カテゴリ : “研究”について : 人類学への招待 :

名前の由来Part1:世界は“名前”に満ちています

2021 9/22 総合政策学部の皆さんへ 世界は“名前”に満ちています。

 Wikipediaの「名前」では、「すべての事象には名がある。我々は先ずその対象に名前を付ける。そのためには対象の概念を明確にし、またそれ以外の事象との区別を持たなければならない」と指摘しています。このように、近代文明では半ば脅迫観念のように、「名前」を求めます。そして、「名前」を知らされると、とりあえず安心する。例えば、山歩きをしていて目にした花が「コバノミツバツツジ」であって、「モチツツジ」ではない、ということを教えてもらえば、何か分かった気持ちになるかもしれません。

 もっとも、それだけでは何の進展もないのかもしれません。Wikipediaの「名前」の執筆者は賢明にも「覚える行為に価値があるのではなく、名前を覚えることで、それまでどれも同じに見えていたものの区別がつくようになるからである」と指摘します。とくに、近代科学では「分類」がすべての基本でした。それもすべての人が理解可能で共通な名前が。生物学ではその象徴が“学名”です。

 例えば、日本で「松上の鶴」などと形容されることもあるコウノトリと、ヨーロッパで「赤ん坊をくちばしに下げて運んでくる」とされる“コウノトリ”は同じ種か? 遺伝子レベルで調べてみると、この2種は遺伝的差異があり、分類学の鼻祖リンネが1753年の『植物種誌』で植物を対象に提唱した学名では、前者はCiconia boyciana、後者はCiconia ciconiaという学名が付けられています。なお、学名は属名+種小名の二名法からなっています。これはいわばヒトの氏名=名字(苗字)+個人名のようなもので、種がおかれている位置を系統(=属名)とその種の特徴(=種小名)で表しているわけです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 一方で、日本語においても、一つの生き物に複数の名前を付けていることも珍しくありません。典型的ケースはメダカで、分類学的にはダツ目メダカ科メダカ属(学名 Oryzias)に属する種の総称ですが、日本各地で「短いものでは「メ」「ウキ」から始まり、長いものでは「オキンチョコバイ」「カンカンビイチャコ」」まで、実に4680の名前で呼ばれており、こうした地方的な方言名を「方名」と呼びます。それに対して学名にほぼ対応する形で日本語として統一した名称が標準和名です。

 実は、近年まで日本にはメダカ一種(Oryzias latipes)だと考えられていました(なお、中国・台湾等ではチュウゴクメダカ Oryzias sinensis、タイではタイメダカOryzias minutillus、インドではインドメダカOryzias dancenaが生息しているとのことです)。しかし、最近はDNA解析等でOryzias sakaizumii(標準和名としてキタノメダカ)とOryzias latipes(ミナミメダカ)に分けるように提案されているとのことです。

 また、一つの生き物が成長段階(発達段階)で名前を変えることもあり、その典型がブリなどの出世魚です。ブリの場合、モジャコ(6~7cm)→ワカシ(15 cm くらい)→イナダ(40 cm)→ワラサ(60 cm)→ブリ(90 cm)が標準とされますが、こちらも関東ではワカシ → イナダ → ワラサ → ブリ、関西ではツバス → ハマチ → メジロ → ブリと変わるとのことです。とは言えば、標準和名・学名ではブリ・Seriola quinqueradiataで統一されることになります。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 あるいは、化学の世界では「原子番号11の元素、およびその単体金属」を日本では一般に“ナトリウム”と呼んでいますが、これは「天然炭酸ソーダを意味するギリシャ語の νίτρον、あるいはラテン語の natron(ナトロン)に由来するといわれている」とのことです(Wikipedia「ナトリウム」)。

 一方、英語圏では同じラテン語起源ながら“ナトリウム”とは呼ばずに、“ソディウム( sodium )”と呼ばれています。「工業分野では(特に化合物中において)ソーダ(曹達)と呼ばれている」のはこれが原因なのでしょう。「水酸化ナトリウム」を工業製品としては「苛性ソーダ」と呼ぶわけです。

 また、万国共通であるはずの元素記号としてはドイツ語から“NA”と名付けられているので、かなりややこしいことになる。つまりは、近代化学が発展するなかで、デ・ファクト・スタンダードとして成立してきたわけです。

 さらに別の例では、日本では“ガソリン”と呼ばれる物質は、イギリス英語では“ペトロ―ル”になったりします(アメリカ英語では“ガソリン”なのですが、さらに略されて“ガス”になります)。昔、東アフリカのタンザニアで3年暮らした時には、旧イギリス統治下にあったため、スワヒリ語風に語尾の音が若干異なる“ペトローリ”と言わなければ通じないのに若干戸惑いました。ちなみに、灯油はイギリス英語圏ではパラフィンオイル(Paraffin oil)で、こちらも固形物質のパラフィンを連想して戸惑ったものです。一方で、スワヒリ語では“Mafuta ya taa”、直訳すると文字通り“灯りの油=灯油”でした。

 いずれにしても、グローバル社会におけるコミュニケーションで「名は大事」なのは共通ですから、皆さんも気を付けましょう。

集まりの諸相~ヒトとサルのマイクロ・デモグラフィー4~

2021 8/3 総合政策学部の皆さんへ

皆さんは生き物が集まることについて、「どうしてある生物は集まるのに、別の生物は散らばっていたりするのか?」、疑問に思ったことはありませんか? これは生態学者にとって大きなテーマの一つでした。もちろん、そこにはきちんとした理由がありそうです! ついでに言えば、ヒトがなぜ集まるのか? あるいはなぜ散らばるのかにも、それなりに理由がありそうです。

例えば、コロナウィルスによって「三密禁止」、すなわち「集まらないように!」というお達しがあるのも、そしてこのお達しがなかなか守られないことも、生物としてのヒトの性質を考えれば、それなりに理由があることなのかもしれません。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さて、生き物にとって集まったり、散らばったりすることに意味があるのか?

実は、生態学においては、個体の分布パターンは古くから大きなテーマの一つでした。教科書風に単純化すれば、(1)個体同士が反発も誘引もしない“ランダム(機会)分布”、(2)個体同士が反発して互いに距離を置く結果、等間隔で位置取りしたりする一様分布、そして(3)互いに誘引される集中分布に分かれます。

(1)の場合は、集まることにも散らばることにも意味はなく、サイコロを転がした結果のように“たまたま”そこにいる、という分布パターンです。と、ここまで書いてみると、そんな生き物っているのか? という疑問もわいてきます。高校生物に関連したHPではランダム分布の例として、「稲のニカメイガの卵塊数や池のオタマジャクシ」があげられていますが、どんなもんでしょうか? タンポポはKSCのそばにも分布しているので、ちょっと調べてみても悪くないかもしれません。

 ちなみに、KSC周辺では、キャンパスも含むニュータウンには外来種セイヨウタンポポが、ニュータウンの下の田園地帯には在来種カンサイタンポポが、そして一部には同じ在来種でより温暖な地域に多いシロバナタンポポが分布しています(さらに言えば、どうやらセイヨウタンポポと在来種の雑種も混じっている可能性があります)。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 一方、一様分布とは、互いに干渉しあうため、個体(あるいはペア等)同士が互いに一定の距離を持って分布するようなパターンです。よく知られている例としては、アユのナワバリがあげられます。

このナワバリは「アユは春に川をさかのぼり、中流に達すると、岩の上の珪藻類を削り取って食べる生活にはいる。このとき、川の中程に一定の縄張りを作り、縄張りに侵入する他のアユがあると、体当たりで追い出そうとする。これを利用して、生きたアユに針を仕掛けて放流し、縄張りに侵入させて、体当たりしてくる縄張り持ちのアユを引っかけるのが友釣りである」(Wikipedia「縄張り」)。したがって、「友釣り」ではなく、「ライバル釣り」とでも言うべきかもしれません。

アユのナワバリ等はごく単純に、自分が活きるための餌を確保するという機能を果たしています。一方、ナワバリの機能としてはもう一つ、繁殖相手の確保というタイプもあります。例えばKSCでも春先によくさえずっている小鳥のホオジロでは、1ヘクタールほどのナワバリを作りますが、これはオスが番の相手=メスの獲得することと、その後の子育てに必要な餌(トリは哺乳類と違ってミルクを分泌しないので[ピジョンミルク等の例外がありますが]、孵化したヒナには虫などを与えねばなりません)の確保という2重の機能を持っています。

こうして日本の川はアユが、里山はホオジロがそれぞれナワバリを作り、その結果、アユもホオジロ(のペア)も等間隔で並んでいることになります(カラスも子育て中はペアでナワバリを作りますが、私は昔鳴門教育大学にいた時にカラスのナワバリをちょっとだけ研究したことがあります)。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 生態学では、生物の個体が集まっていることを集中分布と呼びます。もちろん、この集中が形成される過程は一様ではありません。例えば、マングローブというのは「熱帯および亜熱帯地域の河口汽水域の塩性湿地にて、植物群落や森林を形成する常緑の高木や低木の総称」(Wikipedia)ですが、この“密集”は生息条件によってたまたま集まっただけなのかもしれません。

同じように生息条件によって密集するものに、潮間帯生物群集があります(その昔、鳴門教育大学に勤めていた時に、少しだけかじってみました)。例えば、潮間帯の岸壁等に密集するフジツボですが、彼らは潮位が低い深い場所では、カキ等の大型貝類に覆われて死んでしまったり(もちろん、カキに悪意があるわけではありません。しかし、身体が大きくなる過程で、周囲のフジツボ類に覆いかかり、結果的に死に至らしめるのです)、イボニシ等の肉食性巻き貝によって捕食されてしまう(ちなみに、イボニシ等は多数の歯舌と穿孔腺と呼ばれる器官から分泌される酸によって、動かないフジツボの殻に穴をあけていく=まるで銀行強盗が分厚い金庫をドリルで開けるようなものです)。

それでは、カキやイボニシが襲ってこない高潮位の場所、つまり海面から高い場所に逃げればよいではないかと思えば、そこは干潮時の高温と乾燥に耐えられない。第一、そこでは満潮時にもあまり海水をかぶらず、したがって、餌にあまりありつけない。こうして環境条件(温度、湿度、餌条件)と種間関係(多種に覆い隠されるか、食われてしまうか)の兼ね合いで、フジツボの分布は“フジツボ帯”という帯状分布を示すことになります。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 ちなみに、日本の海岸では、高潮位側から、(1)潮上帯(タマキビ類など)、(2)上部潮間帯(イワフジツボ類)、(2)中部潮間帯(タテジマフジツボ・シロスジフジツボ、カキ等)、(4)下部潮間帯(ムラサキイガイ等)等に分けられます。

その一方で、植物でよくみられるように雌雄同体のフジツボは、自らのペニスが届く範囲に同種個体が存在していないと繁殖が難しいのです。第一、成体のフジツボは、トーチカのような殻に身を潜めて乾燥・捕食から身を守りますが、しかし、それは移動能力をあきらめるということです。このため、異性を探していどうできない。

おそらくはこの移動できないという性質が雌雄同体をうみだしたのでしょう。つまり、環境条件で同種のフジツボが密集する可能性が高ければ、雌雄同体であることで、隣合わせの個体が互いに異性個体の役目を果たす。このためにも、彼ら/彼女ら(雌雄同体ですから、このどちらでもあるのです)は着生ホルモン等で同種の幼生を誘引すると言われています。

というあたりで、ひとまず、to be continuedとしましょう。

「老い」を考える5:“定年”について その2

2021 7/11 総合政策学部の皆さんへ

 ヒトにとっての「老い」に関連して、定年を考える、その2ですが、生活史をたどるうちにいやおうやってくるのが“仕事の終わり”です。

 例えば、先回紹介した「日本律令国家における 「老女」 に関する研究」(渡部育子、2004)という論文に眼を通していると、「60歳という年齢は、一般庶民の力役賦課においても最も重い負担を強いられる年齢の上限であり、軍役においても60歳に達した者は免除されることになっている」とあります。要するに年取ってしまえば戦えなくなる=引退の時期がある。なんとなく納得しますね。仕事によっては、必然的に物理的能力によって、年齢の限界が規定され、それが定年的な考え方をもたらすことになるのです。

 さて、軍人の末路についてことに有名な科白に、第2次世界大戦後に日本占領統治を牛耳ったダグラス・マッカーサー元帥の退任演説における「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」(Old soldiers never die; They just fade away)という言葉があります。それでは、老兵はいつ“消え去る”のでしょうか?

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 ここでとっさに私の頭に浮かぶのは、古代ローマ共和制末期の「マリウスの軍制改革」です。これは「紀元前1世紀にガイウス・マリウスによって施行されたローマ軍における改革。この改革により軍事だけでなくローマ社会でも大幅な変革が起こり、やがてはローマ社会の覇権的性格、ローマ軍の侵略的傾向を促し、間接的に帝政ローマを創設する土台を作り上げた」というエポック・メーキングなできごとです。

 この改革の本質は、要するに、対外進出にともなう侵略行為の主体としての軍隊を(+キンブリ・テウトニ戦争のような外敵侵入に対処する軍隊としても)それまではローマ市民権を持つ一般市民に義務として課せられて兵役ではとてもまかないきれない現状を打破するため、マリウスが「自前で武具を賄えない貧民階級」に注目して、志願兵制度+給料支給+従軍期間の確定+退役後の報酬をセットにした制度です。つまり、ボランティア的軍隊から職業人的軍隊への転換を図る。その中に必然的に後年の定年的制度と給料+年金制度を組み込むということになります。

 ちなみに、国内の治安維持のための軍事体制から、国外への侵略的軍事体制への転換をはかり、日本政府が鎮台制から師団制へと転換するのは明治21年(1888年)5月12日のことです。師団とは「主たる作戦単位であるとともに、地域的または期間的に独立して、一正面の作戦を遂行する能力を保有する最小の戦略単位」であり、この改編で「戦闘部隊の組織を整理して管理を容易にしたことで、陸軍は外征の能力を高めた。それぞれ兵站を持ち自己完結性を有する各師団は、独立して外地で作戦を遂行することができるようになった」(Wikipedia)とされます。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 もう少し詳しく説明しましょう。マリウスの改革以前、市民による兵役では「兵士は財産に応じて定められた5つの階級に属し」、「兵士は3000セステルティウスに相当する資産を所有していなくてはならず」、「必要な武具は自前で購入」ということになっていました。

 これに対して、マリウスは貧民階級に門戸を開くため、職業軍人としての待遇を整えます。それは以下の通りです。

  • 国が武具を支給=貧乏な者でも軍人になれる(=出世のチャンスをつかめる)
  • 戦闘に従事する者の給料も国が支給=家族の生活も保障
  • 従軍期間を25年とする=定年的制度
  • 退役後、兵士たちに土地を与える退職金的制度。司令官より年金を給付=年金的制度

この結果、「赤貧にあえぐ者の中で社会的な成功にわずかな望みをかけて大量の人員がマリウスのもとに走った」とされます。

 この改革自体は「単純なもので、「兵士への給料」は、従来においても「働き手を兵士に取られた農家への損失補填」として行われており、改革の前後でその金額は変わっていない。端的に言えば、徴兵制を志願制に変えただけの事である。しかしながらこの単純な改革によって、困窮した農民は兵役から解放され、無産者達は職を得る事になった(一家の働き手を取られた農家への損失補填としては不足していた金額であっても、無産者にとっては有難い収入源となった)。またこれにより、ローマ軍は今までの市民からなる軍隊から職業兵士で構成された精強な軍団へと変貌を遂げる」ことになります(Wikipedia)。

 また、この軍制改革の結果生まれた軍団指導者と志願兵の関係をいわば政治的なテコとして、ローマを帝政に変化し、その結果、巨大な国際帝国ローマを作り上げて、現在のEUのベースを創造したとも言えるマリウスの義理の甥、ガーイウス・ユーリウス・カエサルの覇業に繋がっていくと言えるでしょう。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さて、ローマ共和国軍では従軍期間は25年ということですが、これはもちろん、歳をとると戦闘能力が次第に衰えることを考慮にいれているのでしょう。20歳で兵士になれば、45歳まで務めるということになります。なお、「退役までの5年間はベテラン軍団兵として、従事する内容を軽いものなどにしてもらい、優遇をされた」とのことです(Wikipedia「軍団兵」;なお、英語のベテランはラテン語で年老いたことを示す「Vetus」にanという接尾語をつけて、経験を積んだ古参の兵士、あるいは退役軍人を意味するようになったとのことです)。

 ちなみに、アメリカ軍では「20年以上勤務の退役直後から支給される一般公務員とは別の軍人年金」制度があります。「資料60 米国・英国・仏国軍人の退職後の処遇及び再就職管理に関する調査報告」では、「全額国庫負担であり、現在国防省の人件費の約20%、約290億ドル(約3兆3千億円、1ドル=113円で算出)が支出されている。年金の受給資格は、原則20年の勤務により発生し、退役直後から支給される。退職年金の支給額の計算については、1986年8月1日以降の入隊者については、退職前36ヶ月の基本給の平均月額×{2.5%×勤務年数-(30年-勤務年数)×1%(最高75%)}である」とのことです。

 一方、イギリス軍では「受給資格は、将校は16年、下士官は22年の勤務により発生し、支給額の最高は、退職時の基本給の48.5%である。職務や勤務地の特殊性に係わらず、一律基本給と勤務年数に基づき年金額が算定される」ということです。

 ちょっと特殊なケースでは現代の傭兵とも言えるフランス外人部隊では、「入隊資格については国籍、人種、宗教に関係なく17歳以上、40歳未満の健康な男性なら入隊可能」で、「現在入隊した隊員の場合は最低でも20年以上の勤務が条件となり、さらにこれまで除隊後すぐであった給付が60歳以上になってからの給付に変更になった。定年の年齢基準は特に無く、本人の意思がある限り何歳でも続けることができるが、現実的に60歳以上まで続ける人はほとんどいない」(Wiipedia)とのことです。

 こうしてみるとローマ共和国の昔から、20歳ぐらいで兵役につけば、20~25年程度の勤務で年金受給資格が得られるが、(将軍にでもならない限り)60歳程度までで退役する、というのが一般的と言えるでしょうか。

 なお、日本の自衛隊では「自衛隊は、精強さを保つため、若年定年制及び任期制という制度を採用しており、多くの自衛官が50歳代半ば及び30歳代半ばまでに退職することになっています。」(航空自衛隊HP)とあり、年金は(平成27年度以降は)厚生年金に加入します。

豆腐の冒険、食品をめぐってのビジネス・プランと異文化交流:食べることについてPart14

2021 5/19 総合政策学部の皆さんへ

 皆さんはTofu Shake、あるいはTofu Smoothieとはご存じですか? ご存じ、Googleで(英語版)でググれば、即座に答えがでてきます。試しにTofu smoothieで検索すると24,800,000件がヒットしました。

How to use silken tofu in fruit smoothies for tasty, high-protein breakfasts & snacks”というHPを閲覧すると、まず、材料を集めます。それは、以下の通りです(和食の豆腐のみのイメージの方は絶句されるかもしれませんが)。

・1box silken tofu (about lb/450 g) (絹ごし豆腐1箱)
・1cup (140 g) cherries ([冷凍]サクランボ1カップ)
・1cup (150 g) blueberries([冷凍]ブルーベリー1カップ)
・1tablespoon (15 g) pineapples ([冷凍]パイナップル大匙1)
・1tablespoon (15 g) peanut butter(ピーナツバター大匙1

 それでは作り方はというと、

・Gather the ingredients(材料を揃える)
・Cut the silken tofu into cubes(豆腐をサイコロ状に切る)
・Cubes of silken tofu on a blue platePin(豆腐をブレンダー[ミキサー]に入れる)
・The ingredients for a fruit smoothie made with silken tofu(フルーツとピーナッツバターを加える)
・Blend the silken tofu, fruits, and peanut butter until the ingredients become a smoothie. You may need to stop the blender periodically to stir the smoothie or push down the fruits that cling to the sides of the blender to get an even blend(材料がスムージーになるまでブレンド。 スムージーをかき混ぜるため定期的に停止するか、ブレンダーの側面に付着するフルーツを押し下げて均一にブレンドする必要があるかもしれません)
・Enjoy the smoothie! A quick breakfast ready in 5 minutes or less!(スムージーをお楽しみください! 5分以内で簡単な朝食の準備ができました!)

 というわけで、私の乏しい料理的センスでは、和食の“白和え”(茹でて下味した青菜、コンニャク、もどしたヒジキなどと搾って潰した(裏漉しすればなお良い)豆腐と和える)のフルーツ・スイーツ版にあたるという印象ですが、皆さんはいかがでしょうか?

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さて、トーフがいつのまにかTofu shake/smoothieとして(日本人にあまり知られぬままに)アメリカで普及したのには、一人のビジネスマンの粘り強い努力とビジネス・プランの大転換があることがよく知られています(「アメリカ進出 成功の秘訣 その6 3年や5年でアメリカで物が売れるとは考えないこと。10年間支援できないのなら進出してきてはいけない」)。

 1985年に森永乳業からアメリカ合衆国に派遣され、現地法人でトーフを普及されるように命じられたのが雲田康夫さんですが、3~5年で自立という会社の方針にもかかわらず、なかなか売れません。1988年にはUSA Todayの記事で「アメリカ人の嫌いな食べ物」のトップになってしまいます。トールのケースを置き忘れても、誰も盗みもしないという始末です。

 つまりは、「アメリカ人にトーフを日本風に売りつけることは困難だ」ということを思い知らされる羽目になるわけですが、ビジネスプランとしての転機がある日、突然、訪れます。ご本人の言葉をご紹介しましょう。

会社を閉めようかと悩んでいた矢先、ミセス・グッチー(ホールフーズマーケットの前身)という食料品店で、年配のアメリカ人女性がトーフをカゴに無造作に投げ込んでいるのをみかけました。どうやって食べるのかを聞いてみたら、トーフ・シェイクにするという。その時に初めて「豆腐は四角で白い」ということは、アメリカ人にとってはどうでもよいことであることに気がつきました。これまでの考え方を根本から変える必要がありました。日本のままでは売れない。パンには冷や奴はなじまないのです

トーフ・シェイクに出会って元気づけられていたころ、ある日クルマのラジオを聞いていると、有名なアンカーマンのインタビューの中で、ヒラリー・クリントンが「トーフを云々」と言っているのが耳に飛び込んできました。それは「ビルはジャンクフードが大好きで高血圧なので、豆腐を食べさせたい」と言っていたのでした。その上「Tofu」と言っている。アメリカでは「soy bean curd」という単語が浸透していたのに、ヒラリーは「Tofu」という日本語を使っていました。トーフは、じわじわとそこまで浸透していたのです。ヒラリー・クリントンの発言をきっかけに、ニューヨークタイムズやワシントンポストにも取り上げられ、これまで相手にしてくれなかったバイヤーからも注文が入るようになり、トーフが一気に広がっていきました

 まずはアメリカ人に受け入れられる形で、つまりトーフではなくTofuとして売る。それには和食の白和えよりもさらに液体状のShake/Smoothieの材料として紹介する、というビジネスプランが展開していくわけです。

 このあたりのビジネスプランの発想・展開の妙は、皆さんもぜひ体得してもらいたいところです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 ちなみに、明治期の日本の食文化に燦然と輝く村井弦斎『食道楽』では、『春の巻』23章が「豆腐」の特集ですが、「妻君は下女に命じて近所の豆腐屋へ走らしめ「お登和さん、お昼の副食物にお汁物つゆものがありませんから餡あんかけ豆腐どうふを拵えましょう。餡かけ豆腐にも何か御伝授がありますか」お登和「別に伝授もありませんがお豆腐を湯煮ゆでる時お湯の中へ上等の葛くずを少しお入れなさい。長く煮ても決して鬆すが立ちません。普通なみのお豆腐でも絹漉きぬごしのように柔くなります」とあります。

 さらに、注釈では「湯豆腐を作るには鍋へ湯を沸かし、葛を少し溶き込み、湯玉の立つほど沸き立つ中へ豆腐を入れ、暫く煮ると豆腐が動き始めて浮き上らんとする時掬すくい揚げて皿へ盛り出すべし。その皿には湯を少しく入れておく。汁は鰹節の煎汁だしと醤油を煮立て大根卸しを添ゆ」と丁寧な説明ぶりです。

 一方、冬の巻の索引を調べると、各巻に豆腐素麺(夏 177)、豆腐飯(秋付録 米料理百種「日本料理の部」11)、豆腐の吸物(夏 90)、豆腐のフライ(夏 140)、田毎豆腐(春 41)、松露豆腐(夏 112)、南京豆の豆腐(春 4)、豚と炒豆腐(春 10)等が紹介されているようです。また、蕗の白和(夏 118)と蕨の白和(夏 119)も登場です。

 一方で、索引等にないものとしては揚げ出し豆腐、そして日本には戦後に紹介されたという麻婆豆腐も見当たりません。また、巻繊汁も出てこないようです。このように、日本の豆腐も時代によって変わっていく。同様に、異文化に伝えていくときも、雲田さんがいうように「考え方を根本から変える必要」があるようです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さて、豆腐にはもう一つ異文化への受容の道がありました。それは欧米の植民地支配を通じてのルートです。それはまた別の機会にしましょう。

分けることと名を付けることPart4:“分けられた”人たち

2020 11/22 今回は、“分けられてしまった”人たちについて紹介しましょう。

 私はかつてタンザニア連合共和国西部のマハレ山塊国立公園で、あわせて3年ばかりをすごしたことがあります。この公園はタンガニーカ湖東岸に半島のように突き出ていますが、この湖の中央にはタンザニアとブルンディザイール(現コンゴ民主共和国)ザンビアを分ける国境が走っています。だから、湖の東岸から私の眼に入る西岸は隣国コンゴ(当時はザイール)なのです。

 ある日の暮れ、湖岸でぼんやりしていたら、なにやらカヌーを漕いできた男が一人、上陸してきたのでのぞき込むと、プラスチックのサンダルが束ねられていて、要するに当時社会主義政策をとって物不足のタンザニアへ、資本主義国から手厚く支援を受けていたザイールから物を売りに来た商人なのですが、考えてみれば国境をまたいできたものの、そこにイミグレーション税関もあるわけはなく、要するに密出入国でありかつ密輸の現場なのです(もちろん、かわいいものですが。ちなみにそのサンダルは香港製でした)。

 さて、この湖面を切り分ける“ボーダー”はもちろん自然のものでも、また民族の違いでもなく(湖岸の両岸でほとんど同一の言語を話しています)、1885年のベルリン会議でドイツ、ベルギー、イギリスの間で分けられものに過ぎず、かつそれ以来、ボーダーが動くことはありません。と言うよりも、このボーダーを下手に動かせば、紛争・暴動を引き起こして、脆弱な国家は崩壊しかねないのです(宮本・松田、1997)。

 ちなみに1960年代のアフリカ諸国の独立ラッシュ後、ヨーロッパ列強の手でいったん策定された国境が変わり、国家が分割された(=ボーダーが引き直された)例は、エリトリアエチオピアから独立戦争を経て独立したケース、そしてアフリカ最大の国家であったスーダンからやはり数度の内戦を経て南スーダンが分離したケースだけです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 その一方で、人々の暮らしは昔も今も基本的には変わりません。先ほど紹介したように、カヌーを漕げばタンガニイカ湖を横断することなどわけもない。パスポートを持つ者などいるはずもないから、すべては密出入国にほかならず、いくばくかの商品等を持参すれば密輸です。

 当然、行き来する者たちの間で男女の仲で結ばれることもあります。知り合いのタンザニア人の男性がザイール人の女性と結婚した時のこと、ふとまわりの連中に
「あの二人の子供は、いったいどちらの国籍になるのだね?」と尋ねると、
「病院で産んだら出生証明書をくれるから、最近は病院で産むことが多いけど、タンザニアの病院で産めばタンザニア人に、ザイールで産めばザイール人になる」としごくのんびりした答えが返ってきて、妙に納得したものです。どちらの国にも戸籍などなく、人々は近年まで自分の生まれ年(したがって年齢も)さえ知らなかったのです(蛇足ながら、戸籍とは世界の中でも日本、韓国、台湾等に限られた特殊なものです)。

 こうした光景は、近代国家以前の、“国境”があいまいだった頃に比べれば、あたりまえのことでした。しかし、1885年にベルリンで締結された条約にもとづけば、彼らの動きは立派な不法行為なのかもしれません。なによりも、近代国家は運営にお金がかかり(ニューヨークの国連に大使を派遣するだけでも、アフリカの一般民衆からすれば気が遠くなるような経費が必要)、そのためには税金をとりたてなければいけない。とすれば、“国民”の勝手な行動を制約し、彼ら(=我々)を囲い込もうとするのはある意味必然というべきかもしれません。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 その上で、民族とは何で決まるのか=どんな基準で“分ける”のか? という難題が残ります。民族は「文化の伝統を共有することによって歴史的に形成され、同属意識をもつ人々の集団」とされています(『広辞苑』第四版)。そして一般的な理解では文化≒言語の共有が民族の形成に欠かせないとされます。

 とは言え、現実には簡単ではありません。例えば、“ユダヤ民族”では、母語はラディーノ語イディッシュ語など多数の言語に分かれます。すると、ユダヤ民族は単一の人種/民族というよりも、むしろユダヤ教という宗教で結びついた社会集団と言うべきかもしれません。

 さらに、誰が分けるのか? アフリカでは、植民地時代に先住民を“部族”に分割することが多かったことが知られています。ところが、この“部族”は必ずしも実態をともなったものではなく、植民地政府の恣意的な措置であった場合も多い(宮本・松田、1997)。その一方で、この“創られた伝統”がいつしか政治/社会的実態をおび、後年の“部族主義(トライバリズム)”を助長させ、“民族/部族紛争”に発展した例も少なくないのです。

 とくに植民地政府がしばしば採用した“分割統治”は、“集団”に“実体性”をもたらし、しばしば政治集団に再編成をおこない、結果として紛争や戦争の原因となりました(例えば、ナイジェリアでのビアフラ戦争等)。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さて、“民族集団”自体は数十年、数百年の単位で発生、分散、消滅、統合、再編成されることもめずらしくありません。

 たとえば、私が3年間ほどつきあっていたトングウェは、タンザニアで認められている120近い“民族”のうちの一つです。先ほども触れたマハレ山塊国立公園の周辺、面積にしておよそ2万平方キロばかりのトングウェ・ランドに2万人ほどが住んでおり、コンゴ・コルドファン語族のニャムウェジ語系のトングウェ語を話しています。とはいえ、こうした弱小語は共通語(タンザニアの場合はスワヒリ語)の普及(学校教育およびラジオ放送)で、消滅の危機にあります。

 それでは、トングゥエの人々は何時からトングゥエなのでしょう? この地で40年近くチンパンジーの研究を続けた西田利貞は調査の初期に、書き言葉を持たず、伝承世界に生きている彼らに聞き込みをおこなっています(西田、1973)。その結果、彼らの父系をたどるとおよそ7,8世代、つまり150~200年ほど前まで遡れますが、それは対岸のコンゴ出身の祖先に行きあたるのです。しかも、複数の民族に分かれるということです。

 それ以上はすべて推測でしかありませんが、複数の民族の出身者が何らかの理由で湖の東岸に移動し、紛争と融合をくり返しながらやがて一つの民族を創出するのは、アフリカではそれほど珍しくことでもないようです。このように民族は語られぬ歴史の中で、次々に生まれてはまた変わっていく存在なのですが(宮本・松田、1997)、それが植民地政府の意向で“部族”という名称で固定化・分類されると、そのこと自体がやがて“部族対立”や“民族紛争”に発展していきかねない、それがアフリカの近代化の一断面とも言えるのです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 近代国家としてもっともふさわしい存在は、大革命後に成立した“国民国家(ネーション・ステーツ)”としてのフランスと、政治的思想をバックにした契約国家とも言うべきアメリカ合衆国があげられます。もっとも、アメリカは少し特殊に過ぎるので、前者のフランスをとりあげてみましょう。

 ヨーロッパ史を少しひもとけば、フランスは歴史的にほんの少し前まで文化的にも政治的にもとても単一国家とは言えないものでした。たとえば、現在フランスと呼ばれている地域とその周辺は、かつてフランス王国の他、ブルゴーニュ公国、ブルターニュ公国、ナバール王国など多くの政治権力に分かれていました。

 これらの諸政治権力があるものは統合され(例えば、ブルターニュ公国は最後の女王アンヌとフランス王シャルル8世・ルイ12世の結婚により統合)、また、あるものは(ブルゴーニュ公国のようにブルゴーニュ地方はフランスに吸収されますが、フランドル地方はオランダ・ベルギー等として独立します。

 こうした“小国家”や“地方文化”を最終的に一つの“坩堝”に溶かし込んで“フランス民族”を形成したのが、“フランス革命”の最大の成果であり、ナポレオン戦争で倒れた100万人を筆頭に、膨大な人命の犠牲によって、フランスの輪郭が形作られます。

 それでは、アフリカで成立している国家とはなんでしょうか? 1885年のベルリン会議等によって人工的に分割された植民地は、そのままの形で独立の日を迎えます。そのため、ほとんどが複数民族によるモザイク国家となり、ナショナル・アイデンティティは稀薄か、存在しない(砂野、1997;池野・戸田、1997)。ネーション・ビルディングとは、そうしたモザイク社会の中で、近代的国家を建設することにほかなりません。とはいえ、1967年からのビアフラ戦争、ソマリア(氏族社会への回帰)、コンゴ(統治機構の地域的分解)、エリトリア(宗教等の理由から国家分裂)、ブルンディ・ルワンダ(“民族”間の対立)等、国民的統合(ナショナル・インテグレーション)の進行どころか、国民解体(ナショナル・ディスインテグレーション)的な現象が多く見られています。

 そんななかで、タンザニアという国家はネーション・ビルディングにかなり成功した国ともいえるでしょう。これが3年間、トングゥエたちとつきあっても私の実感です。先にも触れたように100を超える民族から構成されるとされ、ザンジバル島のオマーン系スルタン政権を除けば、19世紀のドイツによる植民地化前に統一された政治勢力はなかったタンザニアで、1961年の独立後、1963年のザンジバルとの統合を経て、スワヒリ文化という複数の文化がまじりあった文化が普及していたことも手伝い、国家的アイデンティティの醸成に成功している1例ともいえます。それは、かつて欧米の手で“分けられていた”人たちが、自らの手で一つのアイデンティティによってまとまろうとする運動でもあるのです。

車内広告の歴史:身近なものからリサーチのテーマを探すPart1

2020 9/29 総合政策学部の皆さんへ 今回は「身近なものからリサーチのテーマを探す」というお題です。そこで取り上げるのは“車内広告”です。とくに電車通学の方は、毎日電車の車内広告を目にしているはずです。それでは、皆さんは車内広告や、駅の構内の広告をテーマにどんなリサーチ・プランを考え付きますか?

 そこで最初の質問です? 今朝、乗ったはずの電車、あるいは降りたはずの駅構内に、どんな広告があったか、覚えていますか? とっさに思い出せる人は意外と少ないかもしれません(過去、基礎演習等で突然尋ねると、たいてい明確な答えが返ってくることはありませんでした)。これでは広告の効果がない、と広告代理店の人は悩むかもしれません。

 ところで、新三田駅のホームに備えられた広告は、まず医療機関か塾・予備校関係が目につきます。これは言うまでもないことですが、ニュータウン=ベッドタウンの乗降駅として、進学を目指す若者層と医療機関に関心をもつ中高齢者をターゲットとしていることではないかと考えられます。

 もし皆さんの中に、将来のキャリアとして広告代理店(電通博報堂アサツー ディ・ケイ(ADK))等をお考えの方がいれば、なかなか興味深いテーマだと思いませんか?

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さて、ムサシノ広告社という会社のHPに「広告代理店と交通広告の歴史」というコラムが掲載されています(https://www.musashino-ad.co.jp/column/ad_history.html)。この交通広告とは「電車広告・駅広告・バス広告」等を包括した広告カテゴリーのようです。その一部を紹介しましょう。

明治5年、東京の新橋・横浜間に鉄道が開通し、交通網の充実に反映して人々の行動範囲の拡大・移動時間が大幅に短縮されるなど、生活スタイルに大きな変革をもたらしました。 明治11年には、乗り物酔止薬「鎮嘔丹」が初の広告として掲出が許可され(鉄道広告第1号)、中吊り広告などの車内広告、駅ポスターなどの駅広告が次々と誕生してきました。 近年は駅の機能が乗降だけでなく商業施設を兼ねたりと、鉄道の利用形態も様々に進化し、より大型で訴求力の強い駅メディアの開発が続いています。 電車内では、交通広告誕生以来、紙媒体が車内広告の中心となっていましたが、JRのトレインチャンネルをはじめとする車内映像媒体が登場し、広告主からの人気を集めています」

 と少し調べただけでも、レポートのネタになるかもしれません。それにしても、日本の鉄道が新橋駅-横浜駅(現桜木町)駅間で開業したのが明治5年9月12日(西暦1872年10月14日)、その6年後には鉄道広告が登場する。誰がどのように考え付いたのでしょうか?

 次は、明治の文豪夏目漱石の前期三部作最後の作品『』の一節です(東京市電での車内広告だと思われます)。

この日も宗助はともかくもと思って電車へ乗った。(略)頭の上には広告が一面に枠にはめて掛けてあった。宗助は平生これにさえ気がつかなかった。何心なしに一番目のを読んでみると、引越は容易にできますという移転会社の引札であった。(略)宗助は約十分も掛かって凡ての広告を丁寧に三返ほど読み直した。別に行って見ようというものも、買ってみたいと思うものもなかったが(以下、略)」
(東京朝日新聞、明治43年3月4日)

 こちらもまた、現代の皆さんと同様、車内広告に対してはなはだ心もとなそうではあります。

 一方、漱石が今日の“引っ越業者”を、“移転会社”と呼んでいることにも気づきます。明治という時代は、文明開化の展開にあわせ、言葉が急激に変化する時代でもありました。そこにおのずと新旧の言葉が並ぶことも珍しくありません。上記の一節で、漱石は広告と“引札(引き札)”という言葉を使っています。この引き札こそ「江戸、明治、大正時代にかけて、商店、問屋、仲買、製造販売元などの宣伝のために作られた広告チラシ」をさすのですが、やがて「新聞広告の隆盛とともに取って代わられた」(Wikipedia「引き札」)。このように漱石は英文学者兼小説家として、いろいろな言葉を編み出し、取捨選択していく主体でもありました。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 こうした車内広告に劇的変化をもたらすかもしれない/もたらしつつあるものこそ、ムサシノ広告社のHPにも言及されているトレインチャンネル(JR東日本が首都圏で通勤電車等に設置した液晶ディスプレイによる電子広告)等のデジタルサイネージでしょう。メディア情報学科に関心がある新入生の方には必須の知識です。

 Wikipediaではその特徴を「内蔵記憶装置に多数の表示情報を保持することで必要ならば秒単位で表示内容を切り替えたり動画表示を行うなど、多様な映像広告を展開できる。ネットワーク対応機の場合は、デジタル通信で表示内容をいつでも受信可能である」と表現します。こうした特徴を車内広告で最大限に活かし、新しい車内広告を考えることこそ、皆さんの課題かもしれません。

「老い」を考える3:ヒト以外の霊長類は閉経するか?

2020 8/27 総合政策学部の皆さんへ 「老い」を考える2からの続きです。自然人類学等において、とくに話題になるのは女性の「更年期/閉経」の存在です。ニホンザルのメスには、短いながらも後繁殖期(post-reproductive life span)が見つかりました。それではニホンザルなどより格段にヒトに近縁のチンパンジーではどうでしょう?

 おもしろいことに、同じような基準でチンパンジーについて手持ちの資料を調べてみると、メスたちの最長寿命はおよそ50歳ですが、最後の出産は40歳前後でした。ただし、最後の子供が母の死を乗り越えて生き残ることができるまでニホンザルよりもかなり長く、4年半ほどかかるので、残りは5.5年ほどです。すると人生に占める割合は、ミノ婆さんよりも短くなってしまいます。このように、チンパンジーのメスにとって、後繁殖期は人生にそれほど大きな位置を占めてはおらず、ヒトの老齢期に比すべき「老齢期」という印象はかなり薄という結果になりました。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 チンパンジーの一生をもう少し詳しく説明しましょう。

 チンパンジーの社会がニホンザル等ともっとも異なる点は、メスが生まれた集団を離れて、別集団に移籍することです。したがって、娘との絆は断ち切られます。一部で生まれた集団に居残るメスもまったくいないわけではないですが、基本は生まれた集団を去る。そうだとすれば、祖母と孫が共存することはなく、Grandmother hypothesisが成り立つ余地がなくなるわけです。

 一方、息子たちも年長のオスのクラスターに組み込まれていくため、母親と息子とのつながりも目立たなくなります。これが、1980年頃に西部タンザニアのマハレ山塊国立公園でチンパンジーを感圧していた頃の私の印象です。

 結果として、老齢のメスはニホンザル以上に孤独がちに見えます。もちろん、生理学的にも明らかに老いが進行し、活動も鈍りがちに見えます。そして、他個体から孤立した存在として、いつの間にか生を終える、これがチンパンジーのメスについての印象です。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 一方、オスはどうでしょう。彼らは出自集団に残って、オトナのオスのクラスターに入ります。その結果、「父系的」な社会集団が形成されます。そのため、オスの一生を追うことができないわけではありません。

 かつて私が観察していたマハレ山塊国立公園のMグループでは、ようやく最近になって、オスの人生の全体像が見えてきました。彼らは10代前半に母親から離れ、年長のオスたちのクラスターに近づきます。そしてオス同士の間で次第に順位をあげ、最優位の位置(αオスと呼ばれていますが)を占めるのは20~29歳頃が多いということです。その人生の絶頂期が過ぎると、オスはゆるやかな衰退期をたどります。

 例えば、1979~84年に私が観察していた若いオスのカルンデは当時20代前半と推定されましたが、ワカモノオスの筆頭でしたが、ちょっと性格が堅すぎて、果たして出世できるかどうか、私は危ぶんだものです。

 しかし、しばらく身過ぎ世過ぎを重ねるうちに、やや高齢の28~29歳にαオスの座につきます。そして、いったんはその座から転落するも、しぶとく33~34歳にまた復活します。その後は緩やかに順位を下げながらも、50歳前後の老オスとし、オスのグループの中にとどまっていたのです(残念ながら、その後死去)。このように絶頂期が過ぎた後、他のオスとのつきあいを保ちながら、ゆるやかに衰退していくチンパンジーのオスの晩年こそ、生理学的にも、社会学的にもヒトの老齢期に近いものかもしれません。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さて、一応、まとめなければなりません。

 これまで紹介してきたように、サルに「老い」があるかと言えば、「老化」があることは間違いありません。しかし、例えばメスの出産率で見るように、「オトナ」として高い出産率を保つ時間は長く、そして、人生のかなり終わりの時期に急速に出生率を落として、短い後繁殖期を迎える。これがおおよその姿のようです。生理学的にも、ヒトの「閉経」に該当する段階まで生き残る個体は、とくに野生状態ではごくわずかです。

 さらに後繁殖期にあるメスでも、他個体との社会的交渉は少なく、陰が薄いことは否めません。ニホンザルではこのように、自らの繁殖を早めにきりあげ、娘の繁殖をサポートすることによって「包括適応度」をあげようというGrandmother hypothesisを積極的に支持する資料は少ないということになります。それはチンパンジーのメスも同様で、娘たちが他集団に移出するため、「老婆」の周りに娘がいることさえ少なく、孤独の陰が濃いのです。

 このような点から、サルの「老い」を扱う研究が少ないのも当然かもしれません。つまり、サルの「老い」は身体の諸器官の急速な老化という現象に集約されがちで、ヒトの社会における「老い」とどう結びつけるべきか、研究者自身もためらってしまうのではないでしょうか。

 その一方で、チンパンジーのオス、あるいはゴリラのオスも同じかと思いますが、人生の半ばで頂点を迎え、あとは徐々に衰えながら、他のメンバーとの社会的つながりも保ちながら、ゆっくりとした「老い」を迎えるオスたちの姿に、「老い」の萌芽を見ることもあるいは可能かもしれません。

相続とキャリア3:“長子相続”vs.“末子相続”

2020 8/8 総合政策学部の皆さんへ 先に投稿した「相続とキャリア1:スペアとしての寺社・修道院、そしてそこからの還俗」では、長子相続社会での例をあげました。長子がすべてを相続し、それ以外のこどもには財産が分与されない。その場合、その子供たちは何らかの方法で自分の食い扶持を確保しなければならない場合にどうするか?

 一方、親としても課題が残ります。たとえ長子が相続すると決めていても、その長子が自分よりも早めに死んでしまった場合、そのバックアップをどうするか、という課題への対処もあります(義元君のように寺や修道院にデポジットされる、あるいはイヴリン・ベアリングのように陸軍軍人として他出させる)。

 まったく、人としての悩みはつきません。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さらには「やはり弟たちもかわいい。なんとか財産を残してあげたい」と思う人も出てくる。しかし、それでは、長子の取り分を減らしてしまうことになり、今度は父親と長子の争いになりかねない。この典型例が、あまりの巨腹に「大食ではなく造化の間違い」と謳われたイギリス王ヘンリー2世(このブログで時々登場する女傑アエリノール・ダキテーヌの2度目の亭主)と息子たちです。

 例えば、1169年にヘンリー2世は「フランス王ルイ7世の提案により、14歳になる若ヘンリーを後継者と定めてアンジューとメーヌの地を、12歳のリチャードにはアキテーヌ、11歳のジェフリーにブルターニュを分配し、フランス王に臣従礼をとらせることで大陸側の所領を確認させた。わずか2歳だったために領地を与えられなかった末子のジョンは、ヘンリー2世に“領地のないやつ(Lack Land)”とあだ名をつけられ、逆に不憫がられ溺愛されるようになる」(Wikipedia)。つまり、フランス王家の政治的支配下にある領土を息子たちの間で分割相続させることにすることで手を打とうというわけです。このせっかくの措置も、しかし、父-息子たち間に平和をもたらすことにはならず、彼らの母親アエリノールの使嗾も相まって、ヘンリーは死ぬまで息子たちと争い続けます。

 さらに別のケースをあげれば、男系直系社会であっても父は婚出する娘に対して、自分が死んだ後に少しでも遺産を分けたいとも思うかもしれません。しかし、それも家族全体、あるいは長男の取り分を減らすことになる。そうすると、自分が死んだあと、長男が(あるいは他の後継者が)嫁いでしまった娘にきちんと遺産を分割するか? あやしいものです。そのため、娘が婚出時に持たされる持参金には「女性が両親から受け取る遺産の前払いという性質」がありました(Wikipedia)。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 その一方で、王家の相続には長子相続を定めておいた方がよい、という判断が次第に発達します。Wikipediaではこの経緯を「前近代社会では相続によって継承されるものは個人的な私有財産ではなく家産であると考えられていた。相続の第一目的は直系家族の維持(家の存続)であるとされ、それに最も適合的だったのが長子相続であった。つまり子のうち親との年齢差が最も少ない長子が相続することが父系的な継承線の維持にとって最も合理的と考えられていた」としています。

 これが果たして最も合理的なのか、例えば親との年齢差がもっとも少ない長子とは、親とvs.長子間の「とってかわれる者」同士の争いにつながりかねないか(上記のヘンリー2世vs.若ヘンリー、あるいは若ヘンリー死亡後のヘンリー2世vs.リチャード2世がまさにそうだったのですが)、長子相続が人類の長い歴史を経て確立するまで、色々なこと、とりわけ悲劇が訪れます。

 例えば。第38代天皇である天智天皇は、後継者として同母弟である大海人皇子を皇太弟に立てます。これは兄弟継承を想定してのことで、実力者から実力者への権限移譲として安定した継承になるはずでした。過去にも、第16代仁徳天皇の後に17代履中天皇(仁徳天皇の第一皇子)⇒18代反正天皇(第三皇子)⇒19代允恭天皇(第四皇子;ちなみに、3人は同母兄弟)という兄弟継承が始まりですが、しばしば同じような継承が見られます。

 しかし、天智天皇は671年に自身の第一皇子である大友皇子を太政大臣に任じることで、あたかも長子継承を希望するかのように行動し始めます。その結果として、壬申の乱が勃発します。日本史を学ばれた方には先刻ご承知の事件ですね。

 本来後継たるべき実力者大海人皇子は自ら出家を申し出て吉野宮(現在の奈良県吉野)に下りますが、兄天智天皇が46歳で崩御するや、吉野を出奔、兵をあげて甥にあたる大友皇子を討ち、天武天皇として即位します。この経過をシェークスビア好きのイギリス人が聞けば、ヘンリー2世の7代の裔、リチャード2世が従弟であるヘンリー・ボリングブルックこと後のヘンリー4世に王位を簒奪される悲劇『リチャード2世』を思い起こさせるかもしれません。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 壬申の乱で興味深いのは、この乱は伯父大海皇子vs.甥大友皇子(弘文天皇)の対立にとどまらないわけです。このころの宮廷は近親者間の婚姻がふつうでしたから、2つの陣営は
・異母姉vs.異母弟:鸕野讚良皇女こと後の持統天皇(大海皇子の皇后)vs.大友皇子
・父vs.娘:大海皇子vs.十市皇女(大海皇子の第一皇女で大友皇子の正妃)
・従兄弟同士:高市皇子(大海皇子の第一皇子)vs.大友皇子
等の組み合わせを含んでいました。まさに“骨肉”の争いだったわけです。

 もう一つ興味深いのは、実力で近親者から皇位を奪った天武朝ですが、その後は持統天皇の強力な意思によって直系相続を試み、そのためには中継ぎ役として何人もの女帝(持統、元明元正孝謙・称徳)を擁立しながら、4代目で男系直系相続に失敗、天智天皇まで遡っての皇位継承(光仁天皇)となることです。かくも直系維持は難しいのです。

 ちなみに、光仁天皇は即位前、「専ら酒を飲んで日々を過ごす事により、凡庸・暗愚を装って難を逃れた」と伝えられているとのことですが(Wikipedia)、このエピソードはローマ帝国第4代皇帝ティベリウス・クラウディウス・ネロ・カエサル・ドルスス(通称クラウディウス)がみんなから白痴とみなされながら、先帝カリグラ暗殺の混乱の中でひっぱりだされた際、「諸君が私を哀れなうすのろだと思っておられることは、よく存じておる。だが私はうすのろではない。私はうすのろのふりをしていたのだ。そのおかげで今ここに来ているのだ」との名科白をはいたという故事を思い起こさせます(モンタネッリ『ローマの歴史』)。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さて、その一方で、ヒトでは長子継続が自明ではない社会ももちろんあります。例えば、江戸時代、日本の漁村では家はむしろ“末子相続”でした。これは漁民の仕事場が、田畑のように明確に相続できる不動産ではなかったことに加えて、子供が長じて家業にいそしむと海難による死亡の確立も高いため、末子に継がせるのがより安全=合理的だという判断になるそうです。

 また、Wikipediaによれば、「長野県諏訪地域では、江戸時代後半から昭和戦前期まで末子相続が見られた。この場合、長男次男などは江戸に奉公や出稼ぎに出かけ、男性の末子が田畑を相続し両親の扶助を行った。この地域の田畑の生産力が低いことと、江戸時代中期以降に耕地の細分化と核家族化がすすんだため、こうした風習が成立した」とあります。つまり、環境やニッチが変われば、末子相続も合理的になる!

 おもしろいことに、この諏訪地方の風習は「長男相続と家父長制を規定する大日本帝国憲法下の民法に抵触したため、訴訟裁判沙汰となることもあった」とのこと。つまり、法律が現実をカバーできない! そんなことを考えていると、いくらでもレポートのテーマのネタがありそうです。

 なお、末子相続はチンギス・ハン時代のモンゴルでも見られ、「モンゴル人の間では親の遺産を相続する末子を「火の王子(炉の番人とも)」を意味する”オッチギン”と呼んだ。神聖な家の炉の火を守り、継承する者だからである。チンギス・ハーンの末の嫡出弟であるテムゲ・オッチギンが著名である」とのことです(Wikipedia)。

ケチャップの歴史3~本来のケチャップは:食についてPart22

2020 8/2 総合政策学部の皆さんへ ケチャップの歴史の3回目は、本来のケチャプとは何か、について考えてみましょう。先にご紹介したように、もともとの語源とされる中国の閩南語や台湾語での kechiap、koechiap(鮭汁;ケーチアッ)は、“鮭汁”という言葉通り、小魚やエビの塩辛から分離した魚醤の類とされています。日本では、秋田のしょっつる、能登のいしる、香川のいかなご醤油が該当するでしょう。

 この手の魚醤は中国南部から東南アジアでは一般的で、ベトナムのニョクマム、タイのナンプラー等がしられています。インドネシアではこれがケチャップ・イカン(インドネシア語でイカンは魚で、魚で作ったケチャップ)となります。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 なお、世界の他の地域での魚醤の類を紹介すれば、ローマ帝国時代に広く使われていたという“ガルム”があげられます。これは「魚の内臓を細切れにし、塩水に漬けて発酵させて作る。完成品はまろやかで繊細な風味だが、発酵中はひどい臭いがするため、ガルム生産者は近所から苦情が来ないよう都市の郊外で生産した」とのことですが、「ローマ帝国の滅亡と共に製法が途絶え、魚醤自体ヨーロッパではチェターラのコラトゥーラ・ディ・アリーチ・ディ・チェターラぐらいしか作られることはなくなった」(Wikipedia)とのことです。

 もっとも、カタクチイワシの類を塩蔵して発酵させたいわゆるアンチョビーはしばしば調味料的に使われるので、ガルムの遠い後裔とも言えるかもしれません。また、「19世紀初頭にイギリスのウスターシャー州・ウスターの主婦が、食材の余りを調味料とともに入れ保存したままにしたところ、ソースができていた。このことがウスターソースの始まりとされている」(Wikipedia)というウースター・ソースの原料にはアンチョビが含まれているとのことで、これもまたガルム以来の伝統をかすかながらついでいるのかもしれません(なお、日本に伝来、国産化された日本のウースターソースにはアンチョビはふくまれていなとのことです)。

 ちなみに、Wikipediaによれば「無数のソースを生み出した料理大国であるフランス人は、ウスターソースを万能として使用するイギリス人を揶揄的に「百の宗教があるが、1つのソースしかない」と表現している」ということですが、そのイギリス人が「(某大統領のように)何にでもケチャップをふりかけるアメリカ人」を揶揄しているというところは、まさに差別の連鎖とも言えるかもしれません。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さて、インドネシアのケチャップに話を戻せば、今日、大量に消費されているケチャップはその材料を大豆と小麦に転じ(つまり、日本の味噌・醤油に近くなり)、そのうち甘味がついているものがケチャップ・マニス、辛みがついているものがケチャップ・アシンと呼ばれています。つまり、インドネシアのケチャップはどちらかというと“醤油”あるいは日本の“ソース”に近い存在のようです。

 インドネシア料理には、この甘いケチャップ・マニス(サラダのガドガドや焼き鳥状の串焼きのサテ等の甘い味付けが代表的です)、トウガラシの辛味によるケッチャプ・アシン、そしてインドネシア風チリソースのサンバル等で味付けられるのがふつうです。

 この手の調味料は現在では食品メーカーによる大量生産で、とくにABC社の製品が幅を利かせています。そのABC社製品を扱っている協同食品のHPでは「インドネシアの“ケチャップ”とは、醤油を意味し、甘口でとろみのある醤油のケチャップマニスと薄口醤油のケチャップアシン、唐辛子とにんにくなどを材料とする“サンバル”をベースにしたチリソースです。
 ケチャップマニスを3~4に対して、サンバルアスリを1の割合で合わせると、本場さながらの味となり、炒飯のナシゴレン、焼きそばのミーゴレン、焼き鳥のサテ、その他白身魚の煮物など幅広くご利用いただけます」と紹介しています。

 このあたりの実物を見たければ、関西ならば神戸の南京町、関東ならば上野のアメ横センタービル近いのエスニック専門店街に行かれることです。

 このようにケチャップ一つをとってみても言葉と食の変遷は様々で、ぞこに思わぬ広がりを感じ取って下さい。

村井弦斎『食道楽』からタピオカ、白菜、ラーメン、カレーを考える:食についてPart 21

2020 7/22 総合政策学部の皆さんへ

 「ケチャップの歴史2番外編~トマト・ケチャップ出世譚:食について Part 20」で村井弦斎食道楽』(青空文庫版)を引用しましたが、開国以来160年になんなんとする日本の食を考える上でも、貴重な資料と言えるかもしれません。例えば、今の私たちの食に当たり前のもので、『食道楽』に見当たらぬものは何か? あるいは『食道楽』で村井がせっかく紹介しながら、その後の日本で忘れ去られたものは何か? そこに今の日本の食の本質をかいま見ることができるかもしれません。

 さて、『食道楽』は「1903年1月から1年間、報知新聞に連載され、大人気を博したことで単行本として刊行されると、それが空前の大ベストセラーになった。文学史的にも評価が高く、村井弦斎の代表作とされている。翌1904年にかけて続編を含めた8冊が刊行」されました(Wikipedia)。ちなみに1903年1月は、1日:英国王エドワード7世がインド皇帝に即位、14日:大谷探検隊がインドビハール州ラージギル郊外で釈迦の住んだ霊鷲山を発見、23日:夏目漱石が英国留学から帰国とのことです。

 この年12月31日の日本の人口は46,732,138人で現在の3分の1です。完全なピラミッド型の人口構成で、まぎれもなく人口増大期にあたります(東京では、死亡者数を出生者数が上回り、都会でも人口再生産に転じます(それまでは江戸時代そのままに、田舎に生まれた若者が東京にのぼって、結局、結婚も子供も残すことができずに死に絶えていくアリ地獄的世界でした)。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 『食道楽』冬の巻の末尾には登場する食や材料についての索引がついていますから、ここであたりを付ければ、120年前の日本の食生活と現在の違いがうかびあがるかもしれません。例えば、タピオカ! 正確にはタピオカはキャサバから作ったデンプンですから、皆さんの頭に浮かぶタピオカはタピオカティーと呼ばねばなりませんが、果たして『食道楽』に出ているのでしょうか?

 それが出てくるのです。第282回「米料理」に“ライスプティング”の材料として堂々の登場です。「セーゴでもタピオカでもジャムやでもやっぱり同じ事で大匙二杯位を初めは暫しばらく水へ漬けておいて膨ふくらんだ処を二合の牛乳へ入れて砂糖を三杯加えて三十分以上煮て出来上った時玉子の黄身を二つ混ぜてテンピの中で二十五分も蒸焼にすると病人にはどんなにいいだろう。無病の人には牛乳で煮ないでも普通なみのカスターソースを拵えてその中へ水に漬けたセーゴやタピオカを混て蒸焼にしてもカスターセーゴプデンといってなかなか美味おいしい者が出来るよ」とあります。

 このタピオカは何か? と思って『食道楽』をさらに調べると、「タピオカのマッシもセーゴに似て少し大粒の固まったものです。セーゴよりも固い物ですから四十分間水へ漬けておかなければなりません」とあるので、どうやらタピオカパールは1903年の日本にも輸入されていたようです! ちなみにセーゴとはおそらくサゴヤシデンプンの可能性があります。またマッシとはマッシュを指すようです。

 それにしても、せっかく村井先生がご紹介しながら、ライスプディングもタピオカも、その後、日本の料理界からは忘れ去られてしまうわけですが。村井は“ライスプデン”と表記していますが、これは「米をミルクで煮た料理である。同様のものが世界各地に存在する。日本では乳糜(にゅうび)、乳粥(ちちがゆ)、ミルク粥などとも呼ばれる」とのことです(Wikipedia)。私は中学時代、白水社版のスウェン・ヘディンの中央アジア探検記シリーズに頻繁に出てくる字面を見て、「この食べ物はいったい何なのだ?」と疑問に思ったものです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 それでは『食道楽』に何が登場しないのか? どうやら“白菜”という名前が見当たりません。現在青空文庫で公開されている春、秋、冬の巻を「白菜」で検索してもでてこないのです。そこで、春の巻の最後にでてくる栄養分析表(文明開化ですね)を見ると、(豆や薯類を除けば)根菜に大根、蕪、人参、牛蒡、蓮根、慈姑等が、葉菜に葱、韮、三河島菜、甘藍(キャベツ)、水芹、独活、蕗、蕨、薇、ホウレンソウ、小松菜、トウ菜、三つ葉、京菜、芹菜、茄子、胡瓜、南瓜(とうなすと表記)、冬瓜等がでています。

 一方、冬の巻の最後にでてくる「食道楽料理法索引」にはこのほか、赤茄子(トマト)、アスパラガス、アテチョー(おそらくアーティチョーク)、枸杞(の若芽)、嫁菜、紫蘇、白瓜、ズイキ、玉葱、花キャベツ、山葵、蕨等がありますが、白菜はまったくありません。

 それも道理、「日本で結球種のハクサイが食べられるようになったのは、20世紀に入ってから」で(Wikipedia)、「普及のきっかけとして、日清・日露戦争に従軍した農村出身の兵士たちが、中国大陸で食べた白菜の味を気に入って持ち帰ったからと言われているが、各地で栽培が試行されたもののほとんどは、品種維持に失敗したと見られる」ということですから、1903年の村井先生の視野にはまだ入っていなかったと思われます。

 なお、『食道楽』の栄養分析表には、当然、1910年以降に鈴木梅太郎らによって次々に発見されたビタミン類はのっていません(カロリーもついていません)。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さて、現代の日本の食で『食道楽』に登場しない代表としてラーメンがあげられるかもしれません。これまたWikipediaに頼れば、「1910年、東京府東京市浅草区に初めて日本人経営者尾崎貫一が横浜中華街から招いた中国人料理人12名を雇って日本人向けの中華料理店「来々軒」を開店し、大人気となった。その主力メニューは、当時は南京そば、支那そばなどと呼ばれたラーメンだった。新横浜ラーメン博物館によると「来々軒」を中国の麺料理と日本の食文化が融合してできた日本初のラーメン店としており、ラーメン評論家の大崎裕史はこの年を「ラーメン元年」と命名している」とのことで、1903年刊の『食道楽』には間に合わなかったようです。

 とはいえ、『食道楽』にはもう一つの現代食、カレーがかなり頻繁に登場してきます(なお、ライスカレーとして登場しています)。秋の巻には31回、冬の巻には索引もあわせて15回登場しますが、材料も多彩で、牛肉、鳥、魚、玉子、アサリ等です。なお、玉子のカレーとは、カレーのスープを作ってからそこに「湯煮玉子を四つ小さく輪切にして入れて御飯へかけます」とあります。その昔、東アフリカのタンザニアでホテルのメニューにエッグ・カレーがあったので注文すると、丸のままのゆで卵がカレースープの中に鎮座してでてきたのを思い出します。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...

月別記事