カテゴリ : 国際政策に関連して :

本のご紹介:国際協力に関心がある方へ、『日本の国際協力 中東・アフリカ編』

2021 8/26 総合政策学部の皆さんへ 所属しているアフリカ学会から、以下の案内が来ましたので、お知らせします。国際協力にご関心がある方はご照覧下さい。

 この度、多くのアフリカ学会員のみなさまに著書としてご寄稿頂き、『日本の国際協力 中東・アフリカ編』がミネルヴァ書房より無事出版されました。
 本書は、それぞれの地域をご専門とする地域研究者等の立場から国際協力について、アフリカと中東の国々をほぼ全て網羅しまとめた画期的な図書となっています。是非お手に取って頂き、大学等での教育や研究資料にご活用頂けますよう、ご案内いたします。

『日本の国際協力 中東・アフリカ編』Minerva KEYWORDS 7(阪本公美子/岡野内正/山中達也編著)
ISBN978-4-623-09192-8 C3331 A5判美装カバー368頁 定価4400円(本体4000円+税)
https://www.minervashobo.co.jp/book/b577607.html
 国際協調主義を掲げた日本は、アフリカの年を迎え植民地から独立した国々や、石油資源が注目される中東諸国に対し政府開発援助(ODA)を通じてどのように関わってきたのか。各国の経済発展や福祉向上を目的とする支援が、なぜ批判も浴びてきたのか。本書では、中東・アフリカ諸国へのODAの全貌を、その形成と展開、現状と事例、課題と展望から解明し、21世紀の日本の国際協力の課題を考えるための基礎的判断材料と論点を提供する。

[ここがポイント]
◎ 異なる国・民族の歴史・文化を知り、地球上にともに生きる人間として協力し合うことの意味を読者に感じ取ってもらえる本を目指す。
◎ 各国・地域の経済・政治・社会の歴史的展開とODAの関連性を軸に記述する。
◎ ODAの実施・展開における国際環境の変化およびリージョナルおよびグローバルなイシューの影響は必要な範囲で考慮する。
◎ 官民協力、国際機関による援助はODAとの関連で触れ、自治体・NGOベースの協力についても適宜触れる。

[目 次]
「日本の国際協力」刊行にあたって
はじめに
序 章 中東・アフリカとODA
 第Ⅰ部 中東地域
 解説――援助戦略に根本的な反省を迫る深刻な実態  岡野内正
 コラム1 日本の援助と石油  松尾昌樹
1 対パレスチナ援助――混乱が続く政治情勢の中での援助  塩塚祐太
2 対ヨルダン援助――難民受け入れ国の経済的自立を目指して  臼杵悠
3 対シリア援助――内戦下における援助  溝渕正季
4 対レバノン援助――いかに改革を支援するのか  溝渕正季
5 対トルコ援助――被援助国から新興援助国へ  柿﨑正樹
6 対イラク支援――続く紛争との闘い  円城由美子
7 対イラン援助――政治変動を超えた継続的支援の挑戦  千坂知世
8 対アフガニスタン援助――命の重さと「援助のあり方」  林裕
9 対オマーン支援――ODA卒業国への支援  松尾昌樹
10 対イエメン援助――「世界最悪の人道危機」に対峙する  川嶋淳司
11 対サウジアラビア・湾岸諸国援助――湾岸産油国へのODA  松尾昌樹

第Ⅱ部 北アフリカ地域
解説――いま私たちに必要な視点とは  山中達也
12 対エジプト援助――「地域の平和と安定化のための要塞」としての老舗地域大国  井堂有子
13 対リビア援助――内戦後復興支援に向けた課題  小林周
14 対チュニジア援助――国民のための真の援助に向けて  高橋佑規
15 対アルジェリア援助――産業の多様化を目指して  高橋雅英
16 対モロッコ援助――格差是正を目指す支援  白谷望
17 対西サハラ援助――被占領地域への「援助」は何を意味するのか  高林敏之
18 対モーリタニア援助――水産資源に恵まれた砂漠の国との協力関係  吉田敦

第Ⅲ部 サブサハラ地域
解説――「誰一人取り残さない」経済成長は可能か  阪本公美子
コラム2 対アフリカ援助の潮流  阪本公美子
西アフリカ・中部アフリカ地域解説――ODAは格差とどう向き合うのか  阪本公美子
19 対セネガル・ガンビア援助――きわめて民主的で安定した稀有な国  鈴井宣行
20 対カーボベルデ援助――中進国に向けた経済構造転換へ  鈴井宣行
21 対ギニアビサウ援助――政情不安と汚職に向き合う  白戸圭一
22 対ギニア援助――援助以前の課題をふまえた援助の必要性  中川千草
23 対マリ援助――安定の先にあるさらなる発展の可能性  藤井広重
24 対ブルキナファソ援助――暮らしの安定に資する農業支援  土方野分・中尾世治
25 対ニジェール援助――ODAが築いた人財交流  関谷雄一
26 対シエラレオネ援助――残虐な紛争や感染症の災禍を超えて  落合雄彦
27 対リベリア援助――内戦とエボラ出血熱の災禍に遭った最貧国  岡野英之
28 対コートジボワール援助――象牙の奇跡  原口武彦
29 対ガーナ援助――経済自由化と格差是正の支援課題  Staniuslaus Acquah・友松夕香
30 対トーゴ援助――西アフリカの基幹回廊づくりを支援  白戸圭一
31 対ベナン援助――アフリカ民主主義の「モデル」支援  白戸圭一
32 対ナイジェリア援助――「人口大国」への協力の難しさ  望月克也
33 対チャド援助――日本の援助が届く日まで  坂井真紀子
34 対カメルーン援助――現地住民が参加する援助へ  坂梨健太
コラム3 アフリカ開発会議(TICAD)とODA  Staniuslaus Acquah
35 対中央アフリカ共和国援助――有効な脆弱国家支援を求めて  武内進一

東アフリカ地域解説――サブサハラ・アフリカにおける日本援助の重点地域  阪本公美子・藤井広重
36 対ソマリア援助――地域の安定に結び付く人間の安全保障の確立へ  須永修枝
37 対エチオピア援助――貧困削減と民間セクター主導による経済成長のバランス  白鳥清志
コラム4 伝統的な社会関係を活かしたODA――プロジェクトを超えて  島津英世
38 対スーダン援助――独裁と天然資源からの脱却に向けて  藤井広重
39 対南スーダン援助――ODAと平和構築  藤井広重
コラム5 平和構築と国際刑事裁判所  藤井広重
40 対コンゴ民主共和国援助――援助は政治腐敗と人権侵害に立ち向かえるか  華井和代
41 対ウガンダ援助――様々な社会的対立や分断を乗り越えて  斎藤文彦
42 対ルワンダ援助――ジェノサイド後に注目される「アフリカの奇跡」の実態 米川正子・阪本公美子
43 対ケニア援助――東アフリカのゲートウェイの行方  佐々木優
コラム6 ソンドゥ・ミリウ水力発電プロジェクト――二〇世紀援助ビジネスの暗き淵より  岡野内正
コラム7 武力紛争と日本のODA  白戸圭一
44 対タンザニア援助――サブサハラ・アフリカの重点被援助国 阪本公美子・杉山祐子
45 対マダガスカル援助――政変に揺れるアフリカの島国  吉田敦

南部アフリカ地域解説――南アフリカ共和国が中心となり貧困削減への取組を展開  石田洋子
コラム8 子ども兵  杉木明子
46 対モザンビーク援助――ODAは現地市民からの「反対の声」にどう応えられるのか  渡辺直子
47 対マラウイ援助――ウォーム・ハート・オブ・アフリカと呼ばれる世界最貧国  石田洋子
48 対ザンビア援助――経済多角化による銅産業への依存からの脱却に向けて  中田北斗
49 対ジンバブエ援助――強権政治下の民生支援  壽賀一仁
50 対南アフリカ共和国援助――アパルトヘイトの負の遺産と格差是正に向けて  細井友裕
51 対アンゴラ援助――内戦からの復興と資源国の潜在力  細井友裕
コラム9 東欧諸国に対する日本のODA  土田陽介
コラム10 中東欧・バルト諸国に対する日本のODA  田中宏

19世紀での国家の誕生と消滅Part3:エジプト後篇

2021 7/22 総合政策学部の皆さんへ

 19世紀での国家の誕生と消滅Part3:エジプト前篇に引き続いての後篇です。

 前篇では、ナポレオンのエジプト征服(そしてその後の脱出)後の混乱に乗じて、出身地や血筋さえ定かならぬ一介の傭兵隊長ムハンマド・アリーが土着のマムルーク勢力とオスマン帝国の間隙を縫って、1805年、36歳の時にエジプト支配に着手するところで終わっていますが、彼の波乱万丈の一生はその後もさらに続きます。完全なる権力掌握のためには、彼を取り巻く幾重もの重囲、多方面の敵をそれぞれ突破しなければなりません。

 まずは向背定かならぬマムルーク勢力についてかたを付けねばなりません。1811年3月11日、ムハンマドは次男のアラビア遠征軍司令官任命式にことよせて「マムルーク400人あまりを居城におびき寄せて殺害する(シタデルの惨劇)と、カイロ市内のマムルークの邸宅、さらには上エジプトの拠点にも攻撃を仕掛け、1812年までにエジプト全土からマムルークの政治的・軍事的影響力を排除する」ことに成功します(Wikipedia)。このあたりは、1502年12月31日、“マジョーネの反乱”において部下に裏切られて窮地に立たされながら、言葉巧みに反逆者の「4人と相対して油断させ、4人が自軍から離れてシニガッリアの城内に入ったところを、ミケロットらに命じて捕縛」、彼らが率いてきた軍隊も殲滅させて、権力保持に成功したルネサンス期の梟雄、チェーザレ・ボルジアを髣髴とさせるところです。

 当時のフィレンツィの政治家でのち歴史家となったフランチェスコ・グイチャルディーニはチェーザレについて「「裏切りと肉欲と途方も無い残忍さを持った人物」とした一方、当時のフィレンツェの国情の混乱振りとの対比で「支配者として有能であり、兵士にも愛されていた人物」と評している」(Wikipedia)とのことですが、ムハンマドにもそれに匹敵する才能(ルネサンス期ではヴィルトゥ[器量]”と呼ばれます)の持ち主であったのでしょう。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 次は当然、ムハンマド自身の雇い主であるオスマントルコ皇帝です。ムハンマドの権力確保の時期はまたオスマン帝国の嬉々の時期でもあり、「1807年から1808年にかけてセリム3世ムスタファ4世が相次いで廃位れるなど政情が混乱し、ムハンマド・アリーに対応する余裕はなかった」(Wikipedia)。ちなみに、改革者セリムと呼ばれたセリム3世は国家体制刷新を目指しますが、既存権益者の筆頭ともいうべき常備軍イエニチェリを廃止しようとして、クーデターにあい失脚します。帝国の辺境でムハンマドが目指した改革は、帝国の中央では頓挫する、その隙間の中にエジプト王国(ムハンマド・アリー朝)の基礎が据えられるわけです。

 ちなみに、改革者セリムを保守派によるクーデーターで打倒したムスタファ4世ですが、自らの権力維持のため、従兄弟にあたる廃帝セリム3世や弟のマフメットを殺そうとして(=オスマン皇帝でよく知られている兄弟殺し)、セリムを殺したもののマフjメットに逃亡され、結局、次のクーデターで打倒され、弟のマフメット3世が即位します( 1808年7月28日)。ムスタファ4世もその後、帝政安定のため、自らもマフムト2世によって殺されます。ちなみにこのマフメット2世の母親ナクシディル・スルタンは一説によると「ナポレオン・ボナパルトの最初の妻ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネの従妹にあたるマルティニーク出身のフランス人女性、エイメ・デュ・ビュク・ド・リヴェリと同一人物」ともされていますが、コーカサス出身の女性という別の説もあるそうです。いずれにせよ、皇帝たちの母親は奴隷出身者が多く、その結果、皇帝たちの遺伝子は限りもなく“トルコ人”から離れていくことになるわけですが、それはまた別の話です。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 マフメット2世はオスマン帝国再建という難事業に乗り出しますが、それは当然困難をきわめ、保守派、とくにかつては東欧諸国をあっとうしたイエニ・チェリ軍団の抵抗を受けて隠忍自重を強いられます。2代前、同じく帝国の改革をめざしたセリム3世の失脚(1807年5月)から、マフムト2世が満を持して断行にした(かつて14世紀、賢主ムラト1世によって創設されて以来、そのリクルートシステム[デヴシルメ制]も含めて抜きんでて革新的であった)旧式軍団イエニ・チェリの廃止とその反乱の鎮圧(1826年6月15日)までの時期は、あらためて言うまでもないことですが、ムハンマド・アリーが己の権力基盤を固める時期になってしまうわけです。

 1821年のワラキア蜂起以後の一連の民族蜂起に対して、「追い詰められたマフムト2世は1824年に独自の西洋化政策を進めていたエジプト総督ムハンマド・アリーにペロポネソス半島とクレタ島、そしてシリアの3つの総督の地位を彼に与えることを引き換えにして援軍の派遣を要請した。翌年派遣されたムハンマド・アリーの息子のイブラヒム・パシャは次々と反乱軍を打ち破っていき、クレタ島をも占領した」(Wikipedia)。帝国内部の民族蜂起(19世紀から今日までつづく民族問題)、そして北から圧迫するロシア、さらにイギリス、フランスの進出の板挟みにあったマフメットに対して、アリーは牙をむきます。

 「1831年、ギリシア独立戦争への参戦で大きな犠牲を払ったムハンマド・アリーが、参戦にあたってマフムト2世から約束されていたシリア総督職が与えられないことに抗議して、エジプト軍をシリアに武力侵攻させる事件が起きた(第一次エジプト・トルコ戦争)。単独でムハンマド・アリーを倒すことのできないマフムト2世は、ギリシア・セルビアの問題で圧迫を受けてきた相手であるロシアを頼り、エジプト問題を列強の介入によりさらに複雑化させた」(Wikipedia)。このあたりが、現在の中近東の政治情勢を産みだすきっかけともなるわけです。

 結局、「イギリスの支持を得たマフムト2世は1839年4月に満を持してエジプトとの間に戦端を開き、ムハンマド・アリーの支配する北シリアの要衝アレッポにオスマン帝国軍を向かわせた(第二次エジプト・トルコ戦争)。6月24日、オスマン帝国軍はエジプト軍によって打ち破られ、第二次エジプト・トルコ戦争もまた、ムハンマド・アリーの優位によって進もうとしていた。この悲報が届く前にマフムトは崩御した。この戦争は最終的にイギリスの介入により、1840年7月にオスマン帝国側の優位で決着するが、ムハンマド・アリーにエジプトの世襲権が認められた」(Wikipedia)。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 こうして「世襲権」を獲得、半独立国の地位を取り付けるムハンマド・アリーですが、彼の跡継ぎたちはアリーへの対抗のためにヨーロッパ列強からの支持を取り付けたオスマン帝国ともども、関税自主権などを失い、以後、どちらも半植民地化の道を辿ります。マフメット2世崩御の1839年から数えると、オスマン帝国は6代・83年後に帝国解体に直面し、またムハンマド・アリー朝は10代・114年後に廃絶を迎えることになります。

 

19世紀での国家の誕生と消滅Part3:エジプト前篇

2021 3/19 総合政策学部の皆さんへ

 「19世紀での国家の誕生と消滅」も3回目、今回とりあげるのはオスマン帝国の崩壊と、そこからの酷寒成立の例の一つとしてのエジプトです。

 まず、オスマン・トルコことオスマン帝国ですが、Wikipediaでは「テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国」とされ、「17世紀の最大版図は中東からアフリカ・欧州に著しく拡大し、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリーに至る広大な領域に及」びます。

 そのオスマン帝国が、19世紀以降、とくに西欧諸国から蚕食され、最終的には「青年トルコ人革命」によって権力を握った“統一と進歩委員会”が第1次世界大戦において枢軸国側に身を投じるという冒険的行為に走った挙句、ロシア帝国やオーストリア・ハンガリー帝国とともに解体されます。その結果、今日私たちが“トルコ”として知っている地域はケマル・アタテュルクによるトルコ人国民国家として生き残りを図ることになります。その間、この“新生トルコ”から外れた多数の国家が誕生することになるのです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 このオスマン帝国の解体、あるいは崩壊は19世紀から20世紀にかけてきわめて長い時間をかけて進行します。セルビア公国が事実上独立したのが1817年、フランスによるアルジェリア占領が1830年、ギリシャ王国誕生が1832年、ルーマニア王国ブルガリア公国独立が1878年、青年トルコ人革命のどさくさにまぎれてオーストリア・ハンガリー帝国にボスニア・ヘルツェゴビナを奪われ、クレタがギリシャに回帰、さらに1911年、イタリアがリビアを奪って植民地化と続いて、これらの逆境を一気に吹き飛ばすべく、“統一と進歩委員会”が賭けに出て、ドイツ・オーストリアと手を組んだのが1914年11月11日となります。

 ちなみにこの過程で生まれた王国には、まるで植木の移植のように、他の王国から王族がやってきたりします。つまりは、列強の優劣関係の上に、王朝の“出店”が設けられる塩梅です。例えば、初代ギリシャ王はオーストリアのヴィッテルスバッハ家のオットー・フリードリヒ・ルートヴィヒ・フォン・ヴィッテルスバッハことオソン1世、初代ブルガリア大公はドイツのはバッテンベルク家出身のアレクサンダー・ヨーゼフ・フォン・バッテンベルクことアレクサンダル1世、ルーマニア国王もドイツのホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家出身のカール・アイテル・フリードリヒ・ゼフィリヌス・ルートヴィヒことカロル1世。

 王様を異民族から“輸入”するわけですが(=もちろん、西欧列強の思惑で)、これではとても国民国家とは言えません。その中で、初代セルビア公ミロシュ・オブレノヴィッチ1世は貧農・ブタ商人あがりでナショナリズムを体現していると言えそうです。このミロッシュ1世は「統治下にセルビアをオスマン帝国内の自治公国にさせたため、セルビアが独立を回復する端緒を開き、近代セルビアの内外政策を方向づけた人物として評価されている」(Wikipedia)とのことです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さてこうしたオスマン帝国解体の長い長い歴史の中で、一介の梟雄が出身地でもなんでもないエジプトを実質的な支配下におさめ、ほぼ150年(1805年 – 1953年)に渡る王朝を創設します。

 その主人公がムハンマド・アリー(1769?~1849)、激動の18~19世紀(フランス革命からナポレオン戦争を経て、アヘン戦争・米墨戦争の同時代)を生き抜いた英雄・梟雄と言うべき存在ですが、生まれはアルバニア・トルコ・イラン・クルド系説が入り乱れ(アルバニア系が主流)、要するにエジプトとは本来何のゆかりもなかった人物です。生まれた年も場所もはっきりしないのです。

 その彼がエジプトとかかわりをもつのは、ナポレオンが1798年~1801年にかけて主導したエジプト・シリア遠征がきっかけです。フランス革命とその後の混乱から立ち直ろうとするフランス総裁政府は、対イギリス牽制のため、エジプトを占領することで植民地とイギリスの結びつきを断ち切ろうというナポレオンの戦略に載ることにします。

 こうしたヨーロッパでの列強の争い、そしてフランス第一共和制での総裁政府というあやふやな政治主体内部での権力者同士の力関係等によって起こされた遠征事業が、エジプトの宗主権をもつオスマン帝国を刺激して、傭兵隊長としてのムハンマドを派遣させる。そのムハンマドが新天地に己の権力を発揮する可能性を見出し、やがてオスマン帝国に歯向かうまでに至る! まさに波乱万丈の物語とも言えるでしょう。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 ところで、、異邦人ナポレオンにとってはエジプトとはたんなる一つの舞台に過ぎず、それが政治的戦略にとって用だたなくなれば捨て去ってもまた恥じない対象であるのに対して(1799年8月22日、ナポレオンは少数の腹心とともに秘かにエジプトを脱出、フランスでの権力獲得にまい進し、残された兵は1801年まで戦い続けますが、最終的にイギリスに降伏します)、もう一人の異邦人ムハンマドはそこに自らの活躍の場を見出します。おまけに、実質的なエジプトの支配者、マムルークたちはナポレオンに粉砕されたばかりです。

 実を言えば、このマムルークたちも「イスラム世界に存在した奴隷身分出身の軍人」であり、ムハンマド君の大先輩にあたるとも言えるわけですが、ムハンマドはナポレオンによるマムルークの妥当と、その後のフランス軍撤退といういわば政治の真空状態をつきます。Wikipediaでは「イギリス軍がエジプトから撤退(1803年3月)した後のエジプトでは、オスマン帝国の総督および正規軍、アルバニア人非正規部隊、親英派マムルーク、反英派マムルークが熾烈な権力闘争を繰り広げた」と記されています。

 この時期、オスマン帝国の傭兵隊(アルバニア人非正規舞台)の司令官が暗殺されると、ムハンマド・アリーは土着のマムルーク勢力とオスマン帝国を巧みに操って、自らの権力の確保に猛進します。宗教指導者であるウラマーから新総督へ推挙されるのが1805年、ナポレオンの脱出から5年、ムハンマド36歳です。ちなみに、その前年フランス皇帝になったナポレオンはムハンマドとほぼ同じ1869年生まれで、戴冠時35歳。ちなみに、ナポレオンは46歳の時にワーテルローの戦いで全権力を失いますが、ムハンマドは英仏に掣肘されながらも80歳までエジプトを支配し、長男イブラーヒーム・パシャに権力を遺します。、

と、いうところで、この項 to be continuedとしましょう。

19世紀での国家の誕生と消滅 Part2:テキサスおよびハワイ後篇

2020年12月12日 総合政策学部の皆さんへ 前篇では1836~1845年という(歴史的にみれば)きわめて短期間だけ存在したテキサス共和国をめぐる(=同時に、アメリカ合衆国が旧スペイン領メキシコの実に3分の1の領土を蚕食する)歴史を紹介しましたが、次はハワイについてのお話です。

 さて、皆さんはハワイの歴史はどのぐらいご存じでしょうか? ハワイ諸島に先住民が何時たどり着いたのかについては、どうやらはっきりした証拠がなさそうで、紀元4~8世紀頃と推定されているそうです。無文字文化のために記録された“歴史”がないわけです(もちろん、記録がないからと言って、そこの人々の歴史がないわけではありません。そのあたりはちゃんと自覚して下さいね)。

 記録として残るのは、ヨーロッパ人がハワイ諸島にたどり着いた1778年、イギリスのキャプテン・クック指揮下による第3回航海の時でした。「クックはカウアイ島に上陸し、時の海軍大臣でクックの探検航海の重要な擁護者でもあったサンドウィッチ伯の名前をとり「ハワイ諸島」を「サンドウィッチ諸島」と命名した」(Wikipedia)。命名=その土地の“発見”者が名前を付けて、それが植民地支配のためのこの上もない理由となる=大航海時代から帝国主義にいたる時代につきもののエピソードです。

ちなみにこの時のサンドウィッチ伯は第4代サンドウィッチ伯爵ジョン・モンタギューで、「博打好きで、ゲームの最中にも食べることができるサンドウィッチを発明した」という都市伝説的エピソードが伝わっています。なお、初代サンドウィッチ伯は1660年の王政復古に貢献したエドワード・モンギューで、サミュエル・ピープスの『自伝』にも登場することで知られています。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 次に、皆さんにはハワイ王国の成り立ちにもご関心をもっていただければと思います。ハワイ王国とは、初代国王カメハメハ1世(カメハメハ大王;1758~ 1819)がつくりあげた統一王朝で、彼の子孫によって約1世紀統治されます。

 さて、Wikipediaにはカメハメハ1世の事績として「叔父の死後、その長男のキワラオを倒して島内を掌握すると、イギリスから武器や軍事顧問などの援助を受け、マウイ島やオアフ島など周辺の島々を征服していった。政敵が火山の噴火や外敵などにより壊滅状態になったことも統一に幸いした。18世紀末までにはカウアイ島、ニイハウ島を除く全地域を支配下におさめ、1810年にこの2島もカメハメハに服属して国家統一を成し遂げた。

カメハメハ1世は火器と火薬の調達にいそしみ、火器の使用法や管理法に習熟した白人の顧問を迎え入れた。1804年には、600挺のマスケット銃、14門の大砲、40門の旋回砲、6門の小型臼砲を保有するに至った」。このように「カメハメハは優れた外交手腕でイギリスやアメリカ合衆国などの西洋諸国との友好関係を維持してハワイの独立を守り、伝統的なその文化の保護と繁栄に貢献した」(Wikipedia)とあります。カメハメハによる王国の宣言は1795年(フランス革命と同時期です)、全土統一が1810年でした。

 おわかりになりますか? 外部世界の接触により、そこからの最新兵器や体制をいち早く導入し、革新的な軍事力によって周辺を統一、近代的軍事国家を作る。実は、このパターンは17~19世紀にかけて世界各地で勃発します。例えば、イギリスからの支援によって1827年にはマダガスカルのほぼ3分の2を支配するメリナ王朝のラダマ1世(あたかもマダガスカルの織田信長という塩梅です)、17世紀西アフリカの交易ルート転換期にあって、ヨーロッパ人との奴隷貿易によって奴隷と兵器の交易によって、軍事国家化し周辺諸民族を支配したアシャンティ王国、あるいはアシャンティと同様に奴隷貿易で栄えるダホメ王国です。

 「(ダホメ王国では)歴代の王たちの主要な収入源は奴隷貿易であり、西アフリカ沿岸の奴隷商人との関係であった。ダホメ王国の王たちは戦争をして領土を広げるに伴い、ライフルや他の火器を使用するようになり、捉えた捕虜たちと火器を交換し、捕虜たちは南北アメリカ大陸に奴隷として売られていった」(Wikipedia)

 もちろん、ここで比較歴史学のセンスがある方は、これはひょっとして極東の小国=黒船来航後の日本も同じ立場だったのか、と思い至るくかもしれません。世界システムの中で、周辺部の地域には様々な政治的可能性が提示されるのですが、先進的なテクノロジーの導入による軍事国家化と、周辺地域への進出というモデルです。

 もちろん、このモデルにはさらにオチがあり、世界システムのさらなる進出はメリナ王朝アシャンティ王国ダホメ王国等をひとしく植民地化の大波に飲み込んでいくところです。江戸幕閣たちにはそうした雰囲気もまたひしひしと感じていたことでしょう。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 話が拡散しすぎないように、とりあえずハワイに戻りましょう。このハワイ王国ははじめ白檀を経済的基盤とします(この白檀はヨーロッパ人の手により中国に輸出されたそうです;吉澤誠一郎『清朝と近代世界』)。しかし、白檀の枯渇とともに、次第にサトウキビなどのプランテーション経営が始まり、経営者=アメリカ合衆国の資本家への経済的従属が強まり、同時に清朝そして(開国後の)日本からの労働者の導入が進みます。つまり、先住民が次第に少数派になっていくわけです。

 この過程で、第5代の国王カメハメハ5世が後継者を残さず、1872年に逝去、遠縁のルナリロ王が選挙によってえらばれますが、わずか1年あまりの在位の後死亡します。その結果、第7代国王に就任したカラカウア王は、次第に増してくるアメリカ人の影響を低減すべく、1874年にワシントンに赴き、当時のグラント大統領と会談、ハワイの産品である砂糖や米の輸入自由化を認めさせます。王はさらに1881年に世界一周をおこない、日本と中国を訪問、とくに中国では当時の実力者李鴻章とも会談、ヨーロッパ人の脅威に対抗するためアジアが連帯することが重要だと説いたとのことです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 しかし、アメリカ系移民からの圧力は続き、1887年には逆にクーデターをおこされ、退位あるいはアメリカ合衆国への併合を求められ、交換条件として新憲法(銃剣憲法)を飲むことで、実質的な権力を失うのです。彼は1891年過度の飲酒が遠因となり、妹のリリウオカラニ(『アロハ・オエ』等の作曲者)を後継者に指名します。彼女はハワイ人からの新憲法制定の請願を受け、1893年1月14日、国王権限を強化する憲法草案を閣議に提出して否決されます。その後は、あっという間の展開になります。

 1月16日、米国公使は自国民保護を口実にアメリカ海兵隊を上陸させ宮殿を包囲、翌17日に共和制派が政庁舎を占拠し、王政廃止と臨時政府樹立を宣言します(Wikipeida「ハワイ併合」。これには当時、王国の独立を支持していた日本政府は、こちらも邦人保護の名目で軍艦を送るなど、不快感を表明します。かつ、米国政府もこの「革命」が不法なものであると認めるのですが、ハワイ臨時政府はこれを内政干渉として突っぱねた。このあたり、大国が用いる「自国民保護」とアメリカ系ハワイ人がつかう「内政干渉」の口実の使い分けなどは、ペリー来航の折、対応した幕府官僚が感じた恐れが如実に実現したものとみなすべきかもしれません。

 その後の紆余曲折、1894年7月4日の臨時政府による共和国独立宣言、女王リリウオカラニの逮捕(反乱の首謀者容疑)、1月22日の逮捕者との引き換えによる女王廃位の署名の強制などで、ハワイ王国は滅亡します。最終的に、このハワイ共和国は独立後わずか4年の1898年に米国に併合されてしまいます。このあたり、テキサス共和国をめぐる経緯とも通じますが、思えば帝国主義時代に対応することでアメリカ人の政治的テクニックも随分と向上していたとも言えるのかもしれません。

分けることと名を付けることPart4:“分けられた”人たち

2020 11/22 今回は、“分けられてしまった”人たちについて紹介しましょう。

 私はかつてタンザニア連合共和国西部のマハレ山塊国立公園で、あわせて3年ばかりをすごしたことがあります。この公園はタンガニーカ湖東岸に半島のように突き出ていますが、この湖の中央にはタンザニアとブルンディザイール(現コンゴ民主共和国)ザンビアを分ける国境が走っています。だから、湖の東岸から私の眼に入る西岸は隣国コンゴ(当時はザイール)なのです。

 ある日の暮れ、湖岸でぼんやりしていたら、なにやらカヌーを漕いできた男が一人、上陸してきたのでのぞき込むと、プラスチックのサンダルが束ねられていて、要するに当時社会主義政策をとって物不足のタンザニアへ、資本主義国から手厚く支援を受けていたザイールから物を売りに来た商人なのですが、考えてみれば国境をまたいできたものの、そこにイミグレーション税関もあるわけはなく、要するに密出入国でありかつ密輸の現場なのです(もちろん、かわいいものですが。ちなみにそのサンダルは香港製でした)。

 さて、この湖面を切り分ける“ボーダー”はもちろん自然のものでも、また民族の違いでもなく(湖岸の両岸でほとんど同一の言語を話しています)、1885年のベルリン会議でドイツ、ベルギー、イギリスの間で分けられものに過ぎず、かつそれ以来、ボーダーが動くことはありません。と言うよりも、このボーダーを下手に動かせば、紛争・暴動を引き起こして、脆弱な国家は崩壊しかねないのです(宮本・松田、1997)。

 ちなみに1960年代のアフリカ諸国の独立ラッシュ後、ヨーロッパ列強の手でいったん策定された国境が変わり、国家が分割された(=ボーダーが引き直された)例は、エリトリアエチオピアから独立戦争を経て独立したケース、そしてアフリカ最大の国家であったスーダンからやはり数度の内戦を経て南スーダンが分離したケースだけです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 その一方で、人々の暮らしは昔も今も基本的には変わりません。先ほど紹介したように、カヌーを漕げばタンガニイカ湖を横断することなどわけもない。パスポートを持つ者などいるはずもないから、すべては密出入国にほかならず、いくばくかの商品等を持参すれば密輸です。

 当然、行き来する者たちの間で男女の仲で結ばれることもあります。知り合いのタンザニア人の男性がザイール人の女性と結婚した時のこと、ふとまわりの連中に
「あの二人の子供は、いったいどちらの国籍になるのだね?」と尋ねると、
「病院で産んだら出生証明書をくれるから、最近は病院で産むことが多いけど、タンザニアの病院で産めばタンザニア人に、ザイールで産めばザイール人になる」としごくのんびりした答えが返ってきて、妙に納得したものです。どちらの国にも戸籍などなく、人々は近年まで自分の生まれ年(したがって年齢も)さえ知らなかったのです(蛇足ながら、戸籍とは世界の中でも日本、韓国、台湾等に限られた特殊なものです)。

 こうした光景は、近代国家以前の、“国境”があいまいだった頃に比べれば、あたりまえのことでした。しかし、1885年にベルリンで締結された条約にもとづけば、彼らの動きは立派な不法行為なのかもしれません。なによりも、近代国家は運営にお金がかかり(ニューヨークの国連に大使を派遣するだけでも、アフリカの一般民衆からすれば気が遠くなるような経費が必要)、そのためには税金をとりたてなければいけない。とすれば、“国民”の勝手な行動を制約し、彼ら(=我々)を囲い込もうとするのはある意味必然というべきかもしれません。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 その上で、民族とは何で決まるのか=どんな基準で“分ける”のか? という難題が残ります。民族は「文化の伝統を共有することによって歴史的に形成され、同属意識をもつ人々の集団」とされています(『広辞苑』第四版)。そして一般的な理解では文化≒言語の共有が民族の形成に欠かせないとされます。

 とは言え、現実には簡単ではありません。例えば、“ユダヤ民族”では、母語はラディーノ語イディッシュ語など多数の言語に分かれます。すると、ユダヤ民族は単一の人種/民族というよりも、むしろユダヤ教という宗教で結びついた社会集団と言うべきかもしれません。

 さらに、誰が分けるのか? アフリカでは、植民地時代に先住民を“部族”に分割することが多かったことが知られています。ところが、この“部族”は必ずしも実態をともなったものではなく、植民地政府の恣意的な措置であった場合も多い(宮本・松田、1997)。その一方で、この“創られた伝統”がいつしか政治/社会的実態をおび、後年の“部族主義(トライバリズム)”を助長させ、“民族/部族紛争”に発展した例も少なくないのです。

 とくに植民地政府がしばしば採用した“分割統治”は、“集団”に“実体性”をもたらし、しばしば政治集団に再編成をおこない、結果として紛争や戦争の原因となりました(例えば、ナイジェリアでのビアフラ戦争等)。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さて、“民族集団”自体は数十年、数百年の単位で発生、分散、消滅、統合、再編成されることもめずらしくありません。

 たとえば、私が3年間ほどつきあっていたトングウェは、タンザニアで認められている120近い“民族”のうちの一つです。先ほども触れたマハレ山塊国立公園の周辺、面積にしておよそ2万平方キロばかりのトングウェ・ランドに2万人ほどが住んでおり、コンゴ・コルドファン語族のニャムウェジ語系のトングウェ語を話しています。とはいえ、こうした弱小語は共通語(タンザニアの場合はスワヒリ語)の普及(学校教育およびラジオ放送)で、消滅の危機にあります。

 それでは、トングゥエの人々は何時からトングゥエなのでしょう? この地で40年近くチンパンジーの研究を続けた西田利貞は調査の初期に、書き言葉を持たず、伝承世界に生きている彼らに聞き込みをおこなっています(西田、1973)。その結果、彼らの父系をたどるとおよそ7,8世代、つまり150~200年ほど前まで遡れますが、それは対岸のコンゴ出身の祖先に行きあたるのです。しかも、複数の民族に分かれるということです。

 それ以上はすべて推測でしかありませんが、複数の民族の出身者が何らかの理由で湖の東岸に移動し、紛争と融合をくり返しながらやがて一つの民族を創出するのは、アフリカではそれほど珍しくことでもないようです。このように民族は語られぬ歴史の中で、次々に生まれてはまた変わっていく存在なのですが(宮本・松田、1997)、それが植民地政府の意向で“部族”という名称で固定化・分類されると、そのこと自体がやがて“部族対立”や“民族紛争”に発展していきかねない、それがアフリカの近代化の一断面とも言えるのです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 近代国家としてもっともふさわしい存在は、大革命後に成立した“国民国家(ネーション・ステーツ)”としてのフランスと、政治的思想をバックにした契約国家とも言うべきアメリカ合衆国があげられます。もっとも、アメリカは少し特殊に過ぎるので、前者のフランスをとりあげてみましょう。

 ヨーロッパ史を少しひもとけば、フランスは歴史的にほんの少し前まで文化的にも政治的にもとても単一国家とは言えないものでした。たとえば、現在フランスと呼ばれている地域とその周辺は、かつてフランス王国の他、ブルゴーニュ公国、ブルターニュ公国、ナバール王国など多くの政治権力に分かれていました。

 これらの諸政治権力があるものは統合され(例えば、ブルターニュ公国は最後の女王アンヌとフランス王シャルル8世・ルイ12世の結婚により統合)、また、あるものは(ブルゴーニュ公国のようにブルゴーニュ地方はフランスに吸収されますが、フランドル地方はオランダ・ベルギー等として独立します。

 こうした“小国家”や“地方文化”を最終的に一つの“坩堝”に溶かし込んで“フランス民族”を形成したのが、“フランス革命”の最大の成果であり、ナポレオン戦争で倒れた100万人を筆頭に、膨大な人命の犠牲によって、フランスの輪郭が形作られます。

 それでは、アフリカで成立している国家とはなんでしょうか? 1885年のベルリン会議等によって人工的に分割された植民地は、そのままの形で独立の日を迎えます。そのため、ほとんどが複数民族によるモザイク国家となり、ナショナル・アイデンティティは稀薄か、存在しない(砂野、1997;池野・戸田、1997)。ネーション・ビルディングとは、そうしたモザイク社会の中で、近代的国家を建設することにほかなりません。とはいえ、1967年からのビアフラ戦争、ソマリア(氏族社会への回帰)、コンゴ(統治機構の地域的分解)、エリトリア(宗教等の理由から国家分裂)、ブルンディ・ルワンダ(“民族”間の対立)等、国民的統合(ナショナル・インテグレーション)の進行どころか、国民解体(ナショナル・ディスインテグレーション)的な現象が多く見られています。

 そんななかで、タンザニアという国家はネーション・ビルディングにかなり成功した国ともいえるでしょう。これが3年間、トングゥエたちとつきあっても私の実感です。先にも触れたように100を超える民族から構成されるとされ、ザンジバル島のオマーン系スルタン政権を除けば、19世紀のドイツによる植民地化前に統一された政治勢力はなかったタンザニアで、1961年の独立後、1963年のザンジバルとの統合を経て、スワヒリ文化という複数の文化がまじりあった文化が普及していたことも手伝い、国家的アイデンティティの醸成に成功している1例ともいえます。それは、かつて欧米の手で“分けられていた”人たちが、自らの手で一つのアイデンティティによってまとまろうとする運動でもあるのです。

19世紀での国家の誕生と消滅 Part2:テキサスおよびハワイ前篇

2020 10/21 総合政策学部の皆さんへ 19世紀での国家の誕生と消滅Part 1では東南アジアでイギリス帝国主義と現地政権との緩衝地帯に、仇花のように咲いたサラワク王国とその白人王をとりあげましたが、次はテキサス共和国、そしてハワイ王国・ハワイ共和国です。

 前者は1836~1845年、後者は1795~1893年(王国)・1893~1898年(共和国)、サラワク王国の104年余と比べてもさらに短命です。そして、いずれのケースも最終的にアメリカ合衆国に併合される道をたどります。この二つの事象をはさんで起きたことの一つは、言うまでもなく幕末・明治を経ての日本の開国なのですが、民族や国家の独立をいともたやすくもてあそぶ時代でもあった、ということだけは覚えておいた方がよいでしょう(そして、こうした“列強”に最後に追いすがろうとした日本が、その時刷り込まれた19世紀的精神のままに20世紀に入っていったことも)。

 ちなみに、安政三年(1856年)初代アメリカ駐日総領事として赴任したタウンゼント・ハリスは、老中堀田正睦を前に「二時間に及ぶ大演説をおこなった」ということですが、勘定奉行たちはその内容を二日間で精査して、「ハリスが、「合衆国の政府においては、地方に所領を得そうろう義は、禁じ」とアメリカは非侵略国であると唱えた箇条について、1848年と54年の「オランダ別段風説書」で検討し、メキシコ戦争でアメリカが「カルホルニー(カリフォルニア)を掠取る」したこと、その後、賠償金のかわりに「メシルラタル(ニューメキシコ)と申す地を取」った事実から、アメリカ非侵略国論を否定している」とのこと(井上勝生『日本の歴史18 開国と幕末変革』)。私が子供の頃は、幕府の官僚たちはひたすら無能で、外国からの圧力にそのまま押されていったというイメージで語られていたわけですが、彼らはそれなりに必死の対応を展開していたようです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さて、テキサス共和国ですが、ここはもともとメキシコ合衆国コアウイラ・イ・テハス州に属する土地でした。メキシコ独立前はスペイン領ですから、本来はアメリカの土地ではない(それどころか、本来は先住民=ネィティブ・アメリカンのとちのはずなのですが)。

 この地をめぐる争いは、結局、上記の幕府勘定奉行たちの考察に出てくるように、メキシコ戦争を引き起こし、スペインからの独立を果たしたばかりのメキシコ共和国から広大な土地を奪うきっかけになるのです。そのざっとした歴史的経緯は以下の通りです。

(1)もともとはアパッチ、アタカパ等の先住民が居住

(2)1685年、フランス貴族のラ・サールが植民地建設を意図するも失敗(しかし、以後も植民地の権利を主張)

(3)1690年、スペイン人によるテキサス入植開始。1821年までスペイン領テキサスとして統治。当時はメキシコ、カリフォルニア等を含め、ヌエバ・エスパーニャ副王領とし、1819年にアダムズ=オニス条約でアメリカ合衆国と国境確定。

(4)1821年のメキシコ独立革命によるメキシコの独立でメキシコ領テキサスとなる。

(5)1823年、過疎地テキサス発展を名目に、スティーブン・オースティンがメキシコ政府と交渉、米国から300名の家族を合法的に移住(これがテクシャン/テキサンと呼ばれる)。なお、その前後はメキシコ共和国のコアウイラ・イ・テハス州とされていた。

(6)不法入国者も含めてアメリカ人人口は急増、1830年には奴隷を含む25000人以上のアメリカ人が入植、メキシコ人は4000人程度。同年、アメリカ人の移民禁止令を出すが、ほとんど無意味であった。一方、奴隷制度について廃止したメキシコ共和国側とテキサンが対立。

(7)1835年6月にテキサンが武力蜂起、10月にメキシコからの分離宣言。アラモ砦の戦いではメキシコ側が勝利するが、サンジャシントの戦いで敗北、最高権力者のサンタアナが捕虜となり、1836年5月14日にベラスコ条約によりテキサス共和国独立。

(8)1845年、テキサス共和国は自発的にアメリカ合衆国へ加盟、28番目の州としてテキサス州となる。この間、国外とはメキシコとの関係、合衆国内では奴隷制の是非による南北対立(1861年に南北戦争が勃発)等で、複雑な経緯をたどりますが、7月にテキサス共和国議会が米国との合併を承認します。

(9)その結果、今度はアメリカ合衆国とメキシコ共和国の戦争(米墨戦争)が勃発。1848年2月2日調印されたグアダルーペ・イダルゴ条約では、アメリカ合衆国はカリフォルニア、ネバダ、ユタと、アリゾナ、ニューメキシコ、ワイオミング、コロラドを確保する代わりに(メキシコは国土の 1/3 を失う)、1825万ドルをメキシコ側に支払い、ここに(皆さんご存じのトランプ君が壁を建設しようとしている)国境がほぼ確定します。

 この一連の流れを観ていると、まったくなんということか、と慨嘆するほかありません。オースティンが“合法的”にメキシコ領テキサスに入植してからわずか25年後に、アメリカは広大な土地を手中におさめ、かつ、そこから金(いわゆるゴールドラッシュが1849年)と石油(テキサスのスピンドル油田が1901年)を見つけることになるのです。

 テキサス共和国はこうしてたった10年ほどの歴史を終えますが、結果的にせよ、アメリカ合衆国の野望の先兵・手段ともいうべき存在として機能したのかもしれません。これでは堀田正睦以下の幕閣、勘定奉行も用心するのは当たり前のことです。しかも、アメリカはさらにその“魔手”を広げます。それが“ハワイ併合”です。というところで十分長くなってしまいましたので、あとは後篇に託したいと思います。

分けることと名を付けることPart3:ボーダー/カテゴリーの分け方:3つの例

2020 9/7 総合政策学部の皆さんへ

 本来はアナログ的かもしれない変化/変異を、カテゴリーというデジタル的な枠で読み替え、そのカテゴリーに命名して、ラベル付けすることで社会的な枠に組み入れてしまう。近代社会は、こうした作業を組織的にそして大規模におこなってきました。それでは、その実態をいくつか見分してみましょう。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 一つは、“人種”です。“人種”や“民族”という言葉をよく目にするものの、結論から言ってしまえば、純粋な“人種”も“民族”も存在しません。どちらも“統計的”な概念に過ぎないのです。それでは、これまで述べてきた“分類学的手法”が、“人種”にも適用可能なのか、見てみましょう。

 例えば、“ジプシー”の研究者であるA・フレーザー(2002)によれば、この“民族”は長年の間に混血を繰り返して、単一の遺伝的集団とは認めがたいとします。あたりまえのことですが、人間の集団は静的な存在ではありません。人々が移動する、そして様々な人と通婚するという事実によって、ヨーロッパ人があらわれる以前のオーストラリア先住民の人たちのように、地理的条件によって数万年間他の人々と隔離されでもしない限り、“純粋の人種”はもはやほとんど存在しません。

 ちなみに、ジプシーという呼称はいわゆる“他称”で、語源は「エジプトからやって来た人」という意味の「エジプシャン」に由来するとのこと(フランス語ではジタン)。一方で、自称は多岐にわたり、最近はわりに知られている「ロマ」のほか、「シンティ(ジンティ)」や「トラヴェラーズ」など。ちなみに、アイルランドに住む漂白民で広義の“ジプシー”に含まれる人たちは“Irish Travellers”と呼ばれています。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 またこんなことも言えるかもしれません。例えば、日本とボルトガルという大陸の東西の端にいる2集団をじかに比べてみれば、外貌も異なり、両者をデジタル的に分ける遺伝的指標も存在することでしょう。

 しかし、視点をさらに広げれば、両国の間に例えば日本からは朝鮮半島、中国東北部、モンゴルと地域を順に並べていくと、遺伝的な差異がアナログ的に移行していくことも容易に想像がつきます。この緩やかな変異のどこにボーダーを引けば、よく使われる“モンゴロイド(黄色人種)”と“コーカソイド(白色人種)”が区分できるのでしょうか?

 もちろん、こうした味もそっけもない言い方は、客観性を旨とする自然科学の視点に過ぎません。たぶん一番肝心なのは、ほんのわずかな差異であっても見つけて、誇張し、自他の差を広げよう(=ボーダーをひこう)とする我々の性癖=主観性なのかもしれません。つまり、自他をどこで区別しよう、と自分の心の中できめているのか、です。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 もう一つは“”です。

 上記のように、近年まで、人種や民族という言葉がほとんど疑いも持たずに使われてきたように、ヒトの“性”は“男性”と“女性”にデジタル的に二分されるのがふつうでした。しかしながら、統計的には少数派であろうとも、“性”に様々な形態があること、あるいは人によって“性”が持つ意味がそれぞれ違うかもしれないことが、最近、“性同一性障害”や“ゲイ・カルチャー”等によって明らかにされてきます。

 なお、性の多様性には幾重もの階層性がひそみます。例えば、遺伝的な多様性。哺乳類では性染色体の存在によって、オス・男性vs.メス・女性とデジタル的に分かれれるはずなのに、染色体の変異が存在します。例えば、XXY、XXXY、XXXXY型(クラインフェルター症候群、クラインフェルター男性)など、X染色体が過剰なケース。あるいはXYY、XYYY、XYYYY型(超雄;スーパー男性)のように、Y染色体が過剰なタイプ。XX型男性:性染色体はXX型ながら、変異したY染色体の一部が他の染色体に結合、SRY遺伝子が働いている。発生率は数十万~数百万人に1人と見積もられている。外性器はほぼ男性であるが、尿道下裂が見られることもある。生殖能力はない。思春期には女性としての二次性徴をすることもある。性ホルモン投与により男性化を促さなければ、次第に女性化していく。XO型(ターナー症候群、ターナー女性):X染色体を1つだけ持ち、発現形質は女性など。これらの症状を“疾患”と考えれば、“性分化疾患”という名称が使われます。

 一方で、器質的な原因がなくとも自らの生物学的性に同一視できない“性同一性障害”もあります。すなわち「性同一性(心の性)と身体的性別(身体の性、解剖学的性別)が一致しない状態」です。そしてさらに同性愛の人たちもおられれば、異性装の人もいる。

 このように、一般的な生物学の教科書ではきわめてデジタル的に、遺伝的性質というボーダーで決定されるかのように見える“性”でさえ、やはり多様な性のあり方が存在しています。その多くが、しかし、きわめて近年まで抑圧されてきたわけです。

 近代社会における問題は、こうした現象をありのまま受け入れるか? それとも己の価値観にそってそこにボーダーを引いて、ある種の存在を社会から排除しようとするか? ということにほかなりません。そして、性以外の問題についても、ヒトはなぜ自らと違う者、あいまいな者、見知らぬ者に対してボーダーを引き、排除しようとするのか? その点に関する基本的な疑問が残ってしまうのです。

一方で、ヒト以外の生物では、性はあまりにも多様です。花を例にとると、①一つの花におしべとめしべを持つ両性花を咲かせる種もいれば、②同じ個体に雄花と雌花を咲かせる種もあり、③雌花だけが咲く雌株と雄花だけが咲く雄株が存在する種や、④一生の間に無性、雄性、雌性の間を性転換する種さえ認められます。動物でも、①雌雄同体の種(カタツムリ、ミミズ等)もいれば、②遺伝的に雌雄が決定されている種や③非遺伝的要因(孵卵時の気温)で性が決定されている種(ミシッシピーワニ等)、さらには④性転換する種等が存在します。さらに“性”抜きに増殖する生物も珍しいものではありません。クローン家畜の肉を食べることに怖気をふるう人でも、遺伝的に結実能力を失って挿し芽で増えるバナナを、それがクローンであるからという理由で手をつけない者はいないでしょう。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 次にとりあげるのは、健康病気の境です。

 世界保健機構(WHO)憲章前文では「たんに病気や虚弱ではないということだけではなく、身体的・精神的・社会的に完全に具合のいい状態」とされています。とすれば、例えば、“老い”は病でしょうか? こうした簡単な問いでも、よく考えるとやはりグレーゾーンが存在していることに気づきます。

 さらに、ある種の病気は社会的な烙印をおされます。古くはハンセン氏病が、最近ではエイズもまたそうです。生物学的にはたんにある症状をさすだけなのに、そこに社会的な意味が付与され、ラベル付けされます。そしてそれが人々の幸、不幸を決めていくことも十分にかんがえらえrます。

 さて、自然科学の立場からみれば、分類とは“真実”を理解するために立てられた仮説に過ぎません。そこでは当然、“作業仮説”で掬いあげられない“ごみ箱”行きのものもあるし、いったん定まったかのように見えた分類もあっけなく否定されたりします。つまり、新しい事実がわかればどんどん更新されていくべきものに過ぎません。一方で、我々の社会に現実に進行したものはどうでしょう、むしろ、逆だったかもしれません。

 人種、民族、国家、宗教、それぞれのレベルで、ボーダーは仮説ではなく“現実”と見なされ、その“現実”で烙印をおされた(ラベリングされた)者たちが次々に“分類”されていきます。そうした“ボーダー”が果てしもなく“負のフィードバック” をもたらしているのです。

19世紀での国家の誕生と消滅Part1:サラワク王国篇

2020 7/28 総合政策学部の皆さんへ 「国家とは何か?」を考えるシリーズとして、今回とりあげるのは19世紀に“よどみに浮かぶうたかた”のようにあらわれては“かつ消えかつ結”んでいった様々な“国家”のことをとりあげたいと思います。そのまま首尾よく国家にまで残ったものもあれば、はかなくも消滅したものもあり、あるいは最初から何らかの思惑で仮の姿をとどめただけのものもある。もちろん、うっかりすれば、黒船来航以来の政治的混乱をうまく乗り切れなければ、日本でさえも生き残れなかったかもしれません。

 一方で、19世紀は帝国主義の時代でもありました。この“帝国”とは何でしょう? 日本語の字義通りでは「皇帝が支配している国家」ということになりますが、もちろん、そんな単純なものではなく、様々な含意が込められています。Wikipediaでは「複数の地域や民族に対して君臨し、大規模で歴史にも残る国家のこと。ラテン語のインペリウムに由来し、政体や国号は問わない」と定義されています。これらの帝国を支える“帝国主義”が跋扈するなか、これらのうたかたのような小国家はどのようにふるまったのか? これがテーマになるかもしれません。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 たとえば、ルネサンス期、現在イタリアと呼ばれている地域はいくつかの政治的権力によって分割されていましたが、その中には権力者の個人的な才覚による覇権あるいは軍閥的な政治主体が含まれます。とくにコンドッティエーレ(傭兵隊長)と総称された一群の雇われ軍人は、自らが率いるPrivate Violence Company (現代のPMCこと民間軍事企業)をうまく使って、政治的権威を掴むことができるのか?

 歴史作家塩野七生の傑作『ルネサンスの女たち』では、このあたりを「14世紀の後半、イタリアでは傭兵隊長、野武士の頭、地方の豪族が、その出生など関係もなく力を発揮し、それによって国家を形成しつつあった。はじめはアルプスの北から来た外国人が、そしてすぐ続いてイタリア人が、彼らにとってかわった。この時代はどんなものにも、富と権力の無限の可能性が、その眼前に開かれていたのである」と述べています。

 しかし、そうした状況もやがって変わります。「15世紀後半のイタリアは、ようやく列強の間で均衡が成り立ち始め、もうお新しい傭兵隊長国家の発生を、そう簡単には許さない状態になっていった。その中で、ムッツォの息子フランチェスコ・スフォルツァ一人が、幸運と彼自身の才能を慎重に使い、ミラノ公国を手に」入れます。

 “幸運”と“才能”、ごぞんじマキャヴェッリも重視していますが、彼の主著の一つ『君主論』では、第7章「他人の武力を借りて、または僥倖によって得た新主権について」で、「実力によって、あるいは幸運によって君主になった者」として、このフランチェスコ・スフォルアとチェーザレ・ボルジアの二人をあげています。この点、『君主論』はまさに個人がいかにして国家と言う政治権力を打ち立て、かつそれを維持するかというマニュアル本なのです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 こうして古くは11世紀にはノルマン人ロベルト・イル・グイスカルドルッジェーロ1世シチリア王国等が打ち立てられますが、やがてルネサンス期を過ぎ、大航海時代ともなると“征服者”たちは“帝国”の手先として活躍するものの、自らの王国を打ち立てようとする者はあまり目立たなくなるようになったかのようです。

 そんななか、何名かの者が“自らの王国”を確立しようとします。その一人はムハンマッド・アリアルバニア系とも、トルコ系とも、イラン系とも、クルド系とも言われる彼は(要するに、出身民族でさえ定かならない)、オスマン帝国からアルバニア人非正規部隊の指揮官としてエジプトに派遣され、やがて彼のディスティニーに目覚めます。それはPart3でゆっくり触れましょう。

 アリーが自らの権威獲得をめざしてエジプトの宗教指導者(ウラマー)からエジプト総督への推挙を受けたのが19世紀にはいったばかりの1805年ですが、その34年後、イギリス人の冒険家ジェームズ・ブルックが現マレーシアのサラワクに上陸します。1803年生まれですから、30代になったばかりの頃です。

 その頃、ブルネイ(現在のブルネイ・ダルサラーム国)のスルタンは相次ぐ反乱に手をやき、ブルックに鎮圧を依頼、ブルックは英国海峡植民地政庁の後ろ盾を得てこれを鎮圧、「褒賞としてサラワクが割譲され、ラージャ(藩王)に任じられた。ブルックは“白人王 (White Raja)”の称号を与えられ、ここにサラワク王国が建国」されるにいたります(Wikipedia)。

 “白人王”! ここでイギリス文学に詳しい方、あるは映画に詳しい方、さらには俳優ショーン・コネリーのファンならば、イギリス帝国主義時代を代表する小説家・伝道者のキップリング原作『王になろうとした男』ならびにその映画版を思い出すかもしれません。ちなみに映画化は1975年、生涯をかけて「男の野望とその挫折」をテーマとしてきた監督のジョン・ヒューストンが長年あたためてきた企画で、最初はハンフリー・ボガード等の起用を考えていたとのことです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 こうした「イギリスでは帝国主義を体現する代表的な人物」とされるブルックはなんと王様になってしまうのですが、しかもこの地位は世襲のため(ルネサンス期、イタリアで成立した様々な王朝はいずれも“世襲”の地位確保に心を砕きます)、2代目に甥のチャールズ・ブルックを指名、1917年には3代 ヴァイナー・ブルックが地位を引き継ぎます。この間、1941年に「建国100周年を記念して憲法が制定され、立憲君主国」になりました(Wikipedia)。

 なお、「歴代の白人王は「文化が進んだ少数のヨーロッパ人のために、先住民の利益を犠牲にしてはならない」として、外国資本による搾取から先住民を保護していた。そのため、サラワク王国では、国是として外国資本の投資や開発を原則禁止していた」とのことです(Wikipedia)。

 こうした経緯を調べると、サラワク王国はルネサンス型的な色彩も漂いますが、本質的にはイギリス帝国主義の政策の一環として、シンガポール・マレー半島を中心とした植民地支配とブルネイのスルターンの間の緩衝地帯としての役割を期待され、かつ果たしたと言えるかもしれません。しかし、20世紀にはいると、その運命は暗転します。

 そのブルネイで石油が発見されるのが1929年、本格的な採掘が1932年、しかし、これは第2次世界大戦まじかの日本の関心をひきつけます。その結果、サラワク王国は1941年~45年にかけて日本軍の軍政下におかれてしまいます。ちなみに、1944年に起きたレイテ沖海戦では一部の艦隊がブルネイから出撃しています。

 大戦中はシドニーですごした第3第王ヴァイナー・ブルックは戦後の1946年7月王位辞退をよぎなくされ、イギリス政府はサラワク州を王冠植民地として接収、1963年、マラヤ、サバ、シンガポールとともにマレーシア連邦(シンガポールは数年後に離脱)としてイギリスから独立することになり、この19世紀に誕生した“白人王国”は消滅します。

分けることと名を付けることPart1:アンシクロペディストたちの夢

2020 7/19  総合政策学部の皆さんへ 唐突に“アンシクロベディスト”などと言いだしても、皆さんに通じるかどうか? これは「百科全書派」と訳され、18世紀、フランスの啓蒙思想家ディドロダランベール等のもとに編集した百科全書(1751~72年刊行)に携わった一連の思想家たちを指すフランス語です。

 ちなみに私は高校の世界史等で教わったおり、「なぜ百科事典の編集者たちが教科書にのるほど“偉い”のか?」と疑問がわいたのを覚えていますが、これはもちろん当時の私の知識不足・知的能力の足りなさゆえです。以下にのべるように、実際には近代思想上の一大転換点だったのですが、それでは何がこの“転換”のキモだったのでしょう?

 その基本は「知識を握った者が権力/権威を握る」という点にありました。さらに筆を進めれば、その知識の基盤とは 「事物を認識することであり、事物を識別、分類して、そこに名前を付ける」ことです。こうして“知識人”は事実を命名することで物事を整理・理解することで知的権威=権力を握るわけです。今日、多くの国家が大学をはじめとする教育・研究機関を擁し、そこに蝟集する“研究者”、“知識人”を集めることを自らの“権威付け”の一環としていることでも明らかでしょう。

 ちなみにフランス王フランソワ一世によってコレージュ・ド・フランス(設立当時はコレージュ・ロワイヤル;Collège Royal、王立教授団)が設立されるのが1530年、さらに1635年にアカデミー・フランセーズが始まります。一方、イギリスでは1660年に王立学会が開設されます。このあたりから、“知識人”は知識によって知的権力を目指し始めるのです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 レヴィ=ストロース(1976)によれば、身の回りの事物を選り分け、命名しようとする欲望はどんな“未開人”にも共有されています。アフリカの熱帯雨林に生きる狩猟採集民ムブティ・ピグミーの老人でも、アルゼンチンの小説家ボルヘスが想像する中国の百科事典でも変わりません。

 しかし、なんと言っても特筆すべき試みは、すべてを分類・系統付けようとするアンシクロペディストたちの夢でした。17世紀、近世フランスにおいて既存の権威(王、貴族、そして教会)に対して、無視し得ぬ力となっていた知識人たちは「知識は力であることを悟り、知識の世界を測量してその征服に乗り出した」というのがダーントン著『猫の大虐殺』での主張です。

 ダーントンによれば、アンシクロベディストの最終的な戦略目標は「知識にはっきりとした形をあたえて、それを聖職者の顕現化から奪って、啓蒙主義にかかわる知識人の手に」委ねることでした。今日、近代科学が世界にかかわるすべての認識を支配していますが、そのはじめの一歩は「既知と未知の間に」「世界地図を書いて世界の征服を企て」たディドロやダランベールたちの試みにほかならないのです。

 さらに付け加えれば、“命名”には“標準化”が好ましい。こうして化学の世界では元素記号等が、生物学ではC・リンネが始めた“学名”等が普及します。現在のビジネスでも、結局、デファクトスタンダードを握ることで他者を征していくのです。

 もちろん、こうした知識人からの支配を嫌う者、あるいは自分の邪悪な欲望のためにそれを利用することしか考えない者もいます(それゆえ、20世紀以降、世界は科学と支配者の相克の時代にもなりました)。その筆頭はインテリを“粛清”し、ルイセンコ等の御用学者を重用したスターリン、あるいは疑似科学的にアーリア民族の優秀性を唱えたヒトラー、そしてコロナウィルス蔓延の状況にほとんど対応できない政治家たちがあげられるでしょう。彼らは生態学者エド・リケッツが気づいたように“みんな真実を憎んでいる”のです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 その一方で、アンシクロペディストにとって思いもよらぬ悪夢でしょうが、世界を系統づけようとする試みは、一方で、あからさまでかつ無自覚な差別を生み出してきた側面がないわけではありません。

 まずあげられるのは、“標準化されていないもの(物と者)”への軽蔑である。命名・分類された近代科学が賞揚される一方で、いかにも不確かであいまいな民族科学は蔑まれる。人類学者たちが“野生の思考(レヴィ=ストロース、1976)”を称揚したとしても、たいていは近代科学による“再発見/再評価”を必要です。

 さらに、こちらの方が重大でしょうが、自分たちが創り出した体系から“はみ出してしまう”グレーゾーンへの嫌悪と無視が首をもたげます。こうした構図のもとに、東アフリカのインド系住民、東南アジアの中国系住民、ヨーロッパの“ユダヤ人”や“ジプシー”等の周縁的な人々はしばしば追放、虐殺されてきました。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さて、ディドロたちが充分意識していたように、近代科学での分類は単純な“分別”ではありません。「全体を共通性でおおきく分け、分けたものをさらにまた共通性に従って細分し、これ以上分けることのできない個体の一つ手前まで順次分けていって段階付け、体系化することをいう」ことをいいます。

 もちろん、これはたやすいことではありません。ディドロ自身もすでに百科全書の『趣意書』で、「むつかしいのはその形式と構成である。多量の素材を(略)まとまった一つの全体に仕立て上げなければならない」と記しています(ダーントン、1986)。このような努力のはてに、彼らは人間知識を一つの「知識の系統樹」にまとめ上げたのです。

 この“系統”に系統に時間軸を意識する時、そこにいやおうなく“進化”の概念が顔をのぞかせます。進化は、生物に限った現象ではありません。太陽系でも、社会でも、さらには特定の商品でも、一方向への時間の流れの中で不可逆的な変化が進むのはどこでも起こりうることです。

 その一方で、ここでもまた近代に固有の問題が首をもたげます。それは進化のイメージが“偏見”という新たな要素を付け加えがちなことです。たとえば、“遅れている”とラベル付けされた者たちは、そのラベル自体が評価となります。こうした考え方の典型が“社会ダーウィニズム”にほかなりませんが、そこでは確たる保証もなしに“進歩”、“進化”、“発展”等に好意的な価値観をふりまかれます。

 ディドロ自身は、1772年に著した『ブーガンヴィル航海記補遺』でこうした構造に対して、“高貴な野蛮人”というアンチ・テーゼを唱えているが知られています。それ以来、よーろぱ文明では“未開”について“高貴さ”と“野蛮”の二つの印象のなかを揺れ動いていきました。この点、もっとも皮肉が効いた論評はおそらく、レヴィ=ストロース(1976)の“熱い社会”と“冷たい社会”でしょう。後者の社会ではそもそも“熱い社会”の成立を避けるため、人々の間に境=ボーダーを築く企てを放棄してきたというのです。

 その一方で、ヨーロッパという“熱い社会”は大航海時代以降、パワーと“デファクトスタンダード”で“冷たい社会”を飲み込んできました。その過程こそが、ウォーラーステインの言う“世界システム”かもしれません。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 現在、命名と分類はディドロたちの思惑を乗り越え、我々の認識の世界を完全に支配するにいたりました。ダーントンが指摘するように、つまるところ、命名とラベル付けは“力の行使”にほかなりません。つまり、命名は権力の行使なのです。

 ジャーナリストの本多勝一(1967)はカナダ・エスキモーが住む地で、英語で書かれた地図を開いた時にそれに気づきます。「地図を頼りに歩くうち、私はだんだん腹がたってきた。・・・すぐ南に“ケイプ・ジャーメン”という岬がある。・・・ところが、かれらにはケイプ・ジャーメンがわからない。よくよくきいてみると、ここは“アナンギアクジュ”だという。・・・・エスキモーはエスキモーで、先祖伝来の地名を使っているのだ。従って、かれらのいう場所を地図でさがしても、絶対にわからない。・・・たとえば日本を占領した外国が、京都をニューロンドンに」したようなものです。もちろん、これは他人事ではありません。この文章はさらに「シンガポールの昭南島、チョモルンマのエベレストもこれに類する。現地人を人間と見ていないのである」と続く。

 人類学でとくに採りあげられる問題は“自称”と“他称”です。上記本多の文章では“エスキモー”という名称が使われていますが、これは「生肉を食う連中」という意味のネイティブ・アメリカン(これも他称の“インディアン”を避ける中立的な呼称)からの蔑称まがいの他称です。“エスキモー”自身の自称は“イヌック”で、現在では“イヌイット”と言い換えるのがふつうとされています。もっとも、本田はこれは承知の上で、彼ら自身が平気で「エスキモー」と使うので、この名称を用いたと断っています。

 同じように、南部アフリカに“Bush man”と呼ばれる人たちがいます。「藪の人」といういかにも蔑称的な名称の語源は、さらに「山賊/盗賊を意味するBossiesman」だったとの説もあるそそうです(また、ジェンダー論的にも“man”にも問題があります。とはいえ、ブッシュパーソンとすれば解決するような問題でもないでしょう)。

 したがって、1970年代頃から、蔑称を避けるべく“San”と呼ばれるようになった。ところが、この“San”も自称ではないことが明らかになってきました。この言葉は、隣接する民族“コイコイ”(この人たちもふつうは白人からの他称“ホッテントット”で知られています)からの他称であり、しかも差別的ニュアンスの可能性があるというのです。その一方で、10以上の言語集団に分かれているBush man全体に当てはまる自称は存在しません(たとえば、グイ、ガナなどの集団が存在する)。したがって、植民地主義の歴史をむしろ鮮明にするためにも、彼らの総称をあえて“Bush man”とするという立場も出てきているという意見もまた盛んになっています。

 このように、こうした問題は終わりがありませんが、いずれにしても自分自身の言動と認識が絶えず問われている、ことだけは忘れてはなりません、ということでto be continuedとします。

相続とキャリア2:行き場のない次男、三男の出世ルートとしての官僚・軍人

2020 6/7 総合政策学部の皆さんへ

 先回の「相続とキャリア1」では、「かつて職業選択の自由もなかった頃、長子相続が確立した王族・貴族社会では、家業の相続について長男一人のみが家業(つまり、王位なり爵位)につき、相続から外れた“弟たち”をどこかの修道院等に“デポジット”して、万一長男が死んだ際のバックアップを期待することがあったという話」をしました。しかし、乱世あるいは巨大な王権が出現した際、彼らを積極的に拾い上げることで権力を増強する人間も現れます。

 その一人こそ皆さんご存じの織田信長です。中学校教諭を務めながら信長の研究をすすめた谷口克広氏の著書『信長の親衛隊』(1998;組織・人事論としてお薦めかもしれません)には、永禄12年(1569)に山科言継が岐阜を訪れた際の信長の家臣を連枝衆(織田信広ら;兄弟・親族ら=頼りになるかもしれないが、裏切って「取って代わる」ことになるかもしれない存在)、家老(林秀貞[のちの天正8年(1580)、かつて信長の弟信行擁立をはかって謀反をおこなった24年も前の過去の罪を問われて追放)、武将(譜代衆:丹羽長秀、木下藤吉郎)、武将(外様集、佐藤紀伊守、水野信元[家康の伯父、天正3年内通の疑いで信長の命をうけた家康によって殺害)、そして近臣の5グループに分けています。

 この近臣はさらに文臣的官僚としての武井夕庵松井友閑のグループと、武官としての馬廻(うままわり;弓衆も含める)に分けられます。

 ところで、馬廻とは「騎馬の武士で、大将の馬の周囲に付き添って護衛や伝令及び決戦兵力として用いられた武家の職制のひとつ。平時にも大名の護衛となり、事務の取次ぎなど大名の側近として吏僚的な職務を果たすこともあった。武芸に秀でたものが集められたエリートであり、親衛隊的な存在」(Wikipedia)ですが、谷口によればこのなかから「国持ち大名への出世」を遂げたものの中には、一群の小姓衆がおり、その筆頭たる前田利家にみるように「尾張の土豪クラスの出身者が多いと思われるが、(中略)いずれも家の跡取り息子ではなく二男以下で、生家を離れて直接信長に仕官したものであった」と指摘します。

 つまり、既存の長子相続制度ではあぶれてしまう“スペア”の男たちの中から優秀者を見出し、育成し、自らの親衛隊を形成させて(=専門軍人化)、領地(農業)から分離しきれていない旧来の土豪層を圧倒していくという組織論になります。この間に信長の近習=親衛隊はいつしかPrivate Military Company(PMC)からPublic Military Company(=御公儀)への成長とも言えるでしょう。

 と、ここまで書いたところでしばらく放置しておいたら、NHKの大河ドラマ『麒麟がくる』では信長自らがが道三に説明していたようです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 一方、ヨーロッパではどうか? 作家佐藤賢一氏が『ダルタニヤンの生涯』で生き生きと描くフランスの軍人シャルル・ド・バツ=カステルモール(Charles de Batz-Castelmore)ことダルタニャンが好例かもしれません。

 デュマの傑作『三銃士』で世界に知られるダルタニャンですが、もともとはフランス南西部の「しがない小貴族」の家で、「1615年ごろ、ガスコーニュで誕生する。次男だったとも、四男とも言われるが、いずれにせよ長男ではなく、家督の相続権もないため1630年頃、10代半ばでパリに上京した。1633年時点の銃士隊の閲兵記録に名前があり、この頃から銃士として活動していたと見られる」(Wikipedia)。

 このあたりは、前田利家の「尾張国海東郡荒子村の荒子城主前田利春の四男。はじめ小姓として14歳のころに織田信長に仕え、青年時代は赤母衣衆として従軍し、槍の名手であったため「槍の又左」の異名を持った。その後柴田勝家の与力として、北陸方面部隊の一員として各地を転戦し、能登一国23万石を拝領し大名となる」と重なってくるではありません。

 違いとしては、利家が地方の地方の有力者であった信長に直接リクルートされたのに対して、ダルタニャンは故郷を遠く離れて、絶対王政確立期のフランスの中心地パリで直接絶対的権力者(最初はマザラン、つぎにルイ14世)直属の近衛隊に入隊したことぐらいですが、佐藤氏によればこの入隊は、すでに銃士隊に地位を占めていたガスコーニュ出身者の先輩を頼った「縁故入隊」であるとのことですから、そんなに違わないかもしれません。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 時代は流れて19世紀、1717年にドイツ・ブレーメンからイギリスに渡ったジョン・ベアリング(1697-1748)は様々なビジネスで成功、資産家ベアリング家を形成します(1995年に倒産して233年の歴史をとげたベアリングス銀行はジョンの息子フランシス・ベアリングが創業したものです)。

 1841年、そのベアリング家の一員、銀行家・政治家ヘンリー・ベアリングの8男にイブリン・ベアリング(1841~1917)が誕生します。しかし、8男! 彼は家業に携わらず、軍人を志して王立陸軍士官学校卒業後、王立砲兵隊に属しますが、38歳で除隊、今度は植民地行政家に返信します。そして、「インドで卓越した行政手腕を発揮したが、同時にその支配欲の強さから”overbearing”(横暴の意)と渾名されます」[Wikipedia]。お気づきでしょうが、Overbearingと姓のBearingとbearingのもう一つの意味=忍耐を掛けています。

 彼が最大の手腕を発揮したのは1876~80、1883~1907年に及ぶエジプトの植民地化の過程で、この間、1876年のエジプト副王イスマイール・パシャの財政破綻に端を発した財政の掌握に始まり、英国エジプト総領事としてのエジプトを牛耳り、財政改革・税制改革・農業振興によって(イギリスにとっての)黒字化を達成しますが、「エジプト人を対等の人間として扱わなかった」(アリ・バラカート教授)、「英国にとって利益となる農業振興のみを重視し、工業化を阻害し、教育などを軽視した」(アファフ・ルトフィ・アッ・サイエッド・マルソー教授)」(Wikipeida)として、非難されます。

 それにしてもペアリング家の末裔の8男から軍人・植民地官僚として出世をきわめ、1892年にクローマー男爵、1899年にクローマー子爵、1901年にクローマー伯爵に叙爵されて貴族院議員に列する人生、前田利家・ダルタニャンの近代版とも言えるかもしれません。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...

月別記事