2018年3月

「利口で勤勉」vs.「利口で怠慢」vs.「愚かで勤勉」:ハンマーシュタイン=エクヴォルト男爵の役割分類

2018 3/30 総合政策学部の皆さんへ

 気がつけばほぼ10年間この研究室ブログを書いてきましたが、この31日に総政を退職することとなり、正規教員として最後の投稿になりそうです。そこで、その〆として、“組織論”、とくに個人と組織の関係について触れましょう。組織の中で人はどうあるべきか、あるいは、どんな人がその組織でどんな立場を占めるべきか?  そもそも、組織の上に立つ人間は優秀か?

 万延元年(1860)、日米修好通商条約批准書交換のための遣米使節団派遣のみぎり、カリフォルニアまで往復した咸臨丸に座乗した勝海舟は、帰国後、老中に呼び出されます。「その方は一種の眼光を具えた人物であるから、定めて異国へ渡りてから、何か眼を付けたことがあろう。詳らかに言上せよ」との仰せ(それにしても誰なんでしょう? 1860年と言えば、久世広周、内藤信親、脇坂安宅、安藤信正、本多忠民、松平信義らですが)。

 もちろん、そんなご下問にたじろぐ勝ではありません。江戸っ子よろしく気の利いた台詞がついつい口をつき、「人間のする事は、古今東西同じもので、亜米利加とて別にかはったことはありません」といなそうとしますが、相手もしつこい。「左様であるまい、何か、かはったことがあるだろう」と再三再四問はれてしまい、これまたついつい口がすべって本当のことを(人間、一番腹を立てるのは、本当のことを言われた時です)、

左様、少し眼につきましたのは亜米利加では、政府でも民間でも、およそ人の上に立つものは、みなその地位相応に怜悧で御座います。この点ばかりは、全く我が国と反対のやうに思いまする」と言ったら、御老中が目を丸くして、「この無礼もの控えおろう」と叱ったっけ。ハハハハ」(江藤淳・松浦玲編『氷川清話』講談社学術文庫版)。

 ちなみに、これとほぼ同じ台詞が第2次世界大戦時の日本軍に対する、連合軍からの評価にあったように記憶しています。すなわち、両者を比べれば、将官(=戦略的指揮官)は圧倒的に連合軍が優秀、佐官(=戦術的指揮官or参謀)クラスも連合軍が優秀で、尉官クラス(=現場の指揮)でだいたい同等、それでなんとか戦えているのは下士官の優秀さと兵の順良さだ、とうろ覚えですが、読んだような気がします。

 つまりはノンキャリの優秀さが、キャリア上級官僚(あるいは政治家)の無能さをカバーしている?? どんなものなのでしょうか?

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 一方で、どの組織でも、優秀な人、ふつうの人、駄目な人(出切れば組織から切り離したい人)がいる、という組織論もあります。たとえば343(通称、サシミの法則)。優秀な人が3割(サ)、ふつうの方4割(シ)、駄目な方3割(ミ)というわけです。

 別に262の法則という説もあり、上記の比率が2割、6割、2割だというです(なお、現関学理事長の宮原明元富士ゼロックス社長は、262派でした)。会社の中の2割台の人間が優秀か(2割台と言えば、昔の阪神の新庄の打率)、3割台になるか(3割台となれば、イチローの全盛期)、このあたりで大きく変わってきそうです。

 それはさておき、343であれ、262であれ、どちらの法則もキモは以下の二つです。
(1)中間層(4割、あるいは6割)が上に倣うか、下に倣うかで会社の業績が決まる。
(2)そうかといって、優秀な2割(あるいは3割だけ)集めてみても、その集団の中でやがて343、あるいは262の階層ができてしまう(この点については、必ずアリについての研究が引用される、という段取りです)。

 さらにここが難しいところで、平常時ならば343の法則で“ぼんくら”(江戸時代は“昼行灯”)などと呼ばれていた人物が、非常時に一変、見事なリーダーに変身する、という都市伝説もまた存在するわけです。この典型が大石内蔵助良雄、Wikipeidaでも「平時における良雄は凡庸な人物だったようで、「昼行燈」と渾名されており、藩政は老練で財務に長けた家老大野知房が担っていた」けれど、主君切腹、赤穂藩お取りつぶしの切所で、はじめは「浅野家お家再興の望みあり」を旗印に家中をまとめ、最終的には「吉良殿の御首(みしるし)頂戴」をキャッチコピーに堂々と主君の復讐を敢行する。つまり、平時の“無能者”は非常時には“盟主”に変身する、というこれまた都市伝説的リーダー論につながります。

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 さて、さらに都市伝説的に知られている“ゼークトの組織論”、ドイツ国防軍上級大将ヨハネス・フリードリヒ・レオポルト・フォン・ゼークトに仮託された「軍人は4タイプに分けられる」という小話があります。

 そこでは、軍人は以下の4つからなる。
・有能な怠け者は司令官にせよ。
・有能な働き者は参謀に向いている。
・無能な怠け者も連絡将校か下級兵士くらいは務まる。
・無能な働き者は銃殺するしかない。

 「有能な怠け者」として実像を探れば、旧満州軍総司令官大山巌、あるいはさきほどの旧浅野内匠頭家中大石内蔵助、さらには連合国遠征軍最高司令部司令官アイゼンハワーが想起されるかもしれません。

ちなみに、この大山巌の“怠け者”イメージは自ら装ったものなのか? 古来から論争がありますが、Wikipediaでは息子の大山柏の回想、「凱旋帰国した大山に対し、息子の柏が「戦争中、総司令官として一番苦しかったことは何か」と問うたのに対し、「若い者を心配させまいとして、知っていることも知らん顔をしなければならなかった」ことを挙げている」としています。これをどう解釈するか、日本的組織のリーダーイメージについてなかなか蘊蓄に富むというべきでしょう。

 それでは、「有能な働き者」に該当する者では、近代ドイツ軍の父、というよりも近代参謀の権化大モルトケあたりが該当するのでしょうか。『戦争論』で著名なクラウゼビッツ、あるいはアイゼンハワーの下でかつての上司(しかし、battleだけが優秀な)猛将パットンを使いこなすブラッドレーあたりがぴったりかもしれません。

 つまり、「有能な怠け者=総司令官・戦略的司令官=アイゼンハワー」→「有能な働き者=戦術的司令官ブラッドレー」→「(実際のバトルだけは優秀な)パットン=前線司令官」というのが最上のラインとなりそうです(3人が戦場で写っている写真です)。こうなると、あのマッチョだけれども、ちょっといじけたところのあるかもしれない(ジューコフとならんで第二次大戦中最も成功した「守備的な将軍」)モントゴメリーはやや格下にならざるを得ないところです。

 しかし、このゼークトの組織論が都市伝説的にもてはやされるのは、なんといっても第4カテゴリーに対する無慈悲な断罪=「無能な働き者は銃殺するしかない」というところでしょうね。一聴、大向こうをうならせるような断定!

 とは言え、本当なのかな? とも思ってしまいます。無能でも、指令さえ果たせてくれれば、なんとかなるのでは、という疑問もわいてきます。

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 さて、Wikipedia等では、このゼークトの組織論は実は、クルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルト男爵/ドイツ国防軍上級大将による、次のような表現の剽窃らしいとのことです。すなわち、

 将校には四つのタイプがある。利口、愚鈍、勤勉、怠慢である。多くの将校はそのうち二つを併せ持つ。
・一つは利口で勤勉なタイプで、これは参謀将校にするべきだ。
・次は愚鈍で怠慢なタイプで、これは軍人の9割にあてはまり、ルーチンワークに向いている。
・利口で怠慢なタイプは高級指揮官に向いている。なぜなら確信と決断の際の図太さを持ち合わせているからだ。
・もっとも避けるべきは愚かで勤勉なタイプで、このような者にはいかなる責任ある立場も与えてはならない。

 こちらの方が、「無能な働き者は銃殺するしかない」という衝撃的決めぜりふこそありませんが、よほどもっともらしいでしょう。第1カテゴリーはモルトケやブラッドレーがあてはまり、第3カテゴリーは言うまでもなく大山巌やアイゼンハワー(彼はノルマンディー上陸作戦実行日を決定する際に、この大作戦を前に決行するかどうか、意見が分かれた幕僚達を前に置き、数分、沈思黙考して、「とにかく決定を下さねばならない。私はそれを好まない。しかしそうなのだ(=決定しなければならない)。だとすれば、私には選択の余地がないような気がする」と断を下します)でしょう。

 それでは、実際の戦場ではどうなるのか? 大多数を占める第2カテゴリーは、第1カテゴリーが立てた計画にそって、第3カテゴリーの決断のもと、死んでいく、これが近代的軍隊の本質かもしれません。そして、第3カテゴリー(総指揮官)の人事管理者としての能力は、第1カテゴリーを優秀な人材として抜擢するとともに、第4カテゴリーを組織のなかの“バグ”として、巧みに除去することになるのかもしれません。それもまた組織のリーダーとしてのアイゼンハワーの才能であったようです。

植民地経営のための手段としての“植民地政策学”(続き)鉄の枕木から米糖相克まで

2018 3/20 総合政策学部の皆さんへ

 「北海道開拓の村からVer.4:植民地経営のための手段としての“植民地政策学”」の続編、テーマは「植民地経営で儲けるには?」とでもなるのでしょうか? 古代の植民地/植民都市はいざ知らず、近代的植民地への動機付けが「近代西欧諸国の産業資本主義の資源収奪要請」(Wikipedia)だとすれば、“要請”に応えるだけの利潤をあげねばならないはず、ですよね。赤字の植民地は本来あるはずがない! それが植民地経営のはずです。

 一方で、実は、植民地は金も手間もかかる。ちょと思いつくほどには、なかなか儲かるものではない・・・私がそんなことを口走るのも、1979年、はじめてのアフリカ行きで、(タンザニア中央鉄道)の終点キゴマ駅で線路を見おろすと、ふと鉄の枕木に記された「クルップ、1908」という刻印に気づき、かつてドイツがこの鉄道にどのぐらいの投資したものか! と嘆息したのを思い出すからです。

 帝国主義者カール・ペータースが先住民の首長らに「ドイツの保護を求める」契約を結んだのが1884年頃、ベルリン会議でタンガニイカ領有が認められたのが1885年、先住民による最後の大規模反乱であるマジマジ戦争が1905~1908年ですが、そのさなかの1905年に鉄道建設がスタートします。そして1252km(東北本線の2.3倍)の線路が終点のキゴマ駅までつながってようやく開業したのが第一次世界大戦勃発直前、これではドイツが投資に見合う利潤を引き出す暇もありません。

 第一次世界単線中、冷静にして過酷なドイツ軍司令官パウル・フォン・レットウ=フォルベック将軍は、戦術的抵抗によって連合軍を少しでも西部戦線からアフリカに引きつけ、故国の勝利に貢献しようという優れた戦略眼のもと、敗北なき抵抗にすべてを投入しますが、それは同時にドイツ植民地行政の成果を自ら破壊することにほかならず、東アフリカは“30年戦争”の時のように荒廃します。そして、ヴェルサイユ条約の結果、すべての成果はイギリスに取り上げられてしまいます。その名残が「クルップ、1908年」の刻印というわけです。

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 とはいえ、儲かる植民地もないわけではない。その典型としてよく言及されるのが、オランダ領インドネシアで展開された“栽培制度”=日本の教科書には「強制栽培制度」として掲載されているやつです。

 オランダは19世紀初頭から苦境に直面していました。フランス革命とその限定相続人たるナポレオンによって踏みにじられ、まず、バタヴィア共和国が成立、次にナポレオンの弟ルイ・ボナパルトを国王とするホラント王国にされ、しまいにフランスの直轄領に併合されてしまいます(この時、オランダ王国国旗を最後まで掲げていたのが長崎出島のオランダ商館であったことは有名です)。

 幸か不幸か、ナポレオンはドーバー海峡を越えてイギリスを屈服させることができず(これは後のヒトラーも同様。ローマ帝国(クラウディヌス帝)とクヌーズ1世ギョーム1世だけが渡海によるイギリス征服を成し遂げます)、モスクワ遠征にも失敗(こちらもヒトラーも同じ結果に)、オランダ王国は主権を回復しますが、今度は豊かなベルギーが分離独立(1830年)したため、苦境にたたされます。おまけに、オランダ領東インドでも1825年にジャワ戦争等が勃発します(戦争するには、お金=軍事費がかかる)。

 この苦境を乗り切るため、「東インドに導入されたのが東インド総督ファン・デン・ボッシュによる「栽培制度」である。これは、現地住民に指定の農作物を強制的に栽培させ、植民地政府が独占的に買い上げるというものであった。指定栽培されたのは、コーヒー、サトウキビ、藍(インディゴ)、茶、タバコなど、国際市場で有望な農産物である。東インド植民地政府は、農産物をヨーロッパなどへ転売して莫大な利益をあげた」(Wikipedia)というわけです。

 この結果、オランダの経済は復活しますが、しかし、同時に植民地=東インドへの依存度が高まる(Wikipeida)。小国オランダは後のインドネシアにいわば“寄生”の状態になる。その肝心の虎の子を第2次世界大戦で日本に奪われ、やっとのことで日本が敗北したと思ったら、今度は独立してしまう、というわけです。

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 さて、日本に話を戻します。明治維新後、国土の拡大を志し、本来の領土(=つまり、内地)周辺のあいまいな周縁部を植民地化→自国領土化をねらう(=つまり、外地)。それが順番に北海道、沖縄(1872年、琉球藩設置)、千島(1875年、 樺太・千島交換条約)、台湾(1895年、下関条約)、関東州(1905年、関東庁ならびに関東軍)、樺太(1907年、樺太庁設置)、朝鮮半島(1910年、韓国併合)、南洋諸島(1920、南洋庁設置)、そして“満州”と突き進んで、あげくに、高転びにころんでしまう。

 その間、様々なことが起こるわけですが、当然、植民地経営に難題が生じる。その一つが台湾における“米糖相克”です。これは台湾で何を作らせるか? すなわち日本にとって貴重な砂糖にするか? それとも米を作らせるか? このどちらも追いかけようとすると、「米価上昇や米作地生産力向上により単位面積当たりの米作収入が増加すると、製糖業の原料(さとうきび)買収コストが上昇してしまい、利潤の低下を招くという問題である。すなわち、製糖業の利潤は米価を抑制して米作部門の生産力の停滞を保持することに基礎を置くといえるため、製糖業の利潤と米作部門の発展とは相抵触する(=トレード・オフになっている)という構造的な問題」なのだそうです。

 この背景は、言うまでもなく、日本にとっての台湾の価値をどこにおくか? はっきり言えば、何で儲けるのか? その判断ということになりますが、その際、台湾に暮らす人々の暮らしなど二の次であることはオランダ領東インドとかわりません。1898年以降の第4代総督児玉源太郎とその股肱の部下後藤新平はそれを砂糖に求めた結果、台湾製糖・大日本製糖・明治製糖・帝国製糖・塩水港製糖等の食品加工業を台湾振興の中心に据えます。そして、その原材料(サトウキビ)供給を確保するため、製糖場取締規則に基づき原料採取区域を設定します。そのため、南部中心だったサトウキビ耕作が次第に北部地域に広がり出します(和食の歴史にそくせば、これによって甘みが増して、同時に大和煮的世界が展開する、ということになるわけでしょう)。

 一方で、農民にとって、サトウキビを植えるか、米をつくるかは、(上記オランダ領東インドの強制栽培と異なり)、何を植えるかは自由裁量にまかされ、サトウキビを栽培した場合、それを上記産業資本に売ることを義務づけていました。東インドのオランダ人からみれば、笑うべき不徹底さ、あるいは植民地経営の不手際というものかもしれません(もちろん、台湾農民の目線からは別の意見も出ようとのものです)。

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 その一方で、もう一つの問題が(台湾ではなく、日本でおきます)。それは明治からの近代化による人口増大です。明治5年(1872年)の壬申戸籍での3,311万人という人口は、1920年には5,596万人に増加し、日本本土で米不足になる。そうなると、台湾に導入された新品種蓬莱米が日本本土でも商品価値を生み、そうなると台湾住民にとって、サトウキビを植えるか、米を植えるか、その時々の価格によって選択可能となり、いわばトレード・オフの状態になる。

 こうして米の価格の変動により、砂糖業界への原材料供給が影響を受け出し、精糖業界はサトウキビ確保に狂奔させられる一方、蓬莱米の“内地”輸出で、“内地”の米作まで影響を受ける。これが“米糖相克”というわけです。

 この問題は結局、米価とサトウキビ買い付け価格を連動させる「米価比準法」によって、農民の米作転換を阻止する。かつ、 日本政府は、“内地”農家保護のため、台湾米作の抑制、あるいは転作奨励に転じ、米とサトウキビというモノカルチャー型農業が次第に多角化した、というのが第2次世界大戦勃発前の台湾における植民地農政の顛末だったのです(Wikipedia「米糖相克」)。トレード・オフたるべき二つの要素を、経済政策のもとに連動させる、というわけでしょうか。

 ちなみにこの前後、台湾総督府によって奨励された作物の一つがバナナ、いわゆる台湾バナナなのですが、私の子供の頃に勃発したコレラ騒動や、フィリピンからのプランテーション生産によるバナナによって、次第に駆逐されていきます。

子供の頃の読書で違和感を覚えたことがら等々:食についてPart16

2018 3/10 総合政策学部の皆さんへ

 子供の頃、『少年少女世界文学全集』のような子供向けダイジェスト版を読みふけった/むりやり読まされた方も多いかもしれません。そして、成長後に原作を再読すると印象が一変/一驚! あるいは、なまじ“予備知識”があるため原作を読む楽しみもそがれ、ネタバレ気分になることもあるかもしれません。

 私がそんな本を手にしていた頃からすでに半世紀! かつて東北の一地方の盆地で育ち、12歳まで海を見たことがない生活では、外国の日常もわかりかね、文字だけではよく理解できない事柄に“食”の世界がありました。例えば、『家なき子』の冒頭近く、主人公レミの養母が食事を作ろうとすると、不在だった夫が突然あらわれ「スープを作れ」と強要、養母が「材料がない」と応えると、「そこに玉葱とバターがあるじゃないか。それでスープができるはずだ」と命じる場面をかすかに記憶しています。

 子供心に「玉葱とバターでスープが???」と思ったのですが、もちろん、長じればそれがオニオンスープであることにようよう気付くという有様でした。

 そう言えば、この『家なき子』では、レミが友達のかわりに炭鉱に入って、出水事故で坑道に閉じ込められるというエピソードも子供心に強烈でしたが、あれはまさに19世紀半ばの児童労働で、そのあたりはヒューエコのネタの一つにしています。

 同じような例では、『トム・ソーヤーの冒険』で子供3人で家出、川中の小島に隠れ住むというエピソードで、友の一人が家から「半身のベーコン」を担いできたため、すっかりくたくたになってしまったという文章があるのですが、当時の日本、ベーコンと言えば(いまや高級食材になってしまった)クジラのベーコンしか連想できず、「クジラの半身!!」もあんまりなので、何か間違いがあると感じつつ、長じて初めて豚のベーコンであることに気付く始末でした。

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 さて、私が子供の頃にまったく理解できなかった翻訳例に、イギリスの動物コレクターにしてエッセイストのジェラルド・ダレルの記録に出てくる“ワニナシ”があります。

 英名“alligator pear”を直訳すれば“ワニナシ”ですが、「果実の表皮が動物のワニの肌に似ていることに由来する英語での別称」(Wikipeida)ということで、今では“アボカド”で知られている果物なのですが、当然、幼い私にはまったく想像できません。ちなみに、アボカドという名称は中米スペイン語の「アグアカテ/アワカテ」 (aguacate/ahuacate)、ポルトガル語の「アバカテ」 (abacate) などから来ているとのことですが、これは先住民の方々が話すナワトル語の「アーワカトル」 (āhuacatl) からとも、近隣のトトナコ語からの借用であるとも言われているそうです。

 一方、私自身の完全な誤読の例には、サマセット・モームの東南アジアものを読んでいると、蒸留酒のジンビターを加えるシーンで、ビターをバターと誤読して、「酒にバターをいれるとは?」と不思議に思った記憶もあります。そんなわけで、初めて海外に出かけたスマトラの山奥で、イギリス人若夫婦の台所をのぞくと、ジンの空き瓶がずらっと並んでいて、「おおっ、これがモームの世界か」と感激したものでした。

 それが今ではクックパッドなどでオニオンスープを検索すれば、“簡単シンプル♪とろとろオニオンスープ”の作り方を懇切丁寧に教えてくれる時代、豚肉のベーコンはおろか、アボガドもごくごく普通の食べ物となり、逆に、クジラのベーコンは捕鯨の衰退でいまや希少になってしまいました。

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さて、今回のトピックの最後はパスタです。子供の頃、「イタリアのスバゲッティとは、その昔はるか元の都まで旅をしたマルコ・ポーロによって、中国からもたらされた」という話を何度も耳にして、ついしっかり信じ込んでしまった記憶があります。ところが、長じれば、どうもその説では理解できない文章に気付きます。

 例えば、このブログでしばしば触れるイタリアの歴史作家モンタネリの『ローマの歴史』では、ローマ帝国最初の皇帝アウグストゥスの御代の大詩人ホラティウスが“皇帝賛美”の美辞麗句に満ちた叙事詩をむりやり書かされ、「ひいひい泣きながらやっとしまりのない冗長な作を仕上げ」ながら、友人に向けて書いた『書簡体詩』(この友人こそが、現代にも“メセナ”という言葉に名前が残る大富豪・アウグストスを支えた政治家・財政家にして、芸術の大パトロンマエケナス)や、アイロニカルなユーモアに満ちた『風刺詩集』こそ傑作になった、という記述のあと、晩年、家にこもりがちになり「自家製のスパゲッティ2皿、牛肉の煮込みに焼きりんご、これ以外のものは食べられなかった」と続きます。

 えっ、スパゲッティ! ホラテイウスが生きていたのはBC65~8年、マルコ・ポーロはAD1254~1324。1300年も前にすでにイタリアにはスパゲッティがあるのか! というのが、このくだりを最初に眼にした時の感想です。

 Wikipediaの「パスタ」を調べれば「イタリア半島におけるパスタの歴史は大変古い。チェルヴェーテリにある紀元前4世紀のエトルリア人の遺跡からは現在のものとほぼ同じ形態のパスタを作る道具が出土している。古代ローマ時代にはラガーナ (lagana) というパスタがあったが、現在のように茹でて食べるものではなく、焼いたり揚げたりして食べた」とあります。

 次に、Wikipediaの「マルコ・ポーロ」を閲覧すると、マルコ・ポーロ=スパゲッテイ紹介者説には「否定論もあり、16世紀に『世界の叙述』をラムージオが校訂した際に紛れ込んだ誤りのひとつで、イタリアのパスタと中国に麺類に関連性は無いとも言われる」とあります。

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 よく考えれば、スパゲッティとはパスタという一群の食品のなかの一つです。そうした食品群がそもそも存在している中、スパゲッティだけがマルコ/ポーロが持ち帰ったものだというのもおかしな話です。さらに、サイトの中にはマルコ・ポーロが紹介したのはマカロニとするものもあります。こちらもWikipediaでは、「俗説ではマルコ・ポーロが中国から持ち帰った小麦粉を練った食べ物を教皇に献上した際、あまりの味の良さに「おお、すばらしい(Ma Caroni)」といったことが命名の由来とされているが、マルコ・ポーロが帰国したのが1295年で、その前の1279年にジェノヴァの公証人が作成した財産目録に「マカロニ一杯の箱」とあり、名称の由来ともども中国から持ち帰ったとする説も、認められるものではない」とあります。パスタ、マカロニ、スパゲッティ、きちんとした分類を頭に入れておかないと、その系統関係も乱れてしまいます(分類学はことほど重要です)。

 明治維新以来、日本には海外から様々な“新知識”が流れ込みますが、その際に持ち込まれた誤説・珍説の類がそのまま(あたかも都市伝説のように)生き残る。こうした例の一つが、このマルコ・ポーロ=スパゲッティ紹介者説かもしれません。これが“食”の世界ならば、まあまあ罪もないわけですが、いわゆる陰謀説のような怪しげな俗説がそこここに残っているような気もしないではありません。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...