2018年1月

キプロスにとって、国王ジャック2世の嫁選び=配偶者選択は良い結果をもたらしたのか? 『ルネサンスの女たち』補遺

2018 1/20 総合政策学部の皆さんへ

 タイトルを目にして、「あの話か」と気付いた方には「西洋史の素養が十分にお持ちの方」と認定したいところですが、塩野七生の出世作『ルネサンスの女たち』の中で、もっとも主体性に乏しい印象が漂う“ベネツィア女”のカテリーナ・コルナーロにまつわるストーリーです。

 カテリーナの夫、キプロス王ジャック2世はカテリーナとの婚姻で強国ヴェネツィアからのバックアップを期待しますが、1年にも満たない新婚生活のあとで急死します。生まれた男子ジャック3世も1歳で死んだあと、カテリーナは数奇な運命に翻弄されていきます。結局のところ、キプロスはヴェネツィアに植民地として併合されるという亡国への道を歩みます。

 ところで、こうした“王様”の配偶者選択の妙手が、皆さんよくご存じのハプスブルグ家、婚姻による領土獲得に邁進し、「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」と詠われます。が、その話はあとにとっておいて・・・・

 さて、ジャック2世(1438/39/40~1473)に話を戻して、彼はキプロス王、名目上のエルサレム王、キリキア・アルメニア王(在位1464~1473)を兼ね、あだなを私生児ジャック(Jacques le bâtard)。ここからおわかりのように、先王ジャン2世が愛妾マリエット・ド・パトラに産ませた庶子です。そのためか、Wikipediaでも生年が1438~1440とはっきりしません。キリスト教社会では、嫡出子(=カトリックの教義における七つの秘蹟の一つ、婚姻の秘跡に祝福された正妻から生まれた子供)以外は、正式な相続はできない=「たてまえ」になっています。

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 この庶子は、しかし、父親ジャン2世はかわいがられます。といっても、王としてのたてまえ上、王位につけるわけにはいかず、「1456年には16歳のジャックにニコシア大司教の聖職」を授けます。「お前は俗界での出世を望めぬ以上、聖界の上位で満足してくれ」というわけです。一方で、ジャン2世の正妻エレニ・パレオロギナ(姓からわかるとおり、東ローマ皇帝パレオロガス家出身、皇帝ヨハネス8世の姪)には憎まれ、「母マリエットは王妃に鼻を削がれるなど、迫害を受けた」とのことです。まるで絵に描くような王家の家族内対立です。

 ところで、正妻エレニには嫡出子であるが、娘のシャルロット・ド・リュジニャンがいました。ジャックにとっては異母妹にあたります。ここキプロスでは、女性が王位を継げないサリカ法典があるゲルマン民族と違い、ジャン2世の死後、14歳のシャルロットが王位を継ぐことになります。しかし、その治世は「最初から困難な状況に置かれた。後ろ楯が無く幼い女性統治者の王位の正統性は、王位を狙う庶兄のニコシア大司教ジャックからの挑戦を受けた。1459年10月4日、シャルロットは従兄にあたるジュネーヴ伯ルイ・ド・サヴォワと再婚した。この縁組は、大司教派と争うシャルロット女王派への支持を約束したジェノヴァ共和国がお膳立てしたものだった」(Wikipedia)。

 しかし、「1460年、エジプト・マムルーク朝のスルタン・アシュラフ・イーナールの支援を受けた大司教ジャックの軍勢は、ファマグスタおよびニコシアの制圧に成功した。シャルロットは夫ルイとともに続く3年間、キレニア城での籠城を余儀なくされた。女王夫妻は1463年に城を出てローマに亡命し、大司教がジャック2世として王位に就いた」(Wikipedia)。ここまで出てきた外国権力は東ローマジェノバ、そしてマムルーク朝を数え、この小国キプロスがその地政学的位置によって他国の勢力のバランスの上にかろうじてなりたっていることを示唆させます。

 ということで、本日のテーマは、(1)有力国の影響に苛まされる小国の運命、(2)女性が王権をつげるかどうかという男女同権の話(法的には、サリカ法典的解釈の妥当性)、(3)嫡出子と非嫡出子の関係(財産相続と管理権)、それに(4)小国ゆえの合従連衡を図れば、どこから配偶者を迎えるかという婚姻政策もからんで、思いのほか複雑だと思っていただければ幸いです。

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 そこでジャック2世が頼ったのは、もう一つの有力国、ヴェネツィア共和国というわけです。もちろん、婚姻政策=政略結婚です。ヴェネツイアからの援助をあてこみ、1468年7月30日に14歳のヴェネツィア門閥貴族の娘カタリーナ・コルナーロと代理結婚式を挙げたあと、4年も待たせてから、1472年にキプロスのファマグスタにおいて正式の婚礼をあげます。

 このあたりの呼吸はわかりますか? 異母兄妹間の嫡出性をめぐる争いが(当然、政治と宗教と文化がからまっています)、ジェノバとヴェネツィアという当時イタリアの2大海洋王国の“代理戦争”の様態に変化していくわけです。もちろん、両海洋王国にとって、キプロスは通商上、重要な拠点になりうる。そこには、後年の“民族国家”の概念はみじんもなく、そこに生きている人たちの意思を確認する気さえない、わけです(一方に肩入れするにも、“金”がかかるわけで、当然、その見返りを考えないわけはない)。

 そして、結婚の数か月後、1473年にジャック2世はなんと急死してします。「一説によると、彼の死はヴェネツィア共和国のスパイ(おそらくカタリーナの叔父)による毒殺だった疑いがある」(Wikipedia)。あっと驚くべき展開なのですが、ジャックの死がヴェネツイアの陰謀であるかどうかは別にして、残された新婦カテリーナが妊娠中であることを奇貨として、ヴェネツィアはカテリーナの権力維持に腐心します(すでに、あわよくばこのままキプロス乗っ取りをめざしていたにちがいありません)。せっかく生まれたジャック3世ですが、こちらも戴冠して1年後に幼くして死にます。すると今度はカテリーナを女王の座につけて、陰謀をはりめぐらします。そのあたりは、是非、『ルネサンスの女たち』をご覧下さい。

 こうした一連の(昼ドラさながらの)過程を経て、カタリーナは1474~1489年にかけて女王として治めたのち、故国ヴェネツイアに王国を譲渡する形でキプロスを去ります。「2月14日に、黒いドレスをまとった女王は男爵や侍女らに付き添われつつ、馬に乗って王宮を離れた。6名の騎士が女王の騎馬の手綱をとっていた。王都ニコシアを去るときの女王の目には涙が溢れていた。すべての民草が女王との別れを惜しんで嘆き悲しんだ」(Wikipeida;原文はThe chronicle of George Boustronios, 1456-1489)。

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 よかれと思って実行した政略結婚が、かえって故国の主権を失う事態を招く。これはデーン人の侵略に耐えかねて、ノルマンディー公国との婚姻政策をすすめながら、それが1066年のノルマン・コンクエストの遠因となってしまうイングランド王エゼルレッド2世無思慮王にも比すべき政治的失敗かもしれません。

父と子:日本の近代化、あるいはその同時期における親子関係について

2018 1/7 総合政策学部の皆さんへ 近代化における父と子、どうしてなかなか複雑です。例えば、明治維新という“文化大革命”が進行するなか、子は“父”をどう見ていたか? あるいは父は“子”をどう見ていたか?

 一例をあげれば、薩摩藩第11第藩主として幕末随一の名君として名高い島津斉彬も、保守派にすれば「(斉彬が)青年期まで存命であった曽祖父第8代藩主重豪の影響を受けて」洋学にうつつをぬかし、藩主におさまれば「重豪のように公金を湯水のごとく費やし、藩財政の困窮に一層の拍車をかけかねない」と危惧されたあげく、実父である第10代藩主島津斉興も家督相続をしぶり、あげくに異母弟の久光支持派との間で、「お由羅騒動/高崎崩れ」と呼ばれるお家騒動さえ起きとされます(一方で、斉彬自身は藩主就任後、お由羅の方や久光に報復しようとはせず、勝海舟は「その大量には驚きいるよ。余程人に厚かったのだ」と称揚しています)。

 一方、水戸藩第9第藩主徳川斉昭は一橋家に養子にだした第七子徳川慶喜を将軍につけようと画策しますが、当の慶喜は当の父に「骨が折れるので将軍に成って失敗するより最初から将軍に成らない方が大いに良い」と書き送っているとのこと。「親の心、子不知ず」を地で行く話です。

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 斉興も斉昭も、親父たちはそれなりに頭を廻らして手をまわしますが、それは所詮「昨日のことから、今日を考えること」に過ぎません。一方、一世代若い息子たちは「今日のことがらから、明日を考えようとする」。だって、時代が変わっているのですからね。『鏡の国のアリス』の赤の女王の決めぜりふ、“その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない(It takes all the running you can do, to keep in the same place”をまた思い出してしまいます。

 つまりは、父子の相克というよりも、歴史的な必然的矛盾でもありますが、そうと言っても、この「先が見えすぎる息子たち」斉彬でも慶喜でも立場が立場ゆえ、父親から完全に離れることはできない。強烈すぎる“親父”のイメージを引きずってしまう。

 そう言えば、維新の三傑のうち、西郷隆盛の父西郷吉兵衛が死ぬのは嘉永5年9月、隆盛24歳の時、その西郷の盟友にして最終的には政治的敵対者となってしまった大久保利通の父大久保利世が上記お由羅騒動で失脚、遠島になるのが嘉永2年で利通19歳。二人とも、若いうちから父と離れ、独り立ちすることを迫られたことが、彼らの人となりを形づくっていったのかもしれません。

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 そこはそれ、人の世はさまざまです。言うまでもなく、すべてを“息子”に託す、という生き方もまたあります。その先駆は、1802~50年にかけて小普請組から生涯抜け出すことができなかった49歳の人生を、しかし、「吉原遊びをし、着道楽で、喧嘩を好」み、「腕っぷしも剣の腕も優れ、道場破りをして回り」ながら駆け抜けた典型的“不良旗本”、勝左右衛門入道、夢酔老こと勝小吉かもしれません。

 「おれほどの馬鹿な者は世の中にもあんまり有るまいとおもふ。故に孫やひこのために、話して聞かせるが、能ゝ不法もの、馬鹿者のいましめにするがいいぜ」という宣言とも、捨て台詞ともつかぬ高言で始まる『夢酔独言』の序文には、しかし、自分という鳶から産まれた鷹とも言うべき息子、勝海舟について「息子がしつまい(実米?)故に、益友をともとして、悪友につき合わず、武芸に遊んでいて、おれには孝心にしてくれて、よく兄弟をも憐、けんそにして物を遣わず、そ服をも恥じず、粗食し、おれがこまらぬよふにしてくれ」ていると称揚しています。ちなみに、小吉が息子・娘(娘とは、のちの佐久間象山室、勝順子か?)がよく尽くしてくれるので、「今は誠の楽いん居になった」と書き始めた天保14年(1843年)は海舟21歳。

 実は、海舟は幼少時、「親類・阿茶の局の紹介で江戸幕府11代将軍徳川家斉の孫・初之丞(一橋慶昌)の遊び相手として江戸城へ召され」るも、「慶昌が天保9年に早世」したため、青雲への道を踏み外し、小吉は落胆のあまり、15歳の息子に録を譲って隠居した次第。海舟はそれにもめげず、剣は直心影流免許皆伝、禅や山鹿流兵学をまなび、蘭学は住む永井青崖に弟子入(修行中、辞書『ドゥーフ・ハルマ』を2部筆写、1部を売却して損料を払ったという話は有名)、さらにのちの義弟佐久間象山の勧めで西洋兵学を修め、小吉没年頃には私塾(蘭学と兵法学)を開くまでにいたります。

 もっとも、小吉が人生50年に少し足らぬあたりで人生を閉じた時にはまだ、海舟は幕府体制で最下層の小普請組のまま。その出世は小吉死後3年を経たペリー来航の際、老中首座阿部正弘による海防意見書募集で、その目にとまるまで待たねばなりません。つまり、この時に、“時代”が動き出すのです。これが乱世というもの、イギリスの近代的官僚の走り、サミュエル・ピープス君だって、「「蛟龍ついに池中の物ならず」と言われるが、ピープスは例え龍ではなくても、決してめだかではなく、大ナマズ程度までゆくことはたしかだろう」(臼田昭『ピープス氏の秘められた日記』)と謳われていますが、それも清教徒革命と名誉革命の狭間ゆえの乱世ゆえでありましょう(そう言えば、ピープスはしがない仕立屋の息子から、実質的な海軍大臣に出世、「イギリス海軍の父」とまで謳われますが、海舟は「日本海軍の生みの親」とも称されています)。

 そして、その海舟が親父譲りの41石とりの境遇から、慶応4年(1868年)1月17日、鳥羽伏見の戦から逃げ帰った徳川慶喜から海軍奉行並み、さらに23日には陸軍総裁に任ぜられ、3月13日・14日に慶喜から全権を委任され、官軍の西郷隆盛と会談するまでに至るとは、『夢酔独言』執筆時の小吉には想像だにできなかったでしょう。

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 一方、明治維新からの日本の近代化とほぼ同時代、同じく近代化を夢見るロシアの片田舎では、「強欲かつ好色な成り上がり地主フョードル・カラマーゾフが」(自分とほぼ同じ分身)直情的な長男のドミートリイと遺産相続や、グルーシェンカという女の奪い合いで、いがみ合っていた。ある日、三男の修道僧アレクセイの師、高僧ゾシマの仲介で、ばらばらに育ったカラマーゾフの兄弟3人が一堂に会すこととなった」(Wikipedia)。

 これが皆さんご周知のドストエフスキー原作『カラマーゾフの兄弟』の冒頭ですが、これが同時代の作家ツルゲーネフの『初恋』では、16歳の少年ウラジーミルが「年上の美しい女性、ジナイーダに主人公は淡い恋心を抱く。だが、ジナイーダはいわばコケットで、彼女に惚れる何人もの「崇拝者」達を自身の家に集めては、いいようにあしらって楽しむような女性だった」、そして「自分が見下さなければならないような男には興味が無いの。私が興味があるのは、むしろ自分を服従させる人だけ」と言うジナイーダがある日「誰かと恋に落ちたのだと」「ある日彼女の恋の相手の断片的な情報を掴んだ主人公は、その正体を知るべく、嵐の晩に彼女の家のそばの茂みで待ち伏せする」。しかし、ウラジミールは「その男の姿を見て主人公は愕然とした。その男は…主人公の父親だったのだ」(Wikipedia)。

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 もっとも、“女好き”のところは、フョードル・カラマーゾフも、ウラジーミルの父ピョートルも、そして小吉も変わりありません。なにしろ小吉は弱冠16歳で「吉原初遊び」、「兄貴の役所詰に久保島可六という男があったが、そいつがおれをだまかして吉原へ連てゆきおったが、面白かったから、毎ばん毎ばんいったが、金がなくって困っ」たあげくに、御金蔵に納めるはずの年貢7千両から百両ほどを盗んで、「おれは其金を吉原へもっていって、壱月半斗りにつかってしまったが、夫から蔵宿やほうぼうを頼んで金をつかった」という顛末です。やがては一種の“顔役”のような存在になっていくことになります。

 さて、日本とロシアそれぞれ激動の時代(思えば、この半世紀後に両国は満州の広野で激突することになるわけですが)、ひたすら個人的な欲望に“素直”に引きずられていくこれらの父親たちから、息子たちは何を学んだか? カラマーゾフの作者ドストエフスキーは「多くの女性たちと複雑な恋愛関係を持ったが、それは直接的にも間接的にも作家活動に影響を及ぼした。最初の妻マリアは既婚であり、後の恋人ポリーナ・スースロワとの交際も屈折したものだった。2番目の妻であるアンナは家政をみるだけでなくドストエフスキーの速記役でもあるが、彼女たちはただ伝記のなかに現れるばかりでなく、小説中の登場人物のモデルとも考えられている」(Wikipedia)とあるように、その賭博好き(アンナが描くドストエフスキー伝に活写されています)とあいまって、やはりカラマーゾフの息子としての資格が十分にありそうです(『カラマーゾフの兄弟』の三男、聖者のように見えるアリューシャさえも、友人に「きみはやっはりカラマーゾフなんだな、正真正銘、カラマーゾフなんだ-つまり、血筋や遺伝もそれなりに意味があるってわけだ。父親ゆずりの女好きで、母親ゆずりの神がかりってわけだ」と喝破されてしまいます。

 一方、ピョートルの息子ウラジミールことツルゲーネフは、父親が語った「女の愛を恐れよ。この幸福を、この毒を恐れよ」との言葉をまもってか、生涯独身を通したことが知られているます。そして、海舟は・・・というあたりでto be continuedとしましょう。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...