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相続とキャリア3:“長子相続”vs.“末子相続”

2020 8/8 総合政策学部の皆さんへ 先に投稿した「相続とキャリア1:スペアとしての寺社・修道院、そしてそこからの還俗」では、長子相続社会での例をあげました。長子がすべてを相続し、それ以外のこどもには財産が分与されない。その場合、その子供たちは何らかの方法で自分の食い扶持を確保しなければならない場合にどうするか?

 一方、親としても課題が残ります。たとえ長子が相続すると決めていても、その長子が自分よりも早めに死んでしまった場合、そのバックアップをどうするか、という課題への対処もあります(義元君のように寺や修道院にデポジットされる、あるいはイヴリン・ベアリングのように陸軍軍人として他出させる)。

 まったく、人としての悩みはつきません。

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 さらには「やはり弟たちもかわいい。なんとか財産を残してあげたい」と思う人も出てくる。しかし、それでは、長子の取り分を減らしてしまうことになり、今度は父親と長子の争いになりかねない。この典型例が、あまりの巨腹に「大食ではなく造化の間違い」と謳われたイギリス王ヘンリー2世(このブログで時々登場する女傑アエリノール・ダキテーヌの2度目の亭主)と息子たちです。

 例えば、1169年にヘンリー2世は「フランス王ルイ7世の提案により、14歳になる若ヘンリーを後継者と定めてアンジューとメーヌの地を、12歳のリチャードにはアキテーヌ、11歳のジェフリーにブルターニュを分配し、フランス王に臣従礼をとらせることで大陸側の所領を確認させた。わずか2歳だったために領地を与えられなかった末子のジョンは、ヘンリー2世に“領地のないやつ(Lack Land)”とあだ名をつけられ、逆に不憫がられ溺愛されるようになる」(Wikipedia)。つまり、フランス王家の政治的支配下にある領土を息子たちの間で分割相続させることにすることで手を打とうというわけです。このせっかくの措置も、しかし、父-息子たち間に平和をもたらすことにはならず、彼らの母親アエリノールの使嗾も相まって、ヘンリーは死ぬまで息子たちと争い続けます。

 さらに別のケースをあげれば、男系直系社会であっても父は婚出する娘に対して、自分が死んだ後に少しでも遺産を分けたいとも思うかもしれません。しかし、それも家族全体、あるいは長男の取り分を減らすことになる。そうすると、自分が死んだあと、長男が(あるいは他の後継者が)嫁いでしまった娘にきちんと遺産を分割するか? あやしいものです。そのため、娘が婚出時に持たされる持参金には「女性が両親から受け取る遺産の前払いという性質」がありました(Wikipedia)。

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 その一方で、王家の相続には長子相続を定めておいた方がよい、という判断が次第に発達します。Wikipediaではこの経緯を「前近代社会では相続によって継承されるものは個人的な私有財産ではなく家産であると考えられていた。相続の第一目的は直系家族の維持(家の存続)であるとされ、それに最も適合的だったのが長子相続であった。つまり子のうち親との年齢差が最も少ない長子が相続することが父系的な継承線の維持にとって最も合理的と考えられていた」としています。

 これが果たして最も合理的なのか、例えば親との年齢差がもっとも少ない長子とは、親とvs.長子間の「とってかわれる者」同士の争いにつながりかねないか(上記のヘンリー2世vs.若ヘンリー、あるいは若ヘンリー死亡後のヘンリー2世vs.リチャード2世がまさにそうだったのですが)、長子相続が人類の長い歴史を経て確立するまで、色々なこと、とりわけ悲劇が訪れます。

 例えば。第38代天皇である天智天皇は、後継者として同母弟である大海人皇子を皇太弟に立てます。これは兄弟継承を想定してのことで、実力者から実力者への権限移譲として安定した継承になるはずでした。過去にも、第16代仁徳天皇の後に17代履中天皇(仁徳天皇の第一皇子)⇒18代反正天皇(第三皇子)⇒19代允恭天皇(第四皇子;ちなみに、3人は同母兄弟)という兄弟継承が始まりですが、しばしば同じような継承が見られます。

 しかし、天智天皇は671年に自身の第一皇子である大友皇子を太政大臣に任じることで、あたかも長子継承を希望するかのように行動し始めます。その結果として、壬申の乱が勃発します。日本史を学ばれた方には先刻ご承知の事件ですね。

 本来後継たるべき実力者大海人皇子は自ら出家を申し出て吉野宮(現在の奈良県吉野)に下りますが、兄天智天皇が46歳で崩御するや、吉野を出奔、兵をあげて甥にあたる大友皇子を討ち、天武天皇として即位します。この経過をシェークスビア好きのイギリス人が聞けば、ヘンリー2世の7代の裔、リチャード2世が従弟であるヘンリー・ボリングブルックこと後のヘンリー4世に王位を簒奪される悲劇『リチャード2世』を思い起こさせるかもしれません。

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 壬申の乱で興味深いのは、この乱は伯父大海皇子vs.甥大友皇子(弘文天皇)の対立にとどまらないわけです。このころの宮廷は近親者間の婚姻がふつうでしたから、2つの陣営は
・異母姉vs.異母弟:鸕野讚良皇女こと後の持統天皇(大海皇子の皇后)vs.大友皇子
・父vs.娘:大海皇子vs.十市皇女(大海皇子の第一皇女で大友皇子の正妃)
・従兄弟同士:高市皇子(大海皇子の第一皇子)vs.大友皇子
等の組み合わせを含んでいました。まさに“骨肉”の争いだったわけです。

 もう一つ興味深いのは、実力で近親者から皇位を奪った天武朝ですが、その後は持統天皇の強力な意思によって直系相続を試み、そのためには中継ぎ役として何人もの女帝(持統、元明元正孝謙・称徳)を擁立しながら、4代目で男系直系相続に失敗、天智天皇まで遡っての皇位継承(光仁天皇)となることです。かくも直系維持は難しいのです。

 ちなみに、光仁天皇は即位前、「専ら酒を飲んで日々を過ごす事により、凡庸・暗愚を装って難を逃れた」と伝えられているとのことですが(Wikipedia)、このエピソードはローマ帝国第4代皇帝ティベリウス・クラウディウス・ネロ・カエサル・ドルスス(通称クラウディウス)がみんなから白痴とみなされながら、先帝カリグラ暗殺の混乱の中でひっぱりだされた際、「諸君が私を哀れなうすのろだと思っておられることは、よく存じておる。だが私はうすのろではない。私はうすのろのふりをしていたのだ。そのおかげで今ここに来ているのだ」との名科白をはいたという故事を思い起こさせます(モンタネッリ『ローマの歴史』)。

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 さて、その一方で、ヒトでは長子継続が自明ではない社会ももちろんあります。例えば、江戸時代、日本の漁村では家はむしろ“末子相続”でした。これは漁民の仕事場が、田畑のように明確に相続できる不動産ではなかったことに加えて、子供が長じて家業にいそしむと海難による死亡の確立も高いため、末子に継がせるのがより安全=合理的だという判断になるそうです。

 また、Wikipediaによれば、「長野県諏訪地域では、江戸時代後半から昭和戦前期まで末子相続が見られた。この場合、長男次男などは江戸に奉公や出稼ぎに出かけ、男性の末子が田畑を相続し両親の扶助を行った。この地域の田畑の生産力が低いことと、江戸時代中期以降に耕地の細分化と核家族化がすすんだため、こうした風習が成立した」とあります。つまり、環境やニッチが変われば、末子相続も合理的になる!

 おもしろいことに、この諏訪地方の風習は「長男相続と家父長制を規定する大日本帝国憲法下の民法に抵触したため、訴訟裁判沙汰となることもあった」とのこと。つまり、法律が現実をカバーできない! そんなことを考えていると、いくらでもレポートのテーマのネタがありそうです。

 なお、末子相続はチンギス・ハン時代のモンゴルでも見られ、「モンゴル人の間では親の遺産を相続する末子を「火の王子(炉の番人とも)」を意味する”オッチギン”と呼んだ。神聖な家の炉の火を守り、継承する者だからである。チンギス・ハーンの末の嫡出弟であるテムゲ・オッチギンが著名である」とのことです(Wikipedia)。

相続とキャリア2:行き場のない次男、三男の出世ルートとしての官僚・軍人

2020 6/7 総合政策学部の皆さんへ

 先回の「相続とキャリア1」では、「かつて職業選択の自由もなかった頃、長子相続が確立した王族・貴族社会では、家業の相続について長男一人のみが家業(つまり、王位なり爵位)につき、相続から外れた“弟たち”をどこかの修道院等に“デポジット”して、万一長男が死んだ際のバックアップを期待することがあったという話」をしました。しかし、乱世あるいは巨大な王権が出現した際、彼らを積極的に拾い上げることで権力を増強する人間も現れます。

 その一人こそ皆さんご存じの織田信長です。中学校教諭を務めながら信長の研究をすすめた谷口克広氏の著書『信長の親衛隊』(1998;組織・人事論としてお薦めかもしれません)には、永禄12年(1569)に山科言継が岐阜を訪れた際の信長の家臣を連枝衆(織田信広ら;兄弟・親族ら=頼りになるかもしれないが、裏切って「取って代わる」ことになるかもしれない存在)、家老(林秀貞[のちの天正8年(1580)、かつて信長の弟信行擁立をはかって謀反をおこなった24年も前の過去の罪を問われて追放)、武将(譜代衆:丹羽長秀、木下藤吉郎)、武将(外様集、佐藤紀伊守、水野信元[家康の伯父、天正3年内通の疑いで信長の命をうけた家康によって殺害)、そして近臣の5グループに分けています。

 この近臣はさらに文臣的官僚としての武井夕庵松井友閑のグループと、武官としての馬廻(うままわり;弓衆も含める)に分けられます。

 ところで、馬廻とは「騎馬の武士で、大将の馬の周囲に付き添って護衛や伝令及び決戦兵力として用いられた武家の職制のひとつ。平時にも大名の護衛となり、事務の取次ぎなど大名の側近として吏僚的な職務を果たすこともあった。武芸に秀でたものが集められたエリートであり、親衛隊的な存在」(Wikipedia)ですが、谷口によればこのなかから「国持ち大名への出世」を遂げたものの中には、一群の小姓衆がおり、その筆頭たる前田利家にみるように「尾張の土豪クラスの出身者が多いと思われるが、(中略)いずれも家の跡取り息子ではなく二男以下で、生家を離れて直接信長に仕官したものであった」と指摘します。

 つまり、既存の長子相続制度ではあぶれてしまう“スペア”の男たちの中から優秀者を見出し、育成し、自らの親衛隊を形成させて(=専門軍人化)、領地(農業)から分離しきれていない旧来の土豪層を圧倒していくという組織論になります。この間に信長の近習=親衛隊はいつしかPrivate Military Company(PMC)からPublic Military Company(=御公儀)への成長とも言えるでしょう。

 と、ここまで書いたところでしばらく放置しておいたら、NHKの大河ドラマ『麒麟がくる』では信長自らがが道三に説明していたようです。

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 一方、ヨーロッパではどうか? 作家佐藤賢一氏が『ダルタニヤンの生涯』で生き生きと描くフランスの軍人シャルル・ド・バツ=カステルモール(Charles de Batz-Castelmore)ことダルタニャンが好例かもしれません。

 デュマの傑作『三銃士』で世界に知られるダルタニャンですが、もともとはフランス南西部の「しがない小貴族」の家で、「1615年ごろ、ガスコーニュで誕生する。次男だったとも、四男とも言われるが、いずれにせよ長男ではなく、家督の相続権もないため1630年頃、10代半ばでパリに上京した。1633年時点の銃士隊の閲兵記録に名前があり、この頃から銃士として活動していたと見られる」(Wikipedia)。

 このあたりは、前田利家の「尾張国海東郡荒子村の荒子城主前田利春の四男。はじめ小姓として14歳のころに織田信長に仕え、青年時代は赤母衣衆として従軍し、槍の名手であったため「槍の又左」の異名を持った。その後柴田勝家の与力として、北陸方面部隊の一員として各地を転戦し、能登一国23万石を拝領し大名となる」と重なってくるではありません。

 違いとしては、利家が地方の地方の有力者であった信長に直接リクルートされたのに対して、ダルタニャンは故郷を遠く離れて、絶対王政確立期のフランスの中心地パリで直接絶対的権力者(最初はマザラン、つぎにルイ14世)直属の近衛隊に入隊したことぐらいですが、佐藤氏によればこの入隊は、すでに銃士隊に地位を占めていたガスコーニュ出身者の先輩を頼った「縁故入隊」であるとのことですから、そんなに違わないかもしれません。

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 時代は流れて19世紀、1717年にドイツ・ブレーメンからイギリスに渡ったジョン・ベアリング(1697-1748)は様々なビジネスで成功、資産家ベアリング家を形成します(1995年に倒産して233年の歴史をとげたベアリングス銀行はジョンの息子フランシス・ベアリングが創業したものです)。

 1841年、そのベアリング家の一員、銀行家・政治家ヘンリー・ベアリングの8男にイブリン・ベアリング(1841~1917)が誕生します。しかし、8男! 彼は家業に携わらず、軍人を志して王立陸軍士官学校卒業後、王立砲兵隊に属しますが、38歳で除隊、今度は植民地行政家に返信します。そして、「インドで卓越した行政手腕を発揮したが、同時にその支配欲の強さから”overbearing”(横暴の意)と渾名されます」[Wikipedia]。お気づきでしょうが、Overbearingと姓のBearingとbearingのもう一つの意味=忍耐を掛けています。

 彼が最大の手腕を発揮したのは1876~80、1883~1907年に及ぶエジプトの植民地化の過程で、この間、1876年のエジプト副王イスマイール・パシャの財政破綻に端を発した財政の掌握に始まり、英国エジプト総領事としてのエジプトを牛耳り、財政改革・税制改革・農業振興によって(イギリスにとっての)黒字化を達成しますが、「エジプト人を対等の人間として扱わなかった」(アリ・バラカート教授)、「英国にとって利益となる農業振興のみを重視し、工業化を阻害し、教育などを軽視した」(アファフ・ルトフィ・アッ・サイエッド・マルソー教授)」(Wikipeida)として、非難されます。

 それにしてもペアリング家の末裔の8男から軍人・植民地官僚として出世をきわめ、1892年にクローマー男爵、1899年にクローマー子爵、1901年にクローマー伯爵に叙爵されて貴族院議員に列する人生、前田利家・ダルタニャンの近代版とも言えるかもしれません。

相続とキャリア1:スペアを蓄えておく場所としての寺社・修道院、そしてそこからの還俗

2020 3/29 総合政策学部の皆さんへ

 以前、「あなたにとって、“仕事”とは何か? 陰陽師から漱石、そしてトム・ソーヤーからフランクリンまで」で、かつて職業選択の自由もなかった頃、長子相続が確立した王族・貴族社会では、家業の相続について長男一人のみが家業(つまり、王位なり爵位)につき、相続から外れた“弟たち”をどこかの修道院等に“デポジット”して(あるいは“リスク・ヘッジ”して)、万一長男が死んだ際のバックアップを期待することがあったという話に触れました。

 かつて幼少期の死亡率が高かった頃は、この策が現実化するケースも珍しくありません。例えば、フランス国王ルイ7世は次男のため、「サン=ドニ修道院に育ち、院長シュジェールの教えを受け、祈りと神への献身を何よりの生き甲斐とする、物静かな王子であった」として育つのですが、「兄フィリップが1131年に落馬事故で早世したため、代わって共同国王に立てられた」ために還俗、大貴族アキテーヌ公ギヨーム10世の娘アリエノール・ダキテーヌを王妃に迎えますが、長年の修道院暮らしがたたってか、この才気活発な王妃には「王と結婚したと思ったら、僧侶だった」と言われてしまう有様で、二人の間に男子出生がなかったこともあって、離婚を余儀なくされます。

 なお、アリエノールはルイとの離婚直後に11歳年下のアンジュー伯長子アンリ(英語名はヘンリー)と結婚するという離れ業を演じた上に、アンリがイギリス国王ヘンリー2世に戴冠したため、広大なアキテーヌ公領はイギリス王ヘンリー2世の管轄下に組み込まれ、ルィ7世とフランスにとってとてつもない政治的な重しになってしまいます。この負荷の解消には、100年戦争中の1453年7月17日に起きたカスティヨンの戦いまでかかります。

 その後のヘンリー2世とアリエノール、そしてこの陰気なルイ7世の子とは思われぬほど才気縦横なフィリップ2世ことフィリップ・オーギュストと、アリエノールの子供たちをめぐる愛憎劇は、舞台・映画で有名な戯曲『冬のライオン』をご覧ください。とくに、1968年上映の映画版でのキャサリーン・ヘプバーンとピーター・オトゥールのやり取りは一見の価値があります。

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 同じく長兄の死によって修道院生活から俗世に引き戻されてしまったもう一人の王が、イギリス国王ヘンリー8世です。こちらは還俗後に父ヘンリー7世の指示で、亡くなった兄アーサーの妻カタリーナ・デ・アラゴン(英語ではキャサリン・オブ・アラゴン)と結婚の話が持ち上がります。

 実は、兄の未亡人と結婚できるのか、旧約聖書では見解が分かれます。すなわちレヴィ記には「兄弟の妻をめとる者は、汚らわしいことをし、兄弟を辱めたのであり、男も女も子に無具まれることはない」(第20章21節)とあります。一方で、申命記には「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者は妻は家族以外の他の物に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない」(第25章5~6節)。

 これでは誰しも迷ってしまいます。かつ、この結婚話は「若い未亡人は持参金とともに帰国するのが常識だったが、ヘンリー7世側も巨額の持参金の返却を惜しんだ下心から、ヘンリー王子との婚約を持ちかけた」(Wikipedia)というものでしたが、やがて「キャサリンはやがて病気がちになり、婚約者ヘンリー王子の訪問を心待ちにするようになった。一方のヘンリー王子も、兄嫁への憧憬は愛情に変わっていった」(Wikipedia)。こうして、ヘンリー7世の死後、二人は結婚します。

 とはいえ、皆さんもよくご存じなように、キャサリンは流産・死産を繰り返し、やがて結婚生活は破綻、離婚を許さぬローマ教皇庁に反旗を翻したヘンリーは英国国教会を独立させて、離婚、その後、アン・ブーリンをはじめ、5人の妻をめとり(そのうち、アン・ブーリンとキャサリン・ハワードの二人は、彼女たちの不倫を理由に処刑してしまいます)、自分にとっても、また妻たちや子女にとってもあまり幸福とは言えない人生を送ることになります。

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 それでも、ルイ7世もヘンリー8世も、ご本人は天寿をまっとうします。しかし、せっかく還俗したのに不幸な羽目に陥った代表が足利義教と今川義元でしょう。この二人は兄等の不慮の死で、俗世に舞い戻ってしまったものの、思わぬことで非業の死を遂げます。

 まず、足利義教は室町幕府第3代将軍足利義満の子で、僧侶時代は義円と名乗ります。義満の死後は、長兄で同母の義持が後を継ぎますが、義持の死とさらにその死に先立つ5代将軍義量の死で、前代未聞の籤引きよる選出で、第6代将軍に就任しますが、父親義満の絶対的権力行使にあこがれたか、有力大名を圧迫するあまり、逆に、守護大名赤松満祐による暗殺で、首を刎ねられるという非業の死をとげます。

 ついで、今川義元は兄氏輝や、その子彦五郎の相次ぐ死で今川家が混乱、同じく出家していた異母兄・玄広恵探を死においやって(花倉の乱)当主の座につきますが、その後の桶狭間での一件は皆さんも大河ドラマ等でよくご存じのはず。

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 おもしろいことに、彼らは修道院・寺等で修業したせいか、インテリな方が多い。ヘンリー君などはルターが宗教改革の狼煙をあげると、ルターを「批判する『七秘蹟の擁護』を著した功で、1521年10月に教皇レオ10世から「信仰の擁護者」(Fidei defensor)の称号を授かる」(Wikipedia)でした(もっとも、その後、前述のように離婚問題からローマ教皇庁に反旗を翻すことになる)。また、彼は「音楽にも造詣が深く、自ら楽器を演奏し、文章を書き、詩を詠んだ。自ら作曲したとされる楽譜(合唱曲 “Pastime with Good Company” など)が現存する」(Wikipedia)とのことです。

 義元君も和歌に親しみ(もっとも、「今川家中の和歌のレベルは実際はあまり高くなかったらしく、同工異曲の似たような歌が頻出し、そもそも歌合の題目をよく理解していない作品が多い。義元自身も例外でなく、為和から厳しく指導された記録が残っている;Wikipedia)、「今川仮名目録」に追加法を付け加えます。

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 さて、近代史において、貴族たちのこうした相続上のリスク・ヘッジに新しい要素を加えたのが、絶対王政から立憲国家に成長する段階で需要が増した近代軍事・官僚システム、ならびにそれを支える学校制度だったかもしれません。いうまでもなく、分割相続が困難な場合、次男・三男を軍人か(これは中世ヨーロッパでもよくあった話ですが)、近代王政を支える官僚にする。とくに帝国主義政策を支える上で必要な外交官、あるいは植民地経営者にあてはまります。

 こうして、封建制ではたんなるスペアとしてしか存在意義がなかった次男、三男があらたな活躍の場を得る...これこそ近代化の一側面ですが、そのあたりはto be continued としましょう。

あなたはどんな立場を求めて就活しますか? プレイヤー、コーチ、マネージャー?再訪

2018 11/25 総合政策学部の皆さんへ

 以前、「就職活動についてPart1:求職の際のミスマッチ、あるいは宮本武蔵とダ・ヴィンチの憂愁」で取り上げた話題ですが、もう一度取り上げてみたいと思います。このブログで紹介したのは、はるか昔に読んだ小説ともエッセイともつかぬもので、諸国放浪中の宮本武蔵徳川家康の九男、尾張藩徳川義直の面前で試合をした際のエピソードで、実は宮本武蔵の就職活動の一環でもあるという点がミソです。殿様の御前試合で見事勝てば、尾張藩に仕官できるかもしれない。もちろん、武蔵は見事勝つのですが、義直は家臣たちに言います。

見た! 強い! だが、教えられぬ

 武蔵の(プレイヤーとしての)し合いぶりに、義直は武蔵の技は個人技であり、かつ、彼自身の身体的ベースに支えられる部分が多く、したがって他人に教えるのは容易的能力に依拠するものであり、他人を教えるコーチとしては期待できない、と結論したのです。

 なおかつ、武蔵本人が希望するのはプレイヤーでも、コーチでもなく、“侍大将”=つまり、指揮官(監督=マネージャー)なのです。しかし、指揮官は個人として、とくに優れた戦闘能力を持つ必要は必ずしもない、というのが義直の文脈になります。事実、この時の武蔵の就活はうまくいかず、彼は結局一生、公的な職には就けませんでした。彼が生涯最後の安定した日々を送るのは、もはやプレイヤーとしての実力を失い、いわばレジェンドとして、寛永17年(1640年)熊本藩主細川忠利から客分として、7人扶持18石の合力米300石が支給され、鷹狩りも許されるなど客分として破格の待遇で迎えられてからです(Wikipedia)。

 こうしたレジェンドとして迎えられる者への最高の言葉はたぶん、ミラノ公に招かれたルネサンス期のイタリアの詩人ペトラルカが「どんな御用を務めたらよいか」と尋ねたときの、(名君で、好男子で、色豪であったという)ジョバンニ・ヴィスコンティの台詞「ただここにいてくださるだけでよろしい。それが私と私の両国の名誉になりますから」でしょう(モンタネッリ・ジェルヴァーゾ『ルネサンスの歴史上』[藤沢道郎訳])。

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 これは就活でも同じでしょう。会社が募集に何をもとめているのか? プレイヤーか、コーチか、それともマネージャー(野球の監督は英語ではManagerです)か、さらにその上ですべてを統括するGM=ジェネラル・マネージャーか? もちろん、皆さんにとって数年後に訪れる就活では、新卒採用ということは基本的にまずプレイヤーで勝負してもらう、ということなのでしょう。

 もう何年も前になりますが、学部長だった時に、企業の人事の方々との懇談会というのがありました。そこで何社かの人事関係の方々とお話しする際、「うちの卒業生が、御社に入社した際に、どの部局につきますか?」と尋ねると、異口同音どの会社の方も即座に「それは営業です」とおっしゃいました。それでは、その理由は? と尋ねると、これも異口同音「二つ意味がある。一つは、営業をやることで、自分の会社が何を売っているのか? を自覚すること」。「そしてもう一つの意味は、自分の会社がどんな人たちと取引するのか、を自覚すること」だということでした。その二つを理解した上で、他の仕事にもつくことで、自らの会社のあり方を理解する、ということのようです。

 これはつまり、自社をいったんジェネラルな立場で見てまわってから、本人たちの適性にあわせてプレイヤー、コーチ、マネージャーにわけていくという、日本的雇用システムの一環とも言えるでしょう。

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 例えば、皆さんご存知というか、上ヶ原の学生さんならお世話にならない方はほとんどいないはずの阪急電車、その創設者である小林一三は、明治25年(1892年)、慶應義塾を卒業すると三井銀行に勤務しますが、内心は文学青年崩れ、最初はジャーナリストをめざして都新聞(現東京新聞)を希望しますが、採用されず、やむなく三井銀 行に入ったものの「サラリーマンとしては落第だった。というの も三井銀行入行が決まっても出社せず、ぶらぶらする毎日が続いていたからだ。「 銀行には興味がもてなかった」と自伝には書いている」(杉田望「明治・大正・昭和のベンチャーたち」 第1回「小林一三(いちぞう)――希代の遊び人事業家;http://j-net21.smrj.go.jp/establish/column/20031216.html)。

 しかし、やがて「銀行ではソロバンと帳簿を覚 え、秘書課に勤務し、そこで三野村利助や中上川彦次郎などと出会ったことが事業家 としての小林の目を開かせる」。つまり、銀行支店業務というプレイヤーには満足できなかった彼は、運を天にまかせて「マネージャー」に転進します。それが“箕面有馬電気鉄道”、つまり現在の阪急だったというわけです。

 そこからのご活躍は、このブログでたびたび言及しているので、そちらをご参考にして下さい(「小林一三と阪急文化圏、そして関西学院Part1」、「小林一三と阪急文化圏、そして関西学院Part2:百貨店について」)。いずれにせよ、プレイヤーでおさまりきれなかった小林は電鉄会社の支配人として、宅地開発、百貨店経営、宝塚温泉と歌劇場、そして興業・映画(東宝は東京宝塚劇場の略)、そして政治家(近衛内閣の商工大臣)にまで活動の場を広げます。

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 逆に、偉大なプレイヤーとして活躍し、長年マネージャーを勤めながらも、結局はコーチの方が性に合っている人もいるわけです。例えば、日本のプロ野球で言えば、中西太元西鉄監督がそうかもしれません。プレイヤーとしては“怪童”の名に恥じず、生涯打率307を誇りながら、通算12年の監督生活で勝率は0.48にとどまり、優勝は1度のみでした。

 その一方で、「コーチとしては数多くの強打者を指導しており、吉田義男は「中西さんは教える達人でしたね」と話している。江夏豊は「名監督は数多くいても、名コーチは少ない」が持論だが、その中で「投げるほうの名コーチは権藤博さん、打つほうの名コーチは中西さん」と語っている」(Wikipedia)。このあたりも就活の際に考えていただければと思います。

時間外労働について、甘粕元大尉と残業代Part2

2018 9/16 総合政策学部の皆さんへ

 前編「時間外労働について、甘粕元大尉と残業代Part1」では、橋本毅彦・栗山茂久編『遅刻の誕生:近代日本における時間意識の形成』(2001年、三元社)第3章「近世の地域社会における時間」(森下徹)から、萩藩においては18世紀半ば頃から、仕事と時間の関係が変わり、その結果として“残業代”らしき概念がうまれてきた顛末を紹介しました。まさに“近代化”です。“遅刻”の概念と“残業代”の概念が、ほぼ同時に生まれてきます。

 こうした概念は、様々な社会階層で同時多発的に進行したようです。Part1で紹介した白木屋日本橋店ではよくわからない“残業代”ですが、実は、同時代、同じ江戸店であった三井越後屋では、労働管理の一貫として勤怠管理を施行していたとこのことです(瓦版HP「江戸時代に三井越後屋が築いた勤怠管理の方法」https://w-kawara.jp/making-efficient/attendance-management-method-made-in-the-edo-period/)。「昼夜勤仕録」という記録では、

(1)江戸時代の不定時法(季節による日照時間長の変化にあわせる)で皆勤時間を設定
(2)休んだ労働者には「朱星」が、病欠等は「黒星」が記録される。なお、公休や店舗が定めた休日、喪中はこの対象としない。
(3)残業をした場合には「朱星」を預かり扱いとする。
(4)三井家は、期間分の記録をもとに褒賞を検討:1ヵ月で「朱星」が8つほどあれば皆勤扱いとする。

 つまり、残業した場合は期間ごとに朱星を集計して、皆勤時間として評価した上で給与全体に補填するというシステムのようです。

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 こうして江戸期も進めば、雇用側も被雇用者も、労働時間と時間外手当を否応なしに意識せざるをえなくない。それでは、日本の近代化において次はどのような展開になったのか? 同じ『遅刻の誕生』の第4章「二つの時刻、三つの労働時間」(鈴木淳執筆)では、1865年(造船所元治2年)フランス人の指導のもとに創業した横須賀造船所(明治維新後は横須賀海軍工廠)に関する勘定奉行の伺いを紹介しています。

御軍艦鍛冶職等の義、御定め賃銀1日銀7匁8分づつのところ、右は朝五つ時頃より夕7時までの賃銀にて、大早出、大居残り等仕り候らえば、右賃銀の倍増相渡し候義にこれあり」

 このように労働時間を定めるとともに、早出/居残りの場合は賃銀を倍にするという施策です。鈴木はこうした状況から、「幕末の幕府は少々の残業は無償で、大幅なら日当の倍額支給というおおざっぱかつ多分に恩恵的な給与を行っていた」としています。こうしてPart1の末尾でも紹介していたように、江戸時代日本で内在的に進行していた近代化は、黒船来航を嚆矢とする外圧によってさらに加速します。

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 さて、皆さんもご存知のように明治に入ると、近代化にともない賃銀労働者は激増します。とは言え、雇用者はできるだけ安く雇用しようとします。上記の論文で鈴木は1883年から1892年にかけての富岡製糸場の年度平均1日あたりの労働時間・年度職工賃銀・生糸生産高を比較して、実労働時間が8時間40分から10時間2分に増え、生産高は3415貫から3722貫に増えたにもかかわらず、賃銀総額は8,998円から8,350円に減少しており、「賃銀の上昇なく労働時間が延長されたと考えざるを得ない」と指摘しています。

 つまり、近代的時間意識は雇用者側にも被雇用者側にも未熟であり、雇用者はそれにつけこんで低賃金労働を強いる結果となったのでしょう。こうした状況下、時間外労働あるいは残業代については具体的資料に乏しいようです。

 鈴木氏がここで持ち出すのは例によって横須賀造船所の1878年(明治11年)1月の規定で、これが現在確認可能な残業に関する最初の資料とのことです。それによると、「残業する職工に対して1時間分の賃銀を基準として残業1時間についきその1.5倍、午後10時から午前4時は2倍を支給するとある。残業に入ったとたんに支給率が上がっている」。ところが「1884年3月には海軍の工場すべてを通じて定業から午後7時までは1倍、午後7~10時・午前4時~起業時までが1.5倍、午後10時~午前4時は2倍に変更される。・・・3時間程度前の残業へは、正規の時間内と同様の賃銀しか給せられなくなった・・・・この程度の残業が常態化していたことをしめすのではないだろうか」。

 鈴木氏はさらに横須賀造船所をはじめとする陸海軍工廠での作業は、民間企業とことなり、緊急の修理作業等の比重が高く、さらに戦時ともなれば、不規則な長時間労働が生じた可能性も指摘しています。日本企業における、いわゆる“ブラック企業化”がこのあたりからはじまったのかもしれません。

 いずれにせよ、明治初期、日本における労働時間の概念の確立と時間外労働に対する手当(=残業代)をめぐり、雇用被雇用者の間に様々な駆け引きがあったようです。皆さんも、職業を選ぶとき、こうした労働時間と賃銀、さらには雇用者と被雇用者の駆け引きなどをきちんと頭に入れて置いて下さいね。

時間外労働について、甘粕元帝国陸軍大尉と残業代Part1

2018 8/5 総合政策学部の皆さんへ

 しばらく前まで国会で「働き方改革関連法案」こと正式名称「働き方改革を推進するための関係法律の整備に関する法律案」が与野党の攻防の焦点になっていましたが、そこで焦点とされた“裁量労働制”にからんで、日本の近代化において、“残業/時間外労働”という言葉=概念はそもそもどんな経緯で出現したのか気になりました。

 というのも、最近、“昭和の妖怪”こと岸信介の満州時代をもう少し知りたくて、『満州と岸信介:巨魁を生んだ幻の帝国』(太田尚樹、2015、KADOKAWA)という本をひもといていると、以下の記述が目をひいたからです(この本に関する限り、白色テロリストと見なされる元帝国陸軍大尉甘粕正彦の方が、主役たるべき岸よりもよほど印象的です)。

戦後、武藤富雄甘粕の思い出を語るとき、必ず出てきたエピソードがある。昭和13年秋のことだったが、ハルピン交響楽団を新京に呼んだ折、甘粕は協和会宣伝部の仕事を兼任していた武藤に向かって、会場係に駆り出された職員に、時間外労働させましたね。きちんと手当を払っておいて下さいと念を押したそうである

 さらに、次のような記述もでてきます。

終戦の数日前、甘粕は「日本人は一日も早く、祖国再建のために内地にお帰りなさい」と周囲の人間達に告げた。そこからの行動が如何にも甘粕らしい。満州興業銀行の口座から満映の貯金600万円を強引に引き出し、古海にも頼んで総務庁から200万円出させると、満州人社員には正規の退職金、日本人社員には平等に5000円ずつ分け与えた。そのとき甘粕は「満映の施設を破壊するようなことのないように。すべて満州と中国の人々に残すのです」と指示した

 関東大震災後の混乱に乗じて、アナキスト大杉栄とその妻伊藤野枝、さらに甥の甥・橘宗一の3名を拷問の末、虐殺(いわゆる甘粕事件)、その責をおって一人下獄、軍籍を失った後、軍上層部の手配によるフランス滞在を経て、満州国に流れ着き、数々の謀略に従事、「官僚ならではの狭量で潔癖にすぎる点」「ヒステリックで神経質、官僚的という性格が一般には知られていた」(Wikipedia)とされる甘粕が、部下の残業代さらには敗戦直後の退職金にまで心を配る様は(自らは最後の指示の直後に青酸カリで自死)、甘粕に殺された大杉執筆の『大杉栄自伝(=傑作です)』が大好きな私にとってつい考え込んでしまう一文です。

 ということで、大杉栄も甘粕もまた別の機会にとっておいて、本日は残業/時間外労働についてのお話です(皆さんも、卒業後は切実な問題ですよね)。

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 さて、あらためて申すと、“残業”とは“時間外労働”であり、つまりは“労働時間”の概念から生まれたことに違いありません。それでは「使用者または監督者の下で労働に服しなければならない時間(Wikipedia)」という近代的な労働時間とは?

 その基本的理念の源泉のひとつは、合理的資本主義者の祖の一人であるベンジャミン・フランクリンの十三徳の第3条「規律:物はすべて所を定めて置くべし。仕事はすべて時を定めてなすべし」、そして第8条「勤勉:時間を空費するなかれ。つねに何か益あることに従うべし。無用の行いはすべて断つべし」に裏打ちされたものでしょう。とくに「仕事はすべて時を定めてなすべし」に基づけば、資本家と労働者があらかじめ約束した“時”を越えて労働をさせた場合、時間外手当をはらうべきである(と甘粕はめざとく気がつく)のです。

 さて、こうした時間外手当の日本での起源はどこか? たとえば、江戸時代、加賀藩の経理にあたる“御算用者”の家業に従事している藩士猪山信之家の“入払帖(家計簿)”を研究した歴史家磯田道史先生の『武士の家計簿』をひもとくと(新潮新書の50頁、71頁に天保14年の収入や支出が記されています)、残業代のようなものはとくに言及されていないようです。

 それでは、武士以外の都市生活者、いわゆる“素町人”としての給与所得者の世界はどうだったか? 江戸時代の白木屋日本橋店(現在の東急百貨店)が残した膨大な“白木屋文書(現在は東京大学経済学部図書館で保存されているそうです)”を読み解いた油井宏子氏の『江戸奉公人の心得帖』(新潮新書242)では、「奉公人たちは、いくら給金をもらっていたのでしょうか。いつ、どのように給金がしはらわれていたのでしょうか。実はこれがよくわかならいのです」とあります。

 もっとも、日本橋店に遅れて開店した富沢町店の資料では、明和6年の『定法帳』に「この店には、これまで給金の規定がなかったので、このたび定めることにした。日本橋店と相談のうえ」とあって、元服前の(田舎から呼び寄せられたばかりの)子供には給金が渡されていないが、「元服後3年目までは4両、4年目の春からは5両、買いだし役となった時には6両、支配人(支配役)給金は10両。また、退職恩賞金として23年以上勤続のヒトには50両、支配人退役の時には100両」とあるそうです。当時、奉公人は店に住み込み(=当然、独身)で食事・住居費の心配はなく、衣類は夏冬に「仕着」をいただくというシステムです。その給金は直接支給されず、お仕着せ以外の衣類や店での食事以外の飲食物等を店を通して購入することで、店から借りることで1年の給金から差し引かれる、ということだった、と油井氏は推測しています。

 このように、私のような素人が手持ちの啓蒙書の類を探しても、なかなか江戸時代の“残業代”にたどり着けません。

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 そこでちょっと専門の本を持ち出しましょう。橋本毅彦・栗山茂久編『遅刻の誕生:近代日本における時間意識の形成』(2001年、三元社)は、皆さんも大学を卒業して社会に出る前に「いかに我々は近代的時間に支配されているのか?」を一考するのに参考になる好著ですが(もう一つお薦めは、いうまでもなくミヒャエル・エンデ原作『モモ』でしょう)、その第3章「近世の地域社会における時間」(森下徹)に、萩藩(いわゆる長州藩です)が1789年(寛政元年)に市中の大工さんの使役について定めた掟がでてきます(=人件費について公定レートを定めているのです)。

一 上大工は一人昼働を5時として、賃金は米1升・銭184文とする。中以下はこれに応じて規定する。
二 その額を書いた札を人別に公布するので、それ以上を雇用者が支給することを禁止する。
三 昼働5時以外に夜中まで使役したり、あるいは短時間のみ使役した場合は札に書いてある額を「時割」にし、それのさらに一割増しを支給する。

 著者の森下はこの結果から、「ほぼ18世紀半ばを境にして、一日丸まる拘束されるようなあり方から、時間で労働量を測り、それに応じて賃金を支給するあり方に変わった」、「一日の労働時間がより短く算定され」「「時割」での賃金の支給(しかも割増し)もあったことも知られる」としています。ちなみに、この1789年にはベンジャミン・フランクリンはまだ存命中(なくなるのは翌1790年)、時間と仕事の関係についての近代化が、図らずも太平洋を隔てて同時に進行していたことがわかります。 (この項 to be continued・・・・・・・・)

新入生の皆さんへ:「総合政策」を学ぶための気軽な課題図書 Part2:“経済”を学ぶには?

2018 7/21 総合政策学部の皆さんへ、とくに新入生の皆さんへ

 『基礎演習ハンドブック』初版から第6章 「総合政策」を学ぶための気軽な課題図書の復刻シリーズ、以下は“経済”について、主に亀田啓悟先生がお書きになった「経済」についてのご紹介です。

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 生きた経済を学ぶのに、「経済小説」を読むことも一興です。2007年に亡くなった城山三郎はこの分野の先駆者ですが、『男子の本懐』は昭和恐慌以後の経済政策、特に金本位制への回帰を目指す井上準之助と浜口雄幸の物語で、「政策とは何か?」を考えさせられる政治経済小説です。第二次大戦に向かっていく日本の空気もよく描かれています。ただし、経済の基礎知識を知らないと、この作品の醍醐味が伝わらない恐れもあるかもしれません。

 また、『落日燃ゆ』は第二次大戦後の東京裁判で、A級戦犯のうち唯一人文官で処刑された広田弘毅の話です。戦争に反対しながら、文官の誰かは責任を取らねばならないという理由で自ら死を選んだ広田ですが、戦勝国・敗戦国という概念について再考させられた記憶があります。また靖国問題等を考える上でも、一読の価値があると思います。

  • 註1:城山三郎:名古屋出身の小説家(1927~2007)。一時期大学で経済学の教員も勤めましたが、小説家に専念。経済小説ならびに伝記小説を得意としていました。
  • 註2:広田弘毅:外交官・政治家(1878~1948)。戦前総理大臣を務めるが、東京裁判でA級戦犯として有罪、処刑されました。

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 次は、高杉良の『小説日本興業銀行』です。敗戦後の復興金融金庫の時代から高度経済成長までの日本経済を、「財界の鞍馬天狗」こと中山素平を主人公に、日本興業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)の視点からみた経済小説です。

 復金インフレの混乱から日本経済が立ち直り、所得倍増を達成する頃までが描かれています。海運再編(1962)、昭和四〇年不況と日銀特融(1965)、自動車メーカーの日産とプリンスの合併(1966)、新日鉄の誕生(1970)等、戦後の産業政策を勉強するためには、まず、この小説を読むほうが早いかもしれません。

  • 註3:高杉良:東京出身の小説家(1939~)。業界紙編集長から参加に転じ、ビジネスマン小説のジャンルを開拓。
  • 註4:中山素平:銀行家・財界人(1906~2005)。日本興業銀行頭取や経済同友会代表幹事を歴任。
  • 註5:復金インフレ:1947年頃、全額政府出資の復興金融金庫が、重工業に資金と資材を重点的に投入〈傾斜生産方式〉しました。この際、財源を日本銀行直接引き受けの債券発行に頼ったため、通貨の増発を招き、インフレーションが生じました。
  • 註6:所得倍増:1960年に池田勇人内閣の下で策定された所得倍増計画では、10年間に国民総生産を26兆円に倍増させることを目標に掲げ、その後の経済の驚異的成長をもたらしました。

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 ついで、NHKスペシャル・ワーキングプア取材班『ワーキングプア』を推薦します。この問題をおそらく最初に取り上げた話題作です。職を持ちながら生活保護水準以下の所得しかない、ワーキングプアの実態がリアルに描かれています。

ただこの本だけを読むと、「構造改革は格差を生んだ→構造改革は悪だ」という短絡的な意見にとびついてしまう怖れもあります。

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 一方、ビジネス・リサーチについて、実践例を教えてくれるのはF・フォーサイス作の1970年代のベストセラー小説『戦争の犬たち』かもしれません。

 得体も知れない依頼主から、アフリカの小国でのクーデターを持ちかけられた傭兵あがりの主人公、キャット・シャノンが現地に乗り込み、小なりとは言え、一国の転覆を謀るべく、種々のリサーチをしながら綿密に計画をねりあげていく様は、(その後の計画実行時の微に入り、細をうがつ描写でも)まさにビジネスパーソンの鏡とでも言うべきでしょう。

  • 註7:F・フォーサイス(Frederick Forsyth):イギリス生れの作家(1938~)。主な作品に『ジャッカルの日』、『オデッサファイル』、『悪魔の選択』。

「利口で勤勉」vs.「利口で怠慢」vs.「愚かで勤勉」:ハンマーシュタイン=エクヴォルト男爵の役割分類

2018 3/30 総合政策学部の皆さんへ

 気がつけばほぼ10年間この研究室ブログを書いてきましたが、この31日に総政を退職することとなり、正規教員として最後の投稿になりそうです。そこで、その〆として、“組織論”、とくに個人と組織の関係について触れましょう。組織の中で人はどうあるべきか、あるいは、どんな人がその組織でどんな立場を占めるべきか?  そもそも、組織の上に立つ人間は優秀か?

 万延元年(1860)、日米修好通商条約批准書交換のための遣米使節団派遣のみぎり、カリフォルニアまで往復した咸臨丸に座乗した勝海舟は、帰国後、老中に呼び出されます。「その方は一種の眼光を具えた人物であるから、定めて異国へ渡りてから、何か眼を付けたことがあろう。詳らかに言上せよ」との仰せ(それにしても誰なんでしょう? 1860年と言えば、久世広周、内藤信親、脇坂安宅、安藤信正、本多忠民、松平信義らですが)。

 もちろん、そんなご下問にたじろぐ勝ではありません。江戸っ子よろしく気の利いた台詞がついつい口をつき、「人間のする事は、古今東西同じもので、亜米利加とて別にかはったことはありません」といなそうとしますが、相手もしつこい。「左様であるまい、何か、かはったことがあるだろう」と再三再四問はれてしまい、これまたついつい口がすべって本当のことを(人間、一番腹を立てるのは、本当のことを言われた時です)、

左様、少し眼につきましたのは亜米利加では、政府でも民間でも、およそ人の上に立つものは、みなその地位相応に怜悧で御座います。この点ばかりは、全く我が国と反対のやうに思いまする」と言ったら、御老中が目を丸くして、「この無礼もの控えおろう」と叱ったっけ。ハハハハ」(江藤淳・松浦玲編『氷川清話』講談社学術文庫版)。

 ちなみに、これとほぼ同じ台詞が第2次世界大戦時の日本軍に対する、連合軍からの評価にあったように記憶しています。すなわち、両者を比べれば、将官(=戦略的指揮官)は圧倒的に連合軍が優秀、佐官(=戦術的指揮官or参謀)クラスも連合軍が優秀で、尉官クラス(=現場の指揮)でだいたい同等、それでなんとか戦えているのは下士官の優秀さと兵の順良さだ、とうろ覚えですが、読んだような気がします。

 つまりはノンキャリの優秀さが、キャリア上級官僚(あるいは政治家)の無能さをカバーしている?? どんなものなのでしょうか?

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 一方で、どの組織でも、優秀な人、ふつうの人、駄目な人(出切れば組織から切り離したい人)がいる、という組織論もあります。たとえば343(通称、サシミの法則)。優秀な人が3割(サ)、ふつうの方4割(シ)、駄目な方3割(ミ)というわけです。

 別に262の法則という説もあり、上記の比率が2割、6割、2割だというです(なお、現関学理事長の宮原明元富士ゼロックス社長は、262派でした)。会社の中の2割台の人間が優秀か(2割台と言えば、昔の阪神の新庄の打率)、3割台になるか(3割台となれば、イチローの全盛期)、このあたりで大きく変わってきそうです。

 それはさておき、343であれ、262であれ、どちらの法則もキモは以下の二つです。
(1)中間層(4割、あるいは6割)が上に倣うか、下に倣うかで会社の業績が決まる。
(2)そうかといって、優秀な2割(あるいは3割だけ)集めてみても、その集団の中でやがて343、あるいは262の階層ができてしまう(この点については、必ずアリについての研究が引用される、という段取りです)。

 さらにここが難しいところで、平常時ならば343の法則で“ぼんくら”(江戸時代は“昼行灯”)などと呼ばれていた人物が、非常時に一変、見事なリーダーに変身する、という都市伝説もまた存在するわけです。この典型が大石内蔵助良雄、Wikipeidaでも「平時における良雄は凡庸な人物だったようで、「昼行燈」と渾名されており、藩政は老練で財務に長けた家老大野知房が担っていた」けれど、主君切腹、赤穂藩お取りつぶしの切所で、はじめは「浅野家お家再興の望みあり」を旗印に家中をまとめ、最終的には「吉良殿の御首(みしるし)頂戴」をキャッチコピーに堂々と主君の復讐を敢行する。つまり、平時の“無能者”は非常時には“盟主”に変身する、というこれまた都市伝説的リーダー論につながります。

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 さて、さらに都市伝説的に知られている“ゼークトの組織論”、ドイツ国防軍上級大将ヨハネス・フリードリヒ・レオポルト・フォン・ゼークトに仮託された「軍人は4タイプに分けられる」という小話があります。

 そこでは、軍人は以下の4つからなる。
・有能な怠け者は司令官にせよ。
・有能な働き者は参謀に向いている。
・無能な怠け者も連絡将校か下級兵士くらいは務まる。
・無能な働き者は銃殺するしかない。

 「有能な怠け者」として実像を探れば、旧満州軍総司令官大山巌、あるいはさきほどの旧浅野内匠頭家中大石内蔵助、さらには連合国遠征軍最高司令部司令官アイゼンハワーが想起されるかもしれません。

ちなみに、この大山巌の“怠け者”イメージは自ら装ったものなのか? 古来から論争がありますが、Wikipediaでは息子の大山柏の回想、「凱旋帰国した大山に対し、息子の柏が「戦争中、総司令官として一番苦しかったことは何か」と問うたのに対し、「若い者を心配させまいとして、知っていることも知らん顔をしなければならなかった」ことを挙げている」としています。これをどう解釈するか、日本的組織のリーダーイメージについてなかなか蘊蓄に富むというべきでしょう。

 それでは、「有能な働き者」に該当する者では、近代ドイツ軍の父、というよりも近代参謀の権化大モルトケあたりが該当するのでしょうか。『戦争論』で著名なクラウゼビッツ、あるいはアイゼンハワーの下でかつての上司(しかし、battleだけが優秀な)猛将パットンを使いこなすブラッドレーあたりがぴったりかもしれません。

 つまり、「有能な怠け者=総司令官・戦略的司令官=アイゼンハワー」→「有能な働き者=戦術的司令官ブラッドレー」→「(実際のバトルだけは優秀な)パットン=前線司令官」というのが最上のラインとなりそうです(3人が戦場で写っている写真です)。こうなると、あのマッチョだけれども、ちょっといじけたところのあるかもしれない(ジューコフとならんで第二次大戦中最も成功した「守備的な将軍」)モントゴメリーはやや格下にならざるを得ないところです。

 しかし、このゼークトの組織論が都市伝説的にもてはやされるのは、なんといっても第4カテゴリーに対する無慈悲な断罪=「無能な働き者は銃殺するしかない」というところでしょうね。一聴、大向こうをうならせるような断定!

 とは言え、本当なのかな? とも思ってしまいます。無能でも、指令さえ果たせてくれれば、なんとかなるのでは、という疑問もわいてきます。

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 さて、Wikipedia等では、このゼークトの組織論は実は、クルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルト男爵/ドイツ国防軍上級大将による、次のような表現の剽窃らしいとのことです。すなわち、

 将校には四つのタイプがある。利口、愚鈍、勤勉、怠慢である。多くの将校はそのうち二つを併せ持つ。
・一つは利口で勤勉なタイプで、これは参謀将校にするべきだ。
・次は愚鈍で怠慢なタイプで、これは軍人の9割にあてはまり、ルーチンワークに向いている。
・利口で怠慢なタイプは高級指揮官に向いている。なぜなら確信と決断の際の図太さを持ち合わせているからだ。
・もっとも避けるべきは愚かで勤勉なタイプで、このような者にはいかなる責任ある立場も与えてはならない。

 こちらの方が、「無能な働き者は銃殺するしかない」という衝撃的決めぜりふこそありませんが、よほどもっともらしいでしょう。第1カテゴリーはモルトケやブラッドレーがあてはまり、第3カテゴリーは言うまでもなく大山巌やアイゼンハワー(彼はノルマンディー上陸作戦実行日を決定する際に、この大作戦を前に決行するかどうか、意見が分かれた幕僚達を前に置き、数分、沈思黙考して、「とにかく決定を下さねばならない。私はそれを好まない。しかしそうなのだ(=決定しなければならない)。だとすれば、私には選択の余地がないような気がする」と断を下します)でしょう。

 それでは、実際の戦場ではどうなるのか? 大多数を占める第2カテゴリーは、第1カテゴリーが立てた計画にそって、第3カテゴリーの決断のもと、死んでいく、これが近代的軍隊の本質かもしれません。そして、第3カテゴリー(総指揮官)の人事管理者としての能力は、第1カテゴリーを優秀な人材として抜擢するとともに、第4カテゴリーを組織のなかの“バグ”として、巧みに除去することになるのかもしれません。それもまた組織のリーダーとしてのアイゼンハワーの才能であったようです。

日本の近代化と人々のキャリアPart 3:はては相撲取りか、大臣か?

2017 12/7 総合政策学部の皆さんへ

 明治維新という文化大革命のさなか、その時代を生きる人びとはこれから辿るべき前途に戸惑います(勝海舟が「時世で人が出来て、逆境がよく人をこさえるということは、事実を私は確かに見ました」と喝破する時代です)。みんな、自分にどんな運命が待っているのか、神ならぬ身、判断の付けようもありません。

 例えば、革命の最大の功労者たる西郷隆盛がその10年後には反逆者として自死に近い戦死をとげようとは! あるいは西郷・勝会談を経て江戸無血開城により謹慎・逼塞を余儀なくされた最後の将軍、徳川慶喜が西郷・勝よりも、さらにはハルビンで暗殺された伊藤博文よりも、そして明治大帝よりも生き延び、 大正2年(1913年)11月22日に76歳で大往生をとげようとは!

 また、官軍(明治新政府)への最後の抵抗者となった榎本武陽が明治政府に出仕、駐露特命全権公使を経て、外務大輔、海軍卿、駐清特命全権公使を務め、さらに逓信大臣・文部大臣・外務大臣・農商務大臣などを歴任、華族として子爵に陛爵されようとは、1868年1月3日の王政復古の時点で予想していた方もいないでしょう。

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 さて、幕末・明治初期、自らのキャリアでもっとも迷った例の一つに、後世の第16・22代内閣総理大臣山本権兵衛が戊辰戦争終了後、軍人としての出世に見切りをつけ、体力に自信があったので相撲取りにでも、と当時の薩摩藩お抱え力士陣幕久五郎に盟友(後の海軍大将)日高壮之丞とともに相談に訪れると、「あなた方は頭が働きすぎるから、相撲取りには向かない」とすげなく断られ、結局、海軍軍人として再出発したという逸話があげられるでしょう。相撲取りと総理大臣、最終的にどちらがよかったのか、若い日々には判断が付きにくい! なお、山本は1902年に海軍大臣として男爵に、そして1907年には日露戦争での活躍によって伯爵に陛爵されています。

 ちなみにこの陣幕、Wikipediaによれば、明治6年6月6日、「大阪造幣寮での天覧相撲において大阪相撲頭取総長として取組を編成したが、陣幕が決めた編成に西郷隆盛が納得せず、強引に大関・八陣の対戦相手を務めるように命じられた。当時既に引退から3年が経過していたために勝利することなど出来ず、『行在所日記』には「東方薩摩の陣幕は 大坂の八陣に負けたりければ 流石の西郷も座に耐えずして 蒼惶として拝辞して退きけるとぞ」と書かれている。これが元で明治13年9月場所限りで廃業し、実業家へ転身した」とあります。もっとも、この西郷もこの6月より征韓論で紛糾、自ら全権大使(遣韓大使論)として朝鮮に赴くという提案をめぐって激論、いったんは派遣案が決まったのが同年8月17日、天覧相撲にまで口を差し挟む余裕があったのでしょうか?

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 ところで、この明治6年には、1月12日徴兵令開始、2月24日キリスト教禁令撤廃、3月14日外国人との婚姻に関する規則公布(太政官布告第103号内外人民婚姻条規)、5月9日銀座煉瓦街一部竣工、7月20日第一国立銀行設立(のち、第一銀行、第一勧業銀行をへて、現みずほ銀行)、7月28日地租改正法公布、9月13日岩倉使節団帰朝、10月25日明治六年政変(上記、西郷隆盛の征韓論挫折、参議辞職)、11月10日内務省設置(西郷の政敵になってしまった大久保の主導)と慌ただしい限りです。

 ちなみに、今や経営が揺れている東芝こと東京芝浦電気の創設者にして、佐賀藩出身からくり義右衛門こと田中久重が満を持して東京に出府したのがこの明治6年ならば(東芝の元祖、田中製作所設立が明治8年)、越後から上京、幕末、塩物商いの手伝いから鰹節店での丁稚見習い、塩物商として独り立ちしながら、黒船に触発されて一転、鉄砲店に見習いに入り、死の商人として独立、鉄砲店大倉屋を開業、明治元年、官軍の御用商人に出世した大倉喜八郎が銀座復興建設工事請け負いから東京会議所の肝煎となるのもこの前後です。

 と思えば、七代目市川團十郎の5男堀越秀が、養家の河原崎座の七代目河原崎権之助を襲名しながら、河原崎座復興を置き土産に宗家市川家に戻り、不世出の名優九代目市川團十郎を襲名するのは翌明治7年7月、37歳の時でした。ちなみに、若い頃は「大根」だの「お茶壺権ちゃん」だのと酷評されたという九代目が「劇聖」とまでに謳われるそのきっかけの一つは、「明治元年秋には浪人の押し入り強盗によって養父が自宅で刺し殺され、自身も納戸に隠れて九死に一生を得るという惨事に遭遇。そのときに聞いた(瀕死の)養父の呻き声は終世忘れる事ができなかったという」体験だそうです。

狂を発することについて:研究者とは何かPart3

2017 11/5 総合政策学部の皆さんへ

 近年、言葉の扱いがなかなか微妙になり、例えば、「狂人」という言葉も、ワープロではすぐに変換できないようになっているようです。

 しかし、「狂」という言葉には、そうした差別的なイメージをさらに逆転させるパワーも潜んでいる、そんな気もします。例えば、昭和26年に永眠された永井隆博士の『ロザリオの鎖』には、研究に没頭するご自分を「反狂人」とする表現がでてきます。冒頭の一節、「ロザリオの鎖」のp.2には、

その上、私の妻という仕事、半狂人の世話もせねばならなかったのである。
 一つの新しい研究にとりかかると、私の人間が変わる。研究主題に全心を奪われてしまう。それを一通りまとめて、さて我が新機軸を考案する。実験装置をつくる。いよいよ実験にかかる。何カ月かで成績がでる。それをまとめて、論文を書く。校正をする。という経過なのだが、その間は研究以外のことは頭にはいらないのである。話しかけられれば答えはする。めしを出されれば食う。子供が泣けばにらむ。しかし、何を言ったのか、何を食ったのか、何をしたのか私は覚えない。大学から帰る道で妻と行き会いながら、知らずに通り過ぎたことが二回あったそうである。あとで妻から聞いて、ほうと私はいった。そんな時には私の眼は宙を見すえていて、口の中で何かぶつぶつ言っているので、気味が悪いそうである。「まるで夢遊病者の看護をしているようですわ」と妻が言ったことがある

 正直、同じ研究者として、いや、すごいなあ! と感嘆のほかありません。私のような“やくざ”な人類学者で、かつフィールドワーカーにとって、研究とはフィールドで生活することにほかならず、どうしたって、あれこれの雑事にも考えをめぐらさざるを得ない。アフリカで、電気も水道もガスもないところで(3年も)暮らすということになれば、自ら衣食住にも気を配らねばならぬ羽目に陥ります。

 もちろん、フィールドでの衣食住へのこだわりが昂じてしまえば、「(あの先生は)現地のフィールドで生活を楽しんでいるのか、研究をしているのか、よくわからなくなる」と私の先輩が慨嘆するような事態にもなりかねない・・・・。それはさておき、私には、永井先生のように心底研究に没頭するという生活は、まったくできません。そういう意味で、人類学など本当に“やくざ”な商売だと慨嘆してしまいます。

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 ところで、この「狂を発す」。 この「狂」の意味として、デジタル大辞泉では、「(1)気がくるう、(2)行為などが正常の域を外れる。正気とは思えないさまである、(3)こっけいな様、(4)激しくひどい。荒れくるう」と記されていますが、永井博士の真意はいうまでもなく(2)が主眼ながら、ご本人も自らの様を(1)にも近いかな、と感じているようでもあります。

 さて、この「狂」をあえて自らの名前にする! この言葉がもつ呪術的パワーを我が身にも! という例が、古来、いくつか見られます。例えば、自らの雅号に「狂」を付けた者として、杉浦日向子の傑作コミック『百日紅(さるすべり)』の主人公葛飾応為の父にしてこれまた破天荒な鉄蔵、こそ葛飾北斎で、一時期「画狂人」「画狂老人」と号します。

 その北斎に影響を受けた歌川国芳の弟子の一人が河鍋暁斎です。この暁斎という雅号自体が、はじめは狂斎だったとのこと。Wikipediaによれば、「安政5年、狩野派を離れて「惺々狂斎」と号し、浮世絵を描き始め戯画・風刺画で人気を博した。(略)ほかに酒乱斎雷酔、酔雷坊、惺々庵などの号があり、文久3年、歌川派の絵師による合作「御上洛東海道」に参加した。明治4年以後、号を「暁斎」と改める。明治18年(1885年)には湯島の霊雲寺の法弟になって是空入道、如空居士と号した。幕末期は、『狂斎画譜』『狂斎百図』などを出版したほか、漢画、狂画、浮世絵それぞれに腕を振るった」。なお、「自らを「画鬼」とも称した」そうですから、“狂”に“鬼”、まさに最強のキャラと言えるでしょう。

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 絵画の才にも「狂」が必要だとすれば、政治の世界でそれに触れたのが皆さんご存じの吉田松陰にほかなりません。

 2017年9月10日付けの朝日新聞でも「松蔭 過激な革命家」というタイトルで指摘していますが、安政5年に藩主に上申した書はタイトルが『狂夫の言』(国立国会図書館デジタルライブラリー『慨士遺音. 前編 巻之上』)、「天下の大患は、其の大患たる所以を知らざるに在り。いやしくも大患の大患たる所以を知らば、いずくんぞ之が計を為さざるを得んや」で始まります。松蔭はさらに「狂愚誠に愛すベし、才良誠に虞るベし」と断じて、弟子たちに「諸君、狂いたまえ」という言葉を残して、安政の大獄により死を迎えます。守旧派たる幕府に対する過激派の精神的バックボーンと化すわけです。

 この師の影響を受け、弟子達は「狂う」をキーワードに倒幕へと邁進することになります。例えば、弟子の筆頭ともいうべき高杉晋作は、西行をもじって東行と号していましたが、やがて「西海一狂生東行」「東行狂生」などと自らを記します(伊藤之雄『山県有朋:愚直な権力者の生涯』)。

 その影響をさらに受けて、明治から大正にかけて陸軍保守派の黒幕として名をはせる(そのためその葬式は国葬でありながら。肝心の“国民”が集まらなかったとも噂が残る)山県有朋も、狂介、狂助、狂輔となのり、元治元年には髪をそって「素狂」と号するようになります

 私の手元にある『木戸孝允日記』(筑摩世界ノンフィクション全集版)を調べると、明治4年6月13日の条に、「今夕、山県素狂が来話。その主意は、今日、西郷吉之助が山県を訪い、さいきん朝廷における議論が紛糾して一致せぬのを憂え、城戸をして諸参議の首位に立たしめ、もって天下の重責を担わしめんとと欲す。余は平生、国家の難にさいして身を避けぬと心に誓う。しかりといえども、今日の事はおのずから、余が諸参議の上に立つ部カラザルの道理あり。故に心中もとより決着し、容易に応諾せざるなり」とあります。ちなみに、その前後、伊藤博文は伊藤芳梅、井上馨は井上世外とそれぞれ雅号をもって、記述されています。

 その山県がやがて「狂」の言葉を捨てて、有朋、あるいは雅号に「含雪」と格子始めるのが、はやくも明治4年。もっとも、山県の庇護者であった木戸は必ずしもこれに同意するわけでなく、日記中に「有朋」と呼ぶようになるのは明治8年以降。これは、反幕テロリズムの思想的支柱としての吉田松陰からの脱却を無意識のうちに図ろうとする山県と、必ずしもそれになじめない木戸孝允の微妙な立ち位置を示唆しているのかもしれません(伊藤之雄『山県有朋』)。とくに明治後期から大正にかけて、「一回の武辺」と自称、政界の黒幕としてのイメージを濃くする山県が、「狂」のイメージから足抜けを図ろうとする時こそが、明治政府中枢部の意識の転回点、すなわち「革命家」から「権力者」へとの性格を転じる過程を示唆させるものです。

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 その一方で、師吉田松陰に対して微妙な立場の変化を見せるのが、山県の盟友伊藤芳梅あるいは伊藤春畝こと伊藤博文です(瀧井一博『伊藤博文』)。伊藤は、後年、松蔭に対して以下のように評しているそうです。

松蔭は、まったく攘夷論者でも倒幕論者でもない」。しかし「やはり過激だ。政府を苦しめている。政府のほうにはわかっていることも松蔭は知らずにやっていることもあったらしい」と。そして、松蔭はいまの政党(=明治政府を苦しめている民党の連中)の首領のようなものだった、と指摘する。その上で、伊藤は「当時の攘夷論はまったく精神から出たので、政略から出たものではなかった」と断じています。

 さらには往事を回想して、倒幕の頃には政敵だった(その結果、切腹までさせている)長井雅楽をもちあげ、「長井の論は「日本はどうしても一致しなければならぬ。開国をするにも、鎖国をするにも、公武合体した上で、どちらかに定めなければ、真の開国でも鎖国でもない、ともかく日本の一致を計らうと云ふのが、その眼目であった」としてその見識を讃え、「あの頃の人ではよほど目は見へていた」と評している」

 実はこの伊藤こそ、歴代総理大臣のなかでただ一人、平時(戦闘ではなく)に殺人を犯した真正のテロリストあがり、それが「過激な精神主義者松蔭よりも、冷静に日本の行く末を熟慮し、そのための制約を重んじた(かつての政敵)長井の方に共感を示」すに至る。山県が吉田の影響から脱して保守化すれば、伊藤は同じく影響から逃れることで一種リベラル化する。彼らはそれぞれ幕末・明治の時代、「狂を発する」ことの重みと、「狂だけではやっていけない」現実のバランスに翻弄されながら、新国家建設に苦闘したわけです。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...