2020年8月

「老い」を考える3:ヒト以外の霊長類は閉経するか?

2020 8/27 総合政策学部の皆さんへ 「老い」を考える2からの続きです。自然人類学等において、とくに話題になるのは女性の「更年期/閉経」の存在です。ニホンザルのメスには、短いながらも後繁殖期(post-reproductive life span)が見つかりました。それではニホンザルなどより格段にヒトに近縁のチンパンジーではどうでしょう?

 おもしろいことに、同じような基準でチンパンジーについて手持ちの資料を調べてみると、メスたちの最長寿命はおよそ50歳ですが、最後の出産は40歳前後でした。ただし、最後の子供が母の死を乗り越えて生き残ることができるまでニホンザルよりもかなり長く、4年半ほどかかるので、残りは5.5年ほどです。すると人生に占める割合は、ミノ婆さんよりも短くなってしまいます。このように、チンパンジーのメスにとって、後繁殖期は人生にそれほど大きな位置を占めてはおらず、ヒトの老齢期に比すべき「老齢期」という印象はかなり薄という結果になりました。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 チンパンジーの一生をもう少し詳しく説明しましょう。

 チンパンジーの社会がニホンザル等ともっとも異なる点は、メスが生まれた集団を離れて、別集団に移籍することです。したがって、娘との絆は断ち切られます。一部で生まれた集団に居残るメスもまったくいないわけではないですが、基本は生まれた集団を去る。そうだとすれば、祖母と孫が共存することはなく、Grandmother hypothesisが成り立つ余地がなくなるわけです。

 一方、息子たちも年長のオスのクラスターに組み込まれていくため、母親と息子とのつながりも目立たなくなります。これが、1980年頃に西部タンザニアのマハレ山塊国立公園でチンパンジーを感圧していた頃の私の印象です。

 結果として、老齢のメスはニホンザル以上に孤独がちに見えます。もちろん、生理学的にも明らかに老いが進行し、活動も鈍りがちに見えます。そして、他個体から孤立した存在として、いつの間にか生を終える、これがチンパンジーのメスについての印象です。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 一方、オスはどうでしょう。彼らは出自集団に残って、オトナのオスのクラスターに入ります。その結果、「父系的」な社会集団が形成されます。そのため、オスの一生を追うことができないわけではありません。

 かつて私が観察していたマハレ山塊国立公園のMグループでは、ようやく最近になって、オスの人生の全体像が見えてきました。彼らは10代前半に母親から離れ、年長のオスたちのクラスターに近づきます。そしてオス同士の間で次第に順位をあげ、最優位の位置(αオスと呼ばれていますが)を占めるのは20~29歳頃が多いということです。その人生の絶頂期が過ぎると、オスはゆるやかな衰退期をたどります。

 例えば、1979~84年に私が観察していた若いオスのカルンデは当時20代前半と推定されましたが、ワカモノオスの筆頭でしたが、ちょっと性格が堅すぎて、果たして出世できるかどうか、私は危ぶんだものです。

 しかし、しばらく見すぎ良すぎしているうちに、やや高齢の28~29歳にαオスの座につきます。そして、いったんはその座から転落するも、しぶとく33~34歳にまた復活します。その後は緩やかに順位を下げながらも、50歳前後の老オスとし、オスのグループの中にとどまっていたのです(残念ながら、その後死去)。このように絶頂期が過ぎた後、他のオスとのつきあいを保ちながら、ゆるやかに衰退していくチンパンジーのオスの晩年こそ、生理学的にも、社会学的にもヒトの老齢期に近いものかもしれません。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さて、一応、まとめなければなりません。

 これまで紹介してきたように、サルに「老い」があるかと言えば、「老化」があることは間違いありません。しかし、例えばメスの出産率で見るように、「オトナ」として高い出産率を保つ時間は長く、そして、人生のかなり終わりの時期に急速に出生率を落として、短い後繁殖期を迎える。これがおおよその姿のようです。生理学的にも、ヒトの「閉経」に該当する段階まで生き残る個体は、とくに野生状態ではごくわずかです。

 さらに後繁殖期にあるメスでも、他個体との社会的交渉は少なく、陰が薄いことは否めません。ニホンザルではこのように、自らの繁殖を早めにきりあげ、娘の繁殖をサポートすることによって「包括適応度」をあげようというGrandmother hypothesisを積極的に支持する資料は少ないということになります。それはチンパンジーのメスも同様で、娘たちが他集団に移出するため、「老婆」の周りに娘がいることさえ少なく、孤独の陰が濃いのです。

 このような点から、サルの「老い」を扱う研究が少ないのも当然かもしれません。つまり、サルの「老い」は身体の諸器官の急速な老化という現象に集約されがちで、ヒトの社会における「老い」とどう結びつけるべきか、研究者自身もためらってしまうのではないでしょうか。

 その一方で、チンパンジーのオス、あるいはゴリラのオスも同じかと思いますが、人生の半ばで頂点を迎え、あとは徐々に衰えながら、他のメンバーとの社会的つながりも保ちながら、ゆっくりとした「老い」を迎えるオスたちの姿に、「老い」の萌芽を見ることもあるいは可能かもしれません。

分けることと名を付けることPart2:どうやればものごとを“分ける”ことができるのか?

2020 8/15 総合政策学部の皆さんへ 我々はどうやってものごとを分けるのか? について話を進めましょう。

 “命名”の前提としてものごとを“分類”する必要があります。つまり、ありとあらゆる事物の間に“ボーダー”を引く作業が出来するのです。これは自然科学にとっても結構難しいテーマです。卑近な例を取り上げれば、ウマとロバはどこが違うのか? そして、ウマとシマウマの違いはウマとロバの違いと同じなのか?

 さらに、分類の基準をどう定めるか? その基準は客観的か、恣意的か? そもそも神ならぬ我々にとって“客観的な基準”など手にすることができるのか? 皆さんはどうお考えですか? 分類学の鼻祖であるリンネは「生物の種間に存在する本来の関係」としての自然分類をめざして植物を花(生殖器官)で分類しました。しかし、どうしても基準に恣意性が紛れ込む可能性が否定できません。フランスの哲学者であるM・フーコー(1974)はそのあたりの加減について「私たちがものごとを整序するやりかたがいかに恣意的」であるか指摘しています。

 もう一つ問題なことは、いったん分類体系が確立されてしまうと、そこに欠陥があろうと、我々はその基準を固守しがちになることです(要するに、我々は保守的なのです)。それは、「あらゆる社会的行為は分類図式の定める境界線の内側で生起」すべきだと思い込んでいるからです(ダーントン、1986)。

 この結果、近代思想において“分類”は人やものの周りにボーダーをはりめぐらすとともに、分節化し、そしてラベルを貼ります(=すなわち命名)。こうして、常に“正しいこと”であり“自明であること”が要求されてきた近代科学にもいては、どうしたら“分類”が“恣意的”ではなく、“正しい根拠にもとづくものだ”と自分自身が納得させられるか? 近代自然科学にとっても、また近代社会科学にとってっても、これはいわば自縄自縛であり、大きなトラウマともなりかねません。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 それでは、どんなやり口が我々には許されるのでしょうか? あえて単純に言い切れば、“普遍性”と“特殊性”の弁別かもしれません(フーコー、1974)。どんな分野でも、対象を分ける/分類する際、どこまでが“普遍性(一般性)のある特徴”で、どこからが“特殊性(個別性)”を示す特徴なのか、互いの“類似=相似”によってボーダーを引く。こうして類似の認識は、同時に差異をも認識させる手段となります。

 さらに、その差異があいまいな変異を伴わないデジタル的であるほど安心もするでしょうし、差異があいまいでアナログ的な差異であるほど、どこにボーダーを区切るべきか、不安に誘われることになります。それでは自他、彼我の差はどれほどアナログ的なのか、あるいはデジタル的なのか? どんな生物よりもデータが備わっているヒトについて調べてみましょう。

 数量的資料でたぶんもっとも確実なのもは例えば、身長です。低身長で知られているムブティの人たちではおよそ130~160cmほどの幅におさまり、中央値は145~150cmほどになります(Lewontin, 1995)。これが彼らの身長についての集団内変異です。この値を同じアフリカ大陸に住む遊牧民ディンカの人たちの変異幅であるおよそ160~200 cm、中央値で180~185 cmという集団内変異と比較すれば、歴然とした差(デジタル的差)が認められます。

 しかし、ムブティの人たちの周囲にすむバンツー系農耕民を含め、さらに我々モンゴロイドやコーカソイドの人々を足していけば、ヒト全体ではディンカの人たちまで続く連続的な差異(アナログ的差)になってしまいます。

 これらの数値を、非常に極端ですが、チンパンジー等の数値と比べれば種間の差=種間変異があらわれます。る。この二つの変異を比べれば、そこに“種”というものが自ずと浮かびあがる(はずである)。チンパンジーは4足歩行者のため、身長ではなく頭胴長ですが、それはおよそ77.5~85 cmですから、こちらは歴然とした差です。

 こうすることで、ヒトとチンパンジーそれぞれの種内の連続的な(アナログ的)差異と、二つの種間の断続的な(デジタル的)差異の比較の上に、二つの別種として分けることになる、というわけです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 こうしたアナログ資料の相対的な比較、あるいはその曖昧さに手を焼いてか、分類学では最近、遺伝子のDNA鎖の比較が流行っています。というか、それなしではすべてが進まないような状況です。DNAは基本的に4つの塩基の組み合わせによるデジタル的な情報ですから、これを分析すれば、デジタル的に物事が分類できる! ついに近代科学の悩みが解ける! というわけです。

 これは“分子時計”という手法ですが、それぞれの種の遺伝情報であるDNA鎖を構成する塩基の組合せが、種分化した年代が古いほど変化してくることから、分岐年代を逆算するという手続きです。つまり、現生種の遺伝情報=デジタル情報の共時的な変化を、ニュートン力学的な通時的変化=時間に換算(=時計として使う)することになります。

 この方法は20世紀後半から導入され、分類・系統学に劇的な影響を与えてきました。例えば、これまで偶蹄目クジラ目に分類されていた動物群は、遺伝的に近似性が認められ、鯨偶蹄目としてまとめるべきである。あるいは、化石からは1400万年前に分岐したと考えられていたヒトとチンパンジーの分岐年代は500万年前ぐらいに近くなる等です。この遺伝子間の相対的な差を、ニュートン力学の絶対的時間軸に読み替えるやり方にとりあえず安心(安住)することを我々は選んでいるとも言えます。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 最後に付け加えなければなりませんが、実は、“分類”には“ごみ箱”がつきものです。どうにも分類できない“あいまい”な存在を、そのあいまいさを嫌うためか、とりあえず一つの箱のなかにしまいこむことで、何食わぬ顔をするのです。

 哺乳類を例にあげれば、食虫目(あるいはモグラ目;モグラやハリネズミ等)という分類群がそれにあたりました。素直に分類できないあやふやな存在をごみ箱にぶち込むことで、体系そのものは涼しい顔をするのです。

 これは体系/体制は例外が嫌いであり、自らの秩序にあわないものの処理に“ごみ箱”を使う。それは、体系からはみだした存在が「私たちの概念が設けている境界(=ボーダー)を侵犯」するため、「私たちを慄然とさせ、また魅惑する」のを事前に防ぐためでもあるのです(ダーントン、1986)。

 それどころか、“あいまいな存在”は、その存在さえ許されず、社会的に抹殺されることも珍しくありません。例えば、東南アジアの漂海民の人たち(オラン・ラウト)、日本のアイヌや琉球列島の人々の歴史やアイデンティティはつねに無視がちであったことを忘れてはいけないわけです。分類されることさえ無視されてしまう存在、それが究極のマイノリティです。

 ちなみに、食虫目は現在では「その後3度にわたって解体され、現在は正式な分類群としては使われない」とのことです(Wikipedia)。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 ちなみに最初に取り上げたウマ、ロバ、シマウマですが、ウマとロバは人間の管理下で交配させると妊娠して子供を産みます。しかし、そこの子供は生殖能力をもちません。メスのウマとオスのロバの組み合わせだとラバと呼ばれ、飼養が楽で力がつよいことから重宝され、古来ヒトに利用されてきました。もっとも、メスのロバとオスのウマの組み合わせではヒトにとって都合がよい性質がラバよりも弱く、ケッテイと呼ばれるも利用されてきませんでした。まったく人間の勝手で生まれて、子供もできずに死に絶える。そのため、ヒトはまた新たにラバを産ませるというサイクルです。

 こうしたウマやラバのように雑種の子供に生殖能力がない場合(これを生殖的隔離と呼びます)、遺伝的な距離が離れていると認めて、別種と扱うのがふつうです(マイヤーによる生物学的種の概念)。

 それではシマウマはどうか? シマウマはどちらかというとウマよりも、ロバに近いそうですが(そう言われてみると、シマをとると体型がどことなくロバのようです)、やはりウマやロバと交雑して子供をつくることがあり、ゼブロイドと総称されているそうです。またゼブロイドは一般に生殖能力がない(不妊)とのことです。

相続とキャリア3:“長子相続”vs.“末子相続”

2020 8/8 総合政策学部の皆さんへ 先に投稿した「相続とキャリア1:スペアとしての寺社・修道院、そしてそこからの還俗」では、長子相続社会での例をあげました。長子がすべてを相続し、それ以外のこどもには財産が分与されない。その場合、その子供たちは何らかの方法で自分の食い扶持を確保しなければならない場合にどうするか?

 一方、親としても課題が残ります。たとえ長子が相続すると決めていても、その長子が自分よりも早めに死んでしまった場合、そのバックアップをどうするか、という課題への対処もあります(義元君のように寺や修道院にデポジットされる、あるいはイヴリン・ベアリングのように陸軍軍人として他出させる)。

 まったく、人としての悩みはつきません。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さらには「やはり弟たちもかわいい。なんとか財産を残してあげたい」と思う人も出てくる。しかし、それでは、長子の取り分を減らしてしまうことになり、今度は父親と長子の争いになりかねない。この典型例が、あまりの巨腹に「大食ではなく造化の間違い」と謳われたイギリス王ヘンリー2世(このブログで時々登場する女傑アエリノール・ダキテーヌの2度目の亭主)と息子たちです。

 例えば、1169年にヘンリー2世は「フランス王ルイ7世の提案により、14歳になる若ヘンリーを後継者と定めてアンジューとメーヌの地を、12歳のリチャードにはアキテーヌ、11歳のジェフリーにブルターニュを分配し、フランス王に臣従礼をとらせることで大陸側の所領を確認させた。わずか2歳だったために領地を与えられなかった末子のジョンは、ヘンリー2世に“領地のないやつ(Lack Land)”とあだ名をつけられ、逆に不憫がられ溺愛されるようになる」(Wikipedia)。つまり、フランス王家の政治的支配下にある領土を息子たちの間で分割相続させることにすることで手を打とうというわけです。このせっかくの措置も、しかし、父-息子たち間に平和をもたらすことにはならず、彼らの母親アエリノールの使嗾も相まって、ヘンリーは死ぬまで息子たちと争い続けます。

 さらに別のケースをあげれば、男系直系社会であっても父は婚出する娘に対して、自分が死んだ後に少しでも遺産を分けたいとも思うかもしれません。しかし、それも家族全体、あるいは長男の取り分を減らすことになる。そうすると、自分が死んだあと、長男が(あるいは他の後継者が)嫁いでしまった娘にきちんと遺産を分割するか? あやしいものです。そのため、娘が婚出時に持たされる持参金には「女性が両親から受け取る遺産の前払いという性質」がありました(Wikipedia)。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 その一方で、王家の相続には長子相続を定めておいた方がよい、という判断が次第に発達します。Wikipediaではこの経緯を「前近代社会では相続によって継承されるものは個人的な私有財産ではなく家産であると考えられていた。相続の第一目的は直系家族の維持(家の存続)であるとされ、それに最も適合的だったのが長子相続であった。つまり子のうち親との年齢差が最も少ない長子が相続することが父系的な継承線の維持にとって最も合理的と考えられていた」としています。

 これが果たして最も合理的なのか、例えば親との年齢差がもっとも少ない長子とは、親とvs.長子間の「とってかわれる者」同士の争いにつながりかねないか(上記のヘンリー2世vs.若ヘンリー、あるいは若ヘンリー死亡後のヘンリー2世vs.リチャード2世がまさにそうだったのですが)、長子相続が人類の長い歴史を経て確立するまで、色々なこと、とりわけ悲劇が訪れます。

 例えば。第38代天皇である天智天皇は、後継者として同母弟である大海人皇子を皇太弟に立てます。これは兄弟継承を想定してのことで、実力者から実力者への権限移譲として安定した継承になるはずでした。過去にも、第16代仁徳天皇の後に17代履中天皇(仁徳天皇の第一皇子)⇒18代反正天皇(第三皇子)⇒19代允恭天皇(第四皇子;ちなみに、3人は同母兄弟)という兄弟継承が始まりですが、しばしば同じような継承が見られます。

 しかし、天智天皇は671年に自身の第一皇子である大友皇子を太政大臣に任じることで、あたかも長子継承を希望するかのように行動し始めます。その結果として、壬申の乱が勃発します。日本史を学ばれた方には先刻ご承知の事件ですね。

 本来後継たるべき実力者大海人皇子は自ら出家を申し出て吉野宮(現在の奈良県吉野)に下りますが、兄天智天皇が46歳で崩御するや、吉野を出奔、兵をあげて甥にあたる大友皇子を討ち、天武天皇として即位します。この経過をシェークスビア好きのイギリス人が聞けば、ヘンリー2世の7代の裔、リチャード2世が従弟であるヘンリー・ボリングブルックこと後のヘンリー4世に王位を簒奪される悲劇『リチャード2世』を思い起こさせるかもしれません。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 壬申の乱で興味深いのは、この乱は伯父大海皇子vs.甥大友皇子(弘文天皇)の対立にとどまらないわけです。このころの宮廷は近親者間の婚姻がふつうでしたから、2つの陣営は
・異母姉vs.異母弟:鸕野讚良皇女こと後の持統天皇(大海皇子の皇后)vs.大友皇子
・父vs.娘:大海皇子vs.十市皇女(大海皇子の第一皇女で大友皇子の正妃)
・従兄弟同士:高市皇子(大海皇子の第一皇子)vs.大友皇子
等の組み合わせを含んでいました。まさに“骨肉”の争いだったわけです。

 もう一つ興味深いのは、実力で近親者から皇位を奪った天武朝ですが、その後は持統天皇の強力な意思によって直系相続を試み、そのためには中継ぎ役として何人もの女帝(持統、元明元正孝謙・称徳)を擁立しながら、4代目で男系直系相続に失敗、天智天皇まで遡っての皇位継承(光仁天皇)となることです。かくも直系維持は難しいのです。

 ちなみに、光仁天皇は即位前、「専ら酒を飲んで日々を過ごす事により、凡庸・暗愚を装って難を逃れた」と伝えられているとのことですが(Wikipedia)、このエピソードはローマ帝国第4代皇帝ティベリウス・クラウディウス・ネロ・カエサル・ドルスス(通称クラウディウス)がみんなから白痴とみなされながら、先帝カリグラ暗殺の混乱の中でひっぱりだされた際、「諸君が私を哀れなうすのろだと思っておられることは、よく存じておる。だが私はうすのろではない。私はうすのろのふりをしていたのだ。そのおかげで今ここに来ているのだ」との名科白をはいたという故事を思い起こさせます(モンタネッリ『ローマの歴史』)。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さて、その一方で、ヒトでは長子継続が自明ではない社会ももちろんあります。例えば、江戸時代、日本の漁村では家はむしろ“末子相続”でした。これは漁民の仕事場が、田畑のように明確に相続できる不動産ではなかったことに加えて、子供が長じて家業にいそしむと海難による死亡の確立も高いため、末子に継がせるのがより安全=合理的だという判断になるそうです。

 また、Wikipediaによれば、「長野県諏訪地域では、江戸時代後半から昭和戦前期まで末子相続が見られた。この場合、長男次男などは江戸に奉公や出稼ぎに出かけ、男性の末子が田畑を相続し両親の扶助を行った。この地域の田畑の生産力が低いことと、江戸時代中期以降に耕地の細分化と核家族化がすすんだため、こうした風習が成立した」とあります。つまり、環境やニッチが変われば、末子相続も合理的になる!

 おもしろいことに、この諏訪地方の風習は「長男相続と家父長制を規定する大日本帝国憲法下の民法に抵触したため、訴訟裁判沙汰となることもあった」とのこと。つまり、法律が現実をカバーできない! そんなことを考えていると、いくらでもレポートのテーマのネタがありそうです。

 なお、末子相続はチンギス・ハン時代のモンゴルでも見られ、「モンゴル人の間では親の遺産を相続する末子を「火の王子(炉の番人とも)」を意味する”オッチギン”と呼んだ。神聖な家の炉の火を守り、継承する者だからである。チンギス・ハーンの末の嫡出弟であるテムゲ・オッチギンが著名である」とのことです(Wikipedia)。

ケチャップの歴史3~本来のケチャップは:食についてPart22

2020 8/2 総合政策学部の皆さんへ ケチャップの歴史の3回目は、本来のケチャプとは何か、について考えてみましょう。先にご紹介したように、もともとの語源とされる中国の閩南語や台湾語での kechiap、koechiap(鮭汁;ケーチアッ)は、“鮭汁”という言葉通り、小魚やエビの塩辛から分離した魚醤の類とされています。日本では、秋田のしょっつる、能登のいしる、香川のいかなご醤油が該当するでしょう。

 この手の魚醤は中国南部から東南アジアでは一般的で、ベトナムのニョクマム、タイのナンプラー等がしられています。インドネシアではこれがケチャップ・イカン(インドネシア語でイカンは魚で、魚で作ったケチャップ)となります。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 なお、世界の他の地域での魚醤の類を紹介すれば、ローマ帝国時代に広く使われていたという“ガルム”があげられます。これは「魚の内臓を細切れにし、塩水に漬けて発酵させて作る。完成品はまろやかで繊細な風味だが、発酵中はひどい臭いがするため、ガルム生産者は近所から苦情が来ないよう都市の郊外で生産した」とのことですが、「ローマ帝国の滅亡と共に製法が途絶え、魚醤自体ヨーロッパではチェターラのコラトゥーラ・ディ・アリーチ・ディ・チェターラぐらいしか作られることはなくなった」(Wikipedia)とのことです。

 もっとも、カタクチイワシの類を塩蔵して発酵させたいわゆるアンチョビーはしばしば調味料的に使われるので、ガルムの遠い後裔とも言えるかもしれません。また、「19世紀初頭にイギリスのウスターシャー州・ウスターの主婦が、食材の余りを調味料とともに入れ保存したままにしたところ、ソースができていた。このことがウスターソースの始まりとされている」(Wikipedia)というウースター・ソースの原料にはアンチョビが含まれているとのことで、これもまたガルム以来の伝統をかすかながらついでいるのかもしれません(なお、日本に伝来、国産化された日本のウースターソースにはアンチョビはふくまれていなとのことです)。

 ちなみに、Wikipediaによれば「無数のソースを生み出した料理大国であるフランス人は、ウスターソースを万能として使用するイギリス人を揶揄的に「百の宗教があるが、1つのソースしかない」と表現している」ということですが、そのイギリス人が「(某大統領のように)何にでもケチャップをふりかけるアメリカ人」を揶揄しているというところは、まさに差別の連鎖とも言えるかもしれません。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さて、インドネシアのケチャップに話を戻せば、今日、大量に消費されているケチャップはその材料を大豆と小麦に転じ(つまり、日本の味噌・醤油に近くなり)、そのうち甘味がついているものがケチャップ・マニス、辛みがついているものがケチャップ・アシンと呼ばれています。つまり、インドネシアのケチャップはどちらかというと“醤油”あるいは日本の“ソース”に近い存在のようです。

 インドネシア料理には、この甘いケチャップ・マニス(サラダのガドガドや焼き鳥状の串焼きのサテ等の甘い味付けが代表的です)、トウガラシの辛味によるケッチャプ・アシン、そしてインドネシア風チリソースのサンバル等で味付けられるのがふつうです。

 この手の調味料は現在では食品メーカーによる大量生産で、とくにABC社の製品が幅を利かせています。そのABC社製品を扱っている協同食品のHPでは「インドネシアの“ケチャップ”とは、醤油を意味し、甘口でとろみのある醤油のケチャップマニスと薄口醤油のケチャップアシン、唐辛子とにんにくなどを材料とする“サンバル”をベースにしたチリソースです。
 ケチャップマニスを3~4に対して、サンバルアスリを1の割合で合わせると、本場さながらの味となり、炒飯のナシゴレン、焼きそばのミーゴレン、焼き鳥のサテ、その他白身魚の煮物など幅広くご利用いただけます」と紹介しています。

 このあたりの実物を見たければ、関西ならば神戸の南京町、関東ならば上野のアメ横センタービル近いのエスニック専門店街に行かれることです。

 このようにケチャップ一つをとってみても言葉と食の変遷は様々で、ぞこに思わぬ広がりを感じ取って下さい。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...