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名前の由来Part 2:日本人の名前について

2021 10/6 総合政策学部の皆さんへ 日本人は「名前」について語るのが好きなようです。例えば、NHKには2017年からどうどうと「日本人のおなまえ」という番組が継続中です。

 ところで、この番組ですが、どうも取り上げるのは基本的に「名字」のようです。したがって、(少なくとも私が視聴したことがある限り)いわゆるキラキラネーム等について触れられたことはないようです。

それではこの「名字」とは何か? ということ、これが結構複雑なようです。Wikipediaでは「名字(みょうじ、苗字)は、家(家系家族)の名のこと。法律上は氏と呼ばれ(民法750条、790条など)、一般には(せい)ともいう」。

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 これらの名字、苗字、家系、家族、姓等、いわば日常的にも使う言葉なのですが、一つ一つ定義を調べるとかなり面倒です。

 例えば、姓は「東アジアの漢字文化圏で用いられる血縁集団の名称。その範囲は地域や時代によって変動し、氏や名字といった他の血縁集団名と様々な階層関係にあった」とあります。かつ、日本の場合、この血縁関係を父系でたどることもあるわけですが、場合によると別の姓を名乗ることもあることもあります。例えば、来年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公、鎌倉幕府第2代執権北条義時ですが、彼は初代執権北条時政の次男だったため、長兄の宗時は北条宗時を名乗りますが(つまり父系を継ぐ)、成人後も「『吾妻鏡』で北条姓ではなく所領とした江間の姓で記される事が多く、分家の江間家の初代であったと見られる」。つまり、兄は父の姓を次いで本家筋を明示しますが、次男は「分家」としてあてがわれた土地の名前を姓に名乗るわけです。

 もっとも、義時の場合は宗時が頼朝挙兵時に戦死することで、やがて時政の後継者として、北条姓に戻ります(最終的には一種のクーデターで時政の権力を奪取して、実力で執権を勝ち取ることになります)。この結果、後世には北条義時として知られることになるわけです。

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 ところで、義時のように一時であれ、「住んでいる場所の名前」を姓にするというパターンは、実はほかにも多いことで、例えば、戦国大名として有名な毛利氏の本姓は大江氏ですが、義時も頼った頼朝側近の大江広元の4男が相模国毛利荘を領したたため、鎌倉幕府御家人毛利季光と名乗り、子孫が越後国と安芸国に分かれて、その安芸毛利氏は戦国時代に毛利元就となるというわけです。

 なお、上記大江氏は源平、藤原、橘と同じく姓(本姓)とされます。この本姓とは「日本において、古代以来の氏族名」として、名字(苗字)や家名とは異なる「本来の姓」という意味だとのことです。

 このような経緯で、Wikipediaでは毛利元就の氏族は「大江姓毛利氏」ですが、武田信玄の氏族は「清和源氏義光流河内源氏系甲斐源氏嫡流武田氏」となるわけです。

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 なお、家名(かめい)とは「父から子に父系に代々継承される永続性を持った個々の家に付けられた名称」だそうです。ちなみに、北条氏の本姓は桓武平氏もしくは伊勢平氏とのことです。

 また、姓(せい)と同じ漢字で別の読みとして姓(かばね)がありますが、この「かばね」とは「古代日本のヤマト王権において、治天下大王(天皇)から有力な氏族に与えられた、王権との関係・地位を示す称号」で、「せい」とはことなること。これでは頭がでんぐりがえりそうです。

 なお、この「かばね」は実に明治のはじめまでかろうじて存続しており、「初期の明治政府の公文書では大村益次郎は「藤原朝臣永敏」、大久保利通は「藤原朝臣利通」、大隈重信は「菅原朝臣重信」、山縣有朋は「源朝臣有朋」、伊藤博文は「越智宿禰博文」など、姓(カバネ)と諱(いみな)によって表記することを通例」としたそうです。

 しかし、これではとても近代的国家と言えません。一人の個人に明確な名前をつけて、かつそれを登録する=戸籍制度が始まります。明治4年10月12日(1871年11月24日)、姓尸不称令(明治4年太政官布告第534号)で、公文書から「姓尸」(姓とカバネ)が排除されます。明治5年(1872年)の壬申戸籍編纂で、「氏(シ、うじ)=姓(セイ、本姓)=苗字=名字」を一気に一元化することで、この面倒な状況を断ち切り、法的根拠でいわゆる「氏名」に統一したのが、明治8年(1875年)の平民苗字必称義務令(太政官布告第22号)なのだそうです。

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このあたりの姓名がややこしいのはローマ共和国・帝国時代の方々も同様で、英名のジュリアス・シーザー(あるいはたんにシーザー)で知られるガイウス・ユリウス・カエサルは「ユリウス氏族に属するカエサル家のガーイウス」という意味だそうです。なお、英語のシーザーはラテン語の「カエサル(Caesar)」は「ローマ帝国およびその継承国家で用いられた君主号」で、イエス・キリストの言葉とされる「カエサルのものはカエサルに」につながり、ドイツ語のカイザー (Kaiser) やロシア語のツァーリ (Царь, Tsar) などのように「皇帝」の称号として扱われます。

 ところで、この“皇帝”の響きがどんなに聞こえがよいか? 大英帝国(British Empire)と称されながらも、イギリス国王は皇帝ではなく、Rex)に過ぎません。19世紀、ビクトリア女王のお気に入り、首相ディズレーりは1877年、1858年に植民地として成立したインド帝国(India empire)の統治者としてヴィクトリアをインド女帝(Empress of India)に即位させるのです。

名前の由来Part1:世界は“名前”に満ちています

2021 9/22 総合政策学部の皆さんへ 世界は“名前”に満ちています。

 Wikipediaの「名前」では、「すべての事象には名がある。我々は先ずその対象に名前を付ける。そのためには対象の概念を明確にし、またそれ以外の事象との区別を持たなければならない」と指摘しています。このように、近代文明では半ば脅迫観念のように、「名前」を求めます。そして、「名前」を知らされると、とりあえず安心する。例えば、山歩きをしていて目にした花が「コバノミツバツツジ」であって、「モチツツジ」ではない、ということを教えてもらえば、何か分かった気持ちになるかもしれません。

 もっとも、それだけでは何の進展もないのかもしれません。Wikipediaの「名前」の執筆者は賢明にも「覚える行為に価値があるのではなく、名前を覚えることで、それまでどれも同じに見えていたものの区別がつくようになるからである」と指摘します。とくに、近代科学では「分類」がすべての基本でした。それもすべての人が理解可能で共通な名前が。生物学ではその象徴が“学名”です。

 例えば、日本で「松上の鶴」などと形容されることもあるコウノトリと、ヨーロッパで「赤ん坊をくちばしに下げて運んでくる」とされる“コウノトリ”は同じ種か? 遺伝子レベルで調べてみると、この2種は遺伝的差異があり、分類学の鼻祖リンネが1753年の『植物種誌』で植物を対象に提唱した学名では、前者はCiconia boyciana、後者はCiconia ciconiaという学名が付けられています。なお、学名は属名+種小名の二名法からなっています。これはいわばヒトの氏名=名字(苗字)+個人名のようなもので、種がおかれている位置を系統(=属名)とその種の特徴(=種小名)で表しているわけです。

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 一方で、日本語においても、一つの生き物に複数の名前を付けていることも珍しくありません。典型的ケースはメダカで、分類学的にはダツ目メダカ科メダカ属(学名 Oryzias)に属する種の総称ですが、日本各地で「短いものでは「メ」「ウキ」から始まり、長いものでは「オキンチョコバイ」「カンカンビイチャコ」」まで、実に4680の名前で呼ばれており、こうした地方的な方言名を「方名」と呼びます。それに対して学名にほぼ対応する形で日本語として統一した名称が標準和名です。

 実は、近年まで日本にはメダカ一種(Oryzias latipes)だと考えられていました(なお、中国・台湾等ではチュウゴクメダカ Oryzias sinensis、タイではタイメダカOryzias minutillus、インドではインドメダカOryzias dancenaが生息しているとのことです)。しかし、最近はDNA解析等でOryzias sakaizumii(標準和名としてキタノメダカ)とOryzias latipes(ミナミメダカ)に分けるように提案されているとのことです。

 また、一つの生き物が成長段階(発達段階)で名前を変えることもあり、その典型がブリなどの出世魚です。ブリの場合、モジャコ(6~7cm)→ワカシ(15 cm くらい)→イナダ(40 cm)→ワラサ(60 cm)→ブリ(90 cm)が標準とされますが、こちらも関東ではワカシ → イナダ → ワラサ → ブリ、関西ではツバス → ハマチ → メジロ → ブリと変わるとのことです。とは言えば、標準和名・学名ではブリ・Seriola quinqueradiataで統一されることになります。

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 あるいは、化学の世界では「原子番号11の元素、およびその単体金属」を日本では一般に“ナトリウム”と呼んでいますが、これは「天然炭酸ソーダを意味するギリシャ語の νίτρον、あるいはラテン語の natron(ナトロン)に由来するといわれている」とのことです(Wikipedia「ナトリウム」)。

 一方、英語圏では同じラテン語起源ながら“ナトリウム”とは呼ばずに、“ソディウム( sodium )”と呼ばれています。「工業分野では(特に化合物中において)ソーダ(曹達)と呼ばれている」のはこれが原因なのでしょう。「水酸化ナトリウム」を工業製品としては「苛性ソーダ」と呼ぶわけです。

 また、万国共通であるはずの元素記号としてはドイツ語から“NA”と名付けられているので、かなりややこしいことになる。つまりは、近代化学が発展するなかで、デ・ファクト・スタンダードとして成立してきたわけです。

 さらに別の例では、日本では“ガソリン”と呼ばれる物質は、イギリス英語では“ペトロ―ル”になったりします(アメリカ英語では“ガソリン”なのですが、さらに略されて“ガス”になります)。昔、東アフリカのタンザニアで3年暮らした時には、旧イギリス統治下にあったため、スワヒリ語風に語尾の音が若干異なる“ペトローリ”と言わなければ通じないのに若干戸惑いました。ちなみに、灯油はイギリス英語圏ではパラフィンオイル(Paraffin oil)で、こちらも固形物質のパラフィンを連想して戸惑ったものです。一方で、スワヒリ語では“Mafuta ya taa”、直訳すると文字通り“灯りの油=灯油”でした。

 いずれにしても、グローバル社会におけるコミュニケーションで「名は大事」なのは共通ですから、皆さんも気を付けましょう。

ケチャップの歴史3~本来のケチャップは:食についてPart22

2020 8/2 総合政策学部の皆さんへ ケチャップの歴史の3回目は、本来のケチャプとは何か、について考えてみましょう。先にご紹介したように、もともとの語源とされる中国の閩南語や台湾語での kechiap、koechiap(鮭汁;ケーチアッ)は、“鮭汁”という言葉通り、小魚やエビの塩辛から分離した魚醤の類とされています。日本では、秋田のしょっつる、能登のいしる、香川のいかなご醤油が該当するでしょう。

 この手の魚醤は中国南部から東南アジアでは一般的で、ベトナムのニョクマム、タイのナンプラー等がしられています。インドネシアではこれがケチャップ・イカン(インドネシア語でイカンは魚で、魚で作ったケチャップ)となります。

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 なお、世界の他の地域での魚醤の類を紹介すれば、ローマ帝国時代に広く使われていたという“ガルム”があげられます。これは「魚の内臓を細切れにし、塩水に漬けて発酵させて作る。完成品はまろやかで繊細な風味だが、発酵中はひどい臭いがするため、ガルム生産者は近所から苦情が来ないよう都市の郊外で生産した」とのことですが、「ローマ帝国の滅亡と共に製法が途絶え、魚醤自体ヨーロッパではチェターラのコラトゥーラ・ディ・アリーチ・ディ・チェターラぐらいしか作られることはなくなった」(Wikipedia)とのことです。

 もっとも、カタクチイワシの類を塩蔵して発酵させたいわゆるアンチョビーはしばしば調味料的に使われるので、ガルムの遠い後裔とも言えるかもしれません。また、「19世紀初頭にイギリスのウスターシャー州・ウスターの主婦が、食材の余りを調味料とともに入れ保存したままにしたところ、ソースができていた。このことがウスターソースの始まりとされている」(Wikipedia)というウースター・ソースの原料にはアンチョビが含まれているとのことで、これもまたガルム以来の伝統をかすかながらついでいるのかもしれません(なお、日本に伝来、国産化された日本のウースターソースにはアンチョビはふくまれていなとのことです)。

 ちなみに、Wikipediaによれば「無数のソースを生み出した料理大国であるフランス人は、ウスターソースを万能として使用するイギリス人を揶揄的に「百の宗教があるが、1つのソースしかない」と表現している」ということですが、そのイギリス人が「(某大統領のように)何にでもケチャップをふりかけるアメリカ人」を揶揄しているというところは、まさに差別の連鎖とも言えるかもしれません。

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 さて、インドネシアのケチャップに話を戻せば、今日、大量に消費されているケチャップはその材料を大豆と小麦に転じ(つまり、日本の味噌・醤油に近くなり)、そのうち甘味がついているものがケチャップ・マニス、辛みがついているものがケチャップ・アシンと呼ばれています。つまり、インドネシアのケチャップはどちらかというと“醤油”あるいは日本の“ソース”に近い存在のようです。

 インドネシア料理には、この甘いケチャップ・マニス(サラダのガドガドや焼き鳥状の串焼きのサテ等の甘い味付けが代表的です)、トウガラシの辛味によるケッチャプ・アシン、そしてインドネシア風チリソースのサンバル等で味付けられるのがふつうです。

 この手の調味料は現在では食品メーカーによる大量生産で、とくにABC社の製品が幅を利かせています。そのABC社製品を扱っている協同食品のHPでは「インドネシアの“ケチャップ”とは、醤油を意味し、甘口でとろみのある醤油のケチャップマニスと薄口醤油のケチャップアシン、唐辛子とにんにくなどを材料とする“サンバル”をベースにしたチリソースです。
 ケチャップマニスを3~4に対して、サンバルアスリを1の割合で合わせると、本場さながらの味となり、炒飯のナシゴレン、焼きそばのミーゴレン、焼き鳥のサテ、その他白身魚の煮物など幅広くご利用いただけます」と紹介しています。

 このあたりの実物を見たければ、関西ならば神戸の南京町、関東ならば上野のアメ横センタービル近いのエスニック専門店街に行かれることです。

 このようにケチャップ一つをとってみても言葉と食の変遷は様々で、ぞこに思わぬ広がりを感じ取って下さい。

ケチャップの歴史2~トマト・ケチャップ出世譚:食について Part19

2020 6/15 総合政策学部の皆さんへ

 ケッチャプの歴史2は、トマトケチャップの材料であるトマトの歴史から入りたいと思います。そもそも皆さんは、トマトが中南米原産であることをご存じですか?

 1492年のクリストフォーロ・コロンボ(=クリストファー・コロンブス)の大西洋航路開拓から始まるヨーロッパ人の新大陸進出は、先住民たちにとってはヨーロッパ人がもたらした感染症による大量死(とくに天然痘)や、金銀をめぐる強奪を皮切りに現在にまで続く悲惨な運命に追い込みますが、奪った金銀よりもはるかに豊かなものを旧大陸に与えます。

 なお、コロンブスがもたらした旧大陸と新大陸間の植物(作物)、動物(家畜)、食物、人口(奴隷を含む)、病原体、鉄器、銃、思考(宗教)等に及ぶ様々な“交換”を近年は“コロンブス交換”と呼びます。

 それが一群の作物たちで、トウモロコシ、ジャガイモ、サツマイモ、キャッサバ(=近年、突然、日本人にも身近になったタピオカの原料)、タバコ(総体的には人類にとって利益だったか、害悪だったかは計りかねますが)、カボチャ、インゲンマメ、ピーナツ、トウガラシ、ココア、パイナップル、ゴム、そしてトマト等です。まったくの話、北方ヨーロッパ人はジャガイモによって飢えから救われますし、トウモロコシは世界三大穀物の一つにまで出世します。

 例えば、アフリカの市場を歩けば、そこで売っている作物の多くが新大陸起源であることに気づかざるをえません。さらにトウガラシ抜きのカレーや、同じくトウガラシ抜きのキムチを今や想像しにくくなっているように、たった500年間でこれらの作物は地球上に広がっていきます。

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 そのトマトですが、実は、最初は食物としてなかなか受け入れられなかった、という一つ話が洋の東西をとわず伝えられています。

Wikipediaでは、「1519年にメキシコへ上陸したエルナン・コルテスがその種を持ち帰ったのが始まりであるとされている。当時トマトは「poison apple」(毒リンゴ)とも呼ばれていた。なぜなら裕福な貴族達が使用していたピューター(錫合金)食器には鉛が多く含まれ、トマトの酸味で漏出して鉛中毒になっていたためである。鉛中毒の誤解が解けた後も、有毒植物であるベラドンナに似ていたため、毒であると信じる人も多く、最初は観賞用とされた」とあります。

 日本には17世紀中期頃に、オランダ人が長崎の出島に種子を持ち込んだのが始まりだといわれていますが、食用としては普及せず、赤い実を珍しがる、つまり観賞用植物だったとのことです。やはり日本人にとってもなかなか手を出す気になれなかったのかもしれません。そのトマトは日本では唐柿、赤茄子、蕃茄、小金瓜、珊瑚樹茄子等と呼ばれたそうです。

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 このあたりで私の個人的な記憶にもつながってくるところですが、それは私の母方の曾祖母に遡ります。新潟で育った新穂イク(旧姓柾谷)は新潟の海鮮問屋の末裔のためか、なんでも進取の気性に富み、どこで覚えた知識なのか、石油の一斗缶を工夫して手製の天火(オープン)を作り、カステラを焼いたりしていたそうですが、1920年頃、コロナウィルスのお陰で最近人口に膾炙しているかのスペイン風邪で死亡します。

 そのイクが娘(私の祖母新穂信恵)を丈夫にそだてようと、横浜から“赤茄子”の苗を取り寄せ、育てた実を、これまたどこから聞いたか、お湯をかけて皮を湯剥きし、そこに砂糖をかけ娘に食べさせるのですが、当の娘は「こんなまずいものはない。食べるのに往生した」というのです。

 先に触れたようにイクはスペイン風邪で命を落としますが、その後、家庭内のいざこざから信恵はシングル・マザーとして遠く名古屋の地に住み着くことになるのですが(そのため、私自身、母方の祖父は顔も名前もまったく知りません)、その時はじめて「生のトマトに塩をかけて食べたら、こんなにうまいものだったのか!」と感嘆したということです。このあたり、まさに日本人のトマト受容史の一コマではあります。

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 とはいえ、日本でのトマト受容も急ピッチで進みます。カゴメ株式会社創設者の蟹江一太郎が、名古屋農業試験場の佐藤杉右衛門から種子を譲り受けて栽培を開始するのが1899年(私の祖母信恵が1897年生まれなので、信恵はこの時2歳、ほぼ同時代です)、作りすぎたトマトの処理のためトマトソース(ピューレ)を試作するのが1903年(信恵6歳)、そしてトマトケチャップとウースターソース製造に着手するのが1908年(信恵9歳)です!

1914年には共同出資で愛知トマトソース製造(資)を設立、1933年にはトマトジュース製造にも乗り出します(カゴメHP「カゴメの歴史」)。この頃にはすでに私の祖母信江は名古屋で小学校教師をしながら、私の母を育てていたわけです。

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 こうした時代経過をまざまざと示す文献に、明治期の小説家村井弦斎の『食道楽』(1903~1904)があります。そこには当然、「赤茄子」も登場しています(青空文庫『食道楽 秋の巻』)。少し引用してみましょう。ちなみに、信恵はこの時6歳、ひょっとして曾祖母イクは村井弦斎を読んで、トマトを取り寄せたのかもしれません。

お登和嬢「ハイありますとも、先ず牛肉の生ならば好く筋を除とらなければなりません。(略)それを肉挽で挽いて別にブラウンソース即ちバター大匙一杯を溶かしてメリケン粉大匙一杯を黒くなるまでいためてスープを大匙三杯に罎詰のトマトソース一杯入れて塩胡椒で味をつけたソースを今の肉へ混ぜて生玉子を一つ入れて、ジャガ芋のゆでて裏漉にしたのを肉の分量と同じ位入れて皆みんな一緒によく混ぜ合せます。それを長くでも平たくでも手で好きな形に丸めてフライパンでバターを入れて焼きますが上等にすればその外に玉子を湯の中へ割って落して半熟に湯煮て肉の上へ載せて別にブラウンソースをかけて出します。これはドライハッシといって御老人なんぞにはどんなに好いお料理でございましょう」(第224 西洋の葛餅)

 そして、第232に赤茄子ジャムの記事がでてきます。「玉江嬢「私どもでも今年はトマトの苗を買って植えましたが沢山出来過ぎると始末しまつに困こまりますね」お登和嬢「イイエ、赤茄子は沢山あっても決して始末に困りません。トマトソースを取っておいてもトマトのジャムを拵えておいても、年中何に調法するか知れません。トマトソースを取りますのは赤茄子を二つに割って水と種を絞って鍋へ入れて弱い火で四十分間煮てそれを裏漉にして徳利のような物へ入れて一時間ばかり湯煎にしてそれから壜へ詰めて口の栓を確りしておけば何時でも持ちます。(略)。トマトの皮を剥いたらば二つに割って種と水とを絞ってトマト1斤ならば砂糖も同じく一斤の割でザラメ糖か角砂糖をかけてそのまま3、4時間置くと砂糖が溶けてトマトの液が出ます。それを最初は強い火にかけて上へ浮いて来るアクを幾度も丁寧に掬い取って30分間煮てアクがいよいよ出なくなったら火を弱くして1時間煮詰めるのです。煮詰める時決して掻かき廻まわしてはいけません。アクを幾度も丁寧に取らないと出来上った時色が悪くなります」(略)「赤茄子のジャムは売物にありませんからお家で沢山拵こしらえておおきなさいまし

 ちなみに、『食道楽 秋の巻』にはケチャップの文字は見当たらないようで、どうやらこの赤茄子ジャムこそトマトケチャップに近いかもしれません。日本ではどうやらトマトはまずトマトソースとして、次にトマトジャム(トマトケチャプ)として料理の材料に取り入れられていったようです。生野菜としての受容はさらにその先だったかもしれません。

 当然のことですが、食道楽の頃には、トマトジャムの市販品がなかったこともわかってきます。ちなみに、トマトソースについては「生の赤茄子のない時には壜詰のトマトソースを同じ分量で加えますが味は生の物に及びません」とありますから、カゴメが市販品を出すのとほぼ同時期になります。

ケチャップの歴史1:食についてPart18

2020 4/22 総合政策学部の皆さんへ

 今回の話題は“ケチャップ(英名:ketchup)”です。とはいえ、ここではあえてトマト・ケチャップと言っておきましょう。というのも、世界にはいろいろなケチャップがあるからです。

 といきなり言われても何のことか見当がつかない、トマト・ケチャップ以外のケチャップって? ととまどう方も多いでしょう。それでは一つ質問です。ケチャップとはそもそも何語でしょうか? 皆さんご存じでしょうか?

 日本語版Wikipediaの「ケチャップ」の項には、「1690年に出版された北アメリカの辞書 A New Dictionary of the Terms Ancient and Modern of the Canting Crewにketchup、1699年に出版されたイギリスの飲食用語辞書 BE’s Dictionary of the Canting Crew of 1699にcatchupという言葉が収録され、説明として「東インド奥地のソース(a high East-India Sauce)」と記されていた」とあります。

 この東インドとは、「インド東部」ではなく、「アジア・極東・東洋。狭義には東インド諸島・オランダ領東インド」のことで、つまりは英語ではないのです。17世紀後半から19世紀にかけて、イギリス帝国主義勃興期、様々な外来語が英語にはいってきました。「バンガロー」はヒンディー語の बंगाल(バングラ=ベンガル風)という言葉に由来し、「バラック」はカタルーニャ語の「barraca」から、キャラコ(インド産の平織りの綿布)はインドのカリカット港の名前に由来します。ケチャップもその一つなのです。

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 では、東インドのケチャップとは何か? Wikipediaでは「ケチャップというと日本ではトマトケチャップのことを指すが、インドネシア語ではソース全般を指し、語源は東南アジアで使われている福建語の”ke-zyap 鮭汁”といわれている」。つまり、Ke-zyap(鮭汁;福建語)⇒kecap(インドネシア語=もともとはマレー語のスマトラ・リアウ州の方言)⇒catchup、catsup(イギリス)⇒ketchup (現代アメリカ英語)と変化した次第です。

 なお、“鮭汁”とは「閩南語や台湾語では、小魚やエビの塩辛から分離した液体を kechiap、koechiap(鮭汁ケーチアッ)」と呼ぶとのことで(Wikipedia)、要するに魚醤のことですね。この場合、中国で使われる漢字の“鮭”とは「フグを指し、サケという意味は日本での国訓で」なのだそうです。したがって、“鮭汁”とあっても日本のサケが材料ではありません。

 インドネシア語でのケチャップはさらに、ケチャップマニス(甘いケチャップ)とケチャップアシン(辛いケチャップ)にわかれるそうですが、前者がより一般的だということです。ケチャップマニスの作り方は「大豆と小麦を発酵させ、パームシュガー、塩などを加えてつくられる」(Wikipedia)とありますから、醤油に糖分が混じっているようなものだとも言えます。皆さんも神戸の南京町の商店の奥の方に入り込むと、その世界が見えてくるはずです。

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 このケチャップがヨーロッパではさらに分かれていくというのが食べ物の面白いところで、イギリスではまずキノコを使った発酵食品になります。すなわち、「キノコの保存調味料(Mushroom ketchup)、キノコに塩を振り、2・3日置いてからしみ出た汁を香辛料と煮詰めたもの)」(Wikipedia)となります。さらに「カキ、アンチョビ、ロブスターといった魚介類や、クルミ、インゲンマメ、キュウリ、ブルーベリー、クランベリー、レモンそしてブドウなど植物素材を材料とするソースが考案され、様々なスパイスが加えられるなどして変化しながらバリエーションを増やしていった」というわけなのですが、さらにアメリカに渡ると中南米原産の作物、トマトとの劇的な出会いが生じる。これがトマトケッチャプなのです。

 ですからトマトケチャップは根っからのアメリカ食品。ケチャップと聞いて、トマト・ケチャップしか頭に浮かばないようでは、イギリス人あたりに「君はアメリカ文明、あるいはハリウッド文化にすっかり染められているんだね」とからかわれてしまうかもしれません。

 昔、ある冒険活劇通俗小説のなかで(もうすっかりタイトルも、作者が誰かも忘れてしまいましたが)、イギリスの上流階級出身でギャンブル狂の海軍軍人が「もしも俺の頭のなかが狂ってしまったら」と妄想をはじめ、「あのアメリカ人のように、なんにでもケチャップを振りかけたりするんだろうか!!」と慨嘆するシーンがでてきたのをうろ覚えしています。

 Wikipediaでも逸話として、「2016年アメリカ合衆国大統領選挙を経て大統領になったドナルド・トランプは、ウェルダンに焼いたビーフステーキにトマトケチャップをかける食事風景が話題になり、洗練された味覚とはかけ離れている、または素材を台無しにするといった批判を受けることも多いが、依然として外遊先の食事にトマトケチャップを用意させるなど、外交儀礼よりも自身の好みを優先させる方向性は改まることがない」とつけくわえていますが、あなたはケチャップ派? それともマヨラー? もちろん、どちらも好き、という方でもかまいませんが。

翻訳について番外編Part2:森山多吉郎の後輩たちに見る長崎通事の栄光と幕末キャリアプラン

2018 10/12 総合政策学部の皆さんへ

 翻訳について番外編Part1の続編、主人公は森山に江戸で英語を学んだ同じ長崎通事出身の福地源一郎(号桜痴)に交替です。福地は安政6年(1859年)、青雲の志をいだき19歳で江戸に上京、郷里の先輩森山に師事しますが、後年、『懐往事談』に書き残した回想では、

 (森山)先生は通称多吉郎とて、長崎オランダ通詞の出身、数年前より徴されて江戸に来たり。常に江戸下田の間を往復してもっぱら条約のことにかかわり、当時は外国奉行支配調べ役並格にて外交の通詞を任じ、幕府外交のことについては最も勤労を尽くしたる人なりき。(略)江戸にて英語を解し英書を読みたる人は、この森山先生と中浜万次郎氏との両人のみなりければ、余はこの先生について学びたるなり。

 もっとも、師弟たちの苦心の英語修業も、幕府から命じられたことではなく、各人の個人的努力です。『懐往事談』には同年6月、外国人居留地がある横浜(運上所=現在の税関)への出張を命じられ、(福沢と同様)福地は、以下のように気づきます。オランダ語に固執していれば、通詞としての自分の仕事は安泰ですが、どうやらそれでは済まされない。上層部は何の指示をしなくとも、自ずから勉強せざるをえない=近代的自我の誕生とも言えるかもしれません。

 英語は実際欠くべからざる用語にて、(日本語文書とオランダ語文書でのやりとりを定めた)条約を頑守してはとても双方の用便にさしつかえる」ことに気づきます。そして「余輩が少々ばかりならい覚えたる英語も、この時には大いにその便利を感じ、これよりして英語修練は外交上大切なる事務とはあいなりたり。しかれども、幕府はあえてこれを奨励することをもなさず、また、そのために修業の道を開きたる事もなかりき。

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 とは言え、すでに森山が伐り開いた道がある=個人的な興味であれ、外国語を学べば立身出世(=しがない長崎通詞から公方様直臣へ)につながる。すでにロールモデルが存在し、一つのキャリアコースが成立済みです(実を言えば、これこそ外国語で出世していく=伊藤博文、青木周蔵金子堅太郎などの明治新政府のキャリアコースにつながります)。福地はこちらのコースを選択した結果、必然的に、当時の体制派=幕藩体制の支持者にもなります。そんなかつての(先を見誤った)軽躁な日々を反省するのは、明治になって事がすべて済んでから、という始末です。

 (自分は)もとより純乎たる佐幕主義にて、いやしくも時勢許るさん限りはあくまでも幕府独裁の制を保守せんと望み、深く京都の干渉と諸藩の横暴を憎み、かの公武合体といい諸藩会議というがごとき、合議政体と幕府独裁とは両立すべきものにあらずと主張せしものなり」として、「感情に劇せらるるごとに知らずしらず持見を動揺して、条理の分別をみだし、適性の定説をあやまること、この時始まれり。

 福地はさらには慶応3年12月、主戦論に惑わされ、江戸城よりはるばる大阪に出向きながら、その幕軍が鳥羽伏見の戦に大敗、あまつさえ首領であるはずの徳川慶喜が(ほとんど誰にも知らせずに)大阪城立ち退きを決行して、海路、江戸に舞い戻る始末です! 江戸に上陸するや慶喜は謹慎中の勝海舟を呼びつけます。彼の心はすでに恭順と決し、勝にその交渉をあたらせる腹づもりだったのでしょう。急を聞いてかけつけた勝は、

 みんなは、海軍局のところへ集まって、火を焚いていた。慶喜公は、洋服で、刀をカウかけて居られた。オレはお辞儀もなにもしない。頭から、みなにサウ言うた。「アナタ方、何と言う事だ。これだから、私が言わない事ぢゃあない、もうかうなってから、どうなさる積もりだ」とひどく言った。「上様の前だから」と、人が注意したが、きかぬ風をして、十分言った。刀をコウ、ワキにかかへて大層罵った。己を切ってでもしまふかと思ったら、誰も、青菜のやうで、少しも勇気はない。かくまで弱って居るかと、己は涙のこぼれるほど嘆息したよ。(勝海舟(江藤淳・松浦玲編)『海舟語録』講談社学術文庫版)

 勝が目の当たりにした光景は、それまでの国家の体制が一気に崩れ落ちるとともに、福地をはじめとする佐幕派の希望が潰えた瞬間なのです。

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 さて、首領(=慶喜)にまんまと置き去りされた福地らは、這々の体で江戸に舞い戻りますが、慶喜や幕閣がすでに非戦に心を決したとしても、幕府倒壊という未曾有の事態に人心さだまりません。勝もここでは「裏切り者」にほかなりません。

 あるいは相率いて脱走する者もあり、あるいは、勝安房守は降伏論の主張者なれば暗殺すべし、と叫ぶ者もありて、人心ますます昂激し、ほとんど全幅の感情のみ左右せられて、道理は自他の耳にはいらざるほどのありさまにてありき。

 なお主戦論を侍してやまず、あるいは近々米国より回航すべき我が注文の軍艦(甲鉄船の東艦)を海上沖に待ち受けて受け取るべし、と同志に語わられては、これを行わんと試み、あるいは仏国によしみを通じてその調停の干渉を乞い、その言聞かれざる時は、仏国の兵力を借りて幕府に応接せしめんことを望、口に任せて説きまわりたりしが、今日より回顧すれば、実に国家と言える観念は我らが胸中にはみじんもなく、さらに将来の利害禍福を察するにいとまなかりしは、慄然としてわれながら身の毛もよだつ程にてありき。

 その日々を反省するのは、先にも言ったように、明治の御一新も軌道にのってから。振り返って見れば、かつての「論語読みの論語知らず」ぶりに、我ながらあきれますが、しかし、これは国家、国民、民族などの概念を一度に消化するためにはやむを得ぬことではあったでしょう。

 そのころはすでにいささか洋書も読みて、万国公法がどうでござるの、外国交際がかようでござるの、国家は云々、独立はかくかく、などなど、読みかじり聞きかじりにて、ずいぶん生まぎぎなる説を吐きて人を驚かし、もってみずから喜びたりしも、いまやおのれ自ら身をその境界に置くにさいしては、まったく無学無識となりて、後患がどうであろうが将来はなんとなろうが、さらに頓着するにいとまなく、ひたすら徳川氏をしてこの幕府を失わしむるが残念なりという一点に心を奪われたり。

 横浜の居留地を外国人に永代売り渡しにして軍用金を調達すべしといえば、これもって名策なりと賛成したるがごとき、今日より回顧すれば、何にして余はかくまで愚蒙にてありしかと、自らあやしまるほどにてありき。しかれども、これはあえて余一人のみにあらず。当時幕府のために主戦説を唱えたる輩はみな同様の考えにて、とうてい日暮れて道遠し、倒行して逆施せざるを得ずといえるが当時の決心たりしこと、争うべからざるの事実なり。

 なんだか、最近のWebでやたらに投稿される、その場限りの思いつきコメントを想い出してしまいますが、福地の良さはそれを素直に吐露・反省するところ。それにしても、せっかく長崎から江戸にでて、幕府の中枢にまで伸びたコネクションもキャリアもすべて無になるのは、いかにも耐え難いところであったでしょう。

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 さて、御一新後の福地はどうしたかと言えば、慶応4年閏4月(1868年5月)、江戸で『江湖新聞』を創刊して、幕臣よりジャーナリストに転じますが、「結局、政権が徳川から薩長に変わっただけではないか」という記事が筆禍となり、発禁・逮捕されてしまします。木戸孝允の取り成しでなんとか無罪放免になると、今度は「夢の舎主人」等と号して戯作に手を染めるという文筆業と、英語・仏語の翻訳・教授で身をたてます。

 ところが、明治3年には渋沢栄一の紹介で大蔵省入り、岩倉使節団の一等書記官として米欧視察後、明治7年大蔵省を退職、政府系の『東京日日新聞』にかかわり、政権系ジャーナリストになります。このあたりはめまぐるしいまでのキャリアの変遷、新時代に自分の落ち着きどころを探すのに四苦八苦というところです(オポチョニストでもあったと言えそうです)。

 明治10年代は、東京商法会議所設立にかかわり、東京府議会議員に選出、さらに政権寄りの立憲帝政党を結成しますが、これは失敗。結局、自らの見過ぎ世過ぎは手慣れた文筆行ということで、9代目市川團十郎などと演劇活動にかかわり、さらに翻訳、戯曲・小説を執筆します。明治の彼の活動では、この演劇改良運動・劇場運営(歌舞伎座の創設)、歌舞伎座の座付き作者、評論活動などにいそしみ、明治39年(1906)没します。時代の波にのりながら、波を乗りこなせずに、それでもしぶとく時代を渡りきった人生と言うべきかも知れません。

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 このどこまでも派手で、かつ“パッパラパー”な福地の人生と比べれば、はるかに堅実なのは、17歳年上で、森山とともにマクドナルドから英語を習った本木昌造(1824~75)でしょう。本木は、森山・福地が上京後の1869年、長崎製鉄所付属活版伝習所を設立します。学問の普及は、まずそのメデイアの確立から、という地に足のついた仕事ぶりです。Wikipediaによれば、

 同年グイド・フルベッキの斡旋で美華書館のウィリアム・ギャンブルから活版印刷のために活字鋳造及び組版の講習を受けた。このとき、美華書館から5種程度の活字も持ち込まれた。川田久長『活版印刷史―日本活版印刷史の研究』(1949年)ではこの伝習は1869年6月のこととするが、小宮山博史「明朝体、日本への伝播と改刻」(『本と活字の歴史事典』、2000年)では11月より翌3月までとする。

 1870年、同所を辞し、吉村家宅地(ただし吉村家屋敷を長州藩の者がたびたび使用したため萩屋敷ともいったという)、若しくは長州藩屋敷に武士への授産施設や普通教育の施設として新街新塾を設立する(ただし、陽其二が設立したものを引き受けたとの異説がある)。この塾の経営で負債が溜まり、解消の一助に新街活版製造所を設立した。ギャンブルの活字にはひらがなはなく新たに開発する必要があった。その版下は池田香稚に依頼されたものであった(この字を「和様」と呼ぶことがある)。同年、小幡正蔵、酒井三蔵、谷口黙次を送って大阪に支所を作り(後の大阪活版所)、1872年、小幡と平野を東京に派遣し長崎新塾出張活版製造所を設立させた(後の築地活版)。本木は新塾の経営が苦しくなると、製鉄所での業績回復の実績のあった平野に活版製造所の経営を任せ、平野はみるみるうちに業績を回復した。また、陽を神奈川に送り、横浜毎日新聞を創刊させたり、池田らとともに長崎新聞を創刊したりした。(Wikipedia)。

 しかし、維新後は事業がかならずしもうまくいかず、体調もすぐれないまま、本木は1875年9月3日に死去します。森山多吉郎はすでに1871年5月4日に死亡、一方、福地源一郎は『東京日日新聞』でジャーナリストとして活躍している頃にあたります。通詞キャリアコースも新旧の入れ替えがはじまります。

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 ところで、福地は御一新のみぎり、新政府との政務引き渡しの業務を果たすため、主戦論者に誘われて「脱走にくわわることあたわざりしは、今日より顧みれば余が幸いにてありき」と回想しますが、実は、長崎通詞のなかには実際に脱走に加わり、函館まで渡った者もいます。この時のほんのちょっとした決断の差が、彼らの人生を変えてしまうわけです。

 その一人、長崎通詞出身の五島英吉は戊辰戦争に身を投じ、榎本武揚や元新撰組副長土方歳三らとともに五稜郭まで転戦します。もちろん、皆さんも知っての通りの敗戦、新政府側の追求を逃れて英吉が逃げ込んだ先が函館ハリストス正教会でした。ここは「1859年(安政5年)にロシア領事のゴシケヴィッチが領事館内に聖堂を建てたのが源流」とされる「日本正教会でも伝道の最初期からの歴史を持つ最古の教会の一つ」だそうです(Wikipedia)。

 この教会にかくまわれた英吉は、ロシア人たちから料理とパンの作り方を覚え、若山惣太郎とともに1879年、在留外国人や外国船にパンや西洋料理を納める小さなレストランを開業します。この五島軒は現在でも函館他で開業中です(洋食バル 函館五島軒HP;http://hakodate-gotoken.com/gotoken/)。英吉自身はここで7年間コック長を努め、明治19年の火災で店が焼けた後、横浜に転居したとのこと。その後の英吉の消息ははっきりしないようですが、横浜に転居後も夏に避暑に訪れ、五島軒の2代目が帝国ホテルで修行する際にも協力したということです。

翻訳について番外編Part1:森山多吉郎に見る長崎通事の栄光とライフヒストリー、あるいは幕末キャリアプラン

2018 9/5 総合政策学部の皆さんへ

 翻訳について番外編、今回のマクラとして、皆さんは“長崎通事”のことをご存知ですか?

 Wikipediaでは「江戸幕府の世襲役人で公式の通訳者のこと」、「ポルトガルとの南蛮貿易の際の通訳に始まり、オランダ貿易や中国貿易などを担当した。漢字は通事、通辞、通弁などとも書き、出島役人などとも言う」、「蘭学などが彼らによって日本に入ってきたように、西洋文化受容の受け皿となっていた」とあります。江戸時代、家業によって身分保障されていたことにより、通詞の家系は仕事を保証されていたとも言えますが、一生、通詞のままで過ごすということもまた“予定”されていた。
 
 しかし、幕末、彼らは“黒船”などの来航に際し、英語やロシア語の習得まで求められます。さらに、思っても見なかった幕臣への出世まで起こりうる。外国語さえできれば“食える”し、そのまま“出世”もできる(この時生まれた“外国語・外国文化コンプレックス”が、現代日本に生きる我々のあたりまでも色濃く烙印されている、とも言えますが;なにしろ、英語が読めるという理由で、こちらも軽輩出身の伊藤博文が第1代総理大臣に就任する時代です)。

 それでは、この乱世に自らも小普請組から幕府陸軍総裁に就任し、御一新後は枢密顧問官まで勤める(それゆえ、福沢諭吉に非難されてしまうことになりますが)勝海舟が「時世で人が出来て、逆境がよく人をこさえる」と語った時代における、彼らの人生をちょっと紹介してみましょう。

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 まず、代表格の一人は森山栄之助/多吉郎(1820~1871)でしょう。代々の長崎オランダ通詞の家柄に生まれながら、蘭語以外に英語も勉強し、嘉永元年(1848)にはアメリカ捕鯨船船員ラナルド・マクドナルド、嘉永6年(1853)のプチャーチン来航、さらに嘉永7年(1854)のペリー来航でも通訳を務め、ついに長崎を離れて江戸詰めになります(1858年8月、外国奉行支配勘定格に任ぜらえる)。一躍、日本の対外外交の最先端に連なることになります。

 ちなみに、手元にあった『ペリー提督日本遠征日記』(小学館版)では、4月6日の項に「村や集落に私たちが入ろうとすると、一足先に人がやられて、女や下層民を追い払っているのに気がついた。これを通訳の森山に言うと、「それは女たちが内気で恥ずかしがり屋だからだ」と彼はしたり顔で答えた。「しかし、そんな話はまったく信じられない」と私が言うと-辛辣過ぎるとは思わない。なにしろ、日本の通訳の仕事は嘘をつくことなのだ-、次ぎに行く村では軽い食事を用意させているが、そこでは女たちを追い払わないようにする、と彼は約束した。そういうわけで、その村に入るとだれもかれも-男も女も子供も-見物に集まってきた」とでてきます。しかし、この後の日米の交渉では、アメリカ側も結構“嘘談(うそ)”を重ねては、幕府側に密かに見破られるなど、結構良い勝負だったようです(井上勝生『幕末・維新』岩波新書)。

 なお、この時の交渉について、ペリーは「林(林大学頭の述斎=幕府側全権)と私の間には、主席通訳の森山栄之助がひざまずいており、やりとりはすべて彼を通して行われた。まず私が英語でポートマン氏に言うと、彼がそれをオランダ語で森山に伝え、今度は森山が日本語に訳して主席委員に伝えるのである。返答は同じようにして私に伝えられた。書面での通信は、こちらから英語、オランダ語、中国語で手渡し、返書は人後、オランダ語、中国語で戻ってくる。翻訳文については、かならず主席通訳の署名が添えられていた」とまとめています。

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 それでは、その森山の英語の実力は?

 ペリー来航前の長崎通詞時代、森山は幸いにして上記の不法入国者として長崎に入牢中のマクドナルドから、本木昌左衛門等とともに、7ヵ月にわたって英語を習った経験がありました。そのマクドナルドによれば、「 私にむかって一度にひとりが英語を読むことが彼らの習慣であった。私の役目は彼らの発音を正し, 出来得る限り日本語で英語の意味や構造等を説明することで あった」とのこと(森悟、1989「森山栄之助研究」『英学史研究』 21号)。これが日本における英語教育の走りなのです。

 ちなみにマクドナルド自身は森山の英語に「He spoke English pretty fluently, and even grammatically. His pronunciation was peculiar, but it was surprisingly in command of combinations of letters and syllables foreign to the Japanese tongue」(彼の英語はかなり流暢で、文法的でさえあったが、発音は変であった。しかし日本人の舌に合わぬ文字や音節の連結を驚くほどうま く使いこなした)と評したそうです。なんとなく「文法はまあまだが、発音が不得意」と形容される日本人の英語下手が想起されます。

 とはいえ、ペリーとの交渉では上記のようにオランダ語を通じてのものとなりましたが、森山は次第に英語に磨きをかけます。1859年、初代英国総領事に任命されたラザフォード・オールコックによれば、(1)文久2年(1862)に通訳として欧州に派遣される以前は、森山は「英語をすこししか話さなかった」が、(2)旅の途中に「イギリス人とも、 情報の交換ができるほど英語を話し理解するようになっていた」、そして、(3)帰国する頃は「ひじょうに語学が進歩していた」としています。やはり実地のコミュニケーションの経験こそが重要なのですね。

 ちなみに『福翁自伝』では、横浜で(適塾で一心不乱に勉強した)蘭語がまったく通用しないことに愕然とした福沢諭吉は「段々に聞いてみると、その時に条約を結ぶというがため、長崎の通事の森山多吉郎という人が、江戸に来て幕府の御用をつとめている」ということで、教えを請いにいきますが、「昨今御用が多くて大変に忙しい、けれども折角習おうというのならば教えて進ぜよう、ついては毎日出棺前、朝早く来い」と言われたのですが、「如何しても教えてくれる暇がない。それは森山の不親切という訳ではない。条約を結ぼうという時だから、なかなか忙しくて実際に教える暇がありはしない」ということで、紆余曲折の結果、福沢は後の陸軍少将・東京砲兵工廠長の原田敬策と独学で英語を勉強、咸臨丸でアメリカ来訪時、サンフランシスコの写真館での肖像写真を撮影時に、店の15歳になった娘さんをさそって一緒に写真におさまるまでになります。

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 その森山に通訳としての対応者が現れます。それがペリー来航で締結された条約にしたがって来日した初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリス付き通訳にして、生涯独身をつらぬき謹厳実直で、かつすぐに感情が激する上司とはいささか異なり、「食べること、飲むこと、眠ることだけは忘れないが、その他のことはあまり気にしない(ハリスの評)」闊達なオランダ生まれの青年ヒュースケンです(その闊達さが仇となったか、1861年、攘夷派の薩摩藩士伊牟田尚平らに暗殺されてしまいます)。

 この『ヒュースケン日本日記』(岩波文庫版)によれば、彼は下田到着後の1857年2月23日(日本の旧暦では安政4年1月29日)、カゴで案内された下田奉行所で歓待をうけながら、通訳森山に出会っています。日記には「第1奉行はそこで、彼の通訳のモリヤマ・タキツィロ(=もちろん、森山多吉郎)を通じて、こう説明した。身分のある人物が同様に身分の高い客を迎えて深い敬意を示そうと思うときは、手ずからお茶を入れてもてなすのだが、第一奉行は、親愛なる総領事閣下に敬意を表するために、いまそのおもてなしをしようと思う、と

 ハリスと日本側の虚々実々のやり取りの末、日米修好通商条約が成立する過程で、ヒュースケンの日記に森山の影が絶えずちらつきます。例えば、同年9月2日、「二人の奉行のところから使者として森山栄之助がやってきた。彼は昨日の要求を繰り返し、領事が信濃守の要求を入れなければ、信濃守はおそらく備後守の二の舞を演ずるであろうと言った。それに対する回答として、彼は私がたった今封をしたばかりの手紙を与えられた」。

 9月4日「ひきつづき奉行たちと会談。うんざりするような繰り言しか出てこない。彼らはけっして提案を拒絶したわけではないと主張する。彼らは通訳主任の森山に腹を立てている。そのため彼は会議に出席していない。彼らは自分たちが提案を拒絶したと領事が主張するなら、それは自分たちの言葉を通訳が正確に翻訳していないのだと言うのである。そこで今日は他の通訳が二人来ているが、その二人をあわせても森山一人分のオランダ語も知らないのである。それがさらに事態を悪化させている。つまりそれは拒絶した提案を復活させようがための奉行たちの小細工なのである」。こうなると、森山&ヒュースケン双方の通訳たちはなかなか大変です。

 しかしながら、交渉は進み、1857年12月4日(安政4年10月18日)ハリスとヒュースケンは下田から江戸に出府、まず老中堀田備中守に会見、この時の通訳も森山が勤めます。そして同月7日江戸城にて第13代将軍徳川家定に拝謁します。以下、ヒュースケンの日記には、ハリスの言葉に対して「大君(家定)は三度床を踏みならし、そして日本語で答えた。“Vergenoegd met eenen brief gezonden met den afgezant van een verafgelegen gewest en tevens met zyn gesprek. Eeuwig zal Gemeenschap gehouden worden”.これは通訳森山多吉郎のオランダ語で、意味は「はるか遠国より使節に託して寄せられた書簡をうれしく思う。また、使節の口上もよろこばしく聴いた。末永く交誼を保ちたいものである」ということである。この挨拶には人称代名詞がなかった。大君は「私」などという小さな言語を使うには偉大過ぎるからである

 この森山は幕府崩壊の直前、慶応3年 (1867)9月には兵庫奉行支配組頭に出世していますが、維新後に新政府に仕えることはなく、明治4年3月15日(1871年5月4日)、享年51歳で亡くなります。家業として親しんだオランダ語と偶然にも学ぶ機会を得た英語を駆使し、幕末の国際関係にからんで様々な重圧のもと、消耗し尽した人生だったのかもしれません。あるいは幕末の頃、守旧派や攘夷派そして世間全体に痛めつけられ、振り回された洋学者の一人として、攘夷を標榜としている新体制を信じ切れなかったのかもしれません(福沢諭吉も同じ頃、“攘夷派あがりの新政府”を警戒して出仕を断ります)。

 それでは、森山の遺志を誰がどのように継いだのか? そのあたりはPart2で続けましょう。

翻訳についてPart5:英米文学におけるアフロ系アメリカ人の話し言葉をどう訳すべきか?

2018 8/25 総合政策学部の皆さんへ

 最近では“グローバリズム”という言葉を聞かぬ日もないぐらいですが、そこで一番用心すべきは“翻訳”、あるいは“通訳”かもしれません。気がつかぬうちに“フェイクな情報”を掴まされてしまうかもしれません、しかも“翻訳/通訳者”には悪意もなければ、自覚もないうちに。

 例えば、このブログでも以前(2011 6/22)「翻訳についてPart2誤訳編:“ポケットに蠅を”?、そして“ノルウェーのネズミ”とは?」で誤訳について論じました。たとえば、「ポケットに蝿を」という訳は、英語の“fly”を文脈から察するに「毛針」 のはずなので本当は「ポケットに毛針を」の意味であり、「ノルウェーのネズミ」とは“Norway rat”を本来の意味である「ドブネズミ」ではなく「ノルウェーのネズミ」と直訳してしまったことに由来します。

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 さて、本日扱うのはこうした明確な“誤訳”ではなく、もう少し微妙なニュアンス、例えば、「話し言葉」を訳する時の問題です。一例をあげると、一時期(今もそうかもしれませんが)アメリカ文学、とくに南部文学においてアフロ・アメリカンによる「話し言葉」を独特の“方言”っぽい言葉に訳するのが一般的でした。たとえば、マーク・トゥエインの傑作『ハックルベリー・フィンの冒険』(この作品からアメリカ文学が始まった、というのがノーベル賞作家E・ヘミングウェイの指摘ですが)で、ハックが逃亡してきた旧知の黒人奴隷ジムにばったり出会うシーンですが、ジムは(とっさに「死んだはずだから、幽霊に違いない」と思い込んだ)ハックに叫びます。

助けてくれ-お願えだ! おらは幽霊にわるさをしたこたあ一ペンだってねえだ。いつだって、死んだ人は好きだけん、死んだ人にはできる限り尽くしてきただ。おめえ様はもう一ぺん川さ戻りなされ、あそこがおめえ様のいなさるとこだ。このジムおんじいば、そっとしておいてつかわさい。いっつもおめえ様の仲良しだったでねえだか」(野崎孝訳『ハックルベリー・フィンの冒険』講談社文庫版)

 さて、このジムが話す(ハックの台詞の訳とは少し異なる)方言ともなんともつかぬ表現。これこそが、日本で英米文学を訳する時、黒人奴隷あるいはその出身者の口調を表そうと日本の翻訳者が使っていた表現です。正直に言えば、こうした文学表現を当たり前にうけとって育った僕らの世代は、こうした(ある意味、黒人奴隷と日本の方言話者双方に対する差別的とも言えかねない)言い回しになんの疑問も持たずに育ちました。

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 一方で、アメリカ育ちの文学者がこうした文章を眼にした時に、どう感じるのでしょうか? 以下、ちょっと長い引用ですが、アメリカ人の立場から日本の翻訳本の世界を論じたものです。

本論は日常的な経験とそれに対するささいな疑問から生まれたものである。数年前に筆者(ロング)がァメリカ映画の日本語吹き替え版で黒人の登場人物はみんな東北弁で話していることに気付いた。また、老人が登場すると人種に関係なく広島弁をしゃべる。こうした映画を見て、「なぜアフリカ系のアメリカ人は日本の東北弁を話すのか」、そしてなぜ人が年を取ると広島弁になってしまぅのか」と不思議に思った」(中略)

例えば、ある映画に登場する無教養の田舎者は原作で南部訛りの英語を話している。これは、「南部方言は無教養の田舎者が話す言葉である」と示唆している。日本語の方言に対するイメージを調べるためには、その方言がどういう登場人物に使われているかを調べればよい。日本語吹き替え版で、この無教養の田舎者は東北弁を使わされている。したがって、日本で「東北弁は無教養の田舎者が話す言葉である」というイメージがあることが分かる

こうした理由で使われる日本語の方言は象徴的なものであり、しかも方言の専門家ではなく、一般人のために使われているので、言語学的に正確な方言である必要はない。また、特定な方言である必要もない。むしろ、場合によって、人物の二つの特徴を表現するため、異なった方言特徴が混用されることすらある。今回の黒人老人が「老人語」と意識されている中国地方の方言と黒人の話し方として定着している東北弁の両方の特徴が混ざったセリフを使うのもこの例に当たる。今回扱った資料で東北方言が教養のない社会的に身分の低い人々のセリフ に使われていたので、東北方言が決して良い方に写っているとは言えない。これまでの方言意識研究でも、こうした方言イメージがたびたび取り上げられた。井上史雄(1989)のSD(意味微分)法による方言イメージ研究では、「東北弁」が若「い女性にふさわしくない」、「ぞんざい」、「悪いことば」、「乱暴」、「汚い」といった否定的な特徴と結ばれることが多かった。こうした傾向が、東京や札幌、京都の出身者の間だけではなく、東北出身者の間にさえ見られたのである」(ダニエル・ロング・朝日祥之「翻訳と方言:映画の吹き替え翻訳に見られる日米の方言観」『日本語学』1999)

 いかがでしょうか? 異国の言葉を“翻訳する”際に、そこにゆくりもなく自らの“偏見的解釈”が忍び込み、それが言葉を通じて読者に拡大再生産されていく過程がおわかりになるでしょうか? この引用文で最後に著者らは以下のように主張します。

方言差別をなくすためには、まず問題の実態を把握する必要がある。日本では、方言イメージ研究は長い歴史を持っており、そしてさまざまな方法論の利用によつて、研究対象を複数の側面から接近することができた。本稿で提案した研究方法によつて、社会の一般構成員が潜在的に抱いている方言一ステレオタイプの今まで見えてこなかった側面から把握することができると確信している

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 さて、他者の文学を翻訳する際に垣間見える自らの言語観・偏見・差別を考えることで、自らを省みましょう、というのが本日のストーリーということになりますが、それではどんなふうに訳せばよいのでしょうか? 2017年12月に出版されたばかりの柴田元幸訳による『ハックルベリー・フィンの冒険』の冒険では、さきほどのジムの台詞は以下のように書かれています。

いたい目にあわせないでくれ-たのむよ! おれユウレイにわるさしたこといっぺんもねえよ。おれいつだって死んだ人たちが好きだったし、できるだけのことはしてやったよ。あんたも川にもどってくれよ、あそこがあんたのいばしょだよ。このジムになにもしねえでくれよ、おれいつも、あんたのともだちだったろ」

 
 どうでしょうか? 「東北弁」のような「奴隷言葉」に訳すうちに、知らず知らずにハックとジムの関係をすり込まれていく、そんな翻訳の世界からまったく新しい言語感覚の世界にはいっていくべき時がきたのかもしれません。

国家の誕生:国名はどうやって決まるのか?Part 1

2017 9/3 総合政策学部の皆さんへ

 国名はどうやって決まるか? これはなかなか蘊蓄が深いことかもしれません。例えば、オランダです。日本人にとっては“オランダ”という名称が人口に膾炙していますが、これは歴史的にもっとも有力だったホラント州に由来するものであり、かつ、ポルトガル語から日本に伝わったものだそうです。したがって、正式にはNederland(オランダ語)、あるいはNederlân(西フリジア語)、英語の表記ではThe Netherlands、これらはいずれも「低地の国/地方」の意味で、つまりは「低地諸国」という塩梅です。つまり、地形できまった国名ということになります。

 それでは、皆さんに質問! “フィリピン”という国名は何が語源か、ご存じですか? これをとっさに答えられたら、立派なものかもしれません。フィリピンとは、民族の名前なのか? 島の名前なのか、海域の名前なのか、都市の名前なのか?

 たとえば、“カザフスタン”は、“カザフ人カザフ語[テュルク系言語の一つ]を話す人達)”の自称民族名カザフ+テュルク系言語で“国、あるいは**人が多いところ”を表す“スタン”をつなげたもので、カザフ人が多い国/場所という意味となり、民族名が国家名になったわけです(とはいえ、その民族構成は、Wikipediaによればカザフ人65.5%、ロシア人21.4%、ウズベク人3.0%、ウクライナ人1.7%、ウイグル人1.4%、タタール人1.1%、ヴォルガ・ドイツ人1.1%、その他4.5%だそうです(2014年)。同じパターンが、ウズベキスタンタジキスタントルクメニスタンと並びます。

 ちなみに、ウィグル人の国家=ウィグルスタンが存在しないのは、言うまでもなく、彼らは中華人民共和国の中の新疆ウイグル自治区などに取り込まれているためです。なんとなればウィグル人11,842,000人のうち、11,478,000人(96.9%)が中国内に在住しているそうです。

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 一方、シンガポールでは島の名前か(シンガポール島)、そこの巨大都市の名前か(シンガポール市)、やや判然としません。ちなみに、シンガポールのそもそもの語源は、「マレー語の「スィンガプラ(Singapura)」を直訳すると「ライオンの町」となるため、Lion Cityの愛称で呼ばれる」とのことです(Wikipedia)。

 ということで、肝心のフィリピンに話を戻しますが、これはなんと、「1542年に、スペイン皇太子フェリペ(のちのフェリペ2世)の名から、スペイン人の征服者ルイ・ロペス・デ・ビリャロボスによってラス・フィリピナス諸島と名づけられたことに由来する」(Wikipedia)。つまり、西洋人が“発見”した土地を、先住民などにはまったく顧慮もせず、勝手に名前を(しかも自分の王家の人間の名前を)土地に付けて、その土地の名前がそのまま国家になったというわけです。

 こうした脈絡を当時の日本に例えれば、1544あるいは45年頃に日本に流れ着き、日本に鉄砲を伝えることなどに重要な役割を果たしたと自称しているポルトガル人の遍歴冒険家メンデス・ピント(通称ほら吹きピント)あたりが、種子島を“発見”して、当時のボルトガル王ジョアン3世敬虔王のお名前にちなみ、ジパングならぬジョアングなどと名付けて植民地化していたら、日本はどうなっていただろう!・・・・・というような話になってしまいます。

 なお、このピントの主著、原題は「我々西洋では少ししかあるいはまったく知られていないシナ王国、タタール、通常シャムと言われるソルナウ王国、カラミニャム王国、ペグー王国、マルタバン王国そして東洋の多くの王国とその主達について見聞きした多くの珍しい事、そして、彼や他の人物達、双方に生じた多くの特異な出来事の記録、そして、いくつかのことやその最後には東洋の地で唯一の光であり輝きであり、かの地におけるイエズス会の総長である聖職者フランシスコ・ザビエルの死について簡単な事項について語られたフェルナン・メンデス・ピントの遍歴記」です。これまたなかなか奧が深そうです。

 私の手元にある日本語訳は抜粋版の筑摩世界ノンフィクション全集『東洋放浪記』(近藤昇一訳)ですが、その後で立ち寄った沖縄について、「なお、この国の事情を、いつかポルトガルに役立つことがあるように、例の通り簡単に情報として記しておく。その一番大切なことはキリスト教の布教をすることである。その後で、この島を占領しようと思えば、占領しても良い。この島は足がかりにするにはよいこと、非常に儲かること、占領しやすいことがわかった」と豪語していますから、沖縄からさらには日本に侵略を進めることだって、可能性がゼロではありません。そして、その結果、国名も変わっていく可能性さえないわけではなかったかもしれないのです。

中島みゆきの歌詞考:“買いはたく”とは? そして、願い事は叶わなったか? 叶い過ぎたか?

2017 1/11 総合政策学部の皆さんへ

 ボブ・ディランがノーベル文学賞受賞という昨今、流行歌(“はやりうた”と読んで下さいね)もめでたくアートという立ち位置を占めたわけですが、皆さんはどんな“流行歌”に衝撃を受けました? “声の質”なら、私の場合、最初の衝撃を感じたのは森進一です。彼のデビュー曲「女のためいき」(1966年、猪俣公章作曲、吉川静夫作詞)が流れてきた時、当時13歳の私は「こんな声でも歌手になれるのか!!」と驚愕したものです。世間でもおおかた「ゲテモノ」あるいは「一発屋」と酷評されていたそうです(Wikipedia)。

 その次の衝撃は私より1つ年上の中島みゆきの「アザミ嬢のララバイ」を深夜ラジオで聴いた時でした。1975年9月のレコード発売で私は22歳、大学4年、翌月から卒論(ニホンザルの性行動)に取りかかる頃です。しかし、彼女の場合、声質もさることながら、“言葉使い”も縦横無尽です。例えば、「サヨナラを伝えて」は以下のように展開します(アルバム「おかえりなさい」から)。

 まさかあなたが 恋の身代わりを
  あたしに紹介してくれるために
   あとでおまえの部屋をたずねる と
    耳うちしたとは 思わなかったから
 表通りの花屋に寄って
  目に映る花を買いはたいてきた
   今ならわかる 恋の花言葉
    黄色いローズマリー
      伝えてサヨウナラ

 “花を買いはたく”! Googleでこの言葉を検索してみても、同じ表現が出てきません。ということは、日本語をあやつる人たちのなかで、中島みゆきだけの表現なのか? そうなのでしょうね。この何とも言えない、言葉の浮遊感こそが彼女の魅力の一つです。

 それにしても、あなたは何かを“買いはたいた”ことはありますか? また、それはどんな時でしょう? たぶん、“買いはたいた”時には、自分がいま何をやっているのか、意識の外かもしれません。そして、“今ならわかる”時がいつか来る、それが“別れの花言葉”なのを・・・・

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 次に紹介するのは、こちらも初期の傑作「悲しいことはいつもある」から(アルバム『私の声が聞こえますか』)、

誰も悪くはないのに
 悲しいことはいつもある
  願いごとが叶わなかったり
   願いごとが叶いすぎたり
誰も悪くはないのに
 悲しいことはいつもある

 最後の2行がリフレーンで終わる、ただこれだけの歌詞・・・・感じるのは、『コヘレト書』に匹敵するような圧倒的な透徹観! 誰が悪いのでもないのに、悲しいことは必ずある、あなたにも私にも・・・・

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 最後に、アルバム『私の声が聞こえますか』から、「あぶな坂」を(この「あぶな坂」というタイトル自体が、ほとんど言葉になりませんね)。

あぶな坂を越えたところに
 あたしは住んでいる
  坂を越えてくる人たちは
   みんな けがをしてくる
橋をこわした おまえのせいと
 口をそろえて なじるけど
  遠いふるさとで 傷ついた言いわけに
   坂を 落ちてくるのが ここからは見える

 この歌詞だけで、映画が一本撮れそうな気もします。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...

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