2021年3月

19世紀での国家の誕生と消滅Part3:エジプト前篇

2021 3/19 総合政策学部の皆さんへ

 「19世紀での国家の誕生と消滅」も3回目、今回とりあげるのはオスマン帝国の崩壊と、そこからの酷寒成立の例の一つとしてのエジプトです。

 まず、オスマン・トルコことオスマン帝国ですが、Wikipediaでは「テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国」とされ、「17世紀の最大版図は中東からアフリカ・欧州に著しく拡大し、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリーに至る広大な領域に及」びます。

 そのオスマン帝国が、19世紀以降、とくに西欧諸国から蚕食され、最終的には「青年トルコ人革命」によって権力を握った“統一と進歩委員会”が第1次世界大戦において枢軸国側に身を投じるという冒険的行為に走った挙句、ロシア帝国やオーストリア・ハンガリー帝国とともに解体されます。その結果、今日私たちが“トルコ”として知っている地域はケマル・アタテュルクによるトルコ人国民国家として生き残りを図ることになります。その間、この“新生トルコ”から外れた多数の国家が誕生することになるのです。

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 このオスマン帝国の解体、あるいは崩壊は19世紀から20世紀にかけてきわめて長い時間をかけて進行します。セルビア公国が事実上独立したのが1817年、フランスによるアルジェリア占領が1830年、ギリシャ王国誕生が1832年、ルーマニア王国ブルガリア公国独立が1878年、青年トルコ人革命のどさくさにまぎれてオーストリア・ハンガリー帝国にボスニア・ヘルツェゴビナを奪われ、クレタがギリシャに回帰、さらに1911年、イタリアがリビアを奪って植民地化と続いて、これらの逆境を一気に吹き飛ばすべく、“統一と進歩委員会”が賭けに出て、ドイツ・オーストリアと手を組んだのが1914年11月11日となります。

 ちなみにこの過程で生まれた王国には、まるで植木の移植のように、他の王国から王族がやってきたりします。つまりは、列強の優劣関係の上に、王朝の“出店”が設けられる塩梅です。例えば、初代ギリシャ王はオーストリアのヴィッテルスバッハ家のオットー・フリードリヒ・ルートヴィヒ・フォン・ヴィッテルスバッハことオソン1世、初代ブルガリア大公はドイツのはバッテンベルク家出身のアレクサンダー・ヨーゼフ・フォン・バッテンベルクことアレクサンダル1世、ルーマニア国王もドイツのホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家出身のカール・アイテル・フリードリヒ・ゼフィリヌス・ルートヴィヒことカロル1世。

 王様を異民族から“輸入”するわけですが(=もちろん、西欧列強の思惑で)、これではとても国民国家とは言えません。その中で、初代セルビア公ミロシュ・オブレノヴィッチ1世は貧農・ブタ商人あがりでナショナリズムを体現していると言えそうです。このミロッシュ1世は「統治下にセルビアをオスマン帝国内の自治公国にさせたため、セルビアが独立を回復する端緒を開き、近代セルビアの内外政策を方向づけた人物として評価されている」(Wikipedia)とのことです。

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 さてこうしたオスマン帝国解体の長い長い歴史の中で、一介の梟雄が出身地でもなんでもないエジプトを実質的な支配下におさめ、ほぼ150年(1805年 – 1953年)に渡る王朝を創設します。

 その主人公がムハンマド・アリー(1769?~1849)、激動の18~19世紀(フランス革命からナポレオン戦争を経て、アヘン戦争・米墨戦争の同時代)を生き抜いた英雄・梟雄と言うべき存在ですが、生まれはアルバニア・トルコ・イラン・クルド系説が入り乱れ(アルバニア系が主流)、要するにエジプトとは本来何のゆかりもなかった人物です。生まれた年も場所もはっきりしないのです。

 その彼がエジプトとかかわりをもつのは、ナポレオンが1798年~1801年にかけて主導したエジプト・シリア遠征がきっかけです。フランス革命とその後の混乱から立ち直ろうとするフランス総裁政府は、対イギリス牽制のため、エジプトを占領することで植民地とイギリスの結びつきを断ち切ろうというナポレオンの戦略に載ることにします。

 こうしたヨーロッパでの列強の争い、そしてフランス第一共和制での総裁政府というあやふやな政治主体内部での権力者同士の力関係等によって起こされた遠征事業が、エジプトの宗主権をもつオスマン帝国を刺激して、傭兵隊長としてのムハンマドを派遣させる。そのムハンマドが新天地に己の権力を発揮する可能性を見出し、やがてオスマン帝国に歯向かうまでに至る! まさに波乱万丈の物語とも言えるでしょう。

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 ところで、、異邦人ナポレオンにとってはエジプトとはたんなる一つの舞台に過ぎず、それが政治的戦略にとって用だたなくなれば捨て去ってもまた恥じない対象であるのに対して(1799年8月22日、ナポレオンは少数の腹心とともに秘かにエジプトを脱出、フランスでの権力獲得にまい進し、残された兵は1801年まで戦い続けますが、最終的にイギリスに降伏します)、もう一人の異邦人ムハンマドはそこに自らの活躍の場を見出します。おまけに、実質的なエジプトの支配者、マムルークたちはナポレオンに粉砕されたばかりです。

 実を言えば、このマムルークたちも「イスラム世界に存在した奴隷身分出身の軍人」であり、ムハンマド君の大先輩にあたるとも言えるわけですが、ムハンマドはナポレオンによるマムルークの妥当と、その後のフランス軍撤退といういわば政治の真空状態をつきます。Wikipediaでは「イギリス軍がエジプトから撤退(1803年3月)した後のエジプトでは、オスマン帝国の総督および正規軍、アルバニア人非正規部隊、親英派マムルーク、反英派マムルークが熾烈な権力闘争を繰り広げた」と記されています。

 この時期、オスマン帝国の傭兵隊(アルバニア人非正規舞台)の司令官が暗殺されると、ムハンマド・アリーは土着のマムルーク勢力とオスマン帝国を巧みに操って、自らの権力の確保に猛進します。宗教指導者であるウラマーから新総督へ推挙されるのが1805年、ナポレオンの脱出から5年、ムハンマド36歳です。ちなみに、その前年フランス皇帝になったナポレオンはムハンマドとほぼ同じ1869年生まれで、戴冠時35歳。ちなみに、ナポレオンは46歳の時にワーテルローの戦いで全権力を失いますが、ムハンマドは英仏に掣肘されながらも80歳までエジプトを支配し、長男イブラーヒーム・パシャに権力を遺します。、

と、いうところで、この項 to be continuedとしましょう。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...

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