2018年10月

翻訳について番外編Part2:森山多吉郎の後輩たちに見る長崎通事の栄光と幕末キャリアプラン

2018 10/12 総合政策学部の皆さんへ

 翻訳について番外編Part1の続編、主人公は森山に江戸で英語を学んだ同じ長崎通事出身の福地源一郎(号桜痴)に交替です。福地は安政6年(1859年)、青雲の志をいだき19歳で江戸に上京、郷里の先輩森山に師事しますが、後年、『懐往事談』に書き残した回想では、

 (森山)先生は通称多吉郎とて、長崎オランダ通詞の出身、数年前より徴されて江戸に来たり。常に江戸下田の間を往復してもっぱら条約のことにかかわり、当時は外国奉行支配調べ役並格にて外交の通詞を任じ、幕府外交のことについては最も勤労を尽くしたる人なりき。(略)江戸にて英語を解し英書を読みたる人は、この森山先生と中浜万次郎氏との両人のみなりければ、余はこの先生について学びたるなり。

 もっとも、師弟たちの苦心の英語修業も、幕府から命じられたことではなく、各人の個人的努力です。『懐往事談』には同年6月、外国人居留地がある横浜(運上所=現在の税関)への出張を命じられ、(福沢と同様)福地は、以下のように気づきます。オランダ語に固執していれば、通詞としての自分の仕事は安泰ですが、どうやらそれでは済まされない。上層部は何の指示をしなくとも、自ずから勉強せざるをえない=近代的自我の誕生とも言えるかもしれません。

 英語は実際欠くべからざる用語にて、(日本語文書とオランダ語文書でのやりとりを定めた)条約を頑守してはとても双方の用便にさしつかえる」ことに気づきます。そして「余輩が少々ばかりならい覚えたる英語も、この時には大いにその便利を感じ、これよりして英語修練は外交上大切なる事務とはあいなりたり。しかれども、幕府はあえてこれを奨励することをもなさず、また、そのために修業の道を開きたる事もなかりき。

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 とは言え、すでに森山が伐り開いた道がある=個人的な興味であれ、外国語を学べば立身出世(=しがない長崎通詞から公方様直臣へ)につながる。すでにロールモデルが存在し、一つのキャリアコースが成立済みです(実を言えば、これこそ外国語で出世していく=伊藤博文、青木周蔵金子堅太郎などの明治新政府のキャリアコースにつながります)。福地はこちらのコースを選択した結果、必然的に、当時の体制派=幕藩体制の支持者にもなります。そんなかつての(先を見誤った)軽躁な日々を反省するのは、明治になって事がすべて済んでから、という始末です。

 (自分は)もとより純乎たる佐幕主義にて、いやしくも時勢許るさん限りはあくまでも幕府独裁の制を保守せんと望み、深く京都の干渉と諸藩の横暴を憎み、かの公武合体といい諸藩会議というがごとき、合議政体と幕府独裁とは両立すべきものにあらずと主張せしものなり」として、「感情に劇せらるるごとに知らずしらず持見を動揺して、条理の分別をみだし、適性の定説をあやまること、この時始まれり。

 福地はさらには慶応3年12月、主戦論に惑わされ、江戸城よりはるばる大阪に出向きながら、その幕軍が鳥羽伏見の戦に大敗、あまつさえ首領であるはずの徳川慶喜が(ほとんど誰にも知らせずに)大阪城立ち退きを決行して、海路、江戸に舞い戻る始末です! 江戸に上陸するや慶喜は謹慎中の勝海舟を呼びつけます。彼の心はすでに恭順と決し、勝にその交渉をあたらせる腹づもりだったのでしょう。急を聞いてかけつけた勝は、

 みんなは、海軍局のところへ集まって、火を焚いていた。慶喜公は、洋服で、刀をカウかけて居られた。オレはお辞儀もなにもしない。頭から、みなにサウ言うた。「アナタ方、何と言う事だ。これだから、私が言わない事ぢゃあない、もうかうなってから、どうなさる積もりだ」とひどく言った。「上様の前だから」と、人が注意したが、きかぬ風をして、十分言った。刀をコウ、ワキにかかへて大層罵った。己を切ってでもしまふかと思ったら、誰も、青菜のやうで、少しも勇気はない。かくまで弱って居るかと、己は涙のこぼれるほど嘆息したよ。(勝海舟(江藤淳・松浦玲編)『海舟語録』講談社学術文庫版)

 勝が目の当たりにした光景は、それまでの国家の体制が一気に崩れ落ちるとともに、福地をはじめとする佐幕派の希望が潰えた瞬間なのです。

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 さて、首領(=慶喜)にまんまと置き去りされた福地らは、這々の体で江戸に舞い戻りますが、慶喜や幕閣がすでに非戦に心を決したとしても、幕府倒壊という未曾有の事態に人心さだまりません。勝もここでは「裏切り者」にほかなりません。

 あるいは相率いて脱走する者もあり、あるいは、勝安房守は降伏論の主張者なれば暗殺すべし、と叫ぶ者もありて、人心ますます昂激し、ほとんど全幅の感情のみ左右せられて、道理は自他の耳にはいらざるほどのありさまにてありき。

 なお主戦論を侍してやまず、あるいは近々米国より回航すべき我が注文の軍艦(甲鉄船の東艦)を海上沖に待ち受けて受け取るべし、と同志に語わられては、これを行わんと試み、あるいは仏国によしみを通じてその調停の干渉を乞い、その言聞かれざる時は、仏国の兵力を借りて幕府に応接せしめんことを望、口に任せて説きまわりたりしが、今日より回顧すれば、実に国家と言える観念は我らが胸中にはみじんもなく、さらに将来の利害禍福を察するにいとまなかりしは、慄然としてわれながら身の毛もよだつ程にてありき。

 その日々を反省するのは、先にも言ったように、明治の御一新も軌道にのってから。振り返って見れば、かつての「論語読みの論語知らず」ぶりに、我ながらあきれますが、しかし、これは国家、国民、民族などの概念を一度に消化するためにはやむを得ぬことではあったでしょう。

 そのころはすでにいささか洋書も読みて、万国公法がどうでござるの、外国交際がかようでござるの、国家は云々、独立はかくかく、などなど、読みかじり聞きかじりにて、ずいぶん生まぎぎなる説を吐きて人を驚かし、もってみずから喜びたりしも、いまやおのれ自ら身をその境界に置くにさいしては、まったく無学無識となりて、後患がどうであろうが将来はなんとなろうが、さらに頓着するにいとまなく、ひたすら徳川氏をしてこの幕府を失わしむるが残念なりという一点に心を奪われたり。

 横浜の居留地を外国人に永代売り渡しにして軍用金を調達すべしといえば、これもって名策なりと賛成したるがごとき、今日より回顧すれば、何にして余はかくまで愚蒙にてありしかと、自らあやしまるほどにてありき。しかれども、これはあえて余一人のみにあらず。当時幕府のために主戦説を唱えたる輩はみな同様の考えにて、とうてい日暮れて道遠し、倒行して逆施せざるを得ずといえるが当時の決心たりしこと、争うべからざるの事実なり。

 なんだか、最近のWebでやたらに投稿される、その場限りの思いつきコメントを想い出してしまいますが、福地の良さはそれを素直に吐露・反省するところ。それにしても、せっかく長崎から江戸にでて、幕府の中枢にまで伸びたコネクションもキャリアもすべて無になるのは、いかにも耐え難いところであったでしょう。

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 さて、御一新後の福地はどうしたかと言えば、慶応4年閏4月(1868年5月)、江戸で『江湖新聞』を創刊して、幕臣よりジャーナリストに転じますが、「結局、政権が徳川から薩長に変わっただけではないか」という記事が筆禍となり、発禁・逮捕されてしまします。木戸孝允の取り成しでなんとか無罪放免になると、今度は「夢の舎主人」等と号して戯作に手を染めるという文筆業と、英語・仏語の翻訳・教授で身をたてます。

 ところが、明治3年には渋沢栄一の紹介で大蔵省入り、岩倉使節団の一等書記官として米欧視察後、明治7年大蔵省を退職、政府系の『東京日日新聞』にかかわり、政権系ジャーナリストになります。このあたりはめまぐるしいまでのキャリアの変遷、新時代に自分の落ち着きどころを探すのに四苦八苦というところです(オポチョニストでもあったと言えそうです)。

 明治10年代は、東京商法会議所設立にかかわり、東京府議会議員に選出、さらに政権寄りの立憲帝政党を結成しますが、これは失敗。結局、自らの見過ぎ世過ぎは手慣れた文筆行ということで、9代目市川團十郎などと演劇活動にかかわり、さらに翻訳、戯曲・小説を執筆します。明治の彼の活動では、この演劇改良運動・劇場運営(歌舞伎座の創設)、歌舞伎座の座付き作者、評論活動などにいそしみ、明治39年(1906)没します。時代の波にのりながら、波を乗りこなせずに、それでもしぶとく時代を渡りきった人生と言うべきかも知れません。

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 このどこまでも派手で、かつ“パッパラパー”な福地の人生と比べれば、はるかに堅実なのは、17歳年上で、森山とともにマクドナルドから英語を習った本木昌造(1824~75)でしょう。本木は、森山・福地が上京後の1869年、長崎製鉄所付属活版伝習所を設立します。学問の普及は、まずそのメデイアの確立から、という地に足のついた仕事ぶりです。Wikipediaによれば、

 同年グイド・フルベッキの斡旋で美華書館のウィリアム・ギャンブルから活版印刷のために活字鋳造及び組版の講習を受けた。このとき、美華書館から5種程度の活字も持ち込まれた。川田久長『活版印刷史―日本活版印刷史の研究』(1949年)ではこの伝習は1869年6月のこととするが、小宮山博史「明朝体、日本への伝播と改刻」(『本と活字の歴史事典』、2000年)では11月より翌3月までとする。

 1870年、同所を辞し、吉村家宅地(ただし吉村家屋敷を長州藩の者がたびたび使用したため萩屋敷ともいったという)、若しくは長州藩屋敷に武士への授産施設や普通教育の施設として新街新塾を設立する(ただし、陽其二が設立したものを引き受けたとの異説がある)。この塾の経営で負債が溜まり、解消の一助に新街活版製造所を設立した。ギャンブルの活字にはひらがなはなく新たに開発する必要があった。その版下は池田香稚に依頼されたものであった(この字を「和様」と呼ぶことがある)。同年、小幡正蔵、酒井三蔵、谷口黙次を送って大阪に支所を作り(後の大阪活版所)、1872年、小幡と平野を東京に派遣し長崎新塾出張活版製造所を設立させた(後の築地活版)。本木は新塾の経営が苦しくなると、製鉄所での業績回復の実績のあった平野に活版製造所の経営を任せ、平野はみるみるうちに業績を回復した。また、陽を神奈川に送り、横浜毎日新聞を創刊させたり、池田らとともに長崎新聞を創刊したりした。(Wikipedia)。

 しかし、維新後は事業がかならずしもうまくいかず、体調もすぐれないまま、本木は1875年9月3日に死去します。森山多吉郎はすでに1871年5月4日に死亡、一方、福地源一郎は『東京日日新聞』でジャーナリストとして活躍している頃にあたります。通詞キャリアコースも新旧の入れ替えがはじまります。

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 ところで、福地は御一新のみぎり、新政府との政務引き渡しの業務を果たすため、主戦論者に誘われて「脱走にくわわることあたわざりしは、今日より顧みれば余が幸いにてありき」と回想しますが、実は、長崎通詞のなかには実際に脱走に加わり、函館まで渡った者もいます。この時のほんのちょっとした決断の差が、彼らの人生を変えてしまうわけです。

 その一人、長崎通詞出身の五島英吉は戊辰戦争に身を投じ、榎本武揚や元新撰組副長土方歳三らとともに五稜郭まで転戦します。もちろん、皆さんも知っての通りの敗戦、新政府側の追求を逃れて英吉が逃げ込んだ先が函館ハリストス正教会でした。ここは「1859年(安政5年)にロシア領事のゴシケヴィッチが領事館内に聖堂を建てたのが源流」とされる「日本正教会でも伝道の最初期からの歴史を持つ最古の教会の一つ」だそうです(Wikipedia)。

 この教会にかくまわれた英吉は、ロシア人たちから料理とパンの作り方を覚え、若山惣太郎とともに1879年、在留外国人や外国船にパンや西洋料理を納める小さなレストランを開業します。この五島軒は現在でも函館他で開業中です(洋食バル 函館五島軒HP;http://hakodate-gotoken.com/gotoken/)。英吉自身はここで7年間コック長を努め、明治19年の火災で店が焼けた後、横浜に転居したとのこと。その後の英吉の消息ははっきりしないようですが、横浜に転居後も夏に避暑に訪れ、五島軒の2代目が帝国ホテルで修行する際にも協力したということです。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...