相続とキャリア3:“長子相続”vs.“末子相続”

2020 8/8 総合政策学部の皆さんへ 先に投稿した「相続とキャリア1:スペアとしての寺社・修道院、そしてそこからの還俗」では、長子相続社会での例をあげました。長子がすべてを相続し、それ以外のこどもには財産が分与されない。その場合、その子供たちは何らかの方法で自分の食い扶持を確保しなければならない場合にどうするか?

 一方、親としても課題が残ります。たとえ長子が相続すると決めていても、その長子が自分よりも早めに死んでしまった場合、そのバックアップをどうするか、という課題への対処もあります(義元君のように寺や修道院にデポジットされる、あるいはイヴリン・ベアリングのように陸軍軍人として他出させる)。

 まったく、人としての悩みはつきません。

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 さらには「やはり弟たちもかわいい。なんとか財産を残してあげたい」と思う人も出てくる。しかし、それでは、長子の取り分を減らしてしまうことになり、今度は父親と長子の争いになりかねない。この典型例が、あまりの巨腹に「大食ではなく造化の間違い」と謳われたイギリス王ヘンリー2世(このブログで時々登場する女傑アエリノール・ダキテーヌの2度目の亭主)と息子たちです。

 例えば、1169年にヘンリー2世は「フランス王ルイ7世の提案により、14歳になる若ヘンリーを後継者と定めてアンジューとメーヌの地を、12歳のリチャードにはアキテーヌ、11歳のジェフリーにブルターニュを分配し、フランス王に臣従礼をとらせることで大陸側の所領を確認させた。わずか2歳だったために領地を与えられなかった末子のジョンは、ヘンリー2世に“領地のないやつ(Lack Land)”とあだ名をつけられ、逆に不憫がられ溺愛されるようになる」(Wikipedia)。つまり、フランス王家の政治的支配下にある領土を息子たちの間で分割相続させることにすることで手を打とうというわけです。このせっかくの措置も、しかし、父-息子たち間に平和をもたらすことにはならず、彼らの母親アエリノールの使嗾も相まって、ヘンリーは死ぬまで息子たちと争い続けます。

 さらに別のケースをあげれば、男系直系社会であっても父は婚出する娘に対して、自分が死んだ後に少しでも遺産を分けたいとも思うかもしれません。しかし、それも家族全体、あるいは長男の取り分を減らすことになる。そうすると、自分が死んだあと、長男が(あるいは他の後継者が)嫁いでしまった娘にきちんと遺産を分割するか? あやしいものです。そのため、娘が婚出時に持たされる持参金には「女性が両親から受け取る遺産の前払いという性質」がありました(Wikipedia)。

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 その一方で、王家の相続には長子相続を定めておいた方がよい、という判断が次第に発達します。Wikipediaではこの経緯を「前近代社会では相続によって継承されるものは個人的な私有財産ではなく家産であると考えられていた。相続の第一目的は直系家族の維持(家の存続)であるとされ、それに最も適合的だったのが長子相続であった。つまり子のうち親との年齢差が最も少ない長子が相続することが父系的な継承線の維持にとって最も合理的と考えられていた」としています。

 これが果たして最も合理的なのか、例えば親との年齢差がもっとも少ない長子とは、親とvs.長子間の「とってかわれる者」同士の争いにつながりかねないか(上記のヘンリー2世vs.若ヘンリー、あるいは若ヘンリー死亡後のヘンリー2世vs.リチャード2世がまさにそうだったのですが)、長子相続が人類の長い歴史を経て確立するまで、色々なこと、とりわけ悲劇が訪れます。

 例えば。第38代天皇である天智天皇は、後継者として同母弟である大海人皇子を皇太弟に立てます。これは兄弟継承を想定してのことで、実力者から実力者への権限移譲として安定した継承になるはずでした。過去にも、第16代仁徳天皇の後に17代履中天皇(仁徳天皇の第一皇子)⇒18代反正天皇(第三皇子)⇒19代允恭天皇(第四皇子;ちなみに、3人は同母兄弟)という兄弟継承が始まりですが、しばしば同じような継承が見られます。

 しかし、天智天皇は671年に自身の第一皇子である大友皇子を太政大臣に任じることで、あたかも長子継承を希望するかのように行動し始めます。その結果として、壬申の乱が勃発します。日本史を学ばれた方には先刻ご承知の事件ですね。

 本来後継たるべき実力者大海人皇子は自ら出家を申し出て吉野宮(現在の奈良県吉野)に下りますが、兄天智天皇が46歳で崩御するや、吉野を出奔、兵をあげて甥にあたる大友皇子を討ち、天武天皇として即位します。この経過をシェークスビア好きのイギリス人が聞けば、ヘンリー2世の7代の裔、リチャード2世が従弟であるヘンリー・ボリングブルックこと後のヘンリー4世に王位を簒奪される悲劇『リチャード2世』を思い起こさせるかもしれません。

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 壬申の乱で興味深いのは、この乱は伯父大海皇子vs.甥大友皇子(弘文天皇)の対立にとどまらないわけです。このころの宮廷は近親者間の婚姻がふつうでしたから、2つの陣営は
・異母姉vs.異母弟:鸕野讚良皇女こと後の持統天皇(大海皇子の皇后)vs.大友皇子
・父vs.娘:大海皇子vs.十市皇女(大海皇子の第一皇女で大友皇子の正妃)
・従兄弟同士:高市皇子(大海皇子の第一皇子)vs.大友皇子
等の組み合わせを含んでいました。まさに“骨肉”の争いだったわけです。

 もう一つ興味深いのは、実力で近親者から皇位を奪った天武朝ですが、その後は持統天皇の強力な意思によって直系相続を試み、そのためには中継ぎ役として何人もの女帝(持統、元明元正孝謙・称徳)を擁立しながら、4代目で男系直系相続に失敗、天智天皇まで遡っての皇位継承(光仁天皇)となることです。かくも直系維持は難しいのです。

 ちなみに、光仁天皇は即位前、「専ら酒を飲んで日々を過ごす事により、凡庸・暗愚を装って難を逃れた」と伝えられているとのことですが(Wikipedia)、このエピソードはローマ帝国第4代皇帝ティベリウス・クラウディウス・ネロ・カエサル・ドルスス(通称クラウディウス)がみんなから白痴とみなされながら、先帝カリグラ暗殺の混乱の中でひっぱりだされた際、「諸君が私を哀れなうすのろだと思っておられることは、よく存じておる。だが私はうすのろではない。私はうすのろのふりをしていたのだ。そのおかげで今ここに来ているのだ」との名科白をはいたという故事を思い起こさせます(モンタネッリ『ローマの歴史』)。

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 さて、その一方で、ヒトでは長子継続が自明ではない社会ももちろんあります。例えば、江戸時代、日本の漁村では家はむしろ“末子相続”でした。これは漁民の仕事場が、田畑のように明確に相続できる不動産ではなかったことに加えて、子供が長じて家業にいそしむと海難による死亡の確立も高いため、末子に継がせるのがより安全=合理的だという判断になるそうです。

 また、Wikipediaによれば、「長野県諏訪地域では、江戸時代後半から昭和戦前期まで末子相続が見られた。この場合、長男次男などは江戸に奉公や出稼ぎに出かけ、男性の末子が田畑を相続し両親の扶助を行った。この地域の田畑の生産力が低いことと、江戸時代中期以降に耕地の細分化と核家族化がすすんだため、こうした風習が成立した」とあります。つまり、環境やニッチが変われば、末子相続も合理的になる!

 おもしろいことに、この諏訪地方の風習は「長男相続と家父長制を規定する大日本帝国憲法下の民法に抵触したため、訴訟裁判沙汰となることもあった」とのこと。つまり、法律が現実をカバーできない! そんなことを考えていると、いくらでもレポートのテーマのネタがありそうです。

 なお、末子相続はチンギス・ハン時代のモンゴルでも見られ、「モンゴル人の間では親の遺産を相続する末子を「火の王子(炉の番人とも)」を意味する”オッチギン”と呼んだ。神聖な家の炉の火を守り、継承する者だからである。チンギス・ハーンの末の嫡出弟であるテムゲ・オッチギンが著名である」とのことです(Wikipedia)。

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プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...