相続とキャリア2:行き場のない次男、三男の出世ルートとしての官僚・軍人
2020 6/7 総合政策学部の皆さんへ
先回の「相続とキャリア1」では、「かつて職業選択の自由もなかった頃、長子相続が確立した王族・貴族社会では、家業の相続について長男一人のみが家業(つまり、王位なり爵位)につき、相続から外れた“弟たち”をどこかの修道院等に“デポジット”して、万一長男が死んだ際のバックアップを期待することがあったという話」をしました。しかし、乱世あるいは巨大な王権が出現した際、彼らを積極的に拾い上げることで権力を増強する人間も現れます。
その一人こそ皆さんご存じの織田信長です。中学校教諭を務めながら信長の研究をすすめた谷口克広氏の著書『信長の親衛隊』(1998;組織・人事論としてお薦めかもしれません)には、永禄12年(1569)に山科言継が岐阜を訪れた際の信長の家臣を連枝衆(織田信広ら;兄弟・親族ら=頼りになるかもしれないが、裏切って「取って代わる」ことになるかもしれない存在)、家老(林秀貞[のちの天正8年(1580)、かつて信長の弟信行擁立をはかって謀反をおこなった24年も前の過去の罪を問われて追放)、武将(譜代衆:丹羽長秀、木下藤吉郎)、武将(外様集、佐藤紀伊守、水野信元[家康の伯父、天正3年内通の疑いで信長の命をうけた家康によって殺害)、そして近臣の5グループに分けています。
この近臣はさらに文臣的官僚としての武井夕庵や松井友閑のグループと、武官としての馬廻(うままわり;弓衆も含める)に分けられます。
ところで、馬廻とは「騎馬の武士で、大将の馬の周囲に付き添って護衛や伝令及び決戦兵力として用いられた武家の職制のひとつ。平時にも大名の護衛となり、事務の取次ぎなど大名の側近として吏僚的な職務を果たすこともあった。武芸に秀でたものが集められたエリートであり、親衛隊的な存在」(Wikipedia)ですが、谷口によればこのなかから「国持ち大名への出世」を遂げたものの中には、一群の小姓衆がおり、その筆頭たる前田利家にみるように「尾張の土豪クラスの出身者が多いと思われるが、(中略)いずれも家の跡取り息子ではなく二男以下で、生家を離れて直接信長に仕官したものであった」と指摘します。
つまり、既存の長子相続制度ではあぶれてしまう“スペア”の男たちの中から優秀者を見出し、育成し、自らの親衛隊を形成させて(=専門軍人化)、領地(農業)から分離しきれていない旧来の土豪層を圧倒していくという組織論になります。この間に信長の近習=親衛隊はいつしかPrivate Military Company(PMC)からPublic Military Company(=御公儀)への成長とも言えるでしょう。
と、ここまで書いたところでしばらく放置しておいたら、NHKの大河ドラマ『麒麟がくる』では信長自らがが道三に説明していたようです。
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一方、ヨーロッパではどうか? 作家佐藤賢一氏が『ダルタニヤンの生涯』で生き生きと描くフランスの軍人シャルル・ド・バツ=カステルモール(Charles de Batz-Castelmore)ことダルタニャンが好例かもしれません。
デュマの傑作『三銃士』で世界に知られるダルタニャンですが、もともとはフランス南西部の「しがない小貴族」の家で、「1615年ごろ、ガスコーニュで誕生する。次男だったとも、四男とも言われるが、いずれにせよ長男ではなく、家督の相続権もないため1630年頃、10代半ばでパリに上京した。1633年時点の銃士隊の閲兵記録に名前があり、この頃から銃士として活動していたと見られる」(Wikipedia)。
このあたりは、前田利家の「尾張国海東郡荒子村の荒子城主前田利春の四男。はじめ小姓として14歳のころに織田信長に仕え、青年時代は赤母衣衆として従軍し、槍の名手であったため「槍の又左」の異名を持った。その後柴田勝家の与力として、北陸方面部隊の一員として各地を転戦し、能登一国23万石を拝領し大名となる」と重なってくるではありません。
違いとしては、利家が地方の地方の有力者であった信長に直接リクルートされたのに対して、ダルタニャンは故郷を遠く離れて、絶対王政確立期のフランスの中心地パリで直接絶対的権力者(最初はマザラン、つぎにルイ14世)直属の近衛隊に入隊したことぐらいですが、佐藤氏によればこの入隊は、すでに銃士隊に地位を占めていたガスコーニュ出身者の先輩を頼った「縁故入隊」であるとのことですから、そんなに違わないかもしれません。
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時代は流れて19世紀、1717年にドイツ・ブレーメンからイギリスに渡ったジョン・ベアリング(1697-1748)は様々なビジネスで成功、資産家ベアリング家を形成します(1995年に倒産して233年の歴史をとげたベアリングス銀行はジョンの息子フランシス・ベアリングが創業したものです)。
1841年、そのベアリング家の一員、銀行家・政治家ヘンリー・ベアリングの8男にイブリン・ベアリング(1841~1917)が誕生します。しかし、8男! 彼は家業に携わらず、軍人を志して王立陸軍士官学校卒業後、王立砲兵隊に属しますが、38歳で除隊、今度は植民地行政家に返信します。そして、「インドで卓越した行政手腕を発揮したが、同時にその支配欲の強さから”overbearing”(横暴の意)と渾名されます」[Wikipedia]。お気づきでしょうが、Overbearingと姓のBearingとbearingのもう一つの意味=忍耐を掛けています。
彼が最大の手腕を発揮したのは1876~80、1883~1907年に及ぶエジプトの植民地化の過程で、この間、1876年のエジプト副王イスマイール・パシャの財政破綻に端を発した財政の掌握に始まり、英国エジプト総領事としてのエジプトを牛耳り、財政改革・税制改革・農業振興によって(イギリスにとっての)黒字化を達成しますが、「エジプト人を対等の人間として扱わなかった」(アリ・バラカート教授)、「英国にとって利益となる農業振興のみを重視し、工業化を阻害し、教育などを軽視した」(アファフ・ルトフィ・アッ・サイエッド・マルソー教授)」(Wikipeida)として、非難されます。
それにしてもペアリング家の末裔の8男から軍人・植民地官僚として出世をきわめ、1892年にクローマー男爵、1899年にクローマー子爵、1901年にクローマー伯爵に叙爵されて貴族院議員に列する人生、前田利家・ダルタニャンの近代版とも言えるかもしれません。
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