2018年9月

保守と革新:“革新官僚”とは誰のことか?

2018 9/29 総合政策学部の皆様へ

 最近、「自民党や維新の会は新しいことをやろうとしているので“革新”では?」、そして「共産党などは現状を守ろうとするので“保守”では?」という話題がささやかれているとのことですが(「「自民党こそリベラルで革新的」——20代の「保守・リベラル」観はこんなに変わってきている」https://www.businessinsider.jp/post-106486)、ことほどさように我々は、“保守”だとか、“革新”だと、あるいは“リベラル”等という、自分たちが使っている言葉の意味をあまり深く考えもせず、発していることが多いようです。

 というのも、かつて(今から80年ほど前には)、“革新官僚”と言えば、「1937年に内閣調査局を前身とする企画庁が、日中戦争の全面化に伴って資源局と合同して企画院に改編された際、同院を拠点として戦時統制経済の実現を図った官僚層のことをさす。のちに国家総動員法などの総動員計画の作成に当たった」(Wikipedia)だったわけで、大陸に対する軍事的傾斜を支えるべく、かつ万一、英、米、ソ連との総力戦に突入した場合に備え、国家体制を整えることに邁進することこそ“革新官僚”だったわけです。その点では“革新”というは“相対的”評価であり、「現状と異なることにもっていきたい」ぐらいの意味でしかないかもしれません。問題は「どの方向に、現状を変えたいのか?」ということにほかならないはずなのですが。

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 それはさておき、昭和初期、つまり日中戦争から第2次世界大戦に突入しようという時期、どなたがその“革新官僚”の筆頭だったかと言えば、なにを隠そう、安部現首相の祖父、岸信介こそ、その巨魁にほかなりません。そして彼らは来るべき世界大戦で予想される総力戦に突入すべく、国家総動員のモデルとしたのが「ソ連の計画経済であり、秘密裡にはマルクス主義が研究されていた。現に革新官僚たちはソ連の五カ年計画方式を導入した」(Wikipedia)とされています。

 こうした流れをめざとくも読みとったのは、このブログでしばしば触れてきた阪急の実質的創設者にして、関学の上ヶ原移転でお世話になった小林一三(当時、近衛内閣の商工大臣)にほかならず、「あれはアカの発想である。役人の間にアカがいる」と主張、企画院事件によって部下の商工省事務次官の岸の首をとりますが、その後、自らも辞任に追い込まれます。

 さて、その「国家総動員」と「5ヵ年計画」の関係については、岸自身に語ってもらいましょう(出典は『岸信介の回想』講談社学術文庫版)。

岸:(ソ連の第一次5ヵ年を)初めて知った時には、ある程度のショックを受けましたね。今までわれわれのなじんでいる自由経済とはまったく違うものだし、目標を定めて、それを達成しようという意欲というか考え方に脅威を感じたことを覚えている。しかし果たしてああいうものが計画どおりにゆくものかどうかということに対しては、一つの疑問はもっていた。(こちらも革新官僚である)吉野さんはなどははっきりしていて、こんなものはできるはずがない、と吐き捨てるように言っていた。
矢次食事をする会だったかで、吉野さんはロシアの第一次五ヵ年計画を知って、ソ連は恐るに足りない、成功する可能性はない。しかしこれを俺にやらせてくれれば、必ず大成功させてみるがねと言っていたことがある(笑)。

 この吉野の豪語こそは、“官僚”としての矜持というものでしょう。そして、統制経済とは、当時の常識からすればまさに“革新”的発想だったわけです。とは言え、「ソ連恐るに足らず」とは官僚として判断力不足だったかもしれません(そのあたりは、例えば、第2次世界大戦時のソ連の戦車T-34と、日本軍の最新の主力戦車としての一式中戦車を比較すれば歴然としています)。

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 さて、こうした事情を見ると、Wikipediaに“革新官僚”としてリストアップされた方々の、戦中から戦後にかけての履歴=末路はにわかに濃い陰影を帯びてきます。例えば、以下の方々は戦後になるといわゆる左派=社会主義者系として活動しており、「アカの思想だ」と喝破した逸翁こと小林一三の予言通りと言えなくもありません。

和田博雄:第1次吉田内閣で農林大臣、片山内閣で経済安定本部総務長官、物価庁長官、左派社会党政策審議会長・書記長、日本社会党政策審議会長・国際局長・副委員長
勝間田清一:1947年に社会党から立候補して衆議院議員当選、のち日本社会党委員長
帆足計:1947年、東京都選挙区から無所属で参議院議員立候補、当選。のち社会党から衆議院議員

 一方、同じ“革新官僚”ながら、自民党に続く保守政党に属し、1946年に国家総動員法が廃止されるもそののちのいわゆる1955年体制をになった方々としては、
岸信介(商工省時代は、下記吉野の部下、そして椎名の上司)
吉野信次:公職追放後、参院当選、鳩山内閣の運輸大臣。大正デモクラシーで著明な吉野作造の弟。
椎名悦三郎:商工次官から、戦後は自民党代議士、内閣官房長官、通商産業大臣、外務大臣等。
高村坂彦:衆院議員から徳山市長を経て、再び衆院議員(元外務大臣の高村正彦は4男)

 さらに、戦争から敗戦を経て、不幸な道筋(暗殺あるいは挫折)をたどった者として、

永田鉄山:陸軍省軍務局長(陸軍少将)在任中、統制派と皇道派の抗争で相沢三郎陸軍中佐に暗殺されます。
白鳥敏夫:イタリア大使として三国同盟締結にかかわるも、敗戦後、A級戦犯として指定を受けた。巣鴨拘置所に終身禁固刑の判決が下るも、病死。

 こうしてみると、人生のある時期、“革新”という言葉でくくられても、その行く末は定かならず、様々な道行きがあるというべきかもしれません。その岸ですが、実は、東京裁判での(結局不起訴とはなるにせよ)A級戦犯被疑者から釈放されたのち、いったんは日本社会党に入党しようとします(党内からの反対で、結局、自由党に入党)。このあたりも“革新”者がこれからの道筋を選ぼうとする際の迷いのようなものを感じさせないわけでもありません。

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 さて、戦前に資本主義リベラリストの小林一三が「アカ」だと評した革新官僚の一人、正木千冬は戦後の回想で「ナチスの社会経済機構なんか研究してみたり、経済統制を強化するという線で提言してみたり、いまになってみれば本当に左翼的な立場で戦争を批判していたのか、あのような資本主義の生ぬるい戦争経済じゃ駄目だから、もっと戦時統制を強化しようという促進のほうに向いていたか、はっきりしません」と漏らします。

 そして、「統制経済というのは、一歩ひっくり返せば社会主義経済に繋がりますからね」との質問に、「そう、その時分、紙一重です。迫水(迫水久常)にしても毛里(毛里英於菟)にしても、その時分の革新官僚の連中は、ほとんど紙一重ですよ。ナチス的とも言えるし、社会主義的とも言えるし、真からの資本主義を信仰していないという点で言えば、彼らもアカだったと言えるでしょう。私もそこにいたんです」と回想しているとのこと(Wikipedia)。

 しかし、こちらの方の議論でも、統制経済/計画経済はあえなくアメリカ合衆国の“資本主義”に圧倒されてしまうわけです(そのあたりは、森本忠夫『マクロ経済から見た太平洋戦争』[PHP新書]をご覧下さい)。

 こうした経緯を振り返れば、皆さんも、“保守”vs.“革新”だとか、“右翼”vs.“左翼”などのレッテル貼りを簡単に信じてはいけない、と思いませんか?

時間外労働について、甘粕元大尉と残業代Part2

2018 9/16 総合政策学部の皆さんへ

 前編「時間外労働について、甘粕元大尉と残業代Part1」では、橋本毅彦・栗山茂久編『遅刻の誕生:近代日本における時間意識の形成』(2001年、三元社)第3章「近世の地域社会における時間」(森下徹)から、萩藩においては18世紀半ば頃から、仕事と時間の関係が変わり、その結果として“残業代”らしき概念がうまれてきた顛末を紹介しました。まさに“近代化”です。“遅刻”の概念と“残業代”の概念が、ほぼ同時に生まれてきます。

 こうした概念は、様々な社会階層で同時多発的に進行したようです。Part1で紹介した白木屋日本橋店ではよくわからない“残業代”ですが、実は、同時代、同じ江戸店であった三井越後屋では、労働管理の一貫として勤怠管理を施行していたとこのことです(瓦版HP「江戸時代に三井越後屋が築いた勤怠管理の方法」https://w-kawara.jp/making-efficient/attendance-management-method-made-in-the-edo-period/)。「昼夜勤仕録」という記録では、

(1)江戸時代の不定時法(季節による日照時間長の変化にあわせる)で皆勤時間を設定
(2)休んだ労働者には「朱星」が、病欠等は「黒星」が記録される。なお、公休や店舗が定めた休日、喪中はこの対象としない。
(3)残業をした場合には「朱星」を預かり扱いとする。
(4)三井家は、期間分の記録をもとに褒賞を検討:1ヵ月で「朱星」が8つほどあれば皆勤扱いとする。

 つまり、残業した場合は期間ごとに朱星を集計して、皆勤時間として評価した上で給与全体に補填するというシステムのようです。

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 こうして江戸期も進めば、雇用側も被雇用者も、労働時間と時間外手当を否応なしに意識せざるをえなくない。それでは、日本の近代化において次はどのような展開になったのか? 同じ『遅刻の誕生』の第4章「二つの時刻、三つの労働時間」(鈴木淳執筆)では、1865年(造船所元治2年)フランス人の指導のもとに創業した横須賀造船所(明治維新後は横須賀海軍工廠)に関する勘定奉行の伺いを紹介しています。

御軍艦鍛冶職等の義、御定め賃銀1日銀7匁8分づつのところ、右は朝五つ時頃より夕7時までの賃銀にて、大早出、大居残り等仕り候らえば、右賃銀の倍増相渡し候義にこれあり」

 このように労働時間を定めるとともに、早出/居残りの場合は賃銀を倍にするという施策です。鈴木はこうした状況から、「幕末の幕府は少々の残業は無償で、大幅なら日当の倍額支給というおおざっぱかつ多分に恩恵的な給与を行っていた」としています。こうしてPart1の末尾でも紹介していたように、江戸時代日本で内在的に進行していた近代化は、黒船来航を嚆矢とする外圧によってさらに加速します。

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 さて、皆さんもご存知のように明治に入ると、近代化にともない賃銀労働者は激増します。とは言え、雇用者はできるだけ安く雇用しようとします。上記の論文で鈴木は1883年から1892年にかけての富岡製糸場の年度平均1日あたりの労働時間・年度職工賃銀・生糸生産高を比較して、実労働時間が8時間40分から10時間2分に増え、生産高は3415貫から3722貫に増えたにもかかわらず、賃銀総額は8,998円から8,350円に減少しており、「賃銀の上昇なく労働時間が延長されたと考えざるを得ない」と指摘しています。

 つまり、近代的時間意識は雇用者側にも被雇用者側にも未熟であり、雇用者はそれにつけこんで低賃金労働を強いる結果となったのでしょう。こうした状況下、時間外労働あるいは残業代については具体的資料に乏しいようです。

 鈴木氏がここで持ち出すのは例によって横須賀造船所の1878年(明治11年)1月の規定で、これが現在確認可能な残業に関する最初の資料とのことです。それによると、「残業する職工に対して1時間分の賃銀を基準として残業1時間についきその1.5倍、午後10時から午前4時は2倍を支給するとある。残業に入ったとたんに支給率が上がっている」。ところが「1884年3月には海軍の工場すべてを通じて定業から午後7時までは1倍、午後7~10時・午前4時~起業時までが1.5倍、午後10時~午前4時は2倍に変更される。・・・3時間程度前の残業へは、正規の時間内と同様の賃銀しか給せられなくなった・・・・この程度の残業が常態化していたことをしめすのではないだろうか」。

 鈴木氏はさらに横須賀造船所をはじめとする陸海軍工廠での作業は、民間企業とことなり、緊急の修理作業等の比重が高く、さらに戦時ともなれば、不規則な長時間労働が生じた可能性も指摘しています。日本企業における、いわゆる“ブラック企業化”がこのあたりからはじまったのかもしれません。

 いずれにせよ、明治初期、日本における労働時間の概念の確立と時間外労働に対する手当(=残業代)をめぐり、雇用被雇用者の間に様々な駆け引きがあったようです。皆さんも、職業を選ぶとき、こうした労働時間と賃銀、さらには雇用者と被雇用者の駆け引きなどをきちんと頭に入れて置いて下さいね。

翻訳について番外編Part1:森山多吉郎に見る長崎通事の栄光とライフヒストリー、あるいは幕末キャリアプラン

2018 9/5 総合政策学部の皆さんへ

 翻訳について番外編、今回のマクラとして、皆さんは“長崎通事”のことをご存知ですか?

 Wikipediaでは「江戸幕府の世襲役人で公式の通訳者のこと」、「ポルトガルとの南蛮貿易の際の通訳に始まり、オランダ貿易や中国貿易などを担当した。漢字は通事、通辞、通弁などとも書き、出島役人などとも言う」、「蘭学などが彼らによって日本に入ってきたように、西洋文化受容の受け皿となっていた」とあります。江戸時代、家業によって身分保障されていたことにより、通詞の家系は仕事を保証されていたとも言えますが、一生、通詞のままで過ごすということもまた“予定”されていた。
 
 しかし、幕末、彼らは“黒船”などの来航に際し、英語やロシア語の習得まで求められます。さらに、思っても見なかった幕臣への出世まで起こりうる。外国語さえできれば“食える”し、そのまま“出世”もできる(この時生まれた“外国語・外国文化コンプレックス”が、現代日本に生きる我々のあたりまでも色濃く烙印されている、とも言えますが;なにしろ、英語が読めるという理由で、こちらも軽輩出身の伊藤博文が第1代総理大臣に就任する時代です)。

 それでは、この乱世に自らも小普請組から幕府陸軍総裁に就任し、御一新後は枢密顧問官まで勤める(それゆえ、福沢諭吉に非難されてしまうことになりますが)勝海舟が「時世で人が出来て、逆境がよく人をこさえる」と語った時代における、彼らの人生をちょっと紹介してみましょう。

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 まず、代表格の一人は森山栄之助/多吉郎(1820~1871)でしょう。代々の長崎オランダ通詞の家柄に生まれながら、蘭語以外に英語も勉強し、嘉永元年(1848)にはアメリカ捕鯨船船員ラナルド・マクドナルド、嘉永6年(1853)のプチャーチン来航、さらに嘉永7年(1854)のペリー来航でも通訳を務め、ついに長崎を離れて江戸詰めになります(1858年8月、外国奉行支配勘定格に任ぜらえる)。一躍、日本の対外外交の最先端に連なることになります。

 ちなみに、手元にあった『ペリー提督日本遠征日記』(小学館版)では、4月6日の項に「村や集落に私たちが入ろうとすると、一足先に人がやられて、女や下層民を追い払っているのに気がついた。これを通訳の森山に言うと、「それは女たちが内気で恥ずかしがり屋だからだ」と彼はしたり顔で答えた。「しかし、そんな話はまったく信じられない」と私が言うと-辛辣過ぎるとは思わない。なにしろ、日本の通訳の仕事は嘘をつくことなのだ-、次ぎに行く村では軽い食事を用意させているが、そこでは女たちを追い払わないようにする、と彼は約束した。そういうわけで、その村に入るとだれもかれも-男も女も子供も-見物に集まってきた」とでてきます。しかし、この後の日米の交渉では、アメリカ側も結構“嘘談(うそ)”を重ねては、幕府側に密かに見破られるなど、結構良い勝負だったようです(井上勝生『幕末・維新』岩波新書)。

 なお、この時の交渉について、ペリーは「林(林大学頭の述斎=幕府側全権)と私の間には、主席通訳の森山栄之助がひざまずいており、やりとりはすべて彼を通して行われた。まず私が英語でポートマン氏に言うと、彼がそれをオランダ語で森山に伝え、今度は森山が日本語に訳して主席委員に伝えるのである。返答は同じようにして私に伝えられた。書面での通信は、こちらから英語、オランダ語、中国語で手渡し、返書は人後、オランダ語、中国語で戻ってくる。翻訳文については、かならず主席通訳の署名が添えられていた」とまとめています。

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 それでは、その森山の英語の実力は?

 ペリー来航前の長崎通詞時代、森山は幸いにして上記の不法入国者として長崎に入牢中のマクドナルドから、本木昌左衛門等とともに、7ヵ月にわたって英語を習った経験がありました。そのマクドナルドによれば、「 私にむかって一度にひとりが英語を読むことが彼らの習慣であった。私の役目は彼らの発音を正し, 出来得る限り日本語で英語の意味や構造等を説明することで あった」とのこと(森悟、1989「森山栄之助研究」『英学史研究』 21号)。これが日本における英語教育の走りなのです。

 ちなみにマクドナルド自身は森山の英語に「He spoke English pretty fluently, and even grammatically. His pronunciation was peculiar, but it was surprisingly in command of combinations of letters and syllables foreign to the Japanese tongue」(彼の英語はかなり流暢で、文法的でさえあったが、発音は変であった。しかし日本人の舌に合わぬ文字や音節の連結を驚くほどうま く使いこなした)と評したそうです。なんとなく「文法はまあまだが、発音が不得意」と形容される日本人の英語下手が想起されます。

 とはいえ、ペリーとの交渉では上記のようにオランダ語を通じてのものとなりましたが、森山は次第に英語に磨きをかけます。1859年、初代英国総領事に任命されたラザフォード・オールコックによれば、(1)文久2年(1862)に通訳として欧州に派遣される以前は、森山は「英語をすこししか話さなかった」が、(2)旅の途中に「イギリス人とも、 情報の交換ができるほど英語を話し理解するようになっていた」、そして、(3)帰国する頃は「ひじょうに語学が進歩していた」としています。やはり実地のコミュニケーションの経験こそが重要なのですね。

 ちなみに『福翁自伝』では、横浜で(適塾で一心不乱に勉強した)蘭語がまったく通用しないことに愕然とした福沢諭吉は「段々に聞いてみると、その時に条約を結ぶというがため、長崎の通事の森山多吉郎という人が、江戸に来て幕府の御用をつとめている」ということで、教えを請いにいきますが、「昨今御用が多くて大変に忙しい、けれども折角習おうというのならば教えて進ぜよう、ついては毎日出棺前、朝早く来い」と言われたのですが、「如何しても教えてくれる暇がない。それは森山の不親切という訳ではない。条約を結ぼうという時だから、なかなか忙しくて実際に教える暇がありはしない」ということで、紆余曲折の結果、福沢は後の陸軍少将・東京砲兵工廠長の原田敬策と独学で英語を勉強、咸臨丸でアメリカ来訪時、サンフランシスコの写真館での肖像写真を撮影時に、店の15歳になった娘さんをさそって一緒に写真におさまるまでになります。

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 その森山に通訳としての対応者が現れます。それがペリー来航で締結された条約にしたがって来日した初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリス付き通訳にして、生涯独身をつらぬき謹厳実直で、かつすぐに感情が激する上司とはいささか異なり、「食べること、飲むこと、眠ることだけは忘れないが、その他のことはあまり気にしない(ハリスの評)」闊達なオランダ生まれの青年ヒュースケンです(その闊達さが仇となったか、1861年、攘夷派の薩摩藩士伊牟田尚平らに暗殺されてしまいます)。

 この『ヒュースケン日本日記』(岩波文庫版)によれば、彼は下田到着後の1857年2月23日(日本の旧暦では安政4年1月29日)、カゴで案内された下田奉行所で歓待をうけながら、通訳森山に出会っています。日記には「第1奉行はそこで、彼の通訳のモリヤマ・タキツィロ(=もちろん、森山多吉郎)を通じて、こう説明した。身分のある人物が同様に身分の高い客を迎えて深い敬意を示そうと思うときは、手ずからお茶を入れてもてなすのだが、第一奉行は、親愛なる総領事閣下に敬意を表するために、いまそのおもてなしをしようと思う、と

 ハリスと日本側の虚々実々のやり取りの末、日米修好通商条約が成立する過程で、ヒュースケンの日記に森山の影が絶えずちらつきます。例えば、同年9月2日、「二人の奉行のところから使者として森山栄之助がやってきた。彼は昨日の要求を繰り返し、領事が信濃守の要求を入れなければ、信濃守はおそらく備後守の二の舞を演ずるであろうと言った。それに対する回答として、彼は私がたった今封をしたばかりの手紙を与えられた」。

 9月4日「ひきつづき奉行たちと会談。うんざりするような繰り言しか出てこない。彼らはけっして提案を拒絶したわけではないと主張する。彼らは通訳主任の森山に腹を立てている。そのため彼は会議に出席していない。彼らは自分たちが提案を拒絶したと領事が主張するなら、それは自分たちの言葉を通訳が正確に翻訳していないのだと言うのである。そこで今日は他の通訳が二人来ているが、その二人をあわせても森山一人分のオランダ語も知らないのである。それがさらに事態を悪化させている。つまりそれは拒絶した提案を復活させようがための奉行たちの小細工なのである」。こうなると、森山&ヒュースケン双方の通訳たちはなかなか大変です。

 しかしながら、交渉は進み、1857年12月4日(安政4年10月18日)ハリスとヒュースケンは下田から江戸に出府、まず老中堀田備中守に会見、この時の通訳も森山が勤めます。そして同月7日江戸城にて第13代将軍徳川家定に拝謁します。以下、ヒュースケンの日記には、ハリスの言葉に対して「大君(家定)は三度床を踏みならし、そして日本語で答えた。“Vergenoegd met eenen brief gezonden met den afgezant van een verafgelegen gewest en tevens met zyn gesprek. Eeuwig zal Gemeenschap gehouden worden”.これは通訳森山多吉郎のオランダ語で、意味は「はるか遠国より使節に託して寄せられた書簡をうれしく思う。また、使節の口上もよろこばしく聴いた。末永く交誼を保ちたいものである」ということである。この挨拶には人称代名詞がなかった。大君は「私」などという小さな言語を使うには偉大過ぎるからである

 この森山は幕府崩壊の直前、慶応3年 (1867)9月には兵庫奉行支配組頭に出世していますが、維新後に新政府に仕えることはなく、明治4年3月15日(1871年5月4日)、享年51歳で亡くなります。家業として親しんだオランダ語と偶然にも学ぶ機会を得た英語を駆使し、幕末の国際関係にからんで様々な重圧のもと、消耗し尽した人生だったのかもしれません。あるいは幕末の頃、守旧派や攘夷派そして世間全体に痛めつけられ、振り回された洋学者の一人として、攘夷を標榜としている新体制を信じ切れなかったのかもしれません(福沢諭吉も同じ頃、“攘夷派あがりの新政府”を警戒して出仕を断ります)。

 それでは、森山の遺志を誰がどのように継いだのか? そのあたりはPart2で続けましょう。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...