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「老い」を考える1:ヒトとヒト以外の生き物を比べるとPart 1

2020 5/28 総合政策学部の皆さんへ

 今回のテーマは「老い」です。その中でも、他の生き物と比較した際にとりわけユニークなヒトの「老い」が持つ特徴、ということになります。わかっていただけますか?

 例えば、私が大学生だった頃にちょっとかじった水生昆虫の中でも、カゲロウトビケラカワゲラの仲間はいわゆる成虫期が著しく短いことで知られています。カゲロウは幼虫期を河川等の水中ですごしますが、それは半年~1年に及びます。一方、孵化して成虫になると、異性個体を探して交尾をし、産卵すると死にます。

 この成虫期のあまりの短さは学名にも反映され、カゲロウ目の学名はEphemeropteraですが、前半のephemera の「原義は epi = on, hemera = day (その日1日)で、カゲロウの寿命の短さに由来する」、つまり1日限りの命ということで(Wikipedia)。まさに“陽炎(かげろう)”に通じるはかなさです。

 しかし、よく考えてみると、成虫になるのは人生の数百分の1の間だけですから、ほとんどの人生は“幼虫期”、つまりコドモとして過ごす(この場合、コドモとは「性的に成熟していない時期」とほぼ同義)。一方で、成虫期はほとんど“性”にかかわるだけであり、かつ交尾・産卵(=次世代の再生産)が済めば、あとは死ぬしかない。彼らにとって大人とは、生と性と死が凝縮した1日になります。したがって、この世界に老いはほとんど存在しないのです。

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 もちろん、生態学の目線からは、繁殖と生を終えた彼らにも、果たすべき使命がまだ残っています。それは川の中の魚等の餌になることです。生態学でいう食物連鎖のピースとして、自分にとっても、また子供たちにとっても無用になった身体を他の生物の餌として捧げる(もちろん、意思があってそうしているわけではさらさらなく、ただそういう宿命をたんたんとこなしているだけなのですが)。

 そうした光景は、例えば、コミック『ヴィンランド・サガ』に登場する飲んだくれの修道士ヴィリバルドが、クヌート(のちのクヌート1世)に「あなたが愛と思っていたものは差別に過ぎない」と断じて、欲望の果てに戦死した者たちの死体がやがて他の生き物の糧になっていく様を指して「あれこそ[真実の愛です」と教えるくだりそのままです。

 もっとも、世の中にはさらに“悪い奴ら”がいます。そのカゲロウを模して、疑似餌(Fly)を作って、魚をだましたりします(=フライ・フィッシングのことで、もちろん、我々人間の業なのですが)。

 そういえば、昔、サマセット・モームの『作家の手帳』を読んでいたら、「彼はマス釣りが趣味なので、ポケットにいつもハエを入れていた」という一文に出くわして、よくわからなかった記憶があるのですが、もちろんこれはfly(毛バリ)をハエと誤訳していたのでした。皆さんも翻訳には注意しましょう。

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 それにしても「老い」とは何でしょう? Part2以降で詳しく説明したいと思いますが、それは「次世代の再生産が終わってもまだ生きている時期」が該当するでしょう。そうした老人が社会においてどのような処遇を受けているか? これが文化人類学が長く関心をよせたテーマの一つです。

 それでは、「老人」とは何歳からか? 皆さんはどう思いますか? (チコちゃんに叱られないように)日本では8世紀の養老律令が「61を老と為よ」と明記しています(令巻第4・戸令第8の6)。律令では近親者/近所の者に老齢者の扶養義務を課しますが、その対象は61歳以上で妻のない者、50歳以上で夫のいない者、61歳で子のない者、および66歳以上の老人(耆老)等です。律令時代、すでに老人介護が問題として取り上げられていたわけです。

 その一方で、律令での規定とまったく対照的な言説が“姥捨て伝説”です。Wikipediaでは「姥捨ての実際については、はっきりしたことは分かっていない。少なくとも古代から現代に至るまで、姥捨てやそれに類する法令などが日本国内にあったという公的記録はないが、民間伝承や姥捨て由来の地名が各地に残っている」としています。そんな言い伝えを巧みにフィクション化した作品に深沢七郎の小説『楢山節考』(1957)が有名です。近年では、ネイティブ・アメリカンの口承を小説化した『二人の老女』等があげられます(ウオーリス、1995)。

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 このように、老いは死に結び付いて考えられてきました。死をめぐる諸現象も民族・文化ごとに多様ですが、死者を社会的に「この世」から「あの世」に送り出す「社会的装置」が存在することは、全世界的に共通です。人生最後の通過儀礼としての葬制埋葬は、ネアンデルタール人から始まったと言われていますが、時代が進むにつれて儒教のような精緻な祖霊儀式を産みます。やがて死は公的色彩をおび、葬制が逆に社会を創り出すことにもなる。それが中世ヨーロッパの「兄弟団」だったり(阿部、1983)、アフリカの都市スラムでの民族共同体の形成です(松田、1996)。これらはヒトにこそ見られる特徴です。
 それでは、ヒト以外の霊長類について、こうしたヒトの「老い」や「死」に結び付く道筋をどこまでたどることができるのでしょうか? これが霊長類学の一つの課題だったのですが、to be continuedとします。

ビゴーの絵をもとに、日本の近代化を学ぼう!

2020 5/18 総合政策学部の皆さんへ

 その昔、ジョルジュ・フェルディナン・ビゴー(Georges Ferdinand Bigot, 1860~1927)という画家がいました。生まれはフランス、1882~1889年に日本に滞在、“優れた”風刺漫画を描き残します。

 この“優れた”とは、人類学的目線=「他者からの視点で、己の真実を知る」作品を意味していると思って下さい。ノーベル賞作家スタインベックの親友にして、傑作『キャナリー・ロウ』の主人公ドックのモデルにして海洋生態学者のE・リケッツが裁判沙汰に巻き込まれ、裁判所での審判の帰りにスタインベックに言った「みんな真実を憎んでいるんだ!」というセリフにあるように、本当はみんな気づきたくない己の真実の姿(それはギリシャ悲劇の登場人物メドゥーサの顔=「宝石のように輝く目を持ち、見たものを石に変える能力を持つ」(Wikipedia)のようなものですが)、それを示してくれる傑作というべきでしょう。

 もちろん、ビゴーによって「西洋人の目線から見た日本人の姿」を突き付けられた日本人にとって、それはあまり楽しいものではないかもしれません(もちろん、我々自身も、真実が嫌いなのです。真実を突き付けられた者は、私でもあなたでも、それがまるでメデューサの首であるかのように、視線を避けてしまう。あるいは、トランプ君のように怒り出す!!)。

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 それではWebでビゴーの絵を鑑賞できる手軽なサイトを探してみましょう。

 なかなかきちんとした紹介が見つからなかったのですが、川崎市民ミュージアムの「漫画コレクション」(http://kawasaki.iri-project.org/)に「『TOBAE』トバエ(第二次)ジョルジュ・ビゴー」というページがあり、ここにビゴーの主著の一つ『TOBAE』のNo.1、No.3~18、そしてNo.21が載っています。

 なお、解説文ではTOBAEとは「1887(明治20)年2月15日、ジョルジュ・ビゴー(Georges Bigot)が、横浜居留地で創刊した月2回刊行の時局諷刺漫画雑誌。チャールズ・ワーグマンの『ジャパン・パンチ』のあとをうけて、居留外国人に人気を博した。全号の表紙にピエロ姿のビゴー像が描かれている。月2回刊行で、3年弱の間、69号まで刊行された」と紹介されています。

 ところで、居留フランス人向けに出版されたTOBAEですが、「中江兆民とその門弟も協力して日本語のキャプションを付けていた」ので(Wikipedia)、日本人に対するメッセージ性もある程度意識していたのでしょう。

例えば、TOBAE(第二次)No.1は「制作年(西暦):1887年2月15日:創刊号。 収録作品「漁夫の利」 朝鮮を釣り上げようとしている日本と清国、スキあれば横取りしようとするロシアという構図で、日清戦争直前の極東情勢を諷刺している。ビゴー作品の中で最も有名な作品で、中学校・高校の歴史教科書や参考書などで紹介されている」とあります。皆さんもどこかで眼にしたはずのビゴーのカリカチュア、URLはhttp://kawasaki.iri-project.org/content/?doi=0447544/01800000HKです。あとは、ご自分でじっくりとこのカリカチュア(戯画)の神髄を味わってください。

 TOBAE創刊から10年後の1897年を描いた『『LE JAPON EN 1897』(1897年の日本)』も公開されており、「『神戸ヘラルド』『ジャパン・デイリー・メール』などの記事から、この1年間の珍しい話を漫画風にまとめた本。「日光物語」は英文、ほかの記事は仏文で書かれている」とのこと(http://kawasaki.iri-project.org/content/?doi=0447544/01800000HF)。

 さらにもう一つ、『LES AVENTURES DU CAPITAINE goudzougoudzou』(グズグズ大尉の色事)は同じ1897年ですが、説明文によると「好色なフランス人・グズグズ大尉が退役して日本へやってくる。しかし、その好色ぶりで失敗を繰り返し、失意のうちに帰国する、という物語が描かれている」。なにやら異国に滞在している自分自身を皮肉っているようにも見えないわけではありません。

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 川崎市民ミュージアムのアーカイブには、同じビゴーの『Croquis Japonais』(1886年)も掲載されています。こちらに掲載の絵は風俗画という範疇で、歴史学的には興味深い資料ですが、その昔、服部之総等が再発見して、日本の教科書類を席巻した風刺画の類はほとんどないようです。

 このあたり、画家ビゴーとしては日本をテーマとして風俗画と、時局的な戯画とどちらに個人的な重きを置いていたのか、そのあたりが気になるところです。

 なお、ビゴーの日本滞在は1882年1月(21歳)から始まり、1899年6月(39歳)に日本で結婚した佐野マスと離婚し、フランス国籍の長男を連れてフランスに帰国しています。彼の日本滞在後半とほぼ重なる時期に、フランスを離れて異郷の地で死んだ芸術家にポール・ゴーギャンがいます。彼のタヒチ滞在は1890年に始まり、いったんフランスに帰国するものの、再度タヒチに渡り、1903年、マルキーズ諸島で客死します。

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 ビゴーの作品、とくにそのカリカチュア的に表現された日本人像は日本人には嫌われ、あるいは無視されたため、その再評価は第2次世界大戦での敗戦を経て、マルクス主義歴史学者の服部之総主催の近代史研究会が日本の近現代史を取り上げる時まで待たねばなりません。そして、この研究会以降、ビゴーの絵は外国人から見た近代日本像として、戦前での一貫した無視をちゃぶ台返しをし、日本の教科書をいまも席巻しているのです。

 こうした本人ならびにその作品の数奇な運命を意識しつつ、その作品を日本の近代化の理解にあらためて役立てることこそ、総合政策にそうテーマかもしれません。

青べか物語にみるフィールドワーカーの苦悩と原罪:高畑ゼミの100冊#28

2020 5/15 総合政策学部の皆さんへ

 その昔、山本周五郎という文士がいました。Wikipediaでは「作風は時代小説、特に市井に生きる庶民や名も無き流れ者を描いた作品で本領を示す。また、伊達騒動に材を求めた『樅ノ木は残った』や、由井正雪を主人公とした『正雪記』などの歴史小説にも優れたものがある」とあります。本名清水三十六、1903年生まれで1967年死去、享年63歳。

 さて、山本が遺した作品のなかに『青べか物語』という逸品があります。文庫で出版している新潮社のHPでは「根戸川の下流にある浦粕という漁師町を訪れた私は、沖の百万坪と呼ばれる風景が気に入り、このうらぶれた町に住み着く。言葉巧みにボロ舟「青べか」を買わされ、やがて“蒸気河岸の先生”と呼ばれ、親しまれる。貧しく素朴だが、常識外れの狡猾さと愉快さを併せ持つ人々。その豊かな日々を、巧妙な筆致で描く自伝的小説の傑作」とあります。

 この“浦粕”とは、いまやTDL/TDRで日本はおろか、アジア一円に知られる浦安市です。あまりにもあからさまで、ほとんど匿名とは言えないぐらいですが、この「貧しく素朴だが、常識外れの狡猾さと愉快さを併せ持つ人々」を“巧妙”に描くことは、描かれた方々からすれば、あまり面白くないことかもしれない=これが今回のテーマであり、フィールドワークを志す方にはぜひ肝に銘じてほしいところなのです。

 調べてみたら、青べか物語はなんと『青空文庫』にはいっているのですね。以下の文章にご関心があれば、皆さん、ぜひ、ご照覧下さい。総合政策的視点でも、様々なインスピレーションをあたえてくるかもしれません(青空文庫『青べか物語』)。

 ちなみに、こうした「貧しく素朴だが、常識外れの狡猾さと愉快さを併せ持つ人々」を描いた傑作としてはほかにも後述するきだみのるの『気違い部落周游紀行』や、スタインベックの『キャナリー・ロウ』をあげておきましょう。あるいは、ツルゲーネフの『猟人日記』もあげておきたいところです。

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 さて、学生の皆さんは授業でフィールドワークを学び、いろんな場所で実践されるかもしれません。その際、覚えておいていただきたいことがあります。

 それは、フィールドワーカーが研究終了後に、応えなければいけない対象があることです。それは言うまでもなく、研究の対象とされた人々へのご報告です。人類学という業界ではすでに多くの批判がよせられていることですが、多くの研究報告や基づいた著作は先進国の言葉で書かれ、現地で情報を提供してくれたインフォーマントはおろか、現地の人々に読まれることさえ期待されていない、という状態が長年続きました。つまり、先進国あるいは知識階級による“情報”の搾取、独占です。

 イギリスの下層階級の子供たちを活写したポール・ウィリスの傑作『ハマータウンの野郎ども:学校への反抗・労働への順応』でも、“野郎ども”がウィリスの調査結果を眼にしたのか、文章だけでは読み取れません。したがって、一見、理想的な参与観察であるかのようなウィリスと彼らの関係も、旧来の“文明と未開”の構図とさして異ならないかもしれのです。

 あるいは、これは私自身の実見ではなく、他の方からの伝聞ですが、ある離島で訪れた学生の人がその島の良さをしきりに称揚していると、それを聞いていた島の人が静かに「では、あなたは、この島に住みますか?」とつぶやいたところ、その場が一気に凍り付いてしまった、とのことでした。余所者がどういおうと、そこでの暮らしについてはなかなかに言い尽くせぬ感慨と言い分があるはずです。

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 この点、描かれた人たちからの視線が絶えず基調低音として感じられ、さらには作者の含羞・とまどい・不安がさりげなく表されているのが、この『青べか物語』です。

 作中で“浦粕”と呼ばれる漁師町の細緻なルポルタージュとも言えるこの作品の後半で、作者は浦粕から脱出後8年目、ある作品の主人公、留さんに出くわします。すでに留さんの「頭があったかい」所業を小説に書いてしまった作者は当惑するのですが、当の留さんは「おら(その小説を)宝にするだ」と羞かみ笑いをうかべて去っていきます。

 そして、さらに20数年後、再び浦粕を訪れた作者はまるで“罰”を受けるかのように、町の誰もが自分を覚えていないことに直面して(読者とともに)とまどいます。この結末の背景に浮かぶ作者の表情には、フィールドワーカーが感じるある種の苦味に通じるものが漂っていたかもしれません。

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 同じような“罰”を被った例がきだみのるかもしれません。パリ大学で社会学・人類学を学んだ後、第二次大戦中から戦後にかけて一山村にすみついた彼が著した『気違い部落周遊紀行』はベストセラーになりますが、その内容は村人たちからの反感を買い、「地元では「気違い」扱いへの反撥が激しく、きだに鎌を振りかざして寺からの立ち退きを迫った」(Wikipedia)とのことです。

 さて、冨山百科文庫版のあとがきに、きだの子息である山田彝が印象的な話を記しています。この『紀行』の本文にも登場するカッシングという民族学者は、かつてネイティブ・アメリカンのズニを知るため、彼らとともに暮らす。ズニたちはカッシングを「彼らの心を完全に理解した人」として受け入れ、やがて彼を“弓の祭司”に任命する。それ以後、カッシングはズニのことを何一つ外へは語らなくなってしまう[きだみのる、1981:249]。

 この寓話めいたこの話が事実かどうかの詮索は、どうでもよいかもしれません。ただ、この話を聞かされたフィールドワーカーはふっとため息をつきます、できもせぬ理想を説かれた後でわが身を省みるように。

 20世紀を代表するフランスの知識人レヴェ=ストロースが説く“人類学者の祖”としてのルソーの原点に返るのならば、“我々”と“彼ら”の出会いによって、どちらも気がつかなかったものに気づき、それを共有することこそ望ましいことと言えるのかもしれません。

集まることの意味~ヒトとサルのマイクロ・デモグラフィー2~

2020 5/7 総合政策学部の皆さんへ

 先回の続きです。生き物が動くことと集まることについて、もう一つ気づくことがあります。リンゴは両性花をつける雌雄同体なため、子の分散に性差はあらわれません。しかし、陸上動物は雌雄異体が多く、その場合、分散に性差が生じることがあります。

 例えば、哺乳類では両性とも分散する種もいますが、オスがより遠くへ分散する種が目立ちます。対照的に、メスが分散する種はチンパンジーやリカオン等少数にとどまっているといわれています。

 この結果、“去らぬ性”同士が集まり=集団をつくるパターンが登場します。例えば、ニホンジカでは緩やかな母系的集団程度ですが、ライオンやアフリカゾウは母系で結びついた群れを形成します。そこでは相互認知にもとづき、血縁者がサポートしあいながら、次世代への子孫/遺伝子を多く残すことで包括適応度を上昇させています。これが“血縁選択”で、産仔数を減らしながら少数のコドモを世話するK戦略(=少産少死)が展開します。

 具体例をあげれば、ニホンザル等多くの狭鼻猿類(旧世界ザル)ではオスが出自集団から去る一方で、メスは出自集団にとどまることで、母系的血縁をベースに群れが形成されます。対照的に、メスが分散する傾向にあるチンパンジーは父系的集団となります。

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 ところで、ニホンザル研究の初期、オスにとって宿命的な“群れ落ち”、すなわち生まれた群れから去る(動く)という現象が理解されるのに時間を要しました。言うまでもなく、彼らの生活史の全体像をおさえていなかったため、ピースの一つとしてうまく嵌め込むことができなかったのです。

 日本の霊長類学をリードした伊谷純一郎は『霊長類の社会構造』(1972)で、霊長類学の黎明期を振り返りながら「これまでの研究の過程において、幾度か当惑すべきとしか表現しようのない幻想に出会ってきた。それは例えば、ニホンザルの孤猿であり、離合集散するチンパンジーのグルーピングであり、一つの集団から別の集団へ移籍するチンパンジーのメスであった」、「とくに初期の研究においては、「離れる」は等閑に付され、(略)集中の社会学に没頭してきたという反省があり得てよい」と述懐しています。集まることばかりに注視したため、そこから動く(離れる)ことの重みに考えが及ばなかったのかもしれません。

 ところで、こうした群れ落ち・移籍には“性”が大きく関わります。ニホンザルのオスもチンパンジーのメスも出自群/集団からの離脱するのは、性的存在になりかかるadolescence(ワカモノ)の時期にあたります。とくにチンパンジーのメスが新たな集団に入る時等などは、性が“パスポート”として機能します。屋久島のニホンザルでもオスは数年ごとに群れを移籍するが、出入りは交尾季前後に集中します。つまり、繁殖相手を求めること自体が移動のきっかけなのです。

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 それでは、彼ら/我々が動く範囲は限定されているのか、それとも無限に広がっているのでしょうか?

 生き物のなかでも、周期的に長距離移動を繰り返しながら、移動ルートが定まっている例に渡り鳥やサケの廻遊/回帰移動があげられます。彼らが移動するのは季節変化がもたらす食物資源の変動や繁殖によるのですが、そうした移動回路の閉鎖性は、遊動生活を送る狩猟採集民や牧畜民等が絶えず移動しながら、しかし、一定の範囲にとどまる様を連想させます。

 もっとも、ヒトでは農耕等で定住性が強まると、自らの周囲を行動圏や通婚圏、交易圏、領土等で区切ることで“地縁”が生まれました。同時に彼ら/我々の活動は環境を変え、耕地や二次的自然(里山等)が広がります。これが“定住革命”です(西田 1980)。

 とは言え、今度は、木地師漂海民ロマの人たちのように定住民の境界をすり抜ける者もでてきます。定住民自身も一時的に地縁から抜け、一定の(お約束ごとの)ルートを辿りながら、帰還を前提とした巡礼等に旅立ったりします。宮本常一は『忘れられた日本人』(1971)で、「日本の村々をあるいてみると、意外なほどその若い時代に、奔放な旅をした経験をもった者が多い」として、「世間師」という言葉を紹介しています。

 その一方で、二度と戻らぬ、行方も定かならぬ移動の典型がアフリカから新天地に拡散し続けた人類大移動にほかなりません。旧約聖書の「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」を思いおこしますが(皆さん、旧約聖書もきちんと読みましょうね)、そのきっかけには3つのモデルが想定されているようです。

 (1)引き寄せモデルでは、魅力的な環境・資源に引き寄せられる。対照的に、(2)押し出しモデルでは、環境変化や人口圧等で周密地から弱者が押し出される。最後に、(3)拡散モデルでは、生活場所を求めて動くうちに偶然、新天地にたどり着くことになるのです。ですから、必ずしも強者がぐいぐいと自らの欲望に促されて、新天地を目指すばかりではない、というところで、to be continued…とします。

ケチャップの歴史1:食についてPart18

2020 4/22 総合政策学部の皆さんへ

 今回の話題は“ケチャップ(英名:ketchup)”です。とはいえ、ここではあえてトマト・ケチャップと言っておきましょう。というのも、世界にはいろいろなケチャップがあるからです。

 といきなり言われても何のことか見当がつかない、トマト・ケチャップ以外のケチャップって? ととまどう方も多いでしょう。それでは一つ質問です。ケチャップとはそもそも何語でしょうか? 皆さんご存じでしょうか?

 日本語版Wikipediaの「ケチャップ」の項には、「1690年に出版された北アメリカの辞書 A New Dictionary of the Terms Ancient and Modern of the Canting Crewにketchup、1699年に出版されたイギリスの飲食用語辞書 BE’s Dictionary of the Canting Crew of 1699にcatchupという言葉が収録され、説明として「東インド奥地のソース(a high East-India Sauce)」と記されていた」とあります。

 この東インドとは、「インド東部」ではなく、「アジア・極東・東洋。狭義には東インド諸島・オランダ領東インド」のことで、つまりは英語ではないのです。17世紀後半から19世紀にかけて、イギリス帝国主義勃興期、様々な外来語が英語にはいってきました。「バンガロー」はヒンディー語の बंगाल(バングラ=ベンガル風)という言葉に由来し、「バラック」はカタルーニャ語の「barraca」から、キャラコ(インド産の平織りの綿布)はインドのカリカット港の名前に由来します。ケチャップもその一つなのです。

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 では、東インドのケチャップとは何か? Wikipediaでは「ケチャップというと日本ではトマトケチャップのことを指すが、インドネシア語ではソース全般を指し、語源は東南アジアで使われている福建語の”ke-zyap 鮭汁”といわれている」。つまり、Ke-zyap(鮭汁;福建語)⇒kecap(インドネシア語=もともとはマレー語のスマトラ・リアウ州の方言)⇒catchup、catsup(イギリス)⇒ketchup (現代アメリカ英語)と変化した次第です。

 なお、“鮭汁”とは「閩南語や台湾語では、小魚やエビの塩辛から分離した液体を kechiap、koechiap(鮭汁ケーチアッ)」と呼ぶとのことで(Wikipedia)、要するに魚醤のことですね。この場合、中国で使われる漢字の“鮭”とは「フグを指し、サケという意味は日本での国訓で」なのだそうです。したがって、“鮭汁”とあっても日本のサケが材料ではありません。

 インドネシア語でのケチャップはさらに、ケチャップマニス(甘いケチャップ)とケチャップアシン(辛いケチャップ)にわかれるそうですが、前者がより一般的だということです。ケチャップマニスの作り方は「大豆と小麦を発酵させ、パームシュガー、塩などを加えてつくられる」(Wikipedia)とありますから、醤油に糖分が混じっているようなものだとも言えます。皆さんも神戸の南京町の商店の奥の方に入り込むと、その世界が見えてくるはずです。

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 このケチャップがヨーロッパではさらに分かれていくというのが食べ物の面白いところで、イギリスではまずキノコを使った発酵食品になります。すなわち、「キノコの保存調味料(Mushroom ketchup)、キノコに塩を振り、2・3日置いてからしみ出た汁を香辛料と煮詰めたもの)」(Wikipedia)となります。さらに「カキ、アンチョビ、ロブスターといった魚介類や、クルミ、インゲンマメ、キュウリ、ブルーベリー、クランベリー、レモンそしてブドウなど植物素材を材料とするソースが考案され、様々なスパイスが加えられるなどして変化しながらバリエーションを増やしていった」というわけなのですが、さらにアメリカに渡ると中南米原産の作物、トマトとの劇的な出会いが生じる。これがトマトケッチャプなのです。

 ですからトマトケチャップは根っからのアメリカ食品。ケチャップと聞いて、トマト・ケチャップしか頭に浮かばないようでは、イギリス人あたりに「君はアメリカ文明、あるいはハリウッド文化にすっかり染められているんだね」とからかわれてしまうかもしれません。

 昔、ある冒険活劇通俗小説のなかで(もうすっかりタイトルも、作者が誰かも忘れてしまいましたが)、イギリスの上流階級出身でギャンブル狂の海軍軍人が「もしも俺の頭のなかが狂ってしまったら」と妄想をはじめ、「あのアメリカ人のように、なんにでもケチャップを振りかけたりするんだろうか!!」と慨嘆するシーンがでてきたのをうろ覚えしています。

 Wikipediaでも逸話として、「2016年アメリカ合衆国大統領選挙を経て大統領になったドナルド・トランプは、ウェルダンに焼いたビーフステーキにトマトケチャップをかける食事風景が話題になり、洗練された味覚とはかけ離れている、または素材を台無しにするといった批判を受けることも多いが、依然として外遊先の食事にトマトケチャップを用意させるなど、外交儀礼よりも自身の好みを優先させる方向性は改まることがない」とつけくわえていますが、あなたはケチャップ派? それともマヨラー? もちろん、どちらも好き、という方でもかまいませんが。

サルやヒトにとっての“外なる海”と“内なる海”

2020 4/11 総合政策学部の皆さんへ

 以下の文は、日本のナショナル・トラスト運動の草分け、天神崎の自然を大切にする会の会報『天神崎だより』に掲載した記事の再録に加筆したものです。

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 今回執筆させていただく会員の高畑です。少しだけ自己紹介すると、専門はサルやチンパンジー等の霊長類学・生態学です。ずいぶん昔に白浜や徳島県の鳴門周辺でウニや潮間帯の巻貝等を多少調べたこと以外は、海にあまり縁がない研究生活を送ってきました。そこで、今回はサル等の哺乳類にとっての海をとりあげ、“外なる海”と“内なる海”というテーマでお話します。

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 サルや類人猿にとって、自分の身体の外にある“外なる海”、あるいは大河等は活動を妨げる障害物にほかなりません。霊長類の祖先はいまからおよそ6500万年前、樹上生活に進出することで進化を始めました(それには色々理由があるはずですが、ここではパスします)。その後、ずいぶん時代が下ってヒヒやニホンザル、そしてチンパンジーなどが再び地上をよく利用するようになるまで、ずっと樹上での暮らしに適応していました。

 そのためもあってか、たとえ地上におりても、どちらかといえば水は苦手です。とくにチンパンジーなどは極端なまでに水に触れることを嫌がります。もちろん、泳ぐことなどもってのほかです。川から直接水を飲もうとする際も、本当におっかなびっくり、手も濡らさないように用心します。ですから、海や大河を越えるなどできようはずもありません。これが霊長類にとっての“外なる海”となります。

 なかには、チンパンジーとその近縁種であるボノボ(ピグミーチンパンジー)のように、中央アフリカを流れる大河、コンゴ河によって隔てられることで、種分化してしまった例まであります。

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 もうお気づきでしょうが、この“嫌水病”とでもいうべき状況を、いつの頃からかはわかりませんが、克服したのが我々ヒトの先祖です。いつしかベーリング海峡等を越え、さらには太平洋等の離島にまで進出します。こうして復活した海とのつきあいは、私たちに豊かな恵みをもたらします。

 その象徴が、例えば、縄文時代の貝塚です。生態学的には、とくに河口や沿岸では、川によって内陸部からの栄養塩類が流れ込み、とても豊かな生態系が形成されます。これを利用しない手はありません。同時に、水上交通はヒトの移動を大きく助けました。舟あるいは筏等が手に入れば、障害物どころか、むしろ交通路と変わります。

 上記のコンゴ河も、いったんカヌーを手に入れれば、障害物どころかアフリカ奥地を行き来する水路に変身しますが、探検家スタンレーのアフリカ横断の旅の後は、奴隷商人たちの跋扈の手段とも変わってしまいます。ちなみに、スタンレーはその後の帝国主義的行動(コンゴ自由国建設と「エミン・パシャ救出」等)で様々に非難されていますが、なかには「トリパノソーマ症の感染地域拡大についても責任を問われている」そうです。コロナ・ウィルスが広がっている今、身につまされるような経歴とも言えるでしょう。

 ところで、ヒト以外に、ニホンザル等ごく少数ですが、海岸に出てくるサルもいます。そこで海の恵みに気づく者もでてくるかもしれません。事実、宮城県の金華山や、宮崎県の幸島のような島に棲むニホンザルのなかに海藻やカサガイ、タコ等に手をつける者も現れています。私自身は屋久島での調査が長かったのですが、残念ながら、そこでは海岸まで降りて岩場で休憩することはあっても、波打ち際まではおりません。屋久島では切り立った断崖状の海岸ばかりなので、海辺まで近づく気になれないのかもしれません。ヤクシマザルにとっては、海はあいかわらず越えられない、また利用できない障害物のままです。

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 それでは、“内なる海”とは何でしょうか?

 それは私たちの身体を流れる血液です。およそ4億年前に陸上に進出した動物たちは、体内環境維持のため、身体に当時の海水の元素組成とほぼ同じ血液を循環させるようになったという話があります。

 もし、これが本当ならば、私たち一人一人は身体のなかに“内なる海”を持っていると言えないわけではありません。その一方で、その成分の維持のため、私たちは塩類を必要とします。これがどんなに重要かは、例えば、上杉謙信の「敵に塩を送る」の故事などを思い起こせばよいでしょう。

 それでは、ヒト以外の野生動物はどうでしょうか? すでに「塩を考える-過剰と不足:食についてPart.17」で触れたことですが、今を去る30年ほど前、ODAの末端現場で、JICAの派遣専門家として、東アフリカのタンザニア、マハレ山塊国立公園に滞在していた時のことです。帝政ロシア時代、「猟師がシカを捕るため、森に塩の袋を置き、舐めに来るシカを待ち伏せて撃っていたのを、皇帝が残酷だと禁止した」といううろ覚えの話を思い出したて、住んでいる小屋の庇の下に板をおいて、そこにこんもり(現地の市場で売っている)岩塩を盛ってみました。すると、なんと数日後には野生のカモシカがあらわれ、それまで小屋に近寄りさえしなかったのに、塩をなめ始めたのには驚きました。それまで岩塩など見たことも、口にしたこともないはずなのに、どうして気づいたのか? 謎です。

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 いずれにしても、私たちヒトも含む陸上動物にとって、“内なる海”=血液の組成を維持するためには、塩分を必要としていることに間違いないのです。

相続とキャリア1:スペアを蓄えておく場所としての寺社・修道院、そしてそこからの還俗

2020 3/29 総合政策学部の皆さんへ

 以前、「あなたにとって、“仕事”とは何か? 陰陽師から漱石、そしてトム・ソーヤーからフランクリンまで」で、かつて職業選択の自由もなかった頃、長子相続が確立した王族・貴族社会では、家業の相続について長男一人のみが家業(つまり、王位なり爵位)につき、相続から外れた“弟たち”をどこかの修道院等に“デポジット”して(あるいは“リスク・ヘッジ”して)、万一長男が死んだ際のバックアップを期待することがあったという話に触れました。

 かつて幼少期の死亡率が高かった頃は、この策が現実化するケースも珍しくありません。例えば、フランス国王ルイ7世は次男のため、「サン=ドニ修道院に育ち、院長シュジェールの教えを受け、祈りと神への献身を何よりの生き甲斐とする、物静かな王子であった」として育つのですが、「兄フィリップが1131年に落馬事故で早世したため、代わって共同国王に立てられた」ために還俗、大貴族アキテーヌ公ギヨーム10世の娘アリエノール・ダキテーヌを王妃に迎えますが、長年の修道院暮らしがたたってか、この才気活発な王妃には「王と結婚したと思ったら、僧侶だった」と言われてしまう有様で、二人の間に男子出生がなかったこともあって、離婚を余儀なくされます。

 なお、アリエノールはルイとの離婚直後に11歳年下のアンジュー伯長子アンリ(英語名はヘンリー)と結婚するという離れ業を演じた上に、アンリがイギリス国王ヘンリー2世に戴冠したため、広大なアキテーヌ公領はイギリス王ヘンリー2世の管轄下に組み込まれ、ルィ7世とフランスにとってとてつもない政治的な重しになってしまいます。この負荷の解消には、100年戦争中の1453年7月17日に起きたカスティヨンの戦いまでかかります。

 その後のヘンリー2世とアリエノール、そしてこの陰気なルイ7世の子とは思われぬほど才気縦横なフィリップ2世ことフィリップ・オーギュストと、アリエノールの子供たちをめぐる愛憎劇は、舞台・映画で有名な戯曲『冬のライオン』をご覧ください。とくに、1968年上映の映画版でのキャサリーン・ヘプバーンとピーター・オトゥールのやり取りは一見の価値があります。

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 同じく長兄の死によって修道院生活から俗世に引き戻されてしまったもう一人の王が、イギリス国王ヘンリー8世です。こちらは還俗後に父ヘンリー7世の指示で、亡くなった兄アーサーの妻カタリーナ・デ・アラゴン(英語ではキャサリン・オブ・アラゴン)と結婚の話が持ち上がります。

 実は、兄の未亡人と結婚できるのか、旧約聖書では見解が分かれます。すなわちレヴィ記には「兄弟の妻をめとる者は、汚らわしいことをし、兄弟を辱めたのであり、男も女も子に無具まれることはない」(第20章21節)とあります。一方で、申命記には「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者は妻は家族以外の他の物に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない」(第25章5~6節)。

 これでは誰しも迷ってしまいます。かつ、この結婚話は「若い未亡人は持参金とともに帰国するのが常識だったが、ヘンリー7世側も巨額の持参金の返却を惜しんだ下心から、ヘンリー王子との婚約を持ちかけた」(Wikipedia)というものでしたが、やがて「キャサリンはやがて病気がちになり、婚約者ヘンリー王子の訪問を心待ちにするようになった。一方のヘンリー王子も、兄嫁への憧憬は愛情に変わっていった」(Wikipedia)。こうして、ヘンリー7世の死後、二人は結婚します。

 とはいえ、皆さんもよくご存じなように、キャサリンは流産・死産を繰り返し、やがて結婚生活は破綻、離婚を許さぬローマ教皇庁に反旗を翻したヘンリーは英国国教会を独立させて、離婚、その後、アン・ブーリンをはじめ、5人の妻をめとり(そのうち、アン・ブーリンとキャサリン・ハワードの二人は、彼女たちの不倫を理由に処刑してしまいます)、自分にとっても、また妻たちや子女にとってもあまり幸福とは言えない人生を送ることになります。

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 それでも、ルイ7世もヘンリー8世も、ご本人は天寿をまっとうします。しかし、せっかく還俗したのに不幸な羽目に陥った代表が足利義教と今川義元でしょう。この二人は兄等の不慮の死で、俗世に舞い戻ってしまったものの、思わぬことで非業の死を遂げます。

 まず、足利義教は室町幕府第3代将軍足利義満の子で、僧侶時代は義円と名乗ります。義満の死後は、長兄で同母の義持が後を継ぎますが、義持の死とさらにその死に先立つ5代将軍義量の死で、前代未聞の籤引きよる選出で、第6代将軍に就任しますが、父親義満の絶対的権力行使にあこがれたか、有力大名を圧迫するあまり、逆に、守護大名赤松満祐による暗殺で、首を刎ねられるという非業の死をとげます。

 ついで、今川義元は兄氏輝や、その子彦五郎の相次ぐ死で今川家が混乱、同じく出家していた異母兄・玄広恵探を死においやって(花倉の乱)当主の座につきますが、その後の桶狭間での一件は皆さんも大河ドラマ等でよくご存じのはず。

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 おもしろいことに、彼らは修道院・寺等で修業したせいか、インテリな方が多い。ヘンリー君などはルターが宗教改革の狼煙をあげると、ルターを「批判する『七秘蹟の擁護』を著した功で、1521年10月に教皇レオ10世から「信仰の擁護者」(Fidei defensor)の称号を授かる」(Wikipedia)でした(もっとも、その後、前述のように離婚問題からローマ教皇庁に反旗を翻すことになる)。また、彼は「音楽にも造詣が深く、自ら楽器を演奏し、文章を書き、詩を詠んだ。自ら作曲したとされる楽譜(合唱曲 “Pastime with Good Company” など)が現存する」(Wikipedia)とのことです。

 義元君も和歌に親しみ(もっとも、「今川家中の和歌のレベルは実際はあまり高くなかったらしく、同工異曲の似たような歌が頻出し、そもそも歌合の題目をよく理解していない作品が多い。義元自身も例外でなく、為和から厳しく指導された記録が残っている;Wikipedia)、「今川仮名目録」に追加法を付け加えます。

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 さて、近代史において、貴族たちのこうした相続上のリスク・ヘッジに新しい要素を加えたのが、絶対王政から立憲国家に成長する段階で需要が増した近代軍事・官僚システム、ならびにそれを支える学校制度だったかもしれません。いうまでもなく、分割相続が困難な場合、次男・三男を軍人か(これは中世ヨーロッパでもよくあった話ですが)、近代王政を支える官僚にする。とくに帝国主義政策を支える上で必要な外交官、あるいは植民地経営者にあてはまります。

 こうして、封建制ではたんなるスペアとしてしか存在意義がなかった次男、三男があらたな活躍の場を得る...これこそ近代化の一側面ですが、そのあたりはto be continued としましょう。

動くことと集まることの意味 ~ヒトとサルのマイクロ・デモグラフィー1~

2020 3/17 総合政策学部の皆さんに

 最近、ヒトや動物はなぜ動き、なぜ集まるのか? というテーマで原稿を書いたので、その話をしましょう。ここでは「ヒトや生き物はそも動くのか?」がテーマです。

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 帝政ロシア末期の作家アントン・P・チェーホフが描く登場人物たちは、絶えず「ここではない、どこかへ行きたい」という衝動に駆られていることで知られています。例えば、チェーホフ38歳だった(=44歳で死没する6年前)1898年に書かれた短編小説『往診中のできごと』では、医者のコロリュフが工場の跡取り娘リーザを往診した際に、会話のなかから、彼女の病が彼女をとりまく周囲との軋轢から生じていることを推し測ります。

 恵まれた立場にいるからこそ、すべてに不安を感じてしまうリーザが「未来の子供たちはどうするのでしょう?」と問うと、コロリョフは(ここではない)どこかに行くかもしれないと答えます。

「行ってしまうって、どこへ?」
「どこへ?・・・・どこへでも行くでしょう」とコロリョフは言い、笑った。
「良い人間、知的な人間なら、行けない所は一つもありません」

 この二人のセリフを120年後の今、振り返る時、ロマノフ王朝から、レーニン、スターリン、そしてフルシチョフを経て、プーチン大統領に至るロシアの指導者たちと民衆の苦闘と苦難の歴史を考えざるをえません。ロシア人たちは、これからどこに行こうというのでしょうか?

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 それにしても、ヒトも含めて生き物はなぜ動き、なぜ集まるのでしょうか? そこにはコストがかかり、リスクも潜むにもかかわらず。その理由を皆さんは考えたことがありますか?

 例えば、“動く”こと一つを取りあげても、(1)それは自らが決めたことでしょうか? それとも周囲に押し流された他動的なものでしょうか? (2)他動的だとすれば、それは誰の影響でしょうか? (3)主体的に決めたのならば、その動機は何でしょうか?

 さらに、(4)移動は、そもそもヒトの生活史のなかに遺伝的に組み込まれているものなのでしょうか(例えば、ニホンザルのオスは思春期を迎える頃に、生まれた群れを離れ、二度と戻らないのがふつうです)。それとも、機会的なものなのでしょうか? (5)また、移動は一度きりのものなのか、繰り返すものなのか? また、(6)ヒトが移動する範囲は空間的に閉じているのでしょうか。それとも、無限に広がっているのでしょうか?

そして、(7)ヒトはいずれにもどってくるのか、それとも(ニホンザルのオスのように)二度と戻らないのか? 思いつくだけでも、様々な疑問がわいてきます。

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 それでは、生き物にとって、動くことの意味はなんでしょう?

 逆説的かもしれませんが、ふだん動かない生き物=植物から始めたるとわかりやすいかもしれません。彼らの多くは生涯で一度だけ動きます。

 例えば、種子植物は花を咲させ、実をつけるが、その種子はやがて親木から離れる=種子散布です。自力で種をとばす種もいますが、風や水、または動物等に依存する者も多く、様々な工夫を凝らしています。

 例えば、種子散布を動物に頼る場合でも、(1)刺等でひっつく付着型、(2)報酬=果肉とひきかえに、種子を糞とともに散布してもらう周食型、③リス等の貯食や採食時のこぼれ落ちによる食べ残し型等に分かれます。この周食型(被食散布)こそ、トリ等で馴染みである相利共生の世界にあたります。

 とは言え、なかには埋土種子として発芽条件が整うまで土中にとどまる者もいないわけではありません。この場合、ひたすら(親木も含めて)頭上の木々の倒壊(死)を待つわけです。このように種子が親元から離れるか、とどまるのか、いずれを選ぶにせよ、それは次世代に子孫/遺伝子を残すための繁殖戦略の一環として、生活史に組み込まれているのです。

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 この被食散布では、熟した果実は捕食者=散布者の目をひくように鮮やかな色に変わることがあります。その昔、小学校教師に一笑に付されたというエジソン少年の伝説的な問いである「リンゴの実はなぜ赤い?」ですが、その後の生態学の発展は、これが散布者への“Eat me, and take my offspring somewhere!” というシグナルにほかならないことを教えてくれます。

 もっとも、その先にさらに謎が潜みます。果肉という報酬を支払っても種を運んでもらう理由は何でしょう? いくつか仮説をあげれば、(1)親木の元に種子が落ちれば、繁った葉で太陽光が遮られ、子木が育たない=親子間の光をめぐる資源競争を回避するのかもしれません。また、(2)親木は寄生虫や病原体に汚染されているため、子は感染しないように遠くで育つ方がよいのかもしれないのです。

 一方で、(3)親子が近い場所にいると、近親交配が起きかねません。さらに(4)子を遠く様々な環境に分散することで、偶々であれ、新たな生息地で生存競争に生き残ることもあるでしょう(言うまでもなく、種子散布は分布拡大のチャンスです)。これらの仮説すべてがからみあい、様々な種子散布が発達したのだろうと思われています。

 もちろん、そこには大きなリスクが待ち構えています。捕食者の裏切りで種ごと食べられてしまう。不適な場所に散布されて発芽できない/斃死してしまう。このため、植物は多数の種子をまき散らしながら、生き残る者は少数というr戦略=多産多死を前提とした繁殖戦略をとっています。多くのコスト/リスクを負いながらも、何もしないよりは種子散布に工夫を凝らすことで進化に生き残ろうとするのです。(To be continued)

 

学習机の普及:明治・大正期の日本に、学習机はどのように広まったか?

2019 6/24 総合政策学部の皆さんへ

 今回は少し変わったテーマかもしれませんが、先日、兵庫県内の某高校に高校生の課題研究に“出前講義”に行った時のことから始まります。

 実は、昨年度も同じ高校にお邪魔して生徒さんの研究テーマを講評したのですが、その一つに“Standing desk”がありました。「立ったまま仕事・学習をする机」です。もちろん、ずっと立ったままで仕事/勉強にするのはつらい! と思う方のためには、コクヨなどが高さを自由に変えるタイプも市販しています(ただし、価格は当然高くなる)。

 このタイプの机は、コクヨのHPでは“重視される「働き方の多様化」と健康経営”(https://www.kokuyo-furniture.co.jp/products/office/sequence/about/)と題されて、「少子高齢化や若者の労働観の変化などの潮流を受け、企業経営において、社員の健康管理に配慮しながら、多様な働き方で生産性を維持・向上する取り組みが重視されはじめています」と銘打って、
(1)業務の質向上「モードチェンジ:立ちと座りの繰り返しが気分転換となり、集中力が維持できます。また、昼食後の眠気防止にもなります。生産性の向上:立ち姿勢だと、短時間で集中して業務を処理しようとする意識が高まり、時間効率の向上につながります」。

(2)コミュニケーションの活性化「視線が交差する立ち姿勢は互いの目線が合いやすいため、部下から上司へも含め声を掛けやすくなります。軽い立ちミーティングがすぐに座ったままでいると移動が億劫になりがちですが、立ち姿勢だと、確認や連絡などの行動がすぐに起こせます

(3)健康増進:「ワーカーの悩みで多い「肩こり・腰痛」について、座ったままだと血流が悪くなり、背中などに疲労がたまります。背中や腰の痛みの原因の約95%は、身体を動かさないことと言われています。「肩こり・腰痛」に悩んでいる人が多く、特に肩こりは座っている時間が長い人に多いということがワーカー調査から分かっています。また、生活習慣の改善として、座った姿勢と立った姿勢を交互に行うことによって、身体にかかる重さを調節し、疲労した筋肉を休ませ、リフレッシュにも繋がります

と謳っています。なんだかよいことづくめです。

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 しかし、なにゆえ立ったままで仕事するタイプの机ができたかというと、実は我々の健康問題に端を発しています。つまり、長時間座ったままの姿勢でいると健康によくないという説があるのです。例によって論文を検索すると、「日本では運動や食事に気を配る様子は見られても,座ることに対する危険性をあまり認知していない.
私たちは平均して一日のうち8.4 時間座位行動しているが(Healy et al. 2011),気づいていないうちに自分の寿命を縮めているかもしれない.このように無自覚に長時間継続して着座姿勢をすることにより潜在的な健康リスクを惹起することを本論文では「座位問題」とする」(原野、2017、ELCAS Journal 2: 63-65)などの記述が目につきます。

 ちなみにこの「座っていると健康リスクが生じる」という原点は、Healy G. N. et al. (2011)Sedentary time and cardio-metabolic biomarkers in US adults. NHANES 2003-06. Eur. Heart J. 32: 590–597あたりのようです。とは言え、座位が本当に健康に悪いかどうかは反対の意見もあるようで、当否については今回はパスします。

 ともあれ、高校の生徒さんは健康問題よりも、学習に集中するために立ったままで授業をうけるのは効果があるのではないか(昼寝するわけにもいかない!)、と考えてこのテーマを選んだようです。それで、私も例によってgoogle scholarで調べてみると、なんと日本語の論文はほとんどんどなく、英語論文では主に欧米での小中学校の肥満問題(立って授業を受ければ、痩せる!)、昼寝を防止する(立っているので、寝るわけに行かない!)などの対策で導入されているようです(Benden et al. (2014) The Evaluation of the Impact of a Stand-Biased Desk on Energy Expenditure and Physical Activity for Elementary School Students. International Journal of Environmental Research and Public Health 11:9361-9375).

 私の評価は「とりあえず、君らの発想はえらい! 日本語の論文がほとんどないのだから、大学の先生などと肩を比べられるような研究になるかもしれないね」というものでした(その後、実際に古い学習机を改造して試作されたとのことです)。

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 さて、実をいえば、今回はここまでが話のマクラで、肝心なのはその続きです。数ヶ月後、今度は学年が一つ下の新入生の方々を対象にアクティブ・ラーニングのスキルを紹介しにでかけたのですが、駅まで送っていただいた車中で、担当の先生から「実は、日本の学校にどういう経緯で学習机が普及したか、文献を探してもよくわらかないのです」と突然相談を受けました。

 こちらもちょっと虚をつかれたというか、そういえば、明治頃の学校を描いた古図でも机が並んでいるようだけれど、そこにどんな経緯があったかなどちっとも考えていなかったことにあらためて気づいた次第です(人類学者としては反省しなければ)。

 そこで、思いつくまま「実証的な研究だと、明治期の小学校の写真を見て、図像学的に調べるとか」と説明して、「何年か前に、制服・制帽の普及について知りたくて、ネットで小学校の昔の卒業写真を調べてみると、まず、男子の頭に(足は下駄、身体は和服のままでも)学帽がかぶさり、一方、女の子は和服のままだとか、先生方の服装も男性教員は洋服なのに、女性教員は和服が多いとか、までは調べたのですが」と返しました。

 帰宅後、気になったので、またGoogle scholarを開けて探してみると、これが意外になかなか見つからない。しばし苦闘してから、以下の4編をなんとか探し当てました。
・西村大志(1997)「日本の近代と児童の身体:座る姿勢をめぐって」『ソシオロジ』pp.43-64.
・岡田栄造ほか(2000)「近代日本における椅子開発とその社会的背景:明治・大正・昭和前期における特許資料の考察をとおして」『デザイン学研究』47(6):1-8.
・岡田栄造ほか(2000)「明治・大正・昭和前期における特許椅子の展開過程:寿商店「FK 式」回転昇降椅子を事例として」『デザイン学研究』47(6):9-16.
・岩井一幸(2004)「家具の標準化(レビュー)」デザイン学研究特集号11(4):7-11
どうやら「学習机」については家具やデザイン関係の学術雑誌に載っていたらしく、上述の先生が教育系の雑誌をさがしても見つからなかったわけです。

 なお、肝心の明治期における学習机の導入過程ですが、上述の「家具の標準化」によれば、「生活の椅座化への動きは、明治維新に学校が椅座化を目指すところから始まっている。1869 年(明治2年)、木戸孝允は、新政府に「普通教育の振興を急務とすべき建言書」を提出、欧米風の学校制度を全国に実施するよう主張した。それまでの寺子屋での座机による教育からの脱出である。教育史によれば、初期には机腰掛けが準備できないために、各自宅から、座机を持ちこむという指示や、腰掛けによる教育は疲れるので、座式の教育を認めて欲しいとの嘆願書も出ているものの、1872 年(明治5年)の学制改革以来、学校で今日の机腰掛けという家具の標準化の基礎が作られた。1891 年(明治24 年)小学校設備準則の中で机腰掛けについて規定され、学校用家具標準化が始まった。その中心は、寸法に表現された規範で あり、一定の寸法による質の同一性で、同じものをある一定量つくることを目指すものであった」とあります。

 このように、“学習机”のようなきわめて身近で、だれもがあって当然と考えているものにさえ、さまざまな歴史がひそんでいることをみなさんも意識してください。

塩を考える-過剰と不足:食についてPart.17

2019 6/4 総合政策学部の皆さんへ

 食を考える人類学、本日の話題は“塩”です。

 “塩”についてのもっとも気が利いている逸話は、徳川家康とその側室英勝院(お勝、あるいはお梶)のやり取りかもしれません。ある日、家康が部下に「食べ物でおいしいものは何か」とご下問、答えが定まらず、そこでかたわらのお勝に尋ねると、「それは塩でございます」と断言します。塩がなければ、どのようなものも美味しくない。「それでは、食べ物でまずいものは?」と重ねて尋ねると、「それも塩でございます」、塩が多すぎればどのようなものも美味しくなくなる、と答えたという説話です。不足すれば困る、かつ、多すぎても困る。最適値がどこかにあるはずだ、というまことに蘊蓄のこもったアネクドートです。かくも賢いスタッフを身のまわりに侍らしているというところこそ、家康のすごみであり、かつ、最終的に天下をとった由縁なのかもしれません。まさに「権現様」なのです。

 このような「過ぎたるは及ばざるがごとし」の見本のような塩ですが、先日、若い頃から一度訪れてみたかったウズベキスタンサマルカンドに残されたウルグベク天文台跡を見物すべく、ツアー旅行に加わると、ウズベキスタンの大地にはところどころうっすらと白いものが。試しになめてみると、かすかに塩の味がして、これが授業でも時々口にしていた塩類集積か! とちょっと感激しました。もっとも、ソ連時代に「計画経済によって綿花栽培の役割を割り当てられた過去があり、そのため近年になって鉱産資源の開発が進むまでは綿花のモノカルチャー経済に近い状態だった。・・・・しかしウズベキスタンは元来降水量が少なく綿花の栽培には向いていない土地であったため、近年においては灌漑元であるアラル海の縮小や塩害などに悩まされている」(Wikipedia)わけで、現地の方にとっては悩みの種なのです。

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 その塩ですが、40年ほど前、JICAの派遣専門家として西部タンザニアのマハレ山塊国立公園で2年間を過ごしていた頃です。それこそ計画経済がうまくいかず(そもそも国家統計の基盤がないアフリカで、計画経済ができるはずがない)、1980年代後半にIMFの構造調整の軍門に下る前の、社会主義政策末期、135kmも離れたキゴマの市場に行こうと、まったくたまに首都のダル・エス・サラームのマーケットをのぞこうと、店の棚にはなにもない、という状態でしたが、塩はさすがに置いてありました。これがなければやっぱりやばいというところです。

 海岸からはるかに離れた、いわばアフリカのど真ん中のキゴマの市場で売っている塩(スワヒリ語ではchumbi) は海の塩ではなく、岩塩で薄茶色の大きな砂粒のようなもの、なかなか溶けないので料理には手強かったのを覚えています。ある日、ふと思いたって、住んでいた小屋の前に板をおき、そこにこんもり、岩塩を盛ってみました。その昔、ロシアでは「猟師がシカを撃つのに、森の中に塩の袋を置いて、そこで待ち伏せして捕っていたが、ある年、皇帝がさすがにそれは残酷だ、と禁止した」という話を思い出したのです。

 すると、なんと、3日後には野生のブッシュバックTragelaphus scriptus)があらわれ、それまでまったく慣れておらず、我々に近寄りさえしなかったのに、その塩をなめ始めたのには驚きました。そも、それまで塩など口にしたこともないはずなのに、さらに、どうしてそれを塩と気づいたのか? 謎だらけです。それにしても、野生動物にとって塩が貴重品であることを、あらためて思い知らされた次第です。

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 また、ある日、トイレに入って仰天したこともあります。トイレは小屋から10mほど離れた場所に、大きな穴を掘って、その穴に板を掛け渡し、中をみえないようにアシの類で囲いをつくり、屋根にトタンをかぶせた粗末なもので、しかし、誰もいないマハレの山の中ではそれで充分というものでした。

 そのトイレに掛け渡している板に、小便などがかかって、だんだん塩類がこびりついていたのですが、その“塩”を巨大なヤマアラシがなめていたのです。たぶんアフリカタテガミヤマアラシ(Hystrix cristata)だと思うのですが、そちらも私にびっくり仰天、長い棘をいっせいにたてたので、直径1mほどはあるかと思われる針山が、どうしよう!とあせりながら、トイレの中でぐるぐるまわっています。

 もちろん、こちらも「危険を察知すると、ヤマアラシはその針をぴっぴっと飛ばす」などという怪しげな噂を耳にしているので、こわいものみたさに、その囲いごしに眺めていると、ふっと思い立ったのか、その棘をさっとおさめて、囲いのすきまをするっと通り抜け、またぱっと棘をたて、月光をあびながら、さしわたし1mの針山がシャラシャラと音を立てながら、藪の中をきえていくのを見送りました。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...

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