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分けることと名を付けることPart4:“分けられた”人たち

2020 11/22 今回は、“分けられてしまった”人たちについて紹介しましょう。

 私はかつてタンザニア連合共和国西部のマハレ山塊国立公園で、あわせて3年ばかりをすごしたことがあります。この公園はタンガニーカ湖東岸に半島のように突き出ていますが、この湖の中央にはタンザニアとブルンディザイール(現コンゴ民主共和国)ザンビアを分ける国境が走っています。だから、湖の東岸から私の眼に入る西岸は隣国コンゴ(当時はザイール)なのです。

 ある日の暮れ、湖岸でぼんやりしていたら、なにやらカヌーを漕いできた男が一人、上陸してきたのでのぞき込むと、プラスチックのサンダルが束ねられていて、要するに当時社会主義政策をとって物不足のタンザニアへ、資本主義国から手厚く支援を受けていたザイールから物を売りに来た商人なのですが、考えてみれば国境をまたいできたものの、そこにイミグレーション税関もあるわけはなく、要するに密出入国でありかつ密輸の現場なのです(もちろん、かわいいものですが。ちなみにそのサンダルは香港製でした)。

 さて、この湖面を切り分ける“ボーダー”はもちろん自然のものでも、また民族の違いでもなく(湖岸の両岸でほとんど同一の言語を話しています)、1885年のベルリン会議でドイツ、ベルギー、イギリスの間で分けられものに過ぎず、かつそれ以来、ボーダーが動くことはありません。と言うよりも、このボーダーを下手に動かせば、紛争・暴動を引き起こして、脆弱な国家は崩壊しかねないのです(宮本・松田、1997)。

 ちなみに1960年代のアフリカ諸国の独立ラッシュ後、ヨーロッパ列強の手でいったん策定された国境が変わり、国家が分割された(=ボーダーが引き直された)例は、エリトリアエチオピアから独立戦争を経て独立したケース、そしてアフリカ最大の国家であったスーダンからやはり数度の内戦を経て南スーダンが分離したケースだけです。

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 その一方で、人々の暮らしは昔も今も基本的には変わりません。先ほど紹介したように、カヌーを漕げばタンガニイカ湖を横断することなどわけもない。パスポートを持つ者などいるはずもないから、すべては密出入国にほかならず、いくばくかの商品等を持参すれば密輸です。

 当然、行き来する者たちの間で男女の仲で結ばれることもあります。知り合いのタンザニア人の男性がザイール人の女性と結婚した時のこと、ふとまわりの連中に
「あの二人の子供は、いったいどちらの国籍になるのだね?」と尋ねると、
「病院で産んだら出生証明書をくれるから、最近は病院で産むことが多いけど、タンザニアの病院で産めばタンザニア人に、ザイールで産めばザイール人になる」としごくのんびりした答えが返ってきて、妙に納得したものです。どちらの国にも戸籍などなく、人々は近年まで自分の生まれ年(したがって年齢も)さえ知らなかったのです(蛇足ながら、戸籍とは世界の中でも日本、韓国、台湾等に限られた特殊なものです)。

 こうした光景は、近代国家以前の、“国境”があいまいだった頃に比べれば、あたりまえのことでした。しかし、1885年にベルリンで締結された条約にもとづけば、彼らの動きは立派な不法行為なのかもしれません。なによりも、近代国家は運営にお金がかかり(ニューヨークの国連に大使を派遣するだけでも、アフリカの一般民衆からすれば気が遠くなるような経費が必要)、そのためには税金をとりたてなければいけない。とすれば、“国民”の勝手な行動を制約し、彼ら(=我々)を囲い込もうとするのはある意味必然というべきかもしれません。

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 その上で、民族とは何で決まるのか=どんな基準で“分ける”のか? という難題が残ります。民族は「文化の伝統を共有することによって歴史的に形成され、同属意識をもつ人々の集団」とされています(『広辞苑』第四版)。そして一般的な理解では文化≒言語の共有が民族の形成に欠かせないとされます。

 とは言え、現実には簡単ではありません。例えば、“ユダヤ民族”では、母語はラディーノ語イディッシュ語など多数の言語に分かれます。すると、ユダヤ民族は単一の人種/民族というよりも、むしろユダヤ教という宗教で結びついた社会集団と言うべきかもしれません。

 さらに、誰が分けるのか? アフリカでは、植民地時代に先住民を“部族”に分割することが多かったことが知られています。ところが、この“部族”は必ずしも実態をともなったものではなく、植民地政府の恣意的な措置であった場合も多い(宮本・松田、1997)。その一方で、この“創られた伝統”がいつしか政治/社会的実態をおび、後年の“部族主義(トライバリズム)”を助長させ、“民族/部族紛争”に発展した例も少なくないのです。

 とくに植民地政府がしばしば採用した“分割統治”は、“集団”に“実体性”をもたらし、しばしば政治集団に再編成をおこない、結果として紛争や戦争の原因となりました(例えば、ナイジェリアでのビアフラ戦争等)。

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 さて、“民族集団”自体は数十年、数百年の単位で発生、分散、消滅、統合、再編成されることもめずらしくありません。

 たとえば、私が3年間ほどつきあっていたトングウェは、タンザニアで認められている120近い“民族”のうちの一つです。先ほども触れたマハレ山塊国立公園の周辺、面積にしておよそ2万平方キロばかりのトングウェ・ランドに2万人ほどが住んでおり、コンゴ・コルドファン語族のニャムウェジ語系のトングウェ語を話しています。とはいえ、こうした弱小語は共通語(タンザニアの場合はスワヒリ語)の普及(学校教育およびラジオ放送)で、消滅の危機にあります。

 それでは、トングゥエの人々は何時からトングゥエなのでしょう? この地で40年近くチンパンジーの研究を続けた西田利貞は調査の初期に、書き言葉を持たず、伝承世界に生きている彼らに聞き込みをおこなっています(西田、1973)。その結果、彼らの父系をたどるとおよそ7,8世代、つまり150~200年ほど前まで遡れますが、それは対岸のコンゴ出身の祖先に行きあたるのです。しかも、複数の民族に分かれるということです。

 それ以上はすべて推測でしかありませんが、複数の民族の出身者が何らかの理由で湖の東岸に移動し、紛争と融合をくり返しながらやがて一つの民族を創出するのは、アフリカではそれほど珍しくことでもないようです。このように民族は語られぬ歴史の中で、次々に生まれてはまた変わっていく存在なのですが(宮本・松田、1997)、それが植民地政府の意向で“部族”という名称で固定化・分類されると、そのこと自体がやがて“部族対立”や“民族紛争”に発展していきかねない、それがアフリカの近代化の一断面とも言えるのです。

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 近代国家としてもっともふさわしい存在は、大革命後に成立した“国民国家(ネーション・ステーツ)”としてのフランスと、政治的思想をバックにした契約国家とも言うべきアメリカ合衆国があげられます。もっとも、アメリカは少し特殊に過ぎるので、前者のフランスをとりあげてみましょう。

 ヨーロッパ史を少しひもとけば、フランスは歴史的にほんの少し前まで文化的にも政治的にもとても単一国家とは言えないものでした。たとえば、現在フランスと呼ばれている地域とその周辺は、かつてフランス王国の他、ブルゴーニュ公国、ブルターニュ公国、ナバール王国など多くの政治権力に分かれていました。

 これらの諸政治権力があるものは統合され(例えば、ブルターニュ公国は最後の女王アンヌとフランス王シャルル8世・ルイ12世の結婚により統合)、また、あるものは(ブルゴーニュ公国のようにブルゴーニュ地方はフランスに吸収されますが、フランドル地方はオランダ・ベルギー等として独立します。

 こうした“小国家”や“地方文化”を最終的に一つの“坩堝”に溶かし込んで“フランス民族”を形成したのが、“フランス革命”の最大の成果であり、ナポレオン戦争で倒れた100万人を筆頭に、膨大な人命の犠牲によって、フランスの輪郭が形作られます。

 それでは、アフリカで成立している国家とはなんでしょうか? 1885年のベルリン会議等によって人工的に分割された植民地は、そのままの形で独立の日を迎えます。そのため、ほとんどが複数民族によるモザイク国家となり、ナショナル・アイデンティティは稀薄か、存在しない(砂野、1997;池野・戸田、1997)。ネーション・ビルディングとは、そうしたモザイク社会の中で、近代的国家を建設することにほかなりません。とはいえ、1967年からのビアフラ戦争、ソマリア(氏族社会への回帰)、コンゴ(統治機構の地域的分解)、エリトリア(宗教等の理由から国家分裂)、ブルンディ・ルワンダ(“民族”間の対立)等、国民的統合(ナショナル・インテグレーション)の進行どころか、国民解体(ナショナル・ディスインテグレーション)的な現象が多く見られています。

 そんななかで、タンザニアという国家はネーション・ビルディングにかなり成功した国ともいえるでしょう。これが3年間、トングゥエたちとつきあっても私の実感です。先にも触れたように100を超える民族から構成されるとされ、ザンジバル島のオマーン系スルタン政権を除けば、19世紀のドイツによる植民地化前に統一された政治勢力はなかったタンザニアで、1961年の独立後、1963年のザンジバルとの統合を経て、スワヒリ文化という複数の文化がまじりあった文化が普及していたことも手伝い、国家的アイデンティティの醸成に成功している1例ともいえます。それは、かつて欧米の手で“分けられていた”人たちが、自らの手で一つのアイデンティティによってまとまろうとする運動でもあるのです。

車内広告の歴史:身近なものからリサーチのテーマを探すPart1

2020 9/29 総合政策学部の皆さんへ 今回は「身近なものからリサーチのテーマを探す」というお題です。そこで取り上げるのは“車内広告”です。とくに電車通学の方は、毎日電車の車内広告を目にしているはずです。それでは、皆さんは車内広告や、駅の構内の広告をテーマにどんなリサーチ・プランを考え付きますか?

 そこで最初の質問です? 今朝、乗ったはずの電車、あるいは降りたはずの駅構内に、どんな広告があったか、覚えていますか? とっさに思い出せる人は意外と少ないかもしれません(過去、基礎演習等で突然尋ねると、たいてい明確な答えが返ってくることはありませんでした)。これでは広告の効果がない、と広告代理店の人は悩むかもしれません。

 ところで、新三田駅のホームに備えられた広告は、まず医療機関か塾・予備校関係が目につきます。これは言うまでもないことですが、ニュータウン=ベッドタウンの乗降駅として、進学を目指す若者層と医療機関に関心をもつ中高齢者をターゲットとしていることではないかと考えられます。

 もし皆さんの中に、将来のキャリアとして広告代理店(電通博報堂アサツー ディ・ケイ(ADK))等をお考えの方がいれば、なかなか興味深いテーマだと思いませんか?

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 さて、ムサシノ広告社という会社のHPに「広告代理店と交通広告の歴史」というコラムが掲載されています(https://www.musashino-ad.co.jp/column/ad_history.html)。この交通広告とは「電車広告・駅広告・バス広告」等を包括した広告カテゴリーのようです。その一部を紹介しましょう。

明治5年、東京の新橋・横浜間に鉄道が開通し、交通網の充実に反映して人々の行動範囲の拡大・移動時間が大幅に短縮されるなど、生活スタイルに大きな変革をもたらしました。 明治11年には、乗り物酔止薬「鎮嘔丹」が初の広告として掲出が許可され(鉄道広告第1号)、中吊り広告などの車内広告、駅ポスターなどの駅広告が次々と誕生してきました。 近年は駅の機能が乗降だけでなく商業施設を兼ねたりと、鉄道の利用形態も様々に進化し、より大型で訴求力の強い駅メディアの開発が続いています。 電車内では、交通広告誕生以来、紙媒体が車内広告の中心となっていましたが、JRのトレインチャンネルをはじめとする車内映像媒体が登場し、広告主からの人気を集めています」

 と少し調べただけでも、レポートのネタになるかもしれません。それにしても、日本の鉄道が新橋駅-横浜駅(現桜木町)駅間で開業したのが明治5年9月12日(西暦1872年10月14日)、その6年後には鉄道広告が登場する。誰がどのように考え付いたのでしょうか?

 次は、明治の文豪夏目漱石の前期三部作最後の作品『』の一節です(東京市電での車内広告だと思われます)。

この日も宗助はともかくもと思って電車へ乗った。(略)頭の上には広告が一面に枠にはめて掛けてあった。宗助は平生これにさえ気がつかなかった。何心なしに一番目のを読んでみると、引越は容易にできますという移転会社の引札であった。(略)宗助は約十分も掛かって凡ての広告を丁寧に三返ほど読み直した。別に行って見ようというものも、買ってみたいと思うものもなかったが(以下、略)」
(東京朝日新聞、明治43年3月4日)

 こちらもまた、現代の皆さんと同様、車内広告に対してはなはだ心もとなそうではあります。

 一方、漱石が今日の“引っ越業者”を、“移転会社”と呼んでいることにも気づきます。明治という時代は、文明開化の展開にあわせ、言葉が急激に変化する時代でもありました。そこにおのずと新旧の言葉が並ぶことも珍しくありません。上記の一節で、漱石は広告と“引札(引き札)”という言葉を使っています。この引き札こそ「江戸、明治、大正時代にかけて、商店、問屋、仲買、製造販売元などの宣伝のために作られた広告チラシ」をさすのですが、やがて「新聞広告の隆盛とともに取って代わられた」(Wikipedia「引き札」)。このように漱石は英文学者兼小説家として、いろいろな言葉を編み出し、取捨選択していく主体でもありました。

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 こうした車内広告に劇的変化をもたらすかもしれない/もたらしつつあるものこそ、ムサシノ広告社のHPにも言及されているトレインチャンネル(JR東日本が首都圏で通勤電車等に設置した液晶ディスプレイによる電子広告)等のデジタルサイネージでしょう。メディア情報学科に関心がある新入生の方には必須の知識です。

 Wikipediaではその特徴を「内蔵記憶装置に多数の表示情報を保持することで必要ならば秒単位で表示内容を切り替えたり動画表示を行うなど、多様な映像広告を展開できる。ネットワーク対応機の場合は、デジタル通信で表示内容をいつでも受信可能である」と表現します。こうした特徴を車内広告で最大限に活かし、新しい車内広告を考えることこそ、皆さんの課題かもしれません。

「老い」を考える3:ヒト以外の霊長類は閉経するか?

2020 8/27 総合政策学部の皆さんへ 「老い」を考える2からの続きです。自然人類学等において、とくに話題になるのは女性の「更年期/閉経」の存在です。ニホンザルのメスには、短いながらも後繁殖期(post-reproductive life span)が見つかりました。それではニホンザルなどより格段にヒトに近縁のチンパンジーではどうでしょう?

 おもしろいことに、同じような基準でチンパンジーについて手持ちの資料を調べてみると、メスたちの最長寿命はおよそ50歳ですが、最後の出産は40歳前後でした。ただし、最後の子供が母の死を乗り越えて生き残ることができるまでニホンザルよりもかなり長く、4年半ほどかかるので、残りは5.5年ほどです。すると人生に占める割合は、ミノ婆さんよりも短くなってしまいます。このように、チンパンジーのメスにとって、後繁殖期は人生にそれほど大きな位置を占めてはおらず、ヒトの老齢期に比すべき「老齢期」という印象はかなり薄という結果になりました。

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 チンパンジーの一生をもう少し詳しく説明しましょう。

 チンパンジーの社会がニホンザル等ともっとも異なる点は、メスが生まれた集団を離れて、別集団に移籍することです。したがって、娘との絆は断ち切られます。一部で生まれた集団に居残るメスもまったくいないわけではないですが、基本は生まれた集団を去る。そうだとすれば、祖母と孫が共存することはなく、Grandmother hypothesisが成り立つ余地がなくなるわけです。

 一方、息子たちも年長のオスのクラスターに組み込まれていくため、母親と息子とのつながりも目立たなくなります。これが、1980年頃に西部タンザニアのマハレ山塊国立公園でチンパンジーを感圧していた頃の私の印象です。

 結果として、老齢のメスはニホンザル以上に孤独がちに見えます。もちろん、生理学的にも明らかに老いが進行し、活動も鈍りがちに見えます。そして、他個体から孤立した存在として、いつの間にか生を終える、これがチンパンジーのメスについての印象です。

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 一方、オスはどうでしょう。彼らは出自集団に残って、オトナのオスのクラスターに入ります。その結果、「父系的」な社会集団が形成されます。そのため、オスの一生を追うことができないわけではありません。

 かつて私が観察していたマハレ山塊国立公園のMグループでは、ようやく最近になって、オスの人生の全体像が見えてきました。彼らは10代前半に母親から離れ、年長のオスたちのクラスターに近づきます。そしてオス同士の間で次第に順位をあげ、最優位の位置(αオスと呼ばれていますが)を占めるのは20~29歳頃が多いということです。その人生の絶頂期が過ぎると、オスはゆるやかな衰退期をたどります。

 例えば、1979~84年に私が観察していた若いオスのカルンデは当時20代前半と推定されましたが、ワカモノオスの筆頭でしたが、ちょっと性格が堅すぎて、果たして出世できるかどうか、私は危ぶんだものです。

 しかし、しばらく見すぎ良すぎしているうちに、やや高齢の28~29歳にαオスの座につきます。そして、いったんはその座から転落するも、しぶとく33~34歳にまた復活します。その後は緩やかに順位を下げながらも、50歳前後の老オスとし、オスのグループの中にとどまっていたのです(残念ながら、その後死去)。このように絶頂期が過ぎた後、他のオスとのつきあいを保ちながら、ゆるやかに衰退していくチンパンジーのオスの晩年こそ、生理学的にも、社会学的にもヒトの老齢期に近いものかもしれません。

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 さて、一応、まとめなければなりません。

 これまで紹介してきたように、サルに「老い」があるかと言えば、「老化」があることは間違いありません。しかし、例えばメスの出産率で見るように、「オトナ」として高い出産率を保つ時間は長く、そして、人生のかなり終わりの時期に急速に出生率を落として、短い後繁殖期を迎える。これがおおよその姿のようです。生理学的にも、ヒトの「閉経」に該当する段階まで生き残る個体は、とくに野生状態ではごくわずかです。

 さらに後繁殖期にあるメスでも、他個体との社会的交渉は少なく、陰が薄いことは否めません。ニホンザルではこのように、自らの繁殖を早めにきりあげ、娘の繁殖をサポートすることによって「包括適応度」をあげようというGrandmother hypothesisを積極的に支持する資料は少ないということになります。それはチンパンジーのメスも同様で、娘たちが他集団に移出するため、「老婆」の周りに娘がいることさえ少なく、孤独の陰が濃いのです。

 このような点から、サルの「老い」を扱う研究が少ないのも当然かもしれません。つまり、サルの「老い」は身体の諸器官の急速な老化という現象に集約されがちで、ヒトの社会における「老い」とどう結びつけるべきか、研究者自身もためらってしまうのではないでしょうか。

 その一方で、チンパンジーのオス、あるいはゴリラのオスも同じかと思いますが、人生の半ばで頂点を迎え、あとは徐々に衰えながら、他のメンバーとの社会的つながりも保ちながら、ゆっくりとした「老い」を迎えるオスたちの姿に、「老い」の萌芽を見ることもあるいは可能かもしれません。

「老い」を考える2:サルにおける「老い」

2020 7/16 総合政策学部の皆さんへ 「老い」を考える」の続きです。

 実は、サルを研究する霊長類学では、ごく初期から「老齢/老化/加齢/エイジング」という現象に興味を抱いていました。サルを研究する目的は「ヒトに近いが少し違うこの連中を調べることで、ヒトの本質を探る」ことだという原則からは当然のことでしょう(私自身は、必ずしもこの原則に全面的に賛同するわけではないのですが)。

 研究史を随分昔に遡りましょう。近代的な霊長類学の嚆矢として、1940年代にカリブ海の小島カヨ・サンティアゴにアカゲザルのコロニーを創設した心理学者カーペンターの回顧談には、以下の文章が出てきます。“Smith and Engle were interested in the old aging or senility problem in 1938. This reflected itself in the fact that I brought back 15 extremely old males which we trapped with great difficulty in central India” (Rawlins & Kessler, 1986)。

 つまり、映像フイルムの早回しを観るように、人に比べて老化が早く進むサルを観察すれば、「老い」の進行をより明瞭に理解できるかもshりえない、と考えたのです。もっとも、それでもサルの年齢も結構長い。その後の長年のデータの積み重ねでは、例えば、私が嵐山の野猿公苑で付き合っていた方々のうち、もっとも高齢だったのはミノ(Mino)と名付けられた1957年生まれのメスで、お亡くなりになったのが33歳、その頃には腰がまがり、身体も縮こまっていて、107~108歳まで生きられた双子の姉妹「成田きんさん、蟹江ぎん」を髣髴とさせていました。したがって、ニホンザルの最長寿命はヒトのほぼ3分の1ぐらいかなという塩梅です。

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 それでは、その後の霊長類学に「老い」は重要な位置を占めてきたでしょうか? 実は、一時期はあまり関心が集まりませんでした。例えば、進化生物学的視点から「老化」を論じているリクレフズ&フィンチの『老化』(日本では1995年の出版)では、例としてアカシカ、アホウドリ、アメリカカケス、イタチムシ、ショウジョウバエ、ミツバチ、メバル等が登場するものの、霊長類は皆無です。

 ここでいくつかの疑問が湧くかもしれません。まず、霊長類では「老化」の研究は無視されがちなのでしょうか? そしてそれには何か理由があるのか、それともたんなる見落とし、手落ちなのか?

 おそらく一番大きな原因は、サルの加齢が(カーペンターらの思惑を超えて)意外に長かった、ということかもしれません。確実な年齢が判明しているサルの老化を調べるためには、研究開始から20年待たねばならない。それならば、寿命が2年半のマウス(ハツカネズミ)や、さらに待ちきれなければ2か月のショウジョウバエを使った方がよほど研究が進み、論文の数も稼げるかもしれません。研究者というのは京都弁でいうところの“イラチ”、じっくりと待つのは苦手なのです。

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 冗談はさておき、私がサルを観察しだした嵐山では1954年の餌付け以来、21年が過ぎ、最初に生まれたサルたちがそろそろ老境に差し掛かりだす頃でした。つまり、ニホンザルについて「老い」をようやく扱えるようになりかけていた時期だったのです。

 以下、そこで見た“老い”を具体的に説明しようと思いますが、以下の記述はほとんどメスが中心になります。これは、ニホンザル等ではオスは生まれた群れを離れて、移籍を繰り返しながら成長するので、年齢や履歴が追いにくいためです(後で述べるように、チンパンジーでは逆ですが)。

 さて、昔、まだ大学院生だった頃、嵐山の野猿公苑で調査していると、お客さんに質問を受けることがありましたが、その中でも「何歳からオトナなんですか?」という問がありました。直球返しにすれば、「それではあなたは、ヒトは何歳からオトナとお考えですか?」というものでしょう(もちろん、そんな相手の顔をつぶすような発言をしたことはありませんが)。

 その頃は「何歳から高齢者なのですか?」と聞かれたことはありませんでしたが、現在のサル山ならば、あるかもしれませんね。それでは人は何歳から高齢者なのでしょう? というのが「老いについて考える1」ですね。

 それならば、サルはいつから老境に入るのか? それは子供を産むこと(=繁殖)から身を引いた時ということになります。もっとも、サルでもチンパンジーでも、子供が幼いうちに母親が死ぬとその子も死ぬことが多い。つまり、「最後に産んだ子供が母親から自立して生き延びれるようになる(ニホンザルならば生後1.5~2年程度)」までとなります。

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 ここでミノ婆さんに話をもどしましょう。彼女は1966年には嵐山群の分裂のきっかけをつくった「メスガシラ」でもったのですが、最後の出産は25歳です。最後の子が1.5歳に達した時点で(そこまで生き延びれば、母親が死んでも、子供が生き残る可能性が高い)繁殖が終了したとみなすと、26.5歳~33歳の6.5年間が繁殖にかかわらない「後繁殖期」(PRLS:post-reproductive life span)にあたります。これは彼女の寿命の約20%です。

 もっとも、これは人為的な餌付けによる栄養条件が影響している。可能性がある。そこで屋久島の野生の群れで調べると、やはり何頭かのメスは最後の出産後、子供を産まぬまま生きていました。もっとも、嵐山に比較するとやはり短い。そうすると、ニホンザルのメスにおいての「老い」はヒトの女性の閉経期に比べると、やはりずいぶん短いということになりそうです。

 ちなみに、嵐山のメスを見ていると、出産しなくなったメスも発情して、交尾することがよくあります。ただし、妊娠しません。これをまとめると、ニホンザルのメスの「繁殖」と「性」と「生」の終焉には、意外に複雑で、以下のような諸段階を減るようです。
(1)出産率が急減するが、性(発情)は維持する=20~25歳=老化の進行
(2)出産が停止するが、性(発情)は維持する=繁殖の停止と後繁殖期の始まり(22歳以降)
(3)性(発情)が停止する=真の閉経27歳頃)
(4)「生」が停まる=死
 たぶん、繁殖にかかわる諸機能は徐々にアナログ的に減衰していく(これが老化です)。そして、20歳前後に老化が劇的に進んで、結果として出産しない=繁殖の終了というデジタル的な結果に結びつく。しかし、ヒトの女性に比肩しうる閉経は、死の直前にならないと訪れない、ということかもしれません。
 長いようで、意外に短い。6年だと33歳の人生のうちの2割弱です。ヒトの女性では、初潮を15歳、閉経を50歳として、100歳まで生き残ると老後は50%に達します。やはり、「老い」はヒトに特有とまではいかないが、非常に目立った現象と言えるのかもしれません。

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 それでは、オスも少し紹介しましょう。コドモのDNAからどのオスが子供を作ったかはある程度わかります。すると、オスがどの年齢で子供を作っているかもわかります。すると、嵐山では12~17歳で子供をつくることが多く、高齢のオスは(高順位でも)子供を残していないようです。これはやはり「老化」のあらわれかもしれません。

 一方、「老いた」サルはどうふるまうか? これも基本的にはメスを中心にお話しましょう。大阪大学の中道さん(19999)は、(1)20歳を超えたメスは活動性が減る。(2)他個体との距離でも、独りでいる時間が長くなる。(3)毛づくろい等は一方的にうけるだけで、他個体を毛づくろいすることが少ないとしています。例えば、(4)末娘と長時間を過ごすことが多いが、(5)孫の養育への関与も少ない。したがって、Grandmother Effect(「ヒトでは、お婆さんは自分で繁殖せず、娘の子育てを支援する、という機能を発達させることで、老人が生まれたという学説)は期待薄である、というのが一般的な特徴だと言うのです。すると、後繁殖期にいるからといって、ヒトの“お婆さん”を連想させるほどではないのかもしれません。ということで、今回はこのあたりで to be continuedとします。

ツル植物をめぐる様々な関係Part 1:アフリカの森で木が倒れる時

2020 7/13 総合政策学部の皆さんへ 今日の話は“ツル植物”をめぐる生物間の関係です(つまりは生態学です)。

 今からもう35年も前のことになってしまいましたが、私が東アフリカのタンザニア連合共和国西部、タンガニイカ湖畔のマハレという場所で、国立公園建設という名目で国際協力事業団(当時、現在の国際協力機構;JICA)の派遣専門家として滞在していた頃の話です。

 マハレでは1年は5月半ばから10月半ばごろまで続く乾季と、10月半ばから5月はじめ頃まで続く雨季の二つの季節に分かれます。乾期は5か月間ほど、ほとんど雨が降りません。その間、川の水はだんだんと減り、下流から上流に向かって徐々に枯れていきます。流れがとまり、水たまりで泳ぐ小魚たちはやがて取り残されて、干からびてしまう、そんな世界です。一方、雨季は雨が降り続きます。多い年には年間2200mmほどが降ります(ちなみに、三田の降水量は1,239.9mmに過ぎません)。

 したがって、7か月間に多いとしては三田のほぼ倍の雨が降る。乾季はとことん乾ききってしまい「まるで心まで干からびる」感じなのですが、雨季は逆にとことんジメジメして「脳味噌までカビてしまう」感じです。

 そんな雨季に、チンパンジーを探して森の中を切り開いた観察路を歩いていると、毎日のように「ドスーン」という、近くで聞けば地響きのような音が聞こえてきます。それは巨木が倒れる音なのです。

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 どうしたことかというと、アフリカの雨林ではいたるところで、様々なツル植物が巨木にまとわりついています。光合成に必要な光を求めて、彼らは巨木にまとわりつき、しがみつくことで巨木の樹冠をさらに覆うように葉を広げようとしています。彼らは光を求めて、一種の“ずる”をしているとも言えるでしょう。

木本性つる植物は巻き付く、貼り付くなどして周囲の樹木等(ホスト)に取り付き、その樹木に自重支持を依存しながら成長する。樹木では自重を支えながら高く成長するため茎肥大に大きな資源投資を必要とするのに対し、つる植物の成長様式はその分の資源を茎伸長と葉量増加へと振り分け、よって資源を効率良く用いて生育空間と光合成生産を拡大する戦略である。

 この戦略は、光競争の激しい環境で優占する上で、あるいは生産性の低い林内環境で成長を維持する上で大きな利点となる一方で、常にホストを獲得する必要があり、ホストが枯死した時に巻き添えを受ける等の制約を受ける。長期的には必ずしも効率の良い個体成長を可能にするわけではなく、さらに地面まで完全に落下するリスクも内包する不安定な成長様式とも言える」(Wikipedia「つる植物」)

 こうしたツルはどんどん太くなり、かなりの直径になる場合もあります。また、葉もいっぱいに広げます。雨季、そこに雨が降ると、濡れることでツルや葉はずっしりと重くなり、何本もまとわりつかれるとそれは馬鹿にならない重さになります。また、あまりに巻き付かれると、樹冠がツル植物の葉で覆われて、せっかく、隣の巨木に負けまいとして数十mの高さまで伸びたのに、樹勢が衰えることも珍しくない。

 また、熱帯雨林の巨木の根は温帯の樹々と違って、地中にあまり深く伸びず、むしろ、地表を覆うように横に広がります。つまり、。これは熱帯雨林では物質循環が早く、地表下にあまり土ができないことも関係しているでしょう。熱帯では地層が貧弱なため、土台が必ずしもしっかりしていません。

 こうしたわけで、雨季になると樹勢の衰えやツル植物の重さの故か、巨木が突然倒れてしまうことが珍しくなるなるわけです。調査者としての私にとっては、こうした巨木がしばしば観察路にほぼ覆いかぶさるように倒れることが多いのです。その場合は、せっかく伐ったばかりの道が何十mもわたって、巨木とそれに絡みつくツル植物で完全に埋まってしまうことになります。

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 それにしても、上記のように「常にホストを獲得する必要があり、ホストが枯死した時に巻き添えを受ける等の制約を受ける」リスクにさらされる人生を“愚か”と思われるかもしれません。大昔、高校時代に、古典の文例で松平定信(実は、私はこの人が苦手ですが)が、藤か何かを例にあげて、その虚しさをたしなめている文章を読んだ記憶がかすかにあります(あまりに昔のことゆえ、他の人の文章かもしれませんが、いまは確かめる術がありません)。

 これも植物による戦略に潜むベネフィットとコスト/リスクのバランスというべきかもしれません。他の木(=ホスト)に絡みつくことで、低コストで利益を上げながら、相手の樹勢を弱らせ、まるで無理心中のように文字通り“共倒れ”になってしまう! やはり、定信君でなくても、皆さんはこんなことをしないようにね、と言いたくなるところです。

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 その一方で、こうした巨木の死は多くの生を目覚めさせます。巨木が倒れた後に、樹冠に出現する“ギャップ”によって、林床まで光が届くや、それまで数十年にもわたって隠忍自重してきた埋土種子等が一斉に成長を開始するのです。

 もちろん、その後に展開するのは成長し始めた若木同士の熾烈な競争であり、やがて生き残った少数の個体だけが光を求めてさらに成長していくことになりますが、それがいわゆるギャップダイナミクス、「森林が、部分的に壊れては遷移することを繰り返し、全体としては極相の状態を維持する」(Wikipedia)ことにつながっていくのです。

ビゴーの絵をもとに、日本の近代化を学ぼう!

2020 5/18 総合政策学部の皆さんへ

 その昔、ジョルジュ・フェルディナン・ビゴー(Georges Ferdinand Bigot, 1860~1927)という画家がいました。生まれはフランス、1882~1889年に日本に滞在、“優れた”風刺漫画を描き残します。

 この“優れた”とは、人類学的目線=「他者からの視点で、己の真実を知る」作品を意味していると思って下さい。ノーベル賞作家スタインベックの親友にして、傑作『キャナリー・ロウ』の主人公ドックのモデルにして海洋生態学者のE・リケッツが裁判沙汰に巻き込まれ、裁判所での審判の帰りにスタインベックに言った「みんな真実を憎んでいるんだ!」というセリフにあるように、本当はみんな気づきたくない己の真実の姿(それはギリシャ悲劇の登場人物メドゥーサの顔=「宝石のように輝く目を持ち、見たものを石に変える能力を持つ」(Wikipedia)のようなものですが)、それを示してくれる傑作というべきでしょう。

 もちろん、ビゴーによって「西洋人の目線から見た日本人の姿」を突き付けられた日本人にとって、それはあまり楽しいものではないかもしれません(もちろん、我々自身も、真実が嫌いなのです。真実を突き付けられた者は、私でもあなたでも、それがまるでメデューサの首であるかのように、視線を避けてしまう。あるいは、トランプ君のように怒り出す!!)。

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 それではWebでビゴーの絵を鑑賞できる手軽なサイトを探してみましょう。

 なかなかきちんとした紹介が見つからなかったのですが、川崎市民ミュージアムの「漫画コレクション」(http://kawasaki.iri-project.org/)に「『TOBAE』トバエ(第二次)ジョルジュ・ビゴー」というページがあり、ここにビゴーの主著の一つ『TOBAE』のNo.1、No.3~18、そしてNo.21が載っています。

 なお、解説文ではTOBAEとは「1887(明治20)年2月15日、ジョルジュ・ビゴー(Georges Bigot)が、横浜居留地で創刊した月2回刊行の時局諷刺漫画雑誌。チャールズ・ワーグマンの『ジャパン・パンチ』のあとをうけて、居留外国人に人気を博した。全号の表紙にピエロ姿のビゴー像が描かれている。月2回刊行で、3年弱の間、69号まで刊行された」と紹介されています。

 ところで、居留フランス人向けに出版されたTOBAEですが、「中江兆民とその門弟も協力して日本語のキャプションを付けていた」ので(Wikipedia)、日本人に対するメッセージ性もある程度意識していたのでしょう。

例えば、TOBAE(第二次)No.1は「制作年(西暦):1887年2月15日:創刊号。 収録作品「漁夫の利」 朝鮮を釣り上げようとしている日本と清国、スキあれば横取りしようとするロシアという構図で、日清戦争直前の極東情勢を諷刺している。ビゴー作品の中で最も有名な作品で、中学校・高校の歴史教科書や参考書などで紹介されている」とあります。皆さんもどこかで眼にしたはずのビゴーのカリカチュア、URLはhttp://kawasaki.iri-project.org/content/?doi=0447544/01800000HKです。あとは、ご自分でじっくりとこのカリカチュア(戯画)の神髄を味わってください。

 TOBAE創刊から10年後の1897年を描いた『『LE JAPON EN 1897』(1897年の日本)』も公開されており、「『神戸ヘラルド』『ジャパン・デイリー・メール』などの記事から、この1年間の珍しい話を漫画風にまとめた本。「日光物語」は英文、ほかの記事は仏文で書かれている」とのこと(http://kawasaki.iri-project.org/content/?doi=0447544/01800000HF)。

 さらにもう一つ、『LES AVENTURES DU CAPITAINE goudzougoudzou』(グズグズ大尉の色事)は同じ1897年ですが、説明文によると「好色なフランス人・グズグズ大尉が退役して日本へやってくる。しかし、その好色ぶりで失敗を繰り返し、失意のうちに帰国する、という物語が描かれている」。なにやら異国に滞在している自分自身を皮肉っているようにも見えないわけではありません。

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 川崎市民ミュージアムのアーカイブには、同じビゴーの『Croquis Japonais』(1886年)も掲載されています。こちらに掲載の絵は風俗画という範疇で、歴史学的には興味深い資料ですが、その昔、服部之総等が再発見して、日本の教科書類を席巻した風刺画の類はほとんどないようです。

 このあたり、画家ビゴーとしては日本をテーマとして風俗画と、時局的な戯画とどちらに個人的な重きを置いていたのか、そのあたりが気になるところです。

 なお、ビゴーの日本滞在は1882年1月(21歳)から始まり、1899年6月(39歳)に日本で結婚した佐野マスと離婚し、フランス国籍の長男を連れてフランスに帰国しています。彼の日本滞在後半とほぼ重なる時期に、フランスを離れて異郷の地で死んだ芸術家にポール・ゴーギャンがいます。彼のタヒチ滞在は1890年に始まり、いったんフランスに帰国するものの、再度タヒチに渡り、1903年、マルキーズ諸島で客死します。

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 ビゴーの作品、とくにそのカリカチュア的に表現された日本人像は日本人には嫌われ、あるいは無視されたため、その再評価は第2次世界大戦での敗戦を経て、マルクス主義歴史学者の服部之総主催の近代史研究会が日本の近現代史を取り上げる時まで待たねばなりません。そして、この研究会以降、ビゴーの絵は外国人から見た近代日本像として、戦前での一貫した無視をちゃぶ台返しをし、日本の教科書をいまも席巻しているのです。

 こうした本人ならびにその作品の数奇な運命を意識しつつ、その作品を日本の近代化の理解にあらためて役立てることこそ、総合政策にそうテーマかもしれません。

青べか物語にみるフィールドワーカーの苦悩と原罪:高畑ゼミの100冊#28

2020 5/15 総合政策学部の皆さんへ

 その昔、山本周五郎という文士がいました。Wikipediaでは「作風は時代小説、特に市井に生きる庶民や名も無き流れ者を描いた作品で本領を示す。また、伊達騒動に材を求めた『樅ノ木は残った』や、由井正雪を主人公とした『正雪記』などの歴史小説にも優れたものがある」とあります。本名清水三十六、1903年生まれで1967年死去、享年63歳。

 さて、山本が遺した作品のなかに『青べか物語』という逸品があります。文庫で出版している新潮社のHPでは「根戸川の下流にある浦粕という漁師町を訪れた私は、沖の百万坪と呼ばれる風景が気に入り、このうらぶれた町に住み着く。言葉巧みにボロ舟「青べか」を買わされ、やがて“蒸気河岸の先生”と呼ばれ、親しまれる。貧しく素朴だが、常識外れの狡猾さと愉快さを併せ持つ人々。その豊かな日々を、巧妙な筆致で描く自伝的小説の傑作」とあります。

 この“浦粕”とは、いまやTDL/TDRで日本はおろか、アジア一円に知られる浦安市です。あまりにもあからさまで、ほとんど匿名とは言えないぐらいですが、この「貧しく素朴だが、常識外れの狡猾さと愉快さを併せ持つ人々」を“巧妙”に描くことは、描かれた方々からすれば、あまり面白くないことかもしれない=これが今回のテーマであり、フィールドワークを志す方にはぜひ肝に銘じてほしいところなのです。

 調べてみたら、青べか物語はなんと『青空文庫』にはいっているのですね。以下の文章にご関心があれば、皆さん、ぜひ、ご照覧下さい。総合政策的視点でも、様々なインスピレーションをあたえてくるかもしれません(青空文庫『青べか物語』)。

 ちなみに、こうした「貧しく素朴だが、常識外れの狡猾さと愉快さを併せ持つ人々」を描いた傑作としてはほかにも後述するきだみのるの『気違い部落周游紀行』や、スタインベックの『キャナリー・ロウ』をあげておきましょう。あるいは、ツルゲーネフの『猟人日記』もあげておきたいところです。

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 さて、学生の皆さんは授業でフィールドワークを学び、いろんな場所で実践されるかもしれません。その際、覚えておいていただきたいことがあります。

 それは、フィールドワーカーが研究終了後に、応えなければいけない対象があることです。それは言うまでもなく、研究の対象とされた人々へのご報告です。人類学という業界ではすでに多くの批判がよせられていることですが、多くの研究報告や基づいた著作は先進国の言葉で書かれ、現地で情報を提供してくれたインフォーマントはおろか、現地の人々に読まれることさえ期待されていない、という状態が長年続きました。つまり、先進国あるいは知識階級による“情報”の搾取、独占です。

 イギリスの下層階級の子供たちを活写したポール・ウィリスの傑作『ハマータウンの野郎ども:学校への反抗・労働への順応』でも、“野郎ども”がウィリスの調査結果を眼にしたのか、文章だけでは読み取れません。したがって、一見、理想的な参与観察であるかのようなウィリスと彼らの関係も、旧来の“文明と未開”の構図とさして異ならないかもしれのです。

 あるいは、これは私自身の実見ではなく、他の方からの伝聞ですが、ある離島で訪れた学生の人がその島の良さをしきりに称揚していると、それを聞いていた島の人が静かに「では、あなたは、この島に住みますか?」とつぶやいたところ、その場が一気に凍り付いてしまった、とのことでした。余所者がどういおうと、そこでの暮らしについてはなかなかに言い尽くせぬ感慨と言い分があるはずです。

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 この点、描かれた人たちからの視線が絶えず基調低音として感じられ、さらには作者の含羞・とまどい・不安がさりげなく表されているのが、この『青べか物語』です。

 作中で“浦粕”と呼ばれる漁師町の細緻なルポルタージュとも言えるこの作品の後半で、作者は浦粕から脱出後8年目、ある作品の主人公、留さんに出くわします。すでに留さんの「頭があったかい」所業を小説に書いてしまった作者は当惑するのですが、当の留さんは「おら(その小説を)宝にするだ」と羞かみ笑いをうかべて去っていきます。

 そして、さらに20数年後、再び浦粕を訪れた作者はまるで“罰”を受けるかのように、町の誰もが自分を覚えていないことに直面して(読者とともに)とまどいます。この結末の背景に浮かぶ作者の表情には、フィールドワーカーが感じるある種の苦味に通じるものが漂っていたかもしれません。

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 同じような“罰”を被った例がきだみのるかもしれません。パリ大学で社会学・人類学を学んだ後、第二次大戦中から戦後にかけて一山村にすみついた彼が著した『気違い部落周遊紀行』はベストセラーになりますが、その内容は村人たちからの反感を買い、「地元では「気違い」扱いへの反撥が激しく、きだに鎌を振りかざして寺からの立ち退きを迫った」(Wikipedia)とのことです。

 さて、冨山百科文庫版のあとがきに、きだの子息である山田彝が印象的な話を記しています。この『紀行』の本文にも登場するカッシングという民族学者は、かつてネイティブ・アメリカンのズニを知るため、彼らとともに暮らす。ズニたちはカッシングを「彼らの心を完全に理解した人」として受け入れ、やがて彼を“弓の祭司”に任命する。それ以後、カッシングはズニのことを何一つ外へは語らなくなってしまう[きだみのる、1981:249]。

 この寓話めいたこの話が事実かどうかの詮索は、どうでもよいかもしれません。ただ、この話を聞かされたフィールドワーカーはふっとため息をつきます、できもせぬ理想を説かれた後でわが身を省みるように。

 20世紀を代表するフランスの知識人レヴェ=ストロースが説く“人類学者の祖”としてのルソーの原点に返るのならば、“我々”と“彼ら”の出会いによって、どちらも気がつかなかったものに気づき、それを共有することこそ望ましいことと言えるのかもしれません。

サルやヒトにとっての“外なる海”と“内なる海”

2020 4/11 総合政策学部の皆さんへ

 以下の文は、日本のナショナル・トラスト運動の草分け、天神崎の自然を大切にする会の会報『天神崎だより』に掲載した記事の再録に加筆したものです。

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 今回執筆させていただく会員の高畑です。少しだけ自己紹介すると、専門はサルやチンパンジー等の霊長類学・生態学です。ずいぶん昔に白浜や徳島県の鳴門周辺でウニや潮間帯の巻貝等を多少調べたこと以外は、海にあまり縁がない研究生活を送ってきました。そこで、今回はサル等の哺乳類にとっての海をとりあげ、“外なる海”と“内なる海”というテーマでお話します。

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 サルや類人猿にとって、自分の身体の外にある“外なる海”、あるいは大河等は活動を妨げる障害物にほかなりません。霊長類の祖先はいまからおよそ6500万年前、樹上生活に進出することで進化を始めました(それには色々理由があるはずですが、ここではパスします)。その後、ずいぶん時代が下ってヒヒやニホンザル、そしてチンパンジーなどが再び地上をよく利用するようになるまで、ずっと樹上での暮らしに適応していました。

 そのためもあってか、たとえ地上におりても、どちらかといえば水は苦手です。とくにチンパンジーなどは極端なまでに水に触れることを嫌がります。もちろん、泳ぐことなどもってのほかです。川から直接水を飲もうとする際も、本当におっかなびっくり、手も濡らさないように用心します。ですから、海や大河を越えるなどできようはずもありません。これが霊長類にとっての“外なる海”となります。

 なかには、チンパンジーとその近縁種であるボノボ(ピグミーチンパンジー)のように、中央アフリカを流れる大河、コンゴ河によって隔てられることで、種分化してしまった例まであります。

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 もうお気づきでしょうが、この“嫌水病”とでもいうべき状況を、いつの頃からかはわかりませんが、克服したのが我々ヒトの先祖です。いつしかベーリング海峡等を越え、さらには太平洋等の離島にまで進出します。こうして復活した海とのつきあいは、私たちに豊かな恵みをもたらします。

 その象徴が、例えば、縄文時代の貝塚です。生態学的には、とくに河口や沿岸では、川によって内陸部からの栄養塩類が流れ込み、とても豊かな生態系が形成されます。これを利用しない手はありません。同時に、水上交通はヒトの移動を大きく助けました。舟あるいは筏等が手に入れば、障害物どころか、むしろ交通路と変わります。

 上記のコンゴ河も、いったんカヌーを手に入れれば、障害物どころかアフリカ奥地を行き来する水路に変身しますが、探検家スタンレーのアフリカ横断の旅の後は、奴隷商人たちの跋扈の手段とも変わってしまいます。ちなみに、スタンレーはその後の帝国主義的行動(コンゴ自由国建設と「エミン・パシャ救出」等)で様々に非難されていますが、なかには「トリパノソーマ症の感染地域拡大についても責任を問われている」そうです。コロナ・ウィルスが広がっている今、身につまされるような経歴とも言えるでしょう。

 ところで、ヒト以外に、ニホンザル等ごく少数ですが、海岸に出てくるサルもいます。そこで海の恵みに気づく者もでてくるかもしれません。事実、宮城県の金華山や、宮崎県の幸島のような島に棲むニホンザルのなかに海藻やカサガイ、タコ等に手をつける者も現れています。私自身は屋久島での調査が長かったのですが、残念ながら、そこでは海岸まで降りて岩場で休憩することはあっても、波打ち際まではおりません。屋久島では切り立った断崖状の海岸ばかりなので、海辺まで近づく気になれないのかもしれません。ヤクシマザルにとっては、海はあいかわらず越えられない、また利用できない障害物のままです。

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 それでは、“内なる海”とは何でしょうか?

 それは私たちの身体を流れる血液です。およそ4億年前に陸上に進出した動物たちは、体内環境維持のため、身体に当時の海水の元素組成とほぼ同じ血液を循環させるようになったという話があります。

 もし、これが本当ならば、私たち一人一人は身体のなかに“内なる海”を持っていると言えないわけではありません。その一方で、その成分の維持のため、私たちは塩類を必要とします。これがどんなに重要かは、例えば、上杉謙信の「敵に塩を送る」の故事などを思い起こせばよいでしょう。

 それでは、ヒト以外の野生動物はどうでしょうか? すでに「塩を考える-過剰と不足:食についてPart.17」で触れたことですが、今を去る30年ほど前、ODAの末端現場で、JICAの派遣専門家として、東アフリカのタンザニア、マハレ山塊国立公園に滞在していた時のことです。帝政ロシア時代、「猟師がシカを捕るため、森に塩の袋を置き、舐めに来るシカを待ち伏せて撃っていたのを、皇帝が残酷だと禁止した」といううろ覚えの話を思い出したて、住んでいる小屋の庇の下に板をおいて、そこにこんもり(現地の市場で売っている)岩塩を盛ってみました。すると、なんと数日後には野生のカモシカがあらわれ、それまで小屋に近寄りさえしなかったのに、塩をなめ始めたのには驚きました。それまで岩塩など見たことも、口にしたこともないはずなのに、どうして気づいたのか? 謎です。

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 いずれにしても、私たちヒトも含む陸上動物にとって、“内なる海”=血液の組成を維持するためには、塩分を必要としていることに間違いないのです。

新入生の皆さんに向けて:トラベル・ライターは何をきっかけとして旅行記を書いたのか?

2018 8/13 総合政策学部の皆さん、とくに新入生の皆さんへ

 今回は『基礎演習ハンドブック』初版から、現在の改訂版からは削除されたコラム「新入生の方々へ 旅行記の世界~未知の世界へのいざない~」を再録・補足しながら、皆さんに未知の世界への誘いと旅行記の勧めをお送りします。

 さて、古来、旅をした人はその見聞を他者にも分かちあいたいという不思議な情熱に憑かれます。古典では、古代ギリシャの哲学者ソクラテスの弟子でありながら、傭兵としてペルシャに遠征、敗れて逃げ帰ったクセノフォンが記す『アナバシス』、ヴェネツィアの商人マルコ・ポーロの『東方見聞録』、モロッコから中国まで旅した中世イスラームの旅行家イブン=バットゥータの『三大陸周遊記』、人類初の世界周航を志しながらフィリッピンで戦死するマゼランの部下として、幸運にもスペインまで帰り着くことができた18人の一人、アントニオ・ピガフェッタが書き残した『マガリャンイス最初の世界一周航海』等があげられるでしょう。

 とくに欧米で生まれた旅行記の多くは、ヨーロッパ人が“未開”の地を訪れ、“未開人/野蛮人”に触れるというパターンで展開します。しかし、ヨーロッパ人たちはやがて、ひょっとして、“野蛮人たち”の方が堕落したヨーロッパ人より“高貴”ではないのか、という疑いにとらわれます。この怖れは18世紀のフランス百科全書派のドゥ二・ディドロが著した『ブーガンヴィル航海記補遺』から、南太平洋の小島の首長ツイアビの演説と伝えられるヨーロッパ的な価値観への異議申し立ての書『パパラギ』など、今日まで続きます。

 こうした視点で、19世紀、開国直後の日本を訪れた外国人たちによる“日本旅行記もの”、例えば、1878年に日本人通訳一人(通訳行の先駆者伊藤鶴吉)をつれただけで、女性として初めて東北~北海道を旅行したイザベラ・バードの『日本奥地紀行』と、江戸末期、御庭番より出世して万延元年(1860年)、日米修好通商条約批准書交換使節副使として渡米、異国の風情に素直な感想をもらす村垣淡路守の『遣米使日記』を読み比べるのも一興かもしれません。トロイ遺跡を発掘したハインリッヒ・シュリーマンもまた、発掘前の世界一周旅行で来日、記録を残しています(『シュリーマン旅行記清国・日本』)。

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 さて、これらの旅行記作家、今時でいうトラベル・ライターはどのような動機やきっかけで記録を残したのでしょうか?

 一つのパターンは、彼らが旅行を振り返る口述を筆記者が書き取るスタイルがあります。もちろん、聞き取り者がなみなみならぬ興味にかられて記録した場合もあれば、権力者(為政者)の指示によって記録が残った場合もある。もちろん、たまたま記録が残ったケースも含めて、様々です。

 例えば、『東方見聞録』はマルコ・ポーロの口述をイタリア人小説家のルスティケロ・ダ・ピサが、ピサとジェノバの両海洋都市国家間の戦争で、捕虜として獄中でしりあった時に採録編纂した旅行記とのことです。一方、『三大陸周遊記』は、モロッコを支配していたマリーン朝の首長が、30年にも及ぶ大旅行をおこなったイブン・バットゥータに命じて、口述を記載したものです。江戸時代半ば、484日間におよぶ漂流の末、英国船に救助されて紆余曲折の末、日本に帰還できた尾張藩の船頭重吉の『船長(ふなおさ)日記』は、新城藩(現愛知県新城市)家老・国学者の池田寛親による口述筆記です。

 一方、“記録者”として、最初から“書き残す”ことを意識しながら、大旅行に同行した者もいます。その典型がマジェランの大航海に同行したピガフェッタで、かれは旅行後にローマ教皇から体験記の出版を勧められ、“Relazione del Primo Viaggio Intorno Al Mondo”(『マガリャンイス最初の世界一周航海』)をロードス騎士団長リダランへの書簡の体裁で著した、とのことです(Wikipedia)。

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 そして、近代、“仕事”としてのトラベル・ライター、しかも女性旅行ライター(Victorian Lady Trabeler)として未踏の道を切り開き、最終的にはあのイギリス外務省からも貴重な情報提供者として遇されるに至った(そして、今思えば、文明批評家の風韻さえ帯びる)イザベラ・バードは実は病弱を理由に(イギリスから国外への)転地療法を受けたのがきっかけで、25歳で『英国女性の見たアメリカ』を、さらに44歳の時に旅先から故郷の妹に送った手紙を整理する形で『ハワイ諸島の6ヵ月間』を出版し、47歳では北米を経由して日本奥地を旅行(もちろん、外国人女性単身の日本旅行は空前のこと)、48歳で『一夫人のロッキー山中生活』を、49歳で『日本奥地紀行』を出版します(その年、手紙を送っていた最愛の妹が死亡)。その後、68歳で『揚子江とその奥地』を出版、72歳でなくなります。

 こうしてバードは個人的旅行者からやがて積極的なトラベル・ライターへの道を開拓していくのですが、その延長線上にやがて世界中を旅した植物画家マリアンヌ・ノース、中東の権威ともなった「砂漠の女王」ガートルード・ベル(彼女がアラビアのロレンスことT.E.ロレンスの指摘を無視したことが、現在のクルド問題につながったともいわれています;Wikipedia)、西アフリカを広く踏破したメアリ・キングスレーらへとつながっていきます。

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 さて、現代では旅行記も単純ではありません。もはや、“未開”の土地もなく、彼我の価値観の上下も定からない現代にあって、皆さんにお薦めの金字塔としてフランスの構造主義人類学者クロード・レヴィ=ストロースの『悲しき南回帰線』、スペイン内戦に自らまきこまれていく(アンガージュしていく)作家ジョージ・オーウェルのルポルタージュ文学の傑作『カタロニア賛歌』、動物園のために西アフリカに採集旅行を敢行する動物コレクターのジェラルド・ダレルの『積み過ぎた箱船』等がお薦めです。

 さらに日本人の作品では、武田百合子が夫の作家武田泰淳とともに旧ソ連を旅する『犬が星見た』、高度成長期の若者の好奇心が炸裂する小田実『なんでも見てやろう』、小田の10数年後にインドのデリーからロンドンまでバスの旅をたどる沢木耕太郎の『深夜特急』等をあげておきたいと思います。総合政策学部の皆さんも、是非、様々な土地に行き、そこの人々と交わり、そこでの経験を他の皆さんに伝えて下さい。

なにゆえに、今津線はほぼ直線か? 小林一三と阪急文化圏、そして関西学院Part3

2017 12/25 総合政策学部の皆さんへ

 話のネタとして、“関西学院と小林一三”、尽きることがありません。「鉄道を起点とした都市開発、流通事業を一体的に進め、六甲山麓の高級住宅地、温泉、遊園地、野球場、学校法人関西学院等の高等教育機関の沿線誘致など、日本最初の田園都市構想実現と共に、それらを電鉄に連動させ相乗効果を上げる私鉄経営モデルの原型を独自に作り上げた(Wikipedia)」という彼の業績を振り返ると、つくづく大した方だと思います。

 そこで、本日とりあげるのは関学上ケ原キャンパスにもなじみ深い今津線(というよりも、この今津線隆盛のため、多額の赤字をかぶっても1929年の関学上ケ原移転になみなみならぬ情熱を傾けた小林です)、移転当時は西宝線です(西宮-宝塚というわけですね。その後、今津駅まで延伸して、今津線になります。この時、西宮北口駅で“平面交差(ダイヤモンドクロス)”が生じますが、それはまた別の機会に)。

 有川浩の小説『阪急電車』の舞台となり、2011年には映画化もされたこの路線ですが、Webで見つけた明治44(1911)年の西宮市の地図にはまったく載っていません。それどころか、その周囲には田んぼばかりで、市街も存在しない。文字通り“武庫の平野”に田園が広がり、そこをつききるのは旧西国街道(現在の国道171号線がほぼ平行に走っています)ぐらいなものです。そこに宝塚から西宮まで、ほぼ直線に延びる宝塚線。その直線性の秘密です。

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 阪急電鉄の前身が1907年設立の箕面有馬電気鉄道だったことはよく知られていますが、営業開始は1910年3月10日、現在の宝塚本線(梅田-宝塚)と箕面線(石橋-箕面)でした。その宝塚線は能勢街道沿いにルート選択、そのためカーブの連続で、現在に至るもスピードアップが困難ということが知られています。また、駅の間隔がつまっていて、特急などの高速運転に不適なため、基本は急行での運行です。

 1907年、東京の三井銀行から関西に転じ、当初は証券会社をめざすも挫折した小林一三は、この宝塚線(当時は、周辺に家もなく、田畑を縫うように走る「ミミズ電車」というあまりありがたくない徒名までついていました)の経営について、沿線土地をあらかじめ買収、宅地造成月賦販売による「乗客の創造」をおこなったことはつとにしられていますが、同時に、線路を直進させることの重要性もまた身にしみて感じたに違いありません。

 そのためか、西宝線(現、今津線)はこちらも当時はほとんど家がなかった武庫川右岸を宝塚からほぼまっすぐ南下、西宮で神戸線にほぼ直角に交わる形で接続したのでしょう。また、これ以前に手がけた1920年開業の神戸本線(梅田から当時は神戸駅とした旧上筒井駅=原田の森キャンパスそば)もまた、ほぼ直線的な路線になっています。

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 さて、現在、上ヶ原キャンパスの学生の多くが乗り降りする甲東園駅は1921年の開業当初は存在せず、1922年にこの付近に果樹園を経営していた大地主芝川氏からの土地提供により新設されたものです(ちなみに“甲東”とは、甲山から見て東という意味で、1889年に合併した時の命名とのこと)。仁川駅はさらに遅れて、1923年の開業になりますが、当時、下流から上流にかけて展開中だった武庫川改修が関係します。

 兵庫県の「武庫川水系河川整備計画(平成23年8月)」によれば、「武庫川下流部において築堤、河床掘削などの本格的な改修が始まったのは、大正9年である。阪神国道(現国道2号)の工事に関連して県が改修に踏み切り、第1期工事として大正9年から大正12年にかけて東海道線以南の約5kmを改修した。費用は、武庫川の派川である枝川、申川の廃川敷の売却益を充当したものである。第2期工事は、大正13年から昭和3年にかけて、東海道線から逆瀬川までの約8kmで行われた」とありますが、甲東園・仁川両駅の開設とほぼ同期していることはおわかりになるはずです。

 ちなみに、上記の文中、「枝川、申川の廃川敷」とある一部には甲子園球場が建っています。また、仁川・武庫川の合流点の改修は同時に、武庫川右岸に広大な敷地を出現させ、そこに進出した企業に当時の川西航空機(現新明和工業)があります。第2次世界大戦が始まった翌年の1940年12月に当時の良元村に建設決定、1941年5月に工場建設を開始し、日本が対英米戦に踏み切る12月に操業を開始します。実は、関西学院では1944年10月に勤労動員課を新設して、兵庫県三原郡陸軍飛行場設営工事、三菱電機神戸工場、日本パイプ園田工場と並んで、この川西航空機宝塚工場などにも学生を送り込んでいます。

 こうして武庫川改修とともに、阪急西宝線が開通、さらに関西学院(1929年)や神戸女学院(1933年)などの移転も加わり、現在の武庫川周辺の住宅地域が形成されます。このあたり、阪急の歴史、住宅地開発の歴史とあわせて、関学の歴史としても覚えて置いて下さい。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...