おおやしま(大八島、太八島、大八洲)、大八洲国、わしほこちたるくに、細矛千足国、しきしま(師木島、磯城島、志貴島、敷島)、たまかきうちのくに(玉牆内国、玉垣内国)、ひのいづるところ(日出處)、日出処(ひのもと)、ほつまのくに(磯輪上秀真国)、みづほのくに(瑞穂国)、やまと(倭)などなど。大和言葉と漢語が入り乱れ、なかなか難しいところです。

 もっとも、英国もたいては“イギリス”と呼びますが、 正式の国号「グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国」、これを略してUK、さらにかつての地方王国のイングランド、スコットランド、ウェールズ、それに北アイルランド、さらに島名としてのブリテン(あるいはグレート・ブリテン)、さらには形容詞としてのブリティッシュ等が慣用的に使われていますから、そもそもは単一の国名をもち、単一民族で構成される近代的国民(民族)国家というものが、いわば幻想の産物であることからすれば当たり前というべきでしょう。

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 それでは、他の例も紹介しましょう。例えば、ブラジルは、なんと木の名前に由来します(パウ・ブラジル)。に由来する。この地では、ポルトガル人がヨーロッパで染料に用いていたスオウに似た木を見つけ、同様に染料に使ったことから、「赤い木」を意味する「パウ・ブラジル」と呼びはじめ、それが昂じてその産地がブラジルと呼ばれるようになったという顛末なのですね。

 一方、隣国のアルゼンチン「スペイン人征服者の一行がこの地を踏んだ際、銀の飾りを身につけたインディヘナ(チャルーア人)に出会い、上流に「銀の山脈(Sierra del Plata)」があると信じたことから名づけたとされる。これにちなみ、銀のラテン語表記「Argentum(アルゲントゥム)」に地名を表す女性縮小辞(-tina)を添えたものである。(略)国名をラテン語由来へと置き換えたのは、スペインによる圧政を忘れるためであり、フランスのスペインへの侵略を契機として、フランス語読みの「アルジャンティーヌ(Argentine)」に倣ったものでもあるとされる」(Wikipedia)。このように、とくに植民地から独立した国家の名前は、調べるほどに数奇な過去をもっているようです。

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 さらにアフリカに転じれば、1960年代の独立ラッシュ時に、どんな国号にすべきか、混迷が続くこともあります。例えば、オート・ヴォルタ、これは実はフランス語で「ヴォルタ川の上流地域」という意味なのです。1984年にはブルキナファソに改名されますが、これは「国名のブルキナはモシ語で「高潔な人」、ファソはジュラ語で「祖国」を意味する」とのことです(Wikipedia)。

 同様の例が、コートジボワール(フランス語で「象牙海岸」)、シエラレオネ(スペイン語で「ライオン山地」)などがあげられます。

 一方、アメリカ合衆国の大都市においては、New Yorkが「新しいYork」という意味なのに対して(実は、はじめは「New Amsterdam」)、San Franciscoはスペイン領時代に「フランシスコ修道会士が創設者の名前=聖フランチェスコを選択」と思えば、Chicagoの「語源はShikaakwaと言われており、この地に先住するアルゴンキン語族インディアンの言葉で「臭いタマネギ」という意味で、おそらく河口付近にタマネギが自生していた地であったためだとされている」(Wikipedia)。

 もっとも、日本人も第2次世界大戦中、シンガポールを「昭南特別市」などと改称させた過去がありますから、あまりほめられたものでもありません。とはいえ、インドネシアではオランダ植民地時代の名前「バタビア」を、数百年前のバンテン王国時の名称「ジャカルタ」に戻してもいます(独立後、そのままジャカルタになりました)。ちなみに、バタビアとは「オランダの先住民バタウィ」にちなんだとのことです。

故郷を離れた美術品は、異郷の地で多くの人びとの眼にふれることがよいのか、それとも故郷に再び帰ることがよいのか?

2017 9/12 総合政策学部の皆さんへ

 「海外流出美術品と日本の近代化:売立目録所収美術作品のデータベースよりアートを考える(下編)」の最後に、表題のようなテーマを掲げた手前、少しまとめてみたいと思います。総合政策のなかでは、“芸術政策”の一環にあたるかもしれません。

 さて、美術品はしばしば、“流浪”します。その流浪の過程で不正が働いた場合、その美術品は元の持ち主に、あるいは故郷に帰るべきなのか?

 近年、もっとも注目されたケースが、言うまでもなく(皆さんご存じですよね?)グスタフ・クリムトが描いた“黄金のアデーレ”(正確には『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I』)。2015年制作のイギリス・アメリカ合衆国の映画『黄金のアデーレ 名画の帰還』の主役です。Wikipediaから抜粋。引用すると、

 1998年のロサンゼルスで、ルイーゼと言う老女の葬儀が行われていた。(略)葬儀の帰り、ルイーゼの妹マリア・アルトマンは、オーストリアから亡命して以来、家族ぐるみの付き合いがあるバーバラ・シェーンベルクに弁護士の相談をする。(略)
オーストリアのブロッホ=バウアー家は、ユダヤ人の実業家で非常に裕福だった。ルイーゼとマリア姉妹の叔父フェルディナントとその妻アデーレには子供が無く、二人は実の子のように可愛がられていた。ルイーゼの遺品である半世紀前の手紙から、オーストリアで始まった美術品の返還請求をできないかという相談だった。請求期限まで間が無く、ランディは一度は断るが、絵画の不可解な謎と1億ドルの価値を知ると、上司に掛け合い、渡欧を決める。祖国に戻ることを頑なに拒むマリアも翻意し、二人はウィーンへ向かう。(略)

 マリアが高齢であることから、ランディはオーストリア政府との和解を進めようとする。しかし不当な収奪を認めることを譲れないマリアは、ランディが進めようとしたウィーンでの和解調停に激しく抵抗し、ランディを解雇しようとする。結局、ウィーンにはランディのみが赴き、調停に取り組むはずが、調停の席にはマリアも現れる。ランディは、かつてオーストリアがナチスを支持し、不当な迫害を行った過去と向かい合うよう訴えかける。調停の合間に、フベルトゥスが二人に協力する理由を説明する。彼の父は熱烈なナチス党員であり、父の罪を贖うとともに、何故父がナチスに肩入れしたのか歴史に向かい合おうとしていたのだった。(略)

 最終的に、「黄金のアデーレ」を含む美術品がマリアに返還されることが発表され、歴史的な発表に拍手が巻き起こる。しかし、マリアは勝利しても心は晴れることなく、両親を残して亡命したことを悔い、涙を流す。しかし、両親との別れ際の会話を思い出すと、ローダーのギャラリーに絵画を預けることにし、未来へ歩みだす。

  エンディングで、絵画、ランディ、そしてマリアのその後が紹介されるとともに、ナチスの収奪した10万点にも及ぶ美術品の多数が返還されていないことも示される。

 この映画の結末に、おそらくすべての人びとが複雑な思いをいだくかもしれません。ナチスの暴虐とそれが様々にもたらした影響、それを解決することに半世紀もかかかる。そして、多くの美術品はまだ最終的な結末をむかえていない。さらに、ナチス/戦後のオーストリア政府による不当な収奪をただすため、本来の所有者に戻す。しかし、その行為は「黄金のアデーレ」を故郷ウィーンから引き離すことにもなりました(現在は、ニューヨークにあるエステ=ローダー関連の美術館ノイエ・ガレリエに展示されている)。

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 ところで、欧米で発達した“美術館”は見方次第では、実は少なからぬ“収奪品”からなっているとも言えます。と言っても実感がわかなければ、例えば、“エルギン・マーブル”、本来アテネのパルテノン神殿を飾るはずの大理石の破風彫刻がなにゆえ、大英博物館に所蔵されているのか? Wikipediaによれば、

 1800年、イギリスの外交官であった第7代エルギン伯爵トマス・ブルースが、オスマン帝国駐在の特命全権大使としてイスタンブールに赴任すると、このパルテノン神殿の調査を始めた(当時のギリシアはオスマン帝国領である)。神殿彫刻に関心を抱いたエルギン伯は、当時のスルタン・セリム3世から許可を得て、多くの彫刻を切り取ってイギリスへ持ち帰った。当時のオスマン帝国はナポレオン率いるフランス軍のエジプト遠征を受けた直後であり、このフランス軍を撃退したイギリスと良好な関係にあった。

 19世紀前半、ロマン主義の風潮が高まる中で、エルギン・マーブルがイギリスで公開されると、多くの人々の古代ギリシアへの憧憬を高めさせた。だが一方エルギン伯の「略奪」行為を非難する声も大きく、ジョージ・ゴードン・バイロンは「チャイルド・ハロルドの巡礼」第二巻及び「ミネルヴァの呪い The Curse of Minerva」で激しく痛罵した。これらの批判が激しくなったことと、長年に渡る彫刻群の輸送で巨額の負債を抱えたため、エルギン伯は1816年にイギリス政府にエルギン・マーブルを寄贈、その後大英博物館に展示されて現在に至る。

 つまり、ギリシャ人全体の精神的遺産としてのエルギン・マーブルは、当時の支配者にして異教徒でもあるオスマン・トルコの皇帝の承認で、イギリス=トルコの友好のために譲り渡されるわけですが、ギリシャ人から見ればこの契約の正当性に異議をとなえたくなるのは、皆さんも理解できるかと言えます。とは言え、そんな調子で返還していくと、大英博物館には所蔵品がほとんどなくなってしまうかもしれない?! それに、いわゆる先進国の博物館がぶいぶい振り回す理屈=「貴重な文化財が一国に集められることで学術的な研究が進みやすいといった点や、原産国が文化財の保護や管理に熱心でない場合もあり、現所有者側が散逸や劣化を防いでいる」(Wikipedia)から、この文化財返還問題はなかなか見通しがつかない難題です。

研究者はけちんぼか?:研究者についてPart1

2017 9/9 総合政策学部の皆さんへ

 皆さんが「ちょっと変わったタイトルだな」と思われたら、それは私の術策に嵌ったのかもしれません。

 その昔、大学に入学する前に、“研究者”への私の個人的イメージを決定的にした書物を3つあげましょう。

 まず、小学校の頃にまったくたまたま目にした永井隆博士の『ロザリオの鎖』、そして中学の頃に読んだアントン・チェーホフの『退屈な話』に登場の名誉教授ニコライ・ステパーノヴィッチ某、そして高校の時に触れたスタインベックの『キャナリー・ロウ』のための試作品とでも言うべき『蛇』のフィリプス博士(名前こそ違えど、まぎれもなく“ドック”の青年時代)の3つです。

 こう並べれば、見事なまでに衆人の記憶にあまりのぼらない人たちばかり、“ドック”など自然科学界では“超”がつくぐらいのマイナーな存在かもしれません。そこで、どうしたわけで影響をうけたのか、これが本日のテーマです。。

 さて、「研究者とはけちんぼか?」というタイトルは、明治41年、松江市に医師の子として生まれ、長崎医科大学を昭和7年卒業、物理的療法科で放射線療法を研究中、昭和20年、原子爆弾により被爆、糟糠の妻もなくし、二人の子供をかかえながら昭和21年教授に昇進するも、白血病に倒れ、昭和26年5月1日永眠(享年43歳)の永井博士が戦後の病床で綴った『ロザリオの鎖』の中からの抜粋です。

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 それにしても、「研究者はけちんぼか?」、永井博士はこのように切りだします。

けちんぼは世の人からつまはじきにされる。
 このごろは主食の値が高くなって、農家のふところには紙幣がどんどん流れ込み、一尺祝いというものをやるそうな。百円札を重ねて一尺の高さになったら家内集まって大祝いをやるという。(略)
 一尺祝いが悪いといいうのではない。問題はそれをどんなに使うのかにある。どしどし公共事業に出すのなら偉い。貧乏人に与えるのなら感心だ。
 しかし苦労してためたものを、おいそれと出したがらぬのは人情だ。貸して欲しけりゃ頭を下げて来い。中学校へ寄付してもらいたけりゃ、その代わりに委員に選挙しておくれ。・・・こんなけちんぼは世の人から爪はじきにされる。

 ところが世の人から少しも爪はじきされないけちんぼがたくさんいる。それがけちんぼとは知られていないから、爪はじきにされぬどころか、偉い人だと世の人から尊敬されている。国家からも相当の待遇を受けている。

  そのけちんぼとは学者である。
 大学教授、研究所員、工場技師、蔵書家、名人、家元などという連中の中にいる知恵のけちんぼである。
 「この問題はあの先生に聞かねばわからない」
  「彼は門外不出の古文書を持っている」
  「彼の急死によって、この技術の秘密は墓に埋められた」
  こんな話題の主はみんな学会のけちんぼである。知的財の守銭奴である。

 斯界の権威を以て自らを任じ、象牙の塔にこもて庶民を見くだし、我が国の知的水準の低いのは慨嘆に耐えぬなどと高言している者。特殊な発明を完成しながら、その機密を容易に発表したがらぬ者。学問の切り売りはしないなどと称してことさらに民衆教育をいとう者。そんな連中が現代いかに尊敬されているのであろうか?

 なるほど彼らがその知的財を頭脳に蓄積するまでにはなみなみならぬ苦労があったであろう。農夫が粒々辛苦する以上の辛苦であった。しかもその辛苦はもともと人類文化の進歩のためになされたのではなかった? おそらく彼らといえども髪黒く歯白く、血の赤かった青春のころから知的守銭奴を志望して勉強を始めたのではあるまい。勉強の成果として知的財を頭蓋骨の倉におさめたとたん、欲がでたのであろう。権威欲、名誉欲、優越欲、それからその知的財を資本に一儲けしようとする物欲などが、髪白く歯黒く血の青くなった赤はげ頭の中に燃え上がったのである。
 しかも彼らは朝飯の後で新聞を読みながら、農夫の一尺祝いを憎みかつあざけるのである

 こう書き綴った永井博士は最後に、こうさりげなく告白して、議論のすべてを見事に相対化させます。

 わたしもまた知的けちんぼの一人だ。しかしたいした資本ではない。長屋の高利貸しぐらいのところである。(『ロザリオの鎖』ユニバーサル文庫版、p.140~142)

 ちなみに、永井博士の業績をGoogle Schoarで調べたところ、永井隆・柴田精郎(1944)「嚥下困難ヲ呈セル畸形性頸椎炎ニ就テ」『日本耳鼻咽喉科會會報』50(9):718-723が見つかりました。原爆投下の1年前の公表ですが、永井博士はこの頃すでに戦時中の治療におけるレントゲン被曝で、白血病に罹患していたようです。

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 たしかに、21世紀の現在、文科省でさえ産学官共同を薦める流れにのって(文科省HP「大学等における産学官連携」)、研究者はさらに“知的けちんぼ”への道を邁進しているかもしれません。いまだに記憶に新しいSTAP細胞(刺激惹起性多能性獲得細胞)のケースでは、まっさきに特許が出願されているところ(Vacanti, C. A. et al. (2013年10月31日). “Generating pluripotent cells de novo WO 2013163296 A1”. (国際特許公開、優先日:2012年4月24日、出願日:2013年4月24日、公開日:2013年10月31日))など、まさに永井博士が70年も前に指摘されている通りです。

 それで、我が身を振り返ると、霊長類の生態・行動生態という本業から照らすと、とても「特殊な発明を完成しながら、その機密を容易に発表したがらぬ」者に該当するはずもなく、その点では、『キャナリー・ロウ』のドックのモデル、エド・リケッツと同様に「長屋の高利貸し」にも及ばぬ懐具合と言えそうです。

 この点では、20世紀以降の“研究者”、二つのアーキタイプの間のバリエーションのどこかにいるかもしれません。その一つの頂点は“ビッグ・サイエンティスト”あるいは“学問的守銭奴”であり、そしてもう一つは“ドック”に象徴される“片隅の賢者”かもしれません。
to be continued・・・・

国家の誕生:国名はどうやって決まるのか?Part 1

2017 9/3 総合政策学部の皆さんへ

 国名はどうやって決まるか? これはなかなか蘊蓄が深いことかもしれません。例えば、オランダです。日本人にとっては“オランダ”という名称が人口に膾炙していますが、これは歴史的にもっとも有力だったホラント州に由来するものであり、かつ、ポルトガル語から日本に伝わったものだそうです。したがって、正式にはNederland(オランダ語)、あるいはNederlân(西フリジア語)、英語の表記ではThe Netherlands、これらはいずれも「低地の国/地方」の意味で、つまりは「低地諸国」という塩梅です。つまり、地形できまった国名ということになります。

 それでは、皆さんに質問! “フィリピン”という国名は何が語源か、ご存じですか? これをとっさに答えられたら、立派なものかもしれません。フィリピンとは、民族の名前なのか? 島の名前なのか、海域の名前なのか、都市の名前なのか?

 たとえば、“カザフスタン”は、“カザフ人カザフ語[テュルク系言語の一つ]を話す人達)”の自称民族名カザフ+テュルク系言語で“国、あるいは**人が多いところ”を表す“スタン”をつなげたもので、カザフ人が多い国/場所という意味となり、民族名が国家名になったわけです(とはいえ、その民族構成は、Wikipediaによればカザフ人65.5%、ロシア人21.4%、ウズベク人3.0%、ウクライナ人1.7%、ウイグル人1.4%、タタール人1.1%、ヴォルガ・ドイツ人1.1%、その他4.5%だそうです(2014年)。同じパターンが、ウズベキスタンタジキスタントルクメニスタンと並びます。

 ちなみに、ウィグル人の国家=ウィグルスタンが存在しないのは、言うまでもなく、彼らは中華人民共和国の中の新疆ウイグル自治区などに取り込まれているためです。なんとなればウィグル人11,842,000人のうち、11,478,000人(96.9%)が中国内に在住しているそうです。

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 一方、シンガポールでは島の名前か(シンガポール島)、そこの巨大都市の名前か(シンガポール市)、やや判然としません。ちなみに、シンガポールのそもそもの語源は、「マレー語の「スィンガプラ(Singapura)」を直訳すると「ライオンの町」となるため、Lion Cityの愛称で呼ばれる」とのことです(Wikipedia)。

 ということで、肝心のフィリピンに話を戻しますが、これはなんと、「1542年に、スペイン皇太子フェリペ(のちのフェリペ2世)の名から、スペイン人の征服者ルイ・ロペス・デ・ビリャロボスによってラス・フィリピナス諸島と名づけられたことに由来する」(Wikipedia)。つまり、西洋人が“発見”した土地を、先住民などにはまったく顧慮もせず、勝手に名前を(しかも自分の王家の人間の名前を)土地に付けて、その土地の名前がそのまま国家になったというわけです。

 こうした脈絡を当時の日本に例えれば、1544あるいは45年頃に日本に流れ着き、日本に鉄砲を伝えることなどに重要な役割を果たしたと自称しているポルトガル人の遍歴冒険家メンデス・ピント(通称ほら吹きピント)あたりが、種子島を“発見”して、当時のボルトガル王ジョアン3世敬虔王のお名前にちなみ、ジパングならぬジョアングなどと名付けて植民地化していたら、日本はどうなっていただろう!・・・・・というような話になってしまいます。

 なお、このピントの主著、原題は「我々西洋では少ししかあるいはまったく知られていないシナ王国、タタール、通常シャムと言われるソルナウ王国、カラミニャム王国、ペグー王国、マルタバン王国そして東洋の多くの王国とその主達について見聞きした多くの珍しい事、そして、彼や他の人物達、双方に生じた多くの特異な出来事の記録、そして、いくつかのことやその最後には東洋の地で唯一の光であり輝きであり、かの地におけるイエズス会の総長である聖職者フランシスコ・ザビエルの死について簡単な事項について語られたフェルナン・メンデス・ピントの遍歴記」です。これまたなかなか奧が深そうです。

 私の手元にある日本語訳は抜粋版の筑摩世界ノンフィクション全集『東洋放浪記』(近藤昇一訳)ですが、その後で立ち寄った沖縄について、「なお、この国の事情を、いつかポルトガルに役立つことがあるように、例の通り簡単に情報として記しておく。その一番大切なことはキリスト教の布教をすることである。その後で、この島を占領しようと思えば、占領しても良い。この島は足がかりにするにはよいこと、非常に儲かること、占領しやすいことがわかった」と豪語していますから、沖縄からさらには日本に侵略を進めることだって、可能性がゼロではありません。そして、その結果、国名も変わっていく可能性さえないわけではなかったかもしれないのです。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...