2021年7月

19世紀での国家の誕生と消滅Part3:エジプト後篇

2021 7/22 総合政策学部の皆さんへ

 19世紀での国家の誕生と消滅Part3:エジプト前篇に引き続いての後篇です。

 前篇では、ナポレオンのエジプト征服(そしてその後の脱出)後の混乱に乗じて、出身地や血筋さえ定かならぬ一介の傭兵隊長ムハンマド・アリーが土着のマムルーク勢力とオスマン帝国の間隙を縫って、1805年、36歳の時にエジプト支配に着手するところで終わっていますが、彼の波乱万丈の一生はその後もさらに続きます。完全なる権力掌握のためには、彼を取り巻く幾重もの重囲、多方面の敵をそれぞれ突破しなければなりません。

 まずは向背定かならぬマムルーク勢力についてかたを付けねばなりません。1811年3月11日、ムハンマドは次男のアラビア遠征軍司令官任命式にことよせて「マムルーク400人あまりを居城におびき寄せて殺害する(シタデルの惨劇)と、カイロ市内のマムルークの邸宅、さらには上エジプトの拠点にも攻撃を仕掛け、1812年までにエジプト全土からマムルークの政治的・軍事的影響力を排除する」ことに成功します(Wikipedia)。このあたりは、1502年12月31日、“マジョーネの反乱”において部下に裏切られて窮地に立たされながら、言葉巧みに反逆者の「4人と相対して油断させ、4人が自軍から離れてシニガッリアの城内に入ったところを、ミケロットらに命じて捕縛」、彼らが率いてきた軍隊も殲滅させて、権力保持に成功したルネサンス期の梟雄、チェーザレ・ボルジアを髣髴とさせるところです。

 当時のフィレンツィの政治家でのち歴史家となったフランチェスコ・グイチャルディーニはチェーザレについて「「裏切りと肉欲と途方も無い残忍さを持った人物」とした一方、当時のフィレンツェの国情の混乱振りとの対比で「支配者として有能であり、兵士にも愛されていた人物」と評している」(Wikipedia)とのことですが、ムハンマドにもそれに匹敵する才能(ルネサンス期ではヴィルトゥ[器量]”と呼ばれます)の持ち主であったのでしょう。

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 次は当然、ムハンマド自身の雇い主であるオスマントルコ皇帝です。ムハンマドの権力確保の時期はまたオスマン帝国の嬉々の時期でもあり、「1807年から1808年にかけてセリム3世ムスタファ4世が相次いで廃位れるなど政情が混乱し、ムハンマド・アリーに対応する余裕はなかった」(Wikipedia)。ちなみに、改革者セリムと呼ばれたセリム3世は国家体制刷新を目指しますが、既存権益者の筆頭ともいうべき常備軍イエニチェリを廃止しようとして、クーデターにあい失脚します。帝国の辺境でムハンマドが目指した改革は、帝国の中央では頓挫する、その隙間の中にエジプト王国(ムハンマド・アリー朝)の基礎が据えられるわけです。

 ちなみに、改革者セリムを保守派によるクーデーターで打倒したムスタファ4世ですが、自らの権力維持のため、従兄弟にあたる廃帝セリム3世や弟のマフメットを殺そうとして(=オスマン皇帝でよく知られている兄弟殺し)、セリムを殺したもののマフjメットに逃亡され、結局、次のクーデターで打倒され、弟のマフメット3世が即位します( 1808年7月28日)。ムスタファ4世もその後、帝政安定のため、自らもマフムト2世によって殺されます。ちなみにこのマフメット2世の母親ナクシディル・スルタンは一説によると「ナポレオン・ボナパルトの最初の妻ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネの従妹にあたるマルティニーク出身のフランス人女性、エイメ・デュ・ビュク・ド・リヴェリと同一人物」ともされていますが、コーカサス出身の女性という別の説もあるそうです。いずれにせよ、皇帝たちの母親は奴隷出身者が多く、その結果、皇帝たちの遺伝子は限りもなく“トルコ人”から離れていくことになるわけですが、それはまた別の話です。

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 マフメット2世はオスマン帝国再建という難事業に乗り出しますが、それは当然困難をきわめ、保守派、とくにかつては東欧諸国をあっとうしたイエニ・チェリ軍団の抵抗を受けて隠忍自重を強いられます。2代前、同じく帝国の改革をめざしたセリム3世の失脚(1807年5月)から、マフムト2世が満を持して断行にした(かつて14世紀、賢主ムラト1世によって創設されて以来、そのリクルートシステム[デヴシルメ制]も含めて抜きんでて革新的であった)旧式軍団イエニ・チェリの廃止とその反乱の鎮圧(1826年6月15日)までの時期は、あらためて言うまでもないことですが、ムハンマド・アリーが己の権力基盤を固める時期になってしまうわけです。

 1821年のワラキア蜂起以後の一連の民族蜂起に対して、「追い詰められたマフムト2世は1824年に独自の西洋化政策を進めていたエジプト総督ムハンマド・アリーにペロポネソス半島とクレタ島、そしてシリアの3つの総督の地位を彼に与えることを引き換えにして援軍の派遣を要請した。翌年派遣されたムハンマド・アリーの息子のイブラヒム・パシャは次々と反乱軍を打ち破っていき、クレタ島をも占領した」(Wikipedia)。帝国内部の民族蜂起(19世紀から今日までつづく民族問題)、そして北から圧迫するロシア、さらにイギリス、フランスの進出の板挟みにあったマフメットに対して、アリーは牙をむきます。

 「1831年、ギリシア独立戦争への参戦で大きな犠牲を払ったムハンマド・アリーが、参戦にあたってマフムト2世から約束されていたシリア総督職が与えられないことに抗議して、エジプト軍をシリアに武力侵攻させる事件が起きた(第一次エジプト・トルコ戦争)。単独でムハンマド・アリーを倒すことのできないマフムト2世は、ギリシア・セルビアの問題で圧迫を受けてきた相手であるロシアを頼り、エジプト問題を列強の介入によりさらに複雑化させた」(Wikipedia)。このあたりが、現在の中近東の政治情勢を産みだすきっかけともなるわけです。

 結局、「イギリスの支持を得たマフムト2世は1839年4月に満を持してエジプトとの間に戦端を開き、ムハンマド・アリーの支配する北シリアの要衝アレッポにオスマン帝国軍を向かわせた(第二次エジプト・トルコ戦争)。6月24日、オスマン帝国軍はエジプト軍によって打ち破られ、第二次エジプト・トルコ戦争もまた、ムハンマド・アリーの優位によって進もうとしていた。この悲報が届く前にマフムトは崩御した。この戦争は最終的にイギリスの介入により、1840年7月にオスマン帝国側の優位で決着するが、ムハンマド・アリーにエジプトの世襲権が認められた」(Wikipedia)。

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 こうして「世襲権」を獲得、半独立国の地位を取り付けるムハンマド・アリーですが、彼の跡継ぎたちはアリーへの対抗のためにヨーロッパ列強からの支持を取り付けたオスマン帝国ともども、関税自主権などを失い、以後、どちらも半植民地化の道を辿ります。マフメット2世崩御の1839年から数えると、オスマン帝国は6代・83年後に帝国解体に直面し、またムハンマド・アリー朝は10代・114年後に廃絶を迎えることになります。

 

「老い」を考える5:“定年”について その2

2021 7/11 総合政策学部の皆さんへ

 ヒトにとっての「老い」に関連して、定年を考える、その2ですが、生活史をたどるうちにいやおうやってくるのが“仕事の終わり”です。

 例えば、先回紹介した「日本律令国家における 「老女」 に関する研究」(渡部育子、2004)という論文に眼を通していると、「60歳という年齢は、一般庶民の力役賦課においても最も重い負担を強いられる年齢の上限であり、軍役においても60歳に達した者は免除されることになっている」とあります。要するに年取ってしまえば戦えなくなる=引退の時期がある。なんとなく納得しますね。仕事によっては、必然的に物理的能力によって、年齢の限界が規定され、それが定年的な考え方をもたらすことになるのです。

 さて、軍人の末路についてことに有名な科白に、第2次世界大戦後に日本占領統治を牛耳ったダグラス・マッカーサー元帥の退任演説における「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」(Old soldiers never die; They just fade away)という言葉があります。それでは、老兵はいつ“消え去る”のでしょうか?

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 ここでとっさに私の頭に浮かぶのは、古代ローマ共和制末期の「マリウスの軍制改革」です。これは「紀元前1世紀にガイウス・マリウスによって施行されたローマ軍における改革。この改革により軍事だけでなくローマ社会でも大幅な変革が起こり、やがてはローマ社会の覇権的性格、ローマ軍の侵略的傾向を促し、間接的に帝政ローマを創設する土台を作り上げた」というエポック・メーキングなできごとです。

 この改革の本質は、要するに、対外進出にともなう侵略行為の主体としての軍隊を(+キンブリ・テウトニ戦争のような外敵侵入に対処する軍隊としても)それまではローマ市民権を持つ一般市民に義務として課せられて兵役ではとてもまかないきれない現状を打破するため、マリウスが「自前で武具を賄えない貧民階級」に注目して、志願兵制度+給料支給+従軍期間の確定+退役後の報酬をセットにした制度です。つまり、ボランティア的軍隊から職業人的軍隊への転換を図る。その中に必然的に後年の定年的制度と給料+年金制度を組み込むということになります。

 ちなみに、国内の治安維持のための軍事体制から、国外への侵略的軍事体制への転換をはかり、日本政府が鎮台制から師団制へと転換するのは明治21年(1888年)5月12日のことです。師団とは「主たる作戦単位であるとともに、地域的または期間的に独立して、一正面の作戦を遂行する能力を保有する最小の戦略単位」であり、この改編で「戦闘部隊の組織を整理して管理を容易にしたことで、陸軍は外征の能力を高めた。それぞれ兵站を持ち自己完結性を有する各師団は、独立して外地で作戦を遂行することができるようになった」(Wikipedia)とされます。

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 もう少し詳しく説明しましょう。マリウスの改革以前、市民による兵役では「兵士は財産に応じて定められた5つの階級に属し」、「兵士は3000セステルティウスに相当する資産を所有していなくてはならず」、「必要な武具は自前で購入」ということになっていました。

 これに対して、マリウスは貧民階級に門戸を開くため、職業軍人としての待遇を整えます。それは以下の通りです。

  • 国が武具を支給=貧乏な者でも軍人になれる(=出世のチャンスをつかめる)
  • 戦闘に従事する者の給料も国が支給=家族の生活も保障
  • 従軍期間を25年とする=定年的制度
  • 退役後、兵士たちに土地を与える退職金的制度。司令官より年金を給付=年金的制度

この結果、「赤貧にあえぐ者の中で社会的な成功にわずかな望みをかけて大量の人員がマリウスのもとに走った」とされます。

 この改革自体は「単純なもので、「兵士への給料」は、従来においても「働き手を兵士に取られた農家への損失補填」として行われており、改革の前後でその金額は変わっていない。端的に言えば、徴兵制を志願制に変えただけの事である。しかしながらこの単純な改革によって、困窮した農民は兵役から解放され、無産者達は職を得る事になった(一家の働き手を取られた農家への損失補填としては不足していた金額であっても、無産者にとっては有難い収入源となった)。またこれにより、ローマ軍は今までの市民からなる軍隊から職業兵士で構成された精強な軍団へと変貌を遂げる」ことになります(Wikipedia)。

 また、この軍制改革の結果生まれた軍団指導者と志願兵の関係をいわば政治的なテコとして、ローマを帝政に変化し、その結果、巨大な国際帝国ローマを作り上げて、現在のEUのベースを創造したとも言えるマリウスの義理の甥、ガーイウス・ユーリウス・カエサルの覇業に繋がっていくと言えるでしょう。

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 さて、ローマ共和国軍では従軍期間は25年ということですが、これはもちろん、歳をとると戦闘能力が次第に衰えることを考慮にいれているのでしょう。20歳で兵士になれば、45歳まで務めるということになります。なお、「退役までの5年間はベテラン軍団兵として、従事する内容を軽いものなどにしてもらい、優遇をされた」とのことです(Wikipedia「軍団兵」;なお、英語のベテランはラテン語で年老いたことを示す「Vetus」にanという接尾語をつけて、経験を積んだ古参の兵士、あるいは退役軍人を意味するようになったとのことです)。

 ちなみに、アメリカ軍では「20年以上勤務の退役直後から支給される一般公務員とは別の軍人年金」制度があります。「資料60 米国・英国・仏国軍人の退職後の処遇及び再就職管理に関する調査報告」では、「全額国庫負担であり、現在国防省の人件費の約20%、約290億ドル(約3兆3千億円、1ドル=113円で算出)が支出されている。年金の受給資格は、原則20年の勤務により発生し、退役直後から支給される。退職年金の支給額の計算については、1986年8月1日以降の入隊者については、退職前36ヶ月の基本給の平均月額×{2.5%×勤務年数-(30年-勤務年数)×1%(最高75%)}である」とのことです。

 一方、イギリス軍では「受給資格は、将校は16年、下士官は22年の勤務により発生し、支給額の最高は、退職時の基本給の48.5%である。職務や勤務地の特殊性に係わらず、一律基本給と勤務年数に基づき年金額が算定される」ということです。

 ちょっと特殊なケースでは現代の傭兵とも言えるフランス外人部隊では、「入隊資格については国籍、人種、宗教に関係なく17歳以上、40歳未満の健康な男性なら入隊可能」で、「現在入隊した隊員の場合は最低でも20年以上の勤務が条件となり、さらにこれまで除隊後すぐであった給付が60歳以上になってからの給付に変更になった。定年の年齢基準は特に無く、本人の意思がある限り何歳でも続けることができるが、現実的に60歳以上まで続ける人はほとんどいない」(Wiipedia)とのことです。

 こうしてみるとローマ共和国の昔から、20歳ぐらいで兵役につけば、20~25年程度の勤務で年金受給資格が得られるが、(将軍にでもならない限り)60歳程度までで退役する、というのが一般的と言えるでしょうか。

 なお、日本の自衛隊では「自衛隊は、精強さを保つため、若年定年制及び任期制という制度を採用しており、多くの自衛官が50歳代半ば及び30歳代半ばまでに退職することになっています。」(航空自衛隊HP)とあり、年金は(平成27年度以降は)厚生年金に加入します。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...

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