2017年10月

文化の消費者か、文化の創造者か?:研究者についてPart2

2017 10/5 総合政策学部の皆さんへ

 さて、研究者について、再び永井隆博士の『ロザリオの鎖』です。あらためてページをめくれば、研究者の端くれとしては「泣ける話」ばかりです。例えば、ある日、裕福な友人宅を訪ねた永井夫妻は家に帰ると、言葉を交わします。

「東山さんのおうち立派なものですね、あんなのを文化生活というのでしょう」妻がアッパッパに着替えながらしみじみいう。
「うん、文化生活だ」
「あんな生活、私らには一生かかってもできませんわ」
「あれはぼくらに縁のない文化生活だ、東山さんのは文化を享楽する生活だよ、東山さんたちは文化の消費者なんだ」
「では――わたしたちのは?」
「文化を創作する生活だ、ぼくたちは文化の生産者なんだよ」
「――ほんとに、そうだわ」
 妻は急にほがらかになって、ミシンをコトコトふみはじめた。ぼくは刑務所製の机に向かい、ラウェ斑点の計画に取りかかる――文化の生産工場、六畳の間に、肌脱ぎ向こうはちまきの原子医学者と、アッパッパのデザイナーが脳に汗をかきながら働いている――
――その妻も死に、六畳の間も机も焼け、焼け跡のバラックに戦災者毛布にくるまり廃人の身を横たえているいまの私だ。こんなザマでありながら、私はやはり文化人だと自ら信じている。それは毎日論文を書き続けているからである」

 第2次世界大戦中の軍医としての従軍等で、医者としてレントゲンを浴びすぎ、すでに白血病で余命3年と宣告された永井博士が、自分よりは長生きして子どもたちを見てくれるだろうと思っていた妻を原爆でなくし、自らも被爆したため、もはや身動きできない状態になっても「書き続ける」。研究者としての“業(ごう)”です、としか言いようがありません。

 皆さんはどうですか? 近代文明の消費者か? それとも創造者か? 歩きスマホをしている人たちを見かけると、これが“創造”に結びついて欲しいけれど、しかし、ひたすら消費するだけではないのか、とついつい我にあらず想わないわけではありません。

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 さて、消費者でなければ、よいのか? そんなわけにもいかない、というのが本日のテーマかもしれません。

 というのも、アントン・チェーホフの『退屈な話』にも、また少しニュアンスが異なる表現がでてきます。それは、主人公の「私」ことニコライ・ステパーノヴィッチ某名誉教授が、解剖助手のピョートル・イグナーチエヴィッチを評していう言葉です。

これは勤勉で慎ましいが才能に欠けた男で、35歳でもう頭が禿げ、腹が出ている。この男は朝から晩まで働き、たくさんの本を読み、読んだことを完璧に記憶している-その点では人間離れをした貴重品のような存在だが、そのほかの点では駄馬というか、いわゆる専門馬鹿である。駄馬と才人との特徴的な相違は、前者の視野が狭く、専門の領域内にとらわれていることで、専門外のこととなると、この男は赤ん坊のように無邪気なのだ

 皆さんも、総合政策学部の学生である限り、このようなことはあってはいけません、ということは意識していて下さいね。

この男の将来は私にははっきり見える。この男は死ぬまでに、異常なほどみごとな数百の標本を整備し、無味乾燥で几帳面な多くのレポートを書き、何十点かの良心的な翻訳をするだろうが、目のさめるようなことは何一つ考え出さないだろう

 そして、名誉教授はこう断罪を下します(研究者の世界では、もはやギロチンにかけたようなものです)。

「要約すれば、この男は学問の主人ではなく使用人なのである

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 もっとも、『キャナリー・ロウ』のドックならば、「せめて、学問の“愛人”にとどめてくれないか」とつぶやくあたりではないでしょうか? ということで、本日のテーマは、皆さんにはくれぐれも「学問の主人、あるいは愛人」になるように「勉強してください」ということにほかなりません。
to be continued・・・・・

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...