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車内広告の歴史:身近なものからリサーチのテーマを探すPart1

2020 9/29 総合政策学部の皆さんへ 今回は「身近なものからリサーチのテーマを探す」というお題です。そこで取り上げるのは“車内広告”です。とくに電車通学の方は、毎日電車の車内広告を目にしているはずです。それでは、皆さんは車内広告や、駅の構内の広告をテーマにどんなリサーチ・プランを考え付きますか?

 そこで最初の質問です? 今朝、乗ったはずの電車、あるいは降りたはずの駅構内に、どんな広告があったか、覚えていますか? とっさに思い出せる人は意外と少ないかもしれません(過去、基礎演習等で突然尋ねると、たいてい明確な答えが返ってくることはありませんでした)。これでは広告の効果がない、と広告代理店の人は悩むかもしれません。

 ところで、新三田駅のホームに備えられた広告は、まず医療機関か塾・予備校関係が目につきます。これは言うまでもないことですが、ニュータウン=ベッドタウンの乗降駅として、進学を目指す若者層と医療機関に関心をもつ中高齢者をターゲットとしていることではないかと考えられます。

 もし皆さんの中に、将来のキャリアとして広告代理店(電通博報堂アサツー ディ・ケイ(ADK))等をお考えの方がいれば、なかなか興味深いテーマだと思いませんか?

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 さて、ムサシノ広告社という会社のHPに「広告代理店と交通広告の歴史」というコラムが掲載されています(https://www.musashino-ad.co.jp/column/ad_history.html)。この交通広告とは「電車広告・駅広告・バス広告」等を包括した広告カテゴリーのようです。その一部を紹介しましょう。

明治5年、東京の新橋・横浜間に鉄道が開通し、交通網の充実に反映して人々の行動範囲の拡大・移動時間が大幅に短縮されるなど、生活スタイルに大きな変革をもたらしました。 明治11年には、乗り物酔止薬「鎮嘔丹」が初の広告として掲出が許可され(鉄道広告第1号)、中吊り広告などの車内広告、駅ポスターなどの駅広告が次々と誕生してきました。 近年は駅の機能が乗降だけでなく商業施設を兼ねたりと、鉄道の利用形態も様々に進化し、より大型で訴求力の強い駅メディアの開発が続いています。 電車内では、交通広告誕生以来、紙媒体が車内広告の中心となっていましたが、JRのトレインチャンネルをはじめとする車内映像媒体が登場し、広告主からの人気を集めています」

 と少し調べただけでも、レポートのネタになるかもしれません。それにしても、日本の鉄道が新橋駅-横浜駅(現桜木町)駅間で開業したのが明治5年9月12日(西暦1872年10月14日)、その6年後には鉄道広告が登場する。誰がどのように考え付いたのでしょうか?

 次は、明治の文豪夏目漱石の前期三部作最後の作品『』の一節です(東京市電での車内広告だと思われます)。

この日も宗助はともかくもと思って電車へ乗った。(略)頭の上には広告が一面に枠にはめて掛けてあった。宗助は平生これにさえ気がつかなかった。何心なしに一番目のを読んでみると、引越は容易にできますという移転会社の引札であった。(略)宗助は約十分も掛かって凡ての広告を丁寧に三返ほど読み直した。別に行って見ようというものも、買ってみたいと思うものもなかったが(以下、略)」
(東京朝日新聞、明治43年3月4日)

 こちらもまた、現代の皆さんと同様、車内広告に対してはなはだ心もとなそうではあります。

 一方、漱石が今日の“引っ越業者”を、“移転会社”と呼んでいることにも気づきます。明治という時代は、文明開化の展開にあわせ、言葉が急激に変化する時代でもありました。そこにおのずと新旧の言葉が並ぶことも珍しくありません。上記の一節で、漱石は広告と“引札(引き札)”という言葉を使っています。この引き札こそ「江戸、明治、大正時代にかけて、商店、問屋、仲買、製造販売元などの宣伝のために作られた広告チラシ」をさすのですが、やがて「新聞広告の隆盛とともに取って代わられた」(Wikipedia「引き札」)。このように漱石は英文学者兼小説家として、いろいろな言葉を編み出し、取捨選択していく主体でもありました。

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 こうした車内広告に劇的変化をもたらすかもしれない/もたらしつつあるものこそ、ムサシノ広告社のHPにも言及されているトレインチャンネル(JR東日本が首都圏で通勤電車等に設置した液晶ディスプレイによる電子広告)等のデジタルサイネージでしょう。メディア情報学科に関心がある新入生の方には必須の知識です。

 Wikipediaではその特徴を「内蔵記憶装置に多数の表示情報を保持することで必要ならば秒単位で表示内容を切り替えたり動画表示を行うなど、多様な映像広告を展開できる。ネットワーク対応機の場合は、デジタル通信で表示内容をいつでも受信可能である」と表現します。こうした特徴を車内広告で最大限に活かし、新しい車内広告を考えることこそ、皆さんの課題かもしれません。

ケチャップの歴史2~トマト・ケチャップ出世譚:食について Part19

2020 6/15 総合政策学部の皆さんへ

 ケッチャプの歴史2は、トマトケチャップの材料であるトマトの歴史から入りたいと思います。そもそも皆さんは、トマトが中南米原産であることをご存じですか?

 1492年のクリストフォーロ・コロンボ(=クリストファー・コロンブス)の大西洋航路開拓から始まるヨーロッパ人の新大陸進出は、先住民たちにとってはヨーロッパ人がもたらした感染症による大量死(とくに天然痘)や、金銀をめぐる強奪を皮切りに現在にまで続く悲惨な運命に追い込みますが、奪った金銀よりもはるかに豊かなものを旧大陸に与えます。

 なお、コロンブスがもたらした旧大陸と新大陸間の植物(作物)、動物(家畜)、食物、人口(奴隷を含む)、病原体、鉄器、銃、思考(宗教)等に及ぶ様々な“交換”を近年は“コロンブス交換”と呼びます。

 それが一群の作物たちで、トウモロコシ、ジャガイモ、サツマイモ、キャッサバ(=近年、突然、日本人にも身近になったタピオカの原料)、タバコ(総体的には人類にとって利益だったか、害悪だったかは計りかねますが)、カボチャ、インゲンマメ、ピーナツ、トウガラシ、ココア、パイナップル、ゴム、そしてトマト等です。まったくの話、北方ヨーロッパ人はジャガイモによって飢えから救われますし、トウモロコシは世界三大穀物の一つにまで出世します。

 例えば、アフリカの市場を歩けば、そこで売っている作物の多くが新大陸起源であることに気づかざるをえません。さらにトウガラシ抜きのカレーや、同じくトウガラシ抜きのキムチを今や想像しにくくなっているように、たった500年間でこれらの作物は地球上に広がっていきます。

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 そのトマトですが、実は、最初は食物としてなかなか受け入れられなかった、という一つ話が洋の東西をとわず伝えられています。

Wikipediaでは、「1519年にメキシコへ上陸したエルナン・コルテスがその種を持ち帰ったのが始まりであるとされている。当時トマトは「poison apple」(毒リンゴ)とも呼ばれていた。なぜなら裕福な貴族達が使用していたピューター(錫合金)食器には鉛が多く含まれ、トマトの酸味で漏出して鉛中毒になっていたためである。鉛中毒の誤解が解けた後も、有毒植物であるベラドンナに似ていたため、毒であると信じる人も多く、最初は観賞用とされた」とあります。

 日本には17世紀中期頃に、オランダ人が長崎の出島に種子を持ち込んだのが始まりだといわれていますが、食用としては普及せず、赤い実を珍しがる、つまり観賞用植物だったとのことです。やはり日本人にとってもなかなか手を出す気になれなかったのかもしれません。そのトマトは日本では唐柿、赤茄子、蕃茄、小金瓜、珊瑚樹茄子等と呼ばれたそうです。

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 このあたりで私の個人的な記憶にもつながってくるところですが、それは私の母方の曾祖母に遡ります。新潟で育った新穂イク(旧姓柾谷)は新潟の海鮮問屋の末裔のためか、なんでも進取の気性に富み、どこで覚えた知識なのか、石油の一斗缶を工夫して手製の天火(オープン)を作り、カステラを焼いたりしていたそうですが、1920年頃、コロナウィルスのお陰で最近人口に膾炙しているかのスペイン風邪で死亡します。

 そのイクが娘(私の祖母新穂信恵)を丈夫にそだてようと、横浜から“赤茄子”の苗を取り寄せ、育てた実を、これまたどこから聞いたか、お湯をかけて皮を湯剥きし、そこに砂糖をかけ娘に食べさせるのですが、当の娘は「こんなまずいものはない。食べるのに往生した」というのです。

 先に触れたようにイクはスペイン風邪で命を落としますが、その後、家庭内のいざこざから信恵はシングル・マザーとして遠く名古屋の地に住み着くことになるのですが(そのため、私自身、母方の祖父は顔も名前もまったく知りません)、その時はじめて「生のトマトに塩をかけて食べたら、こんなにうまいものだったのか!」と感嘆したということです。このあたり、まさに日本人のトマト受容史の一コマではあります。

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 とはいえ、日本でのトマト受容も急ピッチで進みます。カゴメ株式会社創設者の蟹江一太郎が、名古屋農業試験場の佐藤杉右衛門から種子を譲り受けて栽培を開始するのが1899年(私の祖母信恵が1897年生まれなので、信恵はこの時2歳、ほぼ同時代です)、作りすぎたトマトの処理のためトマトソース(ピューレ)を試作するのが1903年(信恵6歳)、そしてトマトケチャップとウースターソース製造に着手するのが1908年(信恵9歳)です!

1914年には共同出資で愛知トマトソース製造(資)を設立、1933年にはトマトジュース製造にも乗り出します(カゴメHP「カゴメの歴史」)。この頃にはすでに私の祖母信江は名古屋で小学校教師をしながら、私の母を育てていたわけです。

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 こうした時代経過をまざまざと示す文献に、明治期の小説家村井弦斎の『食道楽』(1903~1904)があります。そこには当然、「赤茄子」も登場しています(青空文庫『食道楽 秋の巻』)。少し引用してみましょう。ちなみに、信恵はこの時6歳、ひょっとして曾祖母イクは村井弦斎を読んで、トマトを取り寄せたのかもしれません。

お登和嬢「ハイありますとも、先ず牛肉の生ならば好く筋を除とらなければなりません。(略)それを肉挽で挽いて別にブラウンソース即ちバター大匙一杯を溶かしてメリケン粉大匙一杯を黒くなるまでいためてスープを大匙三杯に罎詰のトマトソース一杯入れて塩胡椒で味をつけたソースを今の肉へ混ぜて生玉子を一つ入れて、ジャガ芋のゆでて裏漉にしたのを肉の分量と同じ位入れて皆みんな一緒によく混ぜ合せます。それを長くでも平たくでも手で好きな形に丸めてフライパンでバターを入れて焼きますが上等にすればその外に玉子を湯の中へ割って落して半熟に湯煮て肉の上へ載せて別にブラウンソースをかけて出します。これはドライハッシといって御老人なんぞにはどんなに好いお料理でございましょう」(第224 西洋の葛餅)

 そして、第232に赤茄子ジャムの記事がでてきます。「玉江嬢「私どもでも今年はトマトの苗を買って植えましたが沢山出来過ぎると始末しまつに困こまりますね」お登和嬢「イイエ、赤茄子は沢山あっても決して始末に困りません。トマトソースを取っておいてもトマトのジャムを拵えておいても、年中何に調法するか知れません。トマトソースを取りますのは赤茄子を二つに割って水と種を絞って鍋へ入れて弱い火で四十分間煮てそれを裏漉にして徳利のような物へ入れて一時間ばかり湯煎にしてそれから壜へ詰めて口の栓を確りしておけば何時でも持ちます。(略)。トマトの皮を剥いたらば二つに割って種と水とを絞ってトマト1斤ならば砂糖も同じく一斤の割でザラメ糖か角砂糖をかけてそのまま3、4時間置くと砂糖が溶けてトマトの液が出ます。それを最初は強い火にかけて上へ浮いて来るアクを幾度も丁寧に掬い取って30分間煮てアクがいよいよ出なくなったら火を弱くして1時間煮詰めるのです。煮詰める時決して掻かき廻まわしてはいけません。アクを幾度も丁寧に取らないと出来上った時色が悪くなります」(略)「赤茄子のジャムは売物にありませんからお家で沢山拵こしらえておおきなさいまし

 ちなみに、『食道楽 秋の巻』にはケチャップの文字は見当たらないようで、どうやらこの赤茄子ジャムこそトマトケチャップに近いかもしれません。日本ではどうやらトマトはまずトマトソースとして、次にトマトジャム(トマトケチャプ)として料理の材料に取り入れられていったようです。生野菜としての受容はさらにその先だったかもしれません。

 当然のことですが、食道楽の頃には、トマトジャムの市販品がなかったこともわかってきます。ちなみに、トマトソースについては「生の赤茄子のない時には壜詰のトマトソースを同じ分量で加えますが味は生の物に及びません」とありますから、カゴメが市販品を出すのとほぼ同時期になります。

「お前の存在が会社の総資産の3%を毀損している」:あるいは「枯れた技術」への接ぎ木の失敗

2020 2/20 総合政策学部の皆さんへ

 昨年年末、12月24日のNews各社は「米航空機大手ボーイングは23日、デニス・ミューレンバーグ最高経営責任者(CEO)の辞任を発表した」(Reuters 2019年12月24日 00:38発信)と報道しました。言うまでもなく新型旅客機B737Maxがインドネシアとエチオピアで2回の重大事故を起こしたため、基本的構造に問題があるとして運航停止を命じられたあとも、なかなか再開が認められていない現状を踏まえて、経営責任をとらされたわけです。

 ところで、現在の資本主義を象徴するかのように、上記の記事には続いて「最高経営責任者の退任を23日朝に発表したボーイング株は約3%上昇した。経営責任の明確化で、主力小型機「737MAX」の運航再開に前進すると受け止められた」とあることです。

 つまり、これはCEOに対する「お前の存在が会社の総資本の3%を毀損していた」という、市場からの評価なのかもしれません(もちろん、このあとさらに乱高下したり、あるいはさらに上昇するなどの可能性もあるでしょう。そのあたりは、そもそも株にまったく手を出したことのない私の守備範囲外です)。

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 ここでとりあえず事故とその後の経過をまとめると、(1)まず、ライオン・エアが運航する737MAX機が、2018年10月29日にジャカルタを離陸後墜落、189人死亡(ライオン・エア610便墜落事故)。ついで(2)エチオピア航空の同じ737MAX機が2019年3月10日にアディスアベバを離陸後に墜落、157人死亡(エチオピア航空302便墜落事故)します。

 ライオン・エアの事故を受けて、2018年11月7日にはアメリカ連邦航空局(FAA)は「飛行機の空中姿勢の制御に必要な「AOAセンサー」から入力される情報に誤りがあった可能性がある」として、運用中の期待に緊急改善通報を出しますが、エチオピア航空の事故が重なり、2019年3月にボーイングの最大の顧客先である中国が運航停止を命じ、これにEUが続き、世界中で737MAXの運用が取りやめになります。たまりかねたのか、トランプ大統領が3月13日に運航停止の大統領令を出します。そして、FAAが安全性確保のため「合同当局技術審査(Joint Authorities Technical Review)」を設置すると発表したのが2019年4月4日。

 そこからすでにほぼ9か月、最初のうちは「2019年内にも飛行再開」という噂も流れながら(例えば、2019年5月24日にはロイターが「「737MAX」について、米連邦航空局(FAA)が6月下旬にも米国での運航再開を認める見通しを示した」と報じましたが、結局はその半年後に至る今でもめどが立たず!)、結局、今日に至るも最終結論に至らず、ボーイング社はその間も生産を続けた結果、大量の在庫が溜まり、かつ航空会社にすでに引き渡した機体は飛ぶことができず、航空会社に膨大な損失をもたらす可能性がある!! その結果、この1月で続けてきた737MAXの生産を停止するところまで追い詰められました。

 ここで経営責任を問われて、ミューレンバーグCOEの首が飛んだ、ということになります。

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 なかなかに複雑な問題のようで、何がポイントなのか? 整理してみましょう。まったく門外漢の私などは口をはさむべきではないですが、Wikipediaの記事を信用すれば、「胴体の基本的な設計は第1世代の737-100/-200の頃から大きく変わって」いないが、「大型化されたLEAPエンジンが採用されたことによって燃費を約14%改善させるが、(略)エンジンの取り付け位置を従来の737NGシリーズよりも若干上方および前方に移動させる必要が」じたため、「ナセルが仰角を取った時に揚力が発生し、機首がピッチアップのモーメントが働き、より高仰角になる」特性があらわれ、これを防ぐため「「操縦特性補助システム」と呼ばれる操縦支援システム」を導入したが、その肝心のシステムが運用中にトラブルを起こした、ということに間違いはなさそうです。

 つまりは、本来システムを全面的改善するなど、機体の再設計が必要であるはずなのに、再設計期間や経費の節約のため、微修正でなんとかなるだろうと送り出した機材が立て続けに事故をおこした、というのがそもそもの経緯と言えそうです(こう書いていると、なんだか悪夢の連鎖、システムのスパイラル的破綻という気がしてきます)。

 次に、近代的資本主義企業として、こうした事故をどうやらある程度予想するかのような指摘がありながら、実際に(予想通りに)事故が起き、かつ、それに適切に対応しなかった点が2点目の間違いということになりそうです。資本主義倫理からすると、どちらの罪が重いのか、というところに興味を覚えないわけではありません。

 ちなみに、先ほど「このあとさらに乱高下したり、あるいはさらに上昇するなどの可能性もあるでしょう。」と書きましたが、ボーイング社の株価を調べてみると、2019年3月1日(=トランプ氏の大統領令がまだ出ていない段階)での株価は440.62US$、8月16日は330.45$、12月23日に337.55$でしたが、1月9日は334.25$で相変わらずパッとしていません(とはいえ、トランプ氏が大統領に就任した2017年1月13日には158.83$だったので、数年前からすれば随分の上昇のようです。このあたりこそトランプ大統領の支持率が下がらない所以かもしれません)。

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 とはいえ、1967年4月9日初飛行(つまり、今から半世紀も前)のB737がその後幾多の改修を経て、10,000機を超える総生産量を誇るにも関わらず、「胴体の基本的な設計は第1世代の737-100/-200の頃から大きく変わっていない」ということは、(1)半世紀前の設計がいかに合理的であったのか、そして(2)「枯れた技術」になっていたのか、を物語っています(枯れた技術については、以前の投稿を参照してください)。

 しかし、せっかくの「枯れた技術」に接ぎ木を施したためにシステム全体を狂わせてしまった、これこそが近代システム工学上で注目すべき事案かもしれません。それでは実際にどうなるのか、FAAはシステムの改修を認めて、ボーイング社は製作・販売を再開するか? 再開しても、航空会社からそっぽを向かれて、結局売れないか? あるいは改修はみとめられず、既存機は廃棄!! せっかく生産した新造機もそのままスクラップ!!などということになるのか? もっとも、運航が再開された後で同様の事故がおこれば、それこそボーイングもFAAも再起不能になるかもしれません。

5月16日の追伸:投稿から3か月、その後のコロナウィルスのパンデミック化で、B737MAXの運命はおろか、ボーイング社の命運まで危うくなってきました。2月末の時点では、まったく予想もしていなかったわけで、不明を恥じる次第です。5月16日(日本時間の)7:22の株価は120.0$で、もはやトランプ大統領就任時点での株価の75.5%に下落しているようです。

学習机の普及:明治・大正期の日本に、学習机はどのように広まったか?

2019 6/24 総合政策学部の皆さんへ

 今回は少し変わったテーマかもしれませんが、先日、兵庫県内の某高校に高校生の課題研究に“出前講義”に行った時のことから始まります。

 実は、昨年度も同じ高校にお邪魔して生徒さんの研究テーマを講評したのですが、その一つに“Standing desk”がありました。「立ったまま仕事・学習をする机」です。もちろん、ずっと立ったままで仕事/勉強にするのはつらい! と思う方のためには、コクヨなどが高さを自由に変えるタイプも市販しています(ただし、価格は当然高くなる)。

 このタイプの机は、コクヨのHPでは“重視される「働き方の多様化」と健康経営”(https://www.kokuyo-furniture.co.jp/products/office/sequence/about/)と題されて、「少子高齢化や若者の労働観の変化などの潮流を受け、企業経営において、社員の健康管理に配慮しながら、多様な働き方で生産性を維持・向上する取り組みが重視されはじめています」と銘打って、
(1)業務の質向上「モードチェンジ:立ちと座りの繰り返しが気分転換となり、集中力が維持できます。また、昼食後の眠気防止にもなります。生産性の向上:立ち姿勢だと、短時間で集中して業務を処理しようとする意識が高まり、時間効率の向上につながります」。

(2)コミュニケーションの活性化「視線が交差する立ち姿勢は互いの目線が合いやすいため、部下から上司へも含め声を掛けやすくなります。軽い立ちミーティングがすぐに座ったままでいると移動が億劫になりがちですが、立ち姿勢だと、確認や連絡などの行動がすぐに起こせます

(3)健康増進:「ワーカーの悩みで多い「肩こり・腰痛」について、座ったままだと血流が悪くなり、背中などに疲労がたまります。背中や腰の痛みの原因の約95%は、身体を動かさないことと言われています。「肩こり・腰痛」に悩んでいる人が多く、特に肩こりは座っている時間が長い人に多いということがワーカー調査から分かっています。また、生活習慣の改善として、座った姿勢と立った姿勢を交互に行うことによって、身体にかかる重さを調節し、疲労した筋肉を休ませ、リフレッシュにも繋がります

と謳っています。なんだかよいことづくめです。

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 しかし、なにゆえ立ったままで仕事するタイプの机ができたかというと、実は我々の健康問題に端を発しています。つまり、長時間座ったままの姿勢でいると健康によくないという説があるのです。例によって論文を検索すると、「日本では運動や食事に気を配る様子は見られても,座ることに対する危険性をあまり認知していない.
私たちは平均して一日のうち8.4 時間座位行動しているが(Healy et al. 2011),気づいていないうちに自分の寿命を縮めているかもしれない.このように無自覚に長時間継続して着座姿勢をすることにより潜在的な健康リスクを惹起することを本論文では「座位問題」とする」(原野、2017、ELCAS Journal 2: 63-65)などの記述が目につきます。

 ちなみにこの「座っていると健康リスクが生じる」という原点は、Healy G. N. et al. (2011)Sedentary time and cardio-metabolic biomarkers in US adults. NHANES 2003-06. Eur. Heart J. 32: 590–597あたりのようです。とは言え、座位が本当に健康に悪いかどうかは反対の意見もあるようで、当否については今回はパスします。

 ともあれ、高校の生徒さんは健康問題よりも、学習に集中するために立ったままで授業をうけるのは効果があるのではないか(昼寝するわけにもいかない!)、と考えてこのテーマを選んだようです。それで、私も例によってgoogle scholarで調べてみると、なんと日本語の論文はほとんどんどなく、英語論文では主に欧米での小中学校の肥満問題(立って授業を受ければ、痩せる!)、昼寝を防止する(立っているので、寝るわけに行かない!)などの対策で導入されているようです(Benden et al. (2014) The Evaluation of the Impact of a Stand-Biased Desk on Energy Expenditure and Physical Activity for Elementary School Students. International Journal of Environmental Research and Public Health 11:9361-9375).

 私の評価は「とりあえず、君らの発想はえらい! 日本語の論文がほとんどないのだから、大学の先生などと肩を比べられるような研究になるかもしれないね」というものでした(その後、実際に古い学習机を改造して試作されたとのことです)。

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 さて、実をいえば、今回はここまでが話のマクラで、肝心なのはその続きです。数ヶ月後、今度は学年が一つ下の新入生の方々を対象にアクティブ・ラーニングのスキルを紹介しにでかけたのですが、駅まで送っていただいた車中で、担当の先生から「実は、日本の学校にどういう経緯で学習机が普及したか、文献を探してもよくわらかないのです」と突然相談を受けました。

 こちらもちょっと虚をつかれたというか、そういえば、明治頃の学校を描いた古図でも机が並んでいるようだけれど、そこにどんな経緯があったかなどちっとも考えていなかったことにあらためて気づいた次第です(人類学者としては反省しなければ)。

 そこで、思いつくまま「実証的な研究だと、明治期の小学校の写真を見て、図像学的に調べるとか」と説明して、「何年か前に、制服・制帽の普及について知りたくて、ネットで小学校の昔の卒業写真を調べてみると、まず、男子の頭に(足は下駄、身体は和服のままでも)学帽がかぶさり、一方、女の子は和服のままだとか、先生方の服装も男性教員は洋服なのに、女性教員は和服が多いとか、までは調べたのですが」と返しました。

 帰宅後、気になったので、またGoogle scholarを開けて探してみると、これが意外になかなか見つからない。しばし苦闘してから、以下の4編をなんとか探し当てました。
・西村大志(1997)「日本の近代と児童の身体:座る姿勢をめぐって」『ソシオロジ』pp.43-64.
・岡田栄造ほか(2000)「近代日本における椅子開発とその社会的背景:明治・大正・昭和前期における特許資料の考察をとおして」『デザイン学研究』47(6):1-8.
・岡田栄造ほか(2000)「明治・大正・昭和前期における特許椅子の展開過程:寿商店「FK 式」回転昇降椅子を事例として」『デザイン学研究』47(6):9-16.
・岩井一幸(2004)「家具の標準化(レビュー)」デザイン学研究特集号11(4):7-11
どうやら「学習机」については家具やデザイン関係の学術雑誌に載っていたらしく、上述の先生が教育系の雑誌をさがしても見つからなかったわけです。

 なお、肝心の明治期における学習机の導入過程ですが、上述の「家具の標準化」によれば、「生活の椅座化への動きは、明治維新に学校が椅座化を目指すところから始まっている。1869 年(明治2年)、木戸孝允は、新政府に「普通教育の振興を急務とすべき建言書」を提出、欧米風の学校制度を全国に実施するよう主張した。それまでの寺子屋での座机による教育からの脱出である。教育史によれば、初期には机腰掛けが準備できないために、各自宅から、座机を持ちこむという指示や、腰掛けによる教育は疲れるので、座式の教育を認めて欲しいとの嘆願書も出ているものの、1872 年(明治5年)の学制改革以来、学校で今日の机腰掛けという家具の標準化の基礎が作られた。1891 年(明治24 年)小学校設備準則の中で机腰掛けについて規定され、学校用家具標準化が始まった。その中心は、寸法に表現された規範で あり、一定の寸法による質の同一性で、同じものをある一定量つくることを目指すものであった」とあります。

 このように、“学習机”のようなきわめて身近で、だれもがあって当然と考えているものにさえ、さまざまな歴史がひそんでいることをみなさんも意識してください。

ファクトチェックにトライしよう#1:「産業政策」をめぐる“偉い”人の発言が本当か、みんなでできる簡単な調べ方

2019 2/17 総合政策学部の皆さんへ

 さて、今回は少しくだけた話題として、“偉い”方々の発言が本当かどうか? 用心するに越したことはない、という話です。

 先日、ネット記事を読んでいると、ある主要官庁出身の高名な大学の先生が「政策を考える場合には、しばしば国際比較をするのだが、当時から産業政策に対応する英語がなかなか見つからなかった。「Industrial Policy」 という人もいるが、ほとんどその前にJapanese と付ける必要がある。つまり、産業政策というのは、日本独特のもので、先進国での例を探すことはほとんど困難だ」とお書きです。

 私などまったく門外漢ですから、なるほど、そうか、これは例によって学問分野での“ガラパゴス化”というか、「産業政策」とは日本だけに通用する学術用語なのか、とすぐ信じてしまうところですが、ひるがえって考えてみれば、そもそもこれは本当か?

 そこで学生の皆さんでも一番手っ取り早く確認するやり方として、学術論文・書籍検索サイトのGoogle Scholarをあけて、英語で“Industrial Policy”と入力して外国語の文献のタイトルを検索してみることにしました。

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 さて、検索してみると、もっとも引用数が多いのは“MITI and the Japanese miracle: the growth of industrial policy: 1925-1975”(Johnson, 1982)という書籍で引用はなんと7994件、タイトルからすると確かに日本の通産省(通称MITI;現経産省METI)の産業政策をとりあつかったもののようですが、2番目に引用数が多い文献は“ Small states in world markets: Industrial policy in Europe”(PJ Katzenstein, 1985)で5216件、こちらの対象はヨーロッパの小国のようです。

 3番目は“”Industrial policy for the twenty-first century”(D Rodrik, 2004)で引用が1921件、内容的には日本はあまり関係なさそうです。さらにその次は“Optimal trade and industrial policy under oligopoly”(J Eaton, GM Grossman, 1986)という論文で、The Quarterly Journal of Economicsという雑誌に掲載された論文ですが、1685件引用されています。

 このほか、結構多数の論文のタイトルに“Industrial Policy”が含まれているので、やれやれと思った次第です。たしかに、日本や韓国、アジア諸国など発展途上国についての話題が多いようですが(当たり前の話、途上国の段階こそ産業政策が必要なので、高度に発展すれば政府がそんなことをする必要はない、とも言えます=それを確かめるだけで、レポートのテーマになりそうです)、すくなくとも現在では「産業政策というのは、日本独特のもの」との断言にはやや首をかしげます。

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 ここまで検索で調べてから、そうだ! Wikipediaの英語バージョンで“Industrial Policy”を検索すればよいだけだと気づくと、こちらもちゃんと記事がでていました! (もっとも、それほど長い文章ではありません)。

 そのキモの部分をコピペすると、「An industrial policy of a country, sometimes denoted IP, is its official strategic effort to encourage the development and growth of part or all of the manufacturing sector as well as other sectors of the economy. The government takes measures “aimed at improving the competitiveness and capabilities of domestic firms and promoting structural transformation.” A country’s infrastructure (transportation, telecommunications and energy industry) is a major part of the manufacturing sector that often has a key role in IP.」とあるので、だいたいは我々が“産業政策”という言葉から受けるイメージに近いのではないでしょうか。

 するとこのごく簡単なファクトチェックからの推論は、

当時から産業政策に対応する英語がなかなか見つからなかった」というご発言にして、可能性として高度成長期の日本政府の活動に着目して、欧米関係者が造語した可能性=これ以上は、“Industrial policy” の初出の語源を文献調査しないとわかりません(充分レポートのネタになるのでは)。

 と思って、さらに時代限定(1940年代)でGoogle Scholarを検索すると、“Government and the American economy” (M Fainsod, L Gordon,  1941)という論文にIndustrial policyという単語が見つかりましたので、高度成長期以前でも、頻度は低いものの単語としては存在していたようですね。そして、書籍のタイトルとしてIndustrial Studyがあらわれるのはどうやら1960-65年頃からのようです(書誌学ですね)。

 ちなみに日本語の「産業政策」では、なんと1909年に加藤政之助『産業政策』が出ています。かつ、pdfもついていますが、これはこの本の書評でした。Wikipediaで調べると「加藤 政之助(1854-1941)、明治期、大正期、昭和期の政治家、ジャーナリスト、実業家、衆議院議員、貴族院議員、大東文化学院総長(第7代)などを歴任」とありました。

「Industrial Policy」 という人もいるが、ほとんどその前にJapanese と付ける必要がある」:上記の可能性があるにせよ、現在では、主として小国や発展途上国で、学問用語としては確立している(この先生はそれをあまり意識していない??)。

先進国での例を探すことはほとんど困難だ」;この点はその通りかもしれません。高度成長期の日本や、その後の発展段階の途上国、そして小国でこそ“Industrial policy”は有効な言葉なのだということなのでしょうか(なお、この先生はその点について無意識に理解しているかもしれませんが、「上から目線」で大衆に教えを垂れようという文章にはそれがあまり反映されていないようです)。

 このあたりがファクトチェックとしての落としどころになるのかもしれません。

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 もっとも、こんなことを言って他人をあげつらっていると、何時自分に跳ね返ってくるか分からない! 昔は「天につばする行為」などと表現され(この場合、「人に害を与えようとすれば、かえって自分自身に害がふりかかる」という本来の意味)、最近では「ブーメラン」とも呼ばれているようですが、用心するに越したことはありません。

堤清二×辻井喬;経営者としての多重人格-『ポスト消費社会のゆくえ』(辻井喬・上野千鶴子著)を読んで

2019 2/5 総合政策学部の皆さんへ

 江戸時代、「売り家と 唐様(からよう)で書く 三代目」という川柳があります。この句の主旨は「初代が苦労して作った家屋敷も3代目となると売りに出すことになる。商いをおろそかにし中国風の書体などを凝って習ったおろかさが『売家』のはり紙にあらわれていることを皮肉った」(広辞苑第5版)とされています。

 それでは、なぜこんな句を持ち出したからと言うと、『ポスト消費社会のゆくえ』(辻井喬上野千鶴子、中公新書、2008)という本を読んで、経営者兼文学者としての堤清二(その筆名が辻井喬)に興味を持ったからです。一代の才人上野千鶴子が相対(あいたい)しても、なかなかにその本質をつかみきれない、いわば現代版ヌエとしての辻井喬=堤清二。西武鉄道創業者にして第44代衆議院議長も兼ねた別名「ピストル堤」、こと堤康二郎の次男として西武百貨店をまかされたかつてのセゾン・グループ総帥の本質は、単純・明快な理論ではなかなか割り切れないようです。

 それはおそらく、辻井喬・堤清二が一身にして「一代目」、「二代目」、「三代目」の要素をすべて備えているからだろう、というのが今回の眼目になります。これは言うまでもなく、「経営者」としてたえず変化する環境にどのような姿勢で田既往すべきか? というテーマになります。「赤の女王仮説」さながら、高度成長期に「二代目」として資産を継ぎながら、変わっていく環境に完全と挑戦する「一代目」としての才覚をもち、かつ、「内在する破滅願望」にゆれうごく「三代目」、堤清二自身がそうした構図を意識しながら、それでも「時代を超えよう」として、事実「一時代を越えながら」、やがて「時代が自分を押し流していくこと]を自覚する、そんな人生双六の流転かもしれません。

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 さて、時系列的に考えれば(レポートの組立から言えば)、堤清二の出発点はまぎれもなき「二代目」ということになります。なにしろ、すでに明治初めの乱世も落ち着き始めた明治22年、目に一丁字なき中間の身分から三井大番頭にまで成り上がる三野村利左右衛門等に遅れること78年、滋賀県の兼麻仲買いの家に生まれ、苦学の末、早稲田を卒業、政治と商売の両方にしくじりを重ねながら、やがて不動産業から鉄道経営(西武鉄道)をへて、大実業家・政治家になりあがった父堤康次郎が「ピストル堤」の異名をとるような、乱世の英雄の風格をただよわせた「一代目」ならば、清二なはいにしえの唐の皇帝太宗人が言った「創業は易く守成は難し」(「貞観政要」論君道)の時期にあたるはずでした。

 しかし、彼は父康二郎によって、後継としての西武グループの総帥の位置からはずされ、総帥は異母弟の堤義明にまかされます(義明はその後、父親譲りの豪腕を発揮して、「フォーブス誌で一時は総資産額で世界一となったこともあるが、西武グループの度重なる不祥事の責任を取って一線を退き、その後にインサイダー取引疑惑で有罪判決」(Wikipedia)を受けることになりますが、それはまた別の話にしましょう)。

 この結果、清二は傍系であった西武百貨店を率いることになりますが、日本が高度成長期に入った1960年代から90年代にかけて西武流通グループとして、西武百貨店・西友・朝日工業・西洋環境開発、クレディセゾン(西武クレジット)・西洋フードシステムズ・朝日航洋・セゾン生命保険・インターコンチネンタルホテル・大沢商会・パルコ・ファミリーマート・ピサ等による巨大グループ体制を創り上げます。

 西武百貨店という遺産をベースにしながらも、紛れもない第一世代=創業者としての才覚ということになります(なお、清二は父の死後、「当時阪急百貨店会長・清水雅の宝塚市にある自邸に行き、清水より経営手法などを学ぶ」(Wikipedia)になりますから、稀代の創業者であった小林一三の系譜を次ぐとも言えるでしょう)。

 ちなみに、日経ビジネスオンラインの記事には、「無印良品、ファミリーマート、パルコ、西武百貨店、西友、ロフト、そして外食チェーンの吉野家--。堤清二氏が一代でつくり上げた「セゾングループ」という企業集団を構成していたこれらの企業は、今なお色あせることはない」「日本人の生活意識や買い物スタイルが大きな転換期を迎える今、改めて堤氏とセゾングループがかつて目指していた地平や、彼らが放っていた独特のエネルギーを知ることは、未来の日本と生活のあり方を考える上で、大きなヒントとなるはずだ」と絶賛です。

 しかも、その独特の物言い。その後作家として大成することになる林真理子は「コピーライターとしてプレゼンテーションに参加した時、堤さんに「君のコピー、ひどいね」というようなことを言われました。私は末席にコピーライターとして控えていただけで、直接はほとんど口をきいていません。それでも、つくったコピーが「出来損ないの現代詩」と言われたのはよく覚えています。もう、周りの人は真っ青ですよ(笑)。(略)堤さんは、私が作家になった後も「君はコピーライターの素質がないって僕があれだけ言ったから、今の林さんがあるんだよ」とよくおっしゃっていました」と回顧します(『堤清二の辛辣な言葉が作家・林真理子を生んだ』)

 みなさんもこんな辛辣な言葉で人を育てる方に巡り会うことができれば、どんなにか良いことでしょう。

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 その清二が結局、経営者として破綻します。直接は1980年代末から1990年代初頭にかけてのバブルが崩壊したことによって、「金融機関からの借り入れで依存して事業の急拡大を進めていた」経営が破綻し、経営者失格を宣告することになる(上記のように、弟の義明もまた、別の形で経営者失格を迎える)。

 多くの点で、「変わりつつある環境を見抜き」(=赤の女王よろしく、絶えず走り続け)、「新しい分野に果敢にいどみ」、生き残りを図ろうとするこの才人がつまづく一つの象徴は、「あの人には破滅願望が潜在している」という、清二が手がけた文化ビジネスの一つ、西武池袋本店にあった書店「リブロポート」の元店員の方が書いた別の本での指摘です。

 2世として任された仕事に飽きたらず、自らも1世を追い越すかのように、しかし、別の方向で走り抜け、しかし、心の中に「唐様で売り家と書く」ことへの想いを秘めた経営者。なかなかに世に現れない、魅力的な方であったでしょう。

あなたはどんな立場を求めて就活しますか? プレイヤー、コーチ、マネージャー?再訪

2018 11/25 総合政策学部の皆さんへ

 以前、「就職活動についてPart1:求職の際のミスマッチ、あるいは宮本武蔵とダ・ヴィンチの憂愁」で取り上げた話題ですが、もう一度取り上げてみたいと思います。このブログで紹介したのは、はるか昔に読んだ小説ともエッセイともつかぬもので、諸国放浪中の宮本武蔵徳川家康の九男、尾張藩徳川義直の面前で試合をした際のエピソードで、実は宮本武蔵の就職活動の一環でもあるという点がミソです。殿様の御前試合で見事勝てば、尾張藩に仕官できるかもしれない。もちろん、武蔵は見事勝つのですが、義直は家臣たちに言います。

見た! 強い! だが、教えられぬ

 武蔵の(プレイヤーとしての)し合いぶりに、義直は武蔵の技は個人技であり、かつ、彼自身の身体的ベースに支えられる部分が多く、したがって他人に教えるのは容易的能力に依拠するものであり、他人を教えるコーチとしては期待できない、と結論したのです。

 なおかつ、武蔵本人が希望するのはプレイヤーでも、コーチでもなく、“侍大将”=つまり、指揮官(監督=マネージャー)なのです。しかし、指揮官は個人として、とくに優れた戦闘能力を持つ必要は必ずしもない、というのが義直の文脈になります。事実、この時の武蔵の就活はうまくいかず、彼は結局一生、公的な職には就けませんでした。彼が生涯最後の安定した日々を送るのは、もはやプレイヤーとしての実力を失い、いわばレジェンドとして、寛永17年(1640年)熊本藩主細川忠利から客分として、7人扶持18石の合力米300石が支給され、鷹狩りも許されるなど客分として破格の待遇で迎えられてからです(Wikipedia)。

 こうしたレジェンドとして迎えられる者への最高の言葉はたぶん、ミラノ公に招かれたルネサンス期のイタリアの詩人ペトラルカが「どんな御用を務めたらよいか」と尋ねたときの、(名君で、好男子で、色豪であったという)ジョバンニ・ヴィスコンティの台詞「ただここにいてくださるだけでよろしい。それが私と私の両国の名誉になりますから」でしょう(モンタネッリ・ジェルヴァーゾ『ルネサンスの歴史上』[藤沢道郎訳])。

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 これは就活でも同じでしょう。会社が募集に何をもとめているのか? プレイヤーか、コーチか、それともマネージャー(野球の監督は英語ではManagerです)か、さらにその上ですべてを統括するGM=ジェネラル・マネージャーか? もちろん、皆さんにとって数年後に訪れる就活では、新卒採用ということは基本的にまずプレイヤーで勝負してもらう、ということなのでしょう。

 もう何年も前になりますが、学部長だった時に、企業の人事の方々との懇談会というのがありました。そこで何社かの人事関係の方々とお話しする際、「うちの卒業生が、御社に入社した際に、どの部局につきますか?」と尋ねると、異口同音どの会社の方も即座に「それは営業です」とおっしゃいました。それでは、その理由は? と尋ねると、これも異口同音「二つ意味がある。一つは、営業をやることで、自分の会社が何を売っているのか? を自覚すること」。「そしてもう一つの意味は、自分の会社がどんな人たちと取引するのか、を自覚すること」だということでした。その二つを理解した上で、他の仕事にもつくことで、自らの会社のあり方を理解する、ということのようです。

 これはつまり、自社をいったんジェネラルな立場で見てまわってから、本人たちの適性にあわせてプレイヤー、コーチ、マネージャーにわけていくという、日本的雇用システムの一環とも言えるでしょう。

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 例えば、皆さんご存知というか、上ヶ原の学生さんならお世話にならない方はほとんどいないはずの阪急電車、その創設者である小林一三は、明治25年(1892年)、慶應義塾を卒業すると三井銀行に勤務しますが、内心は文学青年崩れ、最初はジャーナリストをめざして都新聞(現東京新聞)を希望しますが、採用されず、やむなく三井銀 行に入ったものの「サラリーマンとしては落第だった。というの も三井銀行入行が決まっても出社せず、ぶらぶらする毎日が続いていたからだ。「 銀行には興味がもてなかった」と自伝には書いている」(杉田望「明治・大正・昭和のベンチャーたち」 第1回「小林一三(いちぞう)――希代の遊び人事業家;http://j-net21.smrj.go.jp/establish/column/20031216.html)。

 しかし、やがて「銀行ではソロバンと帳簿を覚 え、秘書課に勤務し、そこで三野村利助や中上川彦次郎などと出会ったことが事業家 としての小林の目を開かせる」。つまり、銀行支店業務というプレイヤーには満足できなかった彼は、運を天にまかせて「マネージャー」に転進します。それが“箕面有馬電気鉄道”、つまり現在の阪急だったというわけです。

 そこからのご活躍は、このブログでたびたび言及しているので、そちらをご参考にして下さい(「小林一三と阪急文化圏、そして関西学院Part1」、「小林一三と阪急文化圏、そして関西学院Part2:百貨店について」)。いずれにせよ、プレイヤーでおさまりきれなかった小林は電鉄会社の支配人として、宅地開発、百貨店経営、宝塚温泉と歌劇場、そして興業・映画(東宝は東京宝塚劇場の略)、そして政治家(近衛内閣の商工大臣)にまで活動の場を広げます。

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 逆に、偉大なプレイヤーとして活躍し、長年マネージャーを勤めながらも、結局はコーチの方が性に合っている人もいるわけです。例えば、日本のプロ野球で言えば、中西太元西鉄監督がそうかもしれません。プレイヤーとしては“怪童”の名に恥じず、生涯打率307を誇りながら、通算12年の監督生活で勝率は0.48にとどまり、優勝は1度のみでした。

 その一方で、「コーチとしては数多くの強打者を指導しており、吉田義男は「中西さんは教える達人でしたね」と話している。江夏豊は「名監督は数多くいても、名コーチは少ない」が持論だが、その中で「投げるほうの名コーチは権藤博さん、打つほうの名コーチは中西さん」と語っている」(Wikipedia)。このあたりも就活の際に考えていただければと思います。

なにゆえに、今津線はほぼ直線か? 小林一三と阪急文化圏、そして関西学院Part3

2017 12/25 総合政策学部の皆さんへ

 話のネタとして、“関西学院と小林一三”、尽きることがありません。「鉄道を起点とした都市開発、流通事業を一体的に進め、六甲山麓の高級住宅地、温泉、遊園地、野球場、学校法人関西学院等の高等教育機関の沿線誘致など、日本最初の田園都市構想実現と共に、それらを電鉄に連動させ相乗効果を上げる私鉄経営モデルの原型を独自に作り上げた(Wikipedia)」という彼の業績を振り返ると、つくづく大した方だと思います。

 そこで、本日とりあげるのは関学上ケ原キャンパスにもなじみ深い今津線(というよりも、この今津線隆盛のため、多額の赤字をかぶっても1929年の関学上ケ原移転になみなみならぬ情熱を傾けた小林です)、移転当時は西宝線です(西宮-宝塚というわけですね。その後、今津駅まで延伸して、今津線になります。この時、西宮北口駅で“平面交差(ダイヤモンドクロス)”が生じますが、それはまた別の機会に)。

 有川浩の小説『阪急電車』の舞台となり、2011年には映画化もされたこの路線ですが、Webで見つけた明治44(1911)年の西宮市の地図にはまったく載っていません。それどころか、その周囲には田んぼばかりで、市街も存在しない。文字通り“武庫の平野”に田園が広がり、そこをつききるのは旧西国街道(現在の国道171号線がほぼ平行に走っています)ぐらいなものです。そこに宝塚から西宮まで、ほぼ直線に延びる宝塚線。その直線性の秘密です。

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 阪急電鉄の前身が1907年設立の箕面有馬電気鉄道だったことはよく知られていますが、営業開始は1910年3月10日、現在の宝塚本線(梅田-宝塚)と箕面線(石橋-箕面)でした。その宝塚線は能勢街道沿いにルート選択、そのためカーブの連続で、現在に至るもスピードアップが困難ということが知られています。また、駅の間隔がつまっていて、特急などの高速運転に不適なため、基本は急行での運行です。

 1907年、東京の三井銀行から関西に転じ、当初は証券会社をめざすも挫折した小林一三は、この宝塚線(当時は、周辺に家もなく、田畑を縫うように走る「ミミズ電車」というあまりありがたくない徒名までついていました)の経営について、沿線土地をあらかじめ買収、宅地造成月賦販売による「乗客の創造」をおこなったことはつとにしられていますが、同時に、線路を直進させることの重要性もまた身にしみて感じたに違いありません。

 そのためか、西宝線(現、今津線)はこちらも当時はほとんど家がなかった武庫川右岸を宝塚からほぼまっすぐ南下、西宮で神戸線にほぼ直角に交わる形で接続したのでしょう。また、これ以前に手がけた1920年開業の神戸本線(梅田から当時は神戸駅とした旧上筒井駅=原田の森キャンパスそば)もまた、ほぼ直線的な路線になっています。

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 さて、現在、上ヶ原キャンパスの学生の多くが乗り降りする甲東園駅は1921年の開業当初は存在せず、1922年にこの付近に果樹園を経営していた大地主芝川氏からの土地提供により新設されたものです(ちなみに“甲東”とは、甲山から見て東という意味で、1889年に合併した時の命名とのこと)。仁川駅はさらに遅れて、1923年の開業になりますが、当時、下流から上流にかけて展開中だった武庫川改修が関係します。

 兵庫県の「武庫川水系河川整備計画(平成23年8月)」によれば、「武庫川下流部において築堤、河床掘削などの本格的な改修が始まったのは、大正9年である。阪神国道(現国道2号)の工事に関連して県が改修に踏み切り、第1期工事として大正9年から大正12年にかけて東海道線以南の約5kmを改修した。費用は、武庫川の派川である枝川、申川の廃川敷の売却益を充当したものである。第2期工事は、大正13年から昭和3年にかけて、東海道線から逆瀬川までの約8kmで行われた」とありますが、甲東園・仁川両駅の開設とほぼ同期していることはおわかりになるはずです。

 ちなみに、上記の文中、「枝川、申川の廃川敷」とある一部には甲子園球場が建っています。また、仁川・武庫川の合流点の改修は同時に、武庫川右岸に広大な敷地を出現させ、そこに進出した企業に当時の川西航空機(現新明和工業)があります。第2次世界大戦が始まった翌年の1940年12月に当時の良元村に建設決定、1941年5月に工場建設を開始し、日本が対英米戦に踏み切る12月に操業を開始します。実は、関西学院では1944年10月に勤労動員課を新設して、兵庫県三原郡陸軍飛行場設営工事、三菱電機神戸工場、日本パイプ園田工場と並んで、この川西航空機宝塚工場などにも学生を送り込んでいます。

 こうして武庫川改修とともに、阪急西宝線が開通、さらに関西学院(1929年)や神戸女学院(1933年)などの移転も加わり、現在の武庫川周辺の住宅地域が形成されます。このあたり、阪急の歴史、住宅地開発の歴史とあわせて、関学の歴史としても覚えて置いて下さい。

海外流出美術品と日本の近代化:売立目録所収美術作品のデータベースよりアートを考える(下編)

2017 7/8 総合政策学部の皆さんへ

 前編に引き続き、『売立目録所収美術作品のデータベース』からもう少し探ってみましょう。売り立てには色々なパターンがあります。前編では松浦家のいわば没落にともなう売り立てを紹介しましたが、下村家が大丸再建を願って、自家の家財を売り払ったように(資本主義としては前近代的とも言えますが)、“攻め”の売り立てもあります。

 その典型は、大正10年11月5日・6日下見、同年11月7日入札の尾州徳川家御蔵品売立。政治家、植物学者、狩猟家(北海道で熊狩り、マレーで虎狩り)で、かつ現在の北海道土産の定番「木彫りのクマ」の原案をスイスから紹介したという尾張徳川家第19代当主徳川義親が「尾張家伝来の優れた美術品・文化財の永続的な保存のため、財団法人徳川黎明会を設立し、美術品の保存、公開施設としての徳川美術館を建設する資金を得るため」(報告書)、主催者の高橋箒庵に依頼したものです。これぞ「攻めの売り立て」とも言えるでしょう。ちなみに、Wikipediaではこの多才な「最後の殿様」について、他家の財政逼迫にも積極的に支援に乗り出し「理財の天才」と讃えています。

 ところで、この時、札元には山澄力蔵・中村好古堂・梅沢安蔵・川部商会・多門店・本山幽篁堂・伊丹信太郎・池田慶次郎・林新助・土橋永昌堂・服部来々堂・戸田弥七・山中吉郎兵衛・池戸宗三郎・春海商店・野崎久兵衛・米万商店・味岡由兵衛・伊藤喜兵衛・横山守雄・長谷川長宣堂と並んでいます。なお、この一人山中吉郎兵衛こそ、「(日本、そして中国等の)東アジアの秘宝を欧米人に売り込み」、戦後は其一の「朝顔図屏風」をメトロポリタン美術館に納入する山中商会中興の祖、山中定次郎(三代目山中吉郎兵衛)でしょう。

 調べてみると、古美術商としては土橋永昌堂、中村好古堂、春海商店等が現役です。古美術商もなかなか老舗ぞろいのようです。

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 さて、報告書に戻ると、この売立も「高橋箒庵が、世話方として関わっているが、その出品作品に価値の高い物が少なかったため、度々、価値のある作品の出品を尾張家に求めたが、優品を美術館で保存しようという尾張家側の意向を崩すことはできなかったという。・・・出品作に優品が少ないという当時の世評にも拘らず、第1回の総売り上げは、570,000円余に及んだ」とあります。

 義親はこの資金で、徳川美術館(運営母体は財団法人尾張徳川黎明会)の開設に邁進しますが、その間、なんと他家から流出の古美術品をさらに収集、「豊国祭礼図屏風」(蜂須賀家)、「清正公兜」(紀伊徳川家)、「侍中群要」(近衛家)から入手するなど、美術のパトロンとして八面六臂の活躍です。

 実は、義親は美術館以外にも、徳川生物学研究所(のち、ヤクルトに譲渡)、徳川林政史研究所も設立。ここまで自分が所有する資源を社会貢献に各種有効活用された方も少ないかもしれません。

 ちなみに、『売立目録所収美術作品のデータベース』では、 大正14年5月25日に前田侯爵邸で開催された“前田侯爵家御蔵器入札”でも、旧金沢藩主前田家は「入札で得た利益をもとに、所蔵品のうち重要なものを保存するための体制を固める」ため、当主前田利為が同年2月26日、公益法人育徳財団(現、前田育徳会)を設立、その資金をえることが目的のようだと記されています。

 その結果、「前田家伝来の作品の中で特に優れたものが出品されたとはいえないが、「織部餓鬼腹茶入」(現野村美術館)が57,800 円など、茶器を中心に高額落札が相次ぎ、総落札額は1,090,000 円を超えた」とありました。

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 最後に、話のそもそもの発端である其一の朝顔図屏風に話を戻すと、かつての豪商松澤家から流出後、1894年以来、ニューヨーク・ボストン・ロンドンなどで東洋美術を欧米のブルジョアジーや美術館に売り込んでいた山中商会の手を経て、1954年にメトロポリタン美術館に収蔵されます。またその前年には、光琳の「八橋図屏風」もメトロポリタン美術館に渡っています(朽木ゆり子 『ハウス・オブ・ヤマナカ 東洋の至宝を欧米に売った美術商』 )。こうして、故郷を離れた美術品自身にとって、異郷の地で多くの人びとの眼にふれることがよいのか、それとも故郷に再び帰ることがよいのか、皆さんはどう思いますか?

海外流出美術品と日本の近代化:売立目録所収美術作品のデータベースよりアートを考える(前編)

2017 1/22 総合政策学部の皆さんへ

 皆さんは鈴木其一をご存じでしょうか? 酒井抱一に師事した琳派の画家(寛政7年(1795)~安政5年(1858))、代表作に「夏秋渓流図」「群鶴図屏風」等、とくに「朝顔図屏風」はメトロポリタン美術館から久々の里帰り中。ちなみに、同美術館のHPは「Suzuki Kiitsu (Japanese, 1796–1858)、Edo period (1615–1868)、early 19th century、Medium:Pair of six-panel folding screens; ink, color, and gold leaf on paper」と紹介しています。いわゆる海外流出美術品の代表格です。

 こうした海外流失美術品は、明治初期の廃仏毀釈運動で二束三文でたたき売られたあたりから始まるということですが、この屏風ははじめ、どんな経緯で流失しいったのか? そして、その過程に日本の近代化がどうかかわったか? これが今回のテーマです。

 そもそも「朝顔図屏風」は江戸の油問屋松澤家伝来のものでした。この松澤家とは通称大孫、こと大阪屋松沢孫八商店が元禄年間に大阪から江戸日本橋本石町に進出し、薬種問屋からやがて江戸最大の油問屋として大江戸十人衆にも挙げられ,将軍家献上御用金も万両にのぼった有徳人です(油屋の歴史61 – 東京油問屋市場;http://www.abura.gr.jp/contents/shiryoukan/rekishi/rekish61.html)。この「大孫」こと「松澤家」こそ鈴木其一のパトロンで、高価だった絵の具を惜しげもなく使ったのもすべては松澤家のパトロネージゆえというわけです。

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 それでは、この松澤家からどうやって屏風が流出したか?

 Webで調べると、『売立目録所収美術作品のデータベース化とその近代日本における美術受容史研究への応用』という資料がみつかりました。静岡大学情報学部髙松良幸教授が代表の科研費報告書なのですが、「戦前の美術品の売立目録のうち100冊について、所収の作品の写真・テキストをデジタルデータとして記録し、その各種データを所蔵履歴、活用履歴などさまざまな角度から検索可能なデータベース化を試みた」とのよし、これがなかなかに面白い。

 まず、“売り立て”とは何か? 報告書の序は「戦前、日本・東洋美術の取引の主役をなしたのが入札会である。特に大正期から昭和初期においては、旧大名家などの華族層のなかで経済的苦境に陥るものが多く、その苦境から逃れることを目的に「家宝」である伝家の名品を売却することが多くなった。そして、それらの多くを購入したのが、近代以降の日本経済の牽引者となった財閥経営者などを中心とする財界人たちであった。その際に用いられたのが入札会という手法であり、入札会に関する記録は、時代の変遷とともに権力の象徴としての「家宝」がどのように移動したかを知るための資料として重要視されるものである」と説明します。

 つまり、日本の近代化での“資産家=金持ち階級”の入れ替わり、そしてその結果、一部が海外まで流出していく、この屏風はその過程の“証人”なのです。

 さて、本報告書が扱う第1回・2回の売り立ては下村正太郎氏御所蔵品で、下見を経て、1910年12月5日、そして1911年6月8日の2回にわたっての売り立てです。荷主の下村氏は実は京都の呉服店・デパート大丸の創業者、この売り立ては、1908年に個人商店「大丸呉服店」を株式合資会社に転換して経営改革に乗り出すも、失敗、東京・名古屋店を閉じて、京都・大阪・神戸店で再建するための資金作りだったのですね。その中の逸品は、祇園南海「墨竹図掻取」(現メトロポリタン美術館)で、泉州泉佐野の豪商唐金家から嫁入りの際、持参されたものだそうです。

 こうして下村家はなんとか家業を立て直しますが、その大丸も高度成長期以降のデパート業界の停滞に直面、大丸は2007年に松坂屋と経営統合、持株会社「J.フロント リテイリング株式会社」を設立し、2010年には株式会社松坂屋に合併して解散、株式会社松坂屋は「株式会社大丸松坂屋百貨店」に商号変更して現在に至ります。時代の流れを感じさせますね。

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 こういう視点で売り立てを眺めていくと、まず目立つのは旧支配層・豪商の没落ですが、その典型は旧大名・旧華族等です。例えば、旧平戸藩主松浦伯爵家並某家蔵器展覧入札が 昭和9年11月5日、東京美術倶楽部で開かれています。

 この松浦家は松浦党に由来する武家の名門、とくに9代藩主松浦清は静山と号し、江戸きっての随筆『甲子夜話』を著しつつ、現大和文華館所蔵の国宝「婦女遊楽図屏風」(通称松浦屏風)を購入もしています。また、心形刀流達人としても『剣談』を残しています(ちなみに野村克也が好んで口にする「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」はこの松浦静山の言葉とのこと)。

 しかし、その松浦家も昭和の不況等で、家宝たるべき美術品を昭和2年、6年、9年等に続けざまに売立ます。報告書によれば、昭和9年(第3回)の売立が作品の質において最も高いものととして、牧谿「遠寺晩鐘図」が83,000円(現、畠山記念館)、「大江山絵巻」(現、逸翁美術館)が28350円などで落札され、総落札額は430,000円に達したとのことでした(米の価格で換算すると、当時の1円を3200円として、現在のお金で言えば13,4億円ぐらいになるのでしょうか?)。

 なお、上記畠山記念館は実業家畠山一清(号:即翁、1881 – 1971;荏原製作所創始者)、逸翁美術館は(関学にも深く関わった)阪急電鉄創始者小林一三がその収集品を納めたもので、ここに日本の近代化にともなって美術品とその持ち主の変遷(旧華族・豪商から、近代的産業資本家へ)、そして大衆への公開(美術館の誕生)という過程に、まさに文化政策論のトピックを見る思いがあります。

 ちなみに畠山一清は東京帝国大学機械工学科、小林一三は慶應義塾正科のいわば学歴エリートあがりの実業家だったことも目を引く。結果として、これらの美術品は以下の道筋をたどったわけです:旧家の私的所有(公開されず、プライベートにしか見ることができない) → 旧家の経済的苦境 → 売り立て(市場への流出) → 新興資本家層の所有(あるいは、美術商を経て海外流出=「朝顔図屏風」のケース) → 相続税等への対応 → 法人化=美術館としての公開(欧米では個人所有から美術館への寄付・売却)
(to be continued)

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...