2017年11月

近代化の象徴としての“帽子”、あるいは帽子屋の憂鬱:ファッションの人類学Part12

2017 11/23 総合政策学部の皆さんへ 日本に帽子がいつ入ってきたか? 皆さん、考えたことはありますか? 例によって、(あまり信用しすぎてはいけないが、一方ではひどく便利な)Wikipediaをひもとくと、「日本では、明治4年8月9日(1871年9月23日)の散髪脱刀令(いわゆる断髪令)により髷を結う男性が激減し、代わって帽子が急速に普及した。西洋から来た帽子は「シャッポ」「シャポー」などと呼ばれ、「和服にシャッポ」というスタイルで男性に普及した(後に洋服も普及)」とあります。

 この「和服にシャッポ」というところがミソですね。一度、小学校の卒業写真を時代を追ってWebで調べた事がありますが、日本の小学生にどのように“洋装”が入ってきたか? それは“頭”、すなわち学帽からなのです。

 例えば、港区教育委員会 デジタル港区教育史の「目で見る港区の教育のあゆみ」には、「卒業記念写真(明治21 桜川小学校)」(https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/image/1310305200/1310305200100230/k004-1.jpg)が載っていますが、男の子は全員学帽をかぶり、かつ和服です。残念ながら男の子の足下はわかりませんが、写真前列の女子生徒は全員下駄のようです。ちなみに、男の子は学帽=近代化の象徴をかぶりながら、女子生徒は全員丸髷のようです。こんなところにも近代化における男女差がでてきます(これは先生方も々で、男性教員が洋装なのに対して、初期の女性教員はたいてい和装です)。

 このようにして学帽 ⇒ 制服・靴、さらに男性教員 ⇒ 男子児童 ⇒ 女性教員 ⇒ 女子児童の順に服装が変わっていく=これが日本の教育現場の近代化をめぐる一景です。さらには、その学帽や制服、靴を生産する企業の勃興となれば、いくらでもレポートのネタはあるはずです。

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 さて、Wikipediaの「学生帽」には「学生帽を最初に導入した例としては、開成学校が、1873年(明治6年)に制定したことが挙げられる。大学の角帽は東京大学(旧制)が1886年(明治19年)に定めたのが始まりと伝えられている」とありますから、上記桜川小学校の明治21年の卒業式は、かなり早い展開とも思われますし、さすがは東京港区とも言えます。

 なお、小学校での洋装化は都市部で急速に進み、同じ「目で見る港区の教育のあゆみ」に掲載の「水飲み場(明治40 本村小学校)」では、女子生徒に洋装かつ靴が普及していることがわかります。

 こうして、学帽は一般的なものとなり、私の子供の頃まで連載されていた横山隆一の新聞連載マンガ「フクチャン」の主人公は最初、「江戸っ子健ちゃん」のフク主人公だったものの、「着物に下駄、大きな学生帽という容姿の幼い男の子で、やがて主人公の健ちゃんよりも人気が出たため、改題のうえ、フクちゃんを主人公に昇格させた」「フクちゃんは元々、学生帽を被っていなかった。前作『江戸っ子健ちゃん』の初期、大学受験のために健ちゃん宅に居候していた「チカスケ」という登場人物が、合格するために自分を追い込むつもりで先に学生帽を買ったが受験に失敗し、進学を断念して帰郷することになったため、フクちゃんがそれを譲り受けて以来、トレードマークになったものである」というストーリーになっています。少なくとも、当時の新聞読者にとって、学帽をめぐるこうした展開はごくあたりまえのこととしてうけとられていたわけです。

 ところで、私にとって「帽子屋」と言えばつい思い出すのが、20世紀初頭のイギリスのベストセラー作家アーチボルド・ジョゼフ・クローニンの出世作『帽子屋の城』です。ただし、何しろ中学時代に読んだっきりですから、利己的な主人公(=帽子屋)とその一家がやがて悲惨な人生をそれぞれたどっていくという陰惨な印象しか残っていません。
 そしてもう一つは、言うまでもなく、皆さんご存じの『不思議の国のアリス』の「狂ったお茶会」に登場するいかれ帽子屋( The Mad Hatter)ですね。

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 帽子の普及は当然、帽子屋あるいは帽子屋産業の勃興をともないました。ところが、その帽子が、近年、生産数が落ち目になっている。例えば、大阪府が平成12年に出しているpdf資料では「帽子屋業界の構造」として、「全国の帽子業界の規模をみると、平成9年で事業所数301、従業者数3,299人、製造品出荷額等313億71百万円となっている(通商産業省『工業統計表』、従業者数4人以上の事業所)。近年の推移をみると、事業所数、製造品出荷額等は7年にピークをつけており、9年は7年に比べ、それぞれ9.9%減、19.3%減となっている。5年と比べても、1.0%減、5.7%減となっている。このように帽子製造業は、事業所数、製造品出荷額等ともに減少及び低落傾向で推移している」とあります。

 こうして日本の近代化の一側面として発展してきた帽子が、いまどんな状態にあり、また、今後どうなっていくのか、そのあたりをしばらく見ていくことにします。

 to be continued ・・・・・・

狂を発することについて:研究者とは何かPart3

2017 11/5 総合政策学部の皆さんへ

 近年、言葉の扱いがなかなか微妙になり、例えば、「狂人」という言葉も、ワープロではすぐに変換できないようになっているようです。

 しかし、「狂」という言葉には、そうした差別的なイメージをさらに逆転させるパワーも潜んでいる、そんな気もします。例えば、昭和26年に永眠された永井隆博士の『ロザリオの鎖』には、研究に没頭するご自分を「反狂人」とする表現がでてきます。冒頭の一節、「ロザリオの鎖」のp.2には、

その上、私の妻という仕事、半狂人の世話もせねばならなかったのである。
 一つの新しい研究にとりかかると、私の人間が変わる。研究主題に全心を奪われてしまう。それを一通りまとめて、さて我が新機軸を考案する。実験装置をつくる。いよいよ実験にかかる。何カ月かで成績がでる。それをまとめて、論文を書く。校正をする。という経過なのだが、その間は研究以外のことは頭にはいらないのである。話しかけられれば答えはする。めしを出されれば食う。子供が泣けばにらむ。しかし、何を言ったのか、何を食ったのか、何をしたのか私は覚えない。大学から帰る道で妻と行き会いながら、知らずに通り過ぎたことが二回あったそうである。あとで妻から聞いて、ほうと私はいった。そんな時には私の眼は宙を見すえていて、口の中で何かぶつぶつ言っているので、気味が悪いそうである。「まるで夢遊病者の看護をしているようですわ」と妻が言ったことがある

 正直、同じ研究者として、いや、すごいなあ! と感嘆のほかありません。私のような“やくざ”な人類学者で、かつフィールドワーカーにとって、研究とはフィールドで生活することにほかならず、どうしたって、あれこれの雑事にも考えをめぐらさざるを得ない。アフリカで、電気も水道もガスもないところで(3年も)暮らすということになれば、自ら衣食住にも気を配らねばならぬ羽目に陥ります。

 もちろん、フィールドでの衣食住へのこだわりが昂じてしまえば、「(あの先生は)現地のフィールドで生活を楽しんでいるのか、研究をしているのか、よくわからなくなる」と私の先輩が慨嘆するような事態にもなりかねない・・・・。それはさておき、私には、永井先生のように心底研究に没頭するという生活は、まったくできません。そういう意味で、人類学など本当に“やくざ”な商売だと慨嘆してしまいます。

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 ところで、この「狂を発す」。 この「狂」の意味として、デジタル大辞泉では、「(1)気がくるう、(2)行為などが正常の域を外れる。正気とは思えないさまである、(3)こっけいな様、(4)激しくひどい。荒れくるう」と記されていますが、永井博士の真意はいうまでもなく(2)が主眼ながら、ご本人も自らの様を(1)にも近いかな、と感じているようでもあります。

 さて、この「狂」をあえて自らの名前にする! この言葉がもつ呪術的パワーを我が身にも! という例が、古来、いくつか見られます。例えば、自らの雅号に「狂」を付けた者として、杉浦日向子の傑作コミック『百日紅(さるすべり)』の主人公葛飾応為の父にしてこれまた破天荒な鉄蔵、こそ葛飾北斎で、一時期「画狂人」「画狂老人」と号します。

 その北斎に影響を受けた歌川国芳の弟子の一人が河鍋暁斎です。この暁斎という雅号自体が、はじめは狂斎だったとのこと。Wikipediaによれば、「安政5年、狩野派を離れて「惺々狂斎」と号し、浮世絵を描き始め戯画・風刺画で人気を博した。(略)ほかに酒乱斎雷酔、酔雷坊、惺々庵などの号があり、文久3年、歌川派の絵師による合作「御上洛東海道」に参加した。明治4年以後、号を「暁斎」と改める。明治18年(1885年)には湯島の霊雲寺の法弟になって是空入道、如空居士と号した。幕末期は、『狂斎画譜』『狂斎百図』などを出版したほか、漢画、狂画、浮世絵それぞれに腕を振るった」。なお、「自らを「画鬼」とも称した」そうですから、“狂”に“鬼”、まさに最強のキャラと言えるでしょう。

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 絵画の才にも「狂」が必要だとすれば、政治の世界でそれに触れたのが皆さんご存じの吉田松陰にほかなりません。

 2017年9月10日付けの朝日新聞でも「松蔭 過激な革命家」というタイトルで指摘していますが、安政5年に藩主に上申した書はタイトルが『狂夫の言』(国立国会図書館デジタルライブラリー『慨士遺音. 前編 巻之上』)、「天下の大患は、其の大患たる所以を知らざるに在り。いやしくも大患の大患たる所以を知らば、いずくんぞ之が計を為さざるを得んや」で始まります。松蔭はさらに「狂愚誠に愛すベし、才良誠に虞るベし」と断じて、弟子たちに「諸君、狂いたまえ」という言葉を残して、安政の大獄により死を迎えます。守旧派たる幕府に対する過激派の精神的バックボーンと化すわけです。

 この師の影響を受け、弟子達は「狂う」をキーワードに倒幕へと邁進することになります。例えば、弟子の筆頭ともいうべき高杉晋作は、西行をもじって東行と号していましたが、やがて「西海一狂生東行」「東行狂生」などと自らを記します(伊藤之雄『山県有朋:愚直な権力者の生涯』)。

 その影響をさらに受けて、明治から大正にかけて陸軍保守派の黒幕として名をはせる(そのためその葬式は国葬でありながら。肝心の“国民”が集まらなかったとも噂が残る)山県有朋も、狂介、狂助、狂輔となのり、元治元年には髪をそって「素狂」と号するようになります

 私の手元にある『木戸孝允日記』(筑摩世界ノンフィクション全集版)を調べると、明治4年6月13日の条に、「今夕、山県素狂が来話。その主意は、今日、西郷吉之助が山県を訪い、さいきん朝廷における議論が紛糾して一致せぬのを憂え、城戸をして諸参議の首位に立たしめ、もって天下の重責を担わしめんとと欲す。余は平生、国家の難にさいして身を避けぬと心に誓う。しかりといえども、今日の事はおのずから、余が諸参議の上に立つ部カラザルの道理あり。故に心中もとより決着し、容易に応諾せざるなり」とあります。ちなみに、その前後、伊藤博文は伊藤芳梅、井上馨は井上世外とそれぞれ雅号をもって、記述されています。

 その山県がやがて「狂」の言葉を捨てて、有朋、あるいは雅号に「含雪」と格子始めるのが、はやくも明治4年。もっとも、山県の庇護者であった木戸は必ずしもこれに同意するわけでなく、日記中に「有朋」と呼ぶようになるのは明治8年以降。これは、反幕テロリズムの思想的支柱としての吉田松陰からの脱却を無意識のうちに図ろうとする山県と、必ずしもそれになじめない木戸孝允の微妙な立ち位置を示唆しているのかもしれません(伊藤之雄『山県有朋』)。とくに明治後期から大正にかけて、「一回の武辺」と自称、政界の黒幕としてのイメージを濃くする山県が、「狂」のイメージから足抜けを図ろうとする時こそが、明治政府中枢部の意識の転回点、すなわち「革命家」から「権力者」へとの性格を転じる過程を示唆させるものです。

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 その一方で、師吉田松陰に対して微妙な立場の変化を見せるのが、山県の盟友伊藤芳梅あるいは伊藤春畝こと伊藤博文です(瀧井一博『伊藤博文』)。伊藤は、後年、松蔭に対して以下のように評しているそうです。

松蔭は、まったく攘夷論者でも倒幕論者でもない」。しかし「やはり過激だ。政府を苦しめている。政府のほうにはわかっていることも松蔭は知らずにやっていることもあったらしい」と。そして、松蔭はいまの政党(=明治政府を苦しめている民党の連中)の首領のようなものだった、と指摘する。その上で、伊藤は「当時の攘夷論はまったく精神から出たので、政略から出たものではなかった」と断じています。

 さらには往事を回想して、倒幕の頃には政敵だった(その結果、切腹までさせている)長井雅楽をもちあげ、「長井の論は「日本はどうしても一致しなければならぬ。開国をするにも、鎖国をするにも、公武合体した上で、どちらかに定めなければ、真の開国でも鎖国でもない、ともかく日本の一致を計らうと云ふのが、その眼目であった」としてその見識を讃え、「あの頃の人ではよほど目は見へていた」と評している」

 実はこの伊藤こそ、歴代総理大臣のなかでただ一人、平時(戦闘ではなく)に殺人を犯した真正のテロリストあがり、それが「過激な精神主義者松蔭よりも、冷静に日本の行く末を熟慮し、そのための制約を重んじた(かつての政敵)長井の方に共感を示」すに至る。山県が吉田の影響から脱して保守化すれば、伊藤は同じく影響から逃れることで一種リベラル化する。彼らはそれぞれ幕末・明治の時代、「狂を発する」ことの重みと、「狂だけではやっていけない」現実のバランスに翻弄されながら、新国家建設に苦闘したわけです。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...