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名前の由来Part1:世界は“名前”に満ちています

2021 9/22 総合政策学部の皆さんへ 世界は“名前”に満ちています。

 Wikipediaの「名前」では、「すべての事象には名がある。我々は先ずその対象に名前を付ける。そのためには対象の概念を明確にし、またそれ以外の事象との区別を持たなければならない」と指摘しています。このように、近代文明では半ば脅迫観念のように、「名前」を求めます。そして、「名前」を知らされると、とりあえず安心する。例えば、山歩きをしていて目にした花が「コバノミツバツツジ」であって、「モチツツジ」ではない、ということを教えてもらえば、何か分かった気持ちになるかもしれません。

 もっとも、それだけでは何の進展もないのかもしれません。Wikipediaの「名前」の執筆者は賢明にも「覚える行為に価値があるのではなく、名前を覚えることで、それまでどれも同じに見えていたものの区別がつくようになるからである」と指摘します。とくに、近代科学では「分類」がすべての基本でした。それもすべての人が理解可能で共通な名前が。生物学ではその象徴が“学名”です。

 例えば、日本で「松上の鶴」などと形容されることもあるコウノトリと、ヨーロッパで「赤ん坊をくちばしに下げて運んでくる」とされる“コウノトリ”は同じ種か? 遺伝子レベルで調べてみると、この2種は遺伝的差異があり、分類学の鼻祖リンネが1753年の『植物種誌』で植物を対象に提唱した学名では、前者はCiconia boyciana、後者はCiconia ciconiaという学名が付けられています。なお、学名は属名+種小名の二名法からなっています。これはいわばヒトの氏名=名字(苗字)+個人名のようなもので、種がおかれている位置を系統(=属名)とその種の特徴(=種小名)で表しているわけです。

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 一方で、日本語においても、一つの生き物に複数の名前を付けていることも珍しくありません。典型的ケースはメダカで、分類学的にはダツ目メダカ科メダカ属(学名 Oryzias)に属する種の総称ですが、日本各地で「短いものでは「メ」「ウキ」から始まり、長いものでは「オキンチョコバイ」「カンカンビイチャコ」」まで、実に4680の名前で呼ばれており、こうした地方的な方言名を「方名」と呼びます。それに対して学名にほぼ対応する形で日本語として統一した名称が標準和名です。

 実は、近年まで日本にはメダカ一種(Oryzias latipes)だと考えられていました(なお、中国・台湾等ではチュウゴクメダカ Oryzias sinensis、タイではタイメダカOryzias minutillus、インドではインドメダカOryzias dancenaが生息しているとのことです)。しかし、最近はDNA解析等でOryzias sakaizumii(標準和名としてキタノメダカ)とOryzias latipes(ミナミメダカ)に分けるように提案されているとのことです。

 また、一つの生き物が成長段階(発達段階)で名前を変えることもあり、その典型がブリなどの出世魚です。ブリの場合、モジャコ(6~7cm)→ワカシ(15 cm くらい)→イナダ(40 cm)→ワラサ(60 cm)→ブリ(90 cm)が標準とされますが、こちらも関東ではワカシ → イナダ → ワラサ → ブリ、関西ではツバス → ハマチ → メジロ → ブリと変わるとのことです。とは言えば、標準和名・学名ではブリ・Seriola quinqueradiataで統一されることになります。

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 あるいは、化学の世界では「原子番号11の元素、およびその単体金属」を日本では一般に“ナトリウム”と呼んでいますが、これは「天然炭酸ソーダを意味するギリシャ語の νίτρον、あるいはラテン語の natron(ナトロン)に由来するといわれている」とのことです(Wikipedia「ナトリウム」)。

 一方、英語圏では同じラテン語起源ながら“ナトリウム”とは呼ばずに、“ソディウム( sodium )”と呼ばれています。「工業分野では(特に化合物中において)ソーダ(曹達)と呼ばれている」のはこれが原因なのでしょう。「水酸化ナトリウム」を工業製品としては「苛性ソーダ」と呼ぶわけです。

 また、万国共通であるはずの元素記号としてはドイツ語から“NA”と名付けられているので、かなりややこしいことになる。つまりは、近代化学が発展するなかで、デ・ファクト・スタンダードとして成立してきたわけです。

 さらに別の例では、日本では“ガソリン”と呼ばれる物質は、イギリス英語では“ペトロ―ル”になったりします(アメリカ英語では“ガソリン”なのですが、さらに略されて“ガス”になります)。昔、東アフリカのタンザニアで3年暮らした時には、旧イギリス統治下にあったため、スワヒリ語風に語尾の音が若干異なる“ペトローリ”と言わなければ通じないのに若干戸惑いました。ちなみに、灯油はイギリス英語圏ではパラフィンオイル(Paraffin oil)で、こちらも固形物質のパラフィンを連想して戸惑ったものです。一方で、スワヒリ語では“Mafuta ya taa”、直訳すると文字通り“灯りの油=灯油”でした。

 いずれにしても、グローバル社会におけるコミュニケーションで「名は大事」なのは共通ですから、皆さんも気を付けましょう。

集まりの諸相~ヒトとサルのマイクロ・デモグラフィー4~

2021 8/3 総合政策学部の皆さんへ

皆さんは生き物が集まることについて、「どうしてある生物は集まるのに、別の生物は散らばっていたりするのか?」、疑問に思ったことはありませんか? これは生態学者にとって大きなテーマの一つでした。もちろん、そこにはきちんとした理由がありそうです! ついでに言えば、ヒトがなぜ集まるのか? あるいはなぜ散らばるのかにも、それなりに理由がありそうです。

例えば、コロナウィルスによって「三密禁止」、すなわち「集まらないように!」というお達しがあるのも、そしてこのお達しがなかなか守られないことも、生物としてのヒトの性質を考えれば、それなりに理由があることなのかもしれません。

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 さて、生き物にとって集まったり、散らばったりすることに意味があるのか?

実は、生態学においては、個体の分布パターンは古くから大きなテーマの一つでした。教科書風に単純化すれば、(1)個体同士が反発も誘引もしない“ランダム(機会)分布”、(2)個体同士が反発して互いに距離を置く結果、等間隔で位置取りしたりする一様分布、そして(3)互いに誘引される集中分布に分かれます。

(1)の場合は、集まることにも散らばることにも意味はなく、サイコロを転がした結果のように“たまたま”そこにいる、という分布パターンです。と、ここまで書いてみると、そんな生き物っているのか? という疑問もわいてきます。高校生物に関連したHPではランダム分布の例として、「稲のニカメイガの卵塊数や池のオタマジャクシ」があげられていますが、どんなもんでしょうか? タンポポはKSCのそばにも分布しているので、ちょっと調べてみても悪くないかもしれません。

 ちなみに、KSC周辺では、キャンパスも含むニュータウンには外来種セイヨウタンポポが、ニュータウンの下の田園地帯には在来種カンサイタンポポが、そして一部には同じ在来種でより温暖な地域に多いシロバナタンポポが分布しています(さらに言えば、どうやらセイヨウタンポポと在来種の雑種も混じっている可能性があります)。

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 一方、一様分布とは、互いに干渉しあうため、個体(あるいはペア等)同士が互いに一定の距離を持って分布するようなパターンです。よく知られている例としては、アユのナワバリがあげられます。

このナワバリは「アユは春に川をさかのぼり、中流に達すると、岩の上の珪藻類を削り取って食べる生活にはいる。このとき、川の中程に一定の縄張りを作り、縄張りに侵入する他のアユがあると、体当たりで追い出そうとする。これを利用して、生きたアユに針を仕掛けて放流し、縄張りに侵入させて、体当たりしてくる縄張り持ちのアユを引っかけるのが友釣りである」(Wikipedia「縄張り」)。したがって、「友釣り」ではなく、「ライバル釣り」とでも言うべきかもしれません。

アユのナワバリ等はごく単純に、自分が活きるための餌を確保するという機能を果たしています。一方、ナワバリの機能としてはもう一つ、繁殖相手の確保というタイプもあります。例えばKSCでも春先によくさえずっている小鳥のホオジロでは、1ヘクタールほどのナワバリを作りますが、これはオスが番の相手=メスの獲得することと、その後の子育てに必要な餌(トリは哺乳類と違ってミルクを分泌しないので[ピジョンミルク等の例外がありますが]、孵化したヒナには虫などを与えねばなりません)の確保という2重の機能を持っています。

こうして日本の川はアユが、里山はホオジロがそれぞれナワバリを作り、その結果、アユもホオジロ(のペア)も等間隔で並んでいることになります(カラスも子育て中はペアでナワバリを作りますが、私は昔鳴門教育大学にいた時にカラスのナワバリをちょっとだけ研究したことがあります)。

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 生態学では、生物の個体が集まっていることを集中分布と呼びます。もちろん、この集中が形成される過程は一様ではありません。例えば、マングローブというのは「熱帯および亜熱帯地域の河口汽水域の塩性湿地にて、植物群落や森林を形成する常緑の高木や低木の総称」(Wikipedia)ですが、この“密集”は生息条件によってたまたま集まっただけなのかもしれません。

同じように生息条件によって密集するものに、潮間帯生物群集があります(その昔、鳴門教育大学に勤めていた時に、少しだけかじってみました)。例えば、潮間帯の岸壁等に密集するフジツボですが、彼らは潮位が低い深い場所では、カキ等の大型貝類に覆われて死んでしまったり(もちろん、カキに悪意があるわけではありません。しかし、身体が大きくなる過程で、周囲のフジツボ類に覆いかかり、結果的に死に至らしめるのです)、イボニシ等の肉食性巻き貝によって捕食されてしまう(ちなみに、イボニシ等は多数の歯舌と穿孔腺と呼ばれる器官から分泌される酸によって、動かないフジツボの殻に穴をあけていく=まるで銀行強盗が分厚い金庫をドリルで開けるようなものです)。

それでは、カキやイボニシが襲ってこない高潮位の場所、つまり海面から高い場所に逃げればよいではないかと思えば、そこは干潮時の高温と乾燥に耐えられない。第一、そこでは満潮時にもあまり海水をかぶらず、したがって、餌にあまりありつけない。こうして環境条件(温度、湿度、餌条件)と種間関係(多種に覆い隠されるか、食われてしまうか)の兼ね合いで、フジツボの分布は“フジツボ帯”という帯状分布を示すことになります。

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 ちなみに、日本の海岸では、高潮位側から、(1)潮上帯(タマキビ類など)、(2)上部潮間帯(イワフジツボ類)、(2)中部潮間帯(タテジマフジツボ・シロスジフジツボ、カキ等)、(4)下部潮間帯(ムラサキイガイ等)等に分けられます。

その一方で、植物でよくみられるように雌雄同体のフジツボは、自らのペニスが届く範囲に同種個体が存在していないと繁殖が難しいのです。第一、成体のフジツボは、トーチカのような殻に身を潜めて乾燥・捕食から身を守りますが、しかし、それは移動能力をあきらめるということです。このため、異性を探していどうできない。

おそらくはこの移動できないという性質が雌雄同体をうみだしたのでしょう。つまり、環境条件で同種のフジツボが密集する可能性が高ければ、雌雄同体であることで、隣合わせの個体が互いに異性個体の役目を果たす。このためにも、彼ら/彼女ら(雌雄同体ですから、このどちらでもあるのです)は着生ホルモン等で同種の幼生を誘引すると言われています。

というあたりで、ひとまず、to be continuedとしましょう。

生き物にとって動くこととは?~ヒトとサルのマイクロ・デモグラフィー3~

2021 6/14 総合政策学部の皆さんへ

 生き物にとって、生存競争を勝ち残るのはなかなか大変なことです。種によっては、“動くこと”にあわせて自らの姿形も変えてしまう者もいる。その典型例はサバクトビバッタでしょう。

 バッタ目バッタ科に属するこの種はオスが4~5cm、メスが5~6cmで、別属のトノサマバッタに似た形態をしていますが、個体密度が高まると色が緑色から黄色/黒がかってきて、翅の長さに比して体長が短くなり、大群をつくるようなります。ふだんの状態を“孤独相”と呼ぶのに対して、こうした大群を形成するまでになった状態を“群生相”と呼びます。これが“相変異”です。

 この孤独相から群生相への変化はある種の正のフィードバックとも言えます。集まることによって互いに(フェロモン等で)刺激しあって、形態も変わっていく。それがさらに過密さを高めて、個体群全体が群生相へと変わり、やがて本来の生息地以外の場所に侵攻していく。これが以下のように旧約聖書に出てくる飛蝗・蝗害です(なお、以下の文章おでは“いなご”と表現されているのがバッタです。日本に生息するイナゴは相変異をしないので、この点はご注意下さい)。

  • 12 主はモーセに言われた、「あなたの手をエジプトの地の上にさし伸べて、エジプトの地にいなごをのぼらせ、地のすべての青物、すなわち、雹が打ち残したものを、ことごとく食べさせなさい」。
  • 13 そこでモーセはエジプトの地の上に、つえをさし伸べたので、主は終日、終夜、東風を地に吹かせられた。朝となって、東風は、いなごを運んできた。
  • 14 いなごはエジプト全国にのぞみ、エジプトの全領土にとどまり、その数がはなはだ多く、このようないなごは前にもなく、また後にもないであろう。
  • 15 いなごは地の全面をおおったので、地は暗くなった。そして地のすべての青物と、雹の打ち残した木の実を、ことごとく食べたので、エジプト全国にわたって、木にも畑の青物にも、緑の物とては何も残らなかった。
  • 16 そこで、パロは、急いでモーセとアロンを召して言った、「わたしは、あなたがたの神、主に対し、また、あなたがたに対して罪を犯しました。
  • 17 それで、どうか、もう一度だけ、わたしの罪をゆるしてください。そしてあなたがたの神、主に祈願して、ただ、この死をわたしから離れさせてください」。
  • 18 そこで彼はパロのところから出て、主に祈願したので、
  • 19 主は、はなはだ強い西風に変らせ、いなごを吹き上げて、これを紅海に追いやられたので、エジプト全土には一つのいなごも残らなかった。(旧約聖書出エジプト記第10章)

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 私自身はアフリカ本土では出会ったことがありませんが、マダガスカルでは飛蝗を数回見かけました。無数のバッタが日の光のなかで、翅をきらきら輝かせながら風に乗って飛んできて、イネ科の草を音をたてて食べつくし、また風にのって去っていく姿は非常に印象的でした。もっとも、そこで観察していたワオキツネザル等は欣喜雀躍、おいしそうに食べていました。

 実は、日本のトノサマバッタも、サバクトビバッタほどではないにせよ大群を作ることが知られており、その際には相変異が見られるそうです。明治時代に北海道開拓がはじまった頃には、入植者の畑をさんざん荒らしたことが知られています。

 中国でも古くから知られ、「殷の甲骨文にも蝗害の記録が見られる。また、周の詩篇『詩経』にもバッタ駆除の様子が書かれている。漢代になると記録が増え、紀元前175年(文帝6年)を始めとして、漢書、後漢書には20回以上もの蝗害の記録があり、後漢の思想家王充や官僚の蔡邕も自書の中で蝗害について述べている」(Wikipedia)。

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 一方で、この大発生では、移動先で定着することはほとんどなく、死に絶えるのがふつうとされます。つまり、“動く”ことはいずれは死に絶えることになります。もちろん、まったくたまたまであろうが、運よく、新しい好適な生息地を見つけることもあるかもしれないが、圧倒的大多数は死んでいく、ということになります。

 こうした大発生→移動→死というパターンは、黄海から潮流で日本に流れ着くエチゼンクラゲや、黒潮で流されてくるも日本沿海では越冬できない死滅回遊魚(チョウチョウウオ等)にも共通します。

 それにしても「死滅回遊魚」とは、なんとも凄まじい言葉ですが、Wikipediaにあるように「回遊性を持たない動物が、海流や気流に乗って本来の分布域ではない地方までやって来ることがある。これらは回遊性がないゆえに本来の分布域へ戻る力を持たず、生息の条件が悪くなった場合は死滅するので、死滅回遊と呼ばれる」ことで、「夏の本州沿岸では、本来熱帯・亜熱帯の海域に分布するチョウチョウウオ類やスズメダイ類などが見られる。これらは日本の夏を過ごすことはできても、冬の水温低下などにより死滅することになる」。

 もっとも、長い進化の歴史の中では、「無駄死ににもみえるが、もし海の向こうに生息に適した場所があれば定着し、新たな分布域を広げることができるので、全くの無駄死にではない。また、気候変動や海流の流路の変動があれば、それまで死滅していた地域で新たに定着できる可能性もある」ということです。

 サバクトビバッタも同様にせっかく進出した新天地で死滅を繰り返すわけですが、考えてみれば、そこに居ついてもらうと世界中に蝗害が広がるわけなのです。

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 ヒトでも近世日本では、相続が期待できない次男以下の男性が青雲の志を抱きつつ江戸等に上がったものの、江戸での男女比の偏りや感染症・火事等の災害のため、多くは子を残せず死んでいった。しかし、失われた人口は新たな若者たちでまた埋め合わされるという“アリ地獄”的光景が展開していました(速水 2001)。

「老い」を考える4:“定年”についてその1」で触れた『江戸奉公人の心得帖:呉服商白木屋の日常』に出てくる、10数歳で近江から江戸に連れられてくる若者たちも、江戸の大店で奉公する限り、結婚もできず、江戸で病いにかかってそのままなくなれば、まさに「死滅回遊魚」と同じことになってしまう。しかし、店にとっては(あるいはアリジゴク都市江戸にとっては)新しい若者を田舎から連れてくるだけである、という現実が回転している。そんな世界です(中世から近代化するパリ、ロンドンでも同じことが起きていましたし、現在の第三世界の都市でも同様です=ヒューマン・エコロジーですね)。

「老い」を考える4:“定年”についてその1

2021 4/29 総合政策学部の皆さんへ

 ヒトにとっての「老い」を考えると、例えば、「定年」あるいは「停年」という日本語があります。我々にとってはきわめて日常的な言葉なのですが、これは歴史が浅い言葉、つまり、明治のいわゆる近代化が始まった頃までしか遡れない言葉だと思って下さい。

 そこで、例によってGoogle Scholarで先行研究を調べると、柳澤武(2016)「高年齢者雇用の法政策─歴史と展望」『日本労働研究雑誌』には以下の記載があります。

日本の定年制度の起源は,1870 年代にまで遡ることができるとの説もみられるが,明確な記録に残っているものとしては 1887 年制定の海軍火薬製造所の規定が挙げられる。同規定の25条は「職工ハ年齢満55ヲ停年トシ此期ニ至ル者ハ服役ヲ解ク。但満期ニ至ルモ技業熟練且身体強壮ニシテ其職ニ堪ユル者ハ,年限ヲ定メ服役ヲ命スルコトアルヘシ」と定め,原則として55歳を定年退職としつつも,「技業熟練」かつ「身体強壮」であれば雇用延長されていた。2年後には,横須賀海軍工廠も造船所傭職工解傭規則により50歳の定年制度を定めており,「技術抜群」など特別の場合には再雇用を行う旨の例外規定が存在した。これら海軍関係の工場から日本の定年制度が始まったのは,いち早く退職金(恩給や退隠料)を支給する制度を整えていたことが理由の一つであろう。少し遅れて,1890 年には「官吏恩給法」により公務員にも退職金が適用されるようになったのが,こちらも強制的な退職とは結びついておらず,あくまで退職金の支給要件に過ぎなかった

 つまりはまだ130年ほどしか経っていない制度なのです。それでは、この近代的定年制度以前は、その頃の皆さん=私たちの先祖様はどうしていたのでしょう? 考えたことはありますか?

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 さて、「定年」的な考え方はどこまで遡れるのか?

 まず、「致仕」という言葉をご存じでしょうか? Wikipediaによれば、「致仕(ちし/ちじ・致事)とは、官職を退いて引退すること。君主に預けた身体の返却を願うと言う意味により、俗に「骸骨を乞う」とも称した」。そして、「日本の律令法では数え年の70歳以上になった官人は致仕を申し出ることが出来た(これに対して70歳を待たず病気その他で官を退く事を辞官と称した)」とあります。

 この致仕ですが実に大宝律令(701年)・養老律令(757年)についての解説書である「令義解」の「選叙令宮人致仕条」に、「凡官人年七十以上。聴致仕。五位 以上 々表。六位 以下申牒官奏軌」(官人は年齢70歳以上になれば、致仕(=定年退職)を許可する。五位以上の場合は上表する(=天皇に文書を奉る)こと。六位以下の場合は、太政官に申告して奏聞すること;『現代語訳「養老令」全三十編』)とあります。

日本律令国家における 「老女」 に関する研究」(渡部育子、2004)という論文では「この条文は役 人が官職を退く際の手続 きに関する規定である(大宝令では 「官」は5位以上か以下かという位階によって手続きは異なるが、退職する年齢は70歳である。令集解所引の古記では、分番の官にも適用されると説明していることから、この条文は官人全般 にわたって適用されたものと考えられる」、としています。つまり、70歳過ぎると自分の意志で退職できる、とはいえ強制ではないということになります。

なお、律令における庶民への課役減免や救済措置 についての年齢規定として「老」という概念があり、男性では 60歳とされます。そこで渡部は 70歳 という年齢 は どの よ うな意味を もっていたのか とい うことで あるが、課役減免や給侍 は税 制 の問題 と密接 にかかわることで あり、 「老」 には法律用語 としての意味が あった のに対 し、官人の定年ともいえる 70歳 とい う年齢 は、 日常生活 レベルで判 断 され る老人、す なわち可視的 に 「年老 いた人」 とい う意味があるのではないか と考 え られ る」と分析しています。

もちろん、職務によっては年齢の上限にも差が生じる場合もあり、渡部は「一般的 に官人の退職 には、前 に見た選叙令官人致仕条の 70歳という年齢がひとつの目安となったわけであるが、兵衛のように武官的職務で宮内の宿直すなわち夜勤も通常の勤務に組み込まれるというような場合には、身体 的理由だけで60歳という年齢が示される。 この60歳という年齢は、一般庶 民の力役賦課においても最も重い負担を強いられる年齢の上限であり、軍役においても60歳に達した者は免除されることになっている。このように大宝 ・養老令の規定には実務に支障をきたさないよう、在職年齢の上限 をきめ細やかに定 めていたのである」としています。

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 それでは、江戸時代はどうだったのでしょう?

 一例をあげれば、尾張藩御畳奉行を務めながら奇書『鸚鵡籠中記』を書き残したことで知られる朝日文左衛門重章は、元禄7年(1694)12月に父定衛門重村の跡目をついで、ご城代組御本丸御番に任じられますが、実際には、この家督相続はなかなかすんなりいけませんでした(神阪次郎『元禄御畳奉行の日記』)。江戸時代は幕府によって、家督=家父長制における家長権の相続制度が確立し、嫡子単独相続が確立しています(Wikipedia「家督)。その場合相続は「先代の死亡にともなう相続の場合を跡目相続、先代の隠居による場合を家督相続と呼び分け」られます。文左衛門の場合、父は存命なので、父が隠居しないと就職できません。ところが父は「隠居」をいやがり、親類一同の説得にあい、しぶしぶ家督をゆずることになります。

 つまり、一定の年齢によって家督を交替させる「定年」が定められていないので、父親がまた生きている場合は、父の意思(=何歳で隠居生活にはいるか)によって子供の就活時期が左右されてしまうのです。ちなみに、文左衛門はなんとか跡目を継いだものの、その後の長年の「酒毒」がたたって享年45歳で(=現役中)に死亡、子供は二人とも娘であったため、親族から養子を迎えますが、病弱のため死亡、朝日家は断絶します。こうして定年制が定められていないため、旗本等ではしばしば80歳以上まで致仕せず、仕事をつ続けていた者がいた、とも別の本で読んだ記憶があります。

 ちなみに、17歳で御徒見習いとして幕府御家人になりながら、狂歌等で人気作家として名をはせた太田七左衛門こと太田南畝は(狂歌のペンネームとしては、蜀山人、玉川漁翁、石楠齋、杏花園、遠櫻主人、巴人亭、風鈴山人、四方山人)、天明7年(1787)の寛政の改革以降、狂歌の筆を擱いて「学問吟味登科済」を受け、勘定支配に出世します。一方で、退職したくともなかなか進まず、Wikipediaによれば「文化9年(1812)、息子の定吉が支配勘定見習として召しだされるも、心気を患って失職。(南畝は)自身の隠居を諦め働き続けた。文政6年(1823)、登城の道での転倒が元で死去。75歳」とのことです。

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 当然、商家はどうなっているのか? とお考えの方もいるでしょう。油井宏子『江戸奉公人の心得帖:呉服商白木屋の日常』から少し紹介しましょう。

 まず、白木屋ですが「東京都中央区日本橋一丁目に存在した江戸三大呉服店のひとつで、かつ日本の百貨店の先駆的存在のひとつである。江戸時代から昭和にかけて営業し、1967年に東急百貨店に買収され、商号・店名ともに「東急百貨店日本橋店」へと改称した。その後、1999年1月31日に閉店、336年の歴史に幕を閉じた」(Wikipedia)。この店には「白木屋文書」という一連の古文書が残され、そこから奉公人たちのライフヒストリーが見えてくる、というわけです(tこの白木屋文書ですが、東京の国立博物館で展示されているのを見た記憶があります)。

 なお、奉公人は男ばかり、そして基本は京都の本店採用、そのほとんどが近江人(一部、京都)、これは初代大村彦太郎が近江長浜生まれだったが故です。

 多くの奉公人は11~12歳で採用され(その多くは次男、三男)、春に集団で江戸下りします。基本的に元服前(つまり、成人前)、江戸店についたころは「こども」等と呼ばれ、15歳で元服しますが、当然、入店2年目あたりで脱落者(店から脱走、病気、各種の種々の問題をおこしての退職)が多発します。元服が済むと「若衆」と呼ばれます。つまり、年功序列のコースに乗るわけです。なお、給料がでるのは元服後、つまり「こども」時代は無給のようです。

 故郷に帰ることができるのは実に上京9年目のことで、それが「初登り」と称されます。50日間ののぼりが過ぎて首尾よく江戸に戻ると(勤務が評価されなかれば、そのまま解雇されてしまうこともあったようです)、今度は「手代」に昇進する。次ののぼりが16年目の「中登り」、そして22年めの「三度登り」、この「登り」を経るごとに昇進していく。そういうシステムだったようです。もちろん、平手代→小頭役→年寄り役→支配役というのぼるにつれて、人数も減っていくのは現代の会社の昇進のシステムとも共通しています(なお、江戸時代の大店では、中途採用はないとのこと)。

 それでは退職者はというと、勤続年数によって退職金が定まっていて、「33年間勤務して支配役までつとめた江龍作右衛門が日本橋店を辞め、天保8年6月7日に江戸を出立しました。言わば、支店長の退職であり、作右衛門には銀110匁の最上級の白紬一疋と銀60匁の生絹1疋が送られています」とあります。なお、日本橋店を辞めると、病気でも円満退職でも、再び雇用されることはなかったとのこと)。

 33年間の勤務となると、江龍作右衛門は44歳か45歳ということになります。もちろん、この当時は平均年齢も短かったでしょうから(人生50年の頃ですから)、隠居するにしても、それほど長生きできなかったかもしれません。そして、江龍のような退職者が出れば、その代わりにまた若い者たちが採用されていく、それが江戸での雇用システムの根幹だったわけです。

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 逆に、(太田南畝はうまくいかなかったわけですが)早めに次世代にバトンタッチをして、あとは公事から身を引き、余生を好きなことで過ごす、という人生もあるわけで、その典型が1745年に上総国の名主の家に生まれ、1762年に婿入りの形で酒造家の伊能家に入り、名主・村方後見として活躍した後、1794年に長男に家を継がせて隠居、50歳以降の人生を日本全図作成にささげた伊能忠敬や、歳40にして弟に家督を譲り、画業に励んだ伊藤若冲等があげられるでしょう。

 ということで、このあたりでto be continuedとしましょう。

分けることと名を付けることPart4:“分けられた”人たち

2020 11/22 今回は、“分けられてしまった”人たちについて紹介しましょう。

 私はかつてタンザニア連合共和国西部のマハレ山塊国立公園で、あわせて3年ばかりをすごしたことがあります。この公園はタンガニーカ湖東岸に半島のように突き出ていますが、この湖の中央にはタンザニアとブルンディザイール(現コンゴ民主共和国)ザンビアを分ける国境が走っています。だから、湖の東岸から私の眼に入る西岸は隣国コンゴ(当時はザイール)なのです。

 ある日の暮れ、湖岸でぼんやりしていたら、なにやらカヌーを漕いできた男が一人、上陸してきたのでのぞき込むと、プラスチックのサンダルが束ねられていて、要するに当時社会主義政策をとって物不足のタンザニアへ、資本主義国から手厚く支援を受けていたザイールから物を売りに来た商人なのですが、考えてみれば国境をまたいできたものの、そこにイミグレーション税関もあるわけはなく、要するに密出入国でありかつ密輸の現場なのです(もちろん、かわいいものですが。ちなみにそのサンダルは香港製でした)。

 さて、この湖面を切り分ける“ボーダー”はもちろん自然のものでも、また民族の違いでもなく(湖岸の両岸でほとんど同一の言語を話しています)、1885年のベルリン会議でドイツ、ベルギー、イギリスの間で分けられものに過ぎず、かつそれ以来、ボーダーが動くことはありません。と言うよりも、このボーダーを下手に動かせば、紛争・暴動を引き起こして、脆弱な国家は崩壊しかねないのです(宮本・松田、1997)。

 ちなみに1960年代のアフリカ諸国の独立ラッシュ後、ヨーロッパ列強の手でいったん策定された国境が変わり、国家が分割された(=ボーダーが引き直された)例は、エリトリアエチオピアから独立戦争を経て独立したケース、そしてアフリカ最大の国家であったスーダンからやはり数度の内戦を経て南スーダンが分離したケースだけです。

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 その一方で、人々の暮らしは昔も今も基本的には変わりません。先ほど紹介したように、カヌーを漕げばタンガニイカ湖を横断することなどわけもない。パスポートを持つ者などいるはずもないから、すべては密出入国にほかならず、いくばくかの商品等を持参すれば密輸です。

 当然、行き来する者たちの間で男女の仲で結ばれることもあります。知り合いのタンザニア人の男性がザイール人の女性と結婚した時のこと、ふとまわりの連中に
「あの二人の子供は、いったいどちらの国籍になるのだね?」と尋ねると、
「病院で産んだら出生証明書をくれるから、最近は病院で産むことが多いけど、タンザニアの病院で産めばタンザニア人に、ザイールで産めばザイール人になる」としごくのんびりした答えが返ってきて、妙に納得したものです。どちらの国にも戸籍などなく、人々は近年まで自分の生まれ年(したがって年齢も)さえ知らなかったのです(蛇足ながら、戸籍とは世界の中でも日本、韓国、台湾等に限られた特殊なものです)。

 こうした光景は、近代国家以前の、“国境”があいまいだった頃に比べれば、あたりまえのことでした。しかし、1885年にベルリンで締結された条約にもとづけば、彼らの動きは立派な不法行為なのかもしれません。なによりも、近代国家は運営にお金がかかり(ニューヨークの国連に大使を派遣するだけでも、アフリカの一般民衆からすれば気が遠くなるような経費が必要)、そのためには税金をとりたてなければいけない。とすれば、“国民”の勝手な行動を制約し、彼ら(=我々)を囲い込もうとするのはある意味必然というべきかもしれません。

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 その上で、民族とは何で決まるのか=どんな基準で“分ける”のか? という難題が残ります。民族は「文化の伝統を共有することによって歴史的に形成され、同属意識をもつ人々の集団」とされています(『広辞苑』第四版)。そして一般的な理解では文化≒言語の共有が民族の形成に欠かせないとされます。

 とは言え、現実には簡単ではありません。例えば、“ユダヤ民族”では、母語はラディーノ語イディッシュ語など多数の言語に分かれます。すると、ユダヤ民族は単一の人種/民族というよりも、むしろユダヤ教という宗教で結びついた社会集団と言うべきかもしれません。

 さらに、誰が分けるのか? アフリカでは、植民地時代に先住民を“部族”に分割することが多かったことが知られています。ところが、この“部族”は必ずしも実態をともなったものではなく、植民地政府の恣意的な措置であった場合も多い(宮本・松田、1997)。その一方で、この“創られた伝統”がいつしか政治/社会的実態をおび、後年の“部族主義(トライバリズム)”を助長させ、“民族/部族紛争”に発展した例も少なくないのです。

 とくに植民地政府がしばしば採用した“分割統治”は、“集団”に“実体性”をもたらし、しばしば政治集団に再編成をおこない、結果として紛争や戦争の原因となりました(例えば、ナイジェリアでのビアフラ戦争等)。

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 さて、“民族集団”自体は数十年、数百年の単位で発生、分散、消滅、統合、再編成されることもめずらしくありません。

 たとえば、私が3年間ほどつきあっていたトングウェは、タンザニアで認められている120近い“民族”のうちの一つです。先ほども触れたマハレ山塊国立公園の周辺、面積にしておよそ2万平方キロばかりのトングウェ・ランドに2万人ほどが住んでおり、コンゴ・コルドファン語族のニャムウェジ語系のトングウェ語を話しています。とはいえ、こうした弱小語は共通語(タンザニアの場合はスワヒリ語)の普及(学校教育およびラジオ放送)で、消滅の危機にあります。

 それでは、トングゥエの人々は何時からトングゥエなのでしょう? この地で40年近くチンパンジーの研究を続けた西田利貞は調査の初期に、書き言葉を持たず、伝承世界に生きている彼らに聞き込みをおこなっています(西田、1973)。その結果、彼らの父系をたどるとおよそ7,8世代、つまり150~200年ほど前まで遡れますが、それは対岸のコンゴ出身の祖先に行きあたるのです。しかも、複数の民族に分かれるということです。

 それ以上はすべて推測でしかありませんが、複数の民族の出身者が何らかの理由で湖の東岸に移動し、紛争と融合をくり返しながらやがて一つの民族を創出するのは、アフリカではそれほど珍しくことでもないようです。このように民族は語られぬ歴史の中で、次々に生まれてはまた変わっていく存在なのですが(宮本・松田、1997)、それが植民地政府の意向で“部族”という名称で固定化・分類されると、そのこと自体がやがて“部族対立”や“民族紛争”に発展していきかねない、それがアフリカの近代化の一断面とも言えるのです。

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 近代国家としてもっともふさわしい存在は、大革命後に成立した“国民国家(ネーション・ステーツ)”としてのフランスと、政治的思想をバックにした契約国家とも言うべきアメリカ合衆国があげられます。もっとも、アメリカは少し特殊に過ぎるので、前者のフランスをとりあげてみましょう。

 ヨーロッパ史を少しひもとけば、フランスは歴史的にほんの少し前まで文化的にも政治的にもとても単一国家とは言えないものでした。たとえば、現在フランスと呼ばれている地域とその周辺は、かつてフランス王国の他、ブルゴーニュ公国、ブルターニュ公国、ナバール王国など多くの政治権力に分かれていました。

 これらの諸政治権力があるものは統合され(例えば、ブルターニュ公国は最後の女王アンヌとフランス王シャルル8世・ルイ12世の結婚により統合)、また、あるものは(ブルゴーニュ公国のようにブルゴーニュ地方はフランスに吸収されますが、フランドル地方はオランダ・ベルギー等として独立します。

 こうした“小国家”や“地方文化”を最終的に一つの“坩堝”に溶かし込んで“フランス民族”を形成したのが、“フランス革命”の最大の成果であり、ナポレオン戦争で倒れた100万人を筆頭に、膨大な人命の犠牲によって、フランスの輪郭が形作られます。

 それでは、アフリカで成立している国家とはなんでしょうか? 1885年のベルリン会議等によって人工的に分割された植民地は、そのままの形で独立の日を迎えます。そのため、ほとんどが複数民族によるモザイク国家となり、ナショナル・アイデンティティは稀薄か、存在しない(砂野、1997;池野・戸田、1997)。ネーション・ビルディングとは、そうしたモザイク社会の中で、近代的国家を建設することにほかなりません。とはいえ、1967年からのビアフラ戦争、ソマリア(氏族社会への回帰)、コンゴ(統治機構の地域的分解)、エリトリア(宗教等の理由から国家分裂)、ブルンディ・ルワンダ(“民族”間の対立)等、国民的統合(ナショナル・インテグレーション)の進行どころか、国民解体(ナショナル・ディスインテグレーション)的な現象が多く見られています。

 そんななかで、タンザニアという国家はネーション・ビルディングにかなり成功した国ともいえるでしょう。これが3年間、トングゥエたちとつきあっても私の実感です。先にも触れたように100を超える民族から構成されるとされ、ザンジバル島のオマーン系スルタン政権を除けば、19世紀のドイツによる植民地化前に統一された政治勢力はなかったタンザニアで、1961年の独立後、1963年のザンジバルとの統合を経て、スワヒリ文化という複数の文化がまじりあった文化が普及していたことも手伝い、国家的アイデンティティの醸成に成功している1例ともいえます。それは、かつて欧米の手で“分けられていた”人たちが、自らの手で一つのアイデンティティによってまとまろうとする運動でもあるのです。

車内広告の歴史:身近なものからリサーチのテーマを探すPart1

2020 9/29 総合政策学部の皆さんへ 今回は「身近なものからリサーチのテーマを探す」というお題です。そこで取り上げるのは“車内広告”です。とくに電車通学の方は、毎日電車の車内広告を目にしているはずです。それでは、皆さんは車内広告や、駅の構内の広告をテーマにどんなリサーチ・プランを考え付きますか?

 そこで最初の質問です? 今朝、乗ったはずの電車、あるいは降りたはずの駅構内に、どんな広告があったか、覚えていますか? とっさに思い出せる人は意外と少ないかもしれません(過去、基礎演習等で突然尋ねると、たいてい明確な答えが返ってくることはありませんでした)。これでは広告の効果がない、と広告代理店の人は悩むかもしれません。

 ところで、新三田駅のホームに備えられた広告は、まず医療機関か塾・予備校関係が目につきます。これは言うまでもないことですが、ニュータウン=ベッドタウンの乗降駅として、進学を目指す若者層と医療機関に関心をもつ中高齢者をターゲットとしていることではないかと考えられます。

 もし皆さんの中に、将来のキャリアとして広告代理店(電通博報堂アサツー ディ・ケイ(ADK))等をお考えの方がいれば、なかなか興味深いテーマだと思いませんか?

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 さて、ムサシノ広告社という会社のHPに「広告代理店と交通広告の歴史」というコラムが掲載されています(https://www.musashino-ad.co.jp/column/ad_history.html)。この交通広告とは「電車広告・駅広告・バス広告」等を包括した広告カテゴリーのようです。その一部を紹介しましょう。

明治5年、東京の新橋・横浜間に鉄道が開通し、交通網の充実に反映して人々の行動範囲の拡大・移動時間が大幅に短縮されるなど、生活スタイルに大きな変革をもたらしました。 明治11年には、乗り物酔止薬「鎮嘔丹」が初の広告として掲出が許可され(鉄道広告第1号)、中吊り広告などの車内広告、駅ポスターなどの駅広告が次々と誕生してきました。 近年は駅の機能が乗降だけでなく商業施設を兼ねたりと、鉄道の利用形態も様々に進化し、より大型で訴求力の強い駅メディアの開発が続いています。 電車内では、交通広告誕生以来、紙媒体が車内広告の中心となっていましたが、JRのトレインチャンネルをはじめとする車内映像媒体が登場し、広告主からの人気を集めています」

 と少し調べただけでも、レポートのネタになるかもしれません。それにしても、日本の鉄道が新橋駅-横浜駅(現桜木町)駅間で開業したのが明治5年9月12日(西暦1872年10月14日)、その6年後には鉄道広告が登場する。誰がどのように考え付いたのでしょうか?

 次は、明治の文豪夏目漱石の前期三部作最後の作品『』の一節です(東京市電での車内広告だと思われます)。

この日も宗助はともかくもと思って電車へ乗った。(略)頭の上には広告が一面に枠にはめて掛けてあった。宗助は平生これにさえ気がつかなかった。何心なしに一番目のを読んでみると、引越は容易にできますという移転会社の引札であった。(略)宗助は約十分も掛かって凡ての広告を丁寧に三返ほど読み直した。別に行って見ようというものも、買ってみたいと思うものもなかったが(以下、略)」
(東京朝日新聞、明治43年3月4日)

 こちらもまた、現代の皆さんと同様、車内広告に対してはなはだ心もとなそうではあります。

 一方、漱石が今日の“引っ越業者”を、“移転会社”と呼んでいることにも気づきます。明治という時代は、文明開化の展開にあわせ、言葉が急激に変化する時代でもありました。そこにおのずと新旧の言葉が並ぶことも珍しくありません。上記の一節で、漱石は広告と“引札(引き札)”という言葉を使っています。この引き札こそ「江戸、明治、大正時代にかけて、商店、問屋、仲買、製造販売元などの宣伝のために作られた広告チラシ」をさすのですが、やがて「新聞広告の隆盛とともに取って代わられた」(Wikipedia「引き札」)。このように漱石は英文学者兼小説家として、いろいろな言葉を編み出し、取捨選択していく主体でもありました。

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 こうした車内広告に劇的変化をもたらすかもしれない/もたらしつつあるものこそ、ムサシノ広告社のHPにも言及されているトレインチャンネル(JR東日本が首都圏で通勤電車等に設置した液晶ディスプレイによる電子広告)等のデジタルサイネージでしょう。メディア情報学科に関心がある新入生の方には必須の知識です。

 Wikipediaではその特徴を「内蔵記憶装置に多数の表示情報を保持することで必要ならば秒単位で表示内容を切り替えたり動画表示を行うなど、多様な映像広告を展開できる。ネットワーク対応機の場合は、デジタル通信で表示内容をいつでも受信可能である」と表現します。こうした特徴を車内広告で最大限に活かし、新しい車内広告を考えることこそ、皆さんの課題かもしれません。

「老い」を考える3:ヒト以外の霊長類は閉経するか?

2020 8/27 総合政策学部の皆さんへ 「老い」を考える2からの続きです。自然人類学等において、とくに話題になるのは女性の「更年期/閉経」の存在です。ニホンザルのメスには、短いながらも後繁殖期(post-reproductive life span)が見つかりました。それではニホンザルなどより格段にヒトに近縁のチンパンジーではどうでしょう?

 おもしろいことに、同じような基準でチンパンジーについて手持ちの資料を調べてみると、メスたちの最長寿命はおよそ50歳ですが、最後の出産は40歳前後でした。ただし、最後の子供が母の死を乗り越えて生き残ることができるまでニホンザルよりもかなり長く、4年半ほどかかるので、残りは5.5年ほどです。すると人生に占める割合は、ミノ婆さんよりも短くなってしまいます。このように、チンパンジーのメスにとって、後繁殖期は人生にそれほど大きな位置を占めてはおらず、ヒトの老齢期に比すべき「老齢期」という印象はかなり薄という結果になりました。

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 チンパンジーの一生をもう少し詳しく説明しましょう。

 チンパンジーの社会がニホンザル等ともっとも異なる点は、メスが生まれた集団を離れて、別集団に移籍することです。したがって、娘との絆は断ち切られます。一部で生まれた集団に居残るメスもまったくいないわけではないですが、基本は生まれた集団を去る。そうだとすれば、祖母と孫が共存することはなく、Grandmother hypothesisが成り立つ余地がなくなるわけです。

 一方、息子たちも年長のオスのクラスターに組み込まれていくため、母親と息子とのつながりも目立たなくなります。これが、1980年頃に西部タンザニアのマハレ山塊国立公園でチンパンジーを感圧していた頃の私の印象です。

 結果として、老齢のメスはニホンザル以上に孤独がちに見えます。もちろん、生理学的にも明らかに老いが進行し、活動も鈍りがちに見えます。そして、他個体から孤立した存在として、いつの間にか生を終える、これがチンパンジーのメスについての印象です。

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 一方、オスはどうでしょう。彼らは出自集団に残って、オトナのオスのクラスターに入ります。その結果、「父系的」な社会集団が形成されます。そのため、オスの一生を追うことができないわけではありません。

 かつて私が観察していたマハレ山塊国立公園のMグループでは、ようやく最近になって、オスの人生の全体像が見えてきました。彼らは10代前半に母親から離れ、年長のオスたちのクラスターに近づきます。そしてオス同士の間で次第に順位をあげ、最優位の位置(αオスと呼ばれていますが)を占めるのは20~29歳頃が多いということです。その人生の絶頂期が過ぎると、オスはゆるやかな衰退期をたどります。

 例えば、1979~84年に私が観察していた若いオスのカルンデは当時20代前半と推定されましたが、ワカモノオスの筆頭でしたが、ちょっと性格が堅すぎて、果たして出世できるかどうか、私は危ぶんだものです。

 しかし、しばらく身過ぎ世過ぎを重ねるうちに、やや高齢の28~29歳にαオスの座につきます。そして、いったんはその座から転落するも、しぶとく33~34歳にまた復活します。その後は緩やかに順位を下げながらも、50歳前後の老オスとし、オスのグループの中にとどまっていたのです(残念ながら、その後死去)。このように絶頂期が過ぎた後、他のオスとのつきあいを保ちながら、ゆるやかに衰退していくチンパンジーのオスの晩年こそ、生理学的にも、社会学的にもヒトの老齢期に近いものかもしれません。

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 さて、一応、まとめなければなりません。

 これまで紹介してきたように、サルに「老い」があるかと言えば、「老化」があることは間違いありません。しかし、例えばメスの出産率で見るように、「オトナ」として高い出産率を保つ時間は長く、そして、人生のかなり終わりの時期に急速に出生率を落として、短い後繁殖期を迎える。これがおおよその姿のようです。生理学的にも、ヒトの「閉経」に該当する段階まで生き残る個体は、とくに野生状態ではごくわずかです。

 さらに後繁殖期にあるメスでも、他個体との社会的交渉は少なく、陰が薄いことは否めません。ニホンザルではこのように、自らの繁殖を早めにきりあげ、娘の繁殖をサポートすることによって「包括適応度」をあげようというGrandmother hypothesisを積極的に支持する資料は少ないということになります。それはチンパンジーのメスも同様で、娘たちが他集団に移出するため、「老婆」の周りに娘がいることさえ少なく、孤独の陰が濃いのです。

 このような点から、サルの「老い」を扱う研究が少ないのも当然かもしれません。つまり、サルの「老い」は身体の諸器官の急速な老化という現象に集約されがちで、ヒトの社会における「老い」とどう結びつけるべきか、研究者自身もためらってしまうのではないでしょうか。

 その一方で、チンパンジーのオス、あるいはゴリラのオスも同じかと思いますが、人生の半ばで頂点を迎え、あとは徐々に衰えながら、他のメンバーとの社会的つながりも保ちながら、ゆっくりとした「老い」を迎えるオスたちの姿に、「老い」の萌芽を見ることもあるいは可能かもしれません。

「老い」を考える2:サルにおける「老い」

2020 7/16 総合政策学部の皆さんへ 「老い」を考える」の続きです。

 実は、サルを研究する霊長類学では、ごく初期から「老齢/老化/加齢/エイジング」という現象に興味を抱いていました。サルを研究する目的は「ヒトに近いが少し違うこの連中を調べることで、ヒトの本質を探る」ことだという原則からは当然のことでしょう(私自身は、必ずしもこの原則に全面的に賛同するわけではないのですが)。

 研究史を随分昔に遡りましょう。近代的な霊長類学の嚆矢として、1940年代にカリブ海の小島カヨ・サンティアゴにアカゲザルのコロニーを創設した心理学者カーペンターの回顧談には、以下の文章が出てきます。“Smith and Engle were interested in the old aging or senility problem in 1938. This reflected itself in the fact that I brought back 15 extremely old males which we trapped with great difficulty in central India” (Rawlins & Kessler, 1986)。

 つまり、映像フイルムの早回しを観るように、人に比べて老化が早く進むサルを観察すれば、「老い」の進行をより明瞭に理解できるかもshりえない、と考えたのです。もっとも、それでもサルの年齢も結構長い。その後の長年のデータの積み重ねでは、例えば、私が嵐山の野猿公苑で付き合っていた方々のうち、もっとも高齢だったのはミノ(Mino)と名付けられた1957年生まれのメスで、お亡くなりになったのが33歳、その頃には腰がまがり、身体も縮こまっていて、107~108歳まで生きられた双子の姉妹「成田きんさん、蟹江ぎん」を髣髴とさせていました。したがって、ニホンザルの最長寿命はヒトのほぼ3分の1ぐらいかなという塩梅です。

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 それでは、その後の霊長類学に「老い」は重要な位置を占めてきたでしょうか? 実は、一時期はあまり関心が集まりませんでした。例えば、進化生物学的視点から「老化」を論じているリクレフズ&フィンチの『老化』(日本では1995年の出版)では、例としてアカシカ、アホウドリ、アメリカカケス、イタチムシ、ショウジョウバエ、ミツバチ、メバル等が登場するものの、霊長類は皆無です。

 ここでいくつかの疑問が湧くかもしれません。まず、霊長類では「老化」の研究は無視されがちなのでしょうか? そしてそれには何か理由があるのか、それともたんなる見落とし、手落ちなのか?

 おそらく一番大きな原因は、サルの加齢が(カーペンターらの思惑を超えて)意外に長かった、ということかもしれません。確実な年齢が判明しているサルの老化を調べるためには、研究開始から20年待たねばならない。それならば、寿命が2年半のマウス(ハツカネズミ)や、さらに待ちきれなければ2か月のショウジョウバエを使った方がよほど研究が進み、論文の数も稼げるかもしれません。研究者というのは京都弁でいうところの“イラチ”、じっくりと待つのは苦手なのです。

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 冗談はさておき、私がサルを観察しだした嵐山では1954年の餌付け以来、21年が過ぎ、最初に生まれたサルたちがそろそろ老境に差し掛かりだす頃でした。つまり、ニホンザルについて「老い」をようやく扱えるようになりかけていた時期だったのです。

 以下、そこで見た“老い”を具体的に説明しようと思いますが、以下の記述はほとんどメスが中心になります。これは、ニホンザル等ではオスは生まれた群れを離れて、移籍を繰り返しながら成長するので、年齢や履歴が追いにくいためです(後で述べるように、チンパンジーでは逆ですが)。

 さて、昔、まだ大学院生だった頃、嵐山の野猿公苑で調査していると、お客さんに質問を受けることがありましたが、その中でも「何歳からオトナなんですか?」という問がありました。直球返しにすれば、「それではあなたは、ヒトは何歳からオトナとお考えですか?」というものでしょう(もちろん、そんな相手の顔をつぶすような発言をしたことはありませんが)。

 その頃は「何歳から高齢者なのですか?」と聞かれたことはありませんでしたが、現在のサル山ならば、あるかもしれませんね。それでは人は何歳から高齢者なのでしょう? というのが「老いについて考える1」ですね。

 それならば、サルはいつから老境に入るのか? それは子供を産むこと(=繁殖)から身を引いた時ということになります。もっとも、サルでもチンパンジーでも、子供が幼いうちに母親が死ぬとその子も死ぬことが多い。つまり、「最後に産んだ子供が母親から自立して生き延びれるようになる(ニホンザルならば生後1.5~2年程度)」までとなります。

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 ここでミノ婆さんに話をもどしましょう。彼女は1966年には嵐山群の分裂のきっかけをつくった「メスガシラ」でもったのですが、最後の出産は25歳です。最後の子が1.5歳に達した時点で(そこまで生き延びれば、母親が死んでも、子供が生き残る可能性が高い)繁殖が終了したとみなすと、26.5歳~33歳の6.5年間が繁殖にかかわらない「後繁殖期」(PRLS:post-reproductive life span)にあたります。これは彼女の寿命の約20%です。

 もっとも、これは人為的な餌付けによる栄養条件が影響している。可能性がある。そこで屋久島の野生の群れで調べると、やはり何頭かのメスは最後の出産後、子供を産まぬまま生きていました。もっとも、嵐山に比較するとやはり短い。そうすると、ニホンザルのメスにおいての「老い」はヒトの女性の閉経期に比べると、やはりずいぶん短いということになりそうです。

 ちなみに、嵐山のメスを見ていると、出産しなくなったメスも発情して、交尾することがよくあります。ただし、妊娠しません。これをまとめると、ニホンザルのメスの「繁殖」と「性」と「生」の終焉には、意外に複雑で、以下のような諸段階を減るようです。
(1)出産率が急減するが、性(発情)は維持する=20~25歳=老化の進行
(2)出産が停止するが、性(発情)は維持する=繁殖の停止と後繁殖期の始まり(22歳以降)
(3)性(発情)が停止する=真の閉経27歳頃)
(4)「生」が停まる=死
 たぶん、繁殖にかかわる諸機能は徐々にアナログ的に減衰していく(これが老化です)。そして、20歳前後に老化が劇的に進んで、結果として出産しない=繁殖の終了というデジタル的な結果に結びつく。しかし、ヒトの女性に比肩しうる閉経は、死の直前にならないと訪れない、ということかもしれません。
 長いようで、意外に短い。6年だと33歳の人生のうちの2割弱です。ヒトの女性では、初潮を15歳、閉経を50歳として、100歳まで生き残ると老後は50%に達します。やはり、「老い」はヒトに特有とまではいかないが、非常に目立った現象と言えるのかもしれません。

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 それでは、オスも少し紹介しましょう。コドモのDNAからどのオスが子供を作ったかはある程度わかります。すると、オスがどの年齢で子供を作っているかもわかります。すると、嵐山では12~17歳で子供をつくることが多く、高齢のオスは(高順位でも)子供を残していないようです。これはやはり「老化」のあらわれかもしれません。

 一方、「老いた」サルはどうふるまうか? これも基本的にはメスを中心にお話しましょう。大阪大学の中道さん(19999)は、(1)20歳を超えたメスは活動性が減る。(2)他個体との距離でも、独りでいる時間が長くなる。(3)毛づくろい等は一方的にうけるだけで、他個体を毛づくろいすることが少ないとしています。例えば、(4)末娘と長時間を過ごすことが多いが、(5)孫の養育への関与も少ない。したがって、Grandmother Effect(「ヒトでは、お婆さんは自分で繁殖せず、娘の子育てを支援する、という機能を発達させることで、老人が生まれたという学説)は期待薄である、というのが一般的な特徴だと言うのです。すると、後繁殖期にいるからといって、ヒトの“お婆さん”を連想させるほどではないのかもしれません。ということで、今回はこのあたりで to be continuedとします。

ツル植物をめぐる様々な関係Part 1:アフリカの森で木が倒れる時

2020 7/13 総合政策学部の皆さんへ 今日の話は“ツル植物”をめぐる生物間の関係です(つまりは生態学です)。

 今からもう35年も前のことになってしまいましたが、私が東アフリカのタンザニア連合共和国西部、タンガニイカ湖畔のマハレという場所で、国立公園建設という名目で国際協力事業団(当時、現在の国際協力機構;JICA)の派遣専門家として滞在していた頃の話です。

 マハレでは1年は5月半ばから10月半ばごろまで続く乾季と、10月半ばから5月はじめ頃まで続く雨季の二つの季節に分かれます。乾期は5か月間ほど、ほとんど雨が降りません。その間、川の水はだんだんと減り、下流から上流に向かって徐々に枯れていきます。流れがとまり、水たまりで泳ぐ小魚たちはやがて取り残されて、干からびてしまう、そんな世界です。一方、雨季は雨が降り続きます。多い年には年間2200mmほどが降ります(ちなみに、三田の降水量は1,239.9mmに過ぎません)。

 したがって、7か月間に多いとしては三田のほぼ倍の雨が降る。乾季はとことん乾ききってしまい「まるで心まで干からびる」感じなのですが、雨季は逆にとことんジメジメして「脳味噌までカビてしまう」感じです。

 そんな雨季に、チンパンジーを探して森の中を切り開いた観察路を歩いていると、毎日のように「ドスーン」という、近くで聞けば地響きのような音が聞こえてきます。それは巨木が倒れる音なのです。

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 どうしたことかというと、アフリカの雨林ではいたるところで、様々なツル植物が巨木にまとわりついています。光合成に必要な光を求めて、彼らは巨木にまとわりつき、しがみつくことで巨木の樹冠をさらに覆うように葉を広げようとしています。彼らは光を求めて、一種の“ずる”をしているとも言えるでしょう。

木本性つる植物は巻き付く、貼り付くなどして周囲の樹木等(ホスト)に取り付き、その樹木に自重支持を依存しながら成長する。樹木では自重を支えながら高く成長するため茎肥大に大きな資源投資を必要とするのに対し、つる植物の成長様式はその分の資源を茎伸長と葉量増加へと振り分け、よって資源を効率良く用いて生育空間と光合成生産を拡大する戦略である。

 この戦略は、光競争の激しい環境で優占する上で、あるいは生産性の低い林内環境で成長を維持する上で大きな利点となる一方で、常にホストを獲得する必要があり、ホストが枯死した時に巻き添えを受ける等の制約を受ける。長期的には必ずしも効率の良い個体成長を可能にするわけではなく、さらに地面まで完全に落下するリスクも内包する不安定な成長様式とも言える」(Wikipedia「つる植物」)

 こうしたツルはどんどん太くなり、かなりの直径になる場合もあります。また、葉もいっぱいに広げます。雨季、そこに雨が降ると、濡れることでツルや葉はずっしりと重くなり、何本もまとわりつかれるとそれは馬鹿にならない重さになります。また、あまりに巻き付かれると、樹冠がツル植物の葉で覆われて、せっかく、隣の巨木に負けまいとして数十mの高さまで伸びたのに、樹勢が衰えることも珍しくない。

 また、熱帯雨林の巨木の根は温帯の樹々と違って、地中にあまり深く伸びず、むしろ、地表を覆うように横に広がります。つまり、。これは熱帯雨林では物質循環が早く、地表下にあまり土ができないことも関係しているでしょう。熱帯では地層が貧弱なため、土台が必ずしもしっかりしていません。

 こうしたわけで、雨季になると樹勢の衰えやツル植物の重さの故か、巨木が突然倒れてしまうことが珍しくなるなるわけです。調査者としての私にとっては、こうした巨木がしばしば観察路にほぼ覆いかぶさるように倒れることが多いのです。その場合は、せっかく伐ったばかりの道が何十mもわたって、巨木とそれに絡みつくツル植物で完全に埋まってしまうことになります。

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 それにしても、上記のように「常にホストを獲得する必要があり、ホストが枯死した時に巻き添えを受ける等の制約を受ける」リスクにさらされる人生を“愚か”と思われるかもしれません。大昔、高校時代に、古典の文例で松平定信(実は、私はこの人が苦手ですが)が、藤か何かを例にあげて、その虚しさをたしなめている文章を読んだ記憶がかすかにあります(あまりに昔のことゆえ、他の人の文章かもしれませんが、いまは確かめる術がありません)。

 これも植物による戦略に潜むベネフィットとコスト/リスクのバランスというべきかもしれません。他の木(=ホスト)に絡みつくことで、低コストで利益を上げながら、相手の樹勢を弱らせ、まるで無理心中のように文字通り“共倒れ”になってしまう! やはり、定信君でなくても、皆さんはこんなことをしないようにね、と言いたくなるところです。

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 その一方で、こうした巨木の死は多くの生を目覚めさせます。巨木が倒れた後に、樹冠に出現する“ギャップ”によって、林床まで光が届くや、それまで数十年にもわたって隠忍自重してきた埋土種子等が一斉に成長を開始するのです。

 もちろん、その後に展開するのは成長し始めた若木同士の熾烈な競争であり、やがて生き残った少数の個体だけが光を求めてさらに成長していくことになりますが、それがいわゆるギャップダイナミクス、「森林が、部分的に壊れては遷移することを繰り返し、全体としては極相の状態を維持する」(Wikipedia)ことにつながっていくのです。

ビゴーの絵をもとに、日本の近代化を学ぼう!

2020 5/18 総合政策学部の皆さんへ

 その昔、ジョルジュ・フェルディナン・ビゴー(Georges Ferdinand Bigot, 1860~1927)という画家がいました。生まれはフランス、1882~1889年に日本に滞在、“優れた”風刺漫画を描き残します。

 この“優れた”とは、人類学的目線=「他者からの視点で、己の真実を知る」作品を意味していると思って下さい。ノーベル賞作家スタインベックの親友にして、傑作『キャナリー・ロウ』の主人公ドックのモデルにして海洋生態学者のE・リケッツが裁判沙汰に巻き込まれ、裁判所での審判の帰りにスタインベックに言った「みんな真実を憎んでいるんだ!」というセリフにあるように、本当はみんな気づきたくない己の真実の姿(それはギリシャ悲劇の登場人物メドゥーサの顔=「宝石のように輝く目を持ち、見たものを石に変える能力を持つ」(Wikipedia)のようなものですが)、それを示してくれる傑作というべきでしょう。

 もちろん、ビゴーによって「西洋人の目線から見た日本人の姿」を突き付けられた日本人にとって、それはあまり楽しいものではないかもしれません(もちろん、我々自身も、真実が嫌いなのです。真実を突き付けられた者は、私でもあなたでも、それがまるでメデューサの首であるかのように、視線を避けてしまう。あるいは、トランプ君のように怒り出す!!)。

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 それではWebでビゴーの絵を鑑賞できる手軽なサイトを探してみましょう。

 なかなかきちんとした紹介が見つからなかったのですが、川崎市民ミュージアムの「漫画コレクション」(http://kawasaki.iri-project.org/)に「『TOBAE』トバエ(第二次)ジョルジュ・ビゴー」というページがあり、ここにビゴーの主著の一つ『TOBAE』のNo.1、No.3~18、そしてNo.21が載っています。

 なお、解説文ではTOBAEとは「1887(明治20)年2月15日、ジョルジュ・ビゴー(Georges Bigot)が、横浜居留地で創刊した月2回刊行の時局諷刺漫画雑誌。チャールズ・ワーグマンの『ジャパン・パンチ』のあとをうけて、居留外国人に人気を博した。全号の表紙にピエロ姿のビゴー像が描かれている。月2回刊行で、3年弱の間、69号まで刊行された」と紹介されています。

 ところで、居留フランス人向けに出版されたTOBAEですが、「中江兆民とその門弟も協力して日本語のキャプションを付けていた」ので(Wikipedia)、日本人に対するメッセージ性もある程度意識していたのでしょう。

例えば、TOBAE(第二次)No.1は「制作年(西暦):1887年2月15日:創刊号。 収録作品「漁夫の利」 朝鮮を釣り上げようとしている日本と清国、スキあれば横取りしようとするロシアという構図で、日清戦争直前の極東情勢を諷刺している。ビゴー作品の中で最も有名な作品で、中学校・高校の歴史教科書や参考書などで紹介されている」とあります。皆さんもどこかで眼にしたはずのビゴーのカリカチュア、URLはhttp://kawasaki.iri-project.org/content/?doi=0447544/01800000HKです。あとは、ご自分でじっくりとこのカリカチュア(戯画)の神髄を味わってください。

 TOBAE創刊から10年後の1897年を描いた『『LE JAPON EN 1897』(1897年の日本)』も公開されており、「『神戸ヘラルド』『ジャパン・デイリー・メール』などの記事から、この1年間の珍しい話を漫画風にまとめた本。「日光物語」は英文、ほかの記事は仏文で書かれている」とのこと(http://kawasaki.iri-project.org/content/?doi=0447544/01800000HF)。

 さらにもう一つ、『LES AVENTURES DU CAPITAINE goudzougoudzou』(グズグズ大尉の色事)は同じ1897年ですが、説明文によると「好色なフランス人・グズグズ大尉が退役して日本へやってくる。しかし、その好色ぶりで失敗を繰り返し、失意のうちに帰国する、という物語が描かれている」。なにやら異国に滞在している自分自身を皮肉っているようにも見えないわけではありません。

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 川崎市民ミュージアムのアーカイブには、同じビゴーの『Croquis Japonais』(1886年)も掲載されています。こちらに掲載の絵は風俗画という範疇で、歴史学的には興味深い資料ですが、その昔、服部之総等が再発見して、日本の教科書類を席巻した風刺画の類はほとんどないようです。

 このあたり、画家ビゴーとしては日本をテーマとして風俗画と、時局的な戯画とどちらに個人的な重きを置いていたのか、そのあたりが気になるところです。

 なお、ビゴーの日本滞在は1882年1月(21歳)から始まり、1899年6月(39歳)に日本で結婚した佐野マスと離婚し、フランス国籍の長男を連れてフランスに帰国しています。彼の日本滞在後半とほぼ重なる時期に、フランスを離れて異郷の地で死んだ芸術家にポール・ゴーギャンがいます。彼のタヒチ滞在は1890年に始まり、いったんフランスに帰国するものの、再度タヒチに渡り、1903年、マルキーズ諸島で客死します。

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 ビゴーの作品、とくにそのカリカチュア的に表現された日本人像は日本人には嫌われ、あるいは無視されたため、その再評価は第2次世界大戦での敗戦を経て、マルクス主義歴史学者の服部之総主催の近代史研究会が日本の近現代史を取り上げる時まで待たねばなりません。そして、この研究会以降、ビゴーの絵は外国人から見た近代日本像として、戦前での一貫した無視をちゃぶ台返しをし、日本の教科書をいまも席巻しているのです。

 こうした本人ならびにその作品の数奇な運命を意識しつつ、その作品を日本の近代化の理解にあらためて役立てることこそ、総合政策にそうテーマかもしれません。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...

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