2020年3月

相続とキャリア1:スペアを蓄えておく場所としての寺社・修道院、そしてそこからの還俗

2020 3/29 総合政策学部の皆さんへ

 以前、「あなたにとって、“仕事”とは何か? 陰陽師から漱石、そしてトム・ソーヤーからフランクリンまで」で、かつて職業選択の自由もなかった頃、長子相続が確立した王族・貴族社会では、家業の相続について長男一人のみが家業(つまり、王位なり爵位)につき、相続から外れた“弟たち”をどこかの修道院等に“デポジット”して(あるいは“リスク・ヘッジ”して)、万一長男が死んだ際のバックアップを期待することがあったという話に触れました。

 かつて幼少期の死亡率が高かった頃は、この策が現実化するケースも珍しくありません。例えば、フランス国王ルイ7世は次男のため、「サン=ドニ修道院に育ち、院長シュジェールの教えを受け、祈りと神への献身を何よりの生き甲斐とする、物静かな王子であった」として育つのですが、「兄フィリップが1131年に落馬事故で早世したため、代わって共同国王に立てられた」ために還俗、大貴族アキテーヌ公ギヨーム10世の娘アリエノール・ダキテーヌを王妃に迎えますが、長年の修道院暮らしがたたってか、この才気活発な王妃には「王と結婚したと思ったら、僧侶だった」と言われてしまう有様で、二人の間に男子出生がなかったこともあって、離婚を余儀なくされます。

 なお、アリエノールはルイとの離婚直後に11歳年下のアンジュー伯長子アンリ(英語名はヘンリー)と結婚するという離れ業を演じた上に、アンリがイギリス国王ヘンリー2世に戴冠したため、広大なアキテーヌ公領はイギリス王ヘンリー2世の管轄下に組み込まれ、ルィ7世とフランスにとってとてつもない政治的な重しになってしまいます。この負荷の解消には、100年戦争中の1453年7月17日に起きたカスティヨンの戦いまでかかります。

 その後のヘンリー2世とアリエノール、そしてこの陰気なルイ7世の子とは思われぬほど才気縦横なフィリップ2世ことフィリップ・オーギュストと、アリエノールの子供たちをめぐる愛憎劇は、舞台・映画で有名な戯曲『冬のライオン』をご覧ください。とくに、1968年上映の映画版でのキャサリーン・ヘプバーンとピーター・オトゥールのやり取りは一見の価値があります。

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 同じく長兄の死によって修道院生活から俗世に引き戻されてしまったもう一人の王が、イギリス国王ヘンリー8世です。こちらは還俗後に父ヘンリー7世の指示で、亡くなった兄アーサーの妻カタリーナ・デ・アラゴン(英語ではキャサリン・オブ・アラゴン)と結婚の話が持ち上がります。

 実は、兄の未亡人と結婚できるのか、旧約聖書では見解が分かれます。すなわちレヴィ記には「兄弟の妻をめとる者は、汚らわしいことをし、兄弟を辱めたのであり、男も女も子に無具まれることはない」(第20章21節)とあります。一方で、申命記には「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者は妻は家族以外の他の物に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない」(第25章5~6節)。

 これでは誰しも迷ってしまいます。かつ、この結婚話は「若い未亡人は持参金とともに帰国するのが常識だったが、ヘンリー7世側も巨額の持参金の返却を惜しんだ下心から、ヘンリー王子との婚約を持ちかけた」(Wikipedia)というものでしたが、やがて「キャサリンはやがて病気がちになり、婚約者ヘンリー王子の訪問を心待ちにするようになった。一方のヘンリー王子も、兄嫁への憧憬は愛情に変わっていった」(Wikipedia)。こうして、ヘンリー7世の死後、二人は結婚します。

 とはいえ、皆さんもよくご存じなように、キャサリンは流産・死産を繰り返し、やがて結婚生活は破綻、離婚を許さぬローマ教皇庁に反旗を翻したヘンリーは英国国教会を独立させて、離婚、その後、アン・ブーリンをはじめ、5人の妻をめとり(そのうち、アン・ブーリンとキャサリン・ハワードの二人は、彼女たちの不倫を理由に処刑してしまいます)、自分にとっても、また妻たちや子女にとってもあまり幸福とは言えない人生を送ることになります。

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 それでも、ルイ7世もヘンリー8世も、ご本人は天寿をまっとうします。しかし、せっかく還俗したのに不幸な羽目に陥った代表が足利義教と今川義元でしょう。この二人は兄等の不慮の死で、俗世に舞い戻ってしまったものの、思わぬことで非業の死を遂げます。

 まず、足利義教は室町幕府第3代将軍足利義満の子で、僧侶時代は義円と名乗ります。義満の死後は、長兄で同母の義持が後を継ぎますが、義持の死とさらにその死に先立つ5代将軍義量の死で、前代未聞の籤引きよる選出で、第6代将軍に就任しますが、父親義満の絶対的権力行使にあこがれたか、有力大名を圧迫するあまり、逆に、守護大名赤松満祐による暗殺で、首を刎ねられるという非業の死をとげます。

 ついで、今川義元は兄氏輝や、その子彦五郎の相次ぐ死で今川家が混乱、同じく出家していた異母兄・玄広恵探を死においやって(花倉の乱)当主の座につきますが、その後の桶狭間での一件は皆さんも大河ドラマ等でよくご存じのはず。

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 おもしろいことに、彼らは修道院・寺等で修業したせいか、インテリな方が多い。ヘンリー君などはルターが宗教改革の狼煙をあげると、ルターを「批判する『七秘蹟の擁護』を著した功で、1521年10月に教皇レオ10世から「信仰の擁護者」(Fidei defensor)の称号を授かる」(Wikipedia)でした(もっとも、その後、前述のように離婚問題からローマ教皇庁に反旗を翻すことになる)。また、彼は「音楽にも造詣が深く、自ら楽器を演奏し、文章を書き、詩を詠んだ。自ら作曲したとされる楽譜(合唱曲 “Pastime with Good Company” など)が現存する」(Wikipedia)とのことです。

 義元君も和歌に親しみ(もっとも、「今川家中の和歌のレベルは実際はあまり高くなかったらしく、同工異曲の似たような歌が頻出し、そもそも歌合の題目をよく理解していない作品が多い。義元自身も例外でなく、為和から厳しく指導された記録が残っている;Wikipedia)、「今川仮名目録」に追加法を付け加えます。

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 さて、近代史において、貴族たちのこうした相続上のリスク・ヘッジに新しい要素を加えたのが、絶対王政から立憲国家に成長する段階で需要が増した近代軍事・官僚システム、ならびにそれを支える学校制度だったかもしれません。いうまでもなく、分割相続が困難な場合、次男・三男を軍人か(これは中世ヨーロッパでもよくあった話ですが)、近代王政を支える官僚にする。とくに帝国主義政策を支える上で必要な外交官、あるいは植民地経営者にあてはまります。

 こうして、封建制ではたんなるスペアとしてしか存在意義がなかった次男、三男があらたな活躍の場を得る...これこそ近代化の一側面ですが、そのあたりはto be continued としましょう。

動くことと集まることの意味 ~ヒトとサルのマイクロ・デモグラフィー1~

2020 3/17 総合政策学部の皆さんに

 最近、ヒトや動物はなぜ動き、なぜ集まるのか? というテーマで原稿を書いたので、その話をしましょう。ここでは「ヒトや生き物はそも動くのか?」がテーマです。

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 帝政ロシア末期の作家アントン・P・チェーホフが描く登場人物たちは、絶えず「ここではない、どこかへ行きたい」という衝動に駆られていることで知られています。例えば、チェーホフ38歳だった(=44歳で死没する6年前)1898年に書かれた短編小説『往診中のできごと』では、医者のコロリュフが工場の跡取り娘リーザを往診した際に、会話のなかから、彼女の病が彼女をとりまく周囲との軋轢から生じていることを推し測ります。

 恵まれた立場にいるからこそ、すべてに不安を感じてしまうリーザが「未来の子供たちはどうするのでしょう?」と問うと、コロリョフは(ここではない)どこかに行くかもしれないと答えます。

「行ってしまうって、どこへ?」
「どこへ?・・・・どこへでも行くでしょう」とコロリョフは言い、笑った。
「良い人間、知的な人間なら、行けない所は一つもありません」

 この二人のセリフを120年後の今、振り返る時、ロマノフ王朝から、レーニン、スターリン、そしてフルシチョフを経て、プーチン大統領に至るロシアの指導者たちと民衆の苦闘と苦難の歴史を考えざるをえません。ロシア人たちは、これからどこに行こうというのでしょうか?

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 それにしても、ヒトも含めて生き物はなぜ動き、なぜ集まるのでしょうか? そこにはコストがかかり、リスクも潜むにもかかわらず。その理由を皆さんは考えたことがありますか?

 例えば、“動く”こと一つを取りあげても、(1)それは自らが決めたことでしょうか? それとも周囲に押し流された他動的なものでしょうか? (2)他動的だとすれば、それは誰の影響でしょうか? (3)主体的に決めたのならば、その動機は何でしょうか?

 さらに、(4)移動は、そもそもヒトの生活史のなかに遺伝的に組み込まれているものなのでしょうか(例えば、ニホンザルのオスは思春期を迎える頃に、生まれた群れを離れ、二度と戻らないのがふつうです)。それとも、機会的なものなのでしょうか? (5)また、移動は一度きりのものなのか、繰り返すものなのか? また、(6)ヒトが移動する範囲は空間的に閉じているのでしょうか。それとも、無限に広がっているのでしょうか?

そして、(7)ヒトはいずれにもどってくるのか、それとも(ニホンザルのオスのように)二度と戻らないのか? 思いつくだけでも、様々な疑問がわいてきます。

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 それでは、生き物にとって、動くことの意味はなんでしょう?

 逆説的かもしれませんが、ふだん動かない生き物=植物から始めたるとわかりやすいかもしれません。彼らの多くは生涯で一度だけ動きます。

 例えば、種子植物は花を咲させ、実をつけるが、その種子はやがて親木から離れる=種子散布です。自力で種をとばす種もいますが、風や水、または動物等に依存する者も多く、様々な工夫を凝らしています。

 例えば、種子散布を動物に頼る場合でも、(1)刺等でひっつく付着型、(2)報酬=果肉とひきかえに、種子を糞とともに散布してもらう周食型、③リス等の貯食や採食時のこぼれ落ちによる食べ残し型等に分かれます。この周食型(被食散布)こそ、トリ等で馴染みである相利共生の世界にあたります。

 とは言え、なかには埋土種子として発芽条件が整うまで土中にとどまる者もいないわけではありません。この場合、ひたすら(親木も含めて)頭上の木々の倒壊(死)を待つわけです。このように種子が親元から離れるか、とどまるのか、いずれを選ぶにせよ、それは次世代に子孫/遺伝子を残すための繁殖戦略の一環として、生活史に組み込まれているのです。

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 この被食散布では、熟した果実は捕食者=散布者の目をひくように鮮やかな色に変わることがあります。その昔、小学校教師に一笑に付されたというエジソン少年の伝説的な問いである「リンゴの実はなぜ赤い?」ですが、その後の生態学の発展は、これが散布者への“Eat me, and take my offspring somewhere!” というシグナルにほかならないことを教えてくれます。

 もっとも、その先にさらに謎が潜みます。果肉という報酬を支払っても種を運んでもらう理由は何でしょう? いくつか仮説をあげれば、(1)親木の元に種子が落ちれば、繁った葉で太陽光が遮られ、子木が育たない=親子間の光をめぐる資源競争を回避するのかもしれません。また、(2)親木は寄生虫や病原体に汚染されているため、子は感染しないように遠くで育つ方がよいのかもしれないのです。

 一方で、(3)親子が近い場所にいると、近親交配が起きかねません。さらに(4)子を遠く様々な環境に分散することで、偶々であれ、新たな生息地で生存競争に生き残ることもあるでしょう(言うまでもなく、種子散布は分布拡大のチャンスです)。これらの仮説すべてがからみあい、様々な種子散布が発達したのだろうと思われています。

 もちろん、そこには大きなリスクが待ち構えています。捕食者の裏切りで種ごと食べられてしまう。不適な場所に散布されて発芽できない/斃死してしまう。このため、植物は多数の種子をまき散らしながら、生き残る者は少数というr戦略=多産多死を前提とした繁殖戦略をとっています。多くのコスト/リスクを負いながらも、何もしないよりは種子散布に工夫を凝らすことで進化に生き残ろうとするのです。(To be continued)

 

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...