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「あるいは帽子屋の憂鬱」再訪:ファッションの人類学Part13

2018 2/24 総合政策学部の皆さんへ

 日本人はいつから(西洋風)帽子をかぶり、そして、いつからそれが“近代化”の象徴として、全国に普及していったか(コドモには学帽として、丁稚にはハンチング、紳士には“ハット”、そして行楽には麦わら帽)、これが「近代化の象徴としての“帽子”、あるいは帽子屋の憂鬱:ファッションの人類学Part12」のテーマでしたが、その続編です。

 まず、幕末、はじめて(西洋風)帽子をかぶった日本人は誰か? 例えば、高橋是清、「ネクタイ考:ファッションの人類学Part 8」などですでに何度もご紹介済み、幕末、アメリカに渡航したら奴隷契約の境遇に落とされ、そこからなんとか脱出、帰国した際旧藩主にお会いした時、“ネクタイ”をはめていて家臣にとがめられると(首巻きと間違われた!)、「これはネクタイでありまして、つけているのが礼儀です」と応えた是清君ですが、その『自伝』では慶応三年春、アメリカに解こうする際、「いよいよ洋行するについては、断髪して洋服を着ねばならぬ」と決断しますが、ろくに仕立屋があるはずもないし、もちろん、帽子屋だって存在していない。

 そこをなんとか「その頃はやっていた白金巾の綿ゴロにで、チョッキとズボンをこしらえ、黒の絹ゴロで上着をこしらえたが」に続いて、「帽子はフランス形を板紙でこしらえ、それに白い布きれで後ろの方に日除けをタラしたものだった」とあります。一番困ったのが靴で、当時まだ14歳、子供用の靴はなく、「やっとこれなら足に合いそうなものとさがしあてたのは婦人用の古靴で、それも皮じゃなくて絹シュスで作ったものであった」とあります(筑摩世界ノンフィクション全集50『高橋是清自伝』)。

ゴロ:grof greinの当て字、近世、オランダ船で舶載された粗末な荒い毛織物。ラクダ毛やアンゴラヤギ毛を用いた梳毛糸からなる薄地の平織のこと。
金巾:キャラコ、固く縒った糸で目を細かく織った薄地の広幅綿布。(『デジタル大字泉』

 これで頭から足まで衣装がそろったということで、散切り頭にして渡航したという次第です。それで、ネットで高橋是清の写真を探しましたが、この前後の写真は(上記ノンフィクション全集の写真も含めて)、みな、髪の毛をなでつけた無帽姿のようです。

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 その同じ世界ノンフィクション全集50に『木戸孝允日記』も掲載されていますが、その197ページ、明治4年12月欧米巡歴岩倉大使一行としてサンフランシスコ滞在中に撮られた有名な写真、いまだ髷を結っている岩倉具視を中心に、大久保利通伊藤博文山口尚芳とともに、木戸孝允はそろって散切り頭で手にシルクハットをもっておさまっています。つまり、“正装”の一環として帽子は欠かせぬものという形で、すでに受容が始まったことがわかります。なお、シルクハットは正確にいえば“絹製”のハットなので、より包括的にはトップハット(top hat)と呼ぶべきかもしれません(150年前の写真では、材料が絹であるかどうかはわかりかねるところです)。

 ところで、日本最古の帽子屋は誰か? “協同組合西日本帽子協会”のHP「帽子100年」という記事を引用すると、「なかなかむずかしい問題であるが、大阪では慶応2年春、当時大阪城に出入りしていた装束商竹内清兵衛氏(ヘルメット製造商竹内清兵衛氏の先代)が、オランダ人が着用していた帽子の模造品を試作したことがあるが、一般に普及されなかったといわれ、これが大阪市における帽子製造の嚆矢であろうといわれる。もちろん東京でも模倣した人はあるはずであるが、つまびらかではない。

 当時竹内清兵衛氏が製造した帽子には、蓮華帽子(生地は覆輪、サージ、ラシャなどで、ラシャは陣羽織に使ったものを利用したという)、大黒帽子(明治8年ごろ流行したもので、ラシャ、お召などで製作する)、神戸帽子(舶来の中山高帽子を模倣したもので、布を芯にしてラシャで覆ったもの)また紙の張子に黒ラシャの粉をふりかけた振かけ帽子と称するものも神戸帽子と前後してあらわれたが、それらは今日一般に用いられているフェルト、鳥打帽子、麦藁帽子などの純然たる洋式帽子に移る過渡期における状況であった」とあります。さらに、

 明治5年、旧礼服を廃し、洋式がとり入れられ、明治6年1月13日、絵図姿入りにて大礼服制の改正を公布されてから、疾風の如く山高帽子が大流行した。当時の絵姿に注意書として、「冠を脱せざるを以て礼となし、帽子は脱するを以て礼と定むべし」とていねいに脱帽姿まで書かれている。これより二十年の間、尨大なる山高帽子の輸入を見る。頭髪がほとんどザンギリになった明治十六年、白堊の鹿鳴館が完成し、舞踏会で知られた鹿鳴館時代をつくつたのである。この風潮が下に伝わって町人も洋服を者るようになり、舶来物、ことにパリ風の洋品が多く輸入されるにいたった」とあります。

 帽子とともに“近代化”が進む、つまり、帽子は服装の中でもとくに“文明”を象徴するものであり、それが小学生への学帽の普及にもつながっていた所以でありましょう。

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 その帽子が売れなくなっている。しかし、そもそも、帽子製造とはどんな業種に入るのでしょう? また、統計資料などあるのでしょうか? そこで、総務省HP「統計基準・統計分類」をひもとくと、そこに「日本標準産業分類」というものが出てきます。それをさらに子細に調べると、大分類のE.製造業 → 11.繊維工業 → 118. 和装製品・その他の衣服・繊維製身の回り品製造業 → 1186.帽子製造業(帽体を含む)とあります。こんな感じで“分類”されているのですね。ちなみに、ネクタイ製造業は1182、靴下製造業は1184というナンバリングです。

 さらにネットを調べると、経産省の統計表が出てきました。これをみると、2012年の帽子製造業で4人以上の従業員を持つ事業所数は152、従業者数2,133人、現金給与総額5,012(百万円)、原材料使用額10,125(百万円)、製造品出荷額22,118(百万円)、付加価値額(従業者29人以下は粗付加価値額)11,330(百万円)とあります。この表をもとに計算すると、帽子製造業は総出荷額221.2億円、1企業あたり14.1人、一人当たり給与235万円(ネクタイは36.5億円、13.4人、177万円;靴下製造業は940.3億円、30.6人、217万円)になります。なかなか微妙ですね。

 それでは、過去のデータは見つかるでしょうか? とりあえず、1998~2002年の資料があったので比較すると、2012年の日本の帽子業界は1998年度比で事業所数が46.9%(つまり、半減)、従業員数が61.5%、原材料使用額が74.8%、そして製造品出荷額が68.1%に減少していました。やはり衰退の兆候はありありです。この間、一人当たりの給与は1998年の280万円、2000年の284万円から漸減して2012年には1998年の83.9%になっています。一方で、一人当たりの生産額(つまり労働生産性)は110.6%と1割あがっています。つまり、労働生産性はあがったのに、給料は減っている=日本のものづくりの危機とも言える状況が浮かび上がっているのかもしれません。

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 それでは、帽子の輸入を調べてみたいと思って調べてみると、どうやら近年、急増しているようです。「組んだもの/ストリップを組み合わせて作った」帽子の2016年度の輸入額は56.2億円で、1988年以降で当年が最大、9年連続の増加で前年比5.9%増だということです。

 片方で「ものづくりの危機」、もう片方で輸入の増加、そして需要の減少となると、長期構造不況業種というしかありません。

 しかし、それにしてもどうして近代化が進むにつれて、ヒトは無帽化するのでしょう。それはどうやら帽子こそが、共同体への所属の証であり(制帽・制服等はその極みです)、近代化とともに工業化(製帽業界の勃興)とともに“所属”が制度化していった先に、今度は所属からの開放がおとずれ、無帽化していく。逆に言えば、ある種の帽子が発明されたとたん、その帽子はいやおうなく人々を“分類化”してしまうという、現代社会が抱えている本質的矛盾の象徴からの脱走かもしれません。

近代化の象徴としての“帽子”、あるいは帽子屋の憂鬱:ファッションの人類学Part12

2017 11/23 総合政策学部の皆さんへ 日本に帽子がいつ入ってきたか? 皆さん、考えたことはありますか? 例によって、(あまり信用しすぎてはいけないが、一方ではひどく便利な)Wikipediaをひもとくと、「日本では、明治4年8月9日(1871年9月23日)の散髪脱刀令(いわゆる断髪令)により髷を結う男性が激減し、代わって帽子が急速に普及した。西洋から来た帽子は「シャッポ」「シャポー」などと呼ばれ、「和服にシャッポ」というスタイルで男性に普及した(後に洋服も普及)」とあります。

 この「和服にシャッポ」というところがミソですね。一度、小学校の卒業写真を時代を追ってWebで調べた事がありますが、日本の小学生にどのように“洋装”が入ってきたか? それは“頭”、すなわち学帽からなのです。

 例えば、港区教育委員会 デジタル港区教育史の「目で見る港区の教育のあゆみ」には、「卒業記念写真(明治21 桜川小学校)」(https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/image/1310305200/1310305200100230/k004-1.jpg)が載っていますが、男の子は全員学帽をかぶり、かつ和服です。残念ながら男の子の足下はわかりませんが、写真前列の女子生徒は全員下駄のようです。ちなみに、男の子は学帽=近代化の象徴をかぶりながら、女子生徒は全員丸髷のようです。こんなところにも近代化における男女差がでてきます(これは先生方も々で、男性教員が洋装なのに対して、初期の女性教員はたいてい和装です)。

 このようにして学帽 ⇒ 制服・靴、さらに男性教員 ⇒ 男子児童 ⇒ 女性教員 ⇒ 女子児童の順に服装が変わっていく=これが日本の教育現場の近代化をめぐる一景です。さらには、その学帽や制服、靴を生産する企業の勃興となれば、いくらでもレポートのネタはあるはずです。

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 さて、Wikipediaの「学生帽」には「学生帽を最初に導入した例としては、開成学校が、1873年(明治6年)に制定したことが挙げられる。大学の角帽は東京大学(旧制)が1886年(明治19年)に定めたのが始まりと伝えられている」とありますから、上記桜川小学校の明治21年の卒業式は、かなり早い展開とも思われますし、さすがは東京港区とも言えます。

 なお、小学校での洋装化は都市部で急速に進み、同じ「目で見る港区の教育のあゆみ」に掲載の「水飲み場(明治40 本村小学校)」では、女子生徒に洋装かつ靴が普及していることがわかります。

 こうして、学帽は一般的なものとなり、私の子供の頃まで連載されていた横山隆一の新聞連載マンガ「フクチャン」の主人公は最初、「江戸っ子健ちゃん」のフク主人公だったものの、「着物に下駄、大きな学生帽という容姿の幼い男の子で、やがて主人公の健ちゃんよりも人気が出たため、改題のうえ、フクちゃんを主人公に昇格させた」「フクちゃんは元々、学生帽を被っていなかった。前作『江戸っ子健ちゃん』の初期、大学受験のために健ちゃん宅に居候していた「チカスケ」という登場人物が、合格するために自分を追い込むつもりで先に学生帽を買ったが受験に失敗し、進学を断念して帰郷することになったため、フクちゃんがそれを譲り受けて以来、トレードマークになったものである」というストーリーになっています。少なくとも、当時の新聞読者にとって、学帽をめぐるこうした展開はごくあたりまえのこととしてうけとられていたわけです。

 ところで、私にとって「帽子屋」と言えばつい思い出すのが、20世紀初頭のイギリスのベストセラー作家アーチボルド・ジョゼフ・クローニンの出世作『帽子屋の城』です。ただし、何しろ中学時代に読んだっきりですから、利己的な主人公(=帽子屋)とその一家がやがて悲惨な人生をそれぞれたどっていくという陰惨な印象しか残っていません。
 そしてもう一つは、言うまでもなく、皆さんご存じの『不思議の国のアリス』の「狂ったお茶会」に登場するいかれ帽子屋( The Mad Hatter)ですね。

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 帽子の普及は当然、帽子屋あるいは帽子屋産業の勃興をともないました。ところが、その帽子が、近年、生産数が落ち目になっている。例えば、大阪府が平成12年に出しているpdf資料では「帽子屋業界の構造」として、「全国の帽子業界の規模をみると、平成9年で事業所数301、従業者数3,299人、製造品出荷額等313億71百万円となっている(通商産業省『工業統計表』、従業者数4人以上の事業所)。近年の推移をみると、事業所数、製造品出荷額等は7年にピークをつけており、9年は7年に比べ、それぞれ9.9%減、19.3%減となっている。5年と比べても、1.0%減、5.7%減となっている。このように帽子製造業は、事業所数、製造品出荷額等ともに減少及び低落傾向で推移している」とあります。

 こうして日本の近代化の一側面として発展してきた帽子が、いまどんな状態にあり、また、今後どうなっていくのか、そのあたりをしばらく見ていくことにします。

 to be continued ・・・・・・

バティックについて:ファッションの人類学Part 10

2015 7/12 総合政策学部の皆さんへ

 バティックと聞いて、ピンとくる方はどれほどいらっしゃるでしょうか?

  日本語にすれば「ろうけつ染め」、漢字では“蝋結染、蝋纈染、臈纈染”等と難しい文字が並んでしまいますが、“蝋”の字が示す通り「模様部分を蝋で防染し染色する伝統的な染色法」(Wikipeida)。古くは2~3世紀の中国から出土、世界各地に伝わっている染色の技術です。

 とくにインドネシア、マレーシアを中心に東南アジアに広がっています。日本にはおそらくインドネシアからの輸入がはじまりなのか、別名「ジャワ更紗」で流通していた時期がありました。ほら、北原白秋作詞、山田耕筰(戦前の関学出身者ですね)作曲の『すかんぽの咲くころ』(旧小学校唱歌、6年生向け)に登場しています(昭和2年)。
 土手のすかんぽ ジャワ更紗
  昼は蛍がねんねする
   僕ら小学一年生 今朝も通って またもどる
    すかんぽ すかんぽ 川のふち
     夏が来た来た ドレミファソ

 ちなみに、すかんぽとは標準和名でイタドリのことですね。歌詞もちょうど今の時期にあっているようです。

 バティックがどんな図柄なのか、英語版Wikipediaの“Batik”に色々画像があるので、紹介しましょう(それにしても、日本語版Wikipediaの記述はあまりにも貧弱です)。なお、バティックには型を使ったものと、手書きのものがありますが、バリ島等で観光客用に作られる手書きのBatikは非常に高価だったと覚えています。

 そのバティックはインドネシアからインド洋を隔てた東アフリカのタンザニアでも作られていて、実は、私はまずアフリカでバッティックを知りました。ろうけつ染めの淡い色合いで、マサイやキリン等を描く、布というよりも絵のような感じの白人向け土産物の定番でした。

 Webで探すと、ティンガティンガなどのように、ずいぶんモダンな感じのようですが。それでは、以下、ティンガティンガやアフリカン・バティックのサイトを貼り付けます。

・Zanzibar Crafts&Culture Tour

http://www.tingatinga.info/

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 それにしても、「筆などで溶かした蝋を布に塗り、模様を描く。染料にてその布を染色し、蝋を落として水洗いする。蝋を塗った部分は白く染め抜かれる。複数の染色のためにはこの工程を繰り返す。蝋を乾燥ひび割れを入れることによって、独特の亀裂模様を作り出すことも多い(Wikipedia)」という方法を誰が思いついたのでしょうか? そして、世界各地に点々と伝わっているこの染め方は、どのように伝播していったのか、ちょっと不思議な気持ちがします。

 と思ってちょっと調べて見ると、あるHome pageには「ワックスプリントは、もともとは西アフリカや中央アフリカで愛用されている布で、製造過程は、ろうけつ染めのように、機械を使用して生地の両面に樹脂をつけて防染し、染色桶にいれて浸染させてから、その後、樹脂などを落とし、再度、木版ブロックやローラー機械などで染色する方法で作られます。

 この布は、もとともとインドネシア独特のろうけつ染めであるバティックあるいは模倣バティックがそのルーツといわれていますが、インドネシアのバティックと対峙するアフリカ向けの布として「ワックスプリント」という名称で、長い間、研究・生産・流通してきており、「ワックスプリント」布独特の世界観が築き上げられてきています。

 最近、日本国内では「アフリカンバティック」と呼ばれているようですが、これは誤名で、正しくは「ワックスプリント」で、昔も今もメーカーは「ワックスプリント」と言う名称で作り、世界的に流通しています」と明記されています(Pole Pole Kanga Shop; なお、多数の写真が載っているので、関心がある方はご覧ください)。

 それでは、African wax printが正式名称なのか? しかし、よく考えてみればAfrican waxprintという言葉自体はどちらも“英語”! そもそもはアフリカの人たちは本来、どう呼んでいるのか? という疑問もわくわけで、Googleで英語のHPでのAfrican Baticを検索すると787,000 件、African wax printで検索すると1,010,000 件、後者が多いけれども、African Baticもそれなりの数にのぼります。「 日本国内でのみの誤用」というのはちょっと言い過ぎでは?? 英語のHPでは、Batikという言葉とWax printという言葉を併用しているのも見受けられますし、どんなものでしょうか?

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 ちなみに、“Global Mamas”というHPでは“History of African Batik”と題して、“The story goes the Belanda Hitam, Malay for Black Dutchman, brought batik to West Africa in the mid-nineteenth century after serving as indentured soldiers for the Dutch in Indonesia. Returning home from 15-year conscriptions, legend says the men brought back trunks of fine Javanese batik, covered in opulent whisper-thin patterns that captured the imagination of their friends and relatives. It’s a very neat story, but unfortunately, as any scholar will tell you, textile history is one sticky wicket. Of the 3080 recruits from 1831-1872, only a handful returned to West Africa (many married Javanese women), and those that did make it back, usually returned empty-handed; the recruits were not paid until they reached their final port, which would have made souvenir shopping pretty difficult”と紹介しています。この筋書きでは、東アフリカのろうけつ染めをバティックと呼んでも、それほどおかしくはないかもしれません・・・・

 このあたりでいささか尻切れトンボになりますが、実際に自分で“Batik”あるいは“Wax print”の由来を現地で調べてみないと、何とも言えないような気がします。

ファッションの人類学Part 9:子供は子供らしい服を着るべきか?

2014 11/13 総合政策学部の皆さんへ

 この秋に初めて日光・奥日光を訪れましたが(それゆえ、もう「結構!」と嘯くこともできるわけですが)、その際、『日本奥地紀行』の著者イザベラ・バードや、オーストリー=ハンガリー二重帝国帝位継承者フランツ・フェルディナンドも訪れていることに、気づきました。

  『日本奥地紀行』はきちんと読んだはずなのに、バードが“金谷さん”のところで長逗留しているのをすっかり忘れてしまうなんて! ということで、あらためてこの二人を読み直すと、いろいろと気づくことがあります。

  例えば、ハプスブルグ家の継承者にして、「意志強固であって狷介でもあり、繊細であると同時に危うさを秘め、趣味に大きく傾き、募集欲をみなぎらせ、尊大でありながら、時に弱者への視点をもつ」「分裂したフェルディナンド、皮肉な観察者のフェルディナンド」(訳者によるあと書き)は実に様々なことに気づきますが、日本に到着して早々、こんな記述を残しています(安藤努訳『オーストリア皇太子の日本日記』講談社学術文庫)。

 「ヨーロッパ人が最初にびっくりさせられるのは、なんといっても、子供も大人も身形(みなり)がまったく同じだということだろう」、しかし、複雑な性格の持ち主フェルディナンドはすぐに付け加えます。「だが、これにもすぐに目が慣れてしまう。子供の服装が大人と同じであれば、見た目は実際より大きいのは当然だが、むしろ目の快楽を誘われ、つい、わたしたちはかわいらしい小型の大人の姿を楽しんだ

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  人類学者ならば、すぐに想起するはずです。フランスの“日曜歴史家”フィリップ・アリエスの『子供の誕生』、その第3章にアリエスは自分発見した事実=13世紀まではヨーロッパでは、

幼児の聖母をのぞいて、子供期に固有の性質にたいし示される顕著な無関心さは、たんに芸術上の形象にのみ見られるのではない。習俗という現実のなかでも、当時子供期が区別されていなかったことを、服装もまた証言している」「服装のうえで大人から子供を区別するものは何もなかった」。

 しかし、「17世紀になると、貴族であれブルジョワであれ、少なくとも上流階級の子供は、大人と同じ服装はさせられていない。本質的なことは次のことにある。すなわちそれ以後になると、子供の時期に特有の服装が洗われ、それは大人の衣服とは区別されるということである」。これが“子供服”の誕生であり、同時に“子供”という存在にヨーロッパ人が気づくきっかけともなった、と。

 すでにブルジョアジーの時代を迎え、家族と子供が誕生したヨーロッパからやってきた繊細なフェルディナンドの眼はめざとくも、日本の子供たちが「私は子供である」とのメッセージを放つべき“子供服”をまとわず、ただ大人の服がスケールダウンした身形をしていることに気づくわけですが、しかし、彼の“分裂した”主観はすぐに自らが感じた違和感を打ち消し、あるいは、ヨーロッパの宮廷にしばしば“慰みもの”として住まわされていたこびとたちの群れを見るかのように、子供たちを観察するのです。

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 それでは、その子供服、近代化に向かって突進する(たとえ、それがフェルディナンドやピエール・ロチなどには滑稽に見えようと)日本において、いつ子供服が誕生したのか? 論文検索エンジンGoogle Scolarで探してみましょう。

 すると、三友晶子(2009)「裁縫雛形にみる子供服の洋装化の過程」『東京家政大学博物館紀要』14:167 -185に、こんな記述が見つかります。「明治の開国以降、日本人は洋装化という大きな変化を経験するが、特に子供のための服には、着心地のよさや動きやすさが求められることから、機能性に富んだ洋服が積極的に取り入れられた。明治初期において、上流階級の子供が晴れ着や外出着として身につけるに限られていた洋服は、明治30 年頃から庶民の間でも着用されるようになる。そして大正・昭和を通じて、子供の洋服は学校制服等の形で、あるいは家庭洋裁の広がりによって徐々に定着していき、戦後の復興期にはほぼ完全に和服にとって代わった

 こうして日本人は、フェルディナンドの個人的な感想を軽々と飛び越え、子供服を学校の制服や“洋裁”によって受け入れていった、ということになりますね。

 三友さんは上記の問題意識のもと、日常で使われ残りにくい子供服そのものではなく、子供服を作るための裁縫雛形を調べることにします。おもしろい着想ですね。皆さんも是非、卒論作成等のご参考にして下さい。

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 それでは、どのぐらい古い時期からの雛形が残っているのか? 三友さんによると東京家政大学博物館所蔵の「裁縫雛形のうち最も古いのは、明治30 年に製作されたものである。この中に、早くも「子供洋服」が2 点、「女児服」が3 点見られる。一部飾りに緑色のメリンスを使っているほかは、ほぼ全て白い木綿製で、いかにも習作といった趣だが、以後の子供服に多くみられる形が一通り出そろっている」とのことです。

 さらに子供服に男女の差が何時できたのか? その差は何歳の子供からなのか? いくらでもテーマがわきそうですが、どうやら明治30年には、性別不明の子供服と、女子限定の「女児服」があるとのことです。この論文では、この雛形の作者は「平野よう」さん、そして明治34年作成の雛形の作者として「井上はな」さんの名前が挙げられています。

 この“子供服”がめでたくJIS規格(日本工業規格)の対象となるのは、第2次世界大戦も終わった1952 年です。この年の3月に「日本既製服中央委員会は,婦人子供服の標準寸法表を制定する」とのことですが(木下明浩(2009)「日本におけるアパレル産業の成立~ マーケティング史の視点から~―」『立命館経産営業学』48:191-215)、これが戦後の子供服メーカーの勃興につながることになるのです。 to be continued・・・・・・

ネクタイ考:ファッションの人類学Part 8

2013 12/14 総合政策学部の皆さんに

 最近、会合などの案内でも“クールビズ”でお越し下さい、等と書いてあったりするのですが、それでは、このクールビズとは何か?

 例によってWikipediaを開けてみると、「日本で夏期に環境省が中心となって行われる環境対策などを目的とした衣服の軽装化キャンペーン、ないしはその方向にそった軽装のことを示す造語である」とされていますが、その定義はまだ完全には定まっていないようです。

 例えば、衣服 クールビズは「ノーネクタイ 、半袖シャツ、かりゆしウェア 」はOK、「ポロシャツアロハシャツ、Tシャツ、タンクトップ、 ジーンズ、ハーフパンツ、サンダル」は×、そして「ノージャケット、チノ・パンツ、スニーカー」は意見が分かれる、ということになりそうです(Wikipedia)。

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  このように、最近は旗色がやや悪いネクタイ、この起源を皆さんはご存じですか? というのが今回のテーマです。私の知っている限りでは、日本におけるネクタイについての文献で古いものに『高橋是清自伝』があります。

 以前、「あなたにとって、“仕事”とは何か? 陰陽師から漱石、そしてトム・ソーヤーからフランクリンまで;高畑ゼミの100冊Part 13」でご紹介した、アメリカで奴隷契約の身に落とされてから、総理大臣までに出世して、かつ2/26事件で暗殺されるというジェットコースターのような人生をたどったあの方です。

 さて、この自伝では、高橋是清が1868年に帰国後、同士の鈴木六之助と、仙台藩江戸藩邸を訪れた話に、「ネクタイ」がでてきます。

いま楽山公は、芝の増上寺に蟄居していられる。二人がアメリカから帰ったことを申し上げたら、会いたいとの思し召しであるから、お目見えしたら良かろう」ということで、「私と鈴木はアメリカより帰りたての洋服を着て、浅井につれられ、増上寺にまかり出た。(中略)楽山公は立ったままでいられたが、そばにおった侍が洋服のネクタイを首巻と思って、静かな声で「御前の前だから首巻は取ってはどうじゃ」という。「これはネクタイでありまして、つけているのが礼であります。これをつけなければ、ちょうど人足のいでたちと同じようになります」と申し上げた。すると「そうか」といって顧みて笑ったようなありさまであった。

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  それでは、このネクタイの起源は何なのか? 例えば、現代のフロックコート等のダブルブレストがポーランド軽騎兵(ウーラン)の制服が起源だとすれば、ネクタイの起源は何か?

  Wikipediaによれば、それは首に巻くスカーフだったいうことになります。その説では「クロアチアの兵士がフランスを訪れた際、(中略)無事な帰還を祈って妻や恋人から贈られたスカーフを首に巻いたが、それを見たルイ14世が興味を示し、側近の者に「あれは何だ?」とに尋ねたところ、側近の者はクロアチアの兵士について尋ねられたと勘違いし、「クロアチア兵(クラバット)です」と答えたため、その布をクラバット(cravat)と呼ぶようになったという逸話である」「どちらにせよ、1660年ごろに人気のあったクラバットは、単に幅広のネッカチーフを首に巻いたものに過ぎなかった」。

 こうした経緯でヨーロッパに広がったネクタイが、1868年には洋行帰りの高橋是清が藩の重役に「つけているのが礼であります」と言い放つまでになる。そして、そのほぼ150年後、クールビスのおかげで、ネクタイ業界がやや左前になってしまう。服装というのもまことに不思議なものです。

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 ちなみに、日本のネクタイ業界は、東京ネクタイ共同組合という団体があるようです(http://www.tokyonecktie.or.jp/)。このHPによれば、2000年には輸入2403.1万本、国産は山梨が760.6万本、西陣714.4万本、京都アウトサイダー71.3万本、八王子491.2万本等国産合計2307.8万本ということで、日本には47010.9万本、つまりは国民一人あたり0.4本ぐらいになる検討です。

 しかし、これが2011年には輸入2351.1万本、国産合計実に570.5万本、計2921.6万本、国民一人あたり0.24本に減っている(それも国産はほぼ4分の1に減少)。日本のネクタイ産業は、そもそもネクタイ需要の長期的減衰と、国外からの流入であっという間に衰退しつつある、とも見えます。

 となると、ネクタイ業界がクールビズに抗議するのも理解できる気はします。とは言え、単にクールビスだけではこんなに減るはずはないかもしれません。言うまでもなく、かつて和服の需要が急変したように、次は服飾業界も大きな流れが出ているのかもしれません(=就活にもご注意を)。

 なお、2011年の輸入2351.1万本のうち、実に2140.6万本(91.5%)が中国からの輸入です。次がイタリアの164.8万本ですが、このネクタイの単価を知りたいところです。たぶん、中国=安価で大量、イタリア=高価で少数ということになるかと思います。そして、中国からの輸入品のうち、どのぐらいが日本資本で中国で生産された商品なのか? そのあたりも興味がわくところでしょう。

ファッションの人類学Part7:“針”、“縫う”、“近代化”、そして“裁縫女”

2012 9/4 総合政策学部の皆さん

 “ファッションの人類学”、ほぼ1年以上のご無沙汰です。今日の話題はファッションにつき物なのに忘られがちなアイテム=“”にしましょう。というのも「アートについて:芸術家たちPart7:大衆むけ見世物の世界~人間ポンプについて#2~荒技編」で、“人間ポンプ”安田里見さんの荒業を紹介するうち、“畳針”が登場。これをネットで調べると、東亜ミシン針工業のとことん“針”を愛するサイトに接したからです(http://www2.ocn.ne.jp/~tooa//)。

  この縁で、“縫い針”とファッションについても論じましょう。そもそも針がなければ、裁縫もありえない! と言っても、皆さん、“針”等、ピンときますか? 日本史を勉強された方は、あるいは覚えているかもしれません。太閤豊臣秀吉が若き頃、「15歳の時亡父の遺産の一部をもらい家を出て、針売りなどしながら放浪した」(『関白素生記』)。貴重で、高価で、かつ軽くて持ち運びに便利なこの商品を生業(なりわい)に選ぶところが、太閤までに出世する秀吉の経営感覚を彷彿とさせるかもしれません。

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 さて、Wikipediaの「針」によれば、裁縫用の針は「古代の針は木や骨などで作られていた。 裁縫用の針は今から3~4万年前に東シベリアで発明されたとされる」とあります。それで英語版Wikipediaの“Sewing needle”を閲覧すると、

Even earlier Stone Age finds, such as the excavations on the island of Öland at Alby, Sweden, reveal objects such as bone needle cases dating to 6000 BC. Ivory needles were also found dated to 30,000 years ago at the Kostenki site in Russia. The oldest needle in the world was made of bone, dated to Aurignacian and discovered in Potok Cave (Slovene: Potočka zijalka) in the Eastern Karavanke, Slovenia”.とあります。Wikipediaの画像がこちらですが、フランスのマグダレニアン期(紀元前15,000~7,000年)出土のようです。

 それでは、日本で最初の針はどこから出土しているか? 縄文早期(約1万年前)の栃原岩陰遺跡から釣り針等とともに、骨製の縫い針がでてきたのがもっとも古いそうです。縄文人はすでに裁縫技術を身につけてから日本に渡来してきたのでしょう(この遺跡の出土品は北相木村考古博物館で展示)。

 それでは針についての文献は? 私の乏しい知識では、三輪神社に伝わる“大物主”についての古事記の話「スエツミミ命の娘のイクタマヨリビメの前に突然立派な男が現われて、二人は結婚した。しかしイクタマヨリビメはそれからすぐに身篭ってしまった。不審に思った父母が問いつめた所、イクタマヨリビメは、名前も知らない立派な男が夜毎にやって来ることを告白した。父母はその男の正体を知りたいと思い、糸巻きに巻いた麻糸を針に通し、針をその男の衣の裾に通すように教えた。翌朝、針につけた糸は戸の鍵穴から抜け出ており、糸をたどると三輪山の社まで続いていた。糸巻きには糸が3回りだけ残っていたので、「三輪」と呼ぶようになった(Wikipedia)」ぐらいかもしれません。

 (土偶埴輪に明らかなように)服が存在していたということは、おそらくは裁縫が前提であり、それゆえ針もあるはずですが、針はまったくの黒子=脇役としてなかなか文化の表面に現れません。

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 さて、針は骨角器から金属器に変わっていくわけですが(上記の秀吉の説話も、当然、鉄製の縫い針が前提ですよね)、広島針工業会のサイトには以下の記述があります。

 広島の手縫針は、約300年前、藩主の浅野氏が、長崎から木屋治左衛門という針職人をつれてきたことにはじまります。木屋治左衛門は、己斐村(現在の西区己斐)に住み、弟子をとって製針業を創設するとともに、浅野家の下級武士に、内職として針の製法を教えました。

 その方法は分業で、先頭は何町で、穴あけは何町でと、専門分野を分けて生産していたようです。生産高はかなり大きく、”みすや針”の名で包装され、船によって、京阪、江戸の針問屋に送られ、日本全国で販売されていましたが、以後200年間は、手工業的に製造されていた状態でしたhttp://www.nvccom.co.jp/hari/kind/index.html)。

 何しろ、江戸時代の製鉄ではかの『もののけ姫』の世界ですから、たたら吹きによって、木炭13トン、砂鉄13トンからケラ2.8トンを生産。そのうち1トン弱を日本刀等に使う玉鋼、残りの2トン弱の一部を生活用品(鋤鍬、釘、包丁、そして針等)にしたということで、超貴重品だったわけです。なお、“みすや針”という名称は“京都松原みすや忠兵衛”等の名称で今日にも伝わっています(http://www.misuyabari.co.jp/)

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  そんな和針の世界が、ご多聞に及ばず、近代化の中で近代工業化していく。上記広島県針工業協同組合のHPでは以下のような記述があります。

  明治29年、中田和一郎氏が京都からドイツ機械の一部を購入し、機械化への第一歩を踏み出しました。しかし当時は、動力の問題、故障の多発などで、なかなか順調には稼動しなかったようです。その内、他の業者も機械化に関心をよせはじめ、国内での機械調達が困難だと知ると、機械製造業者と相談して、苦心の末、自ら機械の製作に成功していったのです。これが明治末期ごろのこと。

  必要に応じて、より精巧な機械を開発していく、広島の針業者のパイオニア精神と優秀な技術力は、このころからの伝統となりました。

 大正3年、第一次世界大戦が起こると、中国では、ドイツやイギリスから針が輸入されなくなり、隣の我が国へ買いつけにくるようになりました。何しろ世界で一番需要の多い中国からの申し出です。地理的に恵まれていた広島は、それまで国内向けの針のみ生産していたのですが、輸出針の生産にのりだし、工場の数も急速に増え、殺到する注文に応えていったのです。当時は中国のみならず、東南アジア、アメリカまで輸出されました。しかしこの好況も、大正9年の世界大恐慌で、鎮静化します。 

 そうした被服関係の近代化の一コマが、「ファッションの人類学Part3:軍服、あるいは機能の追求」でもご紹介の軍服の世界なのですね。

 さて、「針」関係の団体を探すと、広島県針工業協同組合の他に、「日本縫製機械工業会」というサイトもあります。日本縫製機械工業会のメンバーにはアイシン精機株式会社、蛇の目ミシン工業株式会社、ブラザー工業株式会社等、そうそうたる会社が並んでいます。在学生の皆さんも、就職活動の対象にいかがですか?

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 裁縫の工業化=近代化は、しかし、在来の生業(なりわい)に生きていた人たちを圧迫していきます。

 フランスの女性歴史人類学者イヴォンス・ヴェルディエの傑作『女のフィジオロジー』では、フランスで19世紀以降の近代化で消滅していく伝統的な女性の3つの仕事、洗濯女、料理女、そして裁縫女をとりあげています。

 この裁縫女は様々な理由で、ふつうの村暮らしの女性の一生からはずれ、裁縫の技をたよりに、ある時は仕立物を頼まれ、ある時は15歳になった娘たちを一冬預かり、縫い物を教えて生計をたてていく女たちです(洗濯女、料理女も同様に、それぞれの“技”で生活していきます)。

 こうした立派な“技”を持って(一般の家庭、社会から)“独立”してやってい女たちは、しかし、その一方で、「日雇いで、他人の家で仕事をする」=いろんな仕事をつぎからつぎへと移ろい、定まらないと見なされ、ある意味でまわりの社会から孤立した立場においやられていく。

 その彼女らの仕事が“機械化”され、労働者として置き換わっていく過程こそが、近代化の一側面でした。なお、『女のフィジオロジー』は卒業研究のネタ本としては、テーマの宝庫です。関心がある方は、まずはご一読を!

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 そんな裁縫女たちは、市民社会のマイノリティとして“放縦”の焼き印を押しつけられ、またジェンダー論的な立場から言えば「いつの時代も、町の職人は身持ちが悪いという評判でした。この点では、裁縫女と肌着屋がトップでした。いや、それでも帽子屋にはまけていました」と決めつけられる。 

 それにしても、都会の帽子屋! そこに(帽子屋からファッションリーダーまでに出世する)ココ・ガブリエル・シャネルにそそがれた両義的な視線の理由を、探ることもあるいはできるかもしれません。

 こうしたフランス文化における裁縫女、あるいは“お針子”たち。今日、我々はその“お針子”文化の一端を、オペラ“ラ・ボエーム”に観ることができるでしょう。

  また、現代につたわる“お針子”の末裔に「祖母がお針子で洋裁の基本を幼時から遊び乍ら身に付け、デザイナーになるための教育は受けなかったという」ジャン=ポール・ゴルチエがあげられます。

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    一方、衣料産業の近代化に貢献したミシンについて、Wikipediaの記述には「1810年、ドイツの靴職人クレムスが針先端付近に針穴がついたミシン針を発明。近代ミシンの原理の基礎となる。この後、フランスのバーシレミー・シモニアが1830年に特許をとったミシンが、軍服を縫う目的で1840年に80台生産されたが、失業を恐れた他の仕立て屋によって破壊されたという有名なエピソードが伝わっている」とあります。

  また、発明家ウォルター・ハントはミシンを1833年に発明しますが、「特許取得に失敗した。これは、お針子が大勢失業するのではないかと心配して、特許申請が遅れたためである。後に独自にミシンを発明したエリアス・ハウとの間で、裁判となった」とあります。

  こうして、フランス・イギリスを筆頭に、近代繊維・衣料産業の発達は、女性の仕事を変えていくのです。

ファッションの人類学Part6:素材について~柳田國男の名著『木綿以前の事』を皆さんへ~

2011 7/19 総合政策学部の皆さんへ

   ファッションの人類学、本日はその“素材”についてのお話です。皆さん、衣類の素材について、どのぐらいご存知ですか? アパレルや繊維関係に就職される方もあるかもしれませんが、本日は繊維=衣類の素材の話題です。

 “衣類”というと、ついファッションやデザイン等をお考えでしょうが、素材がなければ何もできないはず。例によってWikipediaを検索すると、“衣類”の項には「布、毛皮、植物の葉や茎を編んだり束ねたりしたもの(蓑・腰蓑)などの幕状の構造で囲うことを行い、その被膜を衣服という」と書いてあるだけです。

 それでは、“”を調べると、こちらは「古代日本では植物繊維で作られた物のみを指し、絹織物や毛織物は「布」とは呼ばれていなかったが、現在は繊維の材質に関わらず布と呼ぶ」とあって、ようよう素材への言及が出てきます。次に“原糸”を調べると「天然繊維再生繊維合成繊維」が出てきます(再生繊維と合成繊維をあわせて、化学繊維とも言います)。

 とは言え、全体に、かなりそっけない扱いです。

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 さて、日本最初の糸/繊維は何でしょう? 例えば、皆さんがご存じの繊維類、“”は、カイコという蛾の幼虫が吐き出す糸からできた繭から得られる動物繊維ですが、当然のこと、日本列島原産ではありません。紀元前3000年頃に中国で利用され始めて(その頃、日本列島は縄文時代)、西にはシルクロードを経て伝わり、日本には海を越えてやってきたものでしょう。

 Wikipediaによれば、絹は弥生時代にはすでに伝わっていたとのこと。また、麻繊維は様々な植物からとられますが、本来はアサ科のアサ(いわゆる大麻)をさし、このアサはヒマラヤ地域原産なのだそうです。

 そして、“綿”の材料であるワタもアオイ科のアジア綿(Gossypium arboreumG. herbaceum、アメリカ綿(G. hirsutum等複数の種からなりますが、当然、日本列島には伝来してきた種なのです。

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 ということで、日本列島におけるもっとも古い繊維は、一説によると、縄文時代前期、「カラムシなどの植物繊維を細い縄や紐にし、スダレや俵を編むのと同じ技法で作った編み布」であったろうとのこと(十日町市博物館HP;http://www.city.tokamachi.niigata.jp/site/museum/museum/information03.html)。

 そしてこの系統の布は、現在では「全国的に見ても十日町市周辺に伝わる越後アンギンを残すのみ」だそうです。

 なお、カラムシとはイラクサ科の多年草で、日本にも自生していたものと思われます。現在は道端などに雑草と見かけますが、かつては丈夫な繊維がとれるために青苧(あおそ)と呼ばれ、衣類、紙、漁網にまで使われました。とくに中世越後の国では特産で、上杉謙信青苧座(あおそざ)を通じて経済的基盤の一つにしていたことでも有名です。

 そうした「丈夫だけれども、ごつごつした繊維」を駆逐して、日本人の生活を一変させた繊維、それが「綿」であり、民俗学の創設者柳田國男が名著『木綿以前の事』で見事に描写しているところです。

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 柳田國男、すでに「高畑ゼミの100冊Part4;柳田國男と宮本常一」(2009 12/14投稿)で『遠野物語』と『明治大正世相史編』を紹介済みですが、明治8年、兵庫県福崎町の医家に生まれ、学歴エリートの一員として森鴎外らと交友、詩作に耽りますが、大審院判事の柳田家に養子に入ることで詩人たることを捨てます。

 そして、農商務省のキャリアとなるも、今日まで続く農政をめぐる論争で、小規模零細農家が乱立を憂い、「中農」養成を主張して、大勢の小規模農家を保護する「小農」論と激突、挫折をよぎなくされます(総合政策そのものですね)。

 この結果、民俗学に走った柳田は、身の回りのことすべてに眼を向けます。その一つが「木綿(もめん)」なのです。その冒頭は、以下のように始まります。

  「七部集の付合の中には、木綿の風情を句にしたものが三箇所ある。それから木綿と言ってはならないが、次の「炭俵」の一節もやはりそれだろうと私は思っている。

  •  分にならるる娵(よめ)の仕合せ     利牛
  • はんなりと細工に染まる紅うこん     桃鄰
  •  鑓持ちばかり戻る夕月          野坡
  •  

 まことに艶麗な句柄である。近いうちに分家するはずの二番息子のところへ、初々しい花嫁さんが来た。紅をぼかしたうこん染めの、袷か何かを今日はきているというので、もう日数もたっているらしいから、これは不断着のあたらしい木綿着物であろう。次の付句はこれを例の俳諧に変化させて、晴れたある日の入日のころに、月も出ていて空がまだ赤く、向こうから来る鑓と鑓持ちとが、その空を背景にくっきりと浮かびだしたような場面を描いて、「細工に染まる紅うこん」を受けてみたのである

 と、このまま引用してしまば、角川文庫版でたかだか9ページばかりの小著をそのまままるごと写し取りたくなるような、かつての新体詩人の面影をにじませた文章のあとで、ゆるゆると民俗へ立ち位置を変えていきます。

木綿がわれわれの生活に与えた影響が、毛糸のスエーターやそのひとつ前のいわゆるメリンスなどよりも、はるかに偉大なものであったことはよく想像することができる。現代はもう衣類の変化が無限であって、特に一つの品目に拘泥する必要もなく、次から次へ好みを移してゆくのがふつうであるが、単純なる昔の日本人は、木綿を用いぬとすれば麻布よりほかに、肌に付ける者は持ち合わせていなかったのである。

 木綿の若い人たちに好ましかった点は、新たに流行してきて珍しいというほかに、なお少なくとも二つはあった。第一に肌触り、野山に働く男女にとっては、絹は物遠くかつあまりにも滑らかでやや冷たい。柔らかさと摩擦の快さは、むしろ木綿のほうが優っていた。第二にはいろいろな染めが容易なこと、これは今までは絹階級の特典かと思っていたのに、木綿もわれわれの好みしだいに、どんな派手な色模様にでも染まった。

  作業はかえって麻よりもはるかに簡単で、わずかの変更をもってこれを家々の手機(てばた)でおりだすことができた

 こうした変化、民人が肌で感じる変化を受け入れ、新しい世界が出現していくこと、そしてそれにつれてその生活にも様々な変化が起きる事が起きる。

 例えば、の重ね着によって、人々の姿、輪郭も変化していく。伸び縮みが自由になったことで、身のこなしもかわる。さらに、今までは目で楽しむしかなかった色を、衣によって己の身にまとうことができる。

 これは瀬戸物の普及にも、あるいは“薩摩芋の恩沢”にも似る事であると、柳田の筆は続きます。

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 その一方で、木綿の罪責について、柳田は見逃すことはありません。

木綿の罪責にいたってはあるいはそれ(瀬戸物)よりもいささか重かった。第一に彼(綿)はこの世の塵を多くしている・・・・・震災(関東大震災)がこの大都(東京)をバラックにした以前から、形ばかりの大通りはただ吹き通しの用を勤めるのみで、これを薬研(やげん)にして轍(わだち)が土と馬糞とを粉に砕く。外の埃はこれのみでも十分であるのに、家の中ではさらに綿密に、隙間隙間を木綿の塵が占領し、掃き出せばやがてよその友達ちと一緒に戻ってくる。

 いかになれてしまってもこれが身や心を煩(わずら)わさぬはずはない・・・越前の西ノ谷は男たちは遠くの鉱山に往ってしまい、・女は徒然(つれづれ)のあまりに若い同士誘い会って、大阪の紡績工場に出て働くならいであったが、もう十年も昔に自分が通って見たころは、ほとんど三戸に一人ぐらい、蒼ざめた娘が帰ってきてぶらぶらしていた。塵は直接害をせぬまでも、肺を弱らせて病気にかかりやすくさせることは疑いがない

 こうして柳田は、木綿という繊維が、思わぬほどに日本人の生活を変えて、かつ様々な影響を今も与えていること(多面発現効果というべきでしょう)、そしてさらにわれわれがその歴史をいともたやすく忘却していることを指摘しつつ、この木綿にことよせた文明批評を以下のように締めくくります。

政府大臣が推奨する質実剛健の気風とかは、いかなる修養をもってえらるるものかしらぬが、もしそれが条件なしに、木綿以前の日本人の生活に立ち還ることを意味するならば、その説は少なくともこの久しき歴史を忘れている・・・・

 次の時代の幸福なる新風潮のためには、やはり国民の心理に基づいて、別に新しい考え方をしてみねばならぬ。もっとわれわれに相応した生活の仕方が、まだ発見せられずに残っているように、思っている者は私たちばかりであろうか

 時に大正13年10月、関東大震災から1年と1月後、雑誌『女性』に掲載とあります。

ファッションの人類学Part5:服の洋装化、そして男女の違い:その変遷を写真でさぐるには?

2011 2/15 総合政策学部の皆さんへ

 インドネシアやアフリカ等に長く滞在すると、男性の方が洋装している一方で、女性は伝統的衣装が多いような印象を受けます。例えば、タンザニアでは女性はカンガという巨大な風呂敷のような布をまといます(http://en.wikipedia.org/wiki/File:Kangas_drying_in_Zanzibar.jpg)。これは幅110cm長さ150cmのプリントされた綿地の布です。

 そこら辺の店にはいれば、色とりどりのカンガがぶら下がっています。このカンガ、タンザニアでは見慣れているので違和感を感じませんが、日本に買って帰って、広げてみると、日本ではとても着れないチョーど派手なものです。

 さて、カンガが2枚あると、タンザニアの女性は1枚は巻きスカートに、1枚は頭から上半身を包むように巻き付ます(http://en.wikipedia.org/wiki/File:KangaSiyu1.jpg)。上半身は西洋風のシャツ、下はカンガの巻きスカートもよく見かけます。なお、大学受験パスナビのサイトに、アフリカファッションに詳しいイラストレーターの方のブログに、イラスト付き解説のページがありました:http://eigonochikara.passnavi.com/culture/fashion04.html

なお、同じサイトのベトナムのページでは、ベトナムの民族衣装「アオザイ」のページもありますhttp://eigonochikara.passnavi.com/culture/fashion06.html:Wikipeidaによれば、アオザイはもともとはチャイナドレス原型とのことですが、洋装化にも対抗できるデザインですね。ただし、すべてオーダーメイドで、かつ、肥ると着れなくなるそうです!

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タンザニアに話を戻して、“カンガ”とはスワヒリ語でホロホロチョウのことです。アフリカにいた頃は、藪の中で大群でうごくホロホロチョウをしょっちゅう見ていましたが(ただし、国立公園予定地区で、かつ、私の仕事はタンザニア天然資源観光省の野生動物管理官というわけなので、もちろん、一度も食べた事などありません)、タンザニア人に聞いても、「きれいな鳥だ」という認識です。つまり、カンガという布は、ホロホロチョウのようにきれいな布だ、というわけです。

そう言えば、タンザニア人の若者に「ねえねえ、ら、女性にはどんな風に話しかけるわけ? 女の子が喜ぶ言葉はどんなの?」と尋ねると(もちろんスワヒリ語で)、「Kama ndege(鳥のようにきれいだね)」と言うに限る、というのです。さらに「Kama tausi(孔雀のようにきれいだ)」といえば一番嬉しがるとのこと(アフリカにクジャクはいないのですけどね。アラビア語のイメージの直輸入でしょう)。それでは、「Kama kanganga(ホロホロチョウのようだね)と言ったらどうなる?」と訊くと、もちろん、それも嬉しがるという答えでした。

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 こうした男女の違いですが、日本でも私の子供の頃(1950年代後半から1960年代)父親は(高校の国語の教師だったのですが)、基本的に洋服でしたが、(私の母親も含めて)女性は和服を着ることがまだ多かったように覚えています。

 例えば、北日本の冬、和服の女性が降る雪をよけるため“かくまき(角巻き)”をかぶっていました。今時そんな姿はまず見ることができないでしょうね(「角巻きものがたり」というHPのURLはhttp://www.hokkaido-jin.jp/issue/sp/200401/special_01.html)。

 それでは、日本人に洋服が普及していった様を、どのように調べればよいのでしょう? そんなテーマのレポートが課せられたら、皆さんはどうしますか? しかも、“ふつー” の庶民にも洋服が普及する様を調べるのには。

 そこで要求されるのは一定の様式で、時間変化を比較可能な資料を探すことです。例えば、小学校の入学式/卒業式の写真を調べてみるのも一つの手です。ということで、例題としてとりあげてみましょう。

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 まず、「旧第一我嬬小学校沿革」というサイトには、明治38年の卒業写真が見つかりました。この写真では、男女とも和服で、男の子だけ学帽を被っています。いわゆる“制服・制帽”のうち、お手軽な制帽が浸透していく様が見てとれます。

 次に、 「横浜開港150周年記念事業みんなでつくる横浜写真アルバム-市民が記録した150年」には、明治44年(1911年)の永野小学校の卒業式の写真があります。こちらも生徒のほとんどは和服です。女の子は髷をゆっている方も多く、男の子は羽織袴です。

 一方、1930年の中和田小学校卒業写真には男の子しか映っていませんが、ほとんどが絣のような着物に袴です。そして手元に学帽が写っています。足元は下駄と靴がまじっています。つまり、下駄と靴の比率が次第に後者に傾いてくることもわかります(これは足袋製造業と靴下製造業の交替にもつながるでしょう)。

 これがごくごく簡単な図像学(イコグラフィー)的資料をもとにした社会史調査と言えるかもしれません。写真からはさらに気付くことがあります。明治44年の永野小学校では、大人は駐在武官(当然、軍服)と教員が入り混じっていますが、男性教員には洋服と和服の混成です。それが、1930年の中和田小学校では、男性教師はほとんどスーツです。三つ揃えが多いようですが、ネクタイの結び方では襟を立てる等、現代はちょっと異なる方がいらっしゃいます。

 対照的に、成人女性(写真からは先生なのか、それとも職員なのかわかりませんが)全員和服です。また、中和田小学校の男子生徒のの着物は、まるで制服のようによく似た柄になっていますが、完全に同一柄というわけでもなく、ビミョーな印象です。

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 そうした光景が一変する写真が、1930年代(日本はいわゆる15年戦争に突入)前後からあらわれます。卒業写真には“制服”が全面にでてきます。

 鴻之舞小学校は、北海道紋別市にかつて存在した鴻之舞町(金鉱によって最大13000人の人口)に設けられた小学校ですが、鉱山閉鎖とともに町も消滅、閉校にいたった小学校で、その小学校を回顧するHPがあります(http://www.h2.dion.ne.jp/~cha2/nature/kounomai/school/school.htm#2)。それを見ると、昭和14年~17年の生徒たちは“国民服”を連想させる制服です。もっとも、足下は靴と下駄が混じっています。

 そして、昭和18年の卒業式の写真では、男子がいわゆる学生服、女子の多くはセーラー服になっています。もっとも、女子には一部私服も混じっています。

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 それでは、戦後は? 大府市の大府小学校の昭和40年の卒業式の写真http://www.city.obu.aichi.jp/contents_detail.php?co=&frmId=7330では、完全に制服の世界で、男子は学生服に学帽、女子はセーラー服です。

 また、中頓別小学校の「思い出の写真館」のURLはhttp://www.nakasho100.com/picture/index.htmlですが、各年代の写真がのっているので、比較すると非常に興味深い事がわかります。まず、昭和36年~43年の卒業式の写真は、大府小学校と同様に、男子は学生服(室内のため、着帽していません)、女子はセーラー服です。そして、男性・女性を問わず、教員は洋服です。

 これが昭和44年、女子のセーラー服がなくなります。男子は大半が学生服ですが、私服がちらほら混じります(非制服化でしょうね)。そして、昭和48年度の写真は一気に、男女とも私服です。ちょっと劇的な変化です。高度成長期に一気に普及した学生服とセーラー服、そしてその後の私服化。これを全国の小学校で調べてみると、いろんな傾向が出てくるのではないでしょうか?

 それをさらに学生服・学帽、足袋や靴下、靴等のメーカーの勃興とからめれば、いくらでも日本の産業史と服装史に関するレポートができそうです(そして、就活だって、おもしろそうですよ)。下はご参考に。

尾崎商事株式会社:カンコー(菅公)学生服のメーカー:HPはhttp://ozaki.jp/index.html

アサヒコーポレーション:アサヒシューズ等、運動靴等のメーカー:HPはhttp://www.asahi-shoes.co.jp/

福助:足袋・靴下のメーカー:HPはhttp://www.fukusuke.co.jp/

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 話の脱線ついでですが、私の子供時代、昭和の成人男性は結構、“帽子”をかぶっていたように思います。その帽子も、それなりに身分を表していたりする。

 例えば、ハンチングは本来はハンティング=狩猟時にかぶる帽子のはずが、日本に“鳥打ち帽”として入ってくると、商業用的なイメージになり、大店の小僧さん(上方では丁稚さん)が前垂れかけた伝統的服装に頭だけハンチングをかぶったり、それがまたいつの間にか、その後の通俗文化で刑事/探偵者のイメージになったりする。

 一方、いわゆるソフト帽、こと中折れ帽は公務員や一般の会社員がかぶるものでした。大きな箱に大事そうにしまってあったりしたものです。

 このように帽子はかつて、ある種、身分についてのメッセージでした。一方、パナマ帽は一見“軽そう”な外見ですが、実は明治時代頃は高価な代物で、紳士の正装用でした(作家夏目漱石は結構おしゃれで、『我が輩は猫である』でも、また『夢十夜』でも、パナマ帽が登場します。画像はhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:PanamaHatHarryTruman.jpg(アメリカ第33大統領ハリー・トルーマン着用の品とのこと)。

 それが、いつの間にか帽子をかぶらなくなり、そして最近また、ニットキャップ/ワッチキャップが流行るという変遷があるようです。教員からみると、授業中にかぶっておられるのはちょっとむさくるしい気分になりますね。頭が蒸れないのかな? 第2次大戦で徴兵された父親がよく、「軍人は軍帽をびっちりかぶさせられたので、頭が蒸れてしまって、みんな禿げていた」と言っていたのを思い出します(この説が本当かどうかは、もちろん、保証しません。ただし、本人もきちんと前頭部が禿げあがっていました)。

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 さて、日本では、いくつかの新しい服が女性の和装と洋装の仲立ちをします。一つは“割烹着”ですね。

 これは、仕事中に、着物を保護するためににかける前掛け/エプロンの一種として登場します。なんでも、「1913年発行の雑誌『婦人之友』に掲載された笹木幸子考案の「家庭用仕事着」であるとされる」(Wikipediaより)。そのあげくに、第2次大戦中は国防婦人会の制服にまでなってしまいます。

 もうかれこれ20年ぐらい前になりますが、屋久島での調査の帰りに、鹿児島で“鹿児島ラーメン発祥の店”ということで、“のぼる屋”に入ったら、全員割烹着をきたおばさんたちがやっていて、なかなか驚きだった記憶があります。今はどうなっているのかな?  麺はかん水をつかわないほとんどウドンのようなメンで、中国大陸の麺に近く、なかなか面白いものでした。

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 もう一つは“アッパッパ”です。アッパッパ等と言っても、皆さんにはまったく通用しないと思いますが、私が子供の頃は、まだ耳にした言葉です。家庭でも手軽に縫える簡易洋装というところで、夏用のワンピースでした。この名前は、歩くと裾がパッパと広がることから付いたという説があるそうです(Wikipediaより)。当時の写真が http://nakaco.sblo.jp/article/39640983.htmlのブログにいくつも出ています。

 こうした手軽な洋装も、やがては既製品にとってかわられていく。これが日本の近代化です。

 こんな風に歴史を振り返ってみると、今、タンザニアの女性がカンガだけをまとった姿から、上衣はシャツで下がカンガの巻きスカートに、そして、下もスカートをはきながら、その上にカンガを巻いていたりして、最終的に洋装になるのを見る時、ちょうど日本が明治からし昭和にかけて徐々に変化してきた様子を、駆け足でたどっているような印象をうけるのです。

 そしてそれは、日本の繊維産業やアパレルメーカー(とくにユニクロ!)、さらにはデザイン、あるいはアジアやアフリカで自ら服を創り出す現地の人たちへのミシンの輸出等々、皆さんが就活するかもしれない企業にとっても、ビジネスチャンスになるかもしれません、というところで、今回の話は一応終わりにいたしましょう。

ファッションの人類学Part4:制服とそれにまつわるいくつかの話題

2011 2/4 総合政策学部の皆さんへ

 ファッションの人類学、軍服について紹介したPart3に続いて、“制服”一般の話に移りたいと思います。すでにPart3等で何度も紹介したように、国家や経済の近代化にともない、制服の採用は人々のファッションにも関係していきます。つまり、職業→制服→(コスプレも含めて)他の領域に、という具合に影響が広がります。

 ところで、制服の典型は近代的軍隊です。兵士たちは軍服をまとったとたん、個としての性格(個性)を失い、集団の中の一単位(=統計の対象)に過ぎなくなります。岩明均作のコミック『ヒストリエ』で、古代マケドニアの絶対君主ピリッポス2世が息子のアレクサンドロス(後の大王)に言い聞かせる言葉、「個々ではなく、全体で一つの生き物となる。それが理想だ」。

 このマケドニア軍最精鋭ファランクスの理想像が具現化した近代軍の誕生は、否応なく一定の制服・軍靴・装備等を整える必要に直面し、軍需産業の勃興を巻き起こします。ということで、明治初期、何もなかった日本では、すべてに国営工場をたてねばなりませんでした。

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 Webを探すと、「旧広島陸軍被服支廠」についてのサイトには、こう書いてあります。

広島陸軍被服支廠は、日露戦争たけなわの明治38年4月に陸軍被服廠広島出張所として開設され、同40年11月に支廠に昇格した。(中略)陸軍被服廠は明治19年3月11日に陸軍被服廠条例が制定され、陸軍で使用される被服などの調弁、分配及び戦用予備被服の貯蔵を掌る独立の機関として設置され」「特に軍服と軍靴については、布や皮革の電動ミシンや裁断機、踵革打貫機など最新式の機種を導入して大量生産を行っていた

取り扱っていた品目は軍服や軍靴だけでなくマント、下着類、帽子、手袋、靴下等身に着ける物の外、背嚢、飯盒、水筒、ふとん、毛布、石鹸、鋏、小刀、軍人手帳等こまごました雑貨まで含まれていた。大正、昭和時代に入り、戦線が拡大し、武器や戦備の多様化に対応して、防寒服、防暑服、航空隊用・落下傘部隊用・挺身隊用被服あるいは防毒用被服なども取り扱うようになった」。

 どうやら、軍人のための民生用品の総合取り扱いをしていたようです。大学生協へ商品を一手に製造・卸売するようなものですね。とくに、明治の日本では、民生品等なかったので(どこにも軍靴は売っていない)、軍隊=国家が自ら作らざるを得なかった。なお、軍隊内部で兵士に民生品を販売する店を“酒保”と言います。この語源、私も長らく疑問に思っていたのですが、どうやらこれも翻訳語(フランス語でkantine、ドイツ語でFeldschenke,Soldatenschenke、直訳は“兵隊居酒屋”;Wikipediaより)のようです。

 その一方で、民営化も次第に進みます。例えば、呉市の「宮地洋服店」のサイトには、店舗紹介として「弊社は明治24年4月、海軍兵学校生徒様の被服縫製工場として創立し、戦後は海上自衛隊制服、紳士服の専門店として親しまれて参りました」とあります(1900年の日本陸軍の軍服の画像がhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:JapaneseArmy1900.jpgに出ています)。 

 こうして、明治から大正、昭和にかけて、一連の軍需産業が設立、いつのまにか民生企業に変身する。これから就活する人のために、いくつか紹介しましょう。

(1)大砲作成: → 明治初期の4斤山砲以来、国立の大阪砲兵工廠が作成していきますが、1907年に民間企業として日本製鋼所が設立されます(現在も、自衛隊関係の大砲を製作)。

(2)軍艦建造:1853年、水戸藩の徳川斉昭が建設した石川島造船所 → 1876年、民間に払い下げ → 1889年、有限責任石川島造船所 → 1945年、石川島重工株式会社(同年、ジェットエンジン製造) → 1960年、合併で石川島播磨重工業 → 現IHI

(3)戦争で使う望遠鏡・双眼鏡等の製作:1917年、光学兵器の国産化のため、日本光学株式会社設立 → 現ニコン

  • (4)軍隊用缶詰製造:日本の缶詰工業は、明治4年に長崎の「広運館」という外国語学校に勤めていた松田雅典が松田缶詰工場」を設立、イワシの油漬缶詰を製造したのが始まりとのこと。
  •  日清戦争、日露戦争では兵食として採用されるなど、国内向け生産はほとんどが兵食用の軍需物資だった(http://www.cataloghouse.co.jp/yomimono/local_foods/kan_info.htmlを参照)。その一方で、1897年設立の陸軍中央糧秣廠宇品支廠等でも、缶詰工場で牛肉缶詰が生産されていたといいます。 

 デジタルカメラで皆さんおなじみのニコンは、かつて軍需産業だったのです。

  

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 さて、Part3では、軍服の一部が紳士の仕事着=スーツに変化することを紹介しましたが、他にも軍服から転用されていったスタイルがあります。お気づきですね。その典型は“セーラー服”、そして“Tシャツ”です。

 薬師丸ひろ子主演の映画『セーラー服と機関銃』でも知られる通り、日本では女子生徒の制服として広がったこの服ですが、もともとは水兵(英語でセーラー/sailor)が着る服です。その一番の特徴である大きな襟は「ジョンベラ」と呼ばれますが、語源は「イギリス人の総称=John Bull」からとも言われています。

 この襟については「甲板の上では風などの影響で音声が聞き取りにくくなるので、襟を立て集音効果を得るためとか、セーラー服が出来た頃の貴族階級の男性の髪型は長髪を後ろで括ってポマードで塗り固めていたため、なかなか洗濯が出来ない船乗りにとっては後ろ襟や背中がすぐに脂やフケで汚れてしまったためと言われているが、定かではない」そうです(Wikipediaより)。

 セーラー服は19世紀、まず「海軍幼年学校の制服に採用され、その後海軍好きのイギリスの国民性から、子供服として流行するようになった」。そして「19世紀のフランスでは女性のファッションとしてセーラー服が着られるようになり、その後ボーイッシュ・ブームの一環としてヨーロッパ各国やアメリカで女性のファッションとして流行した」。それが、日本ではいつのまにか、ほとんど女の子専用の制服になる。

  このあたり、ちょっと研究するとなかなか面白そうです。ファッションに興味がある方で、どなたかとりあげませんか? そのセーラー服も、1920年に京都の平安女学院で採用された時はワンピース型だったのが、福岡女学院で動きやすいツーピース型に改良されたそうです(Wikipediaより)。

 そこで平安女学院のサイトを閲覧すると、学院の沿革のページに「大正デモクラシーの時代」として「1920年11月 洋式制服及び記章を制定」とあります。セーラー服とは書いてありませんが、おそらくこれが該当するものでしょう。 さらに続けて、「同年12月 1921年度限りで裁縫科の廃止を決定」とあります。

  まさに日本の洋服受容の歴史、つまり家庭で簡単に作ることができないセーラー服の採用とともに、女子教育から和装の裁縫を省く、こうした経緯を垣間見ることができます(http://www.heian.ac.jp/head/history/03.php)。

 一方、福岡女学院のサイトでは、ツーピース型セーラー服発祥の由来がきちんとページになっています(http://www2.fukujo.ac.jp/university/125th/index.html)。

  第9代校長のエリザベス・リー先生は日本語が苦手で、スポーツを通して生徒と交流を深めようとしたが、当時は着物と下駄ばき、自由に運動できなかった。それで、当時の博多でテーラーを開業していた太田豊吉とともに究極の制服づくりをめざし、ツーピース型セーラー服を開発、現在もほぼ変わらぬ姿だということでした。

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 そして“Tシャツ”。語源は両袖を広げると、アルファベットのTに見えるため、ということはご存知ですよね。一方、このシャツが世界にひろがったきっかけは、アメリカ海軍の下着(肌着)として採用されたことだと言われています。つまり、Tシャツは下着であり、本来は人前で着る等とんでもないものだったのです。このあたり、日本語版Wikipediaには記載がないので、英語版を見てみましょう。

 「T-shirts, as a slip-on garment without buttons, originally became popular in the United States when they were issued by the U.S. Navy during or following the Spanish American War. These were a crew-necked, short-sleeved, white cotton undershirt to be worn under a uniform. It became common for sailors and Marines in work parties, the early submarines, and tropical climates to remove their uniform “jacket”, wearing (and soiling) only the undershirt. It is possible that the Navy uniform boards first discovered the T-shirt by watching dock crews

 このTシャツを下着ではなく、ごくふつうにまとって映画画面にクローズアップされるセクシーな男。そう、英語版でも言及のテネシー・ウィリアムズ原作、エリア・カザン監督の1951年ハリウッド映画『欲望という名の電車』で、俳優マーロン・ブランドが汗がにじむTシャツ姿で登場した瞬間です。この時以来、Tシャツだけでいても不思議は無い。それどころか、Tシャツを着ることはアメリカ文明、資本主義文明を象徴している、ということになってしまいます。

 この映画『欲望という名の電車』では、自我が崩壊し狂っていく女主人公ブランチを畢生の演技でこなしたヴィヴィアン・リーがアカデミー主演女優賞を(彼女にとっては2度目の受賞)、ブランチの妹で事態を傍観するしかなく、結局はセクシーでかつ野獣のような夫スタンリーのもとにとどまるしかないステラを演じたキム・ハンターが助演女優賞、そしてさらに一見善良そうに見えながら、心の奥に小市民的卑劣さを潜ませるハロルド役のカール・マルデンが助演男優賞を受賞します。

 なお、“欲望(Desire)”とは、1940年代の執筆当時、実際に舞台となるニューオーリンズの“欲望通り(Desire Street)”を路線とした電車の名前からきています。さらにニューオーリンズでは“極楽通り(Elysian Fields Avenue)”もあって、こちらは作者ウィリアムズが実際に住んでいたとのことです。劇中、“極楽”に行くには、“欲望”という名の電車を、“墓場”で乗り換える。この台詞に象徴される悲劇が展開されるのです。 

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 さて、こうして制服が流行して、アパレルメーカーが制服も含めて、衣裳を大量生産していく20世紀は、庶民の暮らしも否応なく変えていきます。例えば、フランスの歴史人類学者Y・ヴェルディエの著作『女のフィジオロジー』では、19世紀のフランスの伝統的村落で、社会階層の隙間におさまるような形で3タイプの「自立した女」が存在していたことが描写されています。(葬式等の)手伝い女、(おめでたい席のための)料理女、そして裁縫女です。

 とくに、裁縫女は当時、その技術=衣装を縫うことで女たちの人生に重要な意味をになっていました。しかし、彼女たちは、もう一つの自立した存在、産婆とともに、近代化によって消滅していきます。それが日本でも同じことは、上記、平安女学院での「制服の採用と裁縫科の廃止」をご覧になればわかるかと思います。

 もちろん、その中でただ一人、たくましくも生き残るのがココことガブリエル・シャネルであることは、Par1「ファッションの人類学Part1:帽子をめぐるフェルナンドとココの冒険~パリが移動祝祭日であった頃~(2010/11/18投稿)で紹介済みですね。

ファッションの人類学Part3:軍服、あるいは機能の追求

2010 12/26 総合政策学部の皆さんへ

   ファッションの人類学の続きです。今回はまず、ヒトはなぜを身につけるのでしょう? その機能とは何か? という問題からです。例えば、J.C.フリューゲルという研究者は『衣服の心理学』(1930)という著作の中で、以下の三つを指摘しているそうです。

  • ①身体を美化する「装飾
  • ②身体美を隠し、他者の注意を引かないように自制する「慎み」、そして
  • ③皮膚を守り、体温を調節する=健康維持に関する「身体保護」

 一方、さらに別の分類もあります。ラバー(1932)という研究者は、衣装を身につける/選ぶ動機について、

  • ①自分が何者であるかを主張(上下関係の原理)
  • ②異性の目をひく(魅惑の原理)
  • ③生活や仕事をよりやすく、より快適にする(実用の原理)の3つを提唱しています。    

  こうしてみると、Part1で触れたシャネルのシャネルスーツは、(a)身体の美化としての「装飾」=異性の目をひく魅惑、(b)何者であるかの主張=“社会に進出する女”であるというメッセージ、そして(c)着易さ・仕事のしやすさ=実用の原理、この3つを兼ねそろえた傑作といえるかもしれません。

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 さて、“仕事”における機能を最大限に発揮させるように進化した例の一つが、今回のテーマの“軍服戦闘服”です。ちなみに、軍服と戦闘服が微妙に異なりだしたのは20世紀も進んだ頃からです。これも上述の機能の違いですね。軍服は「おれは軍人だぜ」あるいは「私は兵士で、あなたは下士官、あそこにいらっしゃるのは士官将校です」という身分・上下関係をあらわすメッセージであるのに対して、戦闘服は文字通り戦闘という行為の中でのみまとう服ということになるからです。

 それでは、戦闘服が20世紀に入ってから広がった理由はと言えば、とくに近年、遠距離からの攻撃が日常茶飯事になったからです。こちらが見えないところから、攻撃を受ける。例えば、対人狙撃の世界記録は2002年、アフガニスタンでの戦場におけるカナダの狙撃手ロブ・ファーロング兵長によるマクミランTAC-50長距離狙撃ライフルの実に2430mです。ちなみに、その一つ前の記録は、ベトナム戦争でアメリカ海兵隊軍曹カルロス・ハスコックブローニングM2機関銃を用いた約2300mです。こんな遠距離からでも狙撃されるということなれば、服装はできるだけ目立たない方がよい。 

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 こうしてカッコが良い軍服から、いかにも作業服的な戦闘服へ、おまけにめだたない迷彩服へ。ということで、例えば、以下の二つの軍服/戦闘服を比較すれば、その違いが見えてくるものでしょう。

◆1742年、マスケット銃で武装するイギリス兵士:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Piechur_brytyjski_z_1742_r._22_regiment_piechoty.jpg

◆バクダットのアメリカ第2歩兵師団の戦闘服:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:2ID_Recon_Baghdad.jpg 

 もちろん、かつての過剰なまでに装飾的な軍服がまったく非合理的だったのかと言えば、それは違います。当時の戦闘では、むしろ過剰に飾り立てることで、相手を精神的に圧倒する意図もあったと思われます(例えば、日本の当世具足)。現代の戦争においては、そうした“過剰さ”はむしろ戦闘に不利になる(相手に気付かれやすい)というだけのことです。

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 軍服に代表される“制服”の一般化(学校、会社、接客業等)も現代の特徴かもしれません。ファーストフード店の全国統一の制服は、提供される商品の均一な室の高さを象徴しているとも言えるでしょう。こうした点では制服はきわめてメッセージ性が高い衣装であり、警官とガードマンの制服が似ているように、ある種の擬態とも思えないわけではありません。

 ところで、総政100本の映画Part13振り返り編:『ゴッドファーザー』そして『ワイルドバンチ』:暴力装置を通して見るアメリカ合衆国のなりたちについて#1で触れた『続あしながおじさん』の主人公、サリー・マックブライドの父親は「作業衣製造工場主」ということで、いかにも19世紀から20世紀にかけての産業革命勃興期のお仕事だと指摘しました。それでは、「作業服」の歴史はどうなるんでしょう?

 残念ながら、Wikipediaには「作業衣」「作業服」等の独立した項目がありません。「制服」のところに、制服にはその職務にあった機能性が求められる。特定の作業用に機能性を重視して規定された服は作業服と呼ばれ、制服と区別されることもある。企業によっては作業服を業務において常に着用する服装であるとし、作業服を制服と位置づけるところもある。但し、この場合でも営業職など接客を伴う場合に限りスーツ着用を基本としている」とあるぐらいですね。となると、サリーのお父さんが作っていたという作業衣はどんなものだったのでしょうか?

 例えば、代表的な作業着としてつなぎオーバーオール等が考えられますね。ちなみにWikipediaの「オーバーオール」には「全身を覆う形状をした作業着全般を指し、「つなぎ」の作業着なども含む」とあります。それで英語版をしらべたら、ちゃんと出てきました。”overall”という言葉の初出は以下の通り、18世紀末、産業革命勃興の頃です。

First in 1792 as “overalls” or “overall trousers” = “trousers worn outside the normal trousers to protect them” (from which the “bib-and-brace” use).

First in 1815 as “overall” = “any outermost coat or cloak”, with a long list of examples, which do not show when “overall” began to mean “boilersuit”.

 そして、19世紀から20世紀にかけて、次第に労働着として広がって行ったようです(線路工夫を想定した広告の画像がhttp://en.wikipedia.org/wiki/File:Railwayworkersinoveralladvert.jpg;ちなみにこの図はJobbers Overall Company, Inc., Lynchburg, Vaの宣伝です)。

 このJobbers Overall Companyのブランドは”Blue Buckle”だったようですが、さらに調べたら、なんとこの会社の工場の建物の写真がでてきました(http://www.flickr.com/photos/retroweb/2972966020/)。ちょっとした廃墟ですね。さらに調べると労働者住宅の建物も残っているようです。こちらは文化財のようなかんじです(http://www.flickr.com/photos/retroweb/2915805153/)。

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 ところで、現代ホワイト・カラーの“制服”あるいは“戦闘服”とも言える背広/スーツですが、このルーツの一つは軍服だといわれています。Wikipediaによれば、19世紀中頃から20世紀初頭にかけて使用された昼間の男性用礼装フロックコートの起源の一つが、ポーランド軽騎兵ウーランの「馬の際に風が入らないように前合わせがダブルで襟が高くなった」軍服であるということです。

 そして、「19世紀初頭、プロイセン軍の軍服であったダブルの前合わせで紺青色(プルシアンブルー)のコートが、男性の服装として地味な色彩が好まれていたイギリスにも広まった。軍服は立襟のままだったが、それ以外のものは背広襟となり、色は更に濃い色調の濃紺や黒のものが19世紀中頃には男性の昼間用正装となった」とのこと。さらに「海軍では背広襟のフロックコートが略礼装として採用され、それが紺色ダブルのブレザーとなったと言われている」(Wikipediaより)。

 このフロックコートがモーニングコートになり、さらにその裾をきりおとしてラウンジ・スーツとなって、背広に変化していく。こうみていくと、背広(スーツ)が仕事着として合理性をもつのも、機能美を追求した軍服の末裔なればこそ、とも思います。となれば、学生の皆さんが就活に着用するリクルートスーツも、ある種“戦闘服”ということになるかもしれません。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...