2020年6月

ケチャップの歴史2~トマト・ケチャップ出世譚:食について Part19

2020 6/15 総合政策学部の皆さんへ

 ケッチャプの歴史2は、トマトケチャップの材料であるトマトの歴史から入りたいと思います。そもそも皆さんは、トマトが中南米原産であることをご存じですか?

 1492年のクリストフォーロ・コロンボ(=クリストファー・コロンブス)の大西洋航路開拓から始まるヨーロッパ人の新大陸進出は、先住民たちにとってはヨーロッパ人がもたらした感染症による大量死(とくに天然痘)や、金銀をめぐる強奪を皮切りに現在にまで続く悲惨な運命に追い込みますが、奪った金銀よりもはるかに豊かなものを旧大陸に与えます。

 なお、コロンブスがもたらした旧大陸と新大陸間の植物(作物)、動物(家畜)、食物、人口(奴隷を含む)、病原体、鉄器、銃、思考(宗教)等に及ぶ様々な“交換”を近年は“コロンブス交換”と呼びます。

 それが一群の作物たちで、トウモロコシ、ジャガイモ、サツマイモ、キャッサバ(=近年、突然、日本人にも身近になったタピオカの原料)、タバコ(総体的には人類にとって利益だったか、害悪だったかは計りかねますが)、カボチャ、インゲンマメ、ピーナツ、トウガラシ、ココア、パイナップル、ゴム、そしてトマト等です。まったくの話、北方ヨーロッパ人はジャガイモによって飢えから救われますし、トウモロコシは世界三大穀物の一つにまで出世します。

 例えば、アフリカの市場を歩けば、そこで売っている作物の多くが新大陸起源であることに気づかざるをえません。さらにトウガラシ抜きのカレーや、同じくトウガラシ抜きのキムチを今や想像しにくくなっているように、たった500年間でこれらの作物は地球上に広がっていきます。

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 そのトマトですが、実は、最初は食物としてなかなか受け入れられなかった、という一つ話が洋の東西をとわず伝えられています。

Wikipediaでは、「1519年にメキシコへ上陸したエルナン・コルテスがその種を持ち帰ったのが始まりであるとされている。当時トマトは「poison apple」(毒リンゴ)とも呼ばれていた。なぜなら裕福な貴族達が使用していたピューター(錫合金)食器には鉛が多く含まれ、トマトの酸味で漏出して鉛中毒になっていたためである。鉛中毒の誤解が解けた後も、有毒植物であるベラドンナに似ていたため、毒であると信じる人も多く、最初は観賞用とされた」とあります。

 日本には17世紀中期頃に、オランダ人が長崎の出島に種子を持ち込んだのが始まりだといわれていますが、食用としては普及せず、赤い実を珍しがる、つまり観賞用植物だったとのことです。やはり日本人にとってもなかなか手を出す気になれなかったのかもしれません。そのトマトは日本では唐柿、赤茄子、蕃茄、小金瓜、珊瑚樹茄子等と呼ばれたそうです。

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 このあたりで私の個人的な記憶にもつながってくるところですが、それは私の母方の曾祖母に遡ります。新潟で育った新穂イク(旧姓柾谷)は新潟の海鮮問屋の末裔のためか、なんでも進取の気性に富み、どこで覚えた知識なのか、石油の一斗缶を工夫して手製の天火(オープン)を作り、カステラを焼いたりしていたそうですが、1920年頃、コロナウィルスのお陰で最近人口に膾炙しているかのスペイン風邪で死亡します。

 そのイクが娘(私の祖母新穂信恵)を丈夫にそだてようと、横浜から“赤茄子”の苗を取り寄せ、育てた実を、これまたどこから聞いたか、お湯をかけて皮を湯剥きし、そこに砂糖をかけ娘に食べさせるのですが、当の娘は「こんなまずいものはない。食べるのに往生した」というのです。

 先に触れたようにイクはスペイン風邪で命を落としますが、その後、家庭内のいざこざから信恵はシングル・マザーとして遠く名古屋の地に住み着くことになるのですが(そのため、私自身、母方の祖父は顔も名前もまったく知りません)、その時はじめて「生のトマトに塩をかけて食べたら、こんなにうまいものだったのか!」と感嘆したということです。このあたり、まさに日本人のトマト受容史の一コマではあります。

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 とはいえ、日本でのトマト受容も急ピッチで進みます。カゴメ株式会社創設者の蟹江一太郎が、名古屋農業試験場の佐藤杉右衛門から種子を譲り受けて栽培を開始するのが1899年(私の祖母信恵が1897年生まれなので、信恵はこの時2歳、ほぼ同時代です)、作りすぎたトマトの処理のためトマトソース(ピューレ)を試作するのが1903年(信恵6歳)、そしてトマトケチャップとウースターソース製造に着手するのが1908年(信恵9歳)です!

1914年には共同出資で愛知トマトソース製造(資)を設立、1933年にはトマトジュース製造にも乗り出します(カゴメHP「カゴメの歴史」)。この頃にはすでに私の祖母信江は名古屋で小学校教師をしながら、私の母を育てていたわけです。

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 こうした時代経過をまざまざと示す文献に、明治期の小説家村井弦斎の『食道楽』(1903~1904)があります。そこには当然、「赤茄子」も登場しています(青空文庫『食道楽 秋の巻』)。少し引用してみましょう。ちなみに、信恵はこの時6歳、ひょっとして曾祖母イクは村井弦斎を読んで、トマトを取り寄せたのかもしれません。

お登和嬢「ハイありますとも、先ず牛肉の生ならば好く筋を除とらなければなりません。(略)それを肉挽で挽いて別にブラウンソース即ちバター大匙一杯を溶かしてメリケン粉大匙一杯を黒くなるまでいためてスープを大匙三杯に罎詰のトマトソース一杯入れて塩胡椒で味をつけたソースを今の肉へ混ぜて生玉子を一つ入れて、ジャガ芋のゆでて裏漉にしたのを肉の分量と同じ位入れて皆みんな一緒によく混ぜ合せます。それを長くでも平たくでも手で好きな形に丸めてフライパンでバターを入れて焼きますが上等にすればその外に玉子を湯の中へ割って落して半熟に湯煮て肉の上へ載せて別にブラウンソースをかけて出します。これはドライハッシといって御老人なんぞにはどんなに好いお料理でございましょう」(第224 西洋の葛餅)

 そして、第232に赤茄子ジャムの記事がでてきます。「玉江嬢「私どもでも今年はトマトの苗を買って植えましたが沢山出来過ぎると始末しまつに困こまりますね」お登和嬢「イイエ、赤茄子は沢山あっても決して始末に困りません。トマトソースを取っておいてもトマトのジャムを拵えておいても、年中何に調法するか知れません。トマトソースを取りますのは赤茄子を二つに割って水と種を絞って鍋へ入れて弱い火で四十分間煮てそれを裏漉にして徳利のような物へ入れて一時間ばかり湯煎にしてそれから壜へ詰めて口の栓を確りしておけば何時でも持ちます。(略)。トマトの皮を剥いたらば二つに割って種と水とを絞ってトマト1斤ならば砂糖も同じく一斤の割でザラメ糖か角砂糖をかけてそのまま3、4時間置くと砂糖が溶けてトマトの液が出ます。それを最初は強い火にかけて上へ浮いて来るアクを幾度も丁寧に掬い取って30分間煮てアクがいよいよ出なくなったら火を弱くして1時間煮詰めるのです。煮詰める時決して掻かき廻まわしてはいけません。アクを幾度も丁寧に取らないと出来上った時色が悪くなります」(略)「赤茄子のジャムは売物にありませんからお家で沢山拵こしらえておおきなさいまし

 ちなみに、『食道楽 秋の巻』にはケチャップの文字は見当たらないようで、どうやらこの赤茄子ジャムこそトマトケチャップに近いかもしれません。日本ではどうやらトマトはまずトマトソースとして、次にトマトジャム(トマトケチャプ)として料理の材料に取り入れられていったようです。生野菜としての受容はさらにその先だったかもしれません。

 当然のことですが、食道楽の頃には、トマトジャムの市販品がなかったこともわかってきます。ちなみに、トマトソースについては「生の赤茄子のない時には壜詰のトマトソースを同じ分量で加えますが味は生の物に及びません」とありますから、カゴメが市販品を出すのとほぼ同時期になります。

相続とキャリア2:行き場のない次男、三男の出世ルートとしての官僚・軍人

2020 6/7 総合政策学部の皆さんへ

 先回の「相続とキャリア1」では、「かつて職業選択の自由もなかった頃、長子相続が確立した王族・貴族社会では、家業の相続について長男一人のみが家業(つまり、王位なり爵位)につき、相続から外れた“弟たち”をどこかの修道院等に“デポジット”して、万一長男が死んだ際のバックアップを期待することがあったという話」をしました。しかし、乱世あるいは巨大な王権が出現した際、彼らを積極的に拾い上げることで権力を増強する人間も現れます。

 その一人こそ皆さんご存じの織田信長です。中学校教諭を務めながら信長の研究をすすめた谷口克広氏の著書『信長の親衛隊』(1998;組織・人事論としてお薦めかもしれません)には、永禄12年(1569)に山科言継が岐阜を訪れた際の信長の家臣を連枝衆(織田信広ら;兄弟・親族ら=頼りになるかもしれないが、裏切って「取って代わる」ことになるかもしれない存在)、家老(林秀貞[のちの天正8年(1580)、かつて信長の弟信行擁立をはかって謀反をおこなった24年も前の過去の罪を問われて追放)、武将(譜代衆:丹羽長秀、木下藤吉郎)、武将(外様集、佐藤紀伊守、水野信元[家康の伯父、天正3年内通の疑いで信長の命をうけた家康によって殺害)、そして近臣の5グループに分けています。

 この近臣はさらに文臣的官僚としての武井夕庵松井友閑のグループと、武官としての馬廻(うままわり;弓衆も含める)に分けられます。

 ところで、馬廻とは「騎馬の武士で、大将の馬の周囲に付き添って護衛や伝令及び決戦兵力として用いられた武家の職制のひとつ。平時にも大名の護衛となり、事務の取次ぎなど大名の側近として吏僚的な職務を果たすこともあった。武芸に秀でたものが集められたエリートであり、親衛隊的な存在」(Wikipedia)ですが、谷口によればこのなかから「国持ち大名への出世」を遂げたものの中には、一群の小姓衆がおり、その筆頭たる前田利家にみるように「尾張の土豪クラスの出身者が多いと思われるが、(中略)いずれも家の跡取り息子ではなく二男以下で、生家を離れて直接信長に仕官したものであった」と指摘します。

 つまり、既存の長子相続制度ではあぶれてしまう“スペア”の男たちの中から優秀者を見出し、育成し、自らの親衛隊を形成させて(=専門軍人化)、領地(農業)から分離しきれていない旧来の土豪層を圧倒していくという組織論になります。この間に信長の近習=親衛隊はいつしかPrivate Military Company(PMC)からPublic Military Company(=御公儀)への成長とも言えるでしょう。

 と、ここまで書いたところでしばらく放置しておいたら、NHKの大河ドラマ『麒麟がくる』では信長自らがが道三に説明していたようです。

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 一方、ヨーロッパではどうか? 作家佐藤賢一氏が『ダルタニヤンの生涯』で生き生きと描くフランスの軍人シャルル・ド・バツ=カステルモール(Charles de Batz-Castelmore)ことダルタニャンが好例かもしれません。

 デュマの傑作『三銃士』で世界に知られるダルタニャンですが、もともとはフランス南西部の「しがない小貴族」の家で、「1615年ごろ、ガスコーニュで誕生する。次男だったとも、四男とも言われるが、いずれにせよ長男ではなく、家督の相続権もないため1630年頃、10代半ばでパリに上京した。1633年時点の銃士隊の閲兵記録に名前があり、この頃から銃士として活動していたと見られる」(Wikipedia)。

 このあたりは、前田利家の「尾張国海東郡荒子村の荒子城主前田利春の四男。はじめ小姓として14歳のころに織田信長に仕え、青年時代は赤母衣衆として従軍し、槍の名手であったため「槍の又左」の異名を持った。その後柴田勝家の与力として、北陸方面部隊の一員として各地を転戦し、能登一国23万石を拝領し大名となる」と重なってくるではありません。

 違いとしては、利家が地方の地方の有力者であった信長に直接リクルートされたのに対して、ダルタニャンは故郷を遠く離れて、絶対王政確立期のフランスの中心地パリで直接絶対的権力者(最初はマザラン、つぎにルイ14世)直属の近衛隊に入隊したことぐらいですが、佐藤氏によればこの入隊は、すでに銃士隊に地位を占めていたガスコーニュ出身者の先輩を頼った「縁故入隊」であるとのことですから、そんなに違わないかもしれません。

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 時代は流れて19世紀、1717年にドイツ・ブレーメンからイギリスに渡ったジョン・ベアリング(1697-1748)は様々なビジネスで成功、資産家ベアリング家を形成します(1995年に倒産して233年の歴史をとげたベアリングス銀行はジョンの息子フランシス・ベアリングが創業したものです)。

 1841年、そのベアリング家の一員、銀行家・政治家ヘンリー・ベアリングの8男にイブリン・ベアリング(1841~1917)が誕生します。しかし、8男! 彼は家業に携わらず、軍人を志して王立陸軍士官学校卒業後、王立砲兵隊に属しますが、38歳で除隊、今度は植民地行政家に返信します。そして、「インドで卓越した行政手腕を発揮したが、同時にその支配欲の強さから”overbearing”(横暴の意)と渾名されます」[Wikipedia]。お気づきでしょうが、Overbearingと姓のBearingとbearingのもう一つの意味=忍耐を掛けています。

 彼が最大の手腕を発揮したのは1876~80、1883~1907年に及ぶエジプトの植民地化の過程で、この間、1876年のエジプト副王イスマイール・パシャの財政破綻に端を発した財政の掌握に始まり、英国エジプト総領事としてのエジプトを牛耳り、財政改革・税制改革・農業振興によって(イギリスにとっての)黒字化を達成しますが、「エジプト人を対等の人間として扱わなかった」(アリ・バラカート教授)、「英国にとって利益となる農業振興のみを重視し、工業化を阻害し、教育などを軽視した」(アファフ・ルトフィ・アッ・サイエッド・マルソー教授)」(Wikipeida)として、非難されます。

 それにしてもペアリング家の末裔の8男から軍人・植民地官僚として出世をきわめ、1892年にクローマー男爵、1899年にクローマー子爵、1901年にクローマー伯爵に叙爵されて貴族院議員に列する人生、前田利家・ダルタニャンの近代版とも言えるかもしれません。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...