2019年3月

創られた“伝統”:それはどのように創り上げられたものなのか?

2019 3/17 総合政策学部の皆さんへ

 近年、“伝統”という言葉をよく耳にします。かつ、その場合、なんとなく“ポジティブ”=良さげな意味に使われがちです。Googleで「伝統、日本」と検索しても、「日本の伝統・文化理解教育の推進(東京都教育委員会)」、「伝統文化とは(日本伝統文化振興機構)」とありがたそうで、かつ、それなりに権威的な団体がバックに控えているがごときタイトルが並んでいます。

 あるいは、「日本伝統文化パビリオン「雅 MIYABI」が与えるインバウンド効果。出展の流れも解説します」等とあれば、“現世利益”もありそうな気配です。こうした記事での“伝統”は「日本の伝統と美意識を学び「和のこころ」を今に受け継ぐ。日々の暮らしのなかに息づく日本の伝統。“おもてなし”や“武士道”に代表される日本的な精神」(日本伝統文化講座 ・ ヒューマンアカデミーHP)ということですが、そもそも本当なのか? というのが今日のお題です。

 さて、“伝統”をあらためて調べると、(歴史的に見れば)短期間で“創られてしまった”(=伝統でもなんでもない)代物や、あるいは主張には政治的意図やビジネス的欲望が潜そむものが結構目につく!! このあたりこそイギリスの慧眼な歴史学者エリック・ホブズボームテレンス・レンジャー編著の『創られた伝統』によってつとに多くの事例が指摘されているところですが、いまだに私も皆さんもだまされ続けている、という点を確認したところで、あらためて勉強しましょう。

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 例えば、上記のHPの記事にしたがって、武士道が日本の伝統文化だとすれば、戦国時代、守護大名朝倉家を支えた名将朝倉宗滴が書き残した「武者は犬とも言え、畜生とも言え、勝つことが本にて候」という言葉をどう捉えるべきでしょう。「犬・畜生とあざけられようとも、武士にとって勝つことが大事だ」というスーパー・リアリズムは、世間が信じ込んでいる武士道とはずいぶん異なる印象です。

 そう言えば、昔、総合政策学部にいた外国人の先生の一人は、受験生への面接で片言の日本語で、「君、ムサシ知ッテル?」と問いかけ、相手が答えると「ムサシ、卑怯ネ!」と叫んで、相手があっけにとられるのを楽しむ、という究極の隠し技を楽しんでいました。皆さんは、勝負の時刻にわざと遅れて相手をじらしたとも伝えられる(実際は、諸伝本で様々な筋書きが残されているようですが)宮本武蔵の巌流島の決闘を“卑怯”と思いますか?

 また、毛利元就の息子にあてた手紙の文章にも、「ひとえに武略、計略、調略かたの事までに候。はかりごと多きは勝ち、少なきは負け候と申す」として知恵の限りを尽くすことが武将としての勤めと強調しています(ちなみに、宗滴は「また、日本に国持侍の人使の上手の手本と申すべき仁」としては今川義元や武田晴信と並べて、この元就をあげています)。

 このように武士がその職能を実際に発揮していた戦国時代、「きれいごとは言ってられない」というリアリズムに透徹していたはずの“伝統”が、太平の世にはいつのまにか変貌して、いわば“通俗道徳”の体系として「主君に忠誠し、親孝行して、弱き者を助け、名誉を重んじよという思想」にすり替わり、さらにそれが結果としては“お家”の存続にかかわってくるはずだ、という暗黙の了解にいたる過程で(Wikipedia)、“新たな伝統”として誰も疑わなくなる、という寸法なのです。

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 それがさらに明治期になり、江戸体制的な“家”が明治民法下でさらに変貌を遂げていく。もちろん、その過程を充分に意識してみるならば、“通俗道徳”としての“武士道”の需要と普及は、なかなか興味深いリサーチの対象というべきでしょう(つまり、明治政府は江戸幕府を否定しながら、“忠孝”を旨とする“武士道”を政治的手段として必要としていた)。

 例えば、武家の英雄源義家は、後三年の役のいて「降伏してきた者を斬るべきではない」と諫める弟義光に、「降伏とは戦場から逃れて自ら出頭してくることを言う。戦場で生け捕りにされ、命乞いをする者は降伏とは言わない」と退け、命乞いする敵将を惨殺する様は、なんだか暴力団体の巨魁のような印象です。これが「“おもてなし”や“武士道”に代表される日本的な精神」なのかどうか、皆さんもお考え下さい。

 ちなみに、日本一の大天狗こと後白河法皇によって編纂された今様集『梁塵秘抄』では、この義家について、
鷲の棲む深山には 並べての鳥は棲むものか 同じき源氏と申せども 八幡太郎はおそろしや」
と詠われているそうです(川尻秋生『シリーズ日本古代史5 平安京遷都』)。この八幡太郎とは誰あろう源義家のことですが、庶民にとっては血みどろの闘いを平然とこなす恐るべき存在でありました。川尻は「武士とは一種の殺し屋でありながら、武力を必要とした都の人々に、眉をひそめられながらも用いられた必要悪であったといえるだろう」と結びます。この「必要悪」が日本の“伝統”なのでしょうか?

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 さてこうした傾向が嵩じれば、民族さえも“創り上げてしまう”こととなります。その一例が東アフリカのケニア共和国での民族カレンジンです。国際開発経済学のポール・コリアーの『民主主義がアフリカ経済を殺す』の一節を紹介すると、

アフリカの民族といえば読者は、人類誕生直後の原始時代まで起源をさかのぼると想像しがちかもしれないが、カンレンジン族の歴史が始まったのは1942年だ。第2次世界大戦は北アフリカも巻き込み、英国は王立アフリカ小銃隊の徴募を、植民地の低所得地域に向けておこなった。徴募兵の最も安上がりな方法はラジオを使うことだったが、その地域には多くの方言があった。数ある方言のうち、その真ん中にあたる方言を選び、放送のはじめには注意を引くよう「みなさん、みなさん」という言葉で呼びかけた。その文句が「カレンジン、カレンジンだった」。

 まるでマンガのようなストーリーですが、このようにしてキプシギス、ナンディ、トゥゲン、ポコット、マラクェット、サバオット、テリック、ケイヨ等の小民族は「カレンジン」としてまとめられ、戦後は大民族であるキクユルオーなどと対抗するため、「カレンジン」というアイデンティティを醸成し、いつしか、政治的単位としての地歩を固めるに至るのです。

 ケニアにおいて“カレンジン”という民族を作り出してしまった英国植民地行政ですが、別の場所では、思わぬ悲劇の原因も産みます。例えば、ともに1947年まで英国植民地だったミャンマーとバングラデシュの狭間において、“ロヒンギャ”という人たちがいますが、彼らはどうやら植民地行政時代にこうした“登録”から漏れてしまったらしい。それが遠因となり、21世紀の現在、彼らは正式な記録を持たないがゆえに「民族集団、宗教団体、政治結社のいずれであるのか判明していない」(Wikipedia)とされ、きわめて厳しい立場にたたされているわけです。“民族”であると登録されていれば、立つ瀬もあったのかもしれませんが、それがなければ、どちらの国からも認められない存在になってしまう、というわけです。

 このあたりは、アラビアのロレンスの提言にもかかわらず、“砂漠の女王”ガートルード・ベルによって民族自立性を否定され、各国領土内に押し込められたクルドの人たちにも通じるものかもしれません。

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 こうして悲劇の一方で、“伝統”をひねりだすことが政治・経済・社会的に有力な手段であるとわかれば、宗教であれ、通俗哲学であれ、生活習慣であれ、新しい“伝統”をもっともらしく作り出し、それが人々の自由を縛っていく。これが“伝統”についての幻想においてもっとも“困った”ことかもしれません。とくに政治家が気軽に“伝統”を口走る時には、ひょっとしてその底意にとんでもない意図が隠されているものと疑ってもまず間違いはないところかもしれません。

“戦病死”の人類学#1:戦場の帝国陸軍には歯科医がいなかった

2019 3/2 総合政策学部の皆さんへ

 “戦病死”という言葉がありますが、これは文字通り、「従軍中に病死すること」(広辞苑第5版)です。つまり、戦争しながら兵士は病にかかることもある。当たり前のことです。

 例えば、私の父親は第2次世界大戦に従軍中に戦地でマラリアに罹患したらしく、帰国後何年かはその後遺症が出たようです。とくに、いわゆる感染症は人が密集すればするほど、爆発的に流行しやすくなる。軍隊などはその典型ではないでしょうか(ついでに言ってしまえば、家畜を密集させて飼養することもまた同様で、養鶏における鳥インフルエンザ、養豚における豚コレラなどが想起されます)。

 さらに、近代に進むにつれて、兵士たちはもともと住んでいた場所から遠く離れた異国(=異環境)に遠征することも珍しくなくなる(明治初期、西南戦争などのような内戦や他国からの侵略などへの対外的防衛のために設置された鎮台が、外征戦争に対応するための師団に編成替えになります!)。すると、外地で免疫をもたない感染症に罹患すれば、現地の人よりも重症になってしまう。これもまたヒューマンエコロジーの知識さえあれば、すぐにでも考え付くことです。

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 さて、近代化に邁進すべく日本が最初に遭遇した大規模な外征戦争、いわゆる台湾征伐(この名称からして大時代的で、現在では台湾出兵となっていますが)、対象たる先住民パイワンの人たちの戦死者が30名に対して、日本軍3600名で戦死6名、負傷者30名、しかしマラリアに罹患する者が多く、561名が病死します。つまり、6人に一人が戦病死してしまう。さらにその後の長期駐屯で「出征した軍人・軍属5,990余人の中の患者延べ数は1万6409人、すなわち、一人あたり、約2.7回罹病する」(Wikipedia)という結果に陥ります。

 さらに感染症に加えて慣れない気候や、兵站の失敗による飢えなど、外征戦争に駆り出された将兵には戦う前に死ぬ者もあらわれます。例えば、ナポレオン戦争における1812年ロシア戦役では、ナポレオン率いる大陸軍68.5万人のうち、38万人が死亡しますが、戦闘よりもロシアの冬将軍による凍傷や、クトゥーゾフ将軍らが展開した焦土戦術による餓えで死亡、壊滅します。

 このように、実際の“戦死”(広辞苑第5版では「戦闘で死ぬこと。うちじに」)よりも、戦病死やその他、様々な形の氏が戦争に決定的な要因になりうることを、皆さんも覚えておいた方がよいでしょう。

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 その戦病死が大きくクローズアップされたのが、ナポレオンのロシアからの敗退から40年後のクリミア戦争です。この戦争では、戦死者1.7万人に対して、戦病死者数が10万人を越えます。ここまで行けば、病気に対応しないと戦争に勝てない、ということが明らかになってくる。

 クリミア戦役中、この課題に取り組んだのがフロレンス・ナイチンゲールにほかなりません。不衛生な兵舎病院を改善、環境を整えようとする彼女は、なんと縦割り行政から軍医らによって妨害されます(不思議ですね。患者が早く回復することで兵站上の負担を減らす。あるいは、回復後闘いに復帰することで、戦争に勝つかもしれない。それを妨害するというのは“利敵行為”そのものです=とはいえ、官僚機構による縦割り行政とは洋の東西を問いません)。ナイチンゲールは自分の主張を通すため、現状をアピールするためのグラフも改良、医療統計学の始祖となります。

 そのクリミア戦争から10年もたたないうちに勃発したアメリカの南北戦争では、戦死者20万人に対して、戦病死者数は56万人を越えたということです。ちなみにこの頃のアメリカ合衆国の人口は北部2200万人、南部900万人とのことですから計3100万人(これは当時の日本の人口とだいたい同等か)、そのうち、市民もふくめると70~90万人が死亡したことになります。乱暴に言えば、約30人に一人が死んだわけです。

 戦争の近代化により、徴兵制による大量動員、新型兵器による大量殺戮、これがやがて第一次世界大戦での長期総力戦による大量殺戮につながりますが、同時それはさらにそれをうわまわる戦病死あるいは事故死をともなう。これでは戦争の遂行さえ難しくなってしまう。

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 そこで、話を帝国陸軍に戻すのですが、吉田裕『日本軍兵士-アジア・太平洋戦争の現実』(中公新書2465)によれば、日中戦争に突入した際に、長期による総力戦にまきこまれながら、日本陸軍には正式の歯科医療者がおらず、嘱託医しかいませんでした。そのため、「戦線にある将兵が非常に多くの齲歯(虫歯)を持っている」が、「前線の野戦病院に歯科医が配属されることは無かった」というのです。『野戦歯科治療の現況報告』という文書には、「これで長期戦に入った現在、体力に自信をおけるであろうか、大いに疑問である」と記されているとのころです。

 このため、1940年に陸軍歯科医将校制度が(まさに泥縄式に)創設されたとは言え、ある兵士は「行軍中、歯磨きと洗顔は一度もしたことはなかった。万一、虫歯で痛むときは、患部にクレオソート丸(正露丸)をつぶして埋め込むか、自然に抜けるのを待つという荒療治である」と回想しています。捕虜への尋問や、ろ獲した文書を分析した連合軍はこの事実に気づくや、「日本陸軍の歯科医療の水準は、連合軍より劣っている」「日本陸軍は連合軍ほど歯科の観点から部隊の健康に注意を払っていない」と報告したそうです。これでは短期戦ならともかく、帝国陸軍が長期戦/総力戦に耐えられるわけはない、と言うべきでしょう。「戦う前に、すでに“お前は死んでいる”」というような状況になりかねない。

 現在の日常生活では当たり前に存在している“歯科”さえも、戦場ではどうなるかわからない。それを考慮にいれてこそ、近代戦を戦う能力が身につくものだ、というのが現実の世界なのです。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...