翻訳についてPart5:英米文学におけるアフロ系アメリカ人の話し言葉をどう訳すべきか?

2018 8/25 総合政策学部の皆さんへ

 最近では“グローバリズム”という言葉を聞かぬ日もないぐらいですが、そこで一番用心すべきは“翻訳”、あるいは“通訳”かもしれません。気がつかぬうちに“フェイクな情報”を掴まされてしまうかもしれません、しかも“翻訳/通訳者”には悪意もなければ、自覚もないうちに。

 例えば、このブログでも以前(2011 6/22)「翻訳についてPart2誤訳編:“ポケットに蠅を”?、そして“ノルウェーのネズミ”とは?」で誤訳について論じました。たとえば、「ポケットに蝿を」という訳は、英語の“fly”を文脈から察するに「毛針」 のはずなので本当は「ポケットに毛針を」の意味であり、「ノルウェーのネズミ」とは“Norway rat”を本来の意味である「ドブネズミ」ではなく「ノルウェーのネズミ」と直訳してしまったことに由来します。

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 さて、本日扱うのはこうした明確な“誤訳”ではなく、もう少し微妙なニュアンス、例えば、「話し言葉」を訳する時の問題です。一例をあげると、一時期(今もそうかもしれませんが)アメリカ文学、とくに南部文学においてアフロ・アメリカンによる「話し言葉」を独特の“方言”っぽい言葉に訳するのが一般的でした。たとえば、マーク・トゥエインの傑作『ハックルベリー・フィンの冒険』(この作品からアメリカ文学が始まった、というのがノーベル賞作家E・ヘミングウェイの指摘ですが)で、ハックが逃亡してきた旧知の黒人奴隷ジムにばったり出会うシーンですが、ジムは(とっさに「死んだはずだから、幽霊に違いない」と思い込んだ)ハックに叫びます。

助けてくれ-お願えだ! おらは幽霊にわるさをしたこたあ一ペンだってねえだ。いつだって、死んだ人は好きだけん、死んだ人にはできる限り尽くしてきただ。おめえ様はもう一ぺん川さ戻りなされ、あそこがおめえ様のいなさるとこだ。このジムおんじいば、そっとしておいてつかわさい。いっつもおめえ様の仲良しだったでねえだか」(野崎孝訳『ハックルベリー・フィンの冒険』講談社文庫版)

 さて、このジムが話す(ハックの台詞の訳とは少し異なる)方言ともなんともつかぬ表現。これこそが、日本で英米文学を訳する時、黒人奴隷あるいはその出身者の口調を表そうと日本の翻訳者が使っていた表現です。正直に言えば、こうした文学表現を当たり前にうけとって育った僕らの世代は、こうした(ある意味、黒人奴隷と日本の方言話者双方に対する差別的とも言えかねない)言い回しになんの疑問も持たずに育ちました。

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 一方で、アメリカ育ちの文学者がこうした文章を眼にした時に、どう感じるのでしょうか? 以下、ちょっと長い引用ですが、アメリカ人の立場から日本の翻訳本の世界を論じたものです。

本論は日常的な経験とそれに対するささいな疑問から生まれたものである。数年前に筆者(ロング)がァメリカ映画の日本語吹き替え版で黒人の登場人物はみんな東北弁で話していることに気付いた。また、老人が登場すると人種に関係なく広島弁をしゃべる。こうした映画を見て、「なぜアフリカ系のアメリカ人は日本の東北弁を話すのか」、そしてなぜ人が年を取ると広島弁になってしまぅのか」と不思議に思った」(中略)

例えば、ある映画に登場する無教養の田舎者は原作で南部訛りの英語を話している。これは、「南部方言は無教養の田舎者が話す言葉である」と示唆している。日本語の方言に対するイメージを調べるためには、その方言がどういう登場人物に使われているかを調べればよい。日本語吹き替え版で、この無教養の田舎者は東北弁を使わされている。したがって、日本で「東北弁は無教養の田舎者が話す言葉である」というイメージがあることが分かる

こうした理由で使われる日本語の方言は象徴的なものであり、しかも方言の専門家ではなく、一般人のために使われているので、言語学的に正確な方言である必要はない。また、特定な方言である必要もない。むしろ、場合によって、人物の二つの特徴を表現するため、異なった方言特徴が混用されることすらある。今回の黒人老人が「老人語」と意識されている中国地方の方言と黒人の話し方として定着している東北弁の両方の特徴が混ざったセリフを使うのもこの例に当たる。今回扱った資料で東北方言が教養のない社会的に身分の低い人々のセリフ に使われていたので、東北方言が決して良い方に写っているとは言えない。これまでの方言意識研究でも、こうした方言イメージがたびたび取り上げられた。井上史雄(1989)のSD(意味微分)法による方言イメージ研究では、「東北弁」が若「い女性にふさわしくない」、「ぞんざい」、「悪いことば」、「乱暴」、「汚い」といった否定的な特徴と結ばれることが多かった。こうした傾向が、東京や札幌、京都の出身者の間だけではなく、東北出身者の間にさえ見られたのである」(ダニエル・ロング・朝日祥之「翻訳と方言:映画の吹き替え翻訳に見られる日米の方言観」『日本語学』1999)

 いかがでしょうか? 異国の言葉を“翻訳する”際に、そこにゆくりもなく自らの“偏見的解釈”が忍び込み、それが言葉を通じて読者に拡大再生産されていく過程がおわかりになるでしょうか? この引用文で最後に著者らは以下のように主張します。

方言差別をなくすためには、まず問題の実態を把握する必要がある。日本では、方言イメージ研究は長い歴史を持っており、そしてさまざまな方法論の利用によつて、研究対象を複数の側面から接近することができた。本稿で提案した研究方法によつて、社会の一般構成員が潜在的に抱いている方言一ステレオタイプの今まで見えてこなかった側面から把握することができると確信している

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 さて、他者の文学を翻訳する際に垣間見える自らの言語観・偏見・差別を考えることで、自らを省みましょう、というのが本日のストーリーということになりますが、それではどんなふうに訳せばよいのでしょうか? 2017年12月に出版されたばかりの柴田元幸訳による『ハックルベリー・フィンの冒険』の冒険では、さきほどのジムの台詞は以下のように書かれています。

いたい目にあわせないでくれ-たのむよ! おれユウレイにわるさしたこといっぺんもねえよ。おれいつだって死んだ人たちが好きだったし、できるだけのことはしてやったよ。あんたも川にもどってくれよ、あそこがあんたのいばしょだよ。このジムになにもしねえでくれよ、おれいつも、あんたのともだちだったろ」

 
 どうでしょうか? 「東北弁」のような「奴隷言葉」に訳すうちに、知らず知らずにハックとジムの関係をすり込まれていく、そんな翻訳の世界からまったく新しい言語感覚の世界にはいっていくべき時がきたのかもしれません。

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高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...