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ケチャップの歴史3~本来のケチャップは:食についてPart22

2020 8/2 総合政策学部の皆さんへ ケチャップの歴史の3回目は、本来のケチャプとは何か、について考えてみましょう。先にご紹介したように、もともとの語源とされる中国の閩南語や台湾語での kechiap、koechiap(鮭汁;ケーチアッ)は、“鮭汁”という言葉通り、小魚やエビの塩辛から分離した魚醤の類とされています。日本では、秋田のしょっつる、能登のいしる、香川のいかなご醤油が該当するでしょう。

 この手の魚醤は中国南部から東南アジアでは一般的で、ベトナムのニョクマム、タイのナンプラー等がしられています。インドネシアではこれがケチャップ・イカン(インドネシア語でイカンは魚で、魚で作ったケチャップ)となります。

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 なお、世界の他の地域での魚醤の類を紹介すれば、ローマ帝国時代に広く使われていたという“ガルム”があげられます。これは「魚の内臓を細切れにし、塩水に漬けて発酵させて作る。完成品はまろやかで繊細な風味だが、発酵中はひどい臭いがするため、ガルム生産者は近所から苦情が来ないよう都市の郊外で生産した」とのことですが、「ローマ帝国の滅亡と共に製法が途絶え、魚醤自体ヨーロッパではチェターラのコラトゥーラ・ディ・アリーチ・ディ・チェターラぐらいしか作られることはなくなった」(Wikipedia)とのことです。

 もっとも、カタクチイワシの類を塩蔵して発酵させたいわゆるアンチョビーはしばしば調味料的に使われるので、ガルムの遠い後裔とも言えるかもしれません。また、「19世紀初頭にイギリスのウスターシャー州・ウスターの主婦が、食材の余りを調味料とともに入れ保存したままにしたところ、ソースができていた。このことがウスターソースの始まりとされている」(Wikipedia)というウースター・ソースの原料にはアンチョビが含まれているとのことで、これもまたガルム以来の伝統をかすかながらついでいるのかもしれません(なお、日本に伝来、国産化された日本のウースターソースにはアンチョビはふくまれていなとのことです)。

 ちなみに、Wikipediaによれば「無数のソースを生み出した料理大国であるフランス人は、ウスターソースを万能として使用するイギリス人を揶揄的に「百の宗教があるが、1つのソースしかない」と表現している」ということですが、そのイギリス人が「(某大統領のように)何にでもケチャップをふりかけるアメリカ人」を揶揄しているというところは、まさに差別の連鎖とも言えるかもしれません。

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 さて、インドネシアのケチャップに話を戻せば、今日、大量に消費されているケチャップはその材料を大豆と小麦に転じ(つまり、日本の味噌・醤油に近くなり)、そのうち甘味がついているものがケチャップ・マニス、辛みがついているものがケチャップ・アシンと呼ばれています。つまり、インドネシアのケチャップはどちらかというと“醤油”あるいは日本の“ソース”に近い存在のようです。

 インドネシア料理には、この甘いケチャップ・マニス(サラダのガドガドや焼き鳥状の串焼きのサテ等の甘い味付けが代表的です)、トウガラシの辛味によるケッチャプ・アシン、そしてインドネシア風チリソースのサンバル等で味付けられるのがふつうです。

 この手の調味料は現在では食品メーカーによる大量生産で、とくにABC社の製品が幅を利かせています。そのABC社製品を扱っている協同食品のHPでは「インドネシアの“ケチャップ”とは、醤油を意味し、甘口でとろみのある醤油のケチャップマニスと薄口醤油のケチャップアシン、唐辛子とにんにくなどを材料とする“サンバル”をベースにしたチリソースです。
 ケチャップマニスを3~4に対して、サンバルアスリを1の割合で合わせると、本場さながらの味となり、炒飯のナシゴレン、焼きそばのミーゴレン、焼き鳥のサテ、その他白身魚の煮物など幅広くご利用いただけます」と紹介しています。

 このあたりの実物を見たければ、関西ならば神戸の南京町、関東ならば上野のアメ横センタービル近いのエスニック専門店街に行かれることです。

 このようにケチャップ一つをとってみても言葉と食の変遷は様々で、ぞこに思わぬ広がりを感じ取って下さい。

村井弦斎『食道楽』からタピオカ、白菜、ラーメン、カレーを考える:食についてPart 21

2020 7/22 総合政策学部の皆さんへ

 「ケチャップの歴史2番外編~トマト・ケチャップ出世譚:食について Part 20」で村井弦斎食道楽』(青空文庫版)を引用しましたが、開国以来160年になんなんとする日本の食を考える上でも、貴重な資料と言えるかもしれません。例えば、今の私たちの食に当たり前のもので、『食道楽』に見当たらぬものは何か? あるいは『食道楽』で村井がせっかく紹介しながら、その後の日本で忘れ去られたものは何か? そこに今の日本の食の本質をかいま見ることができるかもしれません。

 さて、『食道楽』は「1903年1月から1年間、報知新聞に連載され、大人気を博したことで単行本として刊行されると、それが空前の大ベストセラーになった。文学史的にも評価が高く、村井弦斎の代表作とされている。翌1904年にかけて続編を含めた8冊が刊行」されました(Wikipedia)。ちなみに1903年1月は、1日:英国王エドワード7世がインド皇帝に即位、14日:大谷探検隊がインドビハール州ラージギル郊外で釈迦の住んだ霊鷲山を発見、23日:夏目漱石が英国留学から帰国とのことです。

 この年12月31日の日本の人口は46,732,138人で現在の3分の1です。完全なピラミッド型の人口構成で、まぎれもなく人口増大期にあたります(東京では、死亡者数を出生者数が上回り、都会でも人口再生産に転じます(それまでは江戸時代そのままに、田舎に生まれた若者が東京にのぼって、結局、結婚も子供も残すことができずに死に絶えていくアリ地獄的世界でした)。

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 『食道楽』冬の巻の末尾には登場する食や材料についての索引がついていますから、ここであたりを付ければ、120年前の日本の食生活と現在の違いがうかびあがるかもしれません。例えば、タピオカ! 正確にはタピオカはキャサバから作ったデンプンですから、皆さんの頭に浮かぶタピオカはタピオカティーと呼ばねばなりませんが、果たして『食道楽』に出ているのでしょうか?

 それが出てくるのです。第282回「米料理」に“ライスプティング”の材料として堂々の登場です。「セーゴでもタピオカでもジャムやでもやっぱり同じ事で大匙二杯位を初めは暫しばらく水へ漬けておいて膨ふくらんだ処を二合の牛乳へ入れて砂糖を三杯加えて三十分以上煮て出来上った時玉子の黄身を二つ混ぜてテンピの中で二十五分も蒸焼にすると病人にはどんなにいいだろう。無病の人には牛乳で煮ないでも普通なみのカスターソースを拵えてその中へ水に漬けたセーゴやタピオカを混て蒸焼にしてもカスターセーゴプデンといってなかなか美味おいしい者が出来るよ」とあります。

 このタピオカは何か? と思って『食道楽』をさらに調べると、「タピオカのマッシもセーゴに似て少し大粒の固まったものです。セーゴよりも固い物ですから四十分間水へ漬けておかなければなりません」とあるので、どうやらタピオカパールは1903年の日本にも輸入されていたようです! ちなみにセーゴとはおそらくサゴヤシデンプンの可能性があります。またマッシとはマッシュを指すようです。

 それにしても、せっかく村井先生がご紹介しながら、ライスプディングもタピオカも、その後、日本の料理界からは忘れ去られてしまうわけですが。村井は“ライスプデン”と表記していますが、これは「米をミルクで煮た料理である。同様のものが世界各地に存在する。日本では乳糜(にゅうび)、乳粥(ちちがゆ)、ミルク粥などとも呼ばれる」とのことです(Wikipedia)。私は中学時代、白水社版のスウェン・ヘディンの中央アジア探検記シリーズに頻繁に出てくる字面を見て、「この食べ物はいったい何なのだ?」と疑問に思ったものです。

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 それでは『食道楽』に何が登場しないのか? どうやら“白菜”という名前が見当たりません。現在青空文庫で公開されている春、秋、冬の巻を「白菜」で検索してもでてこないのです。そこで、春の巻の最後にでてくる栄養分析表(文明開化ですね)を見ると、(豆や薯類を除けば)根菜に大根、蕪、人参、牛蒡、蓮根、慈姑等が、葉菜に葱、韮、三河島菜、甘藍(キャベツ)、水芹、独活、蕗、蕨、薇、ホウレンソウ、小松菜、トウ菜、三つ葉、京菜、芹菜、茄子、胡瓜、南瓜(とうなすと表記)、冬瓜等がでています。

 一方、冬の巻の最後にでてくる「食道楽料理法索引」にはこのほか、赤茄子(トマト)、アスパラガス、アテチョー(おそらくアーティチョーク)、枸杞(の若芽)、嫁菜、紫蘇、白瓜、ズイキ、玉葱、花キャベツ、山葵、蕨等がありますが、白菜はまったくありません。

 それも道理、「日本で結球種のハクサイが食べられるようになったのは、20世紀に入ってから」で(Wikipedia)、「普及のきっかけとして、日清・日露戦争に従軍した農村出身の兵士たちが、中国大陸で食べた白菜の味を気に入って持ち帰ったからと言われているが、各地で栽培が試行されたもののほとんどは、品種維持に失敗したと見られる」ということですから、1903年の村井先生の視野にはまだ入っていなかったと思われます。

 なお、『食道楽』の栄養分析表には、当然、1910年以降に鈴木梅太郎らによって次々に発見されたビタミン類はのっていません(カロリーもついていません)。

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 さて、現代の日本の食で『食道楽』に登場しない代表としてラーメンがあげられるかもしれません。これまたWikipediaに頼れば、「1910年、東京府東京市浅草区に初めて日本人経営者尾崎貫一が横浜中華街から招いた中国人料理人12名を雇って日本人向けの中華料理店「来々軒」を開店し、大人気となった。その主力メニューは、当時は南京そば、支那そばなどと呼ばれたラーメンだった。新横浜ラーメン博物館によると「来々軒」を中国の麺料理と日本の食文化が融合してできた日本初のラーメン店としており、ラーメン評論家の大崎裕史はこの年を「ラーメン元年」と命名している」とのことで、1903年刊の『食道楽』には間に合わなかったようです。

 とはいえ、『食道楽』にはもう一つの現代食、カレーがかなり頻繁に登場してきます(なお、ライスカレーとして登場しています)。秋の巻には31回、冬の巻には索引もあわせて15回登場しますが、材料も多彩で、牛肉、鳥、魚、玉子、アサリ等です。なお、玉子のカレーとは、カレーのスープを作ってからそこに「湯煮玉子を四つ小さく輪切にして入れて御飯へかけます」とあります。その昔、東アフリカのタンザニアでホテルのメニューにエッグ・カレーがあったので注文すると、丸のままのゆで卵がカレースープの中に鎮座してでてきたのを思い出します。

ケチャップの歴史2番外編~トマト・ケチャップ出世譚:食について Part20

2020 7/1 総合政策学部の皆さんへ

 ケチャップの歴史を手繰っていったら、村井弦斎食道楽』が青空文庫に入っていることに気づきましたが、これでまた少し遊びそうです。また、青空文庫は学生の皆さんにもお薦めです。

 手始めに『食道楽』にトマトが描かれているか調べたところ、『春の巻』では以下の1か所だけです。春ならば、まだトマトの季節に及ばないのかもしれません。

赤茄子スープは夏ならば生の物、冬ならば鑵詰かんづめの物を四十分間煮てバターを交ぜ、曹達そうだを極く少し入れよく掻廻し別にスープかあるいは牛乳を沸してこの中へ注ぎ込むなり。壜詰びんづめのトマトソースを用ゆれば便利あり」(第30 万年スープ)

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 どうやら夏の巻はまだ入力されていないようなので、冬の巻を見ると、18か所にトマトが登場です。まずは、牛の臓物料理ですが、とくに「牛の脳味噌」は「牛の脳みそのミラノ風カツレツ」ではないでしょうか? 村井もよく調べたものです。また、「顔の皮」では瓶詰のトマトソースが紹介されています。

牛の脳味噌はコロッケーにもすべし。それには一旦湯煮て細かく切り固き白ソースへ混ぜ塩胡椒を加えて冷まし、それを丸めてメリケン粉をつけ玉子の黄身にてくるみパン粉をまぶして油にて揚げる。これにトマトソースをかけて食すれば一層上等なり」(第288 牛の脳味噌)

お登和嬢「顔の皮と申して頭の皮も何の皮も皆みんな食べられますが、それを最初塩でよく揉んでヌルヌルを除とってしまってよく洗って、深い鉄鍋の中へ水と一緒に入れて少し塩を加えて人参や玉葱なんぞを入れて強くない火で四時間ばかり湯煮ゆでます。そうすると皮が大層柔くなります。別の鍋でバター一杯をいためてコルンスタッチ一杯をよくいためてスープを五勺に瓶詰のトマトソースを一合加えて塩胡椒で味を付けて今の皮をその中へ入れて一時間ほど煮ますと美味しいシチューが出来ます」妻君「牛の舌はいつでもシチューに致しますが外にお料理がございますか」(第289 牛の臓物)

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 このようにトマトソースとして利用するほかは、サラダとしても、またトマトスープも紹介されています。

今は生のトマトが沢山ありますが大層味のあるものでサラダにしてもマカロニと煮ても美味おいしゅうございますがあれをスープにしても結構です。それは生の赤茄子を二つに割って絞ると種が出てしまいます。それを裏漉しにしておいて別に鍋へバターを溶かしてコルンスタッチをいためてスープを加えて混てその中へ今のトマトを入れて20分間も煮て一度漉して塩胡椒とホンの少しの砂糖とを加えて出します。実には小さく切ったパンのバターで揚げたのを入れると結構です。赤茄子は畠へ作ると沢山出来ますが食べ馴れない人は知らないで珍重しません。食べ馴れると実に美味いものです。赤茄子の中をくり抜いて胡瓜や茄子へ肉を詰めた通りに詰めてテンピで焼いても結構です。何でも最初食べ馴れない物を人に御馳走する時は不味拵えて懲々させるとモーいけません」(第225 赤茄子)

 トマトスープは「病人の食物調理法」の一つとしても登場しますが、こちらにはトマトの缶詰が紹介されています。

第四十四 トマトスープは赤茄子の事ですが生ならば二斤ほどのトマトを一つ一つ二つに割って種や汁を絞り出して水を少しも入れずに弱い火で四十分間煮ます。それでも水が出ますから水を切って裏漉しにして一合のスープへ混ぜて十分間煮て塩味の外に砂糖を小匙一杯ほど加えて出します。鑵詰の物はそのまま水を切って裏漉しにします。これには牛乳も玉子も要いりません」(付録)

 こうしてみると、『食道楽』では生・缶詰のトマトとビン詰のトマトソースとして、シチューなどの煮込み料理か、カツレツ等のソースの材料として使われているようです。

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 ちなみに、『食道楽』には「食道楽料理法索引」がちゃんと載っています(明治人は綿密ですね)。「索引は五十音に別ちたり、読者の便利の為ため正式の仮名によらず、オとヲ、イとヰ、の類るいは皆近ちかきものに入いれたり」とあります。

 その索引に登場するトマト関係は、以下の通りです。

シタフトマト(スタッフドトマトですね)   秋   第二百三十一 暑中の飲物
トマトソース                夏   第百七十五 徳用料理
トマトスープ                秋   第二百二十五 赤茄子あかなす
トマトシチュー               秋   第二百三十一 暑中の飲物
トマトスープ                冬付録 病人の食物調理法の「第四十四 トマトスープ」

ケチャップの歴史2~トマト・ケチャップ出世譚:食について Part19

2020 6/15 総合政策学部の皆さんへ

 ケッチャプの歴史2は、トマトケチャップの材料であるトマトの歴史から入りたいと思います。そもそも皆さんは、トマトが中南米原産であることをご存じですか?

 1492年のクリストフォーロ・コロンボ(=クリストファー・コロンブス)の大西洋航路開拓から始まるヨーロッパ人の新大陸進出は、先住民たちにとってはヨーロッパ人がもたらした感染症による大量死(とくに天然痘)や、金銀をめぐる強奪を皮切りに現在にまで続く悲惨な運命に追い込みますが、奪った金銀よりもはるかに豊かなものを旧大陸に与えます。

 なお、コロンブスがもたらした旧大陸と新大陸間の植物(作物)、動物(家畜)、食物、人口(奴隷を含む)、病原体、鉄器、銃、思考(宗教)等に及ぶ様々な“交換”を近年は“コロンブス交換”と呼びます。

 それが一群の作物たちで、トウモロコシ、ジャガイモ、サツマイモ、キャッサバ(=近年、突然、日本人にも身近になったタピオカの原料)、タバコ(総体的には人類にとって利益だったか、害悪だったかは計りかねますが)、カボチャ、インゲンマメ、ピーナツ、トウガラシ、ココア、パイナップル、ゴム、そしてトマト等です。まったくの話、北方ヨーロッパ人はジャガイモによって飢えから救われますし、トウモロコシは世界三大穀物の一つにまで出世します。

 例えば、アフリカの市場を歩けば、そこで売っている作物の多くが新大陸起源であることに気づかざるをえません。さらにトウガラシ抜きのカレーや、同じくトウガラシ抜きのキムチを今や想像しにくくなっているように、たった500年間でこれらの作物は地球上に広がっていきます。

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 そのトマトですが、実は、最初は食物としてなかなか受け入れられなかった、という一つ話が洋の東西をとわず伝えられています。

Wikipediaでは、「1519年にメキシコへ上陸したエルナン・コルテスがその種を持ち帰ったのが始まりであるとされている。当時トマトは「poison apple」(毒リンゴ)とも呼ばれていた。なぜなら裕福な貴族達が使用していたピューター(錫合金)食器には鉛が多く含まれ、トマトの酸味で漏出して鉛中毒になっていたためである。鉛中毒の誤解が解けた後も、有毒植物であるベラドンナに似ていたため、毒であると信じる人も多く、最初は観賞用とされた」とあります。

 日本には17世紀中期頃に、オランダ人が長崎の出島に種子を持ち込んだのが始まりだといわれていますが、食用としては普及せず、赤い実を珍しがる、つまり観賞用植物だったとのことです。やはり日本人にとってもなかなか手を出す気になれなかったのかもしれません。そのトマトは日本では唐柿、赤茄子、蕃茄、小金瓜、珊瑚樹茄子等と呼ばれたそうです。

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 このあたりで私の個人的な記憶にもつながってくるところですが、それは私の母方の曾祖母に遡ります。新潟で育った新穂イク(旧姓柾谷)は新潟の海鮮問屋の末裔のためか、なんでも進取の気性に富み、どこで覚えた知識なのか、石油の一斗缶を工夫して手製の天火(オープン)を作り、カステラを焼いたりしていたそうですが、1920年頃、コロナウィルスのお陰で最近人口に膾炙しているかのスペイン風邪で死亡します。

 そのイクが娘(私の祖母新穂信恵)を丈夫にそだてようと、横浜から“赤茄子”の苗を取り寄せ、育てた実を、これまたどこから聞いたか、お湯をかけて皮を湯剥きし、そこに砂糖をかけ娘に食べさせるのですが、当の娘は「こんなまずいものはない。食べるのに往生した」というのです。

 先に触れたようにイクはスペイン風邪で命を落としますが、その後、家庭内のいざこざから信恵はシングル・マザーとして遠く名古屋の地に住み着くことになるのですが(そのため、私自身、母方の祖父は顔も名前もまったく知りません)、その時はじめて「生のトマトに塩をかけて食べたら、こんなにうまいものだったのか!」と感嘆したということです。このあたり、まさに日本人のトマト受容史の一コマではあります。

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 とはいえ、日本でのトマト受容も急ピッチで進みます。カゴメ株式会社創設者の蟹江一太郎が、名古屋農業試験場の佐藤杉右衛門から種子を譲り受けて栽培を開始するのが1899年(私の祖母信恵が1897年生まれなので、信恵はこの時2歳、ほぼ同時代です)、作りすぎたトマトの処理のためトマトソース(ピューレ)を試作するのが1903年(信恵6歳)、そしてトマトケチャップとウースターソース製造に着手するのが1908年(信恵9歳)です!

1914年には共同出資で愛知トマトソース製造(資)を設立、1933年にはトマトジュース製造にも乗り出します(カゴメHP「カゴメの歴史」)。この頃にはすでに私の祖母信江は名古屋で小学校教師をしながら、私の母を育てていたわけです。

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 こうした時代経過をまざまざと示す文献に、明治期の小説家村井弦斎の『食道楽』(1903~1904)があります。そこには当然、「赤茄子」も登場しています(青空文庫『食道楽 秋の巻』)。少し引用してみましょう。ちなみに、信恵はこの時6歳、ひょっとして曾祖母イクは村井弦斎を読んで、トマトを取り寄せたのかもしれません。

お登和嬢「ハイありますとも、先ず牛肉の生ならば好く筋を除とらなければなりません。(略)それを肉挽で挽いて別にブラウンソース即ちバター大匙一杯を溶かしてメリケン粉大匙一杯を黒くなるまでいためてスープを大匙三杯に罎詰のトマトソース一杯入れて塩胡椒で味をつけたソースを今の肉へ混ぜて生玉子を一つ入れて、ジャガ芋のゆでて裏漉にしたのを肉の分量と同じ位入れて皆みんな一緒によく混ぜ合せます。それを長くでも平たくでも手で好きな形に丸めてフライパンでバターを入れて焼きますが上等にすればその外に玉子を湯の中へ割って落して半熟に湯煮て肉の上へ載せて別にブラウンソースをかけて出します。これはドライハッシといって御老人なんぞにはどんなに好いお料理でございましょう」(第224 西洋の葛餅)

 そして、第232に赤茄子ジャムの記事がでてきます。「玉江嬢「私どもでも今年はトマトの苗を買って植えましたが沢山出来過ぎると始末しまつに困こまりますね」お登和嬢「イイエ、赤茄子は沢山あっても決して始末に困りません。トマトソースを取っておいてもトマトのジャムを拵えておいても、年中何に調法するか知れません。トマトソースを取りますのは赤茄子を二つに割って水と種を絞って鍋へ入れて弱い火で四十分間煮てそれを裏漉にして徳利のような物へ入れて一時間ばかり湯煎にしてそれから壜へ詰めて口の栓を確りしておけば何時でも持ちます。(略)。トマトの皮を剥いたらば二つに割って種と水とを絞ってトマト1斤ならば砂糖も同じく一斤の割でザラメ糖か角砂糖をかけてそのまま3、4時間置くと砂糖が溶けてトマトの液が出ます。それを最初は強い火にかけて上へ浮いて来るアクを幾度も丁寧に掬い取って30分間煮てアクがいよいよ出なくなったら火を弱くして1時間煮詰めるのです。煮詰める時決して掻かき廻まわしてはいけません。アクを幾度も丁寧に取らないと出来上った時色が悪くなります」(略)「赤茄子のジャムは売物にありませんからお家で沢山拵こしらえておおきなさいまし

 ちなみに、『食道楽 秋の巻』にはケチャップの文字は見当たらないようで、どうやらこの赤茄子ジャムこそトマトケチャップに近いかもしれません。日本ではどうやらトマトはまずトマトソースとして、次にトマトジャム(トマトケチャプ)として料理の材料に取り入れられていったようです。生野菜としての受容はさらにその先だったかもしれません。

 当然のことですが、食道楽の頃には、トマトジャムの市販品がなかったこともわかってきます。ちなみに、トマトソースについては「生の赤茄子のない時には壜詰のトマトソースを同じ分量で加えますが味は生の物に及びません」とありますから、カゴメが市販品を出すのとほぼ同時期になります。

ケチャップの歴史1:食についてPart18

2020 4/22 総合政策学部の皆さんへ

 今回の話題は“ケチャップ(英名:ketchup)”です。とはいえ、ここではあえてトマト・ケチャップと言っておきましょう。というのも、世界にはいろいろなケチャップがあるからです。

 といきなり言われても何のことか見当がつかない、トマト・ケチャップ以外のケチャップって? ととまどう方も多いでしょう。それでは一つ質問です。ケチャップとはそもそも何語でしょうか? 皆さんご存じでしょうか?

 日本語版Wikipediaの「ケチャップ」の項には、「1690年に出版された北アメリカの辞書 A New Dictionary of the Terms Ancient and Modern of the Canting Crewにketchup、1699年に出版されたイギリスの飲食用語辞書 BE’s Dictionary of the Canting Crew of 1699にcatchupという言葉が収録され、説明として「東インド奥地のソース(a high East-India Sauce)」と記されていた」とあります。

 この東インドとは、「インド東部」ではなく、「アジア・極東・東洋。狭義には東インド諸島・オランダ領東インド」のことで、つまりは英語ではないのです。17世紀後半から19世紀にかけて、イギリス帝国主義勃興期、様々な外来語が英語にはいってきました。「バンガロー」はヒンディー語の बंगाल(バングラ=ベンガル風)という言葉に由来し、「バラック」はカタルーニャ語の「barraca」から、キャラコ(インド産の平織りの綿布)はインドのカリカット港の名前に由来します。ケチャップもその一つなのです。

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 では、東インドのケチャップとは何か? Wikipediaでは「ケチャップというと日本ではトマトケチャップのことを指すが、インドネシア語ではソース全般を指し、語源は東南アジアで使われている福建語の”ke-zyap 鮭汁”といわれている」。つまり、Ke-zyap(鮭汁;福建語)⇒kecap(インドネシア語=もともとはマレー語のスマトラ・リアウ州の方言)⇒catchup、catsup(イギリス)⇒ketchup (現代アメリカ英語)と変化した次第です。

 なお、“鮭汁”とは「閩南語や台湾語では、小魚やエビの塩辛から分離した液体を kechiap、koechiap(鮭汁ケーチアッ)」と呼ぶとのことで(Wikipedia)、要するに魚醤のことですね。この場合、中国で使われる漢字の“鮭”とは「フグを指し、サケという意味は日本での国訓で」なのだそうです。したがって、“鮭汁”とあっても日本のサケが材料ではありません。

 インドネシア語でのケチャップはさらに、ケチャップマニス(甘いケチャップ)とケチャップアシン(辛いケチャップ)にわかれるそうですが、前者がより一般的だということです。ケチャップマニスの作り方は「大豆と小麦を発酵させ、パームシュガー、塩などを加えてつくられる」(Wikipedia)とありますから、醤油に糖分が混じっているようなものだとも言えます。皆さんも神戸の南京町の商店の奥の方に入り込むと、その世界が見えてくるはずです。

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 このケチャップがヨーロッパではさらに分かれていくというのが食べ物の面白いところで、イギリスではまずキノコを使った発酵食品になります。すなわち、「キノコの保存調味料(Mushroom ketchup)、キノコに塩を振り、2・3日置いてからしみ出た汁を香辛料と煮詰めたもの)」(Wikipedia)となります。さらに「カキ、アンチョビ、ロブスターといった魚介類や、クルミ、インゲンマメ、キュウリ、ブルーベリー、クランベリー、レモンそしてブドウなど植物素材を材料とするソースが考案され、様々なスパイスが加えられるなどして変化しながらバリエーションを増やしていった」というわけなのですが、さらにアメリカに渡ると中南米原産の作物、トマトとの劇的な出会いが生じる。これがトマトケッチャプなのです。

 ですからトマトケチャップは根っからのアメリカ食品。ケチャップと聞いて、トマト・ケチャップしか頭に浮かばないようでは、イギリス人あたりに「君はアメリカ文明、あるいはハリウッド文化にすっかり染められているんだね」とからかわれてしまうかもしれません。

 昔、ある冒険活劇通俗小説のなかで(もうすっかりタイトルも、作者が誰かも忘れてしまいましたが)、イギリスの上流階級出身でギャンブル狂の海軍軍人が「もしも俺の頭のなかが狂ってしまったら」と妄想をはじめ、「あのアメリカ人のように、なんにでもケチャップを振りかけたりするんだろうか!!」と慨嘆するシーンがでてきたのをうろ覚えしています。

 Wikipediaでも逸話として、「2016年アメリカ合衆国大統領選挙を経て大統領になったドナルド・トランプは、ウェルダンに焼いたビーフステーキにトマトケチャップをかける食事風景が話題になり、洗練された味覚とはかけ離れている、または素材を台無しにするといった批判を受けることも多いが、依然として外遊先の食事にトマトケチャップを用意させるなど、外交儀礼よりも自身の好みを優先させる方向性は改まることがない」とつけくわえていますが、あなたはケチャップ派? それともマヨラー? もちろん、どちらも好き、という方でもかまいませんが。

塩を考える-過剰と不足:食についてPart.17

2019 6/4 総合政策学部の皆さんへ

 食を考える人類学、本日の話題は“塩”です。

 “塩”についてのもっとも気が利いている逸話は、徳川家康とその側室英勝院(お勝、あるいはお梶)のやり取りかもしれません。ある日、家康が部下に「食べ物でおいしいものは何か」とご下問、答えが定まらず、そこでかたわらのお勝に尋ねると、「それは塩でございます」と断言します。塩がなければ、どのようなものも美味しくない。「それでは、食べ物でまずいものは?」と重ねて尋ねると、「それも塩でございます」、塩が多すぎればどのようなものも美味しくなくなる、と答えたという説話です。不足すれば困る、かつ、多すぎても困る。最適値がどこかにあるはずだ、というまことに蘊蓄のこもったアネクドートです。かくも賢いスタッフを身のまわりに侍らしているというところこそ、家康のすごみであり、かつ、最終的に天下をとった由縁なのかもしれません。まさに「権現様」なのです。

 このような「過ぎたるは及ばざるがごとし」の見本のような塩ですが、先日、若い頃から一度訪れてみたかったウズベキスタンサマルカンドに残されたウルグベク天文台跡を見物すべく、ツアー旅行に加わると、ウズベキスタンの大地にはところどころうっすらと白いものが。試しになめてみると、かすかに塩の味がして、これが授業でも時々口にしていた塩類集積か! とちょっと感激しました。もっとも、ソ連時代に「計画経済によって綿花栽培の役割を割り当てられた過去があり、そのため近年になって鉱産資源の開発が進むまでは綿花のモノカルチャー経済に近い状態だった。・・・・しかしウズベキスタンは元来降水量が少なく綿花の栽培には向いていない土地であったため、近年においては灌漑元であるアラル海の縮小や塩害などに悩まされている」(Wikipedia)わけで、現地の方にとっては悩みの種なのです。

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 その塩ですが、40年ほど前、JICAの派遣専門家として西部タンザニアのマハレ山塊国立公園で2年間を過ごしていた頃です。それこそ計画経済がうまくいかず(そもそも国家統計の基盤がないアフリカで、計画経済ができるはずがない)、1980年代後半にIMFの構造調整の軍門に下る前の、社会主義政策末期、135kmも離れたキゴマの市場に行こうと、まったくたまに首都のダル・エス・サラームのマーケットをのぞこうと、店の棚にはなにもない、という状態でしたが、塩はさすがに置いてありました。これがなければやっぱりやばいというところです。

 海岸からはるかに離れた、いわばアフリカのど真ん中のキゴマの市場で売っている塩(スワヒリ語ではchumbi) は海の塩ではなく、岩塩で薄茶色の大きな砂粒のようなもの、なかなか溶けないので料理には手強かったのを覚えています。ある日、ふと思いたって、住んでいた小屋の前に板をおき、そこにこんもり、岩塩を盛ってみました。その昔、ロシアでは「猟師がシカを撃つのに、森の中に塩の袋を置いて、そこで待ち伏せして捕っていたが、ある年、皇帝がさすがにそれは残酷だ、と禁止した」という話を思い出したのです。

 すると、なんと、3日後には野生のブッシュバックTragelaphus scriptus)があらわれ、それまでまったく慣れておらず、我々に近寄りさえしなかったのに、その塩をなめ始めたのには驚きました。そも、それまで塩など口にしたこともないはずなのに、さらに、どうしてそれを塩と気づいたのか? 謎だらけです。それにしても、野生動物にとって塩が貴重品であることを、あらためて思い知らされた次第です。

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 また、ある日、トイレに入って仰天したこともあります。トイレは小屋から10mほど離れた場所に、大きな穴を掘って、その穴に板を掛け渡し、中をみえないようにアシの類で囲いをつくり、屋根にトタンをかぶせた粗末なもので、しかし、誰もいないマハレの山の中ではそれで充分というものでした。

 そのトイレに掛け渡している板に、小便などがかかって、だんだん塩類がこびりついていたのですが、その“塩”を巨大なヤマアラシがなめていたのです。たぶんアフリカタテガミヤマアラシ(Hystrix cristata)だと思うのですが、そちらも私にびっくり仰天、長い棘をいっせいにたてたので、直径1mほどはあるかと思われる針山が、どうしよう!とあせりながら、トイレの中でぐるぐるまわっています。

 もちろん、こちらも「危険を察知すると、ヤマアラシはその針をぴっぴっと飛ばす」などという怪しげな噂を耳にしているので、こわいものみたさに、その囲いごしに眺めていると、ふっと思い立ったのか、その棘をさっとおさめて、囲いのすきまをするっと通り抜け、またぱっと棘をたて、月光をあびながら、さしわたし1mの針山がシャラシャラと音を立てながら、藪の中をきえていくのを見送りました。

エコを突き詰めれば:シロアリのカラアゲとサトウキビ・ジュースのセットは?

2018 11/2 総合政策学部の皆さんへ

 1995年に関学に総政が開設された時、“環境政策”がとくに強調されていた記憶が残っています。初代学部長が、日本の環境経済学を伐り開いたパイオニアの一人、故天野明弘先生だったこともあり、また、開設後3年目の1997年には京都議定書で知られる第3回気候変動枠組条約締約国会議(地球温暖化防止京都会議、COP3)が日本で開催されるなど、環境政策の機運も高まったのですが、その後、学科も増えて、だんだん環境政策の存在が薄くなってきているような塩梅でもあります。

 ということで、今日はちょっと趣向を変え、皆さんがエコを突き詰めれば、というよりも地球の人口爆発によって、地球という限られた資源で過剰な人口を支えるにはどうするか? という話をしてみたいと思います。

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 さて、独立栄養生物(=そのほとんどは光合成をおこなう植物等)ならぬ我々が、植物にどのように寄生することで人口を支えるのか? 一つは、我々=人類が利用できない植物資源を、我々が利用可能なものに変換することではないでしょうか?

 という課題を考えていると、(決して唯一無二の手段である、と強弁するつもりはさらさらないのですが、私がまず考えるのは植物がせっせと生産しながら人を含む霊長類が利用できない食物エネルギー資源=繊維分(セルロース)を、我々が消化可能な栄養物に変えてくれるシロアリさんではないかと思います。

 Wikipediaによれば、「食物は主に枯死した植物で、その主成分はセルロースである」、そして「林や草原における枯木や落葉などの16~60%が、シロアリの身体を通ることで一般の動植物が再利用できるものに変えられ、生態系維持に重要な役割を果たす」。つまり、自然の生態系において、なかなか生分解しない枯木や枯れ葉のセルロースを(腸内微生物の助けを借りて)分解・利用することで、自らが他の生物に食べられ、自然の食物連鎖とエネルギー・フローを促進する、静脈産業としての重要な働き、それを我々人類が利用するのはどうでしょう? ということにほかなりません。

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 妄想を逞しくすれば、例えば遺伝子改変でエビぐらいの大きさのシロアリに品種改良し、繊維分を餌にして増やした後、カラアゲ・フライとして食すのはどうでしょう。というのも、昔、アフリカで調査していた頃には、シロアリの羽化の季節、市場にいけばシロアリを食材として売っていたし、チンパンジーの調査フィールドでも羽化が始まれば、シロアリ塚から飛び立つ羽アリを簡単に捕まえ、それをフライパンで煎ると小エビのような味がしたのを覚えています(ちなみに、チンパンジーも、アカオザルのような“サル”も、ニワトリも、トカゲも、カエルも狂喜乱舞で羽アリ喰いに殺到していました。

 こうすればあまたの廃材も食料資源に化すだけでなく、シロアリの糞は畑を肥やす肥料にもなる!

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 そのシロアリのカラアゲに添える飲物には、サトウキビジュースがベストかもしれません。

 なにしろ、サトウキビの生産性は高い!(最近、ネットなどで目にする某政治家が発した“生産性”ではなく、正真正銘の生態系における生産性のことです)。

 ある資料によれば、近代的農業においてムギの生産性は最高値で1,715kcal/㎡(世界平均で560kcal/㎡)、トウモロコシの最高値が2,000kcal/㎡(同1,030kcal/㎡)、この目の最高値が2,230kacl/㎡(同950kcal/㎡)、ジャガイモが2,650kcal/㎡(同1,250kcal/㎡)なのに対して、サトウキビは最高値6,740kcal/㎡(同1,435/㎡;平均値はテンサイの生産性も含まれる)。サトウキビがエネルギー生産性ではダントツです(もっとも、蛋白質は1%にとどまり、12%の麦、10%のトウモロコシ・米に遅れをとっています;なお、ジャガイモは2%)。もっとも、砂糖にまで精製するとそのためのエネルギーが余分にかかるので、エネルギー的にはサトウキビ・ジュースとして絞りたてで摂取するのが望ましいでしょう。

 サトウキビで足りないタンパク質は、上記シロアリで補えばよい。となると、人口爆発で切羽詰まった場合、とりあえずサトウキビ生産でカロリーを確保した上で、シロアリに木材(あるいはサトウキビの枯れ葉・茎)を餌として与えることでタンパク質・脂質を確保するのも、あながちとんでもないことではないのかもしれません。

子供の頃の読書で違和感を覚えたことがら等々:食についてPart16

2018 3/10 総合政策学部の皆さんへ

 子供の頃、『少年少女世界文学全集』のような子供向けダイジェスト版を読みふけった/むりやり読まされた方も多いかもしれません。そして、成長後に原作を再読すると印象が一変/一驚! あるいは、なまじ“予備知識”があるため原作を読む楽しみもそがれ、ネタバレ気分になることもあるかもしれません。

 私がそんな本を手にしていた頃からすでに半世紀! かつて東北の一地方の盆地で育ち、12歳まで海を見たことがない生活では、外国の日常もわかりかね、文字だけではよく理解できない事柄に“食”の世界がありました。例えば、『家なき子』の冒頭近く、主人公レミの養母が食事を作ろうとすると、不在だった夫が突然あらわれ「スープを作れ」と強要、養母が「材料がない」と応えると、「そこに玉葱とバターがあるじゃないか。それでスープができるはずだ」と命じる場面をかすかに記憶しています。

 子供心に「玉葱とバターでスープが???」と思ったのですが、もちろん、長じればそれがオニオンスープであることにようよう気付くという有様でした。

 そう言えば、この『家なき子』では、レミが友達のかわりに炭鉱に入って、出水事故で坑道に閉じ込められるというエピソードも子供心に強烈でしたが、あれはまさに19世紀半ばの児童労働で、そのあたりはヒューエコのネタの一つにしています。

 同じような例では、『トム・ソーヤーの冒険』で子供3人で家出、川中の小島に隠れ住むというエピソードで、友の一人が家から「半身のベーコン」を担いできたため、すっかりくたくたになってしまったという文章があるのですが、当時の日本、ベーコンと言えば(いまや高級食材になってしまった)クジラのベーコンしか連想できず、「クジラの半身!!」もあんまりなので、何か間違いがあると感じつつ、長じて初めて豚のベーコンであることに気付く始末でした。

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 さて、私が子供の頃にまったく理解できなかった翻訳例に、イギリスの動物コレクターにしてエッセイストのジェラルド・ダレルの記録に出てくる“ワニナシ”があります。

 英名“alligator pear”を直訳すれば“ワニナシ”ですが、「果実の表皮が動物のワニの肌に似ていることに由来する英語での別称」(Wikipeida)ということで、今では“アボカド”で知られている果物なのですが、当然、幼い私にはまったく想像できません。ちなみに、アボカドという名称は中米スペイン語の「アグアカテ/アワカテ」 (aguacate/ahuacate)、ポルトガル語の「アバカテ」 (abacate) などから来ているとのことですが、これは先住民の方々が話すナワトル語の「アーワカトル」 (āhuacatl) からとも、近隣のトトナコ語からの借用であるとも言われているそうです。

 一方、私自身の完全な誤読の例には、サマセット・モームの東南アジアものを読んでいると、蒸留酒のジンビターを加えるシーンで、ビターをバターと誤読して、「酒にバターをいれるとは?」と不思議に思った記憶もあります。そんなわけで、初めて海外に出かけたスマトラの山奥で、イギリス人若夫婦の台所をのぞくと、ジンの空き瓶がずらっと並んでいて、「おおっ、これがモームの世界か」と感激したものでした。

 それが今ではクックパッドなどでオニオンスープを検索すれば、“簡単シンプル♪とろとろオニオンスープ”の作り方を懇切丁寧に教えてくれる時代、豚肉のベーコンはおろか、アボガドもごくごく普通の食べ物となり、逆に、クジラのベーコンは捕鯨の衰退でいまや希少になってしまいました。

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さて、今回のトピックの最後はパスタです。子供の頃、「イタリアのスバゲッティとは、その昔はるか元の都まで旅をしたマルコ・ポーロによって、中国からもたらされた」という話を何度も耳にして、ついしっかり信じ込んでしまった記憶があります。ところが、長じれば、どうもその説では理解できない文章に気付きます。

 例えば、このブログでしばしば触れるイタリアの歴史作家モンタネリの『ローマの歴史』では、ローマ帝国最初の皇帝アウグストゥスの御代の大詩人ホラティウスが“皇帝賛美”の美辞麗句に満ちた叙事詩をむりやり書かされ、「ひいひい泣きながらやっとしまりのない冗長な作を仕上げ」ながら、友人に向けて書いた『書簡体詩』(この友人こそが、現代にも“メセナ”という言葉に名前が残る大富豪・アウグストスを支えた政治家・財政家にして、芸術の大パトロンマエケナス)や、アイロニカルなユーモアに満ちた『風刺詩集』こそ傑作になった、という記述のあと、晩年、家にこもりがちになり「自家製のスパゲッティ2皿、牛肉の煮込みに焼きりんご、これ以外のものは食べられなかった」と続きます。

 えっ、スパゲッティ! ホラテイウスが生きていたのはBC65~8年、マルコ・ポーロはAD1254~1324。1300年も前にすでにイタリアにはスパゲッティがあるのか! というのが、このくだりを最初に眼にした時の感想です。

 Wikipediaの「パスタ」を調べれば「イタリア半島におけるパスタの歴史は大変古い。チェルヴェーテリにある紀元前4世紀のエトルリア人の遺跡からは現在のものとほぼ同じ形態のパスタを作る道具が出土している。古代ローマ時代にはラガーナ (lagana) というパスタがあったが、現在のように茹でて食べるものではなく、焼いたり揚げたりして食べた」とあります。

 次に、Wikipediaの「マルコ・ポーロ」を閲覧すると、マルコ・ポーロ=スパゲッテイ紹介者説には「否定論もあり、16世紀に『世界の叙述』をラムージオが校訂した際に紛れ込んだ誤りのひとつで、イタリアのパスタと中国に麺類に関連性は無いとも言われる」とあります。

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 よく考えれば、スパゲッティとはパスタという一群の食品のなかの一つです。そうした食品群がそもそも存在している中、スパゲッティだけがマルコ/ポーロが持ち帰ったものだというのもおかしな話です。さらに、サイトの中にはマルコ・ポーロが紹介したのはマカロニとするものもあります。こちらもWikipediaでは、「俗説ではマルコ・ポーロが中国から持ち帰った小麦粉を練った食べ物を教皇に献上した際、あまりの味の良さに「おお、すばらしい(Ma Caroni)」といったことが命名の由来とされているが、マルコ・ポーロが帰国したのが1295年で、その前の1279年にジェノヴァの公証人が作成した財産目録に「マカロニ一杯の箱」とあり、名称の由来ともども中国から持ち帰ったとする説も、認められるものではない」とあります。パスタ、マカロニ、スパゲッティ、きちんとした分類を頭に入れておかないと、その系統関係も乱れてしまいます(分類学はことほど重要です)。

 明治維新以来、日本には海外から様々な“新知識”が流れ込みますが、その際に持ち込まれた誤説・珍説の類がそのまま(あたかも都市伝説のように)生き残る。こうした例の一つが、このマルコ・ポーロ=スパゲッティ紹介者説かもしれません。これが“食”の世界ならば、まあまあ罪もないわけですが、いわゆる陰謀説のような怪しげな俗説がそこここに残っているような気もしないではありません。

ものを食うということについてPart2:様々な食の形、巣鴨プリズンの朝食から

2015 2/23 総合政策学部の皆さんへ

 この世の中には、時折、食について詳細を描き残す方々がいます。そこに描かれる様々な食の光景に、自ずとヒトの本質が浮かび上がってくるかもしれない、それが本日のテーマです。

 例えば、昭和23年9月26日(日)曇時々小雨の巣鴨プリズンで、太平洋戦争開戦時の東条英機内閣の商工大臣(後の総理大臣、さらには「昭和の妖怪」の徒名を欲しいままにした、そして安倍現首相の祖父たる)岸信介は、刑務所の寒さに閉口しながら『罪と罰』(英訳)を読みふけり、「著者の深刻な人生観が身に迫るのを感ずる」と記した後で、その日の食事を記録します(それにしても、刑務所で英訳本の『罪と罰』を読む。

 現在の政治家のなかでこんな方はいるでしょうか? しかも、正式に起訴されて有罪を言い渡されれば、死刑もありうる状況で!)。その日、岸がとった食事は、以下の通りですが、ピーナツバターとあるのを見れば、いかにもアメリカ進駐軍からのあてがいぶちという感じです。

 朝:饅頭(パンのことか?)、ピーナツバタ、濃汁(ポタージュか?)、ゼリー、珈琲
 昼:白鶉豆入飯、味噌汁、烏賊煮付け、巴旦杏3個、茶
 夜:米飯、キャベツ汁、アメリカ味噌汁
(この表現がしばしば出てくるのですが、詳細不明)、コーンビーフ馬鈴薯入雑煮、茶 
 そして短歌が1首「秋雨の降りしくひとや冷えぬれど衣重ねむすべもあらなく

  9月29日は以下のとおりです。
 朝:饅頭、チョコレート、味噌汁、素キャベツ、珈琲
 昼:米飯、粉卵汁、缶詰牛肉タマネギ人参入雑煮、トマトジュウス、茶
 夜:米飯、アメリカ味噌入汁、鰺煮付け、白鶉豆砂糖煮、茶
そして同じく短歌が一首「虫の音は寂しきものと知り乍ら待てども泣かぬ夜の寂しき

  なお、『岸信介の回想』では出獄後の回想で「弟(のちの第61~63代首相佐藤栄作)はちょうど内閣の方に行っていて、しばらく待ったら帰ってきた。ちょうど昼飯の時間で何か好きなものがあるなら食べさせる、というので、巣鴨にいる間、3、4回マグロの刺身が出たことがあって、二切れしかなかったけれど、実にうまかった。他日出獄した折にはマグロの刺身を腹一杯食べてみたいと思っていた、というと、大きな皿に盛ったマグロの刺身をとってくれた。ところが食べていると、いっこうにうまくないんだよ(笑)。それでね、落語にあるでしょう、目黒のサンマ。こっちは巣鴨のマグロなんだ、マグロは巣鴨に限る(笑)」。

 やはり、政治家というもの、なかんづく「昭和の妖怪」とまでうたわれた人はそれなりの覚悟と、そして鋭い感性の持ち主のようです。

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 その岸がアメリカ駐留(占領)軍のお仕着せによる食事を喫するその数年前の1945年8月15日(ご存じ、終戦の日)、3月10日の東京大空襲で長年住み慣れた偏奇館を焼け出された永井壮吉こと金阜山人あるいは断腸亭主人、すなわち小説家永井荷風は疎開先の岡山で、これまでと同様に出口の見えない朝を迎えます。

 8月15日。陰りて風涼し。宿屋の朝飯、雞卵、玉葱味噌汁、はやつけ焼、茄子香の物なり。これも今の世にては八百善の料理を食するが如き心地なり。『断腸亭日乗』)

 彼は前日、同じく疎開中の作家谷崎潤一郎から「津山の町より牛肉を買ひたればすぐお出ありたしと言ふ。急ぎ小野旅館にいたるに日本酒もまたあたためられたり。細君下戸ならず。談話頗る興あり。9時過辞して客舎にかへる。深更警報を聞きしがおきず」とあります(ちなみに、荷風が「酒」とか、「清酒」と書かずに「日本酒」と書いているのに、今はじめて気づきました)。

 なお、「細君」とは谷崎の愛妻、先日、水茎うるわしい書簡が発見された松子夫人にほかなりません。その谷崎は、かつて自らをひきたててくれた先輩荷風を懇切に世話します。上記8月15日の条を続ければ、

 「鉄道乗車券は谷崎君の手に既に訳もなく購ひ置かれたるを見る。雑談する中汽車の時刻迫り来たる。再開を約し、送られてともに裏道を歩み停車場にいたり、午前11時20分発の車に乗る」「出発の際谷崎君夫人の送られし弁当を食す。白米のむすびに昆布佃煮及牛肉を添えたり。欣喜措く能わず」そして岡山の宿に帰ると「今日正午ラヂオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりと言ふ。あたかも好し、日暮染物屋の婆、雞肉葡萄酒を持来る、休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ 

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 それにしても、終戦(あるいは、敗戦、そして荷風は「休戦」と書く、この言葉遣いの微妙さ。正確には戦闘行為が停止されたので、荷風が記しように“休戦”とすべきかもしれません)の報に「あたかも好し」と思うかどうか、再び、「昭和の妖怪」岸に話を戻せば、『岸信介の回想』では以下の一問一答が展開します。

 8月15日の玉音放送を聞かれたのはお宅ですか。
岸 私はちょうどその時猩紅熱にかかっておりまして、家で寝ていたんですが、病床であの放送を拝聴したんです。
- そのときのお気持ちはいかがでしたか。
岸 今言ったように戦争はやめなきゃならんと思っておったけれども、ああいう全面降伏、そして陛下からああいうお言葉を賜ったということで、ほんとうに魂が抜け出たような気持ちでしたね。(略)
岸 第一段に考えたのは、どうせわれわれはアメリカ軍に捕らわれて、裁判にかけられるだろう。それは覚悟しなきゃならんが、これだけ破壊された日本を将来長きにわたって、どうして復興するか、これは自分の一生にはできないことだろうけれども、われわれが戦争指導者であった責任からいって、長い目でみて、日本の将来の基礎をつくらねばならない、それにはどうしたらいいかを考えましたね

 と結んでいます。 

ものを食うということについてPart1:“保守”と“革新”、そして“共に食べる”ことの意味について

2015 1/25 総合政策学部の皆さんへ

 「ワニの心地よきまどろみ」に引き続き、“保守”について考えましょう。例えば、人類学では“ものを食らう”ということは、なかなか興味深い事柄です。まず、サル・類人猿のたぐいから、“食”についてずっと保守的な傾向があると思っています。

  これはただ単純に“自然”には“”がいっぱいで、“消化”できないものもあるからでしょう(したがって、私自身は“自然食品”という言葉にいつも戸惑いと疑いを持ってしまいます。自然だからといって、良いことばかりではないのに!)。

  何でも食えるわけでないのならば、食えるものを覚えておかねばならないし、その上で、食ってもよいかわからないものには、手を出さない方がよい。これが“保守”の一つのあり方ではないか、と私は思っています。

  つまりは、新しいこと(=新儀)停止、武家諸法度から鴻池家訓まで、日本におなじみの台詞ですが、それなりの根拠はある。なぜなら、新しいことには必ずコストがかかり、かつ、リスクがある。それならば、“新しいこと”には手を出すまい、と堅く心に誓うのです!

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 それでは、食について保守的立場をとるべきか? それとも新でいくか? 例えばチンパンジーは(キイロヒヒのようなオナガザル科のサルたちに比べても)かなり“保守”的という印象です。つまり、食べることができるものにもなかなか手をつけない。

  私がその昔つきあっていた東アフリカのマハレ山塊国立公園のチンパンジーでは、10年一日、ヒトが導入した移入種(作物)であるアブラヤシ、マンゴー、レモン、グアバ、パイナップル、パパイヤの脇を行進しながら、いっこうにそれらに手を出さない。対照的に、“がさつ”なヒヒ等はあっという間に農作物の味を覚えて、畑荒らしをしてしまうのに。ちょっと不思議な気がしました。

 それが1980年代前半、私がJICAの専門家をしていた頃ですが、ある日突然レモンを食べ出す。すると、あっという間にチンパンジーたちに広がり、“常食”になってしまう。

  いったん“納得”してしまえば、伝播は早いのです。しかも、もっともらしげに木に登り、レモンの実をしげしげと眺め、指で堅さを確かめて、おもむろに選んだやつにかぶりつく。

  なんとなく、微笑ましいというか、ほのぼのとした印象でした。“保守”であるが、いったん食べ始めると“軽躁”な印象さえ感じられる“流行”ぶりです。我々のご先祖であるアウストラロピテクスあたりもこんな風だったかもしれません(このケースを報告した私の論文のURLがhttp://link.springer.com/article/10.1007/BF02436585です)。

 ちなみに、同時期、マンゴーとグアバも口にし始めますが、それでもレモンへの嗜好に比べると、ちょっと食べてみる、程度の印象にとどまります。それでは、なぜ、彼らが突然、レモンに目覚めたのか? そして、流行の度合いが他の2種とどうして違うのか? そのあたりはいまだ謎のままです。

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 さて、もう一方で、動物学者と人類学者を両方兼ねている視点から見れば、ヒトは“動物”的な気配を示すことを嫌います。何が動物的か? 例えば、“性”ですね。“寝る”こともそうかもしれません(みんなにじろじろ観られながら、寝入ることは結構難しいのでは)。これらはきわめて“個人的なこと”、人目をさけて行われます。

  そして、もう一つ、動物として必須の行為が“食”かもしれません。ヒトにじろじろ見られては、食べる気がしませんよね。こうして食はきわめて“個人的”なことになります。他の方が食事しているところをのぞき込めば、それはかなり不躾なことですよね。逆に、群衆の中で、独りで孤立して食べている光景が、それを見られることさえ、苦痛になってしまうかもしれない。それがあまりに特化した一つのイメージが、“トイレ飯/便所飯”(いわゆるランチメイト症候群)をめぐる言説かもしれません。

 さらに、その一方で、はなはだ逆説的ながら、「きわめて“個人的なアフェア”であるはずの食を、ともにする/ともにしない」ということで、食はコミュニケーションの手段にもなります。それは、ひょっとしたら、毒があるかもしれない食物を分かち合うことでもある。

  また、本来互いに好き嫌いがあるはずなのに、“一つの食”をわけあうことでもある。それを行うこと自体が、互いの関係を確認しあうコミュニケーションになる。これが人類学でいうところの“共食”であり、“会食”なり、“一宿一飯”なり、“同じ釜の飯”になるわけです。

 なお、Wikipediaでは共食(共同飲食)について「 広義では特定の機会に家族・親族・地域社会・職場・趣味の仲間などの成員が集まって、同じ飲食物を共に飲食すること。狭義では同じ神を崇拝する集団(神職及び氏子)が祭りの後などに神饌や供物を共同して飲食すること。狭義のものを、「神と人が共に飲食すること」と捉えて神人共食(しんじんきょうしょく)と呼ばれる場合もある」と説明しています。神棚に食をささげることも、また“共食”の一つの形であり、神との共食、あるいは神の前での共食は人にとってきわめて重大なことになります。

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 もちろん、こうした共食のあり方は、もちろん、文化によって異なります。例えば、私が前後3年暮らした東アフリカでは、共食は男たちの食事と女子供の食事に分かれます。とくにイスラームの社会では、基本的に男女の性を強調するため、そうした光景がふつうにみられることになります。つまり、“子供”は性が重視されない年代で、その性が気になってしまうと、それが若者→大人への移行期になる、というわけでしょう。 

 そこでまたもう一つ感じることは、“共食”は言うまでもなく、食にまつわる文化を共有するところであり、また、その文化を伝承するところでもある。食べ物一つとってみても(何を食べるべきか?)、料理でも(どう料理すべきか?)、そして作法でも(どう食べるべきか?)、そして掟破り(とんでもない食べ物を持ってきたり、とんでもない料理をしてみたり、そしてエチケットにあわぬ食い方をしたり)にはもちろん“制裁”を課す(子供には叱る、ルール破りには避難する、陰口をきく、シカトする)。

 ここまで書いてみると、どうやら私でもやりかねないかもしれません。こうした制裁を避けようとすれば、言うまでもないことですが大勢に従う=ついに、“保守派”の勝利となる、となってしまいそうです。そのあたりも含めて、シリーズ化してみましょう。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...