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分けることと名を付けることPart4:“分けられた”人たち

2020 11/22 今回は、“分けられてしまった”人たちについて紹介しましょう。

 私はかつてタンザニア連合共和国西部のマハレ山塊国立公園で、あわせて3年ばかりをすごしたことがあります。この公園はタンガニーカ湖東岸に半島のように突き出ていますが、この湖の中央にはタンザニアとブルンディザイール(現コンゴ民主共和国)ザンビアを分ける国境が走っています。だから、湖の東岸から私の眼に入る西岸は隣国コンゴ(当時はザイール)なのです。

 ある日の暮れ、湖岸でぼんやりしていたら、なにやらカヌーを漕いできた男が一人、上陸してきたのでのぞき込むと、プラスチックのサンダルが束ねられていて、要するに当時社会主義政策をとって物不足のタンザニアへ、資本主義国から手厚く支援を受けていたザイールから物を売りに来た商人なのですが、考えてみれば国境をまたいできたものの、そこにイミグレーション税関もあるわけはなく、要するに密出入国でありかつ密輸の現場なのです(もちろん、かわいいものですが。ちなみにそのサンダルは香港製でした)。

 さて、この湖面を切り分ける“ボーダー”はもちろん自然のものでも、また民族の違いでもなく(湖岸の両岸でほとんど同一の言語を話しています)、1885年のベルリン会議でドイツ、ベルギー、イギリスの間で分けられものに過ぎず、かつそれ以来、ボーダーが動くことはありません。と言うよりも、このボーダーを下手に動かせば、紛争・暴動を引き起こして、脆弱な国家は崩壊しかねないのです(宮本・松田、1997)。

 ちなみに1960年代のアフリカ諸国の独立ラッシュ後、ヨーロッパ列強の手でいったん策定された国境が変わり、国家が分割された(=ボーダーが引き直された)例は、エリトリアエチオピアから独立戦争を経て独立したケース、そしてアフリカ最大の国家であったスーダンからやはり数度の内戦を経て南スーダンが分離したケースだけです。

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 その一方で、人々の暮らしは昔も今も基本的には変わりません。先ほど紹介したように、カヌーを漕げばタンガニイカ湖を横断することなどわけもない。パスポートを持つ者などいるはずもないから、すべては密出入国にほかならず、いくばくかの商品等を持参すれば密輸です。

 当然、行き来する者たちの間で男女の仲で結ばれることもあります。知り合いのタンザニア人の男性がザイール人の女性と結婚した時のこと、ふとまわりの連中に
「あの二人の子供は、いったいどちらの国籍になるのだね?」と尋ねると、
「病院で産んだら出生証明書をくれるから、最近は病院で産むことが多いけど、タンザニアの病院で産めばタンザニア人に、ザイールで産めばザイール人になる」としごくのんびりした答えが返ってきて、妙に納得したものです。どちらの国にも戸籍などなく、人々は近年まで自分の生まれ年(したがって年齢も)さえ知らなかったのです(蛇足ながら、戸籍とは世界の中でも日本、韓国、台湾等に限られた特殊なものです)。

 こうした光景は、近代国家以前の、“国境”があいまいだった頃に比べれば、あたりまえのことでした。しかし、1885年にベルリンで締結された条約にもとづけば、彼らの動きは立派な不法行為なのかもしれません。なによりも、近代国家は運営にお金がかかり(ニューヨークの国連に大使を派遣するだけでも、アフリカの一般民衆からすれば気が遠くなるような経費が必要)、そのためには税金をとりたてなければいけない。とすれば、“国民”の勝手な行動を制約し、彼ら(=我々)を囲い込もうとするのはある意味必然というべきかもしれません。

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 その上で、民族とは何で決まるのか=どんな基準で“分ける”のか? という難題が残ります。民族は「文化の伝統を共有することによって歴史的に形成され、同属意識をもつ人々の集団」とされています(『広辞苑』第四版)。そして一般的な理解では文化≒言語の共有が民族の形成に欠かせないとされます。

 とは言え、現実には簡単ではありません。例えば、“ユダヤ民族”では、母語はラディーノ語イディッシュ語など多数の言語に分かれます。すると、ユダヤ民族は単一の人種/民族というよりも、むしろユダヤ教という宗教で結びついた社会集団と言うべきかもしれません。

 さらに、誰が分けるのか? アフリカでは、植民地時代に先住民を“部族”に分割することが多かったことが知られています。ところが、この“部族”は必ずしも実態をともなったものではなく、植民地政府の恣意的な措置であった場合も多い(宮本・松田、1997)。その一方で、この“創られた伝統”がいつしか政治/社会的実態をおび、後年の“部族主義(トライバリズム)”を助長させ、“民族/部族紛争”に発展した例も少なくないのです。

 とくに植民地政府がしばしば採用した“分割統治”は、“集団”に“実体性”をもたらし、しばしば政治集団に再編成をおこない、結果として紛争や戦争の原因となりました(例えば、ナイジェリアでのビアフラ戦争等)。

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 さて、“民族集団”自体は数十年、数百年の単位で発生、分散、消滅、統合、再編成されることもめずらしくありません。

 たとえば、私が3年間ほどつきあっていたトングウェは、タンザニアで認められている120近い“民族”のうちの一つです。先ほども触れたマハレ山塊国立公園の周辺、面積にしておよそ2万平方キロばかりのトングウェ・ランドに2万人ほどが住んでおり、コンゴ・コルドファン語族のニャムウェジ語系のトングウェ語を話しています。とはいえ、こうした弱小語は共通語(タンザニアの場合はスワヒリ語)の普及(学校教育およびラジオ放送)で、消滅の危機にあります。

 それでは、トングゥエの人々は何時からトングゥエなのでしょう? この地で40年近くチンパンジーの研究を続けた西田利貞は調査の初期に、書き言葉を持たず、伝承世界に生きている彼らに聞き込みをおこなっています(西田、1973)。その結果、彼らの父系をたどるとおよそ7,8世代、つまり150~200年ほど前まで遡れますが、それは対岸のコンゴ出身の祖先に行きあたるのです。しかも、複数の民族に分かれるということです。

 それ以上はすべて推測でしかありませんが、複数の民族の出身者が何らかの理由で湖の東岸に移動し、紛争と融合をくり返しながらやがて一つの民族を創出するのは、アフリカではそれほど珍しくことでもないようです。このように民族は語られぬ歴史の中で、次々に生まれてはまた変わっていく存在なのですが(宮本・松田、1997)、それが植民地政府の意向で“部族”という名称で固定化・分類されると、そのこと自体がやがて“部族対立”や“民族紛争”に発展していきかねない、それがアフリカの近代化の一断面とも言えるのです。

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 近代国家としてもっともふさわしい存在は、大革命後に成立した“国民国家(ネーション・ステーツ)”としてのフランスと、政治的思想をバックにした契約国家とも言うべきアメリカ合衆国があげられます。もっとも、アメリカは少し特殊に過ぎるので、前者のフランスをとりあげてみましょう。

 ヨーロッパ史を少しひもとけば、フランスは歴史的にほんの少し前まで文化的にも政治的にもとても単一国家とは言えないものでした。たとえば、現在フランスと呼ばれている地域とその周辺は、かつてフランス王国の他、ブルゴーニュ公国、ブルターニュ公国、ナバール王国など多くの政治権力に分かれていました。

 これらの諸政治権力があるものは統合され(例えば、ブルターニュ公国は最後の女王アンヌとフランス王シャルル8世・ルイ12世の結婚により統合)、また、あるものは(ブルゴーニュ公国のようにブルゴーニュ地方はフランスに吸収されますが、フランドル地方はオランダ・ベルギー等として独立します。

 こうした“小国家”や“地方文化”を最終的に一つの“坩堝”に溶かし込んで“フランス民族”を形成したのが、“フランス革命”の最大の成果であり、ナポレオン戦争で倒れた100万人を筆頭に、膨大な人命の犠牲によって、フランスの輪郭が形作られます。

 それでは、アフリカで成立している国家とはなんでしょうか? 1885年のベルリン会議等によって人工的に分割された植民地は、そのままの形で独立の日を迎えます。そのため、ほとんどが複数民族によるモザイク国家となり、ナショナル・アイデンティティは稀薄か、存在しない(砂野、1997;池野・戸田、1997)。ネーション・ビルディングとは、そうしたモザイク社会の中で、近代的国家を建設することにほかなりません。とはいえ、1967年からのビアフラ戦争、ソマリア(氏族社会への回帰)、コンゴ(統治機構の地域的分解)、エリトリア(宗教等の理由から国家分裂)、ブルンディ・ルワンダ(“民族”間の対立)等、国民的統合(ナショナル・インテグレーション)の進行どころか、国民解体(ナショナル・ディスインテグレーション)的な現象が多く見られています。

 そんななかで、タンザニアという国家はネーション・ビルディングにかなり成功した国ともいえるでしょう。これが3年間、トングゥエたちとつきあっても私の実感です。先にも触れたように100を超える民族から構成されるとされ、ザンジバル島のオマーン系スルタン政権を除けば、19世紀のドイツによる植民地化前に統一された政治勢力はなかったタンザニアで、1961年の独立後、1963年のザンジバルとの統合を経て、スワヒリ文化という複数の文化がまじりあった文化が普及していたことも手伝い、国家的アイデンティティの醸成に成功している1例ともいえます。それは、かつて欧米の手で“分けられていた”人たちが、自らの手で一つのアイデンティティによってまとまろうとする運動でもあるのです。

19世紀での国家の誕生と消滅 Part2:テキサスおよびハワイ前篇

2020 10/21 総合政策学部の皆さんへ 19世紀での国家の誕生と消滅Part 1では東南アジアでイギリス帝国主義と現地政権との緩衝地帯に、仇花のように咲いたサラワク王国とその白人王をとりあげましたが、次はテキサス共和国、そしてハワイ王国・ハワイ共和国です。

 前者は1836~1845年、後者は1795~1893年(王国)・1893~1898年(共和国)、サラワク王国の104年余と比べてもさらに短命です。そして、いずれのケースも最終的にアメリカ合衆国に併合される道をたどります。この二つの事象をはさんで起きたことの一つは、言うまでもなく幕末・明治を経ての日本の開国なのですが、民族や国家の独立をいともたやすくもてあそぶ時代でもあった、ということだけは覚えておいた方がよいでしょう(そして、こうした“列強”に最後に追いすがろうとした日本が、その時刷り込まれた19世紀的精神のままに20世紀に入っていったことも)。

 ちなみに、安政三年(1856年)初代アメリカ駐日総領事として赴任したタウンゼント・ハリスは、老中堀田正睦を前に「二時間に及ぶ大演説をおこなった」ということですが、勘定奉行たちはその内容を二日間で精査して、「ハリスが、「合衆国の政府においては、地方に所領を得そうろう義は、禁じ」とアメリカは非侵略国であると唱えた箇条について、1848年と54年の「オランダ別段風説書」で検討し、メキシコ戦争でアメリカが「カルホルニー(カリフォルニア)を掠取る」したこと、その後、賠償金のかわりに「メシルラタル(ニューメキシコ)と申す地を取」った事実から、アメリカ非侵略国論を否定している」とのこと(井上勝生『日本の歴史18 開国と幕末変革』)。私が子供の頃は、幕府の官僚たちはひたすら無能で、外国からの圧力にそのまま押されていったというイメージで語られていたわけですが、彼らはそれなりに必死の対応を展開していたようです。

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 さて、テキサス共和国ですが、ここはもともとメキシコ合衆国コアウイラ・イ・テハス州に属する土地でした。メキシコ独立前はスペイン領ですから、本来はアメリカの土地ではない(それどころか、本来は先住民=ネィティブ・アメリカンのとちのはずなのですが)。

 この地をめぐる争いは、結局、上記の幕府勘定奉行たちの考察に出てくるように、メキシコ戦争を引き起こし、スペインからの独立を果たしたばかりのメキシコ共和国から広大な土地を奪うきっかけになるのです。そのざっとした歴史的経緯は以下の通りです。

(1)もともとはアパッチ、アタカパ等の先住民が居住

(2)1685年、フランス貴族のラ・サールが植民地建設を意図するも失敗(しかし、以後も植民地の権利を主張)

(3)1690年、スペイン人によるテキサス入植開始。1821年までスペイン領テキサスとして統治。当時はメキシコ、カリフォルニア等を含め、ヌエバ・エスパーニャ副王領とし、1819年にアダムズ=オニス条約でアメリカ合衆国と国境確定。

(4)1821年のメキシコ独立革命によるメキシコの独立でメキシコ領テキサスとなる。

(5)1823年、過疎地テキサス発展を名目に、スティーブン・オースティンがメキシコ政府と交渉、米国から300名の家族を合法的に移住(これがテクシャン/テキサンと呼ばれる)。なお、その前後はメキシコ共和国のコアウイラ・イ・テハス州とされていた。

(6)不法入国者も含めてアメリカ人人口は急増、1830年には奴隷を含む25000人以上のアメリカ人が入植、メキシコ人は4000人程度。同年、アメリカ人の移民禁止令を出すが、ほとんど無意味であった。一方、奴隷制度について廃止したメキシコ共和国側とテキサンが対立。

(7)1835年6月にテキサンが武力蜂起、10月にメキシコからの分離宣言。アラモ砦の戦いではメキシコ側が勝利するが、サンジャシントの戦いで敗北、最高権力者のサンタアナが捕虜となり、1836年5月14日にベラスコ条約によりテキサス共和国独立。

(8)1845年、テキサス共和国は自発的にアメリカ合衆国へ加盟、28番目の州としてテキサス州となる。この間、国外とはメキシコとの関係、合衆国内では奴隷制の是非による南北対立(1861年に南北戦争が勃発)等で、複雑な経緯をたどりますが、7月にテキサス共和国議会が米国との合併を承認します。

(9)その結果、今度はアメリカ合衆国とメキシコ共和国の戦争(米墨戦争)が勃発。1848年2月2日調印されたグアダルーペ・イダルゴ条約では、アメリカ合衆国はカリフォルニア、ネバダ、ユタと、アリゾナ、ニューメキシコ、ワイオミング、コロラドを確保する代わりに(メキシコは国土の 1/3 を失う)、1825万ドルをメキシコ側に支払い、ここに(皆さんご存じのトランプ君が壁を建設しようとしている)国境がほぼ確定します。

 この一連の流れを観ていると、まったくなんということか、と慨嘆するほかありません。オースティンが“合法的”にメキシコ領テキサスに入植してからわずか25年後に、アメリカは広大な土地を手中におさめ、かつ、そこから金(いわゆるゴールドラッシュが1849年)と石油(テキサスのスピンドル油田が1901年)を見つけることになるのです。

 テキサス共和国はこうしてたった10年ほどの歴史を終えますが、結果的にせよ、アメリカ合衆国の野望の先兵・手段ともいうべき存在として機能したのかもしれません。これでは堀田正睦以下の幕閣、勘定奉行も用心するのは当たり前のことです。しかも、アメリカはさらにその“魔手”を広げます。それが“ハワイ併合”です。というところで十分長くなってしまいましたので、あとは後篇に託したいと思います。

分けることと名を付けることPart3:ボーダー/カテゴリーの分け方:3つの例

2020 9/7 総合政策学部の皆さんへ 本来はアナログ的かもしれない変化/変異を、カテゴリーというデジタル的な枠で読み替え、そのカテゴリーに命名して、ラベル付けすることで社会的な枠に組み入れてしまう。近代社会は、こうした作業を組織的にそして大規模におこなってきました。それでは、その実態をいくつか見分してみましょう。

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 一つは、“人種”です。“人種”や“民族”という言葉をよく目にするものの、結論から言ってしまえば、純粋な“人種”も“民族”も存在しません。どちらも“統計的”な概念に過ぎないのです。それでは、これまで述べてきた“分類学的手法”が、“人種”にも適用可能なのか、見てみましょう。

 例えば、“ジプシー”の研究者であるA・フレーザー(2002)によれば、この“民族”は長年の間に混血を繰り返して、単一の遺伝的集団とは認めがたいとします。あたりまえのことですが、人間の集団は静的な存在ではありません。人々が移動する、そして様々な人と通婚するという事実によって、ヨーロッパ人があらわれる以前のオーストラリア先住民の人たちのように、地理的条件によって数万年間他の人々と隔離されでもしない限り、“純粋の人種”はもはやほとんど存在しません。

 ちなみに、ジプシーという呼称はいわゆる“他称”で、語源は「エジプトからやって来た人」という意味の「エジプシャン」に由来するとのこと(フランス語ではジタン)。一方で、自称は多岐にわたり、最近はわりに知られている「ロマ」のほか、「シンティ(ジンティ)」や「トラヴェラーズ」など。ちなみに、アイルランドに住む漂白民で広義の“ジプシー”に含まれる人たちは“Irish Travellers”と呼ばれています。

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 またこんなことも言えるかもしれません。例えば、日本とボルトガルという大陸の東西の端にいる2集団をじかに比べてみれば、外貌も異なり、両者をデジタル的に分ける遺伝的指標も存在することでしょう。

 しかし、視点をさらに広げれば、両国の間に例えば日本からは朝鮮半島、中国東北部、モンゴルと地域を順に並べていくと、遺伝的な差異がアナログ的に移行していくことも容易に想像がつきます。この緩やかな変異のどこにボーダーを引けば、よく使われる“モンゴロイド(黄色人種)”と“コーカソイド(白色人種)”が区分できるのでしょうか?

 もちろん、こうした味もそっけもない言い方は、客観性を旨とする自然科学の視点に過ぎません。たぶん一番肝心なのは、ほんのわずかな差異であっても見つけて、誇張し、自他の差を広げよう(=ボーダーをひこう)とする我々の性癖=主観性なのかもしれません。つまり、自他をどこで区別しよう、と自分の心の中できめているのか、です。

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 もう一つは“”です。

 上記のように、近年まで、人種や民族という言葉がほとんど疑いも持たずに使われてきたように、ヒトの“性”は“男性”と“女性”にデジタル的に二分されるのがふつうでした。しかしながら、統計的には少数派であろうとも、“性”に様々な形態があること、あるいは人によって“性”が持つ意味がそれぞれ違うかもしれないことが、最近、“性同一性障害”や“ゲイ・カルチャー”等によって明らかにされてきます。

 なお、性の多様性には幾重もの階層性がひそみます。例えば、遺伝的な多様性。哺乳類では性染色体の存在によって、オス・男性vs.メス・女性とデジタル的に分かれれるはずなのに、染色体の変異が存在します。例えば、XXY、XXXY、XXXXY型(クラインフェルター症候群、クラインフェルター男性)など、X染色体が過剰なケース。あるいはXYY、XYYY、XYYYY型(超雄;スーパー男性)のように、Y染色体が過剰なタイプ。XX型男性:性染色体はXX型ながら、変異したY染色体の一部が他の染色体に結合、SRY遺伝子が働いている。発生率は数十万~数百万人に1人と見積もられている。外性器はほぼ男性であるが、尿道下裂が見られることもある。生殖能力はない。思春期には女性としての二次性徴をすることもある。性ホルモン投与により男性化を促さなければ、次第に女性化していく。XO型(ターナー症候群、ターナー女性):X染色体を1つだけ持ち、発現形質は女性など。これらの症状を“疾患”と考えれば、“性分化疾患”という名称が使われます。

 一方で、器質的な原因がなくとも自らの生物学的性に同一視できない“性同一性障害”もあります。すなわち「性同一性(心の性)と身体的性別(身体の性、解剖学的性別)が一致しない状態」です。そしてさらに同性愛の人たちもおられれば、異性装の人もいる。

 このように、一般的な生物学の教科書ではきわめてデジタル的に、遺伝的性質というボーダーで決定されるかのように見える“性”でさえ、やはり多様な性のあり方が存在しています。その多くが、しかし、きわめて近年まで抑圧されてきたわけです。

 近代社会における問題は、こうした現象をありのまま受け入れるか? それとも己の価値観にそってそこにボーダーを引いて、ある種の存在を社会から排除しようとするか? ということにほかなりません。そして、性以外の問題についても、ヒトはなぜ自らと違う者、あいまいな者、見知らぬ者に対してボーダーを引き、排除しようとするのか? その点に関する基本的な疑問が残ってしまうのです。

一方で、ヒト以外の生物では、性はあまりにも多様です。花を例にとると、①一つの花におしべとめしべを持つ両性花を咲かせる種もいれば、②同じ個体に雄花と雌花を咲かせる種もあり、③雌花だけが咲く雌株と雄花だけが咲く雄株が存在する種や、④一生の間に無性、雄性、雌性の間を性転換する種さえ認められます。動物でも、①雌雄同体の種(カタツムリ、ミミズ等)もいれば、②遺伝的に雌雄が決定されている種や③非遺伝的要因(孵卵時の気温)で性が決定されている種(ミシッシピーワニ等)、さらには④性転換する種等が存在します。さらに“性”抜きに増殖する生物も珍しいものではありません。クローン家畜の肉を食べることに怖気をふるう人でも、遺伝的に結実能力を失って挿し芽で増えるバナナを、それがクローンであるからという理由で手をつけない者はいないでしょう。

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 次にとりあげるのは、健康病気の境です。

 世界保健機構(WHO)憲章前文では「たんに病気や虚弱ではないということだけではなく、身体的・精神的・社会的に完全に具合のいい状態」とされています。とすれば、例えば、“老い”は病でしょうか? こうした簡単な問いでも、よく考えるとやはりグレーゾーンが存在していることに気づきます。

 さらに、ある種の病気は社会的な烙印をおされます。古くはハンセン氏病が、最近ではエイズもまたそうです。生物学的にはたんにある症状をさすだけなのに、そこに社会的な意味が付与され、ラベル付けされます。そしてそれが人々の幸、不幸を決めていくことも十分にかんがえらえrます。

 さて、自然科学の立場からみれば、分類とは“真実”を理解するために立てられた仮説に過ぎません。そこでは当然、“作業仮説”で掬いあげられない“ごみ箱”行きのものもあるし、いったん定まったかのように見えた分類もあっけなく否定されたりします。つまり、新しい事実がわかればどんどん更新されていくべきものに過ぎません。一方で、我々の社会に現実に進行したものはどうでしょう、むしろ、逆だったかもしれません。

 人種、民族、国家、宗教、それぞれのレベルで、ボーダーは仮説ではなく“現実”と見なされ、その“現実”で烙印をおされた(ラベリングされた)者たちが次々に“分類”されていきます。そうした“ボーダー”が果てしもなく“負のフィードバック” をもたらしているのです。

19世紀での国家の誕生と消滅Part1:サラワク王国篇

2020 7/28 総合政策学部の皆さんへ 「国家とは何か?」を考えるシリーズとして、今回とりあげるのは19世紀に“よどみに浮かぶうたかた”のようにあらわれては“かつ消えかつ結”んでいった様々な“国家”のことをとりあげたいと思います。そのまま首尾よく国家にまで残ったものもあれば、はかなくも消滅したものもあり、あるいは最初から何らかの思惑で仮の姿をとどめただけのものもある。もちろん、うっかりすれば、黒船来航以来の政治的混乱をうまく乗り切れなければ、日本でさえも生き残れなかったかもしれません。

 一方で、19世紀は帝国主義の時代でもありました。この“帝国”とは何でしょう? 日本語の字義通りでは「皇帝が支配している国家」ということになりますが、もちろん、そんな単純なものではなく、様々な含意が込められています。Wikipediaでは「複数の地域や民族に対して君臨し、大規模で歴史にも残る国家のこと。ラテン語のインペリウムに由来し、政体や国号は問わない」と定義されています。これらの帝国を支える“帝国主義”が跋扈するなか、これらのうたかたのような小国家はどのようにふるまったのか? これがテーマになるかもしれません。

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 たとえば、ルネサンス期、現在イタリアと呼ばれている地域はいくつかの政治的権力によって分割されていましたが、その中には権力者の個人的な才覚による覇権あるいは軍閥的な政治主体が含まれます。とくにコンドッティエーレ(傭兵隊長)と総称された一群の雇われ軍人は、自らが率いるPrivate Violence Company (現代のPMCこと民間軍事企業)をうまく使って、政治的権威を掴むことができるのか?

 歴史作家塩野七生の傑作『ルネサンスの女たち』では、このあたりを「14世紀の後半、イタリアでは傭兵隊長、野武士の頭、地方の豪族が、その出生など関係もなく力を発揮し、それによって国家を形成しつつあった。はじめはアルプスの北から来た外国人が、そしてすぐ続いてイタリア人が、彼らにとってかわった。この時代はどんなものにも、富と権力の無限の可能性が、その眼前に開かれていたのである」と述べています。

 しかし、そうした状況もやがって変わります。「15世紀後半のイタリアは、ようやく列強の間で均衡が成り立ち始め、もうお新しい傭兵隊長国家の発生を、そう簡単には許さない状態になっていった。その中で、ムッツォの息子フランチェスコ・スフォルツァ一人が、幸運と彼自身の才能を慎重に使い、ミラノ公国を手に」入れます。

 “幸運”と“才能”、ごぞんじマキャヴェッリも重視していますが、彼の主著の一つ『君主論』では、第7章「他人の武力を借りて、または僥倖によって得た新主権について」で、「実力によって、あるいは幸運によって君主になった者」として、このフランチェスコ・スフォルアとチェーザレ・ボルジアの二人をあげています。この点、『君主論』はまさに個人がいかにして国家と言う政治権力を打ち立て、かつそれを維持するかというマニュアル本なのです。

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 こうして古くは11世紀にはノルマン人ロベルト・イル・グイスカルドルッジェーロ1世シチリア王国等が打ち立てられますが、やがてルネサンス期を過ぎ、大航海時代ともなると“征服者”たちは“帝国”の手先として活躍するものの、自らの王国を打ち立てようとする者はあまり目立たなくなるようになったかのようです。

 そんななか、何名かの者が“自らの王国”を確立しようとします。その一人はムハンマッド・アリアルバニア系とも、トルコ系とも、イラン系とも、クルド系とも言われる彼は(要するに、出身民族でさえ定かならない)、オスマン帝国からアルバニア人非正規部隊の指揮官としてエジプトに派遣され、やがて彼のディスティニーに目覚めます。それはPart3でゆっくり触れましょう。

 アリーが自らの権威獲得をめざしてエジプトの宗教指導者(ウラマー)からエジプト総督への推挙を受けたのが19世紀にはいったばかりの1805年ですが、その34年後、イギリス人の冒険家ジェームズ・ブルックが現マレーシアのサラワクに上陸します。1803年生まれですから、30代になったばかりの頃です。

 その頃、ブルネイ(現在のブルネイ・ダルサラーム国)のスルタンは相次ぐ反乱に手をやき、ブルックに鎮圧を依頼、ブルックは英国海峡植民地政庁の後ろ盾を得てこれを鎮圧、「褒賞としてサラワクが割譲され、ラージャ(藩王)に任じられた。ブルックは“白人王 (White Raja)”の称号を与えられ、ここにサラワク王国が建国」されるにいたります(Wikipedia)。

 “白人王”! ここでイギリス文学に詳しい方、あるは映画に詳しい方、さらには俳優ショーン・コネリーのファンならば、イギリス帝国主義時代を代表する小説家・伝道者のキップリング原作『王になろうとした男』ならびにその映画版を思い出すかもしれません。ちなみに映画化は1975年、生涯をかけて「男の野望とその挫折」をテーマとしてきた監督のジョン・ヒューストンが長年あたためてきた企画で、最初はハンフリー・ボガード等の起用を考えていたとのことです。

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 こうした「イギリスでは帝国主義を体現する代表的な人物」とされるブルックはなんと王様になってしまうのですが、しかもこの地位は世襲のため(ルネサンス期、イタリアで成立した様々な王朝はいずれも“世襲”の地位確保に心を砕きます)、2代目に甥のチャールズ・ブルックを指名、1917年には3代 ヴァイナー・ブルックが地位を引き継ぎます。この間、1941年に「建国100周年を記念して憲法が制定され、立憲君主国」になりました(Wikipedia)。

 なお、「歴代の白人王は「文化が進んだ少数のヨーロッパ人のために、先住民の利益を犠牲にしてはならない」として、外国資本による搾取から先住民を保護していた。そのため、サラワク王国では、国是として外国資本の投資や開発を原則禁止していた」とのことです(Wikipedia)。

 こうした経緯を調べると、サラワク王国はルネサンス型的な色彩も漂いますが、本質的にはイギリス帝国主義の政策の一環として、シンガポール・マレー半島を中心とした植民地支配とブルネイのスルターンの間の緩衝地帯としての役割を期待され、かつ果たしたと言えるかもしれません。しかし、20世紀にはいると、その運命は暗転します。

 そのブルネイで石油が発見されるのが1929年、本格的な採掘が1932年、しかし、これは第2次世界大戦まじかの日本の関心をひきつけます。その結果、サラワク王国は1941年~45年にかけて日本軍の軍政下におかれてしまいます。ちなみに、1944年に起きたレイテ沖海戦では一部の艦隊がブルネイから出撃しています。

 大戦中はシドニーですごした第3第王ヴァイナー・ブルックは戦後の1946年7月王位辞退をよぎなくされ、イギリス政府はサラワク州を王冠植民地として接収、1963年、マラヤ、サバ、シンガポールとともにマレーシア連邦(シンガポールは数年後に離脱)としてイギリスから独立することになり、この19世紀に誕生した“白人王国”は消滅します。

分けることと名を付けることPart1:アンシクロペディストたちの夢

2020 7/19  総合政策学部の皆さんへ 唐突に“アンシクロベディスト”などと言いだしても、皆さんに通じるかどうか? これは「百科全書派」と訳され、18世紀、フランスの啓蒙思想家ディドロダランベール等のもとに編集した百科全書(1751~72年刊行)に携わった一連の思想家たちを指すフランス語です。

 ちなみに私は高校の世界史等で教わったおり、「なぜ百科事典の編集者たちが教科書にのるほど“偉い”のか?」と疑問がわいたのを覚えていますが、これはもちろん当時の私の知識不足・知的能力の足りなさゆえです。以下にのべるように、実際には近代思想上の一大転換点だったのですが、それでは何がこの“転換”のキモだったのでしょう?

 その基本は「知識を握った者が権力/権威を握る」という点にありました。さらに筆を進めれば、その知識の基盤とは 「事物を認識することであり、事物を識別、分類して、そこに名前を付ける」ことです。こうして“知識人”は事実を命名することで物事を整理・理解することで知的権威=権力を握るわけです。今日、多くの国家が大学をはじめとする教育・研究機関を擁し、そこに蝟集する“研究者”、“知識人”を集めることを自らの“権威付け”の一環としていることでも明らかでしょう。

 ちなみにフランス王フランソワ一世によってコレージュ・ド・フランス(設立当時はコレージュ・ロワイヤル;Collège Royal、王立教授団)が設立されるのが1530年、さらに1635年にアカデミー・フランセーズが始まります。一方、イギリスでは1660年に王立学会が開設されます。このあたりから、“知識人”は知識によって知的権力を目指し始めるのです。

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 レヴィ=ストロース(1976)によれば、身の回りの事物を選り分け、命名しようとする欲望はどんな“未開人”にも共有されています。アフリカの熱帯雨林に生きる狩猟採集民ムブティ・ピグミーの老人でも、アルゼンチンの小説家ボルヘスが想像する中国の百科事典でも変わりません。

 しかし、なんと言っても特筆すべき試みは、すべてを分類・系統付けようとするアンシクロペディストたちの夢でした。17世紀、近世フランスにおいて既存の権威(王、貴族、そして教会)に対して、無視し得ぬ力となっていた知識人たちは「知識は力であることを悟り、知識の世界を測量してその征服に乗り出した」というのがダーントン著『猫の大虐殺』での主張です。

 ダーントンによれば、アンシクロベディストの最終的な戦略目標は「知識にはっきりとした形をあたえて、それを聖職者の顕現化から奪って、啓蒙主義にかかわる知識人の手に」委ねることでした。今日、近代科学が世界にかかわるすべての認識を支配していますが、そのはじめの一歩は「既知と未知の間に」「世界地図を書いて世界の征服を企て」たディドロやダランベールたちの試みにほかならないのです。

 さらに付け加えれば、“命名”には“標準化”が好ましい。こうして化学の世界では元素記号等が、生物学ではC・リンネが始めた“学名”等が普及します。現在のビジネスでも、結局、デファクトスタンダードを握ることで他者を征していくのです。

 もちろん、こうした知識人からの支配を嫌う者、あるいは自分の邪悪な欲望のためにそれを利用することしか考えない者もいます(それゆえ、20世紀以降、世界は科学と支配者の相克の時代にもなりました)。その筆頭はインテリを“粛清”し、ルイセンコ等の御用学者を重用したスターリン、あるいは疑似科学的にアーリア民族の優秀性を唱えたヒトラー、そしてコロナウィルス蔓延の状況にほとんど対応できない政治家たちがあげられるでしょう。彼らは生態学者エド・リケッツが気づいたように“みんな真実を憎んでいる”のです。

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 その一方で、アンシクロペディストにとって思いもよらぬ悪夢でしょうが、世界を系統づけようとする試みは、一方で、あからさまでかつ無自覚な差別を生み出してきた側面がないわけではありません。

 まずあげられるのは、“標準化されていないもの(物と者)”への軽蔑である。命名・分類された近代科学が賞揚される一方で、いかにも不確かであいまいな民族科学は蔑まれる。人類学者たちが“野生の思考(レヴィ=ストロース、1976)”を称揚したとしても、たいていは近代科学による“再発見/再評価”を必要です。

 さらに、こちらの方が重大でしょうが、自分たちが創り出した体系から“はみ出してしまう”グレーゾーンへの嫌悪と無視が首をもたげます。こうした構図のもとに、東アフリカのインド系住民、東南アジアの中国系住民、ヨーロッパの“ユダヤ人”や“ジプシー”等の周縁的な人々はしばしば追放、虐殺されてきました。

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 さて、ディドロたちが充分意識していたように、近代科学での分類は単純な“分別”ではありません。「全体を共通性でおおきく分け、分けたものをさらにまた共通性に従って細分し、これ以上分けることのできない個体の一つ手前まで順次分けていって段階付け、体系化することをいう」ことをいいます。

 もちろん、これはたやすいことではありません。ディドロ自身もすでに百科全書の『趣意書』で、「むつかしいのはその形式と構成である。多量の素材を(略)まとまった一つの全体に仕立て上げなければならない」と記しています(ダーントン、1986)。このような努力のはてに、彼らは人間知識を一つの「知識の系統樹」にまとめ上げたのです。

 この“系統”に系統に時間軸を意識する時、そこにいやおうなく“進化”の概念が顔をのぞかせます。進化は、生物に限った現象ではありません。太陽系でも、社会でも、さらには特定の商品でも、一方向への時間の流れの中で不可逆的な変化が進むのはどこでも起こりうることです。

 その一方で、ここでもまた近代に固有の問題が首をもたげます。それは進化のイメージが“偏見”という新たな要素を付け加えがちなことです。たとえば、“遅れている”とラベル付けされた者たちは、そのラベル自体が評価となります。こうした考え方の典型が“社会ダーウィニズム”にほかなりませんが、そこでは確たる保証もなしに“進歩”、“進化”、“発展”等に好意的な価値観をふりまかれます。

 ディドロ自身は、1772年に著した『ブーガンヴィル航海記補遺』でこうした構造に対して、“高貴な野蛮人”というアンチ・テーゼを唱えているが知られています。それ以来、よーろぱ文明では“未開”について“高貴さ”と“野蛮”の二つの印象のなかを揺れ動いていきました。この点、もっとも皮肉が効いた論評はおそらく、レヴィ=ストロース(1976)の“熱い社会”と“冷たい社会”でしょう。後者の社会ではそもそも“熱い社会”の成立を避けるため、人々の間に境=ボーダーを築く企てを放棄してきたというのです。

 その一方で、ヨーロッパという“熱い社会”は大航海時代以降、パワーと“デファクトスタンダード”で“冷たい社会”を飲み込んできました。その過程こそが、ウォーラーステインの言う“世界システム”かもしれません。

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 現在、命名と分類はディドロたちの思惑を乗り越え、我々の認識の世界を完全に支配するにいたりました。ダーントンが指摘するように、つまるところ、命名とラベル付けは“力の行使”にほかなりません。つまり、命名は権力の行使なのです。

 ジャーナリストの本多勝一(1967)はカナダ・エスキモーが住む地で、英語で書かれた地図を開いた時にそれに気づきます。「地図を頼りに歩くうち、私はだんだん腹がたってきた。・・・すぐ南に“ケイプ・ジャーメン”という岬がある。・・・ところが、かれらにはケイプ・ジャーメンがわからない。よくよくきいてみると、ここは“アナンギアクジュ”だという。・・・・エスキモーはエスキモーで、先祖伝来の地名を使っているのだ。従って、かれらのいう場所を地図でさがしても、絶対にわからない。・・・たとえば日本を占領した外国が、京都をニューロンドンに」したようなものです。もちろん、これは他人事ではありません。この文章はさらに「シンガポールの昭南島、チョモルンマのエベレストもこれに類する。現地人を人間と見ていないのである」と続く。

 人類学でとくに採りあげられる問題は“自称”と“他称”です。上記本多の文章では“エスキモー”という名称が使われていますが、これは「生肉を食う連中」という意味のネイティブ・アメリカン(これも他称の“インディアン”を避ける中立的な呼称)からの蔑称まがいの他称です。“エスキモー”自身の自称は“イヌック”で、現在では“イヌイット”と言い換えるのがふつうとされています。もっとも、本田はこれは承知の上で、彼ら自身が平気で「エスキモー」と使うので、この名称を用いたと断っています。

 同じように、南部アフリカに“Bush man”と呼ばれる人たちがいます。「藪の人」といういかにも蔑称的な名称の語源は、さらに「山賊/盗賊を意味するBossiesman」だったとの説もあるそそうです(また、ジェンダー論的にも“man”にも問題があります。とはいえ、ブッシュパーソンとすれば解決するような問題でもないでしょう)。

 したがって、1970年代頃から、蔑称を避けるべく“San”と呼ばれるようになった。ところが、この“San”も自称ではないことが明らかになってきました。この言葉は、隣接する民族“コイコイ”(この人たちもふつうは白人からの他称“ホッテントット”で知られています)からの他称であり、しかも差別的ニュアンスの可能性があるというのです。その一方で、10以上の言語集団に分かれているBush man全体に当てはまる自称は存在しません(たとえば、グイ、ガナなどの集団が存在する)。したがって、植民地主義の歴史をむしろ鮮明にするためにも、彼らの総称をあえて“Bush man”とするという立場も出てきているという意見もまた盛んになっています。

 このように、こうした問題は終わりがありませんが、いずれにしても自分自身の言動と認識が絶えず問われている、ことだけは忘れてはなりません、ということでto be continuedとします。

相続とキャリア2:行き場のない次男、三男の出世ルートとしての官僚・軍人

2020 6/7 総合政策学部の皆さんへ

 先回の「相続とキャリア1」では、「かつて職業選択の自由もなかった頃、長子相続が確立した王族・貴族社会では、家業の相続について長男一人のみが家業(つまり、王位なり爵位)につき、相続から外れた“弟たち”をどこかの修道院等に“デポジット”して、万一長男が死んだ際のバックアップを期待することがあったという話」をしました。しかし、乱世あるいは巨大な王権が出現した際、彼らを積極的に拾い上げることで権力を増強する人間も現れます。

 その一人こそ皆さんご存じの織田信長です。中学校教諭を務めながら信長の研究をすすめた谷口克広氏の著書『信長の親衛隊』(1998;組織・人事論としてお薦めかもしれません)には、永禄12年(1569)に山科言継が岐阜を訪れた際の信長の家臣を連枝衆(織田信広ら;兄弟・親族ら=頼りになるかもしれないが、裏切って「取って代わる」ことになるかもしれない存在)、家老(林秀貞[のちの天正8年(1580)、かつて信長の弟信行擁立をはかって謀反をおこなった24年も前の過去の罪を問われて追放)、武将(譜代衆:丹羽長秀、木下藤吉郎)、武将(外様集、佐藤紀伊守、水野信元[家康の伯父、天正3年内通の疑いで信長の命をうけた家康によって殺害)、そして近臣の5グループに分けています。

 この近臣はさらに文臣的官僚としての武井夕庵松井友閑のグループと、武官としての馬廻(うままわり;弓衆も含める)に分けられます。

 ところで、馬廻とは「騎馬の武士で、大将の馬の周囲に付き添って護衛や伝令及び決戦兵力として用いられた武家の職制のひとつ。平時にも大名の護衛となり、事務の取次ぎなど大名の側近として吏僚的な職務を果たすこともあった。武芸に秀でたものが集められたエリートであり、親衛隊的な存在」(Wikipedia)ですが、谷口によればこのなかから「国持ち大名への出世」を遂げたものの中には、一群の小姓衆がおり、その筆頭たる前田利家にみるように「尾張の土豪クラスの出身者が多いと思われるが、(中略)いずれも家の跡取り息子ではなく二男以下で、生家を離れて直接信長に仕官したものであった」と指摘します。

 つまり、既存の長子相続制度ではあぶれてしまう“スペア”の男たちの中から優秀者を見出し、育成し、自らの親衛隊を形成させて(=専門軍人化)、領地(農業)から分離しきれていない旧来の土豪層を圧倒していくという組織論になります。この間に信長の近習=親衛隊はいつしかPrivate Military Company(PMC)からPublic Military Company(=御公儀)への成長とも言えるでしょう。

 と、ここまで書いたところでしばらく放置しておいたら、NHKの大河ドラマ『麒麟がくる』では信長自らがが道三に説明していたようです。

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 一方、ヨーロッパではどうか? 作家佐藤賢一氏が『ダルタニヤンの生涯』で生き生きと描くフランスの軍人シャルル・ド・バツ=カステルモール(Charles de Batz-Castelmore)ことダルタニャンが好例かもしれません。

 デュマの傑作『三銃士』で世界に知られるダルタニャンですが、もともとはフランス南西部の「しがない小貴族」の家で、「1615年ごろ、ガスコーニュで誕生する。次男だったとも、四男とも言われるが、いずれにせよ長男ではなく、家督の相続権もないため1630年頃、10代半ばでパリに上京した。1633年時点の銃士隊の閲兵記録に名前があり、この頃から銃士として活動していたと見られる」(Wikipedia)。

 このあたりは、前田利家の「尾張国海東郡荒子村の荒子城主前田利春の四男。はじめ小姓として14歳のころに織田信長に仕え、青年時代は赤母衣衆として従軍し、槍の名手であったため「槍の又左」の異名を持った。その後柴田勝家の与力として、北陸方面部隊の一員として各地を転戦し、能登一国23万石を拝領し大名となる」と重なってくるではありません。

 違いとしては、利家が地方の地方の有力者であった信長に直接リクルートされたのに対して、ダルタニャンは故郷を遠く離れて、絶対王政確立期のフランスの中心地パリで直接絶対的権力者(最初はマザラン、つぎにルイ14世)直属の近衛隊に入隊したことぐらいですが、佐藤氏によればこの入隊は、すでに銃士隊に地位を占めていたガスコーニュ出身者の先輩を頼った「縁故入隊」であるとのことですから、そんなに違わないかもしれません。

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 時代は流れて19世紀、1717年にドイツ・ブレーメンからイギリスに渡ったジョン・ベアリング(1697-1748)は様々なビジネスで成功、資産家ベアリング家を形成します(1995年に倒産して233年の歴史をとげたベアリングス銀行はジョンの息子フランシス・ベアリングが創業したものです)。

 1841年、そのベアリング家の一員、銀行家・政治家ヘンリー・ベアリングの8男にイブリン・ベアリング(1841~1917)が誕生します。しかし、8男! 彼は家業に携わらず、軍人を志して王立陸軍士官学校卒業後、王立砲兵隊に属しますが、38歳で除隊、今度は植民地行政家に返信します。そして、「インドで卓越した行政手腕を発揮したが、同時にその支配欲の強さから”overbearing”(横暴の意)と渾名されます」[Wikipedia]。お気づきでしょうが、Overbearingと姓のBearingとbearingのもう一つの意味=忍耐を掛けています。

 彼が最大の手腕を発揮したのは1876~80、1883~1907年に及ぶエジプトの植民地化の過程で、この間、1876年のエジプト副王イスマイール・パシャの財政破綻に端を発した財政の掌握に始まり、英国エジプト総領事としてのエジプトを牛耳り、財政改革・税制改革・農業振興によって(イギリスにとっての)黒字化を達成しますが、「エジプト人を対等の人間として扱わなかった」(アリ・バラカート教授)、「英国にとって利益となる農業振興のみを重視し、工業化を阻害し、教育などを軽視した」(アファフ・ルトフィ・アッ・サイエッド・マルソー教授)」(Wikipeida)として、非難されます。

 それにしてもペアリング家の末裔の8男から軍人・植民地官僚として出世をきわめ、1892年にクローマー男爵、1899年にクローマー子爵、1901年にクローマー伯爵に叙爵されて貴族院議員に列する人生、前田利家・ダルタニャンの近代版とも言えるかもしれません。

偉大なる凡人:歴代アメリカ大統領への評価から

2019 8/2 総合政策学部の皆さんへ

 Webに「政治学者が評価! ランキングで見る、史上最も素晴らしいアメリカ大統領」という記事があります(https://www.businessinsider.jp/post-185522)。なんでも、(1)2017年12月~2018年1月にアメリカ政治学会のPresidents & Executive Politics部門のメンバー(約200人)を対象にオンライン調査、(2)歴代大統領を100点満点で評価(50点=平均)、平均点をランキング化、(3)回答者の約57%は民主党支持、共和党支持13%、無党派27%、その他3%ということです。

 今どきのWeb記事として「最下位が現職のトランプ大統領」というあたりが“売り”でしょう。しかし、もちろん、今回とりあげるのはそんな“あたり前”のことではありません。このランキングで高評価だった大統領はどんな人たちなのか、という点です。

 44人中、まず上位5位を紹介すると、こちらはある種納得の方々で、1位:エイブラハム・リンカーン、2位:ジョージ・ワシントン、3位:フランクリン・ルーズベルト、4位:セオドア・ルーズベルト、5位:トーマス・ジェファーソンと偉大なる“リーダー”型大統領がならびます。

 カテゴリーとしては、(1)アメリカ建国時、“国民・国家創成”をなしとげながら、その基本的プログラムを模索したワシントンとジェファーソンの二人、(2)国家の分裂の危機に強烈なリーダーシップをとったリンカーン、そして(3)20世紀初頭とその半ばに、新しい国家経営のあり方を模索した両ルーズベルトの3タイプになるかもしれません。いずれも未曽有の国難である独立戦争、南北戦争、第2次世界大戦に対応したわけで、アメリカという国家の節目、節目に“戦争”があったことにも気づかされます。

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 ところで、今回のメイントピックは6~10位、「偉大なリーダーたちにはやや劣るかもしれないが、それなりに支持を集めた方々は誰でしょう?」です。それは6位:ハリー・トルーマン、7位:ドワイト・アイゼンハワー、8位:バラク・オバマ、9位:ロナルド・レーガン、そして10位:リンドン・ジョンソンと続きます。ちなみに、一般大衆から票を集めそうなジョン・F・ケネディは16位、あるいはジャクソン・デモクラシーで民衆的支持をかちとったアンドリュー・ジャクソンは17位にとどまっています。大衆的人気と、政治学者の評価はそれぞれ異なる、ということかもしれません。

 とくに、どうどうの6位を占めたトルーマンは第3位のルーズベルトが1945年4月に休止、わずか82日の副大統領在任後、突然、大統領に昇格したという経緯で、当時、連合国陣営の一端をになっていた旧ソ連の独裁者スターリンは「前任者のフランクリン・ルーズベルトと対極的な、威厳も貫禄もない粗雑な小物が突如として大統領の地位を獲得したことに愕然とし、アメリカへの不信を募らせ」たとのことです(Wikipedia「ハリー・トルーマン」)。思えば、1944年の大統領選挙では、史上第3位のルーズベルト(大統領候補)と第6位のトルーマン(副大統領候補)ということで、あくまでも後知恵に過ぎませんが、史上最強のコンビだったとも言えるかもしれません(とは言え、選挙当時、ルーズベルトもトルーマンもそんなことはまったく夢にも思っていなかったはず)。

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 とはいえ、凡人たるトルーマンですが、いったん大統領の職務についた以上、頑張らざるをえない。Wikipediaによれば、「就任初日の気持ちを自身の日記に「私の肩にアメリカのトップとしての重荷がのし掛かってきた。第一、私は戦争の詳細について聞かされていないし、外交にもまだ自信がない。軍が私をどう見ているのか心配だ」と記していた」とのことです。

 そんな“凡人”が予想だにしていなかった立場に追い込まれて、背一杯の努力で自分の仕事をこなそう、と頑張ることをアメリカ人はそれなりに評価する。きれきれの優れ者が周囲に見当たらない場合には、たとえ才能がやや劣ったとしても、誠実にこなそうとする者を、アメリカ人はそれなりに評価する、ということなのかもしれません。どうやら、今の合衆国ではそうした“余裕”が失われているようにも思えます。

“係争地”はそもそも誰の土地であったのか?:近代化における“領土”問題

2019 4/6 総合政策学部の皆さんへ

 世の中には“係争地”がいくつもあります。これは国家とは「国境線で区切られた国の領土に成立する政治組織で、その地域に居住する人々に対して統治機構を備えるものである」とする“近代国家”観からすると、隣接する国々同士のエゴのぶつかり合いから生じる必然的な副産物とも考えられます。

領域と人民に対して、排他的な統治権を有する(生殺与奪の権利を独占する)政治団体もしくは政治的共同体」としての国家の使命からすれば、その周辺に「誰のものでもない土地」など、あってはならないわけですが、しかし、複数の国が同時に権利を主張することは避けられなくなります。ましては、その“係争地”に思いもかけぬ資源があったりした場合など。

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 それでは近代化前はどうか? 例をあげれば、まず、中国です。

 そもそも、近代国家前の中国には「「王朝」の概念はあれど「国家」の概念は無く、「天下あって国家無し」と言える状態だった」ので(Wikipedia「中国」)、明確な「領土」、あるいはそれを区切るための明確な国境線という概念さえ乏しく、「中華の天子が天下 (世界) の中心であり、その文化・思想が神聖なものであると自負」していました(Wikipedia「中華思想」)。

 そこでは皇帝を中心に同心円構造が成立します。そして、その最外円のさらに外はいわゆる「化外(けがい)の地」であり、そこに棲むのは蛮族にほかなりませんが、肝心の同心円自体は皇帝のによって伸びたり、縮んだりする相対的なものでした。その結果、台湾(下記参照)、チベット外モンゴルウィグルスタンなどはこの同心円の外なのか、内なのか、そもそもそんなにはっきりと区切りがつく土地なのか、問題となってきます。

 ちなみに、“外モンゴル(外蒙古)”という言葉は、言うまでもなく北京を世界の中心とした場合に、近いモンゴル=内モンゴル、遠いモンゴル=外モンゴルという序列付けを受け入れる、ということを意味します。同じように、“極東”と口走れば、それは英国外務省を中心として、そこから眺めれば日本周辺が“far east(極東)”である地理感覚だということを意味します。

 さて、中国では近代化が進むにつれて、“伝統的”地理観の曖昧さにつけこまれ、明治期に近代化に邁進する日本によって台湾出兵を起こされたり(この時、中国ははじめ台湾の先住民は「化外の民」であるとします)、膨張するロシア帝国にネルチンスク条約や愛琿条約等をむすばされることで、国境の明確化=それは多くの場合、皇帝の領土の最周辺部の喪失を繰り返すことになります。

 一方で、皇帝の徳さえ復活すれば、化外の民たる東夷(日本・朝鮮等)、西戎(西域諸国)、北狄(匈奴・鮮卑・契丹・韃靼・蒙古)、南蛮(ベトナム・カンボジアなど東南アジア諸国)も相対的な同心円に飲み込まれていく、はずなのかもしれません。だから、西沙諸島はおろか、南沙諸島までもが中国の領土である、と主張することもあながち無理ではない、という見方もできなくはないわけです。

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 このあたりの“国境”ひいては“国家観”の曖昧さは、例えばオスマン帝国ハプスブルグ帝国にも、さらには古代ローマ帝国などの“国際帝国”にはつきものです。そして、アレクサンドロス3世チンギス・ハーン、さらにはスレイマン大帝のような権力者にとって、境界などというものは意識の中にも“存在すべきではない”存在であり、権力者の使命として絶えず境界を乗り越え、世界の果てまでも自らの領土としようという欲望に身を浸すことになります。

 もっとも、ローマ帝国も最盛期を過ぎれば、逆に“蛮族”との境目が負担となり、国境警備のための防塁(リメス)を張り巡らし、ハドリアヌスのように長城を築いたりもします。“壁”を築き、自らを守ろうとすること自体が、すでに精神の退廃、覇気の消失をあらわしているとも言えるでしょう。このあたりで、某国大統領の顔を思い出す方もいるかもしれません。

 いまさら言うまでもないことですが「かつての屈辱をはらし、近代化によって狭められたかつての境界を乗り越え、栄光の領土をとことん広げようとする者」としての現代中国の指導者習近平氏に対して、かたや「壁を築くことで、自らの崩壊しかけた精神をなんとか取り繕う」ことをめざす(もちろん、そんなことは今や不可能なのでせうが)アメリカの現大統領のトランプ氏の二人は、国境をめぐる国家観の対決を表象するまさに21世紀の象徴ともいえるでしょう。

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 この点、ソ連崩壊後に混乱したロシアをとにもかくにもなんとか持続させることだけはできたエリツェンの遺産を引き継いだプーチン氏にとっては、(1)近代的国家観としての“ロシア民族”の“境目”を定める路線にでるべきか、(2)過去の国際帝国の栄光をひきつぐべく、かつての領土奪回作成にでるべきか、なかなか立ち位置を決めるのが難しいところかもしれません。

 例えば、(1)第2次チェチェン紛争は、かつての国際帝国の支配から分離しようとする異民族(チェチェン人)を旧来のシステムの中に引きとどめようという欲望のあらわれであり、(2)クリミア半島をめぐる争いは、本来はロシア帝国固有の領土だったクリミアをソ連体制下でフルシチョフがウクライナに割譲したものを(その後の、複数の民族が入り混じる地となっていましたが)取り戻そうという願望の発露であり、(3)ウクライナ東部をめぐる衝突も、ウクライナというかつて独立した政治勢力が安定した政治権力を持てなかった広大な土地に、ロシアとしての権利をできるだけ拡大しようという欲望の発露なのです。

 それでは、この混乱を収めるにはどうすればよいか? おそらく世界の誰も解決策を思いつくことはできず、ただただ“実効支配”だけがデファクト・スタンダートとして通用する時間が過ぎるばかりかもしれません。

「戦って欲しければ支払いを!」vs.「そこに米軍がいても誰も不思議に思わないことが大事だ」総合政策のための名言集No.20

2019 1/23 総合政策学部の皆さんへ

 2018年12月28日(金)の朝日新聞国際欄には、イラク(駐留米軍基地)を電撃訪問したトランプ大統領がその場にいた兵士の皆さんに向かって「我々は、もう『カモ』ではない。我々に戦って欲しかったら金銭的な支払いをしなければならない」と演説したとのこと。これを聞いて想い出すのは、言うまでもなく、中世ヨーロッパを跋扈していた傭兵隊長(コンドッティエーレ)でしょう。

 ご存知塩野七生のイタリアものには、トランプ氏の台詞のような話は頻繁に登場します。例えば、毀誉褒貶とびかうルネサンス期の典型的教皇4名の列伝である『神の代理人』の第3章「剣と十字架」では、イタリアを法王庁のもとに統一すべく自らの人生をすり減らした軍人教皇ユリウス2世(ちなみに、このユリウスとはローマ帝国建国の英雄ガイウス・ユリウス・カエサルに通じますから、まさに宗教家=教皇と政治家=皇帝の合体なのです)。

  •  カエサルの“ユリウス(Iulius)”は古典ラテン語でもともとはローマの氏族名、教皇の“Julius”(ユリウス)はそれに由来する中世ラテン語、これがドイツ語ではそのまま“ユリウス”(Julius)で男性名となりますが、古代ローマでは女性形として“ユリア”(Julia)となり、これがヨーロッパ諸語で“ジュリア”(英語: Julia, フランス語: Julia, イタリア語: Giulia, ポルトガル語: Júlia)となっていきます。さらに付け加えると、このジュリアが男性では英語で“ジュリアス”となるので、日本には英語から紹介されたカエサルは、ジュリアス・シーザーという英名で普及することになります。
  •  なお、ユリウス2世は以下のボローニャ征服後、自らの銅像を立てさせますが、反ユリウス派に奪回され、あげくのはてにその銅像をもとにフェラーラの君主アルフォンソ・デステ臼砲に仕立て、かつ、(当時のヨーロッパは貴重な大砲は個人名を付けたが、臼砲は女性名を付けるのが一般だったため)、その臼砲をユリウス2世の名前をもじって“ラ・ジュリーア”と名付けたそうです。赤っ恥もよいところ、という有様です。

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 さて、そのユリウスが教皇領内で叛服し続けるボローニャ征服にのりだし、首尾良く大した手間もかけずに開城にこぎ着けますが、その時、ユリウスが助っ人に呼んだフランス軍の傭兵部隊がボローニャに近づき「全市の大略奪と市民の殺戮を強行すると伝えて」きます。もちろん、(本当は戦がおこれば、略奪できると欲望むき出しで駆けつけたのに、あっけない開城で儲け話がおじゃんになった腹いせもあって)脅しで銭を稼ごうという魂胆です。出さなければ、その時こそはお得意の略奪で手間をかけても金をふんだくるもくろみです。

あわてふためた市民たちは、早速代表を、イーモラの法王のもとに送り、どうにかしてくれと頼み込んだ。ジュリオ2世は、フランス兵におとなしく引き取ってもらうために、金を払えと言った。大将のシャルル・ダンボアーズに8000デュカート、兵たちには1万デュカートで良かろう(あわせて1億円あまり)。ボローニャ市民には、この忠告を受け入れるしか道はなかった

 このように、“法王様”ご公認の“みかじめ料”ビジネス。ちなみに、イタリアの賢人モンタネッリの『ルネサンスの歴史』には、イギリス出身の傭兵隊長ジョバンニ・アクート(英名はジョン・ホークウッド)を描いて、「この軍団の傭兵たちが肥沃な北イタリアの平野を荒らさぬ日は、一日とてなかった。作物を踏みにじり、畜群を屠り、家財を略奪し」「これぞジョン・ホークウッドが夢にまで見た理想の生活である」と記しています。

 洋の東西を問わず、傭兵であれ、侍であれ、庶民から「守ってあげるから」、あるいはさらには「殺さないであげるから」と言ってお金を巻き上げるのは、ほとんど常識というもの、だって、戦地を右往左往するのに飯代もかかれば、交通費も要るし、第一、武器だってきちんとそろえるには金がかかるでしょう、というのがいわばコンドッティエーレの常識であり、それを戦地でうまく確保することが重要になります。後世になれば、さすがにただの略奪では難しくなるので、近代的ビジネスとして“軍税”の形で資金を確保する、これはヴァレンシュタインナポレオンもやってこれたのです。となれば、もちろん、トランプ君もビジネスマンとしてはそうしたいのが最初の台詞に見え見えですが、そのあたりの話の運びは、我々としてもきちんと理解してあげなければいけません。

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 しかし、ヴァレンシュタインであれ、ナポレオンであれ、結局は非業の最期を遂げることになる! (ユリウス2世だって最終的には政治的野望は破綻、イタリアをスペインの植民地状態に陥れる)それでは、あんまりだという方には、是非、アメリカ合衆国初代国防長官ジェームズ・フォレスタルの言葉がお薦めかもしれません。

 子供の頃に読んだので、記憶はもちろん出典も定かではないのですが、第2次世界大戦が終わり、その後の世界秩序をどうするべきか(つまり、それが冷戦につながったわけですけれど)、その決定的な時期にフォレスタルは地中海に米国海軍の艦隊を常駐させることを提案します。その理由として彼は、

巡洋艦一隻でも良いんだ。とりあえず、そこに米国の軍艦が常駐していることに対して、世界の人間が当たり前だと受けとってもらうことこそが大事なのだ

と説明したということです。そして、上記の台詞を口にしてからさほど日もたたない1949年5月22日、初代国防長官としての強度のストレスから鬱病にかかったフォレスタルはベセスタ海軍病院の病室から飛び降り自殺してしまうのですが、それから70年がたった現在も、イタリアのガエータを母港に地中海を警護している第6艦隊ということになります。言うまでもないことですが、最初はソ連、その後は、中近東や北アフリカ、さらにはバルカン半島が混乱した場合の対処として、「そこにアメリカ軍がいることに誰も疑問をもたない状態」というわけです(ちなみに、アメリカ合衆国の最初期の対外戦争が、1801~05年の北アフリカ沿岸のバルバリア諸国との第一次バーバリ戦争ですから、地中海に海軍の拠点を持つというのは、それ以来の悲願だったかあもしれません。

 このフォレスタルの70年先も見通したお言葉と比較すれば、トランプ氏の台詞があまりに薄っぺらで、かつ古代から絶えず繰り返されてきた捨て台詞の類であることがわかるでしょう。

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 というようなことを考えていたら、1月10日のNewsWeekでは、トム・オコーナー氏が、「兵士のなり手不足のドイツ軍、外国人徴募を検討 徴兵復活も」というタイトルで、以下の内容を報道していました。

  • 連邦軍はドイツ在住のポーランド人、ルーマニア人、イタリア人の新兵採用を検討していると伝えた。
  •  しかも問題は単に人数の不足ではない。サイバー攻撃に対処できる高度な専門知識をもつ人員が決定的に足りない。
  •  エーベルハルト・ツォルン連邦軍総監は先月、人員のギャップを埋めるために「あらゆる方法を検討し、適性をもつ訓練兵を確保する必要がある」と、ドイツのフンケ新聞グループに語った。特に医療と情報技術の専門家を必要としており、EU加盟国の出身者受け入れも「選択肢の1つ」だという」

 どうやら歴史は永遠に繰り返しているようですが、そのあたりこそがマルクスの「歴史は二度繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」にぴったりです。

翻訳について番外編Part2:森山多吉郎の後輩たちに見る長崎通事の栄光と幕末キャリアプラン

2018 10/12 総合政策学部の皆さんへ

 翻訳について番外編Part1の続編、主人公は森山に江戸で英語を学んだ同じ長崎通事出身の福地源一郎(号桜痴)に交替です。福地は安政6年(1859年)、青雲の志をいだき19歳で江戸に上京、郷里の先輩森山に師事しますが、後年、『懐往事談』に書き残した回想では、

 (森山)先生は通称多吉郎とて、長崎オランダ通詞の出身、数年前より徴されて江戸に来たり。常に江戸下田の間を往復してもっぱら条約のことにかかわり、当時は外国奉行支配調べ役並格にて外交の通詞を任じ、幕府外交のことについては最も勤労を尽くしたる人なりき。(略)江戸にて英語を解し英書を読みたる人は、この森山先生と中浜万次郎氏との両人のみなりければ、余はこの先生について学びたるなり。

 もっとも、師弟たちの苦心の英語修業も、幕府から命じられたことではなく、各人の個人的努力です。『懐往事談』には同年6月、外国人居留地がある横浜(運上所=現在の税関)への出張を命じられ、(福沢と同様)福地は、以下のように気づきます。オランダ語に固執していれば、通詞としての自分の仕事は安泰ですが、どうやらそれでは済まされない。上層部は何の指示をしなくとも、自ずから勉強せざるをえない=近代的自我の誕生とも言えるかもしれません。

 英語は実際欠くべからざる用語にて、(日本語文書とオランダ語文書でのやりとりを定めた)条約を頑守してはとても双方の用便にさしつかえる」ことに気づきます。そして「余輩が少々ばかりならい覚えたる英語も、この時には大いにその便利を感じ、これよりして英語修練は外交上大切なる事務とはあいなりたり。しかれども、幕府はあえてこれを奨励することをもなさず、また、そのために修業の道を開きたる事もなかりき。

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 とは言え、すでに森山が伐り開いた道がある=個人的な興味であれ、外国語を学べば立身出世(=しがない長崎通詞から公方様直臣へ)につながる。すでにロールモデルが存在し、一つのキャリアコースが成立済みです(実を言えば、これこそ外国語で出世していく=伊藤博文、青木周蔵金子堅太郎などの明治新政府のキャリアコースにつながります)。福地はこちらのコースを選択した結果、必然的に、当時の体制派=幕藩体制の支持者にもなります。そんなかつての(先を見誤った)軽躁な日々を反省するのは、明治になって事がすべて済んでから、という始末です。

 (自分は)もとより純乎たる佐幕主義にて、いやしくも時勢許るさん限りはあくまでも幕府独裁の制を保守せんと望み、深く京都の干渉と諸藩の横暴を憎み、かの公武合体といい諸藩会議というがごとき、合議政体と幕府独裁とは両立すべきものにあらずと主張せしものなり」として、「感情に劇せらるるごとに知らずしらず持見を動揺して、条理の分別をみだし、適性の定説をあやまること、この時始まれり。

 福地はさらには慶応3年12月、主戦論に惑わされ、江戸城よりはるばる大阪に出向きながら、その幕軍が鳥羽伏見の戦に大敗、あまつさえ首領であるはずの徳川慶喜が(ほとんど誰にも知らせずに)大阪城立ち退きを決行して、海路、江戸に舞い戻る始末です! 江戸に上陸するや慶喜は謹慎中の勝海舟を呼びつけます。彼の心はすでに恭順と決し、勝にその交渉をあたらせる腹づもりだったのでしょう。急を聞いてかけつけた勝は、

 みんなは、海軍局のところへ集まって、火を焚いていた。慶喜公は、洋服で、刀をカウかけて居られた。オレはお辞儀もなにもしない。頭から、みなにサウ言うた。「アナタ方、何と言う事だ。これだから、私が言わない事ぢゃあない、もうかうなってから、どうなさる積もりだ」とひどく言った。「上様の前だから」と、人が注意したが、きかぬ風をして、十分言った。刀をコウ、ワキにかかへて大層罵った。己を切ってでもしまふかと思ったら、誰も、青菜のやうで、少しも勇気はない。かくまで弱って居るかと、己は涙のこぼれるほど嘆息したよ。(勝海舟(江藤淳・松浦玲編)『海舟語録』講談社学術文庫版)

 勝が目の当たりにした光景は、それまでの国家の体制が一気に崩れ落ちるとともに、福地をはじめとする佐幕派の希望が潰えた瞬間なのです。

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 さて、首領(=慶喜)にまんまと置き去りされた福地らは、這々の体で江戸に舞い戻りますが、慶喜や幕閣がすでに非戦に心を決したとしても、幕府倒壊という未曾有の事態に人心さだまりません。勝もここでは「裏切り者」にほかなりません。

 あるいは相率いて脱走する者もあり、あるいは、勝安房守は降伏論の主張者なれば暗殺すべし、と叫ぶ者もありて、人心ますます昂激し、ほとんど全幅の感情のみ左右せられて、道理は自他の耳にはいらざるほどのありさまにてありき。

 なお主戦論を侍してやまず、あるいは近々米国より回航すべき我が注文の軍艦(甲鉄船の東艦)を海上沖に待ち受けて受け取るべし、と同志に語わられては、これを行わんと試み、あるいは仏国によしみを通じてその調停の干渉を乞い、その言聞かれざる時は、仏国の兵力を借りて幕府に応接せしめんことを望、口に任せて説きまわりたりしが、今日より回顧すれば、実に国家と言える観念は我らが胸中にはみじんもなく、さらに将来の利害禍福を察するにいとまなかりしは、慄然としてわれながら身の毛もよだつ程にてありき。

 その日々を反省するのは、先にも言ったように、明治の御一新も軌道にのってから。振り返って見れば、かつての「論語読みの論語知らず」ぶりに、我ながらあきれますが、しかし、これは国家、国民、民族などの概念を一度に消化するためにはやむを得ぬことではあったでしょう。

 そのころはすでにいささか洋書も読みて、万国公法がどうでござるの、外国交際がかようでござるの、国家は云々、独立はかくかく、などなど、読みかじり聞きかじりにて、ずいぶん生まぎぎなる説を吐きて人を驚かし、もってみずから喜びたりしも、いまやおのれ自ら身をその境界に置くにさいしては、まったく無学無識となりて、後患がどうであろうが将来はなんとなろうが、さらに頓着するにいとまなく、ひたすら徳川氏をしてこの幕府を失わしむるが残念なりという一点に心を奪われたり。

 横浜の居留地を外国人に永代売り渡しにして軍用金を調達すべしといえば、これもって名策なりと賛成したるがごとき、今日より回顧すれば、何にして余はかくまで愚蒙にてありしかと、自らあやしまるほどにてありき。しかれども、これはあえて余一人のみにあらず。当時幕府のために主戦説を唱えたる輩はみな同様の考えにて、とうてい日暮れて道遠し、倒行して逆施せざるを得ずといえるが当時の決心たりしこと、争うべからざるの事実なり。

 なんだか、最近のWebでやたらに投稿される、その場限りの思いつきコメントを想い出してしまいますが、福地の良さはそれを素直に吐露・反省するところ。それにしても、せっかく長崎から江戸にでて、幕府の中枢にまで伸びたコネクションもキャリアもすべて無になるのは、いかにも耐え難いところであったでしょう。

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 さて、御一新後の福地はどうしたかと言えば、慶応4年閏4月(1868年5月)、江戸で『江湖新聞』を創刊して、幕臣よりジャーナリストに転じますが、「結局、政権が徳川から薩長に変わっただけではないか」という記事が筆禍となり、発禁・逮捕されてしまします。木戸孝允の取り成しでなんとか無罪放免になると、今度は「夢の舎主人」等と号して戯作に手を染めるという文筆業と、英語・仏語の翻訳・教授で身をたてます。

 ところが、明治3年には渋沢栄一の紹介で大蔵省入り、岩倉使節団の一等書記官として米欧視察後、明治7年大蔵省を退職、政府系の『東京日日新聞』にかかわり、政権系ジャーナリストになります。このあたりはめまぐるしいまでのキャリアの変遷、新時代に自分の落ち着きどころを探すのに四苦八苦というところです(オポチョニストでもあったと言えそうです)。

 明治10年代は、東京商法会議所設立にかかわり、東京府議会議員に選出、さらに政権寄りの立憲帝政党を結成しますが、これは失敗。結局、自らの見過ぎ世過ぎは手慣れた文筆行ということで、9代目市川團十郎などと演劇活動にかかわり、さらに翻訳、戯曲・小説を執筆します。明治の彼の活動では、この演劇改良運動・劇場運営(歌舞伎座の創設)、歌舞伎座の座付き作者、評論活動などにいそしみ、明治39年(1906)没します。時代の波にのりながら、波を乗りこなせずに、それでもしぶとく時代を渡りきった人生と言うべきかも知れません。

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 このどこまでも派手で、かつ“パッパラパー”な福地の人生と比べれば、はるかに堅実なのは、17歳年上で、森山とともにマクドナルドから英語を習った本木昌造(1824~75)でしょう。本木は、森山・福地が上京後の1869年、長崎製鉄所付属活版伝習所を設立します。学問の普及は、まずそのメデイアの確立から、という地に足のついた仕事ぶりです。Wikipediaによれば、

 同年グイド・フルベッキの斡旋で美華書館のウィリアム・ギャンブルから活版印刷のために活字鋳造及び組版の講習を受けた。このとき、美華書館から5種程度の活字も持ち込まれた。川田久長『活版印刷史―日本活版印刷史の研究』(1949年)ではこの伝習は1869年6月のこととするが、小宮山博史「明朝体、日本への伝播と改刻」(『本と活字の歴史事典』、2000年)では11月より翌3月までとする。

 1870年、同所を辞し、吉村家宅地(ただし吉村家屋敷を長州藩の者がたびたび使用したため萩屋敷ともいったという)、若しくは長州藩屋敷に武士への授産施設や普通教育の施設として新街新塾を設立する(ただし、陽其二が設立したものを引き受けたとの異説がある)。この塾の経営で負債が溜まり、解消の一助に新街活版製造所を設立した。ギャンブルの活字にはひらがなはなく新たに開発する必要があった。その版下は池田香稚に依頼されたものであった(この字を「和様」と呼ぶことがある)。同年、小幡正蔵、酒井三蔵、谷口黙次を送って大阪に支所を作り(後の大阪活版所)、1872年、小幡と平野を東京に派遣し長崎新塾出張活版製造所を設立させた(後の築地活版)。本木は新塾の経営が苦しくなると、製鉄所での業績回復の実績のあった平野に活版製造所の経営を任せ、平野はみるみるうちに業績を回復した。また、陽を神奈川に送り、横浜毎日新聞を創刊させたり、池田らとともに長崎新聞を創刊したりした。(Wikipedia)。

 しかし、維新後は事業がかならずしもうまくいかず、体調もすぐれないまま、本木は1875年9月3日に死去します。森山多吉郎はすでに1871年5月4日に死亡、一方、福地源一郎は『東京日日新聞』でジャーナリストとして活躍している頃にあたります。通詞キャリアコースも新旧の入れ替えがはじまります。

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 ところで、福地は御一新のみぎり、新政府との政務引き渡しの業務を果たすため、主戦論者に誘われて「脱走にくわわることあたわざりしは、今日より顧みれば余が幸いにてありき」と回想しますが、実は、長崎通詞のなかには実際に脱走に加わり、函館まで渡った者もいます。この時のほんのちょっとした決断の差が、彼らの人生を変えてしまうわけです。

 その一人、長崎通詞出身の五島英吉は戊辰戦争に身を投じ、榎本武揚や元新撰組副長土方歳三らとともに五稜郭まで転戦します。もちろん、皆さんも知っての通りの敗戦、新政府側の追求を逃れて英吉が逃げ込んだ先が函館ハリストス正教会でした。ここは「1859年(安政5年)にロシア領事のゴシケヴィッチが領事館内に聖堂を建てたのが源流」とされる「日本正教会でも伝道の最初期からの歴史を持つ最古の教会の一つ」だそうです(Wikipedia)。

 この教会にかくまわれた英吉は、ロシア人たちから料理とパンの作り方を覚え、若山惣太郎とともに1879年、在留外国人や外国船にパンや西洋料理を納める小さなレストランを開業します。この五島軒は現在でも函館他で開業中です(洋食バル 函館五島軒HP;http://hakodate-gotoken.com/gotoken/)。英吉自身はここで7年間コック長を努め、明治19年の火災で店が焼けた後、横浜に転居したとのこと。その後の英吉の消息ははっきりしないようですが、横浜に転居後も夏に避暑に訪れ、五島軒の2代目が帝国ホテルで修行する際にも協力したということです。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...