動くことと集まることの意味 ~ヒトとサルのマイクロ・デモグラフィー1~

2020 3/17 総合政策学部の皆さんに

 最近、ヒトや動物はなぜ動き、なぜ集まるのか? というテーマで原稿を書いたので、その話をしましょう。ここでは「ヒトや生き物はそも動くのか?」がテーマです。

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 帝政ロシア末期の作家アントン・P・チェーホフが描く登場人物たちは、絶えず「ここではない、どこかへ行きたい」という衝動に駆られていることで知られています。例えば、チェーホフ38歳だった(=44歳で死没する6年前)1898年に書かれた短編小説『往診中のできごと』では、医者のコロリュフが工場の跡取り娘リーザを往診した際に、会話のなかから、彼女の病が彼女をとりまく周囲との軋轢から生じていることを推し測ります。

 恵まれた立場にいるからこそ、すべてに不安を感じてしまうリーザが「未来の子供たちはどうするのでしょう?」と問うと、コロリョフは(ここではない)どこかに行くかもしれないと答えます。

「行ってしまうって、どこへ?」
「どこへ?・・・・どこへでも行くでしょう」とコロリョフは言い、笑った。
「良い人間、知的な人間なら、行けない所は一つもありません」

 この二人のセリフを120年後の今、振り返る時、ロマノフ王朝から、レーニン、スターリン、そしてフルシチョフを経て、プーチン大統領に至るロシアの指導者たちと民衆の苦闘と苦難の歴史を考えざるをえません。ロシア人たちは、これからどこに行こうというのでしょうか?

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 それにしても、ヒトも含めて生き物はなぜ動き、なぜ集まるのでしょうか? そこにはコストがかかり、リスクも潜むにもかかわらず。その理由を皆さんは考えたことがありますか?

 例えば、“動く”こと一つを取りあげても、(1)それは自らが決めたことでしょうか? それとも周囲に押し流された他動的なものでしょうか? (2)他動的だとすれば、それは誰の影響でしょうか? (3)主体的に決めたのならば、その動機は何でしょうか?

 さらに、(4)移動は、そもそもヒトの生活史のなかに遺伝的に組み込まれているものなのでしょうか(例えば、ニホンザルのオスは思春期を迎える頃に、生まれた群れを離れ、二度と戻らないのがふつうです)。それとも、機会的なものなのでしょうか? (5)また、移動は一度きりのものなのか、繰り返すものなのか? また、(6)ヒトが移動する範囲は空間的に閉じているのでしょうか。それとも、無限に広がっているのでしょうか?

そして、(7)ヒトはいずれにもどってくるのか、それとも(ニホンザルのオスのように)二度と戻らないのか? 思いつくだけでも、様々な疑問がわいてきます。

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 それでは、生き物にとって、動くことの意味はなんでしょう?

 逆説的かもしれませんが、ふだん動かない生き物=植物から始めたるとわかりやすいかもしれません。彼らの多くは生涯で一度だけ動きます。

 例えば、種子植物は花を咲させ、実をつけるが、その種子はやがて親木から離れる=種子散布です。自力で種をとばす種もいますが、風や水、または動物等に依存する者も多く、様々な工夫を凝らしています。

 例えば、種子散布を動物に頼る場合でも、(1)刺等でひっつく付着型、(2)報酬=果肉とひきかえに、種子を糞とともに散布してもらう周食型、③リス等の貯食や採食時のこぼれ落ちによる食べ残し型等に分かれます。この周食型(被食散布)こそ、トリ等で馴染みである相利共生の世界にあたります。

 とは言え、なかには埋土種子として発芽条件が整うまで土中にとどまる者もいないわけではありません。この場合、ひたすら(親木も含めて)頭上の木々の倒壊(死)を待つわけです。このように種子が親元から離れるか、とどまるのか、いずれを選ぶにせよ、それは次世代に子孫/遺伝子を残すための繁殖戦略の一環として、生活史に組み込まれているのです。

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 この被食散布では、熟した果実は捕食者=散布者の目をひくように鮮やかな色に変わることがあります。その昔、小学校教師に一笑に付されたというエジソン少年の伝説的な問いである「リンゴの実はなぜ赤い?」ですが、その後の生態学の発展は、これが散布者への“Eat me, and take my offspring somewhere!” というシグナルにほかならないことを教えてくれます。

 もっとも、その先にさらに謎が潜みます。果肉という報酬を支払っても種を運んでもらう理由は何でしょう? いくつか仮説をあげれば、(1)親木の元に種子が落ちれば、繁った葉で太陽光が遮られ、子木が育たない=親子間の光をめぐる資源競争を回避するのかもしれません。また、(2)親木は寄生虫や病原体に汚染されているため、子は感染しないように遠くで育つ方がよいのかもしれないのです。

 一方で、(3)親子が近い場所にいると、近親交配が起きかねません。さらに(4)子を遠く様々な環境に分散することで、偶々であれ、新たな生息地で生存競争に生き残ることもあるでしょう(言うまでもなく、種子散布は分布拡大のチャンスです)。これらの仮説すべてがからみあい、様々な種子散布が発達したのだろうと思われています。

 もちろん、そこには大きなリスクが待ち構えています。捕食者の裏切りで種ごと食べられてしまう。不適な場所に散布されて発芽できない/斃死してしまう。このため、植物は多数の種子をまき散らしながら、生き残る者は少数というr戦略=多産多死を前提とした繁殖戦略をとっています。多くのコスト/リスクを負いながらも、何もしないよりは種子散布に工夫を凝らすことで進化に生き残ろうとするのです。(To be continued)

 

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プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...

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