19世紀での国家の誕生と消滅Part1:サラワク王国篇

2020 7/28 総合政策学部の皆さんへ 「国家とは何か?」を考えるシリーズとして、今回とりあげるのは19世紀に“よどみに浮かぶうたかた”のようにあらわれては“かつ消えかつ結”んでいった様々な“国家”のことをとりあげたいと思います。そのまま首尾よく国家にまで残ったものもあれば、はかなくも消滅したものもあり、あるいは最初から何らかの思惑で仮の姿をとどめただけのものもある。もちろん、うっかりすれば、黒船来航以来の政治的混乱をうまく乗り切れなければ、日本でさえも生き残れなかったかもしれません。

 一方で、19世紀は帝国主義の時代でもありました。この“帝国”とは何でしょう? 日本語の字義通りでは「皇帝が支配している国家」ということになりますが、もちろん、そんな単純なものではなく、様々な含意が込められています。Wikipediaでは「複数の地域や民族に対して君臨し、大規模で歴史にも残る国家のこと。ラテン語のインペリウムに由来し、政体や国号は問わない」と定義されています。これらの帝国を支える“帝国主義”が跋扈するなか、これらのうたかたのような小国家はどのようにふるまったのか? これがテーマになるかもしれません。

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 たとえば、ルネサンス期、現在イタリアと呼ばれている地域はいくつかの政治的権力によって分割されていましたが、その中には権力者の個人的な才覚による覇権あるいは軍閥的な政治主体が含まれます。とくにコンドッティエーレ(傭兵隊長)と総称された一群の雇われ軍人は、自らが率いるPrivate Violence Company (現代のPMCこと民間軍事企業)をうまく使って、政治的権威を掴むことができるのか?

 歴史作家塩野七生の傑作『ルネサンスの女たち』では、このあたりを「14世紀の後半、イタリアでは傭兵隊長、野武士の頭、地方の豪族が、その出生など関係もなく力を発揮し、それによって国家を形成しつつあった。はじめはアルプスの北から来た外国人が、そしてすぐ続いてイタリア人が、彼らにとってかわった。この時代はどんなものにも、富と権力の無限の可能性が、その眼前に開かれていたのである」と述べています。

 しかし、そうした状況もやがって変わります。「15世紀後半のイタリアは、ようやく列強の間で均衡が成り立ち始め、もうお新しい傭兵隊長国家の発生を、そう簡単には許さない状態になっていった。その中で、ムッツォの息子フランチェスコ・スフォルツァ一人が、幸運と彼自身の才能を慎重に使い、ミラノ公国を手に」入れます。

 “幸運”と“才能”、ごぞんじマキャヴェッリも重視していますが、彼の主著の一つ『君主論』では、第7章「他人の武力を借りて、または僥倖によって得た新主権について」で、「実力によって、あるいは幸運によって君主になった者」として、このフランチェスコ・スフォルアとチェーザレ・ボルジアの二人をあげています。この点、『君主論』はまさに個人がいかにして国家と言う政治権力を打ち立て、かつそれを維持するかというマニュアル本なのです。

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 こうして古くは11世紀にはノルマン人ロベルト・イル・グイスカルドルッジェーロ1世シチリア王国等が打ち立てられますが、やがてルネサンス期を過ぎ、大航海時代ともなると“征服者”たちは“帝国”の手先として活躍するものの、自らの王国を打ち立てようとする者はあまり目立たなくなるようになったかのようです。

 そんななか、何名かの者が“自らの王国”を確立しようとします。その一人はムハンマッド・アリアルバニア系とも、トルコ系とも、イラン系とも、クルド系とも言われる彼は(要するに、出身民族でさえ定かならない)、オスマン帝国からアルバニア人非正規部隊の指揮官としてエジプトに派遣され、やがて彼のディスティニーに目覚めます。それはPart3でゆっくり触れましょう。

 アリーが自らの権威獲得をめざしてエジプトの宗教指導者(ウラマー)からエジプト総督への推挙を受けたのが19世紀にはいったばかりの1805年ですが、その34年後、イギリス人の冒険家ジェームズ・ブルックが現マレーシアのサラワクに上陸します。1803年生まれですから、30代になったばかりの頃です。

 その頃、ブルネイ(現在のブルネイ・ダルサラーム国)のスルタンは相次ぐ反乱に手をやき、ブルックに鎮圧を依頼、ブルックは英国海峡植民地政庁の後ろ盾を得てこれを鎮圧、「褒賞としてサラワクが割譲され、ラージャ(藩王)に任じられた。ブルックは“白人王 (White Raja)”の称号を与えられ、ここにサラワク王国が建国」されるにいたります(Wikipedia)。

 “白人王”! ここでイギリス文学に詳しい方、あるは映画に詳しい方、さらには俳優ショーン・コネリーのファンならば、イギリス帝国主義時代を代表する小説家・伝道者のキップリング原作『王になろうとした男』ならびにその映画版を思い出すかもしれません。ちなみに映画化は1975年、生涯をかけて「男の野望とその挫折」をテーマとしてきた監督のジョン・ヒューストンが長年あたためてきた企画で、最初はハンフリー・ボガード等の起用を考えていたとのことです。

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 こうした「イギリスでは帝国主義を体現する代表的な人物」とされるブルックはなんと王様になってしまうのですが、しかもこの地位は世襲のため(ルネサンス期、イタリアで成立した様々な王朝はいずれも“世襲”の地位確保に心を砕きます)、2代目に甥のチャールズ・ブルックを指名、1917年には3代 ヴァイナー・ブルックが地位を引き継ぎます。この間、1941年に「建国100周年を記念して憲法が制定され、立憲君主国」になりました(Wikipedia)。

 なお、「歴代の白人王は「文化が進んだ少数のヨーロッパ人のために、先住民の利益を犠牲にしてはならない」として、外国資本による搾取から先住民を保護していた。そのため、サラワク王国では、国是として外国資本の投資や開発を原則禁止していた」とのことです(Wikipedia)。

 こうした経緯を調べると、サラワク王国はルネサンス型的な色彩も漂いますが、本質的にはイギリス帝国主義の政策の一環として、シンガポール・マレー半島を中心とした植民地支配とブルネイのスルターンの間の緩衝地帯としての役割を期待され、かつ果たしたと言えるかもしれません。しかし、20世紀にはいると、その運命は暗転します。

 そのブルネイで石油が発見されるのが1929年、本格的な採掘が1932年、しかし、これは第2次世界大戦まじかの日本の関心をひきつけます。その結果、サラワク王国は1941年~45年にかけて日本軍の軍政下におかれてしまいます。ちなみに、1944年に起きたレイテ沖海戦では一部の艦隊がブルネイから出撃しています。

 大戦中はシドニーですごした第3第王ヴァイナー・ブルックは戦後の1946年7月王位辞退をよぎなくされ、イギリス政府はサラワク州を王冠植民地として接収、1963年、マラヤ、サバ、シンガポールとともにマレーシア連邦(シンガポールは数年後に離脱)としてイギリスから独立することになり、この19世紀に誕生した“白人王国”は消滅します。

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高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...