2020年7月

19世紀での国家の誕生と消滅Part1:サラワク王国篇

2020 7/28 総合政策学部の皆さんへ 「国家とは何か?」を考えるシリーズとして、今回とりあげるのは19世紀に“よどみに浮かぶうたかた”のようにあらわれては“かつ消えかつ結”んでいった様々な“国家”のことをとりあげたいと思います。そのまま首尾よく国家にまで残ったものもあれば、はかなくも消滅したものもあり、あるいは最初から何らかの思惑で仮の姿をとどめただけのものもある。もちろん、うっかりすれば、黒船来航以来の政治的混乱をうまく乗り切れなければ、日本でさえも生き残れなかったかもしれません。

 一方で、19世紀は帝国主義の時代でもありました。この“帝国”とは何でしょう? 日本語の字義通りでは「皇帝が支配している国家」ということになりますが、もちろん、そんな単純なものではなく、様々な含意が込められています。Wikipediaでは「複数の地域や民族に対して君臨し、大規模で歴史にも残る国家のこと。ラテン語のインペリウムに由来し、政体や国号は問わない」と定義されています。これらの帝国を支える“帝国主義”が跋扈するなか、これらのうたかたのような小国家はどのようにふるまったのか? これがテーマになるかもしれません。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 たとえば、ルネサンス期、現在イタリアと呼ばれている地域はいくつかの政治的権力によって分割されていましたが、その中には権力者の個人的な才覚による覇権あるいは軍閥的な政治主体が含まれます。とくにコンドッティエーレ(傭兵隊長)と総称された一群の雇われ軍人は、自らが率いるPrivate Violence Company (現代のPMCこと民間軍事企業)をうまく使って、政治的権威を掴むことができるのか?

 歴史作家塩野七生の傑作『ルネサンスの女たち』では、このあたりを「14世紀の後半、イタリアでは傭兵隊長、野武士の頭、地方の豪族が、その出生など関係もなく力を発揮し、それによって国家を形成しつつあった。はじめはアルプスの北から来た外国人が、そしてすぐ続いてイタリア人が、彼らにとってかわった。この時代はどんなものにも、富と権力の無限の可能性が、その眼前に開かれていたのである」と述べています。

 しかし、そうした状況もやがって変わります。「15世紀後半のイタリアは、ようやく列強の間で均衡が成り立ち始め、もうお新しい傭兵隊長国家の発生を、そう簡単には許さない状態になっていった。その中で、ムッツォの息子フランチェスコ・スフォルツァ一人が、幸運と彼自身の才能を慎重に使い、ミラノ公国を手に」入れます。

 “幸運”と“才能”、ごぞんじマキャヴェッリも重視していますが、彼の主著の一つ『君主論』では、第7章「他人の武力を借りて、または僥倖によって得た新主権について」で、「実力によって、あるいは幸運によって君主になった者」として、このフランチェスコ・スフォルアとチェーザレ・ボルジアの二人をあげています。この点、『君主論』はまさに個人がいかにして国家と言う政治権力を打ち立て、かつそれを維持するかというマニュアル本なのです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 こうして古くは11世紀にはノルマン人ロベルト・イル・グイスカルドルッジェーロ1世シチリア王国等が打ち立てられますが、やがてルネサンス期を過ぎ、大航海時代ともなると“征服者”たちは“帝国”の手先として活躍するものの、自らの王国を打ち立てようとする者はあまり目立たなくなるようになったかのようです。

 そんななか、何名かの者が“自らの王国”を確立しようとします。その一人はムハンマッド・アリアルバニア系とも、トルコ系とも、イラン系とも、クルド系とも言われる彼は(要するに、出身民族でさえ定かならない)、オスマン帝国からアルバニア人非正規部隊の指揮官としてエジプトに派遣され、やがて彼のディスティニーに目覚めます。それはPart3でゆっくり触れましょう。

 アリーが自らの権威獲得をめざしてエジプトの宗教指導者(ウラマー)からエジプト総督への推挙を受けたのが19世紀にはいったばかりの1805年ですが、その34年後、イギリス人の冒険家ジェームズ・ブルックが現マレーシアのサラワクに上陸します。1803年生まれですから、30代になったばかりの頃です。

 その頃、ブルネイ(現在のブルネイ・ダルサラーム国)のスルタンは相次ぐ反乱に手をやき、ブルックに鎮圧を依頼、ブルックは英国海峡植民地政庁の後ろ盾を得てこれを鎮圧、「褒賞としてサラワクが割譲され、ラージャ(藩王)に任じられた。ブルックは“白人王 (White Raja)”の称号を与えられ、ここにサラワク王国が建国」されるにいたります(Wikipedia)。

 “白人王”! ここでイギリス文学に詳しい方、あるは映画に詳しい方、さらには俳優ショーン・コネリーのファンならば、イギリス帝国主義時代を代表する小説家・伝道者のキップリング原作『王になろうとした男』ならびにその映画版を思い出すかもしれません。ちなみに映画化は1975年、生涯をかけて「男の野望とその挫折」をテーマとしてきた監督のジョン・ヒューストンが長年あたためてきた企画で、最初はハンフリー・ボガード等の起用を考えていたとのことです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 こうした「イギリスでは帝国主義を体現する代表的な人物」とされるブルックはなんと王様になってしまうのですが、しかもこの地位は世襲のため(ルネサンス期、イタリアで成立した様々な王朝はいずれも“世襲”の地位確保に心を砕きます)、2代目に甥のチャールズ・ブルックを指名、1917年には3代 ヴァイナー・ブルックが地位を引き継ぎます。この間、1941年に「建国100周年を記念して憲法が制定され、立憲君主国」になりました(Wikipedia)。

 なお、「歴代の白人王は「文化が進んだ少数のヨーロッパ人のために、先住民の利益を犠牲にしてはならない」として、外国資本による搾取から先住民を保護していた。そのため、サラワク王国では、国是として外国資本の投資や開発を原則禁止していた」とのことです(Wikipedia)。

 こうした経緯を調べると、サラワク王国はルネサンス型的な色彩も漂いますが、本質的にはイギリス帝国主義の政策の一環として、シンガポール・マレー半島を中心とした植民地支配とブルネイのスルターンの間の緩衝地帯としての役割を期待され、かつ果たしたと言えるかもしれません。しかし、20世紀にはいると、その運命は暗転します。

 そのブルネイで石油が発見されるのが1929年、本格的な採掘が1932年、しかし、これは第2次世界大戦まじかの日本の関心をひきつけます。その結果、サラワク王国は1941年~45年にかけて日本軍の軍政下におかれてしまいます。ちなみに、1944年に起きたレイテ沖海戦では一部の艦隊がブルネイから出撃しています。

 大戦中はシドニーですごした第3第王ヴァイナー・ブルックは戦後の1946年7月王位辞退をよぎなくされ、イギリス政府はサラワク州を王冠植民地として接収、1963年、マラヤ、サバ、シンガポールとともにマレーシア連邦(シンガポールは数年後に離脱)としてイギリスから独立することになり、この19世紀に誕生した“白人王国”は消滅します。

村井弦斎『食道楽』からタピオカ、白菜、ラーメン、カレーを考える:食についてPart 21

2020 7/22 総合政策学部の皆さんへ

 「ケチャップの歴史2番外編~トマト・ケチャップ出世譚:食について Part 20」で村井弦斎食道楽』(青空文庫版)を引用しましたが、開国以来160年になんなんとする日本の食を考える上でも、貴重な資料と言えるかもしれません。例えば、今の私たちの食に当たり前のもので、『食道楽』に見当たらぬものは何か? あるいは『食道楽』で村井がせっかく紹介しながら、その後の日本で忘れ去られたものは何か? そこに今の日本の食の本質をかいま見ることができるかもしれません。

 さて、『食道楽』は「1903年1月から1年間、報知新聞に連載され、大人気を博したことで単行本として刊行されると、それが空前の大ベストセラーになった。文学史的にも評価が高く、村井弦斎の代表作とされている。翌1904年にかけて続編を含めた8冊が刊行」されました(Wikipedia)。ちなみに1903年1月は、1日:英国王エドワード7世がインド皇帝に即位、14日:大谷探検隊がインドビハール州ラージギル郊外で釈迦の住んだ霊鷲山を発見、23日:夏目漱石が英国留学から帰国とのことです。

 この年12月31日の日本の人口は46,732,138人で現在の3分の1です。完全なピラミッド型の人口構成で、まぎれもなく人口増大期にあたります(東京では、死亡者数を出生者数が上回り、都会でも人口再生産に転じます(それまでは江戸時代そのままに、田舎に生まれた若者が東京にのぼって、結局、結婚も子供も残すことができずに死に絶えていくアリ地獄的世界でした)。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 『食道楽』冬の巻の末尾には登場する食や材料についての索引がついていますから、ここであたりを付ければ、120年前の日本の食生活と現在の違いがうかびあがるかもしれません。例えば、タピオカ! 正確にはタピオカはキャサバから作ったデンプンですから、皆さんの頭に浮かぶタピオカはタピオカティーと呼ばねばなりませんが、果たして『食道楽』に出ているのでしょうか?

 それが出てくるのです。第282回「米料理」に“ライスプティング”の材料として堂々の登場です。「セーゴでもタピオカでもジャムやでもやっぱり同じ事で大匙二杯位を初めは暫しばらく水へ漬けておいて膨ふくらんだ処を二合の牛乳へ入れて砂糖を三杯加えて三十分以上煮て出来上った時玉子の黄身を二つ混ぜてテンピの中で二十五分も蒸焼にすると病人にはどんなにいいだろう。無病の人には牛乳で煮ないでも普通なみのカスターソースを拵えてその中へ水に漬けたセーゴやタピオカを混て蒸焼にしてもカスターセーゴプデンといってなかなか美味おいしい者が出来るよ」とあります。

 このタピオカは何か? と思って『食道楽』をさらに調べると、「タピオカのマッシもセーゴに似て少し大粒の固まったものです。セーゴよりも固い物ですから四十分間水へ漬けておかなければなりません」とあるので、どうやらタピオカパールは1903年の日本にも輸入されていたようです! ちなみにセーゴとはおそらくサゴヤシデンプンの可能性があります。またマッシとはマッシュを指すようです。

 それにしても、せっかく村井先生がご紹介しながら、ライスプディングもタピオカも、その後、日本の料理界からは忘れ去られてしまうわけですが。村井は“ライスプデン”と表記していますが、これは「米をミルクで煮た料理である。同様のものが世界各地に存在する。日本では乳糜(にゅうび)、乳粥(ちちがゆ)、ミルク粥などとも呼ばれる」とのことです(Wikipedia)。私は中学時代、白水社版のスウェン・ヘディンの中央アジア探検記シリーズに頻繁に出てくる字面を見て、「この食べ物はいったい何なのだ?」と疑問に思ったものです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 それでは『食道楽』に何が登場しないのか? どうやら“白菜”という名前が見当たりません。現在青空文庫で公開されている春、秋、冬の巻を「白菜」で検索してもでてこないのです。そこで、春の巻の最後にでてくる栄養分析表(文明開化ですね)を見ると、(豆や薯類を除けば)根菜に大根、蕪、人参、牛蒡、蓮根、慈姑等が、葉菜に葱、韮、三河島菜、甘藍(キャベツ)、水芹、独活、蕗、蕨、薇、ホウレンソウ、小松菜、トウ菜、三つ葉、京菜、芹菜、茄子、胡瓜、南瓜(とうなすと表記)、冬瓜等がでています。

 一方、冬の巻の最後にでてくる「食道楽料理法索引」にはこのほか、赤茄子(トマト)、アスパラガス、アテチョー(おそらくアーティチョーク)、枸杞(の若芽)、嫁菜、紫蘇、白瓜、ズイキ、玉葱、花キャベツ、山葵、蕨等がありますが、白菜はまったくありません。

 それも道理、「日本で結球種のハクサイが食べられるようになったのは、20世紀に入ってから」で(Wikipedia)、「普及のきっかけとして、日清・日露戦争に従軍した農村出身の兵士たちが、中国大陸で食べた白菜の味を気に入って持ち帰ったからと言われているが、各地で栽培が試行されたもののほとんどは、品種維持に失敗したと見られる」ということですから、1903年の村井先生の視野にはまだ入っていなかったと思われます。

 なお、『食道楽』の栄養分析表には、当然、1910年以降に鈴木梅太郎らによって次々に発見されたビタミン類はのっていません(カロリーもついていません)。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さて、現代の日本の食で『食道楽』に登場しない代表としてラーメンがあげられるかもしれません。これまたWikipediaに頼れば、「1910年、東京府東京市浅草区に初めて日本人経営者尾崎貫一が横浜中華街から招いた中国人料理人12名を雇って日本人向けの中華料理店「来々軒」を開店し、大人気となった。その主力メニューは、当時は南京そば、支那そばなどと呼ばれたラーメンだった。新横浜ラーメン博物館によると「来々軒」を中国の麺料理と日本の食文化が融合してできた日本初のラーメン店としており、ラーメン評論家の大崎裕史はこの年を「ラーメン元年」と命名している」とのことで、1903年刊の『食道楽』には間に合わなかったようです。

 とはいえ、『食道楽』にはもう一つの現代食、カレーがかなり頻繁に登場してきます(なお、ライスカレーとして登場しています)。秋の巻には31回、冬の巻には索引もあわせて15回登場しますが、材料も多彩で、牛肉、鳥、魚、玉子、アサリ等です。なお、玉子のカレーとは、カレーのスープを作ってからそこに「湯煮玉子を四つ小さく輪切にして入れて御飯へかけます」とあります。その昔、東アフリカのタンザニアでホテルのメニューにエッグ・カレーがあったので注文すると、丸のままのゆで卵がカレースープの中に鎮座してでてきたのを思い出します。

分けることと名を付けることPart1:アンシクロペディストたちの夢

2020 7/19  総合政策学部の皆さんへ 唐突に“アンシクロベディスト”などと言いだしても、皆さんに通じるかどうか? これは「百科全書派」と訳され、18世紀、フランスの啓蒙思想家ディドロダランベール等のもとに編集した百科全書(1751~72年刊行)に携わった一連の思想家たちを指すフランス語です。

 ちなみに私は高校の世界史等で教わったおり、「なぜ百科事典の編集者たちが教科書にのるほど“偉い”のか?」と疑問がわいたのを覚えていますが、これはもちろん当時の私の知識不足・知的能力の足りなさゆえです。以下にのべるように、実際には近代思想上の一大転換点だったのですが、それでは何がこの“転換”のキモだったのでしょう?

 その基本は「知識を握った者が権力/権威を握る」という点にありました。さらに筆を進めれば、その知識の基盤とは 「事物を認識することであり、事物を識別、分類して、そこに名前を付ける」ことです。こうして“知識人”は事実を命名することで物事を整理・理解することで知的権威=権力を握るわけです。今日、多くの国家が大学をはじめとする教育・研究機関を擁し、そこに蝟集する“研究者”、“知識人”を集めることを自らの“権威付け”の一環としていることでも明らかでしょう。

 ちなみにフランス王フランソワ一世によってコレージュ・ド・フランス(設立当時はコレージュ・ロワイヤル;Collège Royal、王立教授団)が設立されるのが1530年、さらに1635年にアカデミー・フランセーズが始まります。一方、イギリスでは1660年に王立学会が開設されます。このあたりから、“知識人”は知識によって知的権力を目指し始めるのです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 レヴィ=ストロース(1976)によれば、身の回りの事物を選り分け、命名しようとする欲望はどんな“未開人”にも共有されています。アフリカの熱帯雨林に生きる狩猟採集民ムブティ・ピグミーの老人でも、アルゼンチンの小説家ボルヘスが想像する中国の百科事典でも変わりません。

 しかし、なんと言っても特筆すべき試みは、すべてを分類・系統付けようとするアンシクロペディストたちの夢でした。17世紀、近世フランスにおいて既存の権威(王、貴族、そして教会)に対して、無視し得ぬ力となっていた知識人たちは「知識は力であることを悟り、知識の世界を測量してその征服に乗り出した」というのがダーントン著『猫の大虐殺』での主張です。

 ダーントンによれば、アンシクロベディストの最終的な戦略目標は「知識にはっきりとした形をあたえて、それを聖職者の顕現化から奪って、啓蒙主義にかかわる知識人の手に」委ねることでした。今日、近代科学が世界にかかわるすべての認識を支配していますが、そのはじめの一歩は「既知と未知の間に」「世界地図を書いて世界の征服を企て」たディドロやダランベールたちの試みにほかならないのです。

 さらに付け加えれば、“命名”には“標準化”が好ましい。こうして化学の世界では元素記号等が、生物学ではC・リンネが始めた“学名”等が普及します。現在のビジネスでも、結局、デファクトスタンダードを握ることで他者を征していくのです。

 もちろん、こうした知識人からの支配を嫌う者、あるいは自分の邪悪な欲望のためにそれを利用することしか考えない者もいます(それゆえ、20世紀以降、世界は科学と支配者の相克の時代にもなりました)。その筆頭はインテリを“粛清”し、ルイセンコ等の御用学者を重用したスターリン、あるいは疑似科学的にアーリア民族の優秀性を唱えたヒトラー、そしてコロナウィルス蔓延の状況にほとんど対応できない政治家たちがあげられるでしょう。彼らは生態学者エド・リケッツが気づいたように“みんな真実を憎んでいる”のです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 その一方で、アンシクロペディストにとって思いもよらぬ悪夢でしょうが、世界を系統づけようとする試みは、一方で、あからさまでかつ無自覚な差別を生み出してきた側面がないわけではありません。

 まずあげられるのは、“標準化されていないもの(物と者)”への軽蔑である。命名・分類された近代科学が賞揚される一方で、いかにも不確かであいまいな民族科学は蔑まれる。人類学者たちが“野生の思考(レヴィ=ストロース、1976)”を称揚したとしても、たいていは近代科学による“再発見/再評価”を必要です。

 さらに、こちらの方が重大でしょうが、自分たちが創り出した体系から“はみ出してしまう”グレーゾーンへの嫌悪と無視が首をもたげます。こうした構図のもとに、東アフリカのインド系住民、東南アジアの中国系住民、ヨーロッパの“ユダヤ人”や“ジプシー”等の周縁的な人々はしばしば追放、虐殺されてきました。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さて、ディドロたちが充分意識していたように、近代科学での分類は単純な“分別”ではありません。「全体を共通性でおおきく分け、分けたものをさらにまた共通性に従って細分し、これ以上分けることのできない個体の一つ手前まで順次分けていって段階付け、体系化することをいう」ことをいいます。

 もちろん、これはたやすいことではありません。ディドロ自身もすでに百科全書の『趣意書』で、「むつかしいのはその形式と構成である。多量の素材を(略)まとまった一つの全体に仕立て上げなければならない」と記しています(ダーントン、1986)。このような努力のはてに、彼らは人間知識を一つの「知識の系統樹」にまとめ上げたのです。

 この“系統”に系統に時間軸を意識する時、そこにいやおうなく“進化”の概念が顔をのぞかせます。進化は、生物に限った現象ではありません。太陽系でも、社会でも、さらには特定の商品でも、一方向への時間の流れの中で不可逆的な変化が進むのはどこでも起こりうることです。

 その一方で、ここでもまた近代に固有の問題が首をもたげます。それは進化のイメージが“偏見”という新たな要素を付け加えがちなことです。たとえば、“遅れている”とラベル付けされた者たちは、そのラベル自体が評価となります。こうした考え方の典型が“社会ダーウィニズム”にほかなりませんが、そこでは確たる保証もなしに“進歩”、“進化”、“発展”等に好意的な価値観をふりまかれます。

 ディドロ自身は、1772年に著した『ブーガンヴィル航海記補遺』でこうした構造に対して、“高貴な野蛮人”というアンチ・テーゼを唱えているが知られています。それ以来、よーろぱ文明では“未開”について“高貴さ”と“野蛮”の二つの印象のなかを揺れ動いていきました。この点、もっとも皮肉が効いた論評はおそらく、レヴィ=ストロース(1976)の“熱い社会”と“冷たい社会”でしょう。後者の社会ではそもそも“熱い社会”の成立を避けるため、人々の間に境=ボーダーを築く企てを放棄してきたというのです。

 その一方で、ヨーロッパという“熱い社会”は大航海時代以降、パワーと“デファクトスタンダード”で“冷たい社会”を飲み込んできました。その過程こそが、ウォーラーステインの言う“世界システム”かもしれません。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 現在、命名と分類はディドロたちの思惑を乗り越え、我々の認識の世界を完全に支配するにいたりました。ダーントンが指摘するように、つまるところ、命名とラベル付けは“力の行使”にほかなりません。つまり、命名は権力の行使なのです。

 ジャーナリストの本多勝一(1967)はカナダ・エスキモーが住む地で、英語で書かれた地図を開いた時にそれに気づきます。「地図を頼りに歩くうち、私はだんだん腹がたってきた。・・・すぐ南に“ケイプ・ジャーメン”という岬がある。・・・ところが、かれらにはケイプ・ジャーメンがわからない。よくよくきいてみると、ここは“アナンギアクジュ”だという。・・・・エスキモーはエスキモーで、先祖伝来の地名を使っているのだ。従って、かれらのいう場所を地図でさがしても、絶対にわからない。・・・たとえば日本を占領した外国が、京都をニューロンドンに」したようなものです。もちろん、これは他人事ではありません。この文章はさらに「シンガポールの昭南島、チョモルンマのエベレストもこれに類する。現地人を人間と見ていないのである」と続く。

 人類学でとくに採りあげられる問題は“自称”と“他称”です。上記本多の文章では“エスキモー”という名称が使われていますが、これは「生肉を食う連中」という意味のネイティブ・アメリカン(これも他称の“インディアン”を避ける中立的な呼称)からの蔑称まがいの他称です。“エスキモー”自身の自称は“イヌック”で、現在では“イヌイット”と言い換えるのがふつうとされています。もっとも、本田はこれは承知の上で、彼ら自身が平気で「エスキモー」と使うので、この名称を用いたと断っています。

 同じように、南部アフリカに“Bush man”と呼ばれる人たちがいます。「藪の人」といういかにも蔑称的な名称の語源は、さらに「山賊/盗賊を意味するBossiesman」だったとの説もあるそそうです(また、ジェンダー論的にも“man”にも問題があります。とはいえ、ブッシュパーソンとすれば解決するような問題でもないでしょう)。

 したがって、1970年代頃から、蔑称を避けるべく“San”と呼ばれるようになった。ところが、この“San”も自称ではないことが明らかになってきました。この言葉は、隣接する民族“コイコイ”(この人たちもふつうは白人からの他称“ホッテントット”で知られています)からの他称であり、しかも差別的ニュアンスの可能性があるというのです。その一方で、10以上の言語集団に分かれているBush man全体に当てはまる自称は存在しません(たとえば、グイ、ガナなどの集団が存在する)。したがって、植民地主義の歴史をむしろ鮮明にするためにも、彼らの総称をあえて“Bush man”とするという立場も出てきているという意見もまた盛んになっています。

 このように、こうした問題は終わりがありませんが、いずれにしても自分自身の言動と認識が絶えず問われている、ことだけは忘れてはなりません、ということでto be continuedとします。

「老い」を考える2:サルにおける「老い」

2020 7/16 総合政策学部の皆さんへ 「老い」を考える」の続きです。

 実は、サルを研究する霊長類学では、ごく初期から「老齢/老化/加齢/エイジング」という現象に興味を抱いていました。サルを研究する目的は「ヒトに近いが少し違うこの連中を調べることで、ヒトの本質を探る」ことだという原則からは当然のことでしょう(私自身は、必ずしもこの原則に全面的に賛同するわけではないのですが)。

 研究史を随分昔に遡りましょう。近代的な霊長類学の嚆矢として、1940年代にカリブ海の小島カヨ・サンティアゴにアカゲザルのコロニーを創設した心理学者カーペンターの回顧談には、以下の文章が出てきます。“Smith and Engle were interested in the old aging or senility problem in 1938. This reflected itself in the fact that I brought back 15 extremely old males which we trapped with great difficulty in central India” (Rawlins & Kessler, 1986)。

 つまり、映像フイルムの早回しを観るように、人に比べて老化が早く進むサルを観察すれば、「老い」の進行をより明瞭に理解できるかもshりえない、と考えたのです。もっとも、それでもサルの年齢も結構長い。その後の長年のデータの積み重ねでは、例えば、私が嵐山の野猿公苑で付き合っていた方々のうち、もっとも高齢だったのはミノ(Mino)と名付けられた1957年生まれのメスで、お亡くなりになったのが33歳、その頃には腰がまがり、身体も縮こまっていて、107~108歳まで生きられた双子の姉妹「成田きんさん、蟹江ぎん」を髣髴とさせていました。したがって、ニホンザルの最長寿命はヒトのほぼ3分の1ぐらいかなという塩梅です。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 それでは、その後の霊長類学に「老い」は重要な位置を占めてきたでしょうか? 実は、一時期はあまり関心が集まりませんでした。例えば、進化生物学的視点から「老化」を論じているリクレフズ&フィンチの『老化』(日本では1995年の出版)では、例としてアカシカ、アホウドリ、アメリカカケス、イタチムシ、ショウジョウバエ、ミツバチ、メバル等が登場するものの、霊長類は皆無です。

 ここでいくつかの疑問が湧くかもしれません。まず、霊長類では「老化」の研究は無視されがちなのでしょうか? そしてそれには何か理由があるのか、それともたんなる見落とし、手落ちなのか?

 おそらく一番大きな原因は、サルの加齢が(カーペンターらの思惑を超えて)意外に長かった、ということかもしれません。確実な年齢が判明しているサルの老化を調べるためには、研究開始から20年待たねばならない。それならば、寿命が2年半のマウス(ハツカネズミ)や、さらに待ちきれなければ2か月のショウジョウバエを使った方がよほど研究が進み、論文の数も稼げるかもしれません。研究者というのは京都弁でいうところの“イラチ”、じっくりと待つのは苦手なのです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 冗談はさておき、私がサルを観察しだした嵐山では1954年の餌付け以来、21年が過ぎ、最初に生まれたサルたちがそろそろ老境に差し掛かりだす頃でした。つまり、ニホンザルについて「老い」をようやく扱えるようになりかけていた時期だったのです。

 以下、そこで見た“老い”を具体的に説明しようと思いますが、以下の記述はほとんどメスが中心になります。これは、ニホンザル等ではオスは生まれた群れを離れて、移籍を繰り返しながら成長するので、年齢や履歴が追いにくいためです(後で述べるように、チンパンジーでは逆ですが)。

 さて、昔、まだ大学院生だった頃、嵐山の野猿公苑で調査していると、お客さんに質問を受けることがありましたが、その中でも「何歳からオトナなんですか?」という問がありました。直球返しにすれば、「それではあなたは、ヒトは何歳からオトナとお考えですか?」というものでしょう(もちろん、そんな相手の顔をつぶすような発言をしたことはありませんが)。

 その頃は「何歳から高齢者なのですか?」と聞かれたことはありませんでしたが、現在のサル山ならば、あるかもしれませんね。それでは人は何歳から高齢者なのでしょう? というのが「老いについて考える1」ですね。

 それならば、サルはいつから老境に入るのか? それは子供を産むこと(=繁殖)から身を引いた時ということになります。もっとも、サルでもチンパンジーでも、子供が幼いうちに母親が死ぬとその子も死ぬことが多い。つまり、「最後に産んだ子供が母親から自立して生き延びれるようになる(ニホンザルならば生後1.5~2年程度)」までとなります。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 ここでミノ婆さんに話をもどしましょう。彼女は1966年には嵐山群の分裂のきっかけをつくった「メスガシラ」でもったのですが、最後の出産は25歳です。最後の子が1.5歳に達した時点で(そこまで生き延びれば、母親が死んでも、子供が生き残る可能性が高い)繁殖が終了したとみなすと、26.5歳~33歳の6.5年間が繁殖にかかわらない「後繁殖期」(PRLS:post-reproductive life span)にあたります。これは彼女の寿命の約20%です。

 もっとも、これは人為的な餌付けによる栄養条件が影響している。可能性がある。そこで屋久島の野生の群れで調べると、やはり何頭かのメスは最後の出産後、子供を産まぬまま生きていました。もっとも、嵐山に比較するとやはり短い。そうすると、ニホンザルのメスにおいての「老い」はヒトの女性の閉経期に比べると、やはりずいぶん短いということになりそうです。

 ちなみに、嵐山のメスを見ていると、出産しなくなったメスも発情して、交尾することがよくあります。ただし、妊娠しません。これをまとめると、ニホンザルのメスの「繁殖」と「性」と「生」の終焉には、意外に複雑で、以下のような諸段階を減るようです。
(1)出産率が急減するが、性(発情)は維持する=20~25歳=老化の進行
(2)出産が停止するが、性(発情)は維持する=繁殖の停止と後繁殖期の始まり(22歳以降)
(3)性(発情)が停止する=真の閉経27歳頃)
(4)「生」が停まる=死
 たぶん、繁殖にかかわる諸機能は徐々にアナログ的に減衰していく(これが老化です)。そして、20歳前後に老化が劇的に進んで、結果として出産しない=繁殖の終了というデジタル的な結果に結びつく。しかし、ヒトの女性に比肩しうる閉経は、死の直前にならないと訪れない、ということかもしれません。
 長いようで、意外に短い。6年だと33歳の人生のうちの2割弱です。ヒトの女性では、初潮を15歳、閉経を50歳として、100歳まで生き残ると老後は50%に達します。やはり、「老い」はヒトに特有とまではいかないが、非常に目立った現象と言えるのかもしれません。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 それでは、オスも少し紹介しましょう。コドモのDNAからどのオスが子供を作ったかはある程度わかります。すると、オスがどの年齢で子供を作っているかもわかります。すると、嵐山では12~17歳で子供をつくることが多く、高齢のオスは(高順位でも)子供を残していないようです。これはやはり「老化」のあらわれかもしれません。

 一方、「老いた」サルはどうふるまうか? これも基本的にはメスを中心にお話しましょう。大阪大学の中道さん(19999)は、(1)20歳を超えたメスは活動性が減る。(2)他個体との距離でも、独りでいる時間が長くなる。(3)毛づくろい等は一方的にうけるだけで、他個体を毛づくろいすることが少ないとしています。例えば、(4)末娘と長時間を過ごすことが多いが、(5)孫の養育への関与も少ない。したがって、Grandmother Effect(「ヒトでは、お婆さんは自分で繁殖せず、娘の子育てを支援する、という機能を発達させることで、老人が生まれたという学説)は期待薄である、というのが一般的な特徴だと言うのです。すると、後繁殖期にいるからといって、ヒトの“お婆さん”を連想させるほどではないのかもしれません。ということで、今回はこのあたりで to be continuedとします。

ツル植物をめぐる様々な関係Part 1:アフリカの森で木が倒れる時

2020 7/13 総合政策学部の皆さんへ 今日の話は“ツル植物”をめぐる生物間の関係です(つまりは生態学です)。

 今からもう35年も前のことになってしまいましたが、私が東アフリカのタンザニア連合共和国西部、タンガニイカ湖畔のマハレという場所で、国立公園建設という名目で国際協力事業団(当時、現在の国際協力機構;JICA)の派遣専門家として滞在していた頃の話です。

 マハレでは1年は5月半ばから10月半ばごろまで続く乾季と、10月半ばから5月はじめ頃まで続く雨季の二つの季節に分かれます。乾期は5か月間ほど、ほとんど雨が降りません。その間、川の水はだんだんと減り、下流から上流に向かって徐々に枯れていきます。流れがとまり、水たまりで泳ぐ小魚たちはやがて取り残されて、干からびてしまう、そんな世界です。一方、雨季は雨が降り続きます。多い年には年間2200mmほどが降ります(ちなみに、三田の降水量は1,239.9mmに過ぎません)。

 したがって、7か月間に多いとしては三田のほぼ倍の雨が降る。乾季はとことん乾ききってしまい「まるで心まで干からびる」感じなのですが、雨季は逆にとことんジメジメして「脳味噌までカビてしまう」感じです。

 そんな雨季に、チンパンジーを探して森の中を切り開いた観察路を歩いていると、毎日のように「ドスーン」という、近くで聞けば地響きのような音が聞こえてきます。それは巨木が倒れる音なのです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 どうしたことかというと、アフリカの雨林ではいたるところで、様々なツル植物が巨木にまとわりついています。光合成に必要な光を求めて、彼らは巨木にまとわりつき、しがみつくことで巨木の樹冠をさらに覆うように葉を広げようとしています。彼らは光を求めて、一種の“ずる”をしているとも言えるでしょう。

木本性つる植物は巻き付く、貼り付くなどして周囲の樹木等(ホスト)に取り付き、その樹木に自重支持を依存しながら成長する。樹木では自重を支えながら高く成長するため茎肥大に大きな資源投資を必要とするのに対し、つる植物の成長様式はその分の資源を茎伸長と葉量増加へと振り分け、よって資源を効率良く用いて生育空間と光合成生産を拡大する戦略である。

 この戦略は、光競争の激しい環境で優占する上で、あるいは生産性の低い林内環境で成長を維持する上で大きな利点となる一方で、常にホストを獲得する必要があり、ホストが枯死した時に巻き添えを受ける等の制約を受ける。長期的には必ずしも効率の良い個体成長を可能にするわけではなく、さらに地面まで完全に落下するリスクも内包する不安定な成長様式とも言える」(Wikipedia「つる植物」)

 こうしたツルはどんどん太くなり、かなりの直径になる場合もあります。また、葉もいっぱいに広げます。雨季、そこに雨が降ると、濡れることでツルや葉はずっしりと重くなり、何本もまとわりつかれるとそれは馬鹿にならない重さになります。また、あまりに巻き付かれると、樹冠がツル植物の葉で覆われて、せっかく、隣の巨木に負けまいとして数十mの高さまで伸びたのに、樹勢が衰えることも珍しくない。

 また、熱帯雨林の巨木の根は温帯の樹々と違って、地中にあまり深く伸びず、むしろ、地表を覆うように横に広がります。つまり、。これは熱帯雨林では物質循環が早く、地表下にあまり土ができないことも関係しているでしょう。熱帯では地層が貧弱なため、土台が必ずしもしっかりしていません。

 こうしたわけで、雨季になると樹勢の衰えやツル植物の重さの故か、巨木が突然倒れてしまうことが珍しくなるなるわけです。調査者としての私にとっては、こうした巨木がしばしば観察路にほぼ覆いかぶさるように倒れることが多いのです。その場合は、せっかく伐ったばかりの道が何十mもわたって、巨木とそれに絡みつくツル植物で完全に埋まってしまうことになります。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 それにしても、上記のように「常にホストを獲得する必要があり、ホストが枯死した時に巻き添えを受ける等の制約を受ける」リスクにさらされる人生を“愚か”と思われるかもしれません。大昔、高校時代に、古典の文例で松平定信(実は、私はこの人が苦手ですが)が、藤か何かを例にあげて、その虚しさをたしなめている文章を読んだ記憶がかすかにあります(あまりに昔のことゆえ、他の人の文章かもしれませんが、いまは確かめる術がありません)。

 これも植物による戦略に潜むベネフィットとコスト/リスクのバランスというべきかもしれません。他の木(=ホスト)に絡みつくことで、低コストで利益を上げながら、相手の樹勢を弱らせ、まるで無理心中のように文字通り“共倒れ”になってしまう! やはり、定信君でなくても、皆さんはこんなことをしないようにね、と言いたくなるところです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 その一方で、こうした巨木の死は多くの生を目覚めさせます。巨木が倒れた後に、樹冠に出現する“ギャップ”によって、林床まで光が届くや、それまで数十年にもわたって隠忍自重してきた埋土種子等が一斉に成長を開始するのです。

 もちろん、その後に展開するのは成長し始めた若木同士の熾烈な競争であり、やがて生き残った少数の個体だけが光を求めてさらに成長していくことになりますが、それがいわゆるギャップダイナミクス、「森林が、部分的に壊れては遷移することを繰り返し、全体としては極相の状態を維持する」(Wikipedia)ことにつながっていくのです。

ケチャップの歴史2番外編~トマト・ケチャップ出世譚:食について Part20

2020 7/1 総合政策学部の皆さんへ

 ケチャップの歴史を手繰っていったら、村井弦斎食道楽』が青空文庫に入っていることに気づきましたが、これでまた少し遊びそうです。また、青空文庫は学生の皆さんにもお薦めです。

 手始めに『食道楽』にトマトが描かれているか調べたところ、『春の巻』では以下の1か所だけです。春ならば、まだトマトの季節に及ばないのかもしれません。

赤茄子スープは夏ならば生の物、冬ならば鑵詰かんづめの物を四十分間煮てバターを交ぜ、曹達そうだを極く少し入れよく掻廻し別にスープかあるいは牛乳を沸してこの中へ注ぎ込むなり。壜詰びんづめのトマトソースを用ゆれば便利あり」(第30 万年スープ)

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 どうやら夏の巻はまだ入力されていないようなので、冬の巻を見ると、18か所にトマトが登場です。まずは、牛の臓物料理ですが、とくに「牛の脳味噌」は「牛の脳みそのミラノ風カツレツ」ではないでしょうか? 村井もよく調べたものです。また、「顔の皮」では瓶詰のトマトソースが紹介されています。

牛の脳味噌はコロッケーにもすべし。それには一旦湯煮て細かく切り固き白ソースへ混ぜ塩胡椒を加えて冷まし、それを丸めてメリケン粉をつけ玉子の黄身にてくるみパン粉をまぶして油にて揚げる。これにトマトソースをかけて食すれば一層上等なり」(第288 牛の脳味噌)

お登和嬢「顔の皮と申して頭の皮も何の皮も皆みんな食べられますが、それを最初塩でよく揉んでヌルヌルを除とってしまってよく洗って、深い鉄鍋の中へ水と一緒に入れて少し塩を加えて人参や玉葱なんぞを入れて強くない火で四時間ばかり湯煮ゆでます。そうすると皮が大層柔くなります。別の鍋でバター一杯をいためてコルンスタッチ一杯をよくいためてスープを五勺に瓶詰のトマトソースを一合加えて塩胡椒で味を付けて今の皮をその中へ入れて一時間ほど煮ますと美味しいシチューが出来ます」妻君「牛の舌はいつでもシチューに致しますが外にお料理がございますか」(第289 牛の臓物)

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 このようにトマトソースとして利用するほかは、サラダとしても、またトマトスープも紹介されています。

今は生のトマトが沢山ありますが大層味のあるものでサラダにしてもマカロニと煮ても美味おいしゅうございますがあれをスープにしても結構です。それは生の赤茄子を二つに割って絞ると種が出てしまいます。それを裏漉しにしておいて別に鍋へバターを溶かしてコルンスタッチをいためてスープを加えて混てその中へ今のトマトを入れて20分間も煮て一度漉して塩胡椒とホンの少しの砂糖とを加えて出します。実には小さく切ったパンのバターで揚げたのを入れると結構です。赤茄子は畠へ作ると沢山出来ますが食べ馴れない人は知らないで珍重しません。食べ馴れると実に美味いものです。赤茄子の中をくり抜いて胡瓜や茄子へ肉を詰めた通りに詰めてテンピで焼いても結構です。何でも最初食べ馴れない物を人に御馳走する時は不味拵えて懲々させるとモーいけません」(第225 赤茄子)

 トマトスープは「病人の食物調理法」の一つとしても登場しますが、こちらにはトマトの缶詰が紹介されています。

第四十四 トマトスープは赤茄子の事ですが生ならば二斤ほどのトマトを一つ一つ二つに割って種や汁を絞り出して水を少しも入れずに弱い火で四十分間煮ます。それでも水が出ますから水を切って裏漉しにして一合のスープへ混ぜて十分間煮て塩味の外に砂糖を小匙一杯ほど加えて出します。鑵詰の物はそのまま水を切って裏漉しにします。これには牛乳も玉子も要いりません」(付録)

 こうしてみると、『食道楽』では生・缶詰のトマトとビン詰のトマトソースとして、シチューなどの煮込み料理か、カツレツ等のソースの材料として使われているようです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 ちなみに、『食道楽』には「食道楽料理法索引」がちゃんと載っています(明治人は綿密ですね)。「索引は五十音に別ちたり、読者の便利の為ため正式の仮名によらず、オとヲ、イとヰ、の類るいは皆近ちかきものに入いれたり」とあります。

 その索引に登場するトマト関係は、以下の通りです。

シタフトマト(スタッフドトマトですね)   秋   第二百三十一 暑中の飲物
トマトソース                夏   第百七十五 徳用料理
トマトスープ                秋   第二百二十五 赤茄子あかなす
トマトシチュー               秋   第二百三十一 暑中の飲物
トマトスープ                冬付録 病人の食物調理法の「第四十四 トマトスープ」

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...