「あるいは帽子屋の憂鬱」再訪:ファッションの人類学Part13

2018 2/24 総合政策学部の皆さんへ

 日本人はいつから(西洋風)帽子をかぶり、そして、いつからそれが“近代化”の象徴として、全国に普及していったか(コドモには学帽として、丁稚にはハンチング、紳士には“ハット”、そして行楽には麦わら帽)、これが「近代化の象徴としての“帽子”、あるいは帽子屋の憂鬱:ファッションの人類学Part12」のテーマでしたが、その続編です。

 まず、幕末、はじめて(西洋風)帽子をかぶった日本人は誰か? 例えば、高橋是清、「ネクタイ考:ファッションの人類学Part 8」などですでに何度もご紹介済み、幕末、アメリカに渡航したら奴隷契約の境遇に落とされ、そこからなんとか脱出、帰国した際旧藩主にお会いした時、“ネクタイ”をはめていて家臣にとがめられると(首巻きと間違われた!)、「これはネクタイでありまして、つけているのが礼儀です」と応えた是清君ですが、その『自伝』では慶応三年春、アメリカに解こうする際、「いよいよ洋行するについては、断髪して洋服を着ねばならぬ」と決断しますが、ろくに仕立屋があるはずもないし、もちろん、帽子屋だって存在していない。

 そこをなんとか「その頃はやっていた白金巾の綿ゴロにで、チョッキとズボンをこしらえ、黒の絹ゴロで上着をこしらえたが」に続いて、「帽子はフランス形を板紙でこしらえ、それに白い布きれで後ろの方に日除けをタラしたものだった」とあります。一番困ったのが靴で、当時まだ14歳、子供用の靴はなく、「やっとこれなら足に合いそうなものとさがしあてたのは婦人用の古靴で、それも皮じゃなくて絹シュスで作ったものであった」とあります(筑摩世界ノンフィクション全集50『高橋是清自伝』)。

ゴロ:grof greinの当て字、近世、オランダ船で舶載された粗末な荒い毛織物。ラクダ毛やアンゴラヤギ毛を用いた梳毛糸からなる薄地の平織のこと。
金巾:キャラコ、固く縒った糸で目を細かく織った薄地の広幅綿布。(『デジタル大字泉』

 これで頭から足まで衣装がそろったということで、散切り頭にして渡航したという次第です。それで、ネットで高橋是清の写真を探しましたが、この前後の写真は(上記ノンフィクション全集の写真も含めて)、みな、髪の毛をなでつけた無帽姿のようです。

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 その同じ世界ノンフィクション全集50に『木戸孝允日記』も掲載されていますが、その197ページ、明治4年12月欧米巡歴岩倉大使一行としてサンフランシスコ滞在中に撮られた有名な写真、いまだ髷を結っている岩倉具視を中心に、大久保利通伊藤博文山口尚芳とともに、木戸孝允はそろって散切り頭で手にシルクハットをもっておさまっています。つまり、“正装”の一環として帽子は欠かせぬものという形で、すでに受容が始まったことがわかります。なお、シルクハットは正確にいえば“絹製”のハットなので、より包括的にはトップハット(top hat)と呼ぶべきかもしれません(150年前の写真では、材料が絹であるかどうかはわかりかねるところです)。

 ところで、日本最古の帽子屋は誰か? “協同組合西日本帽子協会”のHP「帽子100年」という記事を引用すると、「なかなかむずかしい問題であるが、大阪では慶応2年春、当時大阪城に出入りしていた装束商竹内清兵衛氏(ヘルメット製造商竹内清兵衛氏の先代)が、オランダ人が着用していた帽子の模造品を試作したことがあるが、一般に普及されなかったといわれ、これが大阪市における帽子製造の嚆矢であろうといわれる。もちろん東京でも模倣した人はあるはずであるが、つまびらかではない。

 当時竹内清兵衛氏が製造した帽子には、蓮華帽子(生地は覆輪、サージ、ラシャなどで、ラシャは陣羽織に使ったものを利用したという)、大黒帽子(明治8年ごろ流行したもので、ラシャ、お召などで製作する)、神戸帽子(舶来の中山高帽子を模倣したもので、布を芯にしてラシャで覆ったもの)また紙の張子に黒ラシャの粉をふりかけた振かけ帽子と称するものも神戸帽子と前後してあらわれたが、それらは今日一般に用いられているフェルト、鳥打帽子、麦藁帽子などの純然たる洋式帽子に移る過渡期における状況であった」とあります。さらに、

 明治5年、旧礼服を廃し、洋式がとり入れられ、明治6年1月13日、絵図姿入りにて大礼服制の改正を公布されてから、疾風の如く山高帽子が大流行した。当時の絵姿に注意書として、「冠を脱せざるを以て礼となし、帽子は脱するを以て礼と定むべし」とていねいに脱帽姿まで書かれている。これより二十年の間、尨大なる山高帽子の輸入を見る。頭髪がほとんどザンギリになった明治十六年、白堊の鹿鳴館が完成し、舞踏会で知られた鹿鳴館時代をつくつたのである。この風潮が下に伝わって町人も洋服を者るようになり、舶来物、ことにパリ風の洋品が多く輸入されるにいたった」とあります。

 帽子とともに“近代化”が進む、つまり、帽子は服装の中でもとくに“文明”を象徴するものであり、それが小学生への学帽の普及にもつながっていた所以でありましょう。

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 その帽子が売れなくなっている。しかし、そもそも、帽子製造とはどんな業種に入るのでしょう? また、統計資料などあるのでしょうか? そこで、総務省HP「統計基準・統計分類」をひもとくと、そこに「日本標準産業分類」というものが出てきます。それをさらに子細に調べると、大分類のE.製造業 → 11.繊維工業 → 118. 和装製品・その他の衣服・繊維製身の回り品製造業 → 1186.帽子製造業(帽体を含む)とあります。こんな感じで“分類”されているのですね。ちなみに、ネクタイ製造業は1182、靴下製造業は1184というナンバリングです。

 さらにネットを調べると、経産省の統計表が出てきました。これをみると、2012年の帽子製造業で4人以上の従業員を持つ事業所数は152、従業者数2,133人、現金給与総額5,012(百万円)、原材料使用額10,125(百万円)、製造品出荷額22,118(百万円)、付加価値額(従業者29人以下は粗付加価値額)11,330(百万円)とあります。この表をもとに計算すると、帽子製造業は総出荷額221.2億円、1企業あたり14.1人、一人当たり給与235万円(ネクタイは36.5億円、13.4人、177万円;靴下製造業は940.3億円、30.6人、217万円)になります。なかなか微妙ですね。

 それでは、過去のデータは見つかるでしょうか? とりあえず、1998~2002年の資料があったので比較すると、2012年の日本の帽子業界は1998年度比で事業所数が46.9%(つまり、半減)、従業員数が61.5%、原材料使用額が74.8%、そして製造品出荷額が68.1%に減少していました。やはり衰退の兆候はありありです。この間、一人当たりの給与は1998年の280万円、2000年の284万円から漸減して2012年には1998年の83.9%になっています。一方で、一人当たりの生産額(つまり労働生産性)は110.6%と1割あがっています。つまり、労働生産性はあがったのに、給料は減っている=日本のものづくりの危機とも言える状況が浮かび上がっているのかもしれません。

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 それでは、帽子の輸入を調べてみたいと思って調べてみると、どうやら近年、急増しているようです。「組んだもの/ストリップを組み合わせて作った」帽子の2016年度の輸入額は56.2億円で、1988年以降で当年が最大、9年連続の増加で前年比5.9%増だということです。

 片方で「ものづくりの危機」、もう片方で輸入の増加、そして需要の減少となると、長期構造不況業種というしかありません。

 しかし、それにしてもどうして近代化が進むにつれて、ヒトは無帽化するのでしょう。それはどうやら帽子こそが、共同体への所属の証であり(制帽・制服等はその極みです)、近代化とともに工業化(製帽業界の勃興)とともに“所属”が制度化していった先に、今度は所属からの開放がおとずれ、無帽化していく。逆に言えば、ある種の帽子が発明されたとたん、その帽子はいやおうなく人々を“分類化”してしまうという、現代社会が抱えている本質的矛盾の象徴からの脱走かもしれません。

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プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...