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分けることと名を付けることPart4:“分けられた”人たち

2020 11/22 今回は、“分けられてしまった”人たちについて紹介しましょう。

 私はかつてタンザニア連合共和国西部のマハレ山塊国立公園で、あわせて3年ばかりをすごしたことがあります。この公園はタンガニーカ湖東岸に半島のように突き出ていますが、この湖の中央にはタンザニアとブルンディザイール(現コンゴ民主共和国)ザンビアを分ける国境が走っています。だから、湖の東岸から私の眼に入る西岸は隣国コンゴ(当時はザイール)なのです。

 ある日の暮れ、湖岸でぼんやりしていたら、なにやらカヌーを漕いできた男が一人、上陸してきたのでのぞき込むと、プラスチックのサンダルが束ねられていて、要するに当時社会主義政策をとって物不足のタンザニアへ、資本主義国から手厚く支援を受けていたザイールから物を売りに来た商人なのですが、考えてみれば国境をまたいできたものの、そこにイミグレーション税関もあるわけはなく、要するに密出入国でありかつ密輸の現場なのです(もちろん、かわいいものですが。ちなみにそのサンダルは香港製でした)。

 さて、この湖面を切り分ける“ボーダー”はもちろん自然のものでも、また民族の違いでもなく(湖岸の両岸でほとんど同一の言語を話しています)、1885年のベルリン会議でドイツ、ベルギー、イギリスの間で分けられものに過ぎず、かつそれ以来、ボーダーが動くことはありません。と言うよりも、このボーダーを下手に動かせば、紛争・暴動を引き起こして、脆弱な国家は崩壊しかねないのです(宮本・松田、1997)。

 ちなみに1960年代のアフリカ諸国の独立ラッシュ後、ヨーロッパ列強の手でいったん策定された国境が変わり、国家が分割された(=ボーダーが引き直された)例は、エリトリアエチオピアから独立戦争を経て独立したケース、そしてアフリカ最大の国家であったスーダンからやはり数度の内戦を経て南スーダンが分離したケースだけです。

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 その一方で、人々の暮らしは昔も今も基本的には変わりません。先ほど紹介したように、カヌーを漕げばタンガニイカ湖を横断することなどわけもない。パスポートを持つ者などいるはずもないから、すべては密出入国にほかならず、いくばくかの商品等を持参すれば密輸です。

 当然、行き来する者たちの間で男女の仲で結ばれることもあります。知り合いのタンザニア人の男性がザイール人の女性と結婚した時のこと、ふとまわりの連中に
「あの二人の子供は、いったいどちらの国籍になるのだね?」と尋ねると、
「病院で産んだら出生証明書をくれるから、最近は病院で産むことが多いけど、タンザニアの病院で産めばタンザニア人に、ザイールで産めばザイール人になる」としごくのんびりした答えが返ってきて、妙に納得したものです。どちらの国にも戸籍などなく、人々は近年まで自分の生まれ年(したがって年齢も)さえ知らなかったのです(蛇足ながら、戸籍とは世界の中でも日本、韓国、台湾等に限られた特殊なものです)。

 こうした光景は、近代国家以前の、“国境”があいまいだった頃に比べれば、あたりまえのことでした。しかし、1885年にベルリンで締結された条約にもとづけば、彼らの動きは立派な不法行為なのかもしれません。なによりも、近代国家は運営にお金がかかり(ニューヨークの国連に大使を派遣するだけでも、アフリカの一般民衆からすれば気が遠くなるような経費が必要)、そのためには税金をとりたてなければいけない。とすれば、“国民”の勝手な行動を制約し、彼ら(=我々)を囲い込もうとするのはある意味必然というべきかもしれません。

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 その上で、民族とは何で決まるのか=どんな基準で“分ける”のか? という難題が残ります。民族は「文化の伝統を共有することによって歴史的に形成され、同属意識をもつ人々の集団」とされています(『広辞苑』第四版)。そして一般的な理解では文化≒言語の共有が民族の形成に欠かせないとされます。

 とは言え、現実には簡単ではありません。例えば、“ユダヤ民族”では、母語はラディーノ語イディッシュ語など多数の言語に分かれます。すると、ユダヤ民族は単一の人種/民族というよりも、むしろユダヤ教という宗教で結びついた社会集団と言うべきかもしれません。

 さらに、誰が分けるのか? アフリカでは、植民地時代に先住民を“部族”に分割することが多かったことが知られています。ところが、この“部族”は必ずしも実態をともなったものではなく、植民地政府の恣意的な措置であった場合も多い(宮本・松田、1997)。その一方で、この“創られた伝統”がいつしか政治/社会的実態をおび、後年の“部族主義(トライバリズム)”を助長させ、“民族/部族紛争”に発展した例も少なくないのです。

 とくに植民地政府がしばしば採用した“分割統治”は、“集団”に“実体性”をもたらし、しばしば政治集団に再編成をおこない、結果として紛争や戦争の原因となりました(例えば、ナイジェリアでのビアフラ戦争等)。

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 さて、“民族集団”自体は数十年、数百年の単位で発生、分散、消滅、統合、再編成されることもめずらしくありません。

 たとえば、私が3年間ほどつきあっていたトングウェは、タンザニアで認められている120近い“民族”のうちの一つです。先ほども触れたマハレ山塊国立公園の周辺、面積にしておよそ2万平方キロばかりのトングウェ・ランドに2万人ほどが住んでおり、コンゴ・コルドファン語族のニャムウェジ語系のトングウェ語を話しています。とはいえ、こうした弱小語は共通語(タンザニアの場合はスワヒリ語)の普及(学校教育およびラジオ放送)で、消滅の危機にあります。

 それでは、トングゥエの人々は何時からトングゥエなのでしょう? この地で40年近くチンパンジーの研究を続けた西田利貞は調査の初期に、書き言葉を持たず、伝承世界に生きている彼らに聞き込みをおこなっています(西田、1973)。その結果、彼らの父系をたどるとおよそ7,8世代、つまり150~200年ほど前まで遡れますが、それは対岸のコンゴ出身の祖先に行きあたるのです。しかも、複数の民族に分かれるということです。

 それ以上はすべて推測でしかありませんが、複数の民族の出身者が何らかの理由で湖の東岸に移動し、紛争と融合をくり返しながらやがて一つの民族を創出するのは、アフリカではそれほど珍しくことでもないようです。このように民族は語られぬ歴史の中で、次々に生まれてはまた変わっていく存在なのですが(宮本・松田、1997)、それが植民地政府の意向で“部族”という名称で固定化・分類されると、そのこと自体がやがて“部族対立”や“民族紛争”に発展していきかねない、それがアフリカの近代化の一断面とも言えるのです。

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 近代国家としてもっともふさわしい存在は、大革命後に成立した“国民国家(ネーション・ステーツ)”としてのフランスと、政治的思想をバックにした契約国家とも言うべきアメリカ合衆国があげられます。もっとも、アメリカは少し特殊に過ぎるので、前者のフランスをとりあげてみましょう。

 ヨーロッパ史を少しひもとけば、フランスは歴史的にほんの少し前まで文化的にも政治的にもとても単一国家とは言えないものでした。たとえば、現在フランスと呼ばれている地域とその周辺は、かつてフランス王国の他、ブルゴーニュ公国、ブルターニュ公国、ナバール王国など多くの政治権力に分かれていました。

 これらの諸政治権力があるものは統合され(例えば、ブルターニュ公国は最後の女王アンヌとフランス王シャルル8世・ルイ12世の結婚により統合)、また、あるものは(ブルゴーニュ公国のようにブルゴーニュ地方はフランスに吸収されますが、フランドル地方はオランダ・ベルギー等として独立します。

 こうした“小国家”や“地方文化”を最終的に一つの“坩堝”に溶かし込んで“フランス民族”を形成したのが、“フランス革命”の最大の成果であり、ナポレオン戦争で倒れた100万人を筆頭に、膨大な人命の犠牲によって、フランスの輪郭が形作られます。

 それでは、アフリカで成立している国家とはなんでしょうか? 1885年のベルリン会議等によって人工的に分割された植民地は、そのままの形で独立の日を迎えます。そのため、ほとんどが複数民族によるモザイク国家となり、ナショナル・アイデンティティは稀薄か、存在しない(砂野、1997;池野・戸田、1997)。ネーション・ビルディングとは、そうしたモザイク社会の中で、近代的国家を建設することにほかなりません。とはいえ、1967年からのビアフラ戦争、ソマリア(氏族社会への回帰)、コンゴ(統治機構の地域的分解)、エリトリア(宗教等の理由から国家分裂)、ブルンディ・ルワンダ(“民族”間の対立)等、国民的統合(ナショナル・インテグレーション)の進行どころか、国民解体(ナショナル・ディスインテグレーション)的な現象が多く見られています。

 そんななかで、タンザニアという国家はネーション・ビルディングにかなり成功した国ともいえるでしょう。これが3年間、トングゥエたちとつきあっても私の実感です。先にも触れたように100を超える民族から構成されるとされ、ザンジバル島のオマーン系スルタン政権を除けば、19世紀のドイツによる植民地化前に統一された政治勢力はなかったタンザニアで、1961年の独立後、1963年のザンジバルとの統合を経て、スワヒリ文化という複数の文化がまじりあった文化が普及していたことも手伝い、国家的アイデンティティの醸成に成功している1例ともいえます。それは、かつて欧米の手で“分けられていた”人たちが、自らの手で一つのアイデンティティによってまとまろうとする運動でもあるのです。

ケチャップの歴史3~本来のケチャップは:食についてPart22

2020 8/2 総合政策学部の皆さんへ ケチャップの歴史の3回目は、本来のケチャプとは何か、について考えてみましょう。先にご紹介したように、もともとの語源とされる中国の閩南語や台湾語での kechiap、koechiap(鮭汁;ケーチアッ)は、“鮭汁”という言葉通り、小魚やエビの塩辛から分離した魚醤の類とされています。日本では、秋田のしょっつる、能登のいしる、香川のいかなご醤油が該当するでしょう。

 この手の魚醤は中国南部から東南アジアでは一般的で、ベトナムのニョクマム、タイのナンプラー等がしられています。インドネシアではこれがケチャップ・イカン(インドネシア語でイカンは魚で、魚で作ったケチャップ)となります。

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 なお、世界の他の地域での魚醤の類を紹介すれば、ローマ帝国時代に広く使われていたという“ガルム”があげられます。これは「魚の内臓を細切れにし、塩水に漬けて発酵させて作る。完成品はまろやかで繊細な風味だが、発酵中はひどい臭いがするため、ガルム生産者は近所から苦情が来ないよう都市の郊外で生産した」とのことですが、「ローマ帝国の滅亡と共に製法が途絶え、魚醤自体ヨーロッパではチェターラのコラトゥーラ・ディ・アリーチ・ディ・チェターラぐらいしか作られることはなくなった」(Wikipedia)とのことです。

 もっとも、カタクチイワシの類を塩蔵して発酵させたいわゆるアンチョビーはしばしば調味料的に使われるので、ガルムの遠い後裔とも言えるかもしれません。また、「19世紀初頭にイギリスのウスターシャー州・ウスターの主婦が、食材の余りを調味料とともに入れ保存したままにしたところ、ソースができていた。このことがウスターソースの始まりとされている」(Wikipedia)というウースター・ソースの原料にはアンチョビが含まれているとのことで、これもまたガルム以来の伝統をかすかながらついでいるのかもしれません(なお、日本に伝来、国産化された日本のウースターソースにはアンチョビはふくまれていなとのことです)。

 ちなみに、Wikipediaによれば「無数のソースを生み出した料理大国であるフランス人は、ウスターソースを万能として使用するイギリス人を揶揄的に「百の宗教があるが、1つのソースしかない」と表現している」ということですが、そのイギリス人が「(某大統領のように)何にでもケチャップをふりかけるアメリカ人」を揶揄しているというところは、まさに差別の連鎖とも言えるかもしれません。

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 さて、インドネシアのケチャップに話を戻せば、今日、大量に消費されているケチャップはその材料を大豆と小麦に転じ(つまり、日本の味噌・醤油に近くなり)、そのうち甘味がついているものがケチャップ・マニス、辛みがついているものがケチャップ・アシンと呼ばれています。つまり、インドネシアのケチャップはどちらかというと“醤油”あるいは日本の“ソース”に近い存在のようです。

 インドネシア料理には、この甘いケチャップ・マニス(サラダのガドガドや焼き鳥状の串焼きのサテ等の甘い味付けが代表的です)、トウガラシの辛味によるケッチャプ・アシン、そしてインドネシア風チリソースのサンバル等で味付けられるのがふつうです。

 この手の調味料は現在では食品メーカーによる大量生産で、とくにABC社の製品が幅を利かせています。そのABC社製品を扱っている協同食品のHPでは「インドネシアの“ケチャップ”とは、醤油を意味し、甘口でとろみのある醤油のケチャップマニスと薄口醤油のケチャップアシン、唐辛子とにんにくなどを材料とする“サンバル”をベースにしたチリソースです。
 ケチャップマニスを3~4に対して、サンバルアスリを1の割合で合わせると、本場さながらの味となり、炒飯のナシゴレン、焼きそばのミーゴレン、焼き鳥のサテ、その他白身魚の煮物など幅広くご利用いただけます」と紹介しています。

 このあたりの実物を見たければ、関西ならば神戸の南京町、関東ならば上野のアメ横センタービル近いのエスニック専門店街に行かれることです。

 このようにケチャップ一つをとってみても言葉と食の変遷は様々で、ぞこに思わぬ広がりを感じ取って下さい。

ケチャップの歴史2~トマト・ケチャップ出世譚:食について Part19

2020 6/15 総合政策学部の皆さんへ

 ケッチャプの歴史2は、トマトケチャップの材料であるトマトの歴史から入りたいと思います。そもそも皆さんは、トマトが中南米原産であることをご存じですか?

 1492年のクリストフォーロ・コロンボ(=クリストファー・コロンブス)の大西洋航路開拓から始まるヨーロッパ人の新大陸進出は、先住民たちにとってはヨーロッパ人がもたらした感染症による大量死(とくに天然痘)や、金銀をめぐる強奪を皮切りに現在にまで続く悲惨な運命に追い込みますが、奪った金銀よりもはるかに豊かなものを旧大陸に与えます。

 なお、コロンブスがもたらした旧大陸と新大陸間の植物(作物)、動物(家畜)、食物、人口(奴隷を含む)、病原体、鉄器、銃、思考(宗教)等に及ぶ様々な“交換”を近年は“コロンブス交換”と呼びます。

 それが一群の作物たちで、トウモロコシ、ジャガイモ、サツマイモ、キャッサバ(=近年、突然、日本人にも身近になったタピオカの原料)、タバコ(総体的には人類にとって利益だったか、害悪だったかは計りかねますが)、カボチャ、インゲンマメ、ピーナツ、トウガラシ、ココア、パイナップル、ゴム、そしてトマト等です。まったくの話、北方ヨーロッパ人はジャガイモによって飢えから救われますし、トウモロコシは世界三大穀物の一つにまで出世します。

 例えば、アフリカの市場を歩けば、そこで売っている作物の多くが新大陸起源であることに気づかざるをえません。さらにトウガラシ抜きのカレーや、同じくトウガラシ抜きのキムチを今や想像しにくくなっているように、たった500年間でこれらの作物は地球上に広がっていきます。

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 そのトマトですが、実は、最初は食物としてなかなか受け入れられなかった、という一つ話が洋の東西をとわず伝えられています。

Wikipediaでは、「1519年にメキシコへ上陸したエルナン・コルテスがその種を持ち帰ったのが始まりであるとされている。当時トマトは「poison apple」(毒リンゴ)とも呼ばれていた。なぜなら裕福な貴族達が使用していたピューター(錫合金)食器には鉛が多く含まれ、トマトの酸味で漏出して鉛中毒になっていたためである。鉛中毒の誤解が解けた後も、有毒植物であるベラドンナに似ていたため、毒であると信じる人も多く、最初は観賞用とされた」とあります。

 日本には17世紀中期頃に、オランダ人が長崎の出島に種子を持ち込んだのが始まりだといわれていますが、食用としては普及せず、赤い実を珍しがる、つまり観賞用植物だったとのことです。やはり日本人にとってもなかなか手を出す気になれなかったのかもしれません。そのトマトは日本では唐柿、赤茄子、蕃茄、小金瓜、珊瑚樹茄子等と呼ばれたそうです。

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 このあたりで私の個人的な記憶にもつながってくるところですが、それは私の母方の曾祖母に遡ります。新潟で育った新穂イク(旧姓柾谷)は新潟の海鮮問屋の末裔のためか、なんでも進取の気性に富み、どこで覚えた知識なのか、石油の一斗缶を工夫して手製の天火(オープン)を作り、カステラを焼いたりしていたそうですが、1920年頃、コロナウィルスのお陰で最近人口に膾炙しているかのスペイン風邪で死亡します。

 そのイクが娘(私の祖母新穂信恵)を丈夫にそだてようと、横浜から“赤茄子”の苗を取り寄せ、育てた実を、これまたどこから聞いたか、お湯をかけて皮を湯剥きし、そこに砂糖をかけ娘に食べさせるのですが、当の娘は「こんなまずいものはない。食べるのに往生した」というのです。

 先に触れたようにイクはスペイン風邪で命を落としますが、その後、家庭内のいざこざから信恵はシングル・マザーとして遠く名古屋の地に住み着くことになるのですが(そのため、私自身、母方の祖父は顔も名前もまったく知りません)、その時はじめて「生のトマトに塩をかけて食べたら、こんなにうまいものだったのか!」と感嘆したということです。このあたり、まさに日本人のトマト受容史の一コマではあります。

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 とはいえ、日本でのトマト受容も急ピッチで進みます。カゴメ株式会社創設者の蟹江一太郎が、名古屋農業試験場の佐藤杉右衛門から種子を譲り受けて栽培を開始するのが1899年(私の祖母信恵が1897年生まれなので、信恵はこの時2歳、ほぼ同時代です)、作りすぎたトマトの処理のためトマトソース(ピューレ)を試作するのが1903年(信恵6歳)、そしてトマトケチャップとウースターソース製造に着手するのが1908年(信恵9歳)です!

1914年には共同出資で愛知トマトソース製造(資)を設立、1933年にはトマトジュース製造にも乗り出します(カゴメHP「カゴメの歴史」)。この頃にはすでに私の祖母信江は名古屋で小学校教師をしながら、私の母を育てていたわけです。

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 こうした時代経過をまざまざと示す文献に、明治期の小説家村井弦斎の『食道楽』(1903~1904)があります。そこには当然、「赤茄子」も登場しています(青空文庫『食道楽 秋の巻』)。少し引用してみましょう。ちなみに、信恵はこの時6歳、ひょっとして曾祖母イクは村井弦斎を読んで、トマトを取り寄せたのかもしれません。

お登和嬢「ハイありますとも、先ず牛肉の生ならば好く筋を除とらなければなりません。(略)それを肉挽で挽いて別にブラウンソース即ちバター大匙一杯を溶かしてメリケン粉大匙一杯を黒くなるまでいためてスープを大匙三杯に罎詰のトマトソース一杯入れて塩胡椒で味をつけたソースを今の肉へ混ぜて生玉子を一つ入れて、ジャガ芋のゆでて裏漉にしたのを肉の分量と同じ位入れて皆みんな一緒によく混ぜ合せます。それを長くでも平たくでも手で好きな形に丸めてフライパンでバターを入れて焼きますが上等にすればその外に玉子を湯の中へ割って落して半熟に湯煮て肉の上へ載せて別にブラウンソースをかけて出します。これはドライハッシといって御老人なんぞにはどんなに好いお料理でございましょう」(第224 西洋の葛餅)

 そして、第232に赤茄子ジャムの記事がでてきます。「玉江嬢「私どもでも今年はトマトの苗を買って植えましたが沢山出来過ぎると始末しまつに困こまりますね」お登和嬢「イイエ、赤茄子は沢山あっても決して始末に困りません。トマトソースを取っておいてもトマトのジャムを拵えておいても、年中何に調法するか知れません。トマトソースを取りますのは赤茄子を二つに割って水と種を絞って鍋へ入れて弱い火で四十分間煮てそれを裏漉にして徳利のような物へ入れて一時間ばかり湯煎にしてそれから壜へ詰めて口の栓を確りしておけば何時でも持ちます。(略)。トマトの皮を剥いたらば二つに割って種と水とを絞ってトマト1斤ならば砂糖も同じく一斤の割でザラメ糖か角砂糖をかけてそのまま3、4時間置くと砂糖が溶けてトマトの液が出ます。それを最初は強い火にかけて上へ浮いて来るアクを幾度も丁寧に掬い取って30分間煮てアクがいよいよ出なくなったら火を弱くして1時間煮詰めるのです。煮詰める時決して掻かき廻まわしてはいけません。アクを幾度も丁寧に取らないと出来上った時色が悪くなります」(略)「赤茄子のジャムは売物にありませんからお家で沢山拵こしらえておおきなさいまし

 ちなみに、『食道楽 秋の巻』にはケチャップの文字は見当たらないようで、どうやらこの赤茄子ジャムこそトマトケチャップに近いかもしれません。日本ではどうやらトマトはまずトマトソースとして、次にトマトジャム(トマトケチャプ)として料理の材料に取り入れられていったようです。生野菜としての受容はさらにその先だったかもしれません。

 当然のことですが、食道楽の頃には、トマトジャムの市販品がなかったこともわかってきます。ちなみに、トマトソースについては「生の赤茄子のない時には壜詰のトマトソースを同じ分量で加えますが味は生の物に及びません」とありますから、カゴメが市販品を出すのとほぼ同時期になります。

ケチャップの歴史1:食についてPart18

2020 4/22 総合政策学部の皆さんへ

 今回の話題は“ケチャップ(英名:ketchup)”です。とはいえ、ここではあえてトマト・ケチャップと言っておきましょう。というのも、世界にはいろいろなケチャップがあるからです。

 といきなり言われても何のことか見当がつかない、トマト・ケチャップ以外のケチャップって? ととまどう方も多いでしょう。それでは一つ質問です。ケチャップとはそもそも何語でしょうか? 皆さんご存じでしょうか?

 日本語版Wikipediaの「ケチャップ」の項には、「1690年に出版された北アメリカの辞書 A New Dictionary of the Terms Ancient and Modern of the Canting Crewにketchup、1699年に出版されたイギリスの飲食用語辞書 BE’s Dictionary of the Canting Crew of 1699にcatchupという言葉が収録され、説明として「東インド奥地のソース(a high East-India Sauce)」と記されていた」とあります。

 この東インドとは、「インド東部」ではなく、「アジア・極東・東洋。狭義には東インド諸島・オランダ領東インド」のことで、つまりは英語ではないのです。17世紀後半から19世紀にかけて、イギリス帝国主義勃興期、様々な外来語が英語にはいってきました。「バンガロー」はヒンディー語の बंगाल(バングラ=ベンガル風)という言葉に由来し、「バラック」はカタルーニャ語の「barraca」から、キャラコ(インド産の平織りの綿布)はインドのカリカット港の名前に由来します。ケチャップもその一つなのです。

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 では、東インドのケチャップとは何か? Wikipediaでは「ケチャップというと日本ではトマトケチャップのことを指すが、インドネシア語ではソース全般を指し、語源は東南アジアで使われている福建語の”ke-zyap 鮭汁”といわれている」。つまり、Ke-zyap(鮭汁;福建語)⇒kecap(インドネシア語=もともとはマレー語のスマトラ・リアウ州の方言)⇒catchup、catsup(イギリス)⇒ketchup (現代アメリカ英語)と変化した次第です。

 なお、“鮭汁”とは「閩南語や台湾語では、小魚やエビの塩辛から分離した液体を kechiap、koechiap(鮭汁ケーチアッ)」と呼ぶとのことで(Wikipedia)、要するに魚醤のことですね。この場合、中国で使われる漢字の“鮭”とは「フグを指し、サケという意味は日本での国訓で」なのだそうです。したがって、“鮭汁”とあっても日本のサケが材料ではありません。

 インドネシア語でのケチャップはさらに、ケチャップマニス(甘いケチャップ)とケチャップアシン(辛いケチャップ)にわかれるそうですが、前者がより一般的だということです。ケチャップマニスの作り方は「大豆と小麦を発酵させ、パームシュガー、塩などを加えてつくられる」(Wikipedia)とありますから、醤油に糖分が混じっているようなものだとも言えます。皆さんも神戸の南京町の商店の奥の方に入り込むと、その世界が見えてくるはずです。

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 このケチャップがヨーロッパではさらに分かれていくというのが食べ物の面白いところで、イギリスではまずキノコを使った発酵食品になります。すなわち、「キノコの保存調味料(Mushroom ketchup)、キノコに塩を振り、2・3日置いてからしみ出た汁を香辛料と煮詰めたもの)」(Wikipedia)となります。さらに「カキ、アンチョビ、ロブスターといった魚介類や、クルミ、インゲンマメ、キュウリ、ブルーベリー、クランベリー、レモンそしてブドウなど植物素材を材料とするソースが考案され、様々なスパイスが加えられるなどして変化しながらバリエーションを増やしていった」というわけなのですが、さらにアメリカに渡ると中南米原産の作物、トマトとの劇的な出会いが生じる。これがトマトケッチャプなのです。

 ですからトマトケチャップは根っからのアメリカ食品。ケチャップと聞いて、トマト・ケチャップしか頭に浮かばないようでは、イギリス人あたりに「君はアメリカ文明、あるいはハリウッド文化にすっかり染められているんだね」とからかわれてしまうかもしれません。

 昔、ある冒険活劇通俗小説のなかで(もうすっかりタイトルも、作者が誰かも忘れてしまいましたが)、イギリスの上流階級出身でギャンブル狂の海軍軍人が「もしも俺の頭のなかが狂ってしまったら」と妄想をはじめ、「あのアメリカ人のように、なんにでもケチャップを振りかけたりするんだろうか!!」と慨嘆するシーンがでてきたのをうろ覚えしています。

 Wikipediaでも逸話として、「2016年アメリカ合衆国大統領選挙を経て大統領になったドナルド・トランプは、ウェルダンに焼いたビーフステーキにトマトケチャップをかける食事風景が話題になり、洗練された味覚とはかけ離れている、または素材を台無しにするといった批判を受けることも多いが、依然として外遊先の食事にトマトケチャップを用意させるなど、外交儀礼よりも自身の好みを優先させる方向性は改まることがない」とつけくわえていますが、あなたはケチャップ派? それともマヨラー? もちろん、どちらも好き、という方でもかまいませんが。

翻訳についてPart5:英米文学におけるアフロ系アメリカ人の話し言葉をどう訳すべきか?

2018 8/25 総合政策学部の皆さんへ

 最近では“グローバリズム”という言葉を聞かぬ日もないぐらいですが、そこで一番用心すべきは“翻訳”、あるいは“通訳”かもしれません。気がつかぬうちに“フェイクな情報”を掴まされてしまうかもしれません、しかも“翻訳/通訳者”には悪意もなければ、自覚もないうちに。

 例えば、このブログでも以前(2011 6/22)「翻訳についてPart2誤訳編:“ポケットに蠅を”?、そして“ノルウェーのネズミ”とは?」で誤訳について論じました。たとえば、「ポケットに蝿を」という訳は、英語の“fly”を文脈から察するに「毛針」 のはずなので本当は「ポケットに毛針を」の意味であり、「ノルウェーのネズミ」とは“Norway rat”を本来の意味である「ドブネズミ」ではなく「ノルウェーのネズミ」と直訳してしまったことに由来します。

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 さて、本日扱うのはこうした明確な“誤訳”ではなく、もう少し微妙なニュアンス、例えば、「話し言葉」を訳する時の問題です。一例をあげると、一時期(今もそうかもしれませんが)アメリカ文学、とくに南部文学においてアフロ・アメリカンによる「話し言葉」を独特の“方言”っぽい言葉に訳するのが一般的でした。たとえば、マーク・トゥエインの傑作『ハックルベリー・フィンの冒険』(この作品からアメリカ文学が始まった、というのがノーベル賞作家E・ヘミングウェイの指摘ですが)で、ハックが逃亡してきた旧知の黒人奴隷ジムにばったり出会うシーンですが、ジムは(とっさに「死んだはずだから、幽霊に違いない」と思い込んだ)ハックに叫びます。

助けてくれ-お願えだ! おらは幽霊にわるさをしたこたあ一ペンだってねえだ。いつだって、死んだ人は好きだけん、死んだ人にはできる限り尽くしてきただ。おめえ様はもう一ぺん川さ戻りなされ、あそこがおめえ様のいなさるとこだ。このジムおんじいば、そっとしておいてつかわさい。いっつもおめえ様の仲良しだったでねえだか」(野崎孝訳『ハックルベリー・フィンの冒険』講談社文庫版)

 さて、このジムが話す(ハックの台詞の訳とは少し異なる)方言ともなんともつかぬ表現。これこそが、日本で英米文学を訳する時、黒人奴隷あるいはその出身者の口調を表そうと日本の翻訳者が使っていた表現です。正直に言えば、こうした文学表現を当たり前にうけとって育った僕らの世代は、こうした(ある意味、黒人奴隷と日本の方言話者双方に対する差別的とも言えかねない)言い回しになんの疑問も持たずに育ちました。

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 一方で、アメリカ育ちの文学者がこうした文章を眼にした時に、どう感じるのでしょうか? 以下、ちょっと長い引用ですが、アメリカ人の立場から日本の翻訳本の世界を論じたものです。

本論は日常的な経験とそれに対するささいな疑問から生まれたものである。数年前に筆者(ロング)がァメリカ映画の日本語吹き替え版で黒人の登場人物はみんな東北弁で話していることに気付いた。また、老人が登場すると人種に関係なく広島弁をしゃべる。こうした映画を見て、「なぜアフリカ系のアメリカ人は日本の東北弁を話すのか」、そしてなぜ人が年を取ると広島弁になってしまぅのか」と不思議に思った」(中略)

例えば、ある映画に登場する無教養の田舎者は原作で南部訛りの英語を話している。これは、「南部方言は無教養の田舎者が話す言葉である」と示唆している。日本語の方言に対するイメージを調べるためには、その方言がどういう登場人物に使われているかを調べればよい。日本語吹き替え版で、この無教養の田舎者は東北弁を使わされている。したがって、日本で「東北弁は無教養の田舎者が話す言葉である」というイメージがあることが分かる

こうした理由で使われる日本語の方言は象徴的なものであり、しかも方言の専門家ではなく、一般人のために使われているので、言語学的に正確な方言である必要はない。また、特定な方言である必要もない。むしろ、場合によって、人物の二つの特徴を表現するため、異なった方言特徴が混用されることすらある。今回の黒人老人が「老人語」と意識されている中国地方の方言と黒人の話し方として定着している東北弁の両方の特徴が混ざったセリフを使うのもこの例に当たる。今回扱った資料で東北方言が教養のない社会的に身分の低い人々のセリフ に使われていたので、東北方言が決して良い方に写っているとは言えない。これまでの方言意識研究でも、こうした方言イメージがたびたび取り上げられた。井上史雄(1989)のSD(意味微分)法による方言イメージ研究では、「東北弁」が若「い女性にふさわしくない」、「ぞんざい」、「悪いことば」、「乱暴」、「汚い」といった否定的な特徴と結ばれることが多かった。こうした傾向が、東京や札幌、京都の出身者の間だけではなく、東北出身者の間にさえ見られたのである」(ダニエル・ロング・朝日祥之「翻訳と方言:映画の吹き替え翻訳に見られる日米の方言観」『日本語学』1999)

 いかがでしょうか? 異国の言葉を“翻訳する”際に、そこにゆくりもなく自らの“偏見的解釈”が忍び込み、それが言葉を通じて読者に拡大再生産されていく過程がおわかりになるでしょうか? この引用文で最後に著者らは以下のように主張します。

方言差別をなくすためには、まず問題の実態を把握する必要がある。日本では、方言イメージ研究は長い歴史を持っており、そしてさまざまな方法論の利用によつて、研究対象を複数の側面から接近することができた。本稿で提案した研究方法によつて、社会の一般構成員が潜在的に抱いている方言一ステレオタイプの今まで見えてこなかった側面から把握することができると確信している

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 さて、他者の文学を翻訳する際に垣間見える自らの言語観・偏見・差別を考えることで、自らを省みましょう、というのが本日のストーリーということになりますが、それではどんなふうに訳せばよいのでしょうか? 2017年12月に出版されたばかりの柴田元幸訳による『ハックルベリー・フィンの冒険』の冒険では、さきほどのジムの台詞は以下のように書かれています。

いたい目にあわせないでくれ-たのむよ! おれユウレイにわるさしたこといっぺんもねえよ。おれいつだって死んだ人たちが好きだったし、できるだけのことはしてやったよ。あんたも川にもどってくれよ、あそこがあんたのいばしょだよ。このジムになにもしねえでくれよ、おれいつも、あんたのともだちだったろ」

 
 どうでしょうか? 「東北弁」のような「奴隷言葉」に訳すうちに、知らず知らずにハックとジムの関係をすり込まれていく、そんな翻訳の世界からまったく新しい言語感覚の世界にはいっていくべき時がきたのかもしれません。

子供の頃の読書で違和感を覚えたことがら等々:食についてPart16

2018 3/10 総合政策学部の皆さんへ

 子供の頃、『少年少女世界文学全集』のような子供向けダイジェスト版を読みふけった/むりやり読まされた方も多いかもしれません。そして、成長後に原作を再読すると印象が一変/一驚! あるいは、なまじ“予備知識”があるため原作を読む楽しみもそがれ、ネタバレ気分になることもあるかもしれません。

 私がそんな本を手にしていた頃からすでに半世紀! かつて東北の一地方の盆地で育ち、12歳まで海を見たことがない生活では、外国の日常もわかりかね、文字だけではよく理解できない事柄に“食”の世界がありました。例えば、『家なき子』の冒頭近く、主人公レミの養母が食事を作ろうとすると、不在だった夫が突然あらわれ「スープを作れ」と強要、養母が「材料がない」と応えると、「そこに玉葱とバターがあるじゃないか。それでスープができるはずだ」と命じる場面をかすかに記憶しています。

 子供心に「玉葱とバターでスープが???」と思ったのですが、もちろん、長じればそれがオニオンスープであることにようよう気付くという有様でした。

 そう言えば、この『家なき子』では、レミが友達のかわりに炭鉱に入って、出水事故で坑道に閉じ込められるというエピソードも子供心に強烈でしたが、あれはまさに19世紀半ばの児童労働で、そのあたりはヒューエコのネタの一つにしています。

 同じような例では、『トム・ソーヤーの冒険』で子供3人で家出、川中の小島に隠れ住むというエピソードで、友の一人が家から「半身のベーコン」を担いできたため、すっかりくたくたになってしまったという文章があるのですが、当時の日本、ベーコンと言えば(いまや高級食材になってしまった)クジラのベーコンしか連想できず、「クジラの半身!!」もあんまりなので、何か間違いがあると感じつつ、長じて初めて豚のベーコンであることに気付く始末でした。

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 さて、私が子供の頃にまったく理解できなかった翻訳例に、イギリスの動物コレクターにしてエッセイストのジェラルド・ダレルの記録に出てくる“ワニナシ”があります。

 英名“alligator pear”を直訳すれば“ワニナシ”ですが、「果実の表皮が動物のワニの肌に似ていることに由来する英語での別称」(Wikipeida)ということで、今では“アボカド”で知られている果物なのですが、当然、幼い私にはまったく想像できません。ちなみに、アボカドという名称は中米スペイン語の「アグアカテ/アワカテ」 (aguacate/ahuacate)、ポルトガル語の「アバカテ」 (abacate) などから来ているとのことですが、これは先住民の方々が話すナワトル語の「アーワカトル」 (āhuacatl) からとも、近隣のトトナコ語からの借用であるとも言われているそうです。

 一方、私自身の完全な誤読の例には、サマセット・モームの東南アジアものを読んでいると、蒸留酒のジンビターを加えるシーンで、ビターをバターと誤読して、「酒にバターをいれるとは?」と不思議に思った記憶もあります。そんなわけで、初めて海外に出かけたスマトラの山奥で、イギリス人若夫婦の台所をのぞくと、ジンの空き瓶がずらっと並んでいて、「おおっ、これがモームの世界か」と感激したものでした。

 それが今ではクックパッドなどでオニオンスープを検索すれば、“簡単シンプル♪とろとろオニオンスープ”の作り方を懇切丁寧に教えてくれる時代、豚肉のベーコンはおろか、アボガドもごくごく普通の食べ物となり、逆に、クジラのベーコンは捕鯨の衰退でいまや希少になってしまいました。

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さて、今回のトピックの最後はパスタです。子供の頃、「イタリアのスバゲッティとは、その昔はるか元の都まで旅をしたマルコ・ポーロによって、中国からもたらされた」という話を何度も耳にして、ついしっかり信じ込んでしまった記憶があります。ところが、長じれば、どうもその説では理解できない文章に気付きます。

 例えば、このブログでしばしば触れるイタリアの歴史作家モンタネリの『ローマの歴史』では、ローマ帝国最初の皇帝アウグストゥスの御代の大詩人ホラティウスが“皇帝賛美”の美辞麗句に満ちた叙事詩をむりやり書かされ、「ひいひい泣きながらやっとしまりのない冗長な作を仕上げ」ながら、友人に向けて書いた『書簡体詩』(この友人こそが、現代にも“メセナ”という言葉に名前が残る大富豪・アウグストスを支えた政治家・財政家にして、芸術の大パトロンマエケナス)や、アイロニカルなユーモアに満ちた『風刺詩集』こそ傑作になった、という記述のあと、晩年、家にこもりがちになり「自家製のスパゲッティ2皿、牛肉の煮込みに焼きりんご、これ以外のものは食べられなかった」と続きます。

 えっ、スパゲッティ! ホラテイウスが生きていたのはBC65~8年、マルコ・ポーロはAD1254~1324。1300年も前にすでにイタリアにはスパゲッティがあるのか! というのが、このくだりを最初に眼にした時の感想です。

 Wikipediaの「パスタ」を調べれば「イタリア半島におけるパスタの歴史は大変古い。チェルヴェーテリにある紀元前4世紀のエトルリア人の遺跡からは現在のものとほぼ同じ形態のパスタを作る道具が出土している。古代ローマ時代にはラガーナ (lagana) というパスタがあったが、現在のように茹でて食べるものではなく、焼いたり揚げたりして食べた」とあります。

 次に、Wikipediaの「マルコ・ポーロ」を閲覧すると、マルコ・ポーロ=スパゲッテイ紹介者説には「否定論もあり、16世紀に『世界の叙述』をラムージオが校訂した際に紛れ込んだ誤りのひとつで、イタリアのパスタと中国に麺類に関連性は無いとも言われる」とあります。

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 よく考えれば、スパゲッティとはパスタという一群の食品のなかの一つです。そうした食品群がそもそも存在している中、スパゲッティだけがマルコ/ポーロが持ち帰ったものだというのもおかしな話です。さらに、サイトの中にはマルコ・ポーロが紹介したのはマカロニとするものもあります。こちらもWikipediaでは、「俗説ではマルコ・ポーロが中国から持ち帰った小麦粉を練った食べ物を教皇に献上した際、あまりの味の良さに「おお、すばらしい(Ma Caroni)」といったことが命名の由来とされているが、マルコ・ポーロが帰国したのが1295年で、その前の1279年にジェノヴァの公証人が作成した財産目録に「マカロニ一杯の箱」とあり、名称の由来ともども中国から持ち帰ったとする説も、認められるものではない」とあります。パスタ、マカロニ、スパゲッティ、きちんとした分類を頭に入れておかないと、その系統関係も乱れてしまいます(分類学はことほど重要です)。

 明治維新以来、日本には海外から様々な“新知識”が流れ込みますが、その際に持ち込まれた誤説・珍説の類がそのまま(あたかも都市伝説のように)生き残る。こうした例の一つが、このマルコ・ポーロ=スパゲッティ紹介者説かもしれません。これが“食”の世界ならば、まあまあ罪もないわけですが、いわゆる陰謀説のような怪しげな俗説がそこここに残っているような気もしないではありません。

近代化の象徴としての“帽子”、あるいは帽子屋の憂鬱:ファッションの人類学Part12

2017 11/23 総合政策学部の皆さんへ 日本に帽子がいつ入ってきたか? 皆さん、考えたことはありますか? 例によって、(あまり信用しすぎてはいけないが、一方ではひどく便利な)Wikipediaをひもとくと、「日本では、明治4年8月9日(1871年9月23日)の散髪脱刀令(いわゆる断髪令)により髷を結う男性が激減し、代わって帽子が急速に普及した。西洋から来た帽子は「シャッポ」「シャポー」などと呼ばれ、「和服にシャッポ」というスタイルで男性に普及した(後に洋服も普及)」とあります。

 この「和服にシャッポ」というところがミソですね。一度、小学校の卒業写真を時代を追ってWebで調べた事がありますが、日本の小学生にどのように“洋装”が入ってきたか? それは“頭”、すなわち学帽からなのです。

 例えば、港区教育委員会 デジタル港区教育史の「目で見る港区の教育のあゆみ」には、「卒業記念写真(明治21 桜川小学校)」(https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/image/1310305200/1310305200100230/k004-1.jpg)が載っていますが、男の子は全員学帽をかぶり、かつ和服です。残念ながら男の子の足下はわかりませんが、写真前列の女子生徒は全員下駄のようです。ちなみに、男の子は学帽=近代化の象徴をかぶりながら、女子生徒は全員丸髷のようです。こんなところにも近代化における男女差がでてきます(これは先生方も々で、男性教員が洋装なのに対して、初期の女性教員はたいてい和装です)。

 このようにして学帽 ⇒ 制服・靴、さらに男性教員 ⇒ 男子児童 ⇒ 女性教員 ⇒ 女子児童の順に服装が変わっていく=これが日本の教育現場の近代化をめぐる一景です。さらには、その学帽や制服、靴を生産する企業の勃興となれば、いくらでもレポートのネタはあるはずです。

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 さて、Wikipediaの「学生帽」には「学生帽を最初に導入した例としては、開成学校が、1873年(明治6年)に制定したことが挙げられる。大学の角帽は東京大学(旧制)が1886年(明治19年)に定めたのが始まりと伝えられている」とありますから、上記桜川小学校の明治21年の卒業式は、かなり早い展開とも思われますし、さすがは東京港区とも言えます。

 なお、小学校での洋装化は都市部で急速に進み、同じ「目で見る港区の教育のあゆみ」に掲載の「水飲み場(明治40 本村小学校)」では、女子生徒に洋装かつ靴が普及していることがわかります。

 こうして、学帽は一般的なものとなり、私の子供の頃まで連載されていた横山隆一の新聞連載マンガ「フクチャン」の主人公は最初、「江戸っ子健ちゃん」のフク主人公だったものの、「着物に下駄、大きな学生帽という容姿の幼い男の子で、やがて主人公の健ちゃんよりも人気が出たため、改題のうえ、フクちゃんを主人公に昇格させた」「フクちゃんは元々、学生帽を被っていなかった。前作『江戸っ子健ちゃん』の初期、大学受験のために健ちゃん宅に居候していた「チカスケ」という登場人物が、合格するために自分を追い込むつもりで先に学生帽を買ったが受験に失敗し、進学を断念して帰郷することになったため、フクちゃんがそれを譲り受けて以来、トレードマークになったものである」というストーリーになっています。少なくとも、当時の新聞読者にとって、学帽をめぐるこうした展開はごくあたりまえのこととしてうけとられていたわけです。

 ところで、私にとって「帽子屋」と言えばつい思い出すのが、20世紀初頭のイギリスのベストセラー作家アーチボルド・ジョゼフ・クローニンの出世作『帽子屋の城』です。ただし、何しろ中学時代に読んだっきりですから、利己的な主人公(=帽子屋)とその一家がやがて悲惨な人生をそれぞれたどっていくという陰惨な印象しか残っていません。
 そしてもう一つは、言うまでもなく、皆さんご存じの『不思議の国のアリス』の「狂ったお茶会」に登場するいかれ帽子屋( The Mad Hatter)ですね。

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 帽子の普及は当然、帽子屋あるいは帽子屋産業の勃興をともないました。ところが、その帽子が、近年、生産数が落ち目になっている。例えば、大阪府が平成12年に出しているpdf資料では「帽子屋業界の構造」として、「全国の帽子業界の規模をみると、平成9年で事業所数301、従業者数3,299人、製造品出荷額等313億71百万円となっている(通商産業省『工業統計表』、従業者数4人以上の事業所)。近年の推移をみると、事業所数、製造品出荷額等は7年にピークをつけており、9年は7年に比べ、それぞれ9.9%減、19.3%減となっている。5年と比べても、1.0%減、5.7%減となっている。このように帽子製造業は、事業所数、製造品出荷額等ともに減少及び低落傾向で推移している」とあります。

 こうして日本の近代化の一側面として発展してきた帽子が、いまどんな状態にあり、また、今後どうなっていくのか、そのあたりをしばらく見ていくことにします。

 to be continued ・・・・・・

チアガールとアメフット、メジャーリーグ、そして“マナティーズ”

2015 6/23 総合政策学部の皆さんへ

 ひさしぶりの投稿です。チアリーダーとアメフット、そしてメジャーリーグと3題話を並べましたが、この意味、とっさにご理解できるでしょうか?

 チアリーダーとは「スポーツ(アメリカンフットボールなど)における応援チームのことである。日本では一般的にチアガール、男性の場合はチアマンとも言われているが、これらは両者ともに和製英語であるWikipedia)」。

 「一般にアメリカ合衆国の学校においては、チアリーダーの女子生徒らはちょうどジョックの女子版(クイーン・ビー=女王蜂/学園女王)に相当し、生徒らの中の典型的な「人気者集団」を形成することがしばしばである。大衆文化においても、「人気者(ポピュラー)な女子学生」の典型として描かれやすい。

  いわば「花形」であるために競争も非常に激しく、チアリーダーになるための英才教育を子供の頃から施されるという女児も多い。とあるチアリーダー候補の女児の母親が、娘をチアリーダーにしたい一心から、競争相手の女児を殺害しようとしたという事件も起こっている」とあるように、ある種アメリカ文明の象徴とも言うべきでしょう。

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 ちなみに上に出てくる“ジョック”とは「アメリカ合衆国における人間の類型のひとつで、狭義ではアスリートの男性を指し、広義ではしばしば同国の社会、とりわけ学校社会における、いわゆるスポーツマンを主とした「人気者の男性」を名詞として総称する。アメリカ合衆国の社会でも特に学校社会のヒエラルキーの頂点に位置するジョックは、対概念たるナードとともに、米国の社会および文化の象徴の一として語られもする(Wikipedia)」。

 これこそ、パットンが“The Speech”の冒頭で獅子吼する「アメリカ人は闘争を愛している。全ての真のアメリカ人は、戦いの痛みやぶつかり合いを愛している。諸君が子供だった頃、諸君ら誰もが賞賛したのはビー玉遊びの王者とか、一番足の速い奴、大リーグの選手、最強のボクサーだった。アメリカ人は勝者を愛し、敗者を認めない。アメリカ人は、常に勝つためにプレイする。これこそ、アメリカがこれまでも、そしてこれからも負けを知らぬ理由だ。やたらと負けを考える事はアメリカ人に対する冒涜である。戦いとは、男が熱中できる最も重要な競技と言える。戦いは素晴らしいもの全てを発揮させ、それ以外の全てを消し去るのだ」という名台詞の対象です(それゆえ、ジョックになれない奴ら(ナード)に対する残酷なまでの仕打ちが展開する、というわけです)。

 そしてチアリーダーはジョックとともに、アメリカの高校社会の階層の頂点に君臨する存在である!! つまり、アメリカの高校社会は、マッチョ男とイケイケ女に支配されているということになりそうです。

 その高校文化の頂点の一つのはずのチアリーダーが、実はメジャーリーグにはほとんど存在していない、ということをご存じでしたか? 今年、イチローが移籍したマイアミ・マーリンズこそがメジャーリーグ30球団の中で唯一チアリーダー(フロリダにふさわしく“マーメイヅ”)なのだそうです。

 チアリーダーの有無、これこそベースボールとアメフットの間の微妙な差をこれほど象徴するものもないかもしれない、これが本日の話題です。ちなみに、北米4大プロスポーツリーグの他の競技では、NBA(バスケットボール)NHL(アイスホッケー)ではチアリーダーがいます。この差は何なのか? 大リーガーには、“チアガール”等要らぬ! という堅い決意の表明があるのでしょうか?

 調べて見ると、大リーグことMBLの創設年は1876年(Wikipediaによる)、アメフットのNFLは1920年、NBAは1946年、NHLは1917年です。この年代差が、チアリーダーへの温度差になるのでしょうか?

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  それで英語版チアリーダーを見ると、チアリーディングの歴史も面白そうです。どなたか、進級論文か、卒業論文はいかがでしょうか? アメリカ文明の本質が明らかにされるかもしれません。例えば、“Before organized cheerleading”とあるのですが、

 “The roots of cheerleading began during the late 18th century with the rebellion of male students. After the American Revolutionary War, students experienced harsh treatment from teachers. In response to faculty’s abuse, college students violently acted out. The undergraduates began to riot, burn down buildings located on their college campuses, and assault faculty members. As a more subtle way to gain independence however, students invented and organized their own extracurricular activities outside their professors’ control. This brought America sports and cheerleading to participate in, beginning first with collegiate teams”. 学生によるriotとチア?? 何のことだ? とりあえず、結構事情は複雑そうです。

 “In the 1860s, students from Great Britain began to cheer and chant in unison for their favorite athletes at sporting events. Soon that gesture of support cross over seas to America. On November 6, 1869, the United States of America witnessed its first intercollegiate football game. It took place between Princeton and Rutgers University, and marked the day the original “Sis Boom Rah!” cheer was shouted out by student fans

 こうしてチアの組織化が始まるというのです。“The beginning of organized cheer”では、なんとすべて男性の活動だったそうです。

 “Organized cheerleading started as an all-male activity. As early as 1877, Princeton University had a “Princeton Cheer”, documented in the February 22, 1877, March 12, 1880, and November 4, 1881, issues of the Daily Princetonian. This cheer was yelled from the stands by students at games, as well as by the baseball and football athletes themselves. The cheer, “Hurrah! Hurrah! Hurrah! Tiger! S-s-s-t! Boom! A-h-h-h!” remains in use with slight modifications today and is now referred to as the “Locomotive”.

 それではいつから女子の活動になったかというと、もっぱら20世紀後半のようで、“Female participation”には、“In 1923, at the University of Minnesota, women were admitted into cheerleading. However it took time for other schools to follow. In the late 1920s, many school manuals and newspapers that were published still referred to cheerleaders as “chap,” “fellow,” and “man”. Women as cheerleaders seemed to be overlooked until the 1940s. In the 1940s collegiate men were drafted for World War II, creating the opportunity for more women to make their way onto sporting event sidelines. As noted by Kieran Scott in Ultimate Cheerleading: “Girls really took over for the first time.” An overview written on behalf of cheerleading in 1955 explained that in larger schools “occasionally boys as well as girls are included,” and in smaller schools “boys can usually find their place in the athletic program, and cheerleading is likely to remain solely a feminine occupation.” ちなみに1948年の女性によるチアの写真がありますが、まったく牧歌的です。

 これがアメリカの高校・大学を支配する巨大文化にあっという間に駆け上がってしまう、十分卒論、修論のレベルです。スポーツ社会学でも、カルチャー・スタディーズ でも、どなたか調べて見ませんか?

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 さて、この三題話の締めくくりはマイアミ・マリーンズに話を戻して、“マナティーズ”です。このマナティーズはなんと“チアリーダー”の逆転版というか、男性、それもマイアミの海にちなんで、太ったおじさんたちのチアリーダーという、パロディなのか、真剣なのか、それでも紛れもないアメリカ文化の一面です。というわけで、Florida Marins Manateesの勇姿をユーチューブ等で見ることができます。

ものを食うということについてPart1:“保守”と“革新”、そして“共に食べる”ことの意味について

2015 1/25 総合政策学部の皆さんへ

 「ワニの心地よきまどろみ」に引き続き、“保守”について考えましょう。例えば、人類学では“ものを食らう”ということは、なかなか興味深い事柄です。まず、サル・類人猿のたぐいから、“食”についてずっと保守的な傾向があると思っています。

  これはただ単純に“自然”には“”がいっぱいで、“消化”できないものもあるからでしょう(したがって、私自身は“自然食品”という言葉にいつも戸惑いと疑いを持ってしまいます。自然だからといって、良いことばかりではないのに!)。

  何でも食えるわけでないのならば、食えるものを覚えておかねばならないし、その上で、食ってもよいかわからないものには、手を出さない方がよい。これが“保守”の一つのあり方ではないか、と私は思っています。

  つまりは、新しいこと(=新儀)停止、武家諸法度から鴻池家訓まで、日本におなじみの台詞ですが、それなりの根拠はある。なぜなら、新しいことには必ずコストがかかり、かつ、リスクがある。それならば、“新しいこと”には手を出すまい、と堅く心に誓うのです!

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 それでは、食について保守的立場をとるべきか? それとも新でいくか? 例えばチンパンジーは(キイロヒヒのようなオナガザル科のサルたちに比べても)かなり“保守”的という印象です。つまり、食べることができるものにもなかなか手をつけない。

  私がその昔つきあっていた東アフリカのマハレ山塊国立公園のチンパンジーでは、10年一日、ヒトが導入した移入種(作物)であるアブラヤシ、マンゴー、レモン、グアバ、パイナップル、パパイヤの脇を行進しながら、いっこうにそれらに手を出さない。対照的に、“がさつ”なヒヒ等はあっという間に農作物の味を覚えて、畑荒らしをしてしまうのに。ちょっと不思議な気がしました。

 それが1980年代前半、私がJICAの専門家をしていた頃ですが、ある日突然レモンを食べ出す。すると、あっという間にチンパンジーたちに広がり、“常食”になってしまう。

  いったん“納得”してしまえば、伝播は早いのです。しかも、もっともらしげに木に登り、レモンの実をしげしげと眺め、指で堅さを確かめて、おもむろに選んだやつにかぶりつく。

  なんとなく、微笑ましいというか、ほのぼのとした印象でした。“保守”であるが、いったん食べ始めると“軽躁”な印象さえ感じられる“流行”ぶりです。我々のご先祖であるアウストラロピテクスあたりもこんな風だったかもしれません(このケースを報告した私の論文のURLがhttp://link.springer.com/article/10.1007/BF02436585です)。

 ちなみに、同時期、マンゴーとグアバも口にし始めますが、それでもレモンへの嗜好に比べると、ちょっと食べてみる、程度の印象にとどまります。それでは、なぜ、彼らが突然、レモンに目覚めたのか? そして、流行の度合いが他の2種とどうして違うのか? そのあたりはいまだ謎のままです。

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 さて、もう一方で、動物学者と人類学者を両方兼ねている視点から見れば、ヒトは“動物”的な気配を示すことを嫌います。何が動物的か? 例えば、“性”ですね。“寝る”こともそうかもしれません(みんなにじろじろ観られながら、寝入ることは結構難しいのでは)。これらはきわめて“個人的なこと”、人目をさけて行われます。

  そして、もう一つ、動物として必須の行為が“食”かもしれません。ヒトにじろじろ見られては、食べる気がしませんよね。こうして食はきわめて“個人的”なことになります。他の方が食事しているところをのぞき込めば、それはかなり不躾なことですよね。逆に、群衆の中で、独りで孤立して食べている光景が、それを見られることさえ、苦痛になってしまうかもしれない。それがあまりに特化した一つのイメージが、“トイレ飯/便所飯”(いわゆるランチメイト症候群)をめぐる言説かもしれません。

 さらに、その一方で、はなはだ逆説的ながら、「きわめて“個人的なアフェア”であるはずの食を、ともにする/ともにしない」ということで、食はコミュニケーションの手段にもなります。それは、ひょっとしたら、毒があるかもしれない食物を分かち合うことでもある。

  また、本来互いに好き嫌いがあるはずなのに、“一つの食”をわけあうことでもある。それを行うこと自体が、互いの関係を確認しあうコミュニケーションになる。これが人類学でいうところの“共食”であり、“会食”なり、“一宿一飯”なり、“同じ釜の飯”になるわけです。

 なお、Wikipediaでは共食(共同飲食)について「 広義では特定の機会に家族・親族・地域社会・職場・趣味の仲間などの成員が集まって、同じ飲食物を共に飲食すること。狭義では同じ神を崇拝する集団(神職及び氏子)が祭りの後などに神饌や供物を共同して飲食すること。狭義のものを、「神と人が共に飲食すること」と捉えて神人共食(しんじんきょうしょく)と呼ばれる場合もある」と説明しています。神棚に食をささげることも、また“共食”の一つの形であり、神との共食、あるいは神の前での共食は人にとってきわめて重大なことになります。

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 もちろん、こうした共食のあり方は、もちろん、文化によって異なります。例えば、私が前後3年暮らした東アフリカでは、共食は男たちの食事と女子供の食事に分かれます。とくにイスラームの社会では、基本的に男女の性を強調するため、そうした光景がふつうにみられることになります。つまり、“子供”は性が重視されない年代で、その性が気になってしまうと、それが若者→大人への移行期になる、というわけでしょう。 

 そこでまたもう一つ感じることは、“共食”は言うまでもなく、食にまつわる文化を共有するところであり、また、その文化を伝承するところでもある。食べ物一つとってみても(何を食べるべきか?)、料理でも(どう料理すべきか?)、そして作法でも(どう食べるべきか?)、そして掟破り(とんでもない食べ物を持ってきたり、とんでもない料理をしてみたり、そしてエチケットにあわぬ食い方をしたり)にはもちろん“制裁”を課す(子供には叱る、ルール破りには避難する、陰口をきく、シカトする)。

 ここまで書いてみると、どうやら私でもやりかねないかもしれません。こうした制裁を避けようとすれば、言うまでもないことですが大勢に従う=ついに、“保守派”の勝利となる、となってしまいそうです。そのあたりも含めて、シリーズ化してみましょう。

名前についての考察Part1:日本の近代化と女性の名前

2014 9/9 総合政策学部の皆さんへ

 皆さんは“名前”についてどうお考えですか? 昨年のリサフェではたしか“きらきらネーム”を扱ったものがあったかもしれませんが、人類学では名前は非常に重要なテーマです。ということで、そもそも、皆さん、以下の名前を耳にしてどう感じますか?

  シカ、エイ、カク、この、ため、ゑい

  これらは江戸末期から明治にかけての女性の名前なのです。ちなみに、“シカ”さんは野口英世のお母さん、“エイ”さんは日本資本主義の父とも言える渋沢栄一のお母さんです。

  “カク”(漢字表記ではどんな文字になるのでしょう?)の例には、明治期に外国医学校(ローラ・メモリアル・カッレジ)で学び、女医としては6番目に登録された須藤カク(保村、2013)があげられるでしょう。

 また、“この”さんは岡倉天心のお母さん、“ ため”さんは九代目団十郎のお母さんです。このように明治期の女性の名前のかなりがカタカナ/ひらがな、つまり表音文字であらわされ、男性のように漢字=表意文字でなかったことに、女性蔑視を見て取る方もいらっしゃるかもしれません。

 ちなみに九代目団十郎の父である七代目団十郎の母は“すみ”、妻は“しな”、 “こう”、“すみ”の3人で、九代目の母“ため”はいわゆるお妾さんです。そして、“ゑい”はトヨタの創業者豊田佐吉のお母さんです(これらの資料はほとんどWikipediaら)。

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 Wikipediaの『人名』では、江戸期の女性の名前の例を大田南畝(蜀山人)の随筆『半日閑話・女藝者吟味落着』から引用していますが、50音順に、(あ行)いと、いね、いよ、うた、(か行)かつ、かよ、きち、きち、きの、こと、(さ行)さと、しほ、せん、そめ、(た行)たか、たみ、たよ、ちよ、ちを、つる、でん、とき、とみ、とよ、(な行)なみ、なを、(は行)はつ、はな、はま、(ま行)まさ、みよ、みわ、みを、もよ、(や行)よし、(ら行)りうとあげているそうです。

 大田蜀山人ですから、これらはどうも、江戸の御家人層あたりの女性名かもしれません。いずれにしても、漢字を使わず、表音文字で書かれています。

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 もちろん、武士や富豪、庄屋等の女性は漢字を使った名前が当たり前ですが、私が興味を持つのは一般庶民の女性の名前です。Wikipediaもなかなか検索できないと思っていたら、数年前、相続関係の相談で従兄弟かられてきた私自身の相続関係図を思い出しました。それを引っ張り出すと、明治時代に福島県会津地方の農民の女性の名前がわかる次第です。ということで、ちょっと紹介しましょう。

 まず、私の父方の祖母はノイという名前で明治13年出生。彼女は10人の子を産み、そのうち8人が成人に達しました(ちなみに、私の父は9番目、三男にあたります)。娘は6人、そして息子の嫁さんまで含めると、順に明治30年ヨシノ(私の伯母、ノイさん満16歳時でのご出産)、明治37年キヨ(伯父の配偶者)、明治38年シブイ(伯母)、明治39年義江(同)、明治40年義井(同)、大正2年キイ子(同)、大正5年義子(同)と続きます。

 このうち、“ノイ”、“シブイ”はどんな漢字になるのか、ちょっとわかりません。それに対して、明治39年から漢字の名前が多くなり、かつ大正の二人は“子”がつきます。

 その資料には、実は、私の伯父の姻族も載っています。それによると、明治4年生まれにサキ、明治26年サイ、明治28年クマ、明治30年代トヨ、明治37年キヨ(これが伯父の妻)となります。そして、その一世代したの女性は大正2年セキ、大正14年智與子、昭和4年ヒサ子となります。上の私の父の家系とほぼ同じような傾向が読み取れるでしょう。

 それにしても、“サキ”は“佐喜/早喜/早希/早紀/沙樹/沙紀/咲樹/紗季/咲”等のどれかかもしれませんが、“サイ”となるとどうなるのでしょう? “佐井/彩”あたりかもしれません。

 このように、私の伯母たちの名前を探るだけで、日本の女性の名前の変遷(近代化)がわかってきます。おもしろいことに、この家系は女性の名前が漢字化するとともに、“義”の文字を使う傾向が出てくるようです。このあたりも、日本の近代化の一つかもしれません。

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 こうした女性の名前が、明治維新、つまり近代化とともに変わっていく、というのが実は本日の主題です。そのあたりをWikipediaを調べてみると、「1872年(明治5年)に壬申戸籍が作られると、再び女性に実名が与えられるようになります」とあります(Wikipedia『子(名)』)。

 その際、大きな変化が訪れます。一つは漢字が用いられることが多くなること、すなわち、音で表していた女性名が、漢字によって意味も出てくることです。サキを咲とするか、早希とするか、紗季とするか、沙喜とするか、当人にとっても、多少とも意味が異なるかもしれません。

 そして、もう一つは、接尾語として「子」を付けるのが一般化することがあげられます。すなわち、「明治半ばからは、庶民の間にも、従来の2音の名に「子」を付けた、3音の子型の名が広まった。当初は、本名に「子」がなくても通称として「子」を付けることもあった(ただしすでに本名に「子」があったら二重には付けない」「1900年、小泉八雲は『影 (Shadowings)』の一節「Japanese Female Names」で、上流階級で敬称として従来の「○○」の代わりに「○○子」が使われるようになったが、自称としては使わないとしている」。

 こうした変化が、上記の私の親族・姻族の女性名からも伺えるでしょう。それにしても、私の祖父あるいは曾祖父は、娘・孫娘たちに“義”という漢字で何を表したかったのでしょうか? ちなみに、長男は“恒義”、次男は“恒夫”、三男(=私の父)は“七呂”、四男は“孝”ですが、このあたりの漢字の使用法についても、ちょっと考えさせられます。

 さて、女性名にまた話を戻して、こうして増えた「子」型の名前ですが、「第二次世界大戦を挟んだ1930年代から1940年代に80%超のピークと」になりますが、その後、皆さんもよくご存じのように「子」は急激に減ります。Wikipediaでは「明治安田生命により毎年調査されている名前ランキングでは、女性名では1913年から1964年まで連続して子型が1位だったが、1965年からは他の名が混ざり、1982年が子型の1位の最後となっている」としています。

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 それにしても、日本人の庶民の女性の名前を調べるのもなかなか難しいものです。そこで、ふと思いついて筑摩書房版世界ノンフィクション全集38巻に出ている『人買い伊平治伝』を思い出しました。これは、いわゆる“からゆき(唐行き)さん”、つまり明治期に日本から中国~東南アジアに娼婦として売り飛ばされた女性たちを、現地でじかに扱った女衒村岡伊平治(1867~1945)の自伝なのですが、明治中期の主に九州地方の不幸な女性たちの名前が出てくるのです)。

 この『自伝』の明治18年12月の香港到着から始まる「南シナ時代」に登場する日本女性の名前を列挙すると、しほ、なか、つえ、トノ、ハツエ、サト、キチ、キノ、ツマ、ツヨ、トメ、ツヤ子、タメノ、カノ、シヲ子、ミチノ、フサエ等があがっています。「子」がつく女性もいますが、村岡が自伝を執筆したのは昭和12年頃なので、明治20年前後では、名前の語尾に「子」をつけるよりも、語頭に「お」を付けた呼び方をしていた可能性が高いでしょう。

 しかし、『人買い伊平治自伝』に触れた以上、村岡自身、あるいは“からゆきさん”について、また別項を立てねばならないようです。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...