2018年8月

新入生の皆さんへ:「総合政策」を学ぶための気軽な課題図書 Part4:自然科学編

2018 8/30 新入生の皆さんへ

 自然や進化に関して、皆さんに推薦したい本と言えば、まず、C・ダーウィン『種の起源』をあげなければいけません。A・スミスの『国富論』やR・マルサスの『人口論』も同様、有名な割に読まれない本の筆頭と言われていますが、神を否定した彼は、いくら研究を進めても、進化にいかなる「目的」をも見いだせぬ切なさを、透徹した論理で展開します。

 あまりに近代的過ぎたダーウィンの真意は同時代の者にも、あるいはその後の人間にも必ずしも理解されないのですが、しかし、現在どんな分野であれ、「進化」を意識せずに議論することはできないでしょう。

 例えば、アメリカのノーベル文学賞受賞者J・スタインベックの『キャナリー・ロウ(日本語に訳すと『缶詰横町』)は、大学を中退して、海洋生物の標本や解剖用のネコ等を売りさばきながら暮らす孤独な海洋生物学者ドックを中心に、「パーティーをいかにしてもりあげるか」というモチーフが全巻展開する、「猛毒入りのシュークリーム」とも自評した不思議な(strange taste)小説ですが、主人公ドックの思想には進化論と、そこから派生してきたエコロジーに裏打ちされています。

  • 注1)ジョン・スタインベック:アメリカの小説家(1902~1968)。代表作に小説『怒りの葡萄』、『ハツカネズミと人間』等、1962年ノーベル文学賞受賞。なお、『キャナリー・ロウ』の主人公は実在の海洋生物学者のエド・リケッツで、二人は標本採集の旅行記『コルテスの海』を共同執筆もしています。
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     スタインベックらが活躍していた頃、「環境」はまだポピュラーな言葉ではありませんでした。しかし、地球も資源も無限ではなく、人の活動が環境に影響を与え、その影響がめぐりめぐって我々自身に不幸をもたらします。これが「地球環境問題」の本質なのです。

     そのことを最初に訴えた著作の一つが、R・カーソンの『沈黙の春』です。こうした流れは、1972年にローマクラブが発表した『成長の限界』、1992年にリオデジャネイロで開催された「環境と開発に関する国際連合会議」等につながっていきます。

    • 注2)レイチェル・ルイーズ・カーソン:アメリカの生物学者(1907~1964)。1962年に出版した『沈黙の春』で環境問題を提起した。
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       ところで、我々人間の活動が環境に与える影響には、二つの要因があります。一つは、我々が便利な生活を希求することで資源(とくにエネルギー資源)消費量が伸びること、そしてもう一つは我々自身の数が増える(=人口増加、あるいは人口爆発)ことです。

       それでは、人口がどのように増えてきたのか、あるいは減少していくか(すなわち、少子高齢化)、そしてそれにどう対応すべきか、R・マルサスの『人口論』以来、多数の書物が書かれてきましたが、とりあえず、日本列島の人口がどのように変化してきたのかを扱った本のなかで、とくに読みやすい文庫・新書の中から、速水融の『歴史人口学から見た日本』や鬼頭宏の『人口から読む日本の歴史』等をお薦めしたいと思います。

      • 注3)速水融:慶応義塾大学名誉教授、日本の歴史人口学の草分け(1929~)。
        ・鬼頭宏:上智大学教授、専攻は日本経済史、歴史人口学(1947~)。

       

翻訳についてPart5:英米文学におけるアフロ系アメリカ人の話し言葉をどう訳すべきか?

2018 8/25 総合政策学部の皆さんへ

 最近では“グローバリズム”という言葉を聞かぬ日もないぐらいですが、そこで一番用心すべきは“翻訳”、あるいは“通訳”かもしれません。気がつかぬうちに“フェイクな情報”を掴まされてしまうかもしれません、しかも“翻訳/通訳者”には悪意もなければ、自覚もないうちに。

 例えば、このブログでも以前(2011 6/22)「翻訳についてPart2誤訳編:“ポケットに蠅を”?、そして“ノルウェーのネズミ”とは?」で誤訳について論じました。たとえば、「ポケットに蝿を」という訳は、英語の“fly”を文脈から察するに「毛針」 のはずなので本当は「ポケットに毛針を」の意味であり、「ノルウェーのネズミ」とは“Norway rat”を本来の意味である「ドブネズミ」ではなく「ノルウェーのネズミ」と直訳してしまったことに由来します。

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 さて、本日扱うのはこうした明確な“誤訳”ではなく、もう少し微妙なニュアンス、例えば、「話し言葉」を訳する時の問題です。一例をあげると、一時期(今もそうかもしれませんが)アメリカ文学、とくに南部文学においてアフロ・アメリカンによる「話し言葉」を独特の“方言”っぽい言葉に訳するのが一般的でした。たとえば、マーク・トゥエインの傑作『ハックルベリー・フィンの冒険』(この作品からアメリカ文学が始まった、というのがノーベル賞作家E・ヘミングウェイの指摘ですが)で、ハックが逃亡してきた旧知の黒人奴隷ジムにばったり出会うシーンですが、ジムは(とっさに「死んだはずだから、幽霊に違いない」と思い込んだ)ハックに叫びます。

助けてくれ-お願えだ! おらは幽霊にわるさをしたこたあ一ペンだってねえだ。いつだって、死んだ人は好きだけん、死んだ人にはできる限り尽くしてきただ。おめえ様はもう一ぺん川さ戻りなされ、あそこがおめえ様のいなさるとこだ。このジムおんじいば、そっとしておいてつかわさい。いっつもおめえ様の仲良しだったでねえだか」(野崎孝訳『ハックルベリー・フィンの冒険』講談社文庫版)

 さて、このジムが話す(ハックの台詞の訳とは少し異なる)方言ともなんともつかぬ表現。これこそが、日本で英米文学を訳する時、黒人奴隷あるいはその出身者の口調を表そうと日本の翻訳者が使っていた表現です。正直に言えば、こうした文学表現を当たり前にうけとって育った僕らの世代は、こうした(ある意味、黒人奴隷と日本の方言話者双方に対する差別的とも言えかねない)言い回しになんの疑問も持たずに育ちました。

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 一方で、アメリカ育ちの文学者がこうした文章を眼にした時に、どう感じるのでしょうか? 以下、ちょっと長い引用ですが、アメリカ人の立場から日本の翻訳本の世界を論じたものです。

本論は日常的な経験とそれに対するささいな疑問から生まれたものである。数年前に筆者(ロング)がァメリカ映画の日本語吹き替え版で黒人の登場人物はみんな東北弁で話していることに気付いた。また、老人が登場すると人種に関係なく広島弁をしゃべる。こうした映画を見て、「なぜアフリカ系のアメリカ人は日本の東北弁を話すのか」、そしてなぜ人が年を取ると広島弁になってしまぅのか」と不思議に思った」(中略)

例えば、ある映画に登場する無教養の田舎者は原作で南部訛りの英語を話している。これは、「南部方言は無教養の田舎者が話す言葉である」と示唆している。日本語の方言に対するイメージを調べるためには、その方言がどういう登場人物に使われているかを調べればよい。日本語吹き替え版で、この無教養の田舎者は東北弁を使わされている。したがって、日本で「東北弁は無教養の田舎者が話す言葉である」というイメージがあることが分かる

こうした理由で使われる日本語の方言は象徴的なものであり、しかも方言の専門家ではなく、一般人のために使われているので、言語学的に正確な方言である必要はない。また、特定な方言である必要もない。むしろ、場合によって、人物の二つの特徴を表現するため、異なった方言特徴が混用されることすらある。今回の黒人老人が「老人語」と意識されている中国地方の方言と黒人の話し方として定着している東北弁の両方の特徴が混ざったセリフを使うのもこの例に当たる。今回扱った資料で東北方言が教養のない社会的に身分の低い人々のセリフ に使われていたので、東北方言が決して良い方に写っているとは言えない。これまでの方言意識研究でも、こうした方言イメージがたびたび取り上げられた。井上史雄(1989)のSD(意味微分)法による方言イメージ研究では、「東北弁」が若「い女性にふさわしくない」、「ぞんざい」、「悪いことば」、「乱暴」、「汚い」といった否定的な特徴と結ばれることが多かった。こうした傾向が、東京や札幌、京都の出身者の間だけではなく、東北出身者の間にさえ見られたのである」(ダニエル・ロング・朝日祥之「翻訳と方言:映画の吹き替え翻訳に見られる日米の方言観」『日本語学』1999)

 いかがでしょうか? 異国の言葉を“翻訳する”際に、そこにゆくりもなく自らの“偏見的解釈”が忍び込み、それが言葉を通じて読者に拡大再生産されていく過程がおわかりになるでしょうか? この引用文で最後に著者らは以下のように主張します。

方言差別をなくすためには、まず問題の実態を把握する必要がある。日本では、方言イメージ研究は長い歴史を持っており、そしてさまざまな方法論の利用によつて、研究対象を複数の側面から接近することができた。本稿で提案した研究方法によつて、社会の一般構成員が潜在的に抱いている方言一ステレオタイプの今まで見えてこなかった側面から把握することができると確信している

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 さて、他者の文学を翻訳する際に垣間見える自らの言語観・偏見・差別を考えることで、自らを省みましょう、というのが本日のストーリーということになりますが、それではどんなふうに訳せばよいのでしょうか? 2017年12月に出版されたばかりの柴田元幸訳による『ハックルベリー・フィンの冒険』の冒険では、さきほどのジムの台詞は以下のように書かれています。

いたい目にあわせないでくれ-たのむよ! おれユウレイにわるさしたこといっぺんもねえよ。おれいつだって死んだ人たちが好きだったし、できるだけのことはしてやったよ。あんたも川にもどってくれよ、あそこがあんたのいばしょだよ。このジムになにもしねえでくれよ、おれいつも、あんたのともだちだったろ」

 
 どうでしょうか? 「東北弁」のような「奴隷言葉」に訳すうちに、知らず知らずにハックとジムの関係をすり込まれていく、そんな翻訳の世界からまったく新しい言語感覚の世界にはいっていくべき時がきたのかもしれません。

新入生へ、リサーチで重要なこと#3:パーカー・パイン氏に「統計」を学ぶ、あるいは日本人は誰に殺されるのか?

2018 8/22 総合政策学部の皆さんへ

 キャンパスは今日から事務室が夏季休暇明けですが、以前、「統計学の奨めPart3:“賭博”と“確率論”+高畑ゼミの100冊番外編」でご紹介した、アガサ・クリスティが想像した数々のキャラの中でも、たぶん日本人に一番しられていない方、パーカー・パイン氏をご紹介しましょう。ほら、ロンドンの朝刊一面の片隅に、個人広告「あなたは幸せ? でないのならパーカー・パイン氏に相談を。リッチモンド街17 (Are you happy? If not consult Mr Parker Pyne, 17 Richmond Street」(乾進一郎訳『パーカー・パイン登場ハヤカワ・ミステリ文庫版)と掲載するパーカー・パイン氏です。この方の決めぜりふが「(あなたのお悩みを解決するのに役立つものこそ)統計です」。

 さて、皆さんは入学後、やたらに“統計”に悩まされているかもしれないからです。とは言え、統計は本来は「面白い」学問です! そして、これからグローバリズム時代、統計はビジネスや政策の必須項目として、教養(リベラル・アーツ)の一つとも言える存在です。ちなみに、中世ヨーロッパで為政者が身に付けるべき教養=リベラル・アーツは3学(文法学・修辞学・論理学)、4科(算術、幾何、天文学、音楽)です。昔から、“数学”ができなければ教養人ではない! ということをまず自覚しましょう。

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 さて、パイン氏は上記個人広告にひかれて訪れる客の説明を聞くと、おもむろに「あなたの問題はこれですか?」と指摘します。「一体どうしてそんなことがあなたにわかるのですか?」と戸惑う客に、「わたしの仕事は知るということなんですよ。なにしろ、私の人生の35年間を私はある官庁で統計収集の仕事をしておったんですから。退職した今、私は思いついたんですが、身についた経験を新しい形で使ってやろうと。それはまことに簡単です。不幸は5大群に分類できます・・・・それ以上はない、絶対に。ひとたび病根がわかりさえすれば、治療は不可能ではありません

 医学でも、生物学でも、経済・経営学でも同様です。問題を「知る」→「収集する」→「分類する」→「体系化する」→「個々のカテゴリーについて、その基本原因を探る」→「対策を考える」→「処置をほどこす」。その流れにのっとり、パイン氏は続けます「私は医師の役を務めます。医師はまず患者の悪いところを診断して、それから手当の指導忠告へと進みます。中にはどんな手当も役に立たないような病状もあります。そのような場合には、私には何もできないと率直に申し上げます

 短篇『不満軍人の事件』の中で、パイン氏は断言します「私ははっきり申しますが、いわゆる英帝国建設者の退役した人たちの96%が、不幸せなんですよ。そういう人たちは、活気ある生活、責任一杯の生活、危険があるかもしれない生活を、いったい何と引き換えにしたか? 狭められた収入、うっとうしい機構、そして全体としては陸に上がった魚のような感じですね」「あなたのいっていることはみんな本当だ

 パイン氏のセリフを、(英帝国建設者たちに抑圧された)非欧米世界の先住民の方々が聞いたら、どう感じるのか? という点は、この際とりあえず置いておきましょう。皆さんに感じ取っていただきたいのは、相手を分析・説得する時に、“統計”がまたとない“道具”になるということだけです。

 そして、パイン氏は依頼を躊躇う顧客について、スタッフにつぶやきます。「誰でもみんな、自分の事情は他にないものぐらいにおもっとるんだから、おもしろいよ」。そう、統計を使えば、みんなある程度“似てくる”。 こうして「私のケースは他と違う」という思い込みは厳しくも否定され、パイン氏によって「あなたのケースはここに分類され、このカテゴリーにはこんな解決法があるかもしれません」という提案をいただくことになるのです。

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 ところで、パイン氏の主張、「不幸は5大群に分類」とか「英帝国建設者の退役した人たちの96%が、不幸せ」が正しい指摘かどうかは、この際、別の問題です。こうした数値は、実際にはきちんと調査=データ収集・分類・体系化をしなければいけませんから。

 と言っても、統計数値を実際に自分で「調査」するとなると、個人ではなかなか難しい。学生さんではさらに至難の業かもしれません。いきおい、すでに公表されているきちんとした統計データを引用するのが一番です。もっとも、最近は様々な統計がWebでアクセスできる。ただし、信頼できる統計となると限られているので、政府の統計か、国連統計等を使って下さい。

 ということで、問題です。「日本における殺人事件において、被害者と被疑者はどんな関係にあることが多いのか、ぱっと答えられますか?そのためには犯罪統計というものがある。皆さんもすぐにアクセスできます。警察庁HPの犯罪統計から「平成28年の犯罪」(https://www.npa.go.jp/toukei/soubunkan/h28/h28hanzaitoukei.htm)の付表「56 罪種別 被疑者と被害者との関係別 検挙件数」 (H28_056.xls)。

 これによると「殺人」の項目は、殺人、嬰児殺、殺人予備、自殺関与の4種類に細分されますが、殺人予備は実際の殺人にいきません。これに強盗殺人を加えると(統計上、強盗殺人は「強盗罪」に属していて、「殺人」とまた別のカテゴリーなのです)、合計805件(殺人757件、嬰児殺13件、強盗殺人17件、自殺関与18件)となります。

 この805件のうち、被疑者と被害者が配偶者及び1親等(養子関係も含む)内のケースは373件(46.3%)、これに兄弟・親族を含むと435件(54.0%)、さらに知人・友人と職場関係者を足すと648件(80.5%)、つまり日本人の殺人被害者の8割は家族や友人、知り合いに殺されていることになります。もちろん、殺人と強盗殺人とでは多少傾向が異なり、殺人の80.2%が知り合いなのに対して、強盗殺人は64.7%に低下しますが、「強盗殺人でも、まったくの無関係者は少ない」ことがわかります。

 ちなみに、嬰児殺もあわせると実子・養子・継子を殺した例が103件(12.8%)、逆に実父母・養父母・継父母を殺した例が113件(14.0%)です。そして、配偶者間の殺人が157件(19.5%)となります。なお、配偶者間の殺人では、女性が殺されたのが86件で、男性が殺されたケースが残り71件とすると、被害者の男女比は1対1.21となり、女性(妻)が殺されることがやや多いということになるかもしれません。

 なお、こうした傾向は平成25年でも平成27年でもほとんど変わらないようです。パーカー・パインに倣って「それが統計です!」と宣言したあとで、この“事実”からあなたは何を提起できるのか?(レポートでは、事実の指摘よりも、それで何が主張できるか、が重要) そのあたりをぜひ考えてみてください。

「人間を動かすのはそうした“玩具”なのだ!」:ナポレオンの台詞から見る勲章と近代国家像

2018 8/19 総合政策学部の皆さんへ

 勲章と総合政策、もちろん、ちゃんと結びつきがあります、というのが7月14日に投稿した「叙勲とは何か? 勲章から見た近代国家像について」での結論でしたが、日本の勲章のモデルにもなり、近代的な勲章体系として劃期となったものがフランスのレジオン・ド・ヌール勲章です。

 実は、フランス革命期、旧体制(アンシャンレジーム)を否定する革命政府はそれまでのブルボン王朝が与えてきたすべての勲章を否定・廃止します(例えば、ルイ14世が制定した聖ルイ勲章)。「人間はみんな平等なのだから、差をつけるような表象は必要がない」というわけです。

 ところが、フランス革命の限定相続人たるナポレオン・ボナパルトは、1802年、第一統領として勲章制度の復活を提起します。「古代・現代を問わず、勲章なしでやっていけた共和国があるというなら教えてもらいたい。諸君はこれを玩具だと言うかもしれないが、さて人間を動かすのはそうした玩具なのだ」(Wikipedia)。

 フランスの辺境、ある意味、半植民地のようなコルシカ出身者(なおかつ、政治的闘争からコルシカから追放される形となっていた)ナポレオンにとって「フランスは必ずしも心の故郷ではない」という半ば第三者的目線から、自由・平等を謳いながらも心の中ではやはり「勲章=おもちゃ」をも希求するフランス人たちの本質を冷ややかに見すえていたのかもしれません。

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 それゆえ、ナポレオンの提案は「人々の間に差をつけてはいけない」という革命精神からの離脱とも受け取られ、彼のカリスマをもってしても強い抵抗にあいます。共和暦10年(1802)、国務院ではナポレオンによる圧力によって14対10でかろうじて可決。その後の護民院でも「新しい貴族の復活と、平等という革命の原則の歪曲」との反対があって56対38で通過。最終的に立法院でも166対110で可決と、常に4割前後の反対を押しのけてようやく成立します。最終的に、1804年7月14日、皇帝となったナポレオン1世から功績があった将校たちにレジオンドヌールが授与されることになります。

 おもしろいのは、こうして4割もの反対がありながら成立したレジオンドヌールが、その後は、急速にフランス人に受け入れられていく! なんと憎いナポレオンを妥当して復帰したブルボン王朝でもそのまま存続、さらに7月王制(オルレアン朝)、第2共和制第2帝政、そして第3共和制と19世紀に大きく変動したフランスの政治体制をも生き抜き、今日まで連綿と続いている。時間を超越したナポレオンの慧眼であり、“政治体制”を越えて国家からの“おもちゃ”による栄典を寿ぐ“国民”の本質を表象しています。

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 さて、そのレジオンドヌールですが、最初の拝受された者がナポレオンの部下たちだったように、佩綬者は主に軍人を想定されていました(「国家が、国のために戦った勇者を讃えよう」というわけです)。しかし、現在では軍人と市民の配分はおよそ2対1、およそ「11万人以上の佩綬者を数えるに至って」います(Wikipedia)。

 時代が経つにつれ、女性にも授与されるようになり、さらにフランス人以外も対象となります。日本人では最高位のグランクロワ(大十字、1等)は伊藤博文(1898年)など、グラン・トフィシエ(大将校、2等)を元総理大臣の中曽根康弘や元東京都知事の鈴木俊一、トヨタ自動車名誉会長豊田章一郎らが受賞しているとのことです。2009年には『ベルサイユの薔薇』の作者池田理代子がシュヴァリエ(騎士、5等)を、2013年には歌舞伎の五代目坂東玉三郎がコマンドゥール(司令官、3等)を、2016年にビートたけしこと北野武が(たぶん映画監督として)オフィシエ(将校、4等)拝受しています。

 なお、大将校、司令官、将校・・・等は、この勲章がヨーロッパの伝統的勲章にならい、騎士団(ordre)への加入あるいは昇進を基本として、その徴(しるし)として騎士団の記章(décoration)の着用を許す、という設定になっているようです(なんだか、子供の遊びのようにも聞こえてきますが)。ただし、レジオンドヌールの場合、外国人へは記章の贈呈のみで、「名誉軍団」(L’ordre de la Légion d’honneur)への加入は行なわないとのことです(ちなみに、この名誉軍団総長はフランス大統領ということになっています)。

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 もちろん、レジオンドヌールを誇り高く拒否する者もいます。Wikipediaによれば、とくに芸術家が多いようです。すなわち、作家ではジョルジュ・サンド、ギ・ド・モーパッサン、ジャン=ポール・サルトル、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、アルベール・カミュ、画家はオノレ・ドーミエ、ギュスターヴ・クールベ、クロード・モネ、音楽家はエクトル・ベルリオーズ、モーリス・ラヴェル(もっとも、エリック・サティに「ラヴェルはレジオンドヌールを拒否したかもしれないが、ラヴェルの音楽はレジオンドヌールをすっかり受け入れてるよ」と評されてしまいます)。俳優ではブリジット・バルドー、カトリーヌ・ドヌーヴ、クラウディア・カルディナーレ。それにしても20世紀後半のフランス映画3大女優ともいうべき、BB、ドヌーブ、CCがそろって拒絶しているのは、どうしてでしょう? 一方、イザベル・アジャーニは2010年にいただいているようです。

 そのほか、写真家のナダールも謝絶しているようですが、こちらもどんな理由でしょうね? 19世紀、写真という新しい道具を駆使して、様々な有名人の肖像写真をとり、ある時は気球にのって風景を撮影しようとしたナダール(事故にもあって、同乗の奥さんが負傷したそうです)。同じ拒絶仲間のドーミエには、“写真を芸術の高みに浮上させようとするナダール”(1869)という諷刺画もあるそうです。国家から、自分の被写体たちとおなじようなレベルに並べられることを拒絶したのでしょうか?

 振り返れば、ひょっとして拝受した方よりも、拒絶した方のほうが“大物”観があったりするかもしれません。

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 いずれにしても、近代日本はナショナリズム+対外的恐怖観から、先進国に肩を並べようと必死に欧米を追うのですが、その際に、対外的なコミュニケーションの手段としても(幕末、パリで薩摩藩(というより、その代理人モンブラン伯爵がその有効性を見事に証明している)勲章制度を整えざるを得なかった。そして制度がいったん作られてしまえば、その制度が拝受者とその他の人々の関係、さらには拒絶者との関係を決めていく。

 なにしろ、社会主義国家たる旧ソビエト連邦さえも、レーニン勲章赤旗勲章勝利勲章などを制定しているのですから。中華人民共和国も「中華民国を経て中華人民共和国の成立以後は2016年まで国家として勲章を制定することはなく」「スイスと並び国家級の勲章制度を施行していない時代を有していた」そうですが、どういうわけか、「2015年12月27日、12回全国人民代表大会常務委員会第十八回会議において、中国の国家勲章を制定する「中華人民共和国国家勲章と国家の栄誉称号法」を2016年1月1日から施行することが決定された」のだそうです。

 ということで、ナポレオンの至言「人間を動かすのは、そうした玩具なのだ」を、皆さんもあらためて噛みしめていただきたいと思います。

新入生の皆さんに向けて:トラベル・ライターは何をきっかけとして旅行記を書いたのか?

2018 8/13 総合政策学部の皆さん、とくに新入生の皆さんへ

 今回は『基礎演習ハンドブック』初版から、現在の改訂版からは削除されたコラム「新入生の方々へ 旅行記の世界~未知の世界へのいざない~」を再録・補足しながら、皆さんに未知の世界への誘いと旅行記の勧めをお送りします。

 さて、古来、旅をした人はその見聞を他者にも分かちあいたいという不思議な情熱に憑かれます。古典では、古代ギリシャの哲学者ソクラテスの弟子でありながら、傭兵としてペルシャに遠征、敗れて逃げ帰ったクセノフォンが記す『アナバシス』、ヴェネツィアの商人マルコ・ポーロの『東方見聞録』、モロッコから中国まで旅した中世イスラームの旅行家イブン=バットゥータの『三大陸周遊記』、人類初の世界周航を志しながらフィリッピンで戦死するマゼランの部下として、幸運にもスペインまで帰り着くことができた18人の一人、アントニオ・ピガフェッタが書き残した『マガリャンイス最初の世界一周航海』等があげられるでしょう。

 とくに欧米で生まれた旅行記の多くは、ヨーロッパ人が“未開”の地を訪れ、“未開人/野蛮人”に触れるというパターンで展開します。しかし、ヨーロッパ人たちはやがて、ひょっとして、“野蛮人たち”の方が堕落したヨーロッパ人より“高貴”ではないのか、という疑いにとらわれます。この怖れは18世紀のフランス百科全書派のドゥ二・ディドロが著した『ブーガンヴィル航海記補遺』から、南太平洋の小島の首長ツイアビの演説と伝えられるヨーロッパ的な価値観への異議申し立ての書『パパラギ』など、今日まで続きます。

 こうした視点で、19世紀、開国直後の日本を訪れた外国人たちによる“日本旅行記もの”、例えば、1878年に日本人通訳一人(通訳行の先駆者伊藤鶴吉)をつれただけで、女性として初めて東北~北海道を旅行したイザベラ・バードの『日本奥地紀行』と、江戸末期、御庭番より出世して万延元年(1860年)、日米修好通商条約批准書交換使節副使として渡米、異国の風情に素直な感想をもらす村垣淡路守の『遣米使日記』を読み比べるのも一興かもしれません。トロイ遺跡を発掘したハインリッヒ・シュリーマンもまた、発掘前の世界一周旅行で来日、記録を残しています(『シュリーマン旅行記清国・日本』)。

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 さて、これらの旅行記作家、今時でいうトラベル・ライターはどのような動機やきっかけで記録を残したのでしょうか?

 一つのパターンは、彼らが旅行を振り返る口述を筆記者が書き取るスタイルがあります。もちろん、聞き取り者がなみなみならぬ興味にかられて記録した場合もあれば、権力者(為政者)の指示によって記録が残った場合もある。もちろん、たまたま記録が残ったケースも含めて、様々です。

 例えば、『東方見聞録』はマルコ・ポーロの口述をイタリア人小説家のルスティケロ・ダ・ピサが、ピサとジェノバの両海洋都市国家間の戦争で、捕虜として獄中でしりあった時に採録編纂した旅行記とのことです。一方、『三大陸周遊記』は、モロッコを支配していたマリーン朝の首長が、30年にも及ぶ大旅行をおこなったイブン・バットゥータに命じて、口述を記載したものです。江戸時代半ば、484日間におよぶ漂流の末、英国船に救助されて紆余曲折の末、日本に帰還できた尾張藩の船頭重吉の『船長(ふなおさ)日記』は、新城藩(現愛知県新城市)家老・国学者の池田寛親による口述筆記です。

 一方、“記録者”として、最初から“書き残す”ことを意識しながら、大旅行に同行した者もいます。その典型がマジェランの大航海に同行したピガフェッタで、かれは旅行後にローマ教皇から体験記の出版を勧められ、“Relazione del Primo Viaggio Intorno Al Mondo”(『マガリャンイス最初の世界一周航海』)をロードス騎士団長リダランへの書簡の体裁で著した、とのことです(Wikipedia)。

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 そして、近代、“仕事”としてのトラベル・ライター、しかも女性旅行ライター(Victorian Lady Trabeler)として未踏の道を切り開き、最終的にはあのイギリス外務省からも貴重な情報提供者として遇されるに至った(そして、今思えば、文明批評家の風韻さえ帯びる)イザベラ・バードは実は病弱を理由に(イギリスから国外への)転地療法を受けたのがきっかけで、25歳で『英国女性の見たアメリカ』を、さらに44歳の時に旅先から故郷の妹に送った手紙を整理する形で『ハワイ諸島の6ヵ月間』を出版し、47歳では北米を経由して日本奥地を旅行(もちろん、外国人女性単身の日本旅行は空前のこと)、48歳で『一夫人のロッキー山中生活』を、49歳で『日本奥地紀行』を出版します(その年、手紙を送っていた最愛の妹が死亡)。その後、68歳で『揚子江とその奥地』を出版、72歳でなくなります。

 こうしてバードは個人的旅行者からやがて積極的なトラベル・ライターへの道を開拓していくのですが、その延長線上にやがて世界中を旅した植物画家マリアンヌ・ノース、中東の権威ともなった「砂漠の女王」ガートルード・ベル(彼女がアラビアのロレンスことT.E.ロレンスの指摘を無視したことが、現在のクルド問題につながったともいわれています;Wikipedia)、西アフリカを広く踏破したメアリ・キングスレーらへとつながっていきます。

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 さて、現代では旅行記も単純ではありません。もはや、“未開”の土地もなく、彼我の価値観の上下も定からない現代にあって、皆さんにお薦めの金字塔としてフランスの構造主義人類学者クロード・レヴィ=ストロースの『悲しき南回帰線』、スペイン内戦に自らまきこまれていく(アンガージュしていく)作家ジョージ・オーウェルのルポルタージュ文学の傑作『カタロニア賛歌』、動物園のために西アフリカに採集旅行を敢行する動物コレクターのジェラルド・ダレルの『積み過ぎた箱船』等がお薦めです。

 さらに日本人の作品では、武田百合子が夫の作家武田泰淳とともに旧ソ連を旅する『犬が星見た』、高度成長期の若者の好奇心が炸裂する小田実『なんでも見てやろう』、小田の10数年後にインドのデリーからロンドンまでバスの旅をたどる沢木耕太郎の『深夜特急』等をあげておきたいと思います。総合政策学部の皆さんも、是非、様々な土地に行き、そこの人々と交わり、そこでの経験を他の皆さんに伝えて下さい。

時間外労働について、甘粕元帝国陸軍大尉と残業代Part1

2018 8/5 総合政策学部の皆さんへ

 しばらく前まで国会で「働き方改革関連法案」こと正式名称「働き方改革を推進するための関係法律の整備に関する法律案」が与野党の攻防の焦点になっていましたが、そこで焦点とされた“裁量労働制”にからんで、日本の近代化において、“残業/時間外労働”という言葉=概念はそもそもどんな経緯で出現したのか気になりました。

 というのも、最近、“昭和の妖怪”こと岸信介の満州時代をもう少し知りたくて、『満州と岸信介:巨魁を生んだ幻の帝国』(太田尚樹、2015、KADOKAWA)という本をひもといていると、以下の記述が目をひいたからです(この本に関する限り、白色テロリストと見なされる元帝国陸軍大尉甘粕正彦の方が、主役たるべき岸よりもよほど印象的です)。

戦後、武藤富雄甘粕の思い出を語るとき、必ず出てきたエピソードがある。昭和13年秋のことだったが、ハルピン交響楽団を新京に呼んだ折、甘粕は協和会宣伝部の仕事を兼任していた武藤に向かって、会場係に駆り出された職員に、時間外労働させましたね。きちんと手当を払っておいて下さいと念を押したそうである

 さらに、次のような記述もでてきます。

終戦の数日前、甘粕は「日本人は一日も早く、祖国再建のために内地にお帰りなさい」と周囲の人間達に告げた。そこからの行動が如何にも甘粕らしい。満州興業銀行の口座から満映の貯金600万円を強引に引き出し、古海にも頼んで総務庁から200万円出させると、満州人社員には正規の退職金、日本人社員には平等に5000円ずつ分け与えた。そのとき甘粕は「満映の施設を破壊するようなことのないように。すべて満州と中国の人々に残すのです」と指示した

 関東大震災後の混乱に乗じて、アナキスト大杉栄とその妻伊藤野枝、さらに甥の甥・橘宗一の3名を拷問の末、虐殺(いわゆる甘粕事件)、その責をおって一人下獄、軍籍を失った後、軍上層部の手配によるフランス滞在を経て、満州国に流れ着き、数々の謀略に従事、「官僚ならではの狭量で潔癖にすぎる点」「ヒステリックで神経質、官僚的という性格が一般には知られていた」(Wikipedia)とされる甘粕が、部下の残業代さらには敗戦直後の退職金にまで心を配る様は(自らは最後の指示の直後に青酸カリで自死)、甘粕に殺された大杉執筆の『大杉栄自伝(=傑作です)』が大好きな私にとってつい考え込んでしまう一文です。

 ということで、大杉栄も甘粕もまた別の機会にとっておいて、本日は残業/時間外労働についてのお話です(皆さんも、卒業後は切実な問題ですよね)。

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 さて、あらためて申すと、“残業”とは“時間外労働”であり、つまりは“労働時間”の概念から生まれたことに違いありません。それでは「使用者または監督者の下で労働に服しなければならない時間(Wikipedia)」という近代的な労働時間とは?

 その基本的理念の源泉のひとつは、合理的資本主義者の祖の一人であるベンジャミン・フランクリンの十三徳の第3条「規律:物はすべて所を定めて置くべし。仕事はすべて時を定めてなすべし」、そして第8条「勤勉:時間を空費するなかれ。つねに何か益あることに従うべし。無用の行いはすべて断つべし」に裏打ちされたものでしょう。とくに「仕事はすべて時を定めてなすべし」に基づけば、資本家と労働者があらかじめ約束した“時”を越えて労働をさせた場合、時間外手当をはらうべきである(と甘粕はめざとく気がつく)のです。

 さて、こうした時間外手当の日本での起源はどこか? たとえば、江戸時代、加賀藩の経理にあたる“御算用者”の家業に従事している藩士猪山信之家の“入払帖(家計簿)”を研究した歴史家磯田道史先生の『武士の家計簿』をひもとくと(新潮新書の50頁、71頁に天保14年の収入や支出が記されています)、残業代のようなものはとくに言及されていないようです。

 それでは、武士以外の都市生活者、いわゆる“素町人”としての給与所得者の世界はどうだったか? 江戸時代の白木屋日本橋店(現在の東急百貨店)が残した膨大な“白木屋文書(現在は東京大学経済学部図書館で保存されているそうです)”を読み解いた油井宏子氏の『江戸奉公人の心得帖』(新潮新書242)では、「奉公人たちは、いくら給金をもらっていたのでしょうか。いつ、どのように給金がしはらわれていたのでしょうか。実はこれがよくわかならいのです」とあります。

 もっとも、日本橋店に遅れて開店した富沢町店の資料では、明和6年の『定法帳』に「この店には、これまで給金の規定がなかったので、このたび定めることにした。日本橋店と相談のうえ」とあって、元服前の(田舎から呼び寄せられたばかりの)子供には給金が渡されていないが、「元服後3年目までは4両、4年目の春からは5両、買いだし役となった時には6両、支配人(支配役)給金は10両。また、退職恩賞金として23年以上勤続のヒトには50両、支配人退役の時には100両」とあるそうです。当時、奉公人は店に住み込み(=当然、独身)で食事・住居費の心配はなく、衣類は夏冬に「仕着」をいただくというシステムです。その給金は直接支給されず、お仕着せ以外の衣類や店での食事以外の飲食物等を店を通して購入することで、店から借りることで1年の給金から差し引かれる、ということだった、と油井氏は推測しています。

 このように、私のような素人が手持ちの啓蒙書の類を探しても、なかなか江戸時代の“残業代”にたどり着けません。

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 そこでちょっと専門の本を持ち出しましょう。橋本毅彦・栗山茂久編『遅刻の誕生:近代日本における時間意識の形成』(2001年、三元社)は、皆さんも大学を卒業して社会に出る前に「いかに我々は近代的時間に支配されているのか?」を一考するのに参考になる好著ですが(もう一つお薦めは、いうまでもなくミヒャエル・エンデ原作『モモ』でしょう)、その第3章「近世の地域社会における時間」(森下徹)に、萩藩(いわゆる長州藩です)が1789年(寛政元年)に市中の大工さんの使役について定めた掟がでてきます(=人件費について公定レートを定めているのです)。

一 上大工は一人昼働を5時として、賃金は米1升・銭184文とする。中以下はこれに応じて規定する。
二 その額を書いた札を人別に公布するので、それ以上を雇用者が支給することを禁止する。
三 昼働5時以外に夜中まで使役したり、あるいは短時間のみ使役した場合は札に書いてある額を「時割」にし、それのさらに一割増しを支給する。

 著者の森下はこの結果から、「ほぼ18世紀半ばを境にして、一日丸まる拘束されるようなあり方から、時間で労働量を測り、それに応じて賃金を支給するあり方に変わった」、「一日の労働時間がより短く算定され」「「時割」での賃金の支給(しかも割増し)もあったことも知られる」としています。ちなみに、この1789年にはベンジャミン・フランクリンはまだ存命中(なくなるのは翌1790年)、時間と仕事の関係についての近代化が、図らずも太平洋を隔てて同時に進行していたことがわかります。 (この項 to be continued・・・・・・・・)

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...