分けることと名を付けることPart2:どうやればものごとを“分ける”ことができるのか?

2020 8/15 総合政策学部の皆さんへ 我々はどうやってものごとを分けるのか? について話を進めましょう。

 “命名”の前提としてものごとを“分類”する必要があります。つまり、ありとあらゆる事物の間に“ボーダー”を引く作業が出来するのです。これは自然科学にとっても結構難しいテーマです。卑近な例を取り上げれば、ウマとロバはどこが違うのか? そして、ウマとシマウマの違いはウマとロバの違いと同じなのか?

 さらに、分類の基準をどう定めるか? その基準は客観的か、恣意的か? そもそも神ならぬ我々にとって“客観的な基準”など手にすることができるのか? 皆さんはどうお考えですか? 分類学の鼻祖であるリンネは「生物の種間に存在する本来の関係」としての自然分類をめざして植物を花(生殖器官)で分類しました。しかし、どうしても基準に恣意性が紛れ込む可能性が否定できません。フランスの哲学者であるM・フーコー(1974)はそのあたりの加減について「私たちがものごとを整序するやりかたがいかに恣意的」であるか指摘しています。

 もう一つ問題なことは、いったん分類体系が確立されてしまうと、そこに欠陥があろうと、我々はその基準を固守しがちになることです(要するに、我々は保守的なのです)。それは、「あらゆる社会的行為は分類図式の定める境界線の内側で生起」すべきだと思い込んでいるからです(ダーントン、1986)。

 この結果、近代思想において“分類”は人やものの周りにボーダーをはりめぐらすとともに、分節化し、そしてラベルを貼ります(=すなわち命名)。こうして、常に“正しいこと”であり“自明であること”が要求されてきた近代科学にもいては、どうしたら“分類”が“恣意的”ではなく、“正しい根拠にもとづくものだ”と自分自身が納得させられるか? 近代自然科学にとっても、また近代社会科学にとってっても、これはいわば自縄自縛であり、大きなトラウマともなりかねません。

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 それでは、どんなやり口が我々には許されるのでしょうか? あえて単純に言い切れば、“普遍性”と“特殊性”の弁別かもしれません(フーコー、1974)。どんな分野でも、対象を分ける/分類する際、どこまでが“普遍性(一般性)のある特徴”で、どこからが“特殊性(個別性)”を示す特徴なのか、互いの“類似=相似”によってボーダーを引く。こうして類似の認識は、同時に差異をも認識させる手段となります。

 さらに、その差異があいまいな変異を伴わないデジタル的であるほど安心もするでしょうし、差異があいまいでアナログ的な差異であるほど、どこにボーダーを区切るべきか、不安に誘われることになります。それでは自他、彼我の差はどれほどアナログ的なのか、あるいはデジタル的なのか? どんな生物よりもデータが備わっているヒトについて調べてみましょう。

 数量的資料でたぶんもっとも確実なのもは例えば、身長です。低身長で知られているムブティの人たちではおよそ130~160cmほどの幅におさまり、中央値は145~150cmほどになります(Lewontin, 1995)。これが彼らの身長についての集団内変異です。この値を同じアフリカ大陸に住む遊牧民ディンカの人たちの変異幅であるおよそ160~200 cm、中央値で180~185 cmという集団内変異と比較すれば、歴然とした差(デジタル的差)が認められます。

 しかし、ムブティの人たちの周囲にすむバンツー系農耕民を含め、さらに我々モンゴロイドやコーカソイドの人々を足していけば、ヒト全体ではディンカの人たちまで続く連続的な差異(アナログ的差)になってしまいます。

 これらの数値を、非常に極端ですが、チンパンジー等の数値と比べれば種間の差=種間変異があらわれます。る。この二つの変異を比べれば、そこに“種”というものが自ずと浮かびあがる(はずである)。チンパンジーは4足歩行者のため、身長ではなく頭胴長ですが、それはおよそ77.5~85 cmですから、こちらは歴然とした差です。

 こうすることで、ヒトとチンパンジーそれぞれの種内の連続的な(アナログ的)差異と、二つの種間の断続的な(デジタル的)差異の比較の上に、二つの別種として分けることになる、というわけです。

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 こうしたアナログ資料の相対的な比較、あるいはその曖昧さに手を焼いてか、分類学では最近、遺伝子のDNA鎖の比較が流行っています。というか、それなしではすべてが進まないような状況です。DNAは基本的に4つの塩基の組み合わせによるデジタル的な情報ですから、これを分析すれば、デジタル的に物事が分類できる! ついに近代科学の悩みが解ける! というわけです。

 これは“分子時計”という手法ですが、それぞれの種の遺伝情報であるDNA鎖を構成する塩基の組合せが、種分化した年代が古いほど変化してくることから、分岐年代を逆算するという手続きです。つまり、現生種の遺伝情報=デジタル情報の共時的な変化を、ニュートン力学的な通時的変化=時間に換算(=時計として使う)することになります。

 この方法は20世紀後半から導入され、分類・系統学に劇的な影響を与えてきました。例えば、これまで偶蹄目クジラ目に分類されていた動物群は、遺伝的に近似性が認められ、鯨偶蹄目としてまとめるべきである。あるいは、化石からは1400万年前に分岐したと考えられていたヒトとチンパンジーの分岐年代は500万年前ぐらいに近くなる等です。この遺伝子間の相対的な差を、ニュートン力学の絶対的時間軸に読み替えるやり方にとりあえず安心(安住)することを我々は選んでいるとも言えます。

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 最後に付け加えなければなりませんが、実は、“分類”には“ごみ箱”がつきものです。どうにも分類できない“あいまい”な存在を、そのあいまいさを嫌うためか、とりあえず一つの箱のなかにしまいこむことで、何食わぬ顔をするのです。

 哺乳類を例にあげれば、食虫目(あるいはモグラ目;モグラやハリネズミ等)という分類群がそれにあたりました。素直に分類できないあやふやな存在をごみ箱にぶち込むことで、体系そのものは涼しい顔をするのです。

 これは体系/体制は例外が嫌いであり、自らの秩序にあわないものの処理に“ごみ箱”を使う。それは、体系からはみだした存在が「私たちの概念が設けている境界(=ボーダー)を侵犯」するため、「私たちを慄然とさせ、また魅惑する」のを事前に防ぐためでもあるのです(ダーントン、1986)。

 それどころか、“あいまいな存在”は、その存在さえ許されず、社会的に抹殺されることも珍しくありません。例えば、東南アジアの漂海民の人たち(オラン・ラウト)、日本のアイヌや琉球列島の人々の歴史やアイデンティティはつねに無視がちであったことを忘れてはいけないわけです。分類されることさえ無視されてしまう存在、それが究極のマイノリティです。

 ちなみに、食虫目は現在では「その後3度にわたって解体され、現在は正式な分類群としては使われない」とのことです(Wikipedia)。

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 ちなみに最初に取り上げたウマ、ロバ、シマウマですが、ウマとロバは人間の管理下で交配させると妊娠して子供を産みます。しかし、そこの子供は生殖能力をもちません。メスのウマとオスのロバの組み合わせだとラバと呼ばれ、飼養が楽で力がつよいことから重宝され、古来ヒトに利用されてきました。もっとも、メスのロバとオスのウマの組み合わせではヒトにとって都合がよい性質がラバよりも弱く、ケッテイと呼ばれるも利用されてきませんでした。まったく人間の勝手で生まれて、子供もできずに死に絶える。そのため、ヒトはまた新たにラバを産ませるというサイクルです。

 こうしたウマやラバのように雑種の子供に生殖能力がない場合(これを生殖的隔離と呼びます)、遺伝的な距離が離れていると認めて、別種と扱うのがふつうです(マイヤーによる生物学的種の概念)。

 それではシマウマはどうか? シマウマはどちらかというとウマよりも、ロバに近いそうですが(そう言われてみると、シマをとると体型がどことなくロバのようです)、やはりウマやロバと交雑して子供をつくることがあり、ゼブロイドと総称されているそうです。またゼブロイドは一般に生殖能力がない(不妊)とのことです。

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プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...

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