2021年4月

「老い」を考える4:“定年”についてその1

2021 4/29 総合政策学部の皆さんへ

 ヒトにとっての「老い」を考えると、例えば、「定年」あるいは「停年」という日本語があります。我々にとってはきわめて日常的な言葉なのですが、これは歴史が浅い言葉、つまり、明治のいわゆる近代化が始まった頃までしか遡れない言葉だと思って下さい。

 そこで、例によってGoogle Scholarで先行研究を調べると、柳澤武(2016)「高年齢者雇用の法政策─歴史と展望」『日本労働研究雑誌』には以下の記載があります。

日本の定年制度の起源は,1870 年代にまで遡ることができるとの説もみられるが,明確な記録に残っているものとしては 1887 年制定の海軍火薬製造所の規定が挙げられる。同規定の25条は「職工ハ年齢満55ヲ停年トシ此期ニ至ル者ハ服役ヲ解ク。但満期ニ至ルモ技業熟練且身体強壮ニシテ其職ニ堪ユル者ハ,年限ヲ定メ服役ヲ命スルコトアルヘシ」と定め,原則として55歳を定年退職としつつも,「技業熟練」かつ「身体強壮」であれば雇用延長されていた。2年後には,横須賀海軍工廠も造船所傭職工解傭規則により50歳の定年制度を定めており,「技術抜群」など特別の場合には再雇用を行う旨の例外規定が存在した。これら海軍関係の工場から日本の定年制度が始まったのは,いち早く退職金(恩給や退隠料)を支給する制度を整えていたことが理由の一つであろう。少し遅れて,1890 年には「官吏恩給法」により公務員にも退職金が適用されるようになったのが,こちらも強制的な退職とは結びついておらず,あくまで退職金の支給要件に過ぎなかった

 つまりはまだ130年ほどしか経っていない制度なのです。それでは、この近代的定年制度以前は、その頃の皆さん=私たちの先祖様はどうしていたのでしょう? 考えたことはありますか?

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 さて、「定年」的な考え方はどこまで遡れるのか?

 まず、「致仕」という言葉をご存じでしょうか? Wikipediaによれば、「致仕(ちし/ちじ・致事)とは、官職を退いて引退すること。君主に預けた身体の返却を願うと言う意味により、俗に「骸骨を乞う」とも称した」。そして、「日本の律令法では数え年の70歳以上になった官人は致仕を申し出ることが出来た(これに対して70歳を待たず病気その他で官を退く事を辞官と称した)」とあります。

 この致仕ですが実に大宝律令(701年)・養老律令(757年)についての解説書である「令義解」の「選叙令宮人致仕条」に、「凡官人年七十以上。聴致仕。五位 以上 々表。六位 以下申牒官奏軌」(官人は年齢70歳以上になれば、致仕(=定年退職)を許可する。五位以上の場合は上表する(=天皇に文書を奉る)こと。六位以下の場合は、太政官に申告して奏聞すること;『現代語訳「養老令」全三十編』)とあります。

日本律令国家における 「老女」 に関する研究」(渡部育子、2004)という論文では「この条文は役 人が官職を退く際の手続 きに関する規定である(大宝令では 「官」は5位以上か以下かという位階によって手続きは異なるが、退職する年齢は70歳である。令集解所引の古記では、分番の官にも適用されると説明していることから、この条文は官人全般 にわたって適用されたものと考えられる」、としています。つまり、70歳過ぎると自分の意志で退職できる、とはいえ強制ではないということになります。

なお、律令における庶民への課役減免や救済措置 についての年齢規定として「老」という概念があり、男性では 60歳とされます。そこで渡部は 70歳 という年齢 は どの よ うな意味を もっていたのか とい うことで あるが、課役減免や給侍 は税 制 の問題 と密接 にかかわることで あり、 「老」 には法律用語 としての意味が あった のに対 し、官人の定年ともいえる 70歳 とい う年齢 は、 日常生活 レベルで判 断 され る老人、す なわち可視的 に 「年老 いた人」 とい う意味があるのではないか と考 え られ る」と分析しています。

もちろん、職務によっては年齢の上限にも差が生じる場合もあり、渡部は「一般的 に官人の退職 には、前 に見た選叙令官人致仕条の 70歳という年齢がひとつの目安となったわけであるが、兵衛のように武官的職務で宮内の宿直すなわち夜勤も通常の勤務に組み込まれるというような場合には、身体 的理由だけで60歳という年齢が示される。 この60歳という年齢は、一般庶 民の力役賦課においても最も重い負担を強いられる年齢の上限であり、軍役においても60歳に達した者は免除されることになっている。このように大宝 ・養老令の規定には実務に支障をきたさないよう、在職年齢の上限 をきめ細やかに定 めていたのである」としています。

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 それでは、江戸時代はどうだったのでしょう?

 一例をあげれば、尾張藩御畳奉行を務めながら奇書『鸚鵡籠中記』を書き残したことで知られる朝日文左衛門重章は、元禄7年(1694)12月に父定衛門重村の跡目をついで、ご城代組御本丸御番に任じられますが、実際には、この家督相続はなかなかすんなりいけませんでした(神阪次郎『元禄御畳奉行の日記』)。江戸時代は幕府によって、家督=家父長制における家長権の相続制度が確立し、嫡子単独相続が確立しています(Wikipedia「家督)。その場合相続は「先代の死亡にともなう相続の場合を跡目相続、先代の隠居による場合を家督相続と呼び分け」られます。文左衛門の場合、父は存命なので、父が隠居しないと就職できません。ところが父は「隠居」をいやがり、親類一同の説得にあい、しぶしぶ家督をゆずることになります。

 つまり、一定の年齢によって家督を交替させる「定年」が定められていないので、父親がまた生きている場合は、父の意思(=何歳で隠居生活にはいるか)によって子供の就活時期が左右されてしまうのです。ちなみに、文左衛門はなんとか跡目を継いだものの、その後の長年の「酒毒」がたたって享年45歳で(=現役中)に死亡、子供は二人とも娘であったため、親族から養子を迎えますが、病弱のため死亡、朝日家は断絶します。こうして定年制が定められていないため、旗本等ではしばしば80歳以上まで致仕せず、仕事をつ続けていた者がいた、とも別の本で読んだ記憶があります。

 ちなみに、17歳で御徒見習いとして幕府御家人になりながら、狂歌等で人気作家として名をはせた太田七左衛門こと太田南畝は(狂歌のペンネームとしては、蜀山人、玉川漁翁、石楠齋、杏花園、遠櫻主人、巴人亭、風鈴山人、四方山人)、天明7年(1787)の寛政の改革以降、狂歌の筆を擱いて「学問吟味登科済」を受け、勘定支配に出世します。一方で、退職したくともなかなか進まず、Wikipediaによれば「文化9年(1812)、息子の定吉が支配勘定見習として召しだされるも、心気を患って失職。(南畝は)自身の隠居を諦め働き続けた。文政6年(1823)、登城の道での転倒が元で死去。75歳」とのことです。

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 当然、商家はどうなっているのか? とお考えの方もいるでしょう。油井宏子『江戸奉公人の心得帖:呉服商白木屋の日常』から少し紹介しましょう。

 まず、白木屋ですが「東京都中央区日本橋一丁目に存在した江戸三大呉服店のひとつで、かつ日本の百貨店の先駆的存在のひとつである。江戸時代から昭和にかけて営業し、1967年に東急百貨店に買収され、商号・店名ともに「東急百貨店日本橋店」へと改称した。その後、1999年1月31日に閉店、336年の歴史に幕を閉じた」(Wikipedia)。この店には「白木屋文書」という一連の古文書が残され、そこから奉公人たちのライフヒストリーが見えてくる、というわけです(tこの白木屋文書ですが、東京の国立博物館で展示されているのを見た記憶があります)。

 なお、奉公人は男ばかり、そして基本は京都の本店採用、そのほとんどが近江人(一部、京都)、これは初代大村彦太郎が近江長浜生まれだったが故です。

 多くの奉公人は11~12歳で採用され(その多くは次男、三男)、春に集団で江戸下りします。基本的に元服前(つまり、成人前)、江戸店についたころは「こども」等と呼ばれ、15歳で元服しますが、当然、入店2年目あたりで脱落者(店から脱走、病気、各種の種々の問題をおこしての退職)が多発します。元服が済むと「若衆」と呼ばれます。つまり、年功序列のコースに乗るわけです。なお、給料がでるのは元服後、つまり「こども」時代は無給のようです。

 故郷に帰ることができるのは実に上京9年目のことで、それが「初登り」と称されます。50日間ののぼりが過ぎて首尾よく江戸に戻ると(勤務が評価されなかれば、そのまま解雇されてしまうこともあったようです)、今度は「手代」に昇進する。次ののぼりが16年目の「中登り」、そして22年めの「三度登り」、この「登り」を経るごとに昇進していく。そういうシステムだったようです。もちろん、平手代→小頭役→年寄り役→支配役というのぼるにつれて、人数も減っていくのは現代の会社の昇進のシステムとも共通しています(なお、江戸時代の大店では、中途採用はないとのこと)。

 それでは退職者はというと、勤続年数によって退職金が定まっていて、「33年間勤務して支配役までつとめた江龍作右衛門が日本橋店を辞め、天保8年6月7日に江戸を出立しました。言わば、支店長の退職であり、作右衛門には銀110匁の最上級の白紬一疋と銀60匁の生絹1疋が送られています」とあります。なお、日本橋店を辞めると、病気でも円満退職でも、再び雇用されることはなかったとのこと)。

 33年間の勤務となると、江龍作右衛門は44歳か45歳ということになります。もちろん、この当時は平均年齢も短かったでしょうから(人生50年の頃ですから)、隠居するにしても、それほど長生きできなかったかもしれません。そして、江龍のような退職者が出れば、その代わりにまた若い者たちが採用されていく、それが江戸での雇用システムの根幹だったわけです。

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 逆に、(太田南畝はうまくいかなかったわけですが)早めに次世代にバトンタッチをして、あとは公事から身を引き、余生を好きなことで過ごす、という人生もあるわけで、その典型が1745年に上総国の名主の家に生まれ、1762年に婿入りの形で酒造家の伊能家に入り、名主・村方後見として活躍した後、1794年に長男に家を継がせて隠居、50歳以降の人生を日本全図作成にささげた伊能忠敬や、歳40にして弟に家督を譲り、画業に励んだ伊藤若冲等があげられるでしょう。

 ということで、このあたりでto be continuedとしましょう。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...

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