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学習机の普及:明治・大正期の日本に、学習机はどのように広まったか?

2019 6/24 総合政策学部の皆さんへ

 今回は少し変わったテーマかもしれませんが、先日、兵庫県内の某高校に高校生の課題研究に“出前講義”に行った時のことから始まります。

 実は、昨年度も同じ高校にお邪魔して生徒さんの研究テーマを講評したのですが、その一つに“Standing desk”がありました。「立ったまま仕事・学習をする机」です。もちろん、ずっと立ったままで仕事/勉強にするのはつらい! と思う方のためには、コクヨなどが高さを自由に変えるタイプも市販しています(ただし、価格は当然高くなる)。

 このタイプの机は、コクヨのHPでは“重視される「働き方の多様化」と健康経営”(https://www.kokuyo-furniture.co.jp/products/office/sequence/about/)と題されて、「少子高齢化や若者の労働観の変化などの潮流を受け、企業経営において、社員の健康管理に配慮しながら、多様な働き方で生産性を維持・向上する取り組みが重視されはじめています」と銘打って、
(1)業務の質向上「モードチェンジ:立ちと座りの繰り返しが気分転換となり、集中力が維持できます。また、昼食後の眠気防止にもなります。生産性の向上:立ち姿勢だと、短時間で集中して業務を処理しようとする意識が高まり、時間効率の向上につながります」。

(2)コミュニケーションの活性化「視線が交差する立ち姿勢は互いの目線が合いやすいため、部下から上司へも含め声を掛けやすくなります。軽い立ちミーティングがすぐに座ったままでいると移動が億劫になりがちですが、立ち姿勢だと、確認や連絡などの行動がすぐに起こせます

(3)健康増進:「ワーカーの悩みで多い「肩こり・腰痛」について、座ったままだと血流が悪くなり、背中などに疲労がたまります。背中や腰の痛みの原因の約95%は、身体を動かさないことと言われています。「肩こり・腰痛」に悩んでいる人が多く、特に肩こりは座っている時間が長い人に多いということがワーカー調査から分かっています。また、生活習慣の改善として、座った姿勢と立った姿勢を交互に行うことによって、身体にかかる重さを調節し、疲労した筋肉を休ませ、リフレッシュにも繋がります

と謳っています。なんだかよいことづくめです。

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 しかし、なにゆえ立ったままで仕事するタイプの机ができたかというと、実は我々の健康問題に端を発しています。つまり、長時間座ったままの姿勢でいると健康によくないという説があるのです。例によって論文を検索すると、「日本では運動や食事に気を配る様子は見られても,座ることに対する危険性をあまり認知していない.
私たちは平均して一日のうち8.4 時間座位行動しているが(Healy et al. 2011),気づいていないうちに自分の寿命を縮めているかもしれない.このように無自覚に長時間継続して着座姿勢をすることにより潜在的な健康リスクを惹起することを本論文では「座位問題」とする」(原野、2017、ELCAS Journal 2: 63-65)などの記述が目につきます。

 ちなみにこの「座っていると健康リスクが生じる」という原点は、Healy G. N. et al. (2011)Sedentary time and cardio-metabolic biomarkers in US adults. NHANES 2003-06. Eur. Heart J. 32: 590–597あたりのようです。とは言え、座位が本当に健康に悪いかどうかは反対の意見もあるようで、当否については今回はパスします。

 ともあれ、高校の生徒さんは健康問題よりも、学習に集中するために立ったままで授業をうけるのは効果があるのではないか(昼寝するわけにもいかない!)、と考えてこのテーマを選んだようです。それで、私も例によってgoogle scholarで調べてみると、なんと日本語の論文はほとんどんどなく、英語論文では主に欧米での小中学校の肥満問題(立って授業を受ければ、痩せる!)、昼寝を防止する(立っているので、寝るわけに行かない!)などの対策で導入されているようです(Benden et al. (2014) The Evaluation of the Impact of a Stand-Biased Desk on Energy Expenditure and Physical Activity for Elementary School Students. International Journal of Environmental Research and Public Health 11:9361-9375).

 私の評価は「とりあえず、君らの発想はえらい! 日本語の論文がほとんどないのだから、大学の先生などと肩を比べられるような研究になるかもしれないね」というものでした(その後、実際に古い学習机を改造して試作されたとのことです)。

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 さて、実をいえば、今回はここまでが話のマクラで、肝心なのはその続きです。数ヶ月後、今度は学年が一つ下の新入生の方々を対象にアクティブ・ラーニングのスキルを紹介しにでかけたのですが、駅まで送っていただいた車中で、担当の先生から「実は、日本の学校にどういう経緯で学習机が普及したか、文献を探してもよくわらかないのです」と突然相談を受けました。

 こちらもちょっと虚をつかれたというか、そういえば、明治頃の学校を描いた古図でも机が並んでいるようだけれど、そこにどんな経緯があったかなどちっとも考えていなかったことにあらためて気づいた次第です(人類学者としては反省しなければ)。

 そこで、思いつくまま「実証的な研究だと、明治期の小学校の写真を見て、図像学的に調べるとか」と説明して、「何年か前に、制服・制帽の普及について知りたくて、ネットで小学校の昔の卒業写真を調べてみると、まず、男子の頭に(足は下駄、身体は和服のままでも)学帽がかぶさり、一方、女の子は和服のままだとか、先生方の服装も男性教員は洋服なのに、女性教員は和服が多いとか、までは調べたのですが」と返しました。

 帰宅後、気になったので、またGoogle scholarを開けて探してみると、これが意外になかなか見つからない。しばし苦闘してから、以下の4編をなんとか探し当てました。
・西村大志(1997)「日本の近代と児童の身体:座る姿勢をめぐって」『ソシオロジ』pp.43-64.
・岡田栄造ほか(2000)「近代日本における椅子開発とその社会的背景:明治・大正・昭和前期における特許資料の考察をとおして」『デザイン学研究』47(6):1-8.
・岡田栄造ほか(2000)「明治・大正・昭和前期における特許椅子の展開過程:寿商店「FK 式」回転昇降椅子を事例として」『デザイン学研究』47(6):9-16.
・岩井一幸(2004)「家具の標準化(レビュー)」デザイン学研究特集号11(4):7-11
どうやら「学習机」については家具やデザイン関係の学術雑誌に載っていたらしく、上述の先生が教育系の雑誌をさがしても見つからなかったわけです。

 なお、肝心の明治期における学習机の導入過程ですが、上述の「家具の標準化」によれば、「生活の椅座化への動きは、明治維新に学校が椅座化を目指すところから始まっている。1869 年(明治2年)、木戸孝允は、新政府に「普通教育の振興を急務とすべき建言書」を提出、欧米風の学校制度を全国に実施するよう主張した。それまでの寺子屋での座机による教育からの脱出である。教育史によれば、初期には机腰掛けが準備できないために、各自宅から、座机を持ちこむという指示や、腰掛けによる教育は疲れるので、座式の教育を認めて欲しいとの嘆願書も出ているものの、1872 年(明治5年)の学制改革以来、学校で今日の机腰掛けという家具の標準化の基礎が作られた。1891 年(明治24 年)小学校設備準則の中で机腰掛けについて規定され、学校用家具標準化が始まった。その中心は、寸法に表現された規範で あり、一定の寸法による質の同一性で、同じものをある一定量つくることを目指すものであった」とあります。

 このように、“学習机”のようなきわめて身近で、だれもがあって当然と考えているものにさえ、さまざまな歴史がひそんでいることをみなさんも意識してください。

なにゆえに、今津線はほぼ直線か? 小林一三と阪急文化圏、そして関西学院Part3

2017 12/25 総合政策学部の皆さんへ

 話のネタとして、“関西学院と小林一三”、尽きることがありません。「鉄道を起点とした都市開発、流通事業を一体的に進め、六甲山麓の高級住宅地、温泉、遊園地、野球場、学校法人関西学院等の高等教育機関の沿線誘致など、日本最初の田園都市構想実現と共に、それらを電鉄に連動させ相乗効果を上げる私鉄経営モデルの原型を独自に作り上げた(Wikipedia)」という彼の業績を振り返ると、つくづく大した方だと思います。

 そこで、本日とりあげるのは関学上ケ原キャンパスにもなじみ深い今津線(というよりも、この今津線隆盛のため、多額の赤字をかぶっても1929年の関学上ケ原移転になみなみならぬ情熱を傾けた小林です)、移転当時は西宝線です(西宮-宝塚というわけですね。その後、今津駅まで延伸して、今津線になります。この時、西宮北口駅で“平面交差(ダイヤモンドクロス)”が生じますが、それはまた別の機会に)。

 有川浩の小説『阪急電車』の舞台となり、2011年には映画化もされたこの路線ですが、Webで見つけた明治44(1911)年の西宮市の地図にはまったく載っていません。それどころか、その周囲には田んぼばかりで、市街も存在しない。文字通り“武庫の平野”に田園が広がり、そこをつききるのは旧西国街道(現在の国道171号線がほぼ平行に走っています)ぐらいなものです。そこに宝塚から西宮まで、ほぼ直線に延びる宝塚線。その直線性の秘密です。

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 阪急電鉄の前身が1907年設立の箕面有馬電気鉄道だったことはよく知られていますが、営業開始は1910年3月10日、現在の宝塚本線(梅田-宝塚)と箕面線(石橋-箕面)でした。その宝塚線は能勢街道沿いにルート選択、そのためカーブの連続で、現在に至るもスピードアップが困難ということが知られています。また、駅の間隔がつまっていて、特急などの高速運転に不適なため、基本は急行での運行です。

 1907年、東京の三井銀行から関西に転じ、当初は証券会社をめざすも挫折した小林一三は、この宝塚線(当時は、周辺に家もなく、田畑を縫うように走る「ミミズ電車」というあまりありがたくない徒名までついていました)の経営について、沿線土地をあらかじめ買収、宅地造成月賦販売による「乗客の創造」をおこなったことはつとにしられていますが、同時に、線路を直進させることの重要性もまた身にしみて感じたに違いありません。

 そのためか、西宝線(現、今津線)はこちらも当時はほとんど家がなかった武庫川右岸を宝塚からほぼまっすぐ南下、西宮で神戸線にほぼ直角に交わる形で接続したのでしょう。また、これ以前に手がけた1920年開業の神戸本線(梅田から当時は神戸駅とした旧上筒井駅=原田の森キャンパスそば)もまた、ほぼ直線的な路線になっています。

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 さて、現在、上ヶ原キャンパスの学生の多くが乗り降りする甲東園駅は1921年の開業当初は存在せず、1922年にこの付近に果樹園を経営していた大地主芝川氏からの土地提供により新設されたものです(ちなみに“甲東”とは、甲山から見て東という意味で、1889年に合併した時の命名とのこと)。仁川駅はさらに遅れて、1923年の開業になりますが、当時、下流から上流にかけて展開中だった武庫川改修が関係します。

 兵庫県の「武庫川水系河川整備計画(平成23年8月)」によれば、「武庫川下流部において築堤、河床掘削などの本格的な改修が始まったのは、大正9年である。阪神国道(現国道2号)の工事に関連して県が改修に踏み切り、第1期工事として大正9年から大正12年にかけて東海道線以南の約5kmを改修した。費用は、武庫川の派川である枝川、申川の廃川敷の売却益を充当したものである。第2期工事は、大正13年から昭和3年にかけて、東海道線から逆瀬川までの約8kmで行われた」とありますが、甲東園・仁川両駅の開設とほぼ同期していることはおわかりになるはずです。

 ちなみに、上記の文中、「枝川、申川の廃川敷」とある一部には甲子園球場が建っています。また、仁川・武庫川の合流点の改修は同時に、武庫川右岸に広大な敷地を出現させ、そこに進出した企業に当時の川西航空機(現新明和工業)があります。第2次世界大戦が始まった翌年の1940年12月に当時の良元村に建設決定、1941年5月に工場建設を開始し、日本が対英米戦に踏み切る12月に操業を開始します。実は、関西学院では1944年10月に勤労動員課を新設して、兵庫県三原郡陸軍飛行場設営工事、三菱電機神戸工場、日本パイプ園田工場と並んで、この川西航空機宝塚工場などにも学生を送り込んでいます。

 こうして武庫川改修とともに、阪急西宝線が開通、さらに関西学院(1929年)や神戸女学院(1933年)などの移転も加わり、現在の武庫川周辺の住宅地域が形成されます。このあたり、阪急の歴史、住宅地開発の歴史とあわせて、関学の歴史としても覚えて置いて下さい。

鶴橋について#1:フィールドワークをしてみましょう:そもそも、鶴橋駅は何時、どんな風に出現したのか?

2014 6/15 総合政策学部の皆さんへ

 皆さんは鶴橋をご存じでしょうか? JRと近鉄の両鶴橋駅周辺に広がる、商店街の巨大複合体(全体で800~900店舗があると言われています)。商店街としては以下の6つの名前が挙がります。

①鶴橋西商店街(通称焼き肉通り)
②鶴橋商店街振興組合(コリア系日用品・食材)
③高麗市場(コリア系食材)
④東小橋南商店街(鶴橋本通沿い)
⑤大阪鶴橋市場商店街振興組合(鶴橋本通沿い、和食食材)
⑥大阪鶴橋卸売り市場共同組合(問屋街)

 和韓とりまぜてのこの巨大商店が、そもそも、どうしてできあがったのか? かつ、全国で「商店街が衰退していく」と指摘されながら、どうしてまた生き残っているのか? これが今回のテーマといえるでしょう。

 さて、この1月初旬には(ちょっとした経緯で)山田先生のゼミ生と鶴橋めぐりをする機会がありました。その際に、少しはためになるかもしれないと思い、色々資料を用意すると、なかなかにおもしろいことがわかってきました。ということで、ここでは“鶴橋”を話のきっかけとして、“日常”の中のフィールドワーク、そしてリサーチのやり方について述べていきましょう。

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 それではまず、“商店街”をリサーチする際のポイントを考えてみましょう! まず、そもそも、“商店街”とは何か?これには、日本の近代化をベースに、二つの見方があります。

①本来、商業地や交通の要地に自然発生したもの。
②近代化で誕生:20世紀前半、農民層が減少、都市人口が急増したが、都市流入者の多くが資本を必要としない貧相な店舗、屋台、行商の小売業の零細自営業を始める。これら零細自営業を増やさないことと貧困化させないことから「商店街」という理念が作られた。
(新雅史『商店街はなぜ滅びるのか』光文社新書)。

 ①のタイプであれ、②のタイプであれ、日本の都市は第2次大戦という大きな試練を経ます。言うまでもなく、連合軍による空爆その他で、日本の都市の多くは焦土と化しました。

 商店街は「その戦争で焼け野原となった地域に再び発展。当時、都市の中央商店街に一家揃って出かけることは数少ない楽しみの一つであり、どの都市でも「一等地」だった。それが、いつの間にか衰退への道をたどることになる」のです(Wikipedia「商店街」)。

 それでは、どうしてそこに商店街が発生したのでしょうか? どうやら鶴橋の歴史を考える必要があります。その歴史に、どんな独自性があるのか? 言うまでもなく鶴橋のポイントは「駅」です。そこで、皆さん、考えて下さいね。

 そもそも、江戸時代には、鶴橋に(いや日本に)鉄道駅などいっさいなかった。あるわけがない。日本での鉄道開業は1872年6月12日(明治5年5月7日)の品川駅 – 横浜駅間の仮開業;Wikipedia「横浜駅」)です。それでは、現在、JR、近鉄、地下鉄等が交錯する鶴橋駅はどんな順番で設置されたのか?

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 ということで、とりあえず、駅が解説された順番を調べてみましょう。

 鶴橋を通過する公共交通(JR、近鉄、地下鉄)の中で、そもそも初めに敷設されたのは1889年湊町 – 柏原間で開業した大阪鉄道(現在のJR環状線の一部ですが、当時は私鉄です)が、1895年(明治28年)5月28日に天王寺と玉造、ついで玉造から大阪駅まで開業します。これがいわゆる城東線(大阪城の東という意味ですよね)ですが、その時には鶴橋駅はありません。

 当時の地図を見ると、ほとんど田畑で駅を設ける必要もなかったように見受けられます。これが現在の環状線に結びつくわけです。1907年(明治40年)10月1日に国有化されて、いわゆる国鉄に発展します。これを運営したのが鉄道省、昔は、国鉄の運営のために一つの省があったのですね。

 ここで、古地図を探してみましょう。Googleで「鶴橋、地図、明治」とキーワードを入力、画像で検索すると、まっさきに「混雑するけど不遇の駅」と題するHPが見つかりました(http://oldmaproom.aki.gs/m03e_station/m03e_tsuruhashi/tsuruhashi.htm;後註、その後、このURLは使えなくなってしまったようです)。そのサイトを見ると、なんと明治31年修正「天王寺村」、明治32年修正「大阪」の2万分の一の地図がでてきました。その図では、たしかに鉄道(現在のJR環状線)が通っていますが、鶴橋駅は影も形もありません。そもそも、田んぼ、湿地、果樹園で、街がないのです!
 
 その田んぼが、時間の経過とともにどう変化するのか? 同じHPには、明治41年測図の「大阪東南部」もあるのですが、約10年をへて次第に家が増えていることがわかります。しかし、同時に駅はまだ影も形もありません。 街がなければ、商店街もあるはずがない。

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 そんな状況下で、現在の近鉄がこちらも“大阪電気軌道”、略称“大鉄”として、大阪と奈良を結ぶ鉄道として敷設されます。この開業は1914年(大正3年)4月、そして、ついに鶴橋駅が誕生します。つまり、そもそもは近鉄の駅だったのですね。

 ところが、その位置は現在から300mほど東、つまりJRから少しはずれたところでの開業です。これでは、国鉄との乗り合わせが不便ですね。(先ほどのHPでは、大正10年の1万分の1地形図「大阪南部」「大阪東南部」があって、この図に鶴橋駅が登場します9。

 それが1932年(昭和7年)8月23日、鉄道省線(城東線=現環状線)についに現在の鶴橋駅が開業されることになります。それにともなって、近鉄の鶴橋駅が西へ移設されたというわけです。これが現在のJR・近鉄の乗り換え駅としての鶴橋駅になります。

なお、大鉄は1941年(昭和16年)3月15日、参宮急行電鉄と合併して、関西急行鉄道と改称、さらに1944年(昭和19年)6月1日に近畿日本鉄道となります。

 同じHPの昭和27年修正測量、1万分の1地形図「大阪南部」「大阪東南部」でははっきりと国鉄、近鉄、そして路面電車(大阪市電)の駅が集中しているのがわかります。ついに、交通の要衝となったのです。

 この大阪市電が地下化、1969年(昭和44年)7月25日に大阪市営地下鉄千日前線として鶴橋駅が設置される。ここでめでたく、現在のJR、近鉄、地下鉄が交差する“鶴橋駅”となります(Wikipedia「鶴橋駅」より)。

 ということで、一つの駅にもそれなりの歴史があり、街もいつの間にかできあがっていく。そのあたりをわかっていただいたところで、to be continued・・・・・・・・といたしましょう。

アートについて:聖堂/教会堂が建てられる時

2013 6/18 総合政策学部の皆さんへ

 イギリスのベストセラー作家ケン・フォレットの作品の一つに『大聖堂』があります。なかなか大部の、作者はおそらく力をこめての作品ですが、輻輳するテーマの一つは「大聖堂がいかに建てられたか?」というもので、建築系を目指す方々には興味深いものかもしれません。

  なお、『大聖堂』の時代的背景は、Wikipediaの記述を借りれば「ホワイトシップの遭難から始まる無政府時代からカンタベリー大司教の暗殺という半世紀」(正確には西暦1120年から1170年)で、建築史的には「ロマネスク建築からゴシック建築へ移り変わる技術的な歴史も背景としている」とのことです。

  まったくの話、『旧約聖書』にでてくる“バベルの塔”の逸話にも関わらず、というよりもその逸話故に刺激されてか、地上から天上にまでとどこうする人々の思いが、構造力学や物質工学的な発展もベースに、塔や大聖堂を次々にものにしていく、そんな時代背景です。

 ちなみに日本語の“塔”は、もともとは仏教の言葉 स्तूप (stūpa、サンスクリット語のストゥーパから来たそうですが、これはインドでは「土を盛り上げた塚」のことで、それが中国から日本に伝わるうちに、いつの間にか丈の高い建造物へと変身してしまったようです。その片方で、「ストゥーパ」はいわゆる“卒塔婆”にもなるのですから、言葉の変化にも驚かされます(Wikipedia)

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 それにしても、西洋のいわゆる大聖堂は非常に長い年月をかけて立てられます。フォレットの『大聖堂』は男性主人公の一代で作るのでまだ良い方ですが、ともかく時間がかかったことで有名な例は、ドイツのケルン大聖堂でしょう。例によってWikipediaでは以下のように記述されています。ちょっと長い引用になってしまいますが。

現存の大聖堂は3代目で、初代が完成したのは4世紀のことであった。正方形の建物で、最も古い聖堂として知られていた。
 2代目は818年に完成し、12世紀後半に東方三博士の聖遺物がおかれたことで多くの巡礼者を集め、ケルンの発展に貢献した。1248年の4月30日に火災により焼失した。3代目は2代目が焼失した年である1248年に建設がはじまった。しかし、16世紀に入って宗教改革を発端とする財政難から一度工事が途絶し、正面のファサードの塔がひとつしかない状態が続いた。建設が再開されるのは19世紀に入ってからだった。
 ナポレオン戦争の影響によりドイツでナショナリズムが高揚する中、中世ドイツに自民族の伝統を探し求める動きが強まった。建築ではゴシック・リヴァイヴァルの潮流が強まり、建設途中であったケルン大聖堂に注目が集まったため、1842年に建設が再開され、もうひとつの塔の完成が急がれた。全てが完成したのは建設開始から600年以上が経過した1880年のことであり、高さが157mの大聖堂はアメリカのワシントン記念塔(高さ169m)が完成する1884年まで建築物としては世界一の高さを誇った

 1248年から1880年まで、実に652年! これで見れば、スペインはバルセロナで、ガウディが建て始めた“サグラダ・ファミリア”こと“聖家族贖罪教会”(カタルーニャ語ではTemple Expiatori de la Sagrada Famíliaとのこと)等、まだかわいいものともいえましょう。

 このサグラダ・ファミリアの着工は1882年3月19日ということで、まだ“たったの130年余”、かつては300年はかかるといわれていた工期も、どうやらあと13年後ぐらいには完成するとのことですから。

 と、ある日ふと気付いたのですが、こうした教会を建てるということは、ひょっとしたら完成したことよりも、人々が神に感謝の意をこめて黙々と立てているその行為こそが誉むべき行為であり、完成していないからと言って、決して落としめられるべきことではないのではないか、ということです。

 つまり、自らの人生を犠牲にしても教会を建てようという行為と、完成した教会で神を寿ごうという行為と、神はどちらを愛されるだろうか? もちろん、どちらも良き事ではあるにせよ・・・・・などと思ったことでした。とすれば、完成しない教会こそが(というよりも、永遠に建てられ続ける教会こそが)人々の良き意思と信仰を表しているのかもしれません。

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 さて、こうした聖堂、あるいは教会堂ですが、カトリックではしばしば聖遺物が保管されていました。この聖遺物とはキリストや聖母マリア、あるいは様々な聖人にまつわる遺品、そして遺骸(あるいは其の一部)等です。そう聞くと、聖人のお墓等のようなものでもある、と言えるかもしれません。

 例えば、ベネツィアのサン・マルコ寺院(Basilica di San Marco)の由来は、「828年にヴェネツィア商人がアッバース朝のアレキサンドリアから聖マルコの聖遺物(遺骸)を盗んできたことを記念して建てられたが、恒久的なものではなく、832年にこの建物は現在の場所に建てられた新しい教会に取って代わられた」ということです。

 このあたりのいきさつは塩野七生の『海の都の物語』に詳しいので、ベネツィアという1000年以上にもわたって反映した商業主義に徹した都市国家の歴史に興味を持つ方は(もちろん、商売についてのヒントが満載です)、是非、この本をお読み下さい(なお、この本では「盗んだ」のではなく、イスラームの迫害から守るため「買い取った(ただし、イスラームに見つからぬよう、隠して国外に搬出)」となっていたかと思います。

 教会堂がお墓を兼ねる例は、プロテスタントの一部であるはずの英国国教会などでも同様で、例えば、ウェストミンスター寺院では「内部の壁と床には歴代の王や女王、政治家などが多数埋葬されている」。ただし「墓地としては既に満杯状態で、新たに埋葬するスペースはもはやなくなっている(Wikipedia)」。 

 それではどんな方が葬られているかと言えば、Wikipediaから適当に抜き出すと 、
アイザック・ニュートン (物理学)
チャールズ・ダーウィン(進化論)
デイヴィッド・リヴィングストン(アフリカ探検家、宣教師)
ウィリアム・グラッドストン(政治家、首相)
小ピット (政治家、首相)
大ピット (政治家、首相)
アルフレッド・テニスン(詩人)
ウィリアム・コングリーヴ (劇作家)
ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(作曲家)
サミュエル・ジョンソン (文学者)
ジェフリー・チョーサー(詩人)
チャールズ・ディケンズ(小説家)
ラドヤード・キップリング (児童文学者、詩人)
ローレンス・オリヴィエ(俳優、映画監督)

 と言った具合で、要するにイギリス(そして国教会関係)の名だたる方々というわけです(しかし、そうすると、実際には無神論者であったというダーウィンの場合はどうなるのかな?)。もっとも、中にはトーマス・パー( 152歳まで生きたとされる男性;スコッチの“オールド・パー”で有名)などのように愉快な方もいます。

 さて、上記の聖マルコ寺院は建築的には、「ビザンティン建築を代表する記念建築物であるとされるが、その当時、コンスタンティノポリスで500年以上も前に流行した形式を採用している(Wikipedia)」ですが、ウェストミンスター寺院はゴシック式で知られています。

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ということで、ずいぶん長くなってしまったので、今回はこのぐらいにしましょう。

小林一三と阪急文化圏、そして関西学院Part1

2013 3/7 総合政策学部の皆さんへ

 この研究室ブログにたびたび登場の小林一三、すでに「宝塚映画の謎Part1」「“市”をめぐる人類学Part1」「食べることについてPart9:カレーとラーメンについて」等でその都度ご紹介してきましたが、「乗客は電車が創造する」と豪語しながら、鉄道とデパートと住宅開発と娯楽施設で関西文化を作ってしまった」、この大資本家について、あらためてまとめてご紹介しましょう。

 さて、今や関西の代表的な企業である阪急ですが、事実上のその創設者小林一三は、実は山梨の生まれです。長じて上京、福澤諭吉の慶應義塾に入学、つまり、長峯先生や亀田先生、古川先生等の大先輩になりますね。

 卒業後、いったん銀行(三井銀行、現在の三井住友銀行)に入社しますが、やがて日露戦争後に大阪での出世話にひかれて東京を離れますが、そのあと、波瀾万丈の人生が待っています。

 まずは大阪での儲け話(証券会社の支配人) があっという間に立ち消え、失業してしまいます。異郷の地での逆境、その中で小林が目を付けたのが箕面有馬電気鉄道。銀行から金を引き出し、1907年10月、同社の専務に就任します(Wikipedia)。これが、小林と彼が手塩にかけた傑作“阪急”の快進撃の始まりです。

 ところで、皆さん、気づきませんか? “箕面有馬電気鉄道”、出発地は梅田で終点の一つが箕面、そして、もう一つの終点が有馬。そう、三田の近くの有馬温泉です。大都市である大阪から、遊興歓楽の地、箕面と有馬まで結ぶというコンセプトだったのですね。

 そして、この頃、宝塚はほとんど無名の地、そもそも宝塚などという地名もほとんど知られておらず、Wikipediaによれば、1889年の町村制実施で成立した「川辺郡小浜村・長尾村・西谷村、武庫郡良元村」が、1951年小浜村が宝塚町と改称、1954年以降町村合併を重ねて宝塚市となります(なお、宝塚温泉開業は1887年)。これこそ「隔世の感」というものです。

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 さて、大都市-観光地を結ぶコンセプトであった箕面有馬電気鉄道の実権を握った小林は、それまでの私鉄経営では考えられもしなかったビジネスプランを展開します(彼がその後次々に展開する大荒業の実態を、我々はつい当たり前の光景として毎日見ているわけですが)。

(1)沿線の土地を買収、開発を主導して通勤客を増やして、増収につなげる(ディベロッパー:1910年、池田で月賦方式による住宅分譲を開始)
(2)終点への集客を目指して、歓楽施設を設置(箕面動物園、宝塚新温泉(宝塚ファミリーランド)、宝塚唱歌隊[もちろん、現宝塚歌劇団])。さらに映画事業等への進出(宝塚映画、東宝)。
(3)都市ターミナルへ通勤客以外の集客を見込んで、ターミナル百貨店建設(現阪急百貨店
(4)百貨店経営からさらにホテル事業の展開
(5)大学等の高等教育機関の沿線誘致(もうお気づきでしょう、関西学院です)
(6)近郊型レジャー施設等(今はない西宮球場阪急球団

 つまり、電車が都市の間を走るというより、電車が走るところが都市になる。これら一連のビジネスプランを総括するのが、小林の「乗客は電車が創造する」という台詞です。Supply sideとDemand pullの双方を見越しての見事な商業資本主義の展開(供給が需要を創造し、その需要がさらに新たな展開を生んで、供給を刺激する)と言えなくはないわけですが、残念ながら、私はあまりに畑違いなため、どなたか他の先生にバトンタッチしたいところです。

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それでは、皆さん疑問に思いませんか? 箕面や宝塚は納得するとして、有馬はどこに行ったのか? 「阪急が有馬まで伸びていたら、三田駅周辺までは阪急で来れるのに」と思う学生さんもいるかもしれません。

 実は、阪急は有馬までの鉄道の敷設権を獲得しながら、小林のあまりの剛腕ぶりに、有馬温泉側が警戒、反対されたためとも聞いていましたが、Wikipediaの註には「理由として難工事と説明されているが、地形については難工事に該当する区間が特に存在しないため、有馬温泉の住民から反対があり断念したとの説が有力である」とあります。

この小林の人生、その浮沈の様子もなかなかの傑作ですが、私にとって一番面白いのは、戦前、近衛文麿細川元首相のおじいさん)に請われて商工大臣になったくだりです。

 迫りくる第2次大戦の気配に対して、小林はあくまでも自由主義資本主義者に徹しようとします。

 その挙句、“満州”で国家計画にめざめた当時の“革新官僚”である次官岸信介(のちにA級戦犯容疑をかけられるも不起訴、不死身の妖怪として復活、自民党総裁に登り詰めて第56・57代首相。いうまでもなく安倍現首相のおじいさん)の計画経済策に反対、「岸はアカ(=社会主義・共産主義者への蔑称)だ」と攻撃して、岸を辞職に追い込みます。

 しかし、自らも反撃を受けて大臣を辞めざるをえなくなる・・・・・・ ただし、このあたりは経済に門外漢である私には手にあまるようです。こちらもまた(55年体制等の是非も含めて)、どなたか、他の先生にお任せすることにしましょう。

食べることについてPart11:江戸の料理屋の世界#1;“料理屋”の出現

2012 10/4 総合政策学部の皆さん

 近年、江戸時代の再評価、とくに“江戸”の町の再評価をよく耳にします。なんといっても、江戸時代、一滴の化石燃料も使うことなく、100万人もの人口を支えたこの町を、究極の持続可能社会ととらえることも可能です。

 もちろん、その裏面もまた途方もなく暗く、深いものも散見されます。例えば、多数の若者[その多くは男性]が青雲の志を抱えて集まりながら、そもそも男女比が2:1の江戸の町で子を持つことはおろか、伴侶さえ得られずにむなしく異郷に死す。

 しかし、その後釜を狙ってまた若い連中が押し掛ける。こうして再生産率(出生率)が死亡率を上回ることはなく、流動人口が流れ込んでは死んでいく(その結果として、田舎の人口が持続可能なレベルで維持される)=アリ地獄社会であった・・・・・

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 さて、その江戸の町、そもそも面積の大半は武家屋敷寺社地で、町人地はごくわずか(享保10年には、武家地46.5k㎡、寺社地7.9k㎡、そして町人地なんと8.72k㎡、全体の8分の1、そこに町人たちがひしめきあうわけですから、超人口密集地でもありました(Wikipedia「江戸の人口」)。

 もちろん、江戸も時代をおって発展していきます。寛永11年(1634年)に約25万~40万人(当時、京都が41万人)と推定されている状態から、100万都市への疾走が始まる。

  享保18年9月(1733)、町方支配地計475,521万人(男性303,958人、女性171,563人;人口密度は5.4万人/k㎡?!)、寺社門前町(浅草等もはいるのでしょうか?)計60,859人(男性36,319人、女性24,540人)、あわせて53万6千人あまり(『享保撰要類集』)。これに幕府の統計では別にはずされた寺社方(出家山伏禰宜、盲人等)・新吉原遊郭関係)の人口が享保17年の統計で計525,700人。これに対して武士関係のご屋敷人口については、なんと正確な統計が存在せず、享保8年の『土屋筆記』で推定700,973人。

  これらをあわせると、江戸の人口には150~200万人説、110~140万人説、100万人以上説、100万人未満説と諸説入り乱れている。これをみても、学生の皆さんは“統計”が重要であることがわかるかと思います。

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   ちなみに、一人一年に米1石を消費するとしたら(=ヒューマン・エコロジーですね)、腐ったり、残飯として廃棄される部分も考えると、人口150万人に対して200万石ぐらいは確保しないと、民人が騒動(打ちこわし)をおこしかねません。これが史記の名宰相蕭何の昔からの“政(まつりごと)”の要諦です。ローマ帝国を支配したカエサルをはじめとする権力者たちにとっても、ローマ市民へのエジプト等からの穀物確保が政治の死命を決する要素でありました。

 ところで1石は10斗=100升=180リットル=150kg、200万石だと30万トン、これだけの米を千石船か大八車で運ばねばならない。通称千石船は、菱垣廻船で1000石、樽廻船で1500石、さらには2000・3000石積みもあったそうですが、仮に1回1000石の米(米以外の積荷もあるでしょうから)を運ぶとして、2000回必要ですね。

 Wikipediaでは、天保年間の航海能力では、大阪から江戸まで平均12日ということでした。それで、仮に仙台から江戸まで米を運ぶのに片道12日=往復24日、休みもいれて、1年に12回往復。とすれば167隻ほどの千石船でなんとかなりそうです(本当に、こんな雑な計算でよいのかな??)。

 文化10年(1813年)12月4日に遠州灘で難破、数奇な変転を経て、1816年松前に帰還した船頭重吉こと小栗重吉が差配していた督乗丸は約120トン(1200石積)。10月に尾張から江戸へ尾張藩の米を運び、それを売り払っての帰りの航海での遭難です(手記『船長日記』には、行きの際に載せた米の量は記載されていません)。遭難時、帰りの航海のこととて米は5斗俵に6俵あまり。一方、豆を700俵積んでいました(江戸で積んだのでしょうね。どこの産地の、どんな豆なのでしょう?)。1俵=4斗で計算すると、約280石ですね。

 交通機関の鉄則として、往復に別々の荷(あるいは客)を運ばないと効率的になりにくい。だから阪急宝塚線では大阪側のターミナルに百貨店を、宝塚側の終点に宝塚新温泉や歌劇場、旧ファミリーランド等を設けて、できるだけ人の往来を増やす工夫を図る=これが阪急の事実上の創設者の小林一三が考えたビジネスモデルのわけです。江戸時代は、しかし大消費地江戸に向かって米や「下りもの(、醤油、木綿・・・)」を運んだ帰りに、何を載せたのでしょうね?

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 さて、上記のように、町人地では男女比は30:17、男性はそもそも半数近くがあぶれる勘定です。したがって、町屋、とくに江戸の名物=長屋に住まう若者たち、さらには武家地でも参勤交代で江戸住まい=単身赴任を余儀なくされた者たちは独身生活ということになります。

  とは言え、飯は食べなければいけない。こうして彼等は、料理の得手に拘わらず、自炊をするか、さもなくば買い食いをせざるを得ない。そこに、言うまでもなくビジネスチャンスを見出す者もいる。学生の皆さんも起業を目指す方は、とりあえず周囲の様子をうかがい、どこにビジネスチャンスがあるかどうか、“アンテナ”をはることをお薦めします、というのが今回の本当のテーマですね。

 ところで、「九尺二間の棟割長屋」は、「間口が9尺(約2.7m)、奥行きが2間(約3.6m)の住戸を連ねた」「畳6畳の部屋とほぼ同規模の大きさであり、そのうち約1畳半を土間として、4畳半を部屋として区画されているのが一般的」とWikipediaで開設されています。9.72㎡ということは、KSCでの私の個人研究室(18㎡)のほぼ半分です。狭いですね。家具などろくに置けません(ということは、ニトリイケアも商売にはならない。一般庶民の住居の床面積が広がってからの商売ということがわかります)。ちなみに、関東大震災後の集合住宅の基本となった同潤会アパートでは一戸がほぼ30㎡(9坪)、公団住宅の3DKで40~60m²まで増加していきます。

 江戸に話を戻して、江戸開府にしたがって関東平野に忽然と現れた独身男性の集団、その“食”をまかなうためのシステムには、当然、“外食”あるいは“中食”が入ってくるでしょう。言うまでもなく、ビジネスチャンスです。もちろん、1590年(天正18年)の徳川家康の関東移封時、江戸に料理屋等あるわけもなかったはずです。

 それで調べてみると、江戸の外食産業の第1歩は、(天秤棒で商品をぶら下げて売り歩く)「振り売り」と、加熱調理をした飲食を提供する「焼売・煮売屋(にうりや)」のようです(原田信夫『江戸の食生活』岩波書店)。原田によれば、万治2年(1659)正月19日の町触では「振り売りの鑑札を50歳以上と15歳以下の者、および身体障害者に与える、としている」そうです。その品目中食物は、「魚、タバコ(あるいはダンゴの誤りか?)・時々のなり物菓子(水菓子のことか?)・塩・あめおこし(“こがし”のことか?)・味噌・酢醤油・豆腐・蒟蒻・心太・餅等で、鰹節・串海鼠・串鮑・塩引鮭については、鑑札を必要としなかったことがわかる」としています。

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 一方、「焼売・煮売」とは「江戸時代に存在した煮魚・煮豆・煮染など、すぐに食べられる形に調理した惣菜を販売する商売のこと。菜屋(さいや)とも」とWikipediaにあります。

 続いて、「行商による振売りと店舗や屋台を構える者があり、後者の中には茶屋を兼業して商品を提供することが可能であった煮売茶屋(にうりちゃや)と呼ばれる形態もあった」「夕食のおかずとして煮売屋の惣菜を求める需要が高かった反面、夜間の煮売りは火災を惹き起こす危険性があった。このため、江戸では防火の観点から煮売屋の夜間営業を禁じる命令が寛文元年(1661年)から寛政11年(1799年)まで度々出されている」。

 つまり、1661年、明暦の大火(1657)の被災者をベースにした推定では、町方人口約28万5814人のあたりの段階で(Wikipediaによる)、煮売り屋がすでに普及していることが示唆されています。これこそが“都市化=都市住民の生活を支えるためのサービス業の成立”です。

 さて、この煮売り屋から、例えば、「酒を置くようになった」ことで“居酒屋”に発展するケース、上記のように茶屋を兼業して煮売り茶屋となるケース、茶屋がさらに発展して“料理茶屋”になるケース等が出てくる。この料理茶屋がさらに“料亭”に進化する。こう書いていると、アフリカやマダガスカルの市場を思い出してしまいます。

 いま一方は、振り売り的存在から発達した移動店舗=屋台です。Wikipediaでは「屋台は江戸時代に大きく繁栄し、(中略)現在の日本の食文化の起源の1つとなる営業形態であった。蕎麦は「振り売り」形式の屋台が多く、寿司は「立ち売り」形式の屋台が多かった」としています。このように屋台で呈されものの筆頭に天麩羅(当時は、現在の串カツのように、串にさして屋台で呈する下手な食べ物だったのです;屋台の画像)、寿司蕎麦(風鈴蕎麦、夜鳴き蕎麦、夜鷹蕎麦)等があげられまず。いずれも今では高級料理にもなっているようですが、これは江戸のファーストフード群であったわけです。

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 こうした庶民のためのB級グルメについては、(インテリたちが無視しがちのゆえ)思いのほか文献が残されていないことはこのブログでもすでに何度も指摘しています。

 たとえば、Wikipediaを観ても、蕎麦屋について「起源は不明だが、江戸時代後期に書かれた2種の書物『三省録』・『近世風俗志』にて、寛文4年(1664年)に「慳貪(けんどん)蕎麦切」の店が現れたとの記述がある。貞享3年(1686年)に江戸幕府より出された禁令の対象に「うどんや蕎麦切りなどの火を持ち歩く商売」という意味の記載があり、この頃にはすでに持ち歩き屋台形式の蕎麦屋が存在したことが推測できる」とあります。

 遅くとも17世紀後半には、煮売り屋、そして屋台形式の店が普及していたことは間違いなさそうです。

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 それでは、“蕎麦屋”をとりあげて、その起業化の過程をケース・スタディで調べてみましょう。

 一つのパターンは、在来生産地からの起業化といいましょうか、江戸近郊の“深大寺そば”です。調布市のHPによれば「江戸時代、深大寺周辺の土地が、米の生産に向かないため、小作人はそばをつくり、米の代わりにそば粉を寺に納め、寺ではそばを打って来客をもてなしたのが、深大寺そばの始まりと伝えられています。深大寺そばが有名になったのは、深大寺の総本山である上野寛永寺の門主第五世公弁法親王が、深大寺そばを大変気に入り、まわりの人々をはじめ全国の諸大名にも深大寺そばのおいしさを言い広めたからのようです」とします(http://www.csa.gr.jp/jindaijisoba.html)。これは、原産地において既存の集客施設(深大寺)周辺にサービス業が発達した例と言えましょう。

 一方、もう一つのパターンは別の産地から江戸に来訪、そのまま根を下ろしたケースです。これが名店“更科”などですが、その公式サイトでは「寛政元年(1789)、そば打ち上手として知られた信州の反物商、布屋太兵衛は、領主 保科兵部少輔の助言で、そば屋に転向。麻布永坂高稲荷下に「信州更科蕎麦処」を開店いたしました」とあります。

  田舎からアリ地獄都市=江戸に赴き、自分の才覚一つで店を切り開く、そこにもきちんとした(江戸時代なりの)ビジネスプランがあったはずです。田舎から出てきた時、自分のもっとも得意な技は何か? それは反物商売ではなく、故郷の蕎麦生産地での技を応用した“蕎麦屋”だったわけです。

 一方、すでに起業化が完了した食の先進地から後進地=江戸に進出してくるケースとして、同じ江戸蕎麦の老舗“砂場”があげられます。あるサイトでは、「発祥は大阪で、いまの大阪・西区新町にあった「いずみや」というそば屋で、そこは「大坂城築城の砂や砂利置き場」であったので通称「砂場」と呼ばれ、そこにあるそば屋も同様に「すなば」と呼ばれるようになった」とあります(http://www10.ocn.ne.jp/~sobakiri/1-1.html)。

 というわけで、新開地=江戸の町に集まる独身男性どもを対象に、見事商売を成功させる起業プランとしての飲食店というシリーズを始めたいと思います(to be continued・・・・・)

住まいの人類学番外編:漂う者たちPart4:漂海民

2012 7/22 総合政策学部の皆さんへ

 「住まいの人類学番外編:ただよう者たち」のシリーズでは、Part1で世間師(とくに宮本常一の傑作『土佐源氏』)、マレビト、放浪学生たちを、Part2では“寅さん”、Part3では“Holly Golightly ”を取り上げました。

 思えば、定住に背を向け、ひたすら世間をわたっていく者たちの悲哀がにじみ出る役柄が続きますが、今回は漂海民をとりあげます。

 といっても、皆さんは”漂海民”という言葉を耳にしたことはありますか? 文字通り、海を漂う人たち。人類学の世界では、マレー語のオラン・ラウト(“オラン Orang”が人で、“ラウト Laut”は海)で知られています。それではと、例によってWikipediaをあけてみると、なんと日本語版にはオラン・ラウトが載っていない。それで、やむなく英語版からの引用です。

     The Orang Laut, or Bajau Laut, are a group of Malay people living in the Riau Islands of Indonesia. It also may refer to any Malay origin people living on coastal islands, including those of Andaman Sea islands in Thailand and Burma, commonly known as Moken. The Malay term orang laut literally means the sea people. The Orang laut live and travel in their boats on the sea. Other Malay terms for the orang laut were Lanun, Celates or Orang Selat (literally Straits People).
      Broadly speaking, the term encompasses the numerous tribes and groups inhabiting the islands and estuaries in the Riau-Lingga Archipelagos, the Pulau Tujuh Islands, the Batam Archipelago, and the coasts and offshore islands of eastern Sumatra and southern Malay Peninsula.
       Historically, the orang laut were principally pirates but they also played important roles in Srivijaya, the Sultanate of Malacca, and the Sultanate of Johor. They patrolled the adjacent sea areas, repelling real pirates, directing traders to their employers’ ports and maintaining those ports’ dominance in the area.
       Eda Green wrote in 1909, “The Lanuns, supposed to have come from the Philippines, are Mohammedans and are dying out; they were one of the most aggressive tribes in their wild piracy, raiding not only the coasts, but stealing away the children of the Dusuns and Ida’an.

 わかりますか?  とりあえず、海(水)の上で生き、海(水)の上で死ぬ、それを人生・なりわいとしている人たちです。そして、言うまでもない事ですが、19世紀以降、陸地をベースに発達し、かつ、“民族中心主義”的に発達する“国民国家”から見ればマージナルな人たち、規範(国境内にも、陸上の固定された社会にも)に収まりきれぬ人たち、ということになるわけです。

 その結末は、“近代化”の美名のもと、“漂う”ことを禁じられ、“定住化”が強制されていく。なにしろ、“漂われる”と、国家と国家の境のボーダーすら行き来されてしまうわけですから。近代化はこうした“あいまいな存在”を許さない=排除していく、それがフーコーの主張だったかとも思います。

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  さて、こうした海上生活者(水上生活者)は、実はアジアのそこここに見られたようです。代表的なものとしては華南の広東省、福建省、広西チワン族自治区、海南省、香港、澳門の沿岸・河川で生活する蛋民の人たちです。

 Wikipediaによれば「陸に土地をもたず、主に船を家とし、水上で漁業、水運、商業などの生業を営む。このため船上人とも呼ばれる。岸辺に「棚屋」や「茅寮」と呼ばれる、簡単な水上家屋を築いて住む場合もある。伝統的な材料としては、木材に加えて、サトウキビの茎や皮などが使われた。漢民族であり、少数民族には分類されないが、生活様式の違いや教育程度の差などによる被差別民であった。1970年代までは、非蛋民との通婚も限られていた」とあります。そして、ここでも、人口が激減しているとのこと。

  そこまで減ってしまうと、逆に“観光資源化”するのも、ネオリベラリズムあるいは世界システムによるグローバリズムが支配する資本主義社会の常かも知れません。Webを探すと「パンガー湾観光ツアー」とか、「トンレサップ湖クルーズ 」等々がひっかかりました。ちなみに、現在最大の水上生活者集団=観光の目玉は、海上ではなくカンボジアのトンレサップ湖周辺の人々で、Wikipediaによれば100万人が住んでいるとのことです。

 それでは、日本では? Wikipediaに「家船(えぶね)」という項目があり、以下の記述があります。

  近世から近代の日本に存在した一群の漂流漁民の総称である・・・・数艘から数十艘にて集団を形成(「~家船」と称する)して、本拠地を中心として周辺海域を移動しながら一年を送り、潜水や鉾を使った漁で魚介類や鮑などを採集する漁業を営なみ、1週間から10日おきに近くの港で物々交換に近い交易をしていた。家船が三津の朝市で漁獲品を水揚げする姿は戦後もしばらくは見られていた・・・・家船の根拠地は、西九州及び瀬戸内海沿岸に存在した。西九州では西彼杵半島と五島列島に多くが根拠を持ち、女性は抜歯の風習があったとされている。

 しかし、彼らも「明治維新以後、納税の義務化、徴兵制や義務教育の徹底の方針から政府が規制をしていった。昭和40年頃には陸上への定住を余儀なくされて消滅したと言われている」となっています。

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 その一方で、近代化の進展で、別のタイプの水上生活者もあらわれたようです。Wikipediaの「水上生活者」の項には、

 日本各地に寄港する貨物船の大型化が進み、艀を使った舟運が盛んになると、艀の一角を住宅化し一家で居住する船上生活者が現れるようになった。東京では埋め立てが進む前の月島勝どき周辺に多く見られ、1万人弱を数える規模となっていた。こうした住民の福利厚生を行うために水上会館や水上学校(陸上に建てられた寄宿形式の学校)が建てられたほか、治安を担当する水上警察署などが設置された

 そして、21世紀の現在では、やはりごくわずかまでに減ったとでています。ちなみに、NHKでは1960~64年、隅田川でポンポン船を家業とする船長(桂小金治)と子供たちの生活を描いた「ポンポン大将」という子供番組が放映され、私はかすかに記憶に残っています。

 焼玉機関搭載の小型動力船は、リズミカルな独特の爆音を立てて航行することから「ポンポン船」と呼ばれ、漁港河川ののどかな風物詩として親しまれたが、1960年代までには廃れている。構造的には、2ストロークで、重油(低質重油を除く)を燃料とするものがほとんどを占めていた。(Wikipedia「焼玉エンジン」)

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 その一方で、近代化によって日本内部にとどまらず、地球の表面にはりめぐらしたボーダーを海を越えて軽々と乗り越える人々も現れます。その気配を、例えば沖縄糸満の海人(ウミンチュ;漁業専業者)の人たちの動きに感じることができるでしょう。

 例えば、「糸満海人工房・資料館」というサイトには(http://www.hamasuuki.org/history/history.html)には、「糸満漁業史」とあって、

1792 王府、糸満海人が読谷山沖で難破船の乗組員を救助したとして褒章。球陽に記された糸満海人のこのような活躍は、1876年までの間に述べ26件(1799年までには18件)もあるが、糸満海人が救助した場所は、そのほとんどが地元より遠方となっていることに対し、他地域の人々が救助した場所は地元海岸となっており、このことからしても糸満海人の航行範囲が広いことが分かる。(例:1761国頭、1783 久志、1789以前 沖永良部

 その彼らは近代化のなか、各地に、「磯猟は地附き、根附き次第、沖は入会」(Wikipedia)という慣習法を、近代化する意味で漁業権が設定されますが、当初、糸満の海人には、山林における“木地師”のように、他地区での権利が認められたようです。

1907 県内に初めて漁業権が設定され、その際、特に糸満海人に対しては他地区への入漁権が認められるようになる。

 しかし、近代化の進行はこうしたあいまいさを排除していきます。

1908 糸満海人に対する入漁拒否騒動が本部村漁業組合との間で起こり、その後浜比嘉や小湾などでも起こる。合法ながらも漁獲圧の高い糸満漁業とこれに対抗する地域住民の地先海面の占有意識との摩擦は他の地域でも問題となっており、このことがひいては県外への出稼ぎ漁業、南洋諸島への出漁を促した。

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 こうして、ボーダーを乗り越える海上生活者的世界(ただし、男性だけでしょうね)がしばらく展開します。

1916 海外への出稼ぎ漁業(主に追込網漁)始まる。大戦勃発の頃までに東南アジア、南洋諸島を中心に拡大

1937 当時の糸満のアギヤー組数 : 地元操業6組(うち2組はパンタタカー(主にリーフ内でする小型追込み網漁)) 、県外出漁7組、海外出漁2組

 しかし、もちろん、第2次世界大戦における日本帝国陸海軍と連合軍との開戦によってこうした状況は一変、敗戦後は沖縄は米軍統治下におかれ、その後の長い占領期間が続くことになり、糸満海人の海外飛躍もいったん幕を閉じることになる。

 と、こうした経緯を書きつけていると、佃島の水上生活者や糸満海人の海上進出も、日本の水上生活者は“近代化”の中で生まれて、そしてその進行とともに消えていくもののような印象があります(=日本近代化論の一こまですね)。

高畑ゼミの100冊Part23&住まいの人類学:貧民窟探検記シリーズ1『最暗黒の東京』後編あるいは金貸し業の話#3:両替商とバンク、あるいはベンキ

2012 4/28 総合政策学部の皆さんへ

 明治期の貧民窟探訪シリーズを紹介した前篇、近代化の光(給食)と影(残飯屋)を紹介した中編に続き、松原岩五郎『最暗黒の東京』後編で“金貸し業”の話を始めたところ、なかなか終わりそうもないので、#2として“無尽構”をとりあげました。

 #3では、さらに“両替商”→“金貸し業”の系譜から、英語の“bank”そしてスワヒリ語の“Benki”の話を続けたいと思います。

  さて、英語の“Bank”(土手ではなくて、銀行の方です)の語源をご存知でしょうか?

 ものの本には出ていることですが、「イタリア語のbanco(机、ベンチ)に由来する。これはフィレンツェの銀行家たちによってルネサンスの時代に使われた言葉で、彼らは緑色の布で覆われた机の上で取引を行うのを常としていた。ヨーロッパ最古の銀行は1406年(または1407年)にジェノヴァで設立されたサン・ジョルジョ銀行とされている」(Wikipedia『銀行』)

 つまり、Bankの語源は“机”であり、机の上に積まれた各国の貨幣を売り買いすること自体が銀行の始まりということになるわけです。

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 ちなみに、15世紀、イタリアで通用した貨幣はそれぞれの分立した小国の信用を背景にしていたため、両替商がどうしても必要でした。有力な貨幣では、

・ベネツィアがドゥカート(ダカット;Ducato)”(1284年以降)
・フィレンツィエが“フローリン(fiorino d’oro)金貨”(1252~1523年)
さらに
・イスラーム圏からは“ディナール(dinar)”(ローマ帝国の銀貨デナリウスに由来するとのこと)
・フランス王国は当然“フラン(Franc français)”(1360年以降)

 これらの貨幣は、どのぐらいの価値があったのか? 例えばヴェネツィアの経済的繁栄をバックに国際通貨として知られた(シェークスピアにも登場)ドゥカートは「金貨はともに品位は.875で、56グレーン(54トロイグレーン)の量目を有していた」とのことです。

 グレーンは0.064 798 91 グラムだから(ちなみに、“グレーン”とはオオムギの1粒(grain)の重みに由来)、3.6287グラムの金になりますね(単位は時代によっても変わりますから、多少の計算ミス等はお許しを)。2012年3月12日現在の金価格は、三菱マテリアルのHPだと4,786円、ということは単純に計算すると17,367円。

 もっとも、ルネサンス当時の経済状況によって、購買力平価を計算すべきでしょうが、このあたりになると私はまったく素人でお手上げです。

 ちなみにかのビッグマック指数を計算しようとしても、マクドナルド兄弟がマクドナルド・ハンバーガーを売り出したのが1940年、レイ・クロックがこれを巨大フランチャイズ化し始めたのが1954年ですから、当然、ルネサンスと比較するわけにいきません。

 そこで、文献を探すと『ルネッサンス期イタリアの傭兵隊長― その実像 ―』という論文で、著者の林要一氏はイタリアの文献を紹介しながら「現時点での1 ドゥカート相当円貨は5 万2 千円から6 万円になるから、目安としては6 万円とするのが適当であろう」としています(http://www.waseda.jp/prj-med_inst/bulletin/bull03/03_06hay.pdf)。

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 さて、そのバンコですが、wikipedeiaによると「北イタリアの都市国家は独自貨幣を発行するようになり、都市間の貨幣の交換を行う両替商が生まれた。彼らは都市の広場にバンコ(banco)と呼ばれる台を設置してその上で貨幣の量目を計ったり、交換業務を行った。後に「銀行」を意味するバンク(bank)という言葉はバンコに由来すると言われている。

イタリアの両替商はイングランドフランドルシャンパーニュなどヨーロッパ経済の先進地帯や主要都市に進出をして、十分の一税の徴税・輸送業務や為替業務をも合わせて行い、後の銀行業の母体となった」とあります。こうして、ルネサンスを支えるメディチ家やフッガー家の隆盛へとつながっていくわけですね。

 一方、イギリスではもう一つの系統、金細工師(英語でGoldsmith=文字通りの金細工師)がその職業柄、所有する金庫に他人の金(きん)や貨幣を預かり、それを金融に回すことで、金融業が発達することになります。

 そのあたりを世界最初のバブル崩壊事件、フランスの「ミシッシピー会社」ならびにイギリスの「南海(泡沫)会社」の顛末を描いたヴァージニア・カウルスの『南海の泡沫』(大橋吉之訳、筑摩世界ノンフィクション全集43巻)から少し引用してみましょう。17世紀の話なのですが、

金細工師たちはまったく偶然のことから、いつの間にか金融を始めていたのである。彼らの本業はあくまでも、ピストルの握りに透かし彫りをしたり、銀の締め金具を作ることだった。ところが彼らは、家事と泥棒の恐れのない、大きな貴重品保管室を持っていたので、個人や個人会社までもが、貴重品をそこに預けるようになった。そして、その習慣は広く普及してた。(中略)

一般的には、金細工師たちは信頼できるという評判を得ていたし、また、彼らの手形は商社の間で自由に流通していたが、彼らの多くは次々と破産していった。彼らは預かっている金を、天文学的な利率で、ときには33%もの高利で、貸し付けてもうけていた(彼らは、金を預けている金主には、奉仕をしているのだからといって、ほとんど利子を払わなかった)。

だから、彼らの顧客がきちんと借金の支払いをしてくれるときには、彼らは急速に金持ちになった。しかし、一人の悪玉にひっかかって、姿をくらまされたりすると、たちまち破産ということになる恐れがあったのである。

  こうして、両替商(机)と金細工師(金庫)から出発した金融業は、やがてその必要性を認められ、イギリスでは1694年、イングランド銀行が個人会社として設立されます。資本金の予定額は120万ポンド、例えば(20世紀の首相ウィンストン・チャーチルの祖先である)モールバラ公爵夫妻は1万ポンド、大蔵卿ゴドルフィン伯爵は7000ポンドを投資します。

  そして、このイングランド銀行は「持参人払い」の銀行手形=紙幣を発行します。「銀行が国家に用立てる120万ポンドを預金として用意した」代わりに、「国家がイングランド銀行に同額の金額の紙幣発行を認める」という算段です。こうしてイングランド銀行は自然発生的に中央銀行化していきます(なお、世界最初の中央銀行はスウェーデンのリスクバンク(1668年)とのこと)。

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 さて、イタリアのしがない両替商の店先の“机”から出世した“Bank”なのですが、タンザニアではスワヒリ語のなまりで、なんと“Benki”なのです(なお、ケニアでは“Banki”です。例えば、Banki Kuu ya KenyaCentral Bank of Kenya)。お気づきでしょうが、スワヒリ語では外来語を受け付けるとき、名詞の最後の音が“i”になることがよくあります。

 したがって、国立商業銀行National Bank of Commerceは、タンザニア・スワヒリでは“Benki ya Taifa ya Biashara”です。英名の略称はNBC、さすがにHomepageを開けると懐かしいものがあります。ロゴはキリンとキリマンジャロ

 30年前はここに銀行口座をもっていました。もっとも、当時の社会主義国家為替管理の面倒臭さと言ったら、とても皆さんには説明できないほどのものです。いずれお話できるかもしれませんが、今の私の経済的知識ではうまく説明できる言葉が見つかりません。

 もっとも、どういうわけか、上記のBanki kuu ya Kenyaと違って、スワヒリ語のページが見つかりませんね。探し方が悪いのでしょうか?

 いずれにせよ、バンコ → バンク → ベンキという言葉の変遷が、世界システムの成立、グローバル化を象徴しているかもしれません。

高畑ゼミの100冊Part23&住まいの人類学:貧民窟探検記シリーズ1『最暗黒の東京』後編あるいは金貸し業の話#1

2012 3/12 総合政策学部の皆さんへ

 明治期の貧民窟探訪シリーズを紹介した前篇、近代化の光(給食)と影(残飯屋)を紹介した中編に続き、松原岩五郎『最暗黒の東京』後編です。中編で紹介した「残飯屋」を“卒業”した岩五郎のその後の貧民窟放浪の旅、彼の好奇心はあらゆるところにのびていきます(というより、このルポルタージュの少し前は、彼自身が田舎から都会に転がりこんできた貧民そのものだったわけですが)。

 例えば、“借金”、そして貸金業、まことに小説家サマセット・モームが言うように、「金は第六感のようなもので、これがなくては他の五感が動かない」。田舎で昔ながらの暮らしを送れば、お上が課す税金等をのぞき、さほどの“お足(おあし=お金のことです)”が必要でもありませんが、こと都会ではすべてを鳥目(ちょうもく=これもお金のこと)で購(あがな)わなければならず、そのためには現金がいる。

 森鴎外等に才能を激賞されながら、生活苦と結核から弱冠24歳6か月で逝いた樋口一葉は「あたしとダルマはどちらもお足がない(ダルマは文字通りの足、一葉はお金)」と言っていたそうですが。

 こうして、明治の“サラ金”事情までもが、現代の読者に明らかになるわけですが、話題が話題であるがゆえに、松原の名調子も炸裂します(それにしても庶民の借金、言うまでもなく総合政策では当然知悉しておいた方がよいですね。金融関係に就職する方も含めて)。下記のように、松原も「一廉の研究に値すべき処」と指摘しています。

 「質屋、日済貸し(ひなしがし)、無尽講、損料屋等は例によって下層社会へ一時の融通を幇(たす)くるものなり。細民がこれらの融通法によって稟(うく)る利益および損失、その事実に至ってはずいぶん錯綜したるものにして、一廉の研究に値すべき処なれども今俄かにその差別を為すの暇(いとま)なし。彼の新網、鮫ケ橋、万年町、三河町等最下等の地面に向かって樹(たて)られたる質店が、四面廃頽、目も当てられざるアバラス堂の一方に巍然として門戸を構え、塗籠(ぬりごめ)の蔵、煉瓦の塀、鋼鉄の忍び返ししその要鎮(ようじん)の堅固なると共に実着なる富の分量を示すものまた決して偶然のものにあらず。高利貸然り、損料屋然り、無尽講の発起者また然り。彼ら金主の成功したる因縁については種々あるべしといえども、畢きょう(ひっきょう)する処ただ細民の膏血(こうけつ)を丹精したるものに過ぎざるなり」

 さて、皆さんはこれらの言葉を知っていますか? 質屋は、これはもう誰でもご存じでしょうが、「日済し貸し」はどうでしょう? 要するに消費者金融なのですが、実に高利で一日一割、一名「カラス金(からすがね)」、Wikipediaでは「夕方にカラスがカァと鳴けば一割の利子が付くことに由来する」。

 つまり、朝1000円借りて、夕刻カラスがなく頃には1100円返さねばならない。Wikipediaの「カラス金」の項にはていねいに以下のような例まで出てきます。実際には、貸し倒れ率はそれほど高くなかったよし。

 「行商人のAさんは朝、千円を借りました
  Aさんは借りた千円で市場で商品を仕入れました
  Aさんは町へ行って仕入れた商品を売り歩きます
  夕方には仕入れた商品を売りさばき千三百円の売り上げを得ました
  夜、Aさんは金貸しに元本千円と利子の百円を返済しました。
   Aさんの手元には二百円の利益が残りました

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 それにしても利子とはどのように生まれるのでしょうか? 続けてWikipediaの「利子」を開けてみると

  • 貸借した金銭などに対して、ある一定利率で支払われる対価」とありますが、その経済上の定義は「『将来時点における資金の、現在時点における相対的な価格』をいう。
  •  
  •  もっとも、実際の金融取引における利子の本質については、上記の定義のように単に金銭の時間的な価値のみで説明しうるのではなく、利子とは、金銭の時間的価値、金融機関の提供するサービスの対価、債権の貸倒れに対する保証料ないしは保険料などが複雑に合成されたものと見ることもできる。ただ、サービスの対価も保険料も、時間が経過し「将来」となっていくことと密接であるため、金利と時間の関係は不可分である金利の高低は経済の景気動向を左右することがある。政府や中央銀行が政策金利を変更することによって基準金利を決定できる場合が多い。経済学的には、貨幣市場における価格に相当する。
  •  
  •  金利には、名目金利と実質金利が存在する。名目金利は、額面にかかる金利である。実質金利は名目金利から期待インフレ率を差し引いた分である。名目金利は0%より下がらないのに対し、実質金利はマイナスがあり得る。
  •  
  •  ファイナンス理論においては、金利は、通常は、貨幣の時間的価値と信用リスクの対価としての性質を有するものと考えられる。理論的には、無リスク資産に付される金利は貨幣の時間的価値のみを反映したものである

 皆さん、納得されますか? いっそ、『ナニワ金融道』を読み返した方がよいかもしれません。

 実は、利子に対しては古来、多くの疑問が寄せられています。例えば、イスラームでもカトリックでも利子に対して否定的な見解が述べられます。旧約聖書申命記23章19節「金銭の利息であれ、食物の利息であれ、すべて利息をつけて貸すことのできるものの利息を、あなたの同胞から取ってはならない」。

 ただし、この旧約聖書の規定は“同胞”向けなので、異教徒(キリスト者から見れば、ユダヤ教徒やイスラーム)には利息を取っても良い(ダブル・スタンダードそのものとも言えますが)。

 思い出しますね。シェークスピアの名作『ヴェニスの商人』、カトリックである主人公アントーニオはユダヤ人の金貸しシャイロックから「約束までの期日に返金できなければ、“人肉1ポンド”で返す」という契約で、大金を借ります(ここから先は、皆さんご承知の展開でしょうが、ネタばれ防止で伏せておきましょう)。

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 この“利子を取っていけない”という“呪い”はいろんなところでささやかれ、例えばイタリアの歴史作家モンタネッリによる傑作『ルネサンスの歴史』の第12章「14世紀の商人」に主人公として堂々と登場するプラート出身の大商人フランチェスコ・ダティーニは、両替商(=のちの銀行家)にまで手をだしたため、

  • これで税金がきびしくなっただけでなく、高利貸を始めたという噂が拡がり、友人たちまで非難を浴びせるようになったから、彼の「気鬱」はますます昂進した。友人の一人にラーポ・マッツェイという紳士がいて、かれの良心の監督役を演じていた。マッツェイがダティーニに書く送った手紙は、愛情に満ちていると同時に率直な忠告を欠かさず・・・・この時期の二人のやりとりを見ると、金銭や利子の観念がどれだけ混乱していたか分る。
  •  
  •  中世盛期には、金を持っているのは教会だけだったから、教会が法外な利息で金を貸していた。しかし、世俗の私的資本が形成され始めると、教会は聖アウグスティヌス聖ヒエロニムスの言葉を急に思い出し、金銭の移動によって得られる利得はすべて不正であるときめつけ、利子収入を堕地獄の罪業に数え始めた。そのくせ聖職者は金貸しをやめなかったのである。そして、俗人がおなじことをすると、波紋の脅しをかけた。
  •  
  •  聖トマス・アクイナスは、この矛盾を解決しようとして、「正当な利子」は合法的だとしたが、どれだけが「正当」なのか、具体的には、いっこうにはっきりしなかった・・・・

 こうした歴史の果てに、学生の皆さんの多くが就職する金融機関が生まれたことを、たまには思い出してください(なお、ダティーニはラーポからの忠告によって、結局、共同出資者の死を機会に銀行を閉店したそうです)。こうして、経済の進展にしたがい、“利子”の効用もまた認められるようになり、

  • 13世紀に登場した新しい「両替商」たちは、それ以前(中世)の「金貸し」が封建領主の「消費」のために活動したのに対し、市民から集めた資本を、貿易商人たちの商品購入資金や、工場主たちの設備投資のために、つまり「生産」と「流通」を対象に信用貸しをおこなった。
  •  
  •  積極的な是認としては、1545年にイギリスでヘンリー8世が10%以内の利子取得を認める法令を発布している。また、カトリック教会ものちに(19世紀)利子を容認するようになった

 あの8人の女性を妻に迎え、そのうち二人の首を切ってしまった“暴君”ヘンリー8世が近代化につながる利子の公認をおこなったというのも、なかなか蘊蓄がありそうですね。かつ、これは彼がイギリス国教会を創設したがゆえに、宗教権力が左右していた利子に関する議論を、世俗権力がいわば接収したことを意味するわけですね。

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 それでは、どれほどの利子が“高利”なのか? ちょっと調べてみましょうか。たとえば、「トイチ」という言葉がありますが、これは10日で1割、冒頭で述べた「カラス金」よりはずいぶん穏やかそうですが、単利法で年間365%だそうです。

 さらに複利法で計算すると、「100万円を借りていると10日目に10万円の利子が発生する。」(Wikipediaより)ということで、利息制限法の年利20%、出資法の年利29.2%をはるかに超して、実質金利3000%台に達することになります。これが闇金融の世界なのだそうです。

 このまま返済を行わずに20日目になると前回の10万円の利子にトイチの利子がさらについて121万円になる。

  • 30日目には利子に利子がついて133万円になる。この調子で返済しないままでいると…
  • 40日目には146万円になる
  • 50日目161万円
  • 60日目177万円
  • ・・・・・・・・
  • 100日目259万円
  • ・・・・・・・・
  • 200日目673万円
  • ・・・・・・・・
  • 360日目には3091万円に達する

 実際の借入に際しては、借入時に第一回目の支払利子を差し引いた形で支払われるので、100万円の金銭消費貸借契約(借金契約)を結んだ場合、90万円が支払われる。100万円が欲しい場合には、112万円を借り入れたこととなる

 ちなみに歴史的な例だと、室町時代の“土倉”は、月利6文子(100文借りると、1月後に106文返す)のが平均で8~10文子にもなったとのこと(Wikipediaより)。

 一方、ヨーロッパでは先ほども紹介したように「利子が許されるのか?」という論争があり、プロテスタントのルターも利子に反対しますが(条件付き抜け道も反対)、一方、カルヴァンは条件付き是認という道を選んだとのことです(この結果、資本主義につながっていくわけです)。

 さらに、それではどれほどの利子がよいのか、経済にとってはどうか? という利子論争がおこり、たとえば、カルペパー(1578~1662)は高利は経済を停滞化させる。イギリスの法定利子率10%をオランダの6%並みに引き下げることを主張するのだそうです(佐々木憲介「経済思想Ⅰ講義資料」http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/47942/1/H24_EconIdeasI.pdf)。

 このカルペパーの影響下、利子論争が起こり、この戦いに市場メカニズムを意識したロックの利子論「(1)自然利子率は貨幣の需要・供給によって決まる。(2)利子率の法定は不可能。利子以外の名目で貨幣を授受するための方策が案出されるだけ」が勝利するとのことです。

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 こうやってちょっと調べるだけで、どんどん面白そうなことが分かっていきますが、はっと気付くと、東京の貧民窟から話がちょっと離れてしまったような気もします。このあたりで、いったん幕を閉じて、to be continued・・・・・・としましょう。

芸術家たちPart5:マエストロとは? ジョットからミケランジェロ、そして北斎まで#2(ジョットと工房システム)

2012 1/27 総合政策学部の皆様へ

 #1に続いて、マエストロについての続編です。#1では、ルネサンス期の最初の巨匠ジョット・ディ・ボンドーネの名前を紹介したところで終わりました。

 このジョットこそ芸術家としての社会的存在を知らしめた記念碑的な方ですが、それにはイタリア各地の教会・宮殿等の壁画祭壇画の作成を一手に引き受ける巨大工房の組織化、そしてその組織の長としてのジョットの偉大さがある、と考えて下さい。

 つまり、アート・ディレクター兼プロデューサーの誕生とも言えるでしょう。そして“工房”という言葉のもつメッセージ性、皆さんにとってもっとも身近なものは、メディア情報学科の“メディア工房”ですね。そこまで脈々と続くイメージの連鎖でもあります。

 この頃ヨーロッパで巨大化した教会建築宮殿は(とくに都市政策志望の方々は、建築史の授業ですでにお聞きですよね)、絵画についての巨大な需要を産みます(当然、絵画がビジネスにもなっていきます)。

 ちなみに、Wikipediaを見ても、このジョットの作品はほとんど壁画である(つまり、動かせない絵画)ことにお気づきでしょう。この頃の壁画は基本的にフレスコ画(できたての漆喰面が乾ききる前に描くことで、保存性が良いが、ダ・ヴィンチ等は嫌います)ですから、建物と混然一体となります。

 このフレスコ画ですが、イタリア語のフレスコ(fresco)は英語のfresh、つまり乾ききらない新鮮な壁面に描く絵というわけです。

 一方、祭壇画はしばしば板のパネルの上に描かれる。これがやがて動かせる板絵となり、それがキャンバス地(画布)の油絵となって、ヨーロッパ絵画の主流となる。

 ルネサンス期、マエストロ達はそうした過程に、それぞれたちあうことになるわけです。なお、ジョットが描いたと伝えられる板絵は1枚しか確認されていないそうです。

 有名なダ・ヴィンチの“岩窟の聖母”(ナショナル・ギャラリーで観ました)や“モナ・リザ”も板絵です(モナリザはポプラ材)。

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 さて、ジョットたちの時代にいったん戻って、壁画のような巨大絵画は、とうてい一人の人間の手に負えるものではない(例外は、言うまでもなく、ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の天井画と祭壇画です)。

 そうなると、多数の弟子を指揮し、巨大プロジェクトとして仕切る巨匠(マエストロ)が出現します。狩野派が手掛ける信長、秀吉、家康たちの城を飾る障壁画(絵)も、その類かと思って下さい。

 同時に、このマエストロが率いる工房は、有能な若手の修行の場であり(例えば、ミケランジェロドメニコ・ギルランダイオの工房出身)、また巨匠からすれば、ぬきんでた弟子を探す場であります。

 そしてパトローンにとっては、自らの言うことを聞く才能ある若造を見つけて、いち早く庇護の対象として囲い込むチャンスも提供する(ギルランダイオはミケランジェロをロレンツィオ・メディチに紹介します)。

 このあたりを目の当たりにしたければ、コミック『チェーザレ-破壊の創造者』あるいは、日本版として同じくコミック『へうげもの』をご覧になればよいかと思います。

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 それでまたジョットです。生年は1267年頃とされ、1337年1月8日に70歳で没したと伝えられる中世後期(ルネサンスが本格的には始まっていない頃)のイタリア人画家、建築家です。#1でも強調したように、作家性がまだまだ重視されなかった頃、どこで何時生まれたのか、それどころかどこで絵をならったのかも定かならぬ昔です(Wikipediaによる)。

 それはローマ教皇を例にとると、1267年がクレメンス4世で、1337年はアヴィニヨン捕囚のさなか、ベネディクストス12世です。かの詩聖ダンテ・アリギエーリが1265~1321年ですから、ほとんど重なっていますね。ダンテが政治闘争に敗北して、欠席裁判でフィレンツェから追放されたのが1301年、神曲を執筆し始めたのが1307年、神曲が展開する時が1313年、そして筆を納めるのが1321年です(その直後にマラリアで死亡)。

 それにしても、フィレンツェ出身のこの2大芸術家が出会うことは果たしてあったのか? ジョットの人生の細部がほとんど伝説的なものの過ぎないため、なかなか確かめようもないようです。

 ジョットは、偉大な芸術家につきものの“伝説”の主でもあります。そうした意味でも、まさに“芸術家”の作家性を象徴している方でしょうね。

 Wikipediaでは、伝説では師と伝えられるチマブーエにからんで、「チマブーエが工房を留守にしている間に、ジョットがハエをチマブーエの作品に描いたところ、戻ってきたチマブーエが本物のハエと勘違いして何度も絵筆で追い払おうとしたというエピソードは有名である」。

 また、手書きで真円を描けたという伝説と共に「教皇がジョットに使いを出し、技量を確認するために何か描いてみるよう要求したことがある。ジョットは赤い絵の具でコンパスを使ったかのような正確な円を描き、それを持って帰って教皇に見せるよう使いに頼んだ」。

 ちなみにチマブーエの絵の画像がこちらですが、ゴシックとルネサンス期のまさに中間型。それに対して、ジョットの『カナの婚礼』がこちらですが、三次元的な表現とほのかながら使用される遠近法によって、ルネサンス期の芸術の先駆としての誉れが高いものです。

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 そして、ジョットたちが絵画技術での革新と同様に確立した“工房”システム。

 「工房(こうぼう) とは、画家・美術家・工芸家・建築家などの芸術家が仕事を行うための専用の作業場のこと。また、その工房を拠点とする芸術家集団をさしてアトリエと呼ぶこともある。フランス語でアトリエ(atelier)、英語ではスタジオ(studio)と呼ばれる。

 15世紀以降、多数の注文を受けて社会的に成功した画家や彫刻家は、弟子たちとともに作業をする大きな工房を構えた。大人数が大きな作品の制作のために働くには、作業スペース、材料・道具置場、制作中や制作後の作品置場などが必要であり、作品をよく見て作るために光のさしこむ大きな窓も必要であった」(Wikipedia)。

 このシステムの長(おさ)として、芸術家たちはたんなるアーティストではなく、ディレクター(監督)、プロデューサー(制作者)、そして経営者としての才能を発揮していくのです。そして先ほども触れたように、この工房はしばしば養成所も兼ねたのでした。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...