2017年12月

なにゆえに、今津線はほぼ直線か? 小林一三と阪急文化圏、そして関西学院Part3

2017 12/25 総合政策学部の皆さんへ

 話のネタとして、“関西学院と小林一三”、尽きることがありません。「鉄道を起点とした都市開発、流通事業を一体的に進め、六甲山麓の高級住宅地、温泉、遊園地、野球場、学校法人関西学院等の高等教育機関の沿線誘致など、日本最初の田園都市構想実現と共に、それらを電鉄に連動させ相乗効果を上げる私鉄経営モデルの原型を独自に作り上げた(Wikipedia)」という彼の業績を振り返ると、つくづく大した方だと思います。

 そこで、本日とりあげるのは関学上ケ原キャンパスにもなじみ深い今津線(というよりも、この今津線隆盛のため、多額の赤字をかぶっても1929年の関学上ケ原移転になみなみならぬ情熱を傾けた小林です)、移転当時は西宝線です(西宮-宝塚というわけですね。その後、今津駅まで延伸して、今津線になります。この時、西宮北口駅で“平面交差(ダイヤモンドクロス)”が生じますが、それはまた別の機会に)。

 有川浩の小説『阪急電車』の舞台となり、2011年には映画化もされたこの路線ですが、Webで見つけた明治44(1911)年の西宮市の地図にはまったく載っていません。それどころか、その周囲には田んぼばかりで、市街も存在しない。文字通り“武庫の平野”に田園が広がり、そこをつききるのは旧西国街道(現在の国道171号線がほぼ平行に走っています)ぐらいなものです。そこに宝塚から西宮まで、ほぼ直線に延びる宝塚線。その直線性の秘密です。

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 阪急電鉄の前身が1907年設立の箕面有馬電気鉄道だったことはよく知られていますが、営業開始は1910年3月10日、現在の宝塚本線(梅田-宝塚)と箕面線(石橋-箕面)でした。その宝塚線は能勢街道沿いにルート選択、そのためカーブの連続で、現在に至るもスピードアップが困難ということが知られています。また、駅の間隔がつまっていて、特急などの高速運転に不適なため、基本は急行での運行です。

 1907年、東京の三井銀行から関西に転じ、当初は証券会社をめざすも挫折した小林一三は、この宝塚線(当時は、周辺に家もなく、田畑を縫うように走る「ミミズ電車」というあまりありがたくない徒名までついていました)の経営について、沿線土地をあらかじめ買収、宅地造成月賦販売による「乗客の創造」をおこなったことはつとにしられていますが、同時に、線路を直進させることの重要性もまた身にしみて感じたに違いありません。

 そのためか、西宝線(現、今津線)はこちらも当時はほとんど家がなかった武庫川右岸を宝塚からほぼまっすぐ南下、西宮で神戸線にほぼ直角に交わる形で接続したのでしょう。また、これ以前に手がけた1920年開業の神戸本線(梅田から当時は神戸駅とした旧上筒井駅=原田の森キャンパスそば)もまた、ほぼ直線的な路線になっています。

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 さて、現在、上ヶ原キャンパスの学生の多くが乗り降りする甲東園駅は1921年の開業当初は存在せず、1922年にこの付近に果樹園を経営していた大地主芝川氏からの土地提供により新設されたものです(ちなみに“甲東”とは、甲山から見て東という意味で、1889年に合併した時の命名とのこと)。仁川駅はさらに遅れて、1923年の開業になりますが、当時、下流から上流にかけて展開中だった武庫川改修が関係します。

 兵庫県の「武庫川水系河川整備計画(平成23年8月)」によれば、「武庫川下流部において築堤、河床掘削などの本格的な改修が始まったのは、大正9年である。阪神国道(現国道2号)の工事に関連して県が改修に踏み切り、第1期工事として大正9年から大正12年にかけて東海道線以南の約5kmを改修した。費用は、武庫川の派川である枝川、申川の廃川敷の売却益を充当したものである。第2期工事は、大正13年から昭和3年にかけて、東海道線から逆瀬川までの約8kmで行われた」とありますが、甲東園・仁川両駅の開設とほぼ同期していることはおわかりになるはずです。

 ちなみに、上記の文中、「枝川、申川の廃川敷」とある一部には甲子園球場が建っています。また、仁川・武庫川の合流点の改修は同時に、武庫川右岸に広大な敷地を出現させ、そこに進出した企業に当時の川西航空機(現新明和工業)があります。第2次世界大戦が始まった翌年の1940年12月に当時の良元村に建設決定、1941年5月に工場建設を開始し、日本が対英米戦に踏み切る12月に操業を開始します。実は、関西学院では1944年10月に勤労動員課を新設して、兵庫県三原郡陸軍飛行場設営工事、三菱電機神戸工場、日本パイプ園田工場と並んで、この川西航空機宝塚工場などにも学生を送り込んでいます。

 こうして武庫川改修とともに、阪急西宝線が開通、さらに関西学院(1929年)や神戸女学院(1933年)などの移転も加わり、現在の武庫川周辺の住宅地域が形成されます。このあたり、阪急の歴史、住宅地開発の歴史とあわせて、関学の歴史としても覚えて置いて下さい。

日本の近代化と人々のキャリアPart 3:はては相撲取りか、大臣か?

2017 12/7 総合政策学部の皆さんへ

 明治維新という文化大革命のさなか、その時代を生きる人びとはこれから辿るべき前途に戸惑います(勝海舟が「時世で人が出来て、逆境がよく人をこさえるということは、事実を私は確かに見ました」と喝破する時代です)。みんな、自分にどんな運命が待っているのか、神ならぬ身、判断の付けようもありません。

 例えば、革命の最大の功労者たる西郷隆盛がその10年後には反逆者として自死に近い戦死をとげようとは! あるいは西郷・勝会談を経て江戸無血開城により謹慎・逼塞を余儀なくされた最後の将軍、徳川慶喜が西郷・勝よりも、さらにはハルビンで暗殺された伊藤博文よりも、そして明治大帝よりも生き延び、 大正2年(1913年)11月22日に76歳で大往生をとげようとは!

 また、官軍(明治新政府)への最後の抵抗者となった榎本武陽が明治政府に出仕、駐露特命全権公使を経て、外務大輔、海軍卿、駐清特命全権公使を務め、さらに逓信大臣・文部大臣・外務大臣・農商務大臣などを歴任、華族として子爵に陛爵されようとは、1868年1月3日の王政復古の時点で予想していた方もいないでしょう。

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 さて、幕末・明治初期、自らのキャリアでもっとも迷った例の一つに、後世の第16・22代内閣総理大臣山本権兵衛が戊辰戦争終了後、軍人としての出世に見切りをつけ、体力に自信があったので相撲取りにでも、と当時の薩摩藩お抱え力士陣幕久五郎に盟友(後の海軍大将)日高壮之丞とともに相談に訪れると、「あなた方は頭が働きすぎるから、相撲取りには向かない」とすげなく断られ、結局、海軍軍人として再出発したという逸話があげられるでしょう。相撲取りと総理大臣、最終的にどちらがよかったのか、若い日々には判断が付きにくい! なお、山本は1902年に海軍大臣として男爵に、そして1907年には日露戦争での活躍によって伯爵に陛爵されています。

 ちなみにこの陣幕、Wikipediaによれば、明治6年6月6日、「大阪造幣寮での天覧相撲において大阪相撲頭取総長として取組を編成したが、陣幕が決めた編成に西郷隆盛が納得せず、強引に大関・八陣の対戦相手を務めるように命じられた。当時既に引退から3年が経過していたために勝利することなど出来ず、『行在所日記』には「東方薩摩の陣幕は 大坂の八陣に負けたりければ 流石の西郷も座に耐えずして 蒼惶として拝辞して退きけるとぞ」と書かれている。これが元で明治13年9月場所限りで廃業し、実業家へ転身した」とあります。もっとも、この西郷もこの6月より征韓論で紛糾、自ら全権大使(遣韓大使論)として朝鮮に赴くという提案をめぐって激論、いったんは派遣案が決まったのが同年8月17日、天覧相撲にまで口を差し挟む余裕があったのでしょうか?

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 ところで、この明治6年には、1月12日徴兵令開始、2月24日キリスト教禁令撤廃、3月14日外国人との婚姻に関する規則公布(太政官布告第103号内外人民婚姻条規)、5月9日銀座煉瓦街一部竣工、7月20日第一国立銀行設立(のち、第一銀行、第一勧業銀行をへて、現みずほ銀行)、7月28日地租改正法公布、9月13日岩倉使節団帰朝、10月25日明治六年政変(上記、西郷隆盛の征韓論挫折、参議辞職)、11月10日内務省設置(西郷の政敵になってしまった大久保の主導)と慌ただしい限りです。

 ちなみに、今や経営が揺れている東芝こと東京芝浦電気の創設者にして、佐賀藩出身からくり義右衛門こと田中久重が満を持して東京に出府したのがこの明治6年ならば(東芝の元祖、田中製作所設立が明治8年)、越後から上京、幕末、塩物商いの手伝いから鰹節店での丁稚見習い、塩物商として独り立ちしながら、黒船に触発されて一転、鉄砲店に見習いに入り、死の商人として独立、鉄砲店大倉屋を開業、明治元年、官軍の御用商人に出世した大倉喜八郎が銀座復興建設工事請け負いから東京会議所の肝煎となるのもこの前後です。

 と思えば、七代目市川團十郎の5男堀越秀が、養家の河原崎座の七代目河原崎権之助を襲名しながら、河原崎座復興を置き土産に宗家市川家に戻り、不世出の名優九代目市川團十郎を襲名するのは翌明治7年7月、37歳の時でした。ちなみに、若い頃は「大根」だの「お茶壺権ちゃん」だのと酷評されたという九代目が「劇聖」とまでに謳われるそのきっかけの一つは、「明治元年秋には浪人の押し入り強盗によって養父が自宅で刺し殺され、自身も納戸に隠れて九死に一生を得るという惨事に遭遇。そのときに聞いた(瀕死の)養父の呻き声は終世忘れる事ができなかったという」体験だそうです。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...