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単位について;インチ、フィート、ヤード、ポンド、そして口径#1

2014 1/15 総合政策学部の皆さんへ

 以前、講義で「1マイルって何キロ?」と尋ねると、どなたも答えられませんでした。「それでは、アメリカでは運転できないぜ!」というところですが(「飛行機の操縦もできないぜ!」とも言えます)、皆さんはご存じですよね、1インチが25.4mmで、そのインチが12集まると1フィート(304.8mm)、そのフィートが3つで1ヤード(914.4mm)、そのヤードが1760集まると1マイルです(1,609.344m)。

 このヤード・ポンド法の基本であるフィートは本来「足の長さ」で、つまりは人の身体の一部が基準の身体法です。そのため、日本で古来から使われてきた尺貫法と同じく、捨てがたいところがあるわけです(地球の円周から機械的に計算されたメートル法とは、基本的になじむ訳がない)。ところで、日本での“尺”は「曲尺の1尺は日本語で言う1歩分(片足を前に踏み出した長さ)」(Wikipedia)とのこと、303.03mmなので1フィートとほぼ同じです。感覚的にはこのあたりがなじみやすいスケールなのかもしれません。

 日本人にとって、「六尺あまりの大男(身長180cm)」、あるいは「今までは人並みなりと思ひしに、五尺に足りぬ、四尺(ししゃく、と読んで、子爵にかける)なりとは!」という勝海舟の狂歌に思いが及ぶところです(勝自身は五尺=身長150cm)ぐらいだったとのこと)。

 もっとも、日本の法律ではヤード・ポンド法は例外規定をのぞいて、使用禁止です。それではその例外というと、Wikipediaによると、
(1)輸出されるべき計量器(計量法9条2項)
(2)航空機の運航に関する取引・証明(計量法附則5条2項1号)
(3)ヤードポンド法で表記されて輸入された商品の取引・証明(計量法附則5条2項2号)
(4)日本国内の合衆国軍隊・国際連合軍隊に属する者が用いる場合(計量単位令6条1項2号)
(5)自衛隊が武器の一部として使用する計量器(計量単位令12条1号ロ)
 となります。
 

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 先に触れた例外規定をみると、要点が三つあることはわかりますね。まず、輸出入(具体的には対アメリカでは、デファクト・スタンダードであるヤード・ポンド法にしないと、売れない。当然、トヨタやホンダ等の自動車もそのはずです)、次に同じデファクト・スタンダードとして航空機に使われるスケール(エアバス登場まで、大型旅客機はアメリカ製が独占状態でした)、そして軍事関係です。

 もちろん、このほかにも、たとえメートル法で表示されているとは言え、実質、ヤード・ポンド法が支配している世界もあります。例えば、PCのディスプレーのサイズ、14型というのは対角線の長さが14インチということです。あるいは、バターの重さ、業務用サイズは450グラムか225グラムだったりしますが、なぜ500グラムでないのか? あれはおそらくポンド(正確には453.59グラム)に由来するのでしょう。子どもの頃、不思議に思ったことでした。

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 ということで、軍事物質の多くが、大生産国・消費国であったアメリカ・イギリスの基準により、決められるわけで、この点、メートル法というフランス革命の一大遺産をかかえたフランスが軍需産業という点で遅れをとっていることが、単位の動向からもわかってしまいます(ある意味、エアバスはアメリカから重要産業を奪回して、グローバル社会でのプレゼンスを取り戻すための悲願とも言える企業であるわけです)。

 いずれにしても、アメリカ軍(人)の基本はヤード・ポンド法です。政策についてよく使われる譬えをもじれば、文字通り、“大砲”も“バター”もヤード・ボンド法なのです。「ハイネマンのホットロッド」と呼ばれた小型艦上攻撃機A-4から巨大爆撃機B52まで、彼らが落とす自由落下型爆弾はすべてポンド単位でした。

 例えば、A-4ではMk.81 汎用爆弾 (250ポンド=113.4キロ)か Mk.82 汎用爆弾 (500ポンド=226.8キロ)というわけです。B-52だと、Mk.82からさらに重く、Mk.83(1000ポンド)、Mk.84(2000ポンド;907.8キログラム)となります。

 そして特殊な爆弾にはディジーカッター(BLU-82/B)で15,000ポンド (約6,800 kg) 、あるいは第2次世界大戦でイギリス軍が使用したUボートバンカー破壊用、その名もグランドスラム(22,000ポンド;約11トン)があります。 

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 それでは、このあたりで話をきりあげ、to be continued・・・・・・としましょう。

国際援助の現場からPart 12:どんな技術を移転すればよいのか? マダガスカルで“牛車”を見たことに関連して

2012 11/16 総合政策学部の皆さんへ

 久しぶりの“国際援助に関連して”です。もう30年近く前になりますが、アフリカのタンザニアで国際協力事業団の派遣専門家として2年を過ごして以来、国際援助における技術移転にいて、そもそもどんなテクノロジーこそふさわしいのか? という疑問がありました。

  例えば、アフリカ大陸において、サハラ以南のいわゆるブラック・アフリカでは円運動を利用することをほとんど思いつかなかった、という話があります。“円運動”、わかりますか? 例えば、“車”、“車輪”です。エジプトでは、ファラオの昔から“戦車(チャリオット)”が利用されてきました(Wikipedia掲載の画像)。

 しかし、ブラック・アフリカでは戦車をはじめ、そもそも“車”がなかった。“車”がないと、車を通すための“道路”もきちんと整備されなかった。19世紀末から始まる帝国主義時代、植民地政府がまずやることは、車を通すための道路、あるいは鉄道の建設でした。

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 ほかにも円運動に関係することとして、例えば、土器の作成等にロクロを使わない(もっとも、手ひねりで丸い土器を作り出す、それはそれで結構な技なのですが)。

  さらに製粉等に使うでも、往復運動の縦臼やサドル・カーン型の臼を使うが、日本のひき臼(石臼)のような円運動を使う臼(ロータリー・カーン)は使わない。もちろん、水車もなかったし、深い井戸から水をくみ上げる時にも、滑車を使うことがなかったわけです。

■サドル・カーン型の臼(Wikipedia掲載の画像
■縦型の臼と杵(Wikipedia掲載の画像
■ひき臼(Wikipedia掲載の画像

 しかし、と思うのですね。ということは、円運動で動き、かつ簡単に作製・使用・維持できる道具類を技術移転するならば、それだけでアフリカでの労働生産性は飛躍的に伸びるはずではないか。

 もっとも、さらに付け加えれば「自分たちで作製・維持する」というところが肝心です。先進過ぎてブラックボックス化した技術より、自前でなんとかできる技術を伝授する。というのが30年前に初めてアフリカの奥地に行った時の私の感想でした。現在の援助は当然、変わっていることを期待したいところです。

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 さて、円運動を利用しないアフリカの世界に親しんだ後で、1997年に訪れたマダガスカルでまず目に入ったのが“牛車”です。のんびりと牛に車を引かせている。かつ、その車輪を、例えば市場の片隅で、牛車屋さん(とでもいうのでしょうね)が木工で作っているのです。これには、感心したいというか、アフリカ大陸と異なる“アジア的世界”を感じたことでした。

 もちろん、牛車にはいろんなタイプがあって、例えば、(たぶん壊れた)自動車のタイヤ付き車軸をそのまま流用したタイプ(アフリカではよく見かけましたね)もあるようですが、本当に木工品的に作られたタイプもある。私が感嘆したのは、とりあえず、自分たちで円運動の道具を作ってしまうその才覚で、それを“アジア的”だなあ、とついつい思ってしまったのです。

 マダガスカルの人たちは、牛車をどのように使っているのでしょう? 論文検索サイトのGoogle Scholarで「マダガスカル、牛車」で検索してみると(皆さん、Google Scholarはお使いですよね? レポート作成にこれほど便利なものも少ないと思いますが)、例えば、深澤秀夫先生(東京外国語大学教授、知り合いです)が『東南アジア研究』26巻4号(1989年3月)に「稲作を生きる,稲と稲作の実践と戦略一北部マダガスカルTsimihety 族に於ける稲作と協同労働一」という論文をお書きであることがわかり、かつpdfファイルが公開されていますから、それをダウンロードしてみると、

 刈取りが終わると、男性は水田の近くに脱穀場(valan’tonta)をつくる作業にとりかかる。予定地の草をぬいて整地し、水をまいてから砂を混ぜた牛糞を塗り、床面を固め、最後に周囲に牛の侵入を防ぐ柵をめぐらす。この後、 水田に置いてあった稲を牛車(sa・rety 仏語のCharretteに由来)を使って運び、脱穀場内に円錐状に積み上げてゆく(tonta)。ここまでの作業が終了すれば、乾季はほとんど雨が降らないこともあり、脱穀そのものは9月中に終わらせればよく、農作業は一段落する。

 また、森尾康治・井上美公・菊地正滋さんたちの共著(日本の国際援助関係会社の老舗“日本工営”のコンサルタント海外事業本部の方々のようです)で、『こうえいフォーラム』第15 号(2007.2)に掲載の「発展途上国乾燥地における農村飲料水供給実態(STATUS OF DRINKING WATER SUPPLY SYSTEM IN ARID RURAL AREAS IN DEVELOPINGCOUNTRIES)という論文では、

 アンボボンベ地域では、浅井戸、河川、天水溜めなどが主な水源として利用されていることがわかる。また、沼地、水売り(牛車とプラスチック樽を利用)、雨水を溜めた水槽なども重要な水源となっている。ここでも、モロッコ同様浅井戸の水位は季節変動が大きく、また乾季後半には天水溜めは空になってしまうため、乾季には住民はこの数字以上に厳しい水条件にさらされている。

 写真のキャプションには、「写真-9  短時間の豪雨直後牛車でかけつけ、道路の陥没部に溜まった雨水を生活用水として汲み集める住民」とあります。皆さん、想像がつきますか? 国際協力とか国際援助の現場では、こうした世界をなんとか、もっと住みやすい世界にしようということになるわけです。

 なお、日本工営のサイトのURLは右のとおりです(http://www.n-koei.co.jp/)。ご関心がある方は、ぜひご閲覧を。

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 そうなると、マダガスカルの牛車の改良のために、何かできることはないのか? せめてゴムタイヤを普及すれば、牛も楽になるのではないか? あるいは、いっそ日本のリアカーの技術をマダガスカルの牛車に応用するとか(しかし、田舎の市場の片隅で牛車を作っている大工さんたちの職をうばわないかな)?

 同時に、マダガスカルの道を自分たちの手で、安く、簡単に舗装する道はないのか? そのあたりは、何といっても現地で人々の暮らしに接するしかないかと思います。

住まいの人類学Part6:植え付けられた街、そしてその増殖:煉瓦街、そしてアフリカでレンガ作りの家を建てるには#2

2011 12/9 総合政策学部の皆さんへ

 アフリカで家を建てるには?

 それも、海岸から約1000km、文字通り、アフリカ大陸のど真ん中、「もっとも近い肉屋まで30km、郵便局とガソリンスタンドまで135km、一番近い日本人まで500km、お湯が出るホテルまで1500km」と自称していた私の任地、西部タンザニアのキゴマ州マハレ山塊国立公園(当時はまだ狩猟保護区で、それを国立公園昇格まで持っていくのが、私の任務だったのですね)ですから、まともな材料などあるはずもありません。

 したがって、レンガといっても、焼かない“日干しレンガ”です(スワヒリ語ではtofali)。

◆Mahale Mountains National Parkの公式サイトは http://www.mahalepark.org/

 それにしても、家を建てるためにはやらなければならないことが多すぎます。この場合はまず大工(Fundi)を探さねばなりませんが、私がアフリカにいた30年前、すべては人伝えのコネクションがあるのみです。

 つまりは誰かの紹介ということになるのですが、この場合、間に立つ人間をよほど選ばないと、ことはうまく運びません。結局は、“誰それさんの親戚の誰それさんの、そのまた知り合いに腕のよいFundiがいる”という噂を頼りに、呼ばねばならないのです。

 そして、そのFundiがすでに請負仕事中であれば、その間、待たねばならない。よほど時間がかかりそうです。そのFundiが来てから、今度はやおら契約交渉です。この程度の家を作るのに何個煉瓦が必要か? その煉瓦は1個いくら(タンザニア・シリングで)で引き受けるか? 期間はどのぐらいか? 手伝い(Wasaidaiji)は何人必要か? 日干し煉瓦をこねるのに必要な水を蓄える空のドラム缶(pipa tupu)は何個必要か?

 今、思いだすだけで、ちょっと呆然とするぐらいの時間がかかるお仕事だと言っておきましょう・・・・・海外援助とは、こうした途方もない面倒くささの世界なのです、と言ってしまうといささか興ざめになってしまうかもしれませんが。

 そのFundiや手伝いたちの仕事をみながら、アフリカの地でゆくりもなく思いだしたのは、ノーベル賞作家ソルジェニーツィンの出世作『イワン・デニーソヴィッチの一日』の主人公、左官屋のイワンが、シベリアの酷寒の強制収容所(ラーゲリ)で、しかし、仕事を命じられたからには、自分の仕事の出来栄えに誇りをもつべく、煉瓦を並べて行く様でありました。

◆「住まいの人類学番外編:過去の記録にみる人と災害、そしてそこに浮かびあがること#1」ですでに紹介していますが、煉瓦造りは建築構造上は“組積造”構造にあたります。ヒトの祖先が洞窟や岩陰を離れて、平地に“構造物”を作ろうとした際に、(1)屋根を“柱”と“”で屋根を支える“架構式構造”となるか、(2)日干し煉瓦や雪のブロックをつみあげ、屋根を柱ではなく壁で支える“組積造”構造をとるか、道が分かれます。その後者なのです。

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 さて、私の赴任地は近くに店舗等まったくありませんから、家を建てるのにもなんでも買い出しにでなければいけない。まずは、板(bao)と角材。煉瓦造りとは言え、屋根はトタン(bati)を載せないといけないので、当然梁等が必要です。また、扉もつけねばならない。それで板等が必要になってきますが、今度は樵(きこり)と交渉です。板に製材するのにふさわしい樹種がありますから、適当な大きさの木を選び、それを製材して、契約通りに取り寄せる。

 釘(misumari)や鎹(かすがい)、木ネジ、蝶つがい、扉に付ける閂(かんぬき)等も、こちらは重さ(kg)単位で買い込みますが、当時、タンザニアはアフリカ社会主義政策が破たんして、その断末魔の最後の頃でした(IMFの軍門に下り、構造調整(Structural Adjustment Program)」に舵を切るのは私の帰国後です)。ですから、町にでかけて店に行っても、何もないことが多い。そうした店の多くは、インド系商人の店で(キゴマでは一軒、ホメイニ師の写真が飾られていた店があり、ああ、シーア派か、と思いましたが、たいていはスンニー派のイスラームの人たちだったようです)、その店を一軒々々まわって買いそろえます。

 それから、日干し煉瓦がむき出しだと、汚れるし、早めに破損するので、その上にうっすらと砂と土をまぜたものを塗り、さらにその上に石灰(スワヒリ語でchokaa)を塗ります(日本の昔の漆喰の感じですね)。それも袋で仕入れなければいけない。

 トタンのような大物になると、これは政府系の店舗(RTC=Regional Trading Company)にしかないわけですが、そうするともうコネの世界になって、まともに手に入ることはほとんどありません(そのあたりが、社会主義の悪夢だと思って下さい)。タンザニア側のカウンターパートの腕次第(ガソリンの購入もそうですが)となります。もっとも、私は現金払いしていましたから、たぶん、売り手の側からみれば、良い買い手であったでしょう。

 何を買うにも大量に確保しなければならず、第一、いったん奥地に戻った後で不足がわかったら、また買い出しに出るのに手間も時間も、ガソリンもかかるわけです(ちなみに25馬力の船外機エンジンをつかうと、燃費はだいたいリットル1km!、150kmほど行くので、あれこれで200リットル=ドラム缶一本を消費してしまいます。それも往復で2本)。

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 こんなことをしたのも、当時国立公園建設のために(日本の)市民からの募金があって、その一部をいただいたため、これでせめてタンザニアにとって後に残る事をしようと、業務外ですが、(当時はまだGame Reserveだったわけですが)たまに来るツーリスト用にゲストハウスを日干し煉瓦で建てよう、としたわけです(今思うと、結構、草の根援助の実践でしたね)。

 ただし、例によって(アフリカではよくあることですが)だらだらと仕事が続き、結局、1984年9月に帰国の際は、棟上げは済んで外形は完成していましたが、内装がまだ仕上がらない状態で、マハレを去る事になりました。

“市”をめぐる人類学Part3:“インフォーマル・セクター”とは? +研究論文検索実習付き

2011 12/30 総合政策学部の皆さんへ 

 2010年もあますところあと2日だけになりましたが、“市”をめぐる人類学として、Part1Part2に続いて、インフォーマル・セクターの紹介です。

  アフリカの市には(1)伝統的な市場、(2)そこから脱却しつつある市場、(3)完全に政府等に統制された(税金を払わねばならない)市場、様々ですが、最近、アフリカ学会等の大会では、“インフォーマル・セクター”等という言葉をよく耳にします。それでは、この言葉は何か?

 例によって日本語版Wikipediaを見ると、なんと「見出し語」にない! 検索でひっかったものは、まず、“イランの経済”、次に“インドの経済”、前者はインフォーマル・セクターについてさらっと書いてあるだけですが、後者では「インドの全人口の65%に相当する750百万人が一日20ルピー以下で生活し、彼等の殆どがインフォーマル・セクターで職も無く失業保険も無く悲惨な貧困状況で働いているとのことである」とありますね。なんだか、悲惨なイメージですね。日本の戦後の“闇市場”、なかば無法地帯のような印象さえあります。

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 それではWikipediaのEnglish versionを検索してみましょう。さすが、きちんと出てきます。皆さんも、日本語versionを開いて「なんだ、これは!(=内容があまりに薄い!)」と思ったら、まずEnglish versionを開けてみることです。英語の勉強にもなりますし。  さて、そこでの定義では、

 The informal sector or informal economy is the part of an economy that is not taxed, monitored by any form of government or included in any gross national product (GNP), unlike the formal economy. Examples are barter and gift economy.Although the informal economy is often associated with developing countries, where up to 60% of the labour force (with as much 40% of GDP) works, all economic systems contain an informal economy in some proportion. The term informal sector was used in many earlier studies, and has been mostly replaced in more recent studies which use the newer term.”

 要するに、政府の統制外で税もはらわず、GNPにも貢献しない闇市場的存在、そんなイメージが従来の見方でした。そして、Part2で紹介したバンダ・ビーチはインフォーマル・セクターの典型であったのが、それが(日本の援助もあって)立派な建物を作り、フォーマル経済になりましたとさ、めでたし、めでたし、というわけなのですが、「それで良いのか?」、という見直しが始まっているということです。

 なぜなら、アフリカで生きている人たちの商売はたいていインフォーマル・セクターに該当してしまうからです。それでは、彼らは“脱税”行為者なのか? つまり、犯罪者なのか? 皆さんはどう思いますか? 私がタンザニアに住んでいた1979~1984年当時、社会主義政権下のタンザニアではまぎれもなく“悪”でした。

 一つには、タンザニアの経済は結局、イギリス植民地時代からしぶとく生き残っているインド系商人(印僑)と奴隷商人時代から土着しているアラブ系商人に握られていて、社会主義政権としては、脱税や闇ドルに手を出すものはすべて“犯罪者”でしたから、バンダ・ビーチの小売手たちもまた税を払わず、おしなべて犯罪者とみなされかねない存在でした。しかし、彼らの行為こそ“内発的発展”ではないのか?

 そうしてもう一つ思い出していただきたいのは、アフリカの民人にとっては、税金とは自分たちを支配するための資金を確保するための、植民地政府の罠だったことを。独立したからといって、そうした構造が変わるわけではなく、なぜ、税金を払わねばならないのか? というより、現実に、税金を払うことへの共感がわきにくい状況があることを。

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  ということで、現代のインフォーマル・セクターの研究を、研究資料専門検索エンジンのGoogle Scholar(http://scholar.google.co.jp/)で検索してみましょう。皆さんもご一緒に。例えば、「アフリカ、インフォーマル・セクター」と入れてみましょう。2010年12月17日付けでいれると、159の論文がヒットします。以下の先頭の4件を紹介しましょう。

 さらに喜ばしいことには、すべてPDFファイル付きです。つまり、皆さんは書斎にいながらにして、論文をダウンロードして読める。ただし、コピペだけはいけませんよ。きちんと読んで、自分の言葉にすることです。

[PDF] 東アフリカ小農社会のモラル・エコノミーをめぐる諸論(上田元 – 開発途上国の農産物流通 ̶ アフリカとアジアの経験』 …, 2002 – ide.go.jp)
「…受けたものとして,また都市という多民族的,新開地的状況においてモラ ル・エコノミーを議論したものとして,参考となる(Tripp [1997])。この研究は,アフリカの伝統に根ざした社会主義を標榜する国家によって運営され … 1994 年にはインフォーマル・セクター活動に資金援助を行う全国政策が策定 …

[PDF] ガーナの中等職業教育政策に対する国内外からの影響− 植民地時代から現代まで−(山田肖子 – 2003 – hiroshima-u.ac.jp)
「.. 62.2%)で、続いてサービス業(27.9%)、工業 (10.1%)となっている(ILO, 2002)。学校ベースの職業教育と最も関係が深いはずの工業が 労働市場に占める割合が最も小さい。アフリカの都市では、年々インフォーマルセクター(7) が肥大化している。元来アフリカ経済はイン フォーマル … 」 

[PDF] アジアにおけるプログラム・ベースド・アプローチ(本田俊一郎… – 国 際 協 力 研 究 – jica.go.jp)
「… セクター 包括 的 な 政策 や 行 政 改革 の 動き が ある. 5) LENPA の 前身 は, 英・北欧 を 中心 に,セクター・ワイ ド・アプローチ を 推進 する イン フォーマル ドナー グ … や コモンバス ケット は, 過去 に 大量の 援助 を 投入 してき た に も か か わら ず 開発 が 停滞 する アフリカ 諸国 において …

[PDF] アフリカ都市零細商人の商慣行に関する人類学的研究(小川さやか – 2009 – repository.kulib.kyoto-u.ac.jp)
「… ( 続紙 1) 京都大学 博士(地域研究) 氏名 小川 さやか 論文題目 アフリカ都市零細商人の商慣行に関する人類学的研究 (論文内容の要旨) 本論文は、タンザニアの都市インフォーマルセクターのうち、商業部門に焦 点を当て、零細商人とくに古着商を対象として、商慣行ならびにその変容過程 …

 例えば、トップの上田さんの論文からタンザニアでのインフォーマル・セクターについての記述を取りだすと、

 「トリップは,こうした内からの不服従の結果として,国家がインフォーマル経済を徐々に認知し,自由化し,合法化することになったと論じ,また国家と社会の間の交渉と互酬的関係を通して経済のなかにインフォーマル性の境界を定める制度が変化していったと考える。農村強制送還策は1984 年に停止され,1985 年にムウィニ(Mwinyi)大統領に政権が移行した頃から徐々に都市インフォーマル経済の零細企業に対して営業許可が与えられ始めた。

 1986 年には構造調整をめぐってタンザニア政府とIMF との間に合意が成立し,同年にはバス運行も自由化された。1991 年にはいわゆるザンジバル宣言が出され,現状を追認するかたちで国民の10%を超える党員・公務員とその配偶者の副業活動が認められた。そして,1992 年の複数政党制導入ののち,1994 年にはインフォーマル・セクター活動に資金援助を行う全国政策が策定されていった。

 こうした政策の変化を経済・政治の自由化への外圧に対応したものと解釈する見方が多いなか,トリップは,都市住民による内からの静かな抵抗の果たした役割の重要性と,彼らの行為能力を指摘しているのである」とあります。

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  つまり、旧来の経済学の観点からすれば、非合法で悲惨な零細経済、それがインフォーマル・セクターのイメージなのです。冒頭の“インドの経済”での定義ですね。しかし、今や、価値観は逆転している。アフリカで真の内発的発展は実にインフォーマル経済にある、というのが上記諸論文の主張です。 

 私がタンザニアを最終的に離れたのは1984年、つまり、すべてを国家の統制下におこうとした社会主義政権の末期、それが翌年にはIMFの軍門に下り、経済を自由化するとともに、バンダ・ビーチのようなインフォーマル経済を認めなければ、国家が立ちいかなくなった、まさにその頃だった、ということは、実感をもって納得できます。 

 悲惨の象徴としてのインフォーマル・セクターか、それとも国家経済再生へのカギとしてのインフォーマル・セクターか、このあたりはADB出身の西本先生や、国際開発政策の鈴木實先生に是非ご意見をいただきたいところです。

“市”をめぐる人類学Part2:アフリカ等で市場を見ながら、経済人類学から都市・国際政策まで考える

2010 12/19 総合政策学部の皆さんへ

 Part1に引き続いて、“市”の話です。今日、紹介するのは東アフリカはタンザニア、実質的な首都ダル・エス・サラームの港の出口あたり、砂浜に忽然として出現した“魚市場”の栄枯盛衰の話です。名前は“バンダ・ビーチ”、タンザニア関係のHPを閲覧していると、この名前がそこここに出現します(日本人は魚が好きですからね)。

 一番良さげなWeb情報は、協力隊の方の「Jambo!タンザニア実習録」(http://gogotanzania.blog100.fc2.com/blog-category-2.html)かもしれません。

 ちなみに、私がJICA(国際協力機構)の専門家をしていた1980年代も同じでしたが、協力隊員はタンザニアに赴任すると、まず現地に慣れるための実習があります。その最後はたしか、独りで旅行=例えば、タンザニア中央鉄道(「国際援助の現場からPart8」で既出)に乗って、内陸部のキゴマの街までたどりつき、そこの(ドイツ植民地時代に作られた)港からタンガニイカ湖を行き来する汽船リエンバ(同じくPart10で既出)の定期航路に乗船する等のメニューをこなします。その最初の一歩に関するブログです。青年海外協力隊や海外援助に興味のある方は是非ご覧下さい。

 さて、上記の方は2007年05月22日にダレス・サラームの市内をJICA職員に案内されています。ダレス・サラームには大使館とは別にJICA事務所があります。私も、当然、何度も出入りしていました、懐かしいですね。ちょととだけ、引用させていただくと

 ダルエスサラーム湾東端のバンダ・ビーチにある魚市場を案内していただきました。(中略)写真を撮る場合は正式な許可が必要なことがあり、勝手に現地人の写真を撮ってトラブルになったケースもあるそうで、人を撮影する場合最低許可を得てから撮る必要があるそうです。(中略)当魚市場は日本の援助で建設されたそうです。親日の人が多く、いかにも売り込み上手そうな現地人が”こんにちは”と話しかけてきます。

 なんと、あのバンダ・ビーチに日本の援助でできた“市場”がある! という驚きから、とりあえず、話を始めましょう。 

 それでは、現在のバンダ・ビーチが どうなっているのか、We bで探すと、2002年に日本の援助で建物が建っているのですね(写真が見つかったので、URLを貼りつけておきます;http://members.jcom.home.ne.jp/naito6231/sub2912b.html)。

 この記事の筆者はどうやら、私と同様かつてJICAの派遣専門家でタンザニアに滞在していらして、その再訪記事のようです。ただし、この写真をみると、ちょっと「もう、世界が変わってしまったのだ」という気がします。この写真だと立派なアゴラです(Part1参照)。

 ちなみにどんな援助だったのかをJICAのHP(http://www.jica.go.jp/)で調べてみても、タンザニアでの援助実績の表がありますが、どうも突きとめられませんでした。ご参考までにタンザニア関係の援助実績についてのHPのURLは以下の通りです:http://gwweb.jica.go.jp/km/ProjDoc548.nsf/VW02040102?OpenView&ExpandView&RestrictToCategory=%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%B6%E3%83%8B%E3%82%A2

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 さて、昔(1979-1984=私のタンザニア滞在)のバンダ・ビーチは、ただの砂浜でした。要するに手こぎ、あるいはダウ船的な三角帆で小舟を操り、漁業をたつきにしている人たちが魚を荷揚げする。それを浜で待ち構えている“棒手売(ぼてふり)”行商、“仲買”の商人が魚を買取、市内に売りに行く。もうお分かりですね、Part1に述べた異なる生業=この場合は漁業と商業の人たちが境目で出会う場所、それがバンダ・ビーチと呼ばれる砂浜だったわけです。ビジネスのチャンスです。

 私の大学院時代、原子(はらこ)さんという東大人類学教室出身の方が助手で(その後、明治大学に移たのですが、60歳でお亡くなりになってしまいました)、70年代初頭にタンザニアを訪れた時のことを聞いてみると、「僕が最初に来たときは、本当に砂浜しかなくて、漁民と買い取る商人ぐらいしかいなかった」と証言いただきました。

 その7~8年後、私がタンザニアに着いた時に見かけた光景は、自力でひたすら“市場(いちば)”化への道を走る姿です=まさに、内発的発展論ですね!(内発的発展論の定義は右のURLの『マネー辞典m-Word』の記述を参照;http://m-words.jp/w/E58685E799BAE79A84E799BAE5B195E8AB96.html)。

 まず目につくのは、砂浜に並んで立っている粗末な木製の売り場です(アフリカの田舎の市場でよく見かけるタイプ)。そこで、浜からあがったばかりの魚介類を売っている(ぼてふりから常店への出世と言えましょう)。日本人とみれば「イカ、イカ・・・サヨリ、サヨリ・・・エビ、エビ、ヤスイヨ!」等と、ダレス在住の日本人から覚えたと思しき魚名を連呼、当時のさびれきったタンザニア社会主義政権下のマーケットで、随一活気のある場所だったといっても、過言ではないでしょう!

 そして、最初に訪れた1979年から1982年までの変化も顕著です。この魚市場にどんなものがつけ加わっていったと思いますか? それはまず、土産物、例えば木彫=マコンデの実演・販売所です。あきらかに、このバンダ・ビーチに魚をもとめてやってくる金持ち=外国人の旅行者や援助関係者等をめあてに、いかにも安げに(実際には、店によったら、市内の土産物店の方が安かったりするのでしたが)売りさばく、そんなビジネスです。なお、上記の協力隊の方のHPに写真で映っている貝殻も、当時からの有力土産物でした。

 マコンデとは、海岸地帯にすんでいる民族マコンデの人たちが作る木彫りの彫刻類のことをさします。材料はアフリカ黒檀(African black woods;http://www.fuchu.or.jp/~kagu/mokuzai/ab.htm)。なお、マコンデも含めてアフリカ彫刻のWikipediaのページは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E7%BE%8E%E8%A1%93です。また、三重県伊勢にマコンデ美術館があります(http://www2.ocn.ne.jp/~makonde/)。 

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 土産物屋とともに79~82年の間に広がったのが、“飯屋”です。ご飯(スワヒリ語ではWali)はジャーにいれて持参、魚市場で材料を仕入れて、エビを油であげたり、魚を焼いたりして、小屋掛けの食堂が立ち並びます。人があつまり、そこで仕事をするようになれば、当然、腹も減り、飯屋も生まれる。よくできています(日本の魚市場等も、あたりを見まわすと、結構飯屋があります。しかも朝からやってたりする-魚河岸の朝は早いので)。

 ただし、バンダ・ビーチの飯屋の油は何時換えるともしれぬ茶色の液体、フツーの人は手を出さない方がよいかと思います。私は大丈夫でしたが、一匹だけエビを口にしたパートナーはあっというまに下痢をする羽目になりました。

 売っている魚介も何時採れたものかわからぬものばかり(刺し網の場合は、夜仕掛けて、朝引き上げるので、早朝に買いに行けば、まず大丈夫ですが)、一番安全なのはカニのノコギリガザミで、こいつばかりは店頭の籠の中で生きていますから、それを79年ころは10タンザニアシリング、当時の金で300円ぐらいで買って、ホテルにもどり、ガソリンストーブとコッヘルで茹でて食べるのが、一番安全で安くて、美味しいものでした。

 ただし、そのカニにハサミはありません。ハサミは高級レストランでクラブ・カクテル(高いけれども、絶品でした)になるので、ハサミは別売りでそれが10シリング、ハサミ抜きの本体が同じ10シリング。とは言え、殻には蟹ミソがびっしりと詰まっていて、結構なものでした。

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 その誰もが幸福なバンダ・ビーチが、突然官憲の手入れを受けたのが1983年、私が一時帰国した際のことで、タンザニアに帰ってみると、浜はほとんど人気もひいて、ダレスの魅力が一気に半減というより、ほとんど亡くなった風情です。聞いていみると、やはり税金が問題。もちろん、貧しい庶民はだれも税金等はらわないので、社会主義政権としてせっかくの内発的発展の芽をつぶす=正規の商取引は(税金が課せられた)正規の市場でやれ、ということです。

 おかげで、漁師も、商人も、魚を買っていた人たちもみんな困ってしまって、もちろん、それでも税金を払う者等いない。つまり、誰も得をするものもいない。得意然としているのは、役人しかいない。それが社会主義の断面というわけです。

 その市場が、いつの間にか、立派になっている。とは言え、これですべてうまくいくとは、私にはちょっと思えません。というあたりで、to be continued・・・・・としましょう。

“市”をめぐる人類学Part1:アフリカ等で市場を見ながら、経済人類学から都市・国際政策まで考える

2010 11/27 総合政策学部の学生・院生の皆さんへ

  今回とりあげる話題は“市”です。“市場(しじょう)”ではなく“市”としたのは、経済学での“市場(しじょう)/マーケット”や“世界市場”等ではないこと、また巨大な“中央卸売市場”等でもないこと、ふつうの“市場(いちば)”あるいは常設でない“市(いち)”のあたりを語るのが私の守備範囲内だからです。

 などと、書き出してから、あらためてWikipediaを閲覧すると、“市”や“市場”、“マーケット”等の定義が結構混乱しているようですね、さらりと整理されているふうではありません(このブログの原稿を書き始めた2010年11月23日の時点で)。

 そこでとりあえず、人々の日々の方便(たつき)をたてるための買物をする場所、そのぐらいの“市”の話から始めましょう。例えば、タンザニアインドネシアマダガスカル等をうろうろしていると、“市”にはある種の共通性が見えてきます。あたりまえですね。みんな生きるために利用する場所なのだから、おのずとその形も収斂してくるわけです。それでは、アフリカ等ではどこに市がたつのか? それはまず、異なる生業をもつ人々が接触するところです。

  例えば、ウシやラクダを飼っている遊牧民は農作物も食べてみたいし、畑を耕している農耕民は肉や乳製品、皮革も欲しい。そうなれば、遊牧民と農耕民が接触する境界に“物”と“物”を交換する場(構造主義文化人類学者のレヴィ=ストロースですね)が必然的に生まれ、そこで等価交換の世界がひろがる(経済人類学のポランニーですね)。そこでいつの間にか、人類学と経済学、そして国際開発がむすびつく。それがヒューマン・エコロジーの視点から見た国際政策の一つの姿です。

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 私の大学院の同級生で今は立教大学で教えている方がいますが、彼がケニアでまず研究したのが、そうした“民族”の“境界”にある“市”でした。ちょっと調べみると、その人の立教大学のHPに「遊牧ポコットと農耕ポコット」(ポコットはケニアの民族の一つです)の境目にある市の写真と記事がでていました(http://www.rikkyo.ne.jp/web/z5000002/kenya/pokot/0508-market.htm)。撮影は1980年、私はその時はタンザニアでの第1回の調査から戻って、1981年の第2回の調査の間に、嵐山のニホンザルの性行動で学位論文を書いていた頃です。

 他に、ケニアの街キスムの市場の小魚売り(たぶん、ビクトリア湖産の小魚ダガーではないかと思います)のおばさんの写真がhttp://www.rikkyo.ne.jp/web/z5000002/kenya/kisumu/fish.htm(1983年撮影ということですが、私はこの時、タンザニアでJICAの派遣専門家をしていました)。

 同じく雑貨売りの兄さんの写真がhttp://www.rikkyo.ne.jp/web/z5000002/kenya/kisumu/retailer-kisumu.htm

 この方は、ケニアの次にマラウイを調査地に選び、現在に至っていますが、そこの土器のマーケットの写真です;http://www.rikkyo.ne.jp/web/z5000002/tanzania/NYAKYUSA/clay-pot-market.htm(背後の巨木はマンゴーです)。 

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 こうした市は、しかし需要の多寡によって、定期市と移動市にわかれます。定期市はいつもそこで営業している。だから、建物もしだいに立派になる。例えば、ギリシア語での“アゴラ”とは、Wikipediaによれば以下の通りです。

 古代ギリシアの市場はポリス内部の地域市場と対外用の市場に分かれていたとし、対内市場の例としてアゴラ、対外市場にはエンポリウムをあげている。アゴラは中央集権制度にかわって食料の再配分を行なうための制度となり、民衆に食物を供給し、新鮮な食材や調理ずみの食品が売られた。アゴラには、カペーロスという小売人が居住していた。ペリクレスは自ら積極的にアゴラで売買を行ない、アテナイは商業的なアゴラを推進したが、アリストテレスは市場としてのアゴラと政治的なアゴラを分離することを主張した。

 とすれば、SPS-アゴラとは、要するに言葉=考え・思想をやりとりする場ということなのですね(ますます、レヴィ=ストロースとポランニーの着眼点の鋭さがわかってきますね)。一方、移動市は、古代~中世日本の六斎市のように、六日に一回ぐらいの割で開かれ、商人たちはそれぞれの商売のルートにそって、巡回していく。

 1960年代、今西錦司率いる京大アフリカ類人猿調査隊の一環でアフリカにつれてこられた京大探検部(久野先生の先輩になるわけですね)の学生谷口穣は、そこでウシ市についてまわる移動食堂に居候(いそうろう)して、旅をともにします。その記録が『日本人牛切りジョー』です(1968年、毎日新聞社刊)。1カ月の居候中、食堂い主が買い込んで谷口たち使用人にと殺、解体、調理させた牛計6頭。この本はもう古書店でしか手に入らないようですね。なかなか面白いのに。

 さて、三日ごとに開く三斎市や六斎市はしばしば交通の要所にもうけられます。これも当り前ですね。人が集まりやすいところ=動線がまじわるところ=そこが市になる。とここまで言えば、都市政策を志す方はすぐ気付かれるでしょう。お偉方が勝手に決めたニュータウンやその他の再開発の商業施設の中で、流行るところと流行らないところがあることを。当然、ヒトの動線を考えながらやらなければいけないのに、それを自らの思惑や利権で進めて・・・・・・結局うまくいかない。よくある話です。

 もちろん、以前も紹介した阪急電車創設者小林一三のように、阪急電車のターミナル=交通の要衝である梅田を、商業施設によってさらに矩地としての存在をたかめるため阪急百貨店を創設する、というように商業施設によってたくみに動線を左右する、これがビジネスプランの極意であるわけですがね(小林一三とそのビジネスプランについては「宝塚映画の謎Part1:総政100本の映画番外編(2009/12/28投稿)等で紹介ずみですね)。    

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 さて、こうして自然発生的に生じた市場は、しかし、様々な権力によって統制されます。一つは、“税金”をとるためですね。アフリカでは民衆から税金をとりたてるシステムも不備なので、政府はこうしたマーケットから取り立てる税金がどうしても欲しい。そうして公的な市場が設定される一方で、(税金を払わぬ)私的な市場は弾圧される(税金がとれないから、イリーガルだとのレッテルをはり、弾圧する)。

 Wikipedeiの“市場”の項には「古代国家においては、中国の制度を参考にしつつ、大宝律令の関市令によって市制を整備した。都の東西に市が設置されて市司という監督官庁が置かれ、藤原京・平城京・難波京・長岡京・平安京などに官営の東西市が運営されていた。この統制市場は正午に開き、日没に閉じ、品物の価格は市司が決定した。また商業施設としての機能だけではなく、功のある者を表彰したり、罪を犯した者を公開で罰する場所としても使用された」とあります。こうして、人々の暮らし→それを支える市→それをコントロールしながら税金をとりたてようという権力機構→その目を逃れようとするブラック・マーケット→・・・・・・ 面白いですね。

 古代中国の歴史書『史記』の「曹相国世家 第24」の恵帝2年(紀元前193年)、漢の宰相蕭何が亡くなると、曹参が後任に任命されます。彼は、その時までつとめていたの丞相の座を後任に引き継ぐのですが、その際に、「監獄と市場は悪人が身を寄せる場所と考えて、慎重に扱ってあまり干渉せぬように」と伝えます。

 後任の者は、政治には市場等より「もっと大事なものがあるのでは?」といぶかしんで問うと、「そうではない。そもそも監獄と市場は善悪すべてを受け入れる場所だ。今君がそれにあまりに干渉すると、どこに悪人がいる場所があるのだ。わしはだからこそこのことを優先するのだ」とさとしたとのことです(『史記世家下』小川環樹他訳、岩波文庫版)。

 この曹参の言葉は、士太夫階級あるいは儒教等の目線から見た“商売観”を物語るとともに、上記の大宝律令等の条文の背景に潜む権力者の視線を感じさせます。ということで、ここで to be continued….(Part 2へ)としましょう。

食べることについてPart7+植民地が残したもの:国際援助の現場からPart11(後半)

2010 10/29 総合政策学部の学生・院生の皆さんへ

 さて、イギリス植民地が残したものは、行政機構(結果として、多くのアフリカ人を苦しめます)、港と線路と道路(多くのアフリカ人を苦役の立場に追いやります)、それからお茶(東アフリカでもっとも好まれる飲み物です)。とくにお茶はアフリカ人を“チャイ”づけにして、なけなしの金をまきあげ、イギリス=インド=アフリカの三角貿易を推進します。

 “茶”の呼び方について、イングリッシュ風の“ティー”の場合と、アラビア語風“チャイ”の場合がありますが、このティーとチャイはどちらも中国語由来だそうです。まず、ティーとは陸路づたいにつたわった福建地方のテーから由来する。それに対して、チャイは大航海時代の広東語のチャーから来ているとのこと(Wikipediaによる)。そして最後に、「博物学者の書いた本と、まずいイギリス料理」がイギリス植民地の遺産にあげられるわけです。これがフランス語圏ならどうなるでしょう?

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 ということで、1997年と1998年に旧フランス植民地のマダガスカルにでかけた時には、現地の食事に興味しんしんでした。すると、ベトナムやカンボジアでもそうですが、フランスパンが田舎でも売られている。しかも、(私の味覚を信じてもらえば)日本のフランスパンより結構美味しい(もっとも、いわゆるバゲットがほとんどで、パン・ド・カスターニュ等は見た記憶がありません)。 

 とくに、首都アンタナナリボを行き帰りによった時には(協力先のチンバザザ動植物公園のディレクターに会わなければいけないので)、昼食はいつも、首都の独立大通りのマーケットで、縦切りのバゲットに現地産のハムと野菜、マヨネーズを詰めたサンドイッチですませていました。これが1500マダガスカルフラン、当時のレートで30~40円ぐらい、結構お腹がいっぱいになります。

 ただし、フツーの皆さんはあまり手を出さない方が良いかもしれませんね。お腹を壊してしまうかもしれません。周りを見ても、マダガスカル人以外、そんなものを齧りながら散歩している外国人はほとんどいませんでした。 とは言え、まずはフランスパン恐るべし!

チンバザザ動植物公園は日本のJICAを通して仙台の八木山動物園や宮城教育大学等と「動物園を活用したマダガスカルのESDパイロットマテリアルの構築」プロジェクトをおこなっています(文科省のHPのURLはhttp://initiative.criced.tsukuba.ac.jp/kadai/h21/2-kyouiku-kenkyu-ESD/miyakyo-u-esd.html)。また、活動ブログはhttp://eeppt.exblog.jp/)。

  また、チンバザザ動植物公園で飼育されているキツネザル類の写真がNPOニホンアイアイランドのHPに載っています(http://www.ayeaye-fund.jp/photo02.html)。

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 そのフランスパン以上に、マダガスカルの少なくとも首都と南端の町フォール・ドーファンにポピュラーだった外来の食事がSupu Chinoise、“中国風スープ”と訳せばよいのでしょうが、中華風といえなくもない塩味のスープに太いうどんのようなヌードルが入っています。いったいどんな経緯で、この南国マダガスカルまでたどり着いたものやら、よくわからないのですが。

マダガスカル本来の料理は米の飯と肉か豆等のおかずの組み合わせです。知り合いの東京外国語大学深沢教授のホームページに「日本で作ろう マダガスカル料理」があります(http://www3.aa.tufs.ac.jp/~nfuka/report/ryori/index.html

他にマダガスカル料理のHPを探したら、以下のURLがありました。写真も出ています:http://www.geocities.jp/takehikokawasaki/seikatu/syokuji.html  

 あと少し不思議だったのは、フォール・ドーファンのレストランに入ると、インドネシア料理のナシ・ゴレン(焼き飯)やミー・ゴレン(焼そば)があるのです。これもどういう経緯でこの地の果てのようなマダガスカル南部まで伝わったのでしょう? 実は、首都のアンタナナリボで一番おいしかったレストランは、1軒だけあったベトナム料理屋でした(レストランといっても、完全に東南アジアの下町風でした)。もっとも、残念なことにこの店だけ、どういうわけかアルコールがなくて、せっかくのベトナム料理もビール抜きで画竜点睛を欠くという風情でした。

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 とは言え、フランス植民地が徹底的な影響を残しているのは、“フランス語”にほかなりません。首都のアンタナナリボの本屋さんに行くと、ずらっとフランス語の本が並んでいます。派手な表紙の文庫類にはラシーヌバルザックゾラ等が目白押し。かわりに、どうやら図鑑類や学術書は、結構英語本が幅をきかせている。やっぱり、という気もいたします。

 そんな本屋の書棚の前にたっていると、(私はパリに行ったことがありませんが)ふと、パリの本屋でこんなにフランス語の古典の本が並んでいるのだろうか? と疑問が湧きます。きっと、パリの“兄ちゃん、ねえちゃん”たちはこんなものなど手を出さず、パリの本屋はもっとちゃらちゃらしたものを売っている。そして、フランス文化の“古典”はむしろ、フランスにあこがれる第3世界の本屋で売れている、という構図ではないか、と想像してしまったのです。

 さらによく見ると、同じ本屋の棚の隅に、数十年前の印刷とおぼしきくすんだ表紙のラシーヌ等も残されています。この本屋は、マダガスカルの若者にずっとこうした本を販売してきたのでしょうね。そして彼ら/彼女らは学歴を進むにつれて、否応なくフランスの大学やグラン・ゼコールへ留学していく。つまり、言語を通じての植民地支配が今も続く、これが私にとっての実感です。

 言葉をおさえることで(=言語政策)、思想を支配し、最終的にはフランス文化で世界を支配する(百科全書派の夢の実現)。とはいえ、その過程でポル・ポトのような方々も育ててしまうのですが。

 さて、そこで先進各国の国際援助の方針について、ある文書を紹介しましょう。(pdfのファイルのURLは(http://www.meti.go.jp/report/downloadfiles/g70524a04j.pdf)。『他ドナー国におけるODA 政策及びODA 政策評価の現状分析』というタイトルのこの文は、

  • まず、「国益」を明確に打ち出しているのは米国である。米国は、開発援助政策を外交政策の重要な一部分と位置づけ、国益と照らして必要な場合には、例外的に巨額の援助を行う場合があるとしている。また、米国の商業的な利益の増進のために開発援助を用いる方針も明確に打ち出している
  •  
  • また、フランスも自国の外交政策や経済政策上の利益と開発援助政策との関係を明確に意識している。フランスが重点的な援助対象国とするのは、「優先連帯国(ZSP)」といわれる、同国が外交政策の上で関係強化を重視する国である。また、フランス語教育や文化の伝播を援助の重要目標に挙げている。さらに、商業的利益の側面では、ZSP とは区別して、新興市場国を対象としたタイド援助スキームを維持する方針を示している
  •  
  • その片方で、「自国の利益よりも、途上国の貧困削減を最優先とする立場を取るのが英国である」(中略)「ドイツも、近年、ミレニアム開発目標の達成が自国の開発援助目標であるとの立場を立っており、英国に近い政策姿勢になってきていると考えられる
  •   

と指摘しています。 つまり、フランスは“フランス語”を一種の政策手段として駆使し、フランス語圏の維持と拡大をねらう。それが言語政策の一つの極端な形なのかもしれません。そのあたりは、Wikipediaのフランスの言語政策を参照して下さい。

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 なお、アンタナナリボの本屋で見かけた一番興味深かった本は、実は、池上遼一描くマンガ(劇画)のフランス語版(マンガの吹き出しがフランス語になっているのが、実に妙というか、池上遼一の描画のタッチにあっていました)でした。フィールドに行く途中だったため、購入をためらったら、帰国時にはもう売れていて、おしくも入手できなかったのですが。

食べることについてPart7+植民地が残したもの:国際援助の現場からPart11(前半)

2010 10/1 総合政策学部の学生・院生の皆さんへ さて、「食べること」と「植民地」、なんのことだか、皆さん、ピンときませんよね! ということで、今回はフィールドで出会った“植民地の名残り”のなかから、とくに“食べる”こととからめながら、まとめてみましょう(うまくいくかどうか、わかりませんが)。

 私は基本的に第三世界しか行ったことがない人間ですが、まず足を踏み入れたのは1978年に訪れたシンガポール、そして(すでにブログに何度も登場の)インドネシアのメダンでした。この二つ、片方はイギリス、片方はオランダですが、旧宗主国の性格が如実にあらわれている(と私が勝手に思っている)ものがいくつも見つかります。

 それはまず、“本”です。“本”というより“学術的資料”とでも言いましょうか? イギリス人の植民地行政官は、しばしばアマチュア・コレクターであったり、プラント・ハンターだったり、立派なナチュラリストでありました。この結果、とくに旧イギリス領はどこにいっても、本屋にその土地の自然、生命、あるいは民族に関する書籍や図鑑が、きらびやかに並んでいます。

 それにしても、植民地行政官という非道な行いもやむをえない職種と、自然に対する憧憬・興味が入り混じるところが、まさにアングロサクソンの特殊なところではありますまいか? しかも、今日、この習慣が結果的に、欧米による遺伝子資源の独占をもたらしたわけですから(眞寿田先生知財につながります)、やはりアングロサクソン恐るべしとも言えるでしょう。

 自然の分類を支配することにより、知の支配を完成させる=フランス百科全書派、なかんづくディドロダランベールの夢の実現です(このあたりは、細見先生のフランス哲学につながるでしょう)。

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 そして、シンガポールとはあまりに対照的に、メダンの本屋にはきちんとした学術的本がない。このあたりこそイギリス人とオランダ人の違いというべきかもしれません。

  •   オランダ本国の政府が、いかにインドネシアの現状に無知・無関心だったのか、という小話として、スパイスニクズク(ナツメグ)とメースの話があります。
  •  
  •  この貴重なスパイス、農業革命前、冬季に与えるがないため、ドングリ林で肥らせたブタ等をと殺、来春まで食いつなぐためにハムやベーコンにするために必要な香辛料について、ある年、オランダから植民地インドネシアに指示がでます。 「今年はナツメグの価格が低いのに、メースの価格は高騰している。至急、ナツメグの木を切り倒し、メースの木を増やすように
  •  
  •  ところで、ナツメグの木(Myristica fragrans)は「アンズに似た卵形の黄色い果実をつけますが」(Wikipedia)、その種子がナツメグ、その種子を薄く覆っている仮種皮を乾かしたものがメースなのです。つまり、ナツメグの木を切れば、同時にメースも全滅する! まったく、オランダ人の考えることは! というお話です。
  •  

  ちなみに、インドネシア植民地政府が本国の経済不振のため、1830~60年代に香辛料等生産等に過酷な農業労働を強いたのが世界史でも有名な“強制栽培”です。

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  一方、イギリス人、例えばシンガポールの建設者、いまは高級ホテルである“ラッフルズ・ホテル”に名を残す東インド会社書記官トーマス・ラッフルズは、同時に世界最大の花ラフレシアの紹介者で、“ラフレシア”という名前自体が、ラッフルズから由来します(英語から学名のラテン語化)。なんでも、ラッフルズは直径1m弱の巨大な花にたじろぐ同僚をおさえ、とりあえず自ら花に触って無害であることを実証したそうです(Wikipediaによる)。

  なお、ラッフルズホテルは1887年、10室のバンガロー形式(都市政策学科の設計演習等をとられた方は、先刻ご承知ですよね)で開業、作家サマセット・モーム等が宿泊したことで、有名になります。ところで、この“バンガロー”という言葉はヒンズー語由来だそうです。また、シンガポールという町の名前は「ライオンの町=シンガがライオン;スワヒリ語ではシンバ」というサンスクリット語に由来とのこと(インターナショナルですね)。 

 こうしてイギリス(そしてその覇権の跡をつぐアメリカ)による知の独占が完結します。

 その代償と言うべきか、イギリス料理はさえません(アメリカでさえ、世界に冠たるハンバーグとホットドッグ、フライドチキン、さらにコーラにケッチャプ、タパスコもあるのに!)。特色として、大陸系の朝食(コンチネンタル・ブレックファースト)と違って、ホテルの朝食に卵や(あれば)ソーセージかベーコンがついてくることぐらいでしょうか? いわゆるイングリッシュ・ブレックファーストです(1979年にはじめて旧イギリス領のタンザニアを訪れた時は、首都のホテルで朝食についてくる卵が絶望的にまずかったのを覚えています。だいたい、黄身が黄色くないのです!)。

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 それでは、どんなものがシンガポール料理か? Wikipediaの項目を開くと「混合文化圏らしく、潮州・福建を起源とする華人料理、南インド系の料理、マレー系の料理に大別される。以下に代表的なものを挙げる」とあって、

 とあります。どうやらイギリス料理の片りんもなさそうです。Wikipediaを引用すれば、イギリス料理は

 「料理の種類が少ない。世界的に「不味い料理」というイメージが定着してしまっており、当のイギリス人たちでさえ食事の不味さをジョークとして自虐的に口にするほどである。よく「○○の料理は不味い」と言っても、その国の食習慣に外国人が馴染めないだけであり、その国の人にとっては美味しい料理であるという場合が多い。しかし「イギリス料理が不味い」というのは、本質的に異なるのである。イギリス料理が不味いのは、イギリス人自身が認める所である。他国の料理をけなすのは、その国の文化を差別するという考えがあるが、そもそもイギリスには美食文化が存在しなかったのであり、それを理解しない事は、ある意味、イギリス文化に対しての無理解であると言える

 ここまで書かれるとたまったものではありません。ただし、「これだけまずい料理に耐えられたからこそ、イギリス人は世界のどの地域でも生き延びることができ、それで世界を征服した」という小話もありますので、あまり馬鹿にもできません。

 現在NHKで放映中の『竜馬伝』にも出てくるかもしれない通訳官アーネスト・サトウのお友達、ミッドフォードの『英国外交官の見た幕末維新』には、「日本料理屋から取り寄せた米の飯と魚と豆腐の不思議な料理で、たいへん楽しい夕べを過ごした」「米の飯と魚でも十分だったが、時々、鶏肉や鴨の料理を追加させることもあった」「荒天が続いて漁師が海に出られなかった日には(中略)、竹の子と海草の夕食を運んできた。まさに徹底した精進日であった」とあります。

  ちなみに、サマセット・モームが「イギリスで美味しいものを食いたければ、三食とも朝食にすべき」と言った(Wikipedeiaより)というイングリッシュ・ブレックファーストの写真のURLはhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:English_breakfast.jpgです。ちょっと圧倒されますね。007ことジェームズ・ボンドの好みはたしか、目玉焼き4つではなかったかな(うろ覚えですが)。これなら、世界征服も夢ではないかもしれません。 

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 このあたりで前半折り返しで、To be continued…..(後半へ)

 

“植民地”が残したもの:国際援助の現場から#10-タンザニア編Part3

2010 9/11 総合政策学部の学生・大学院生の皆さんへ

 Part9からの続きです。 さて、“未開”の人たちを“近代化”=植民地経済に巻き込むのはどんな方法がよいか? 政策学部の皆さんは、どうお考えになりますか?

 何しろ、ついさっきまで、荒野に雑穀の畑をひらき、カヌーで湖をわたり、牛を放牧していた人たち、ぴかぴかの硬貨を首飾りの格好の装飾品と考えていても、近代経済学で言うところの“お金=貨幣”に縁がなかった方々を、植民地経済、あるいは資本主義経済に巻き込むには?

 それは“税金”を課すにかぎります。いままでお金がなかった人たちは、あるいは“売り物”でさえなかったウシを売り、あるいは命ぜられるままに綿花を栽培する。そして、なけなしに稼いだ金で人頭税を払うか、、または路や線路の建設・補修に肉体労働(強制徴用)を提供する。

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 ある意味、租庸調の世界が突然、アフリカの荒野に現出する。それでは、反乱も起こしたくなるわけです。それを抑えて、できるだけうまく税金をまきあげねばならない。そんな時、アフリカにおいてもあくまでもスマートに振る舞おうとするフランス人のやり方は、フランス革命前と同じ徴税請負人をもうけることでした。

 この制度は、Wikipediaによると、かのアンリ4世までさかのぼり、「税の支払いの見返りに官職の世襲を保証するポーレット法を定め、また金融家から地域の税金を前借りして代わりに徴税を請け負わせる徴税請負人制度を作り、財政の再建に努めている」とあります。

 こうした徴税請負人に、現地の“王”を任命する、これが例えば、ブルキナ・ファソでフランスがおこなったやり方です(文化人類学者の川田順造『曠野から―アフリカで考える』)。すると、当然、王様は家臣から巻きあげた税金の一部を手数料として懐にいれ、それまで家臣たちとそれほど変わらぬ生活だった王様たち(王といっても、地方の一領主ぐらいの感じですが)の収入が増加して、格差社会が出現する=植民地という“近代化”で、逆に身分制度の差が開く! これはインドネシアの各地のスルタンたち(植民地政府やスハルト政権に優遇された)や、他の土地でもよく起きることです。  

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 さて、私が30年前にタンザニアを訪れた時、ドイツの置き土産がもう一つ残っていました。それは、タンガニイカ湖をブルンディブンジュンブラ港から、キゴマを経て、ザンビアムプルングまで、国際航路を旅して齢100歳を超えなんとする汽船リエンバです。

 英語版Wikipediaには、“The MV Liemba, formerly the Graf von Götzen, is a passenger cargo ferry that runs along the eastern shore of Lake Tanganyika. The ship was built in 1913 in Germany, and was one of three vessels operated by the Germans to control Lake Tanganyika during the early part of World War I. It was scuttled by its captain on 26 July 1916 off the mouth of the Malagarasi river, during the German retreat from the town of Kigoma.”とあります。

 写真のURLはhttp://en.wikipedia.org/wiki/File:Liemba1.jpgです。なお、淡水では(海水に比べて)さびにくいため、鋼鉄船の船齢は長いのです。

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 実に、波瀾万丈のこの船は、1913年ドイツで作られます。当時は、1575トン、全長70.7m、幅10.3mの船は(1970年まで蒸気エンジンで、その後デーゼルに交換)、速力毎時9ノット(17km/h)、一等船客18人、2等船客16人、そして3等船客(いわゆるデッキパッセンジャー)350人。第一次大戦直前、分解されてタンザニア中央鉄道で運ばれてドイツ名Graf von Götzenとして湖デビューするも(なお、そのときには10.5cm砲1門、37mmリボルバー砲2門を搭載)、Part1に書いたドイツ帝国植民地防衛隊司令官パウル・フォン・レットウ=フォルベック将軍のキゴマ撤退戦略のもと、1916年、キゴマ南方のマラガラシー川河口近くで自沈を決行します。そして、1924年、イギリス海軍はこれをひきあげ、MV Liembaとして再デビューをはかります。

 なお、このタンガニーカ湖をめぐるイギリス軍vs.ドイツ軍の戦いはホーンブロワーシリーズで名高いイギリス海洋冒険作家セシル・スコット・フォレスターに小説『アフリカの女王』(1935年)をインスパイアさせます。そして、その『アフリカの女王』の映画化のため、監督ジョン・ヒューストンは1951年、アフリカロケまでも敢行、男性主人公を演じたハンフリー・ボガードに待望のアカデミー主演男優賞を与えます。もっとも撮影中、ヒューストンは酒とハンティングに熱中、主演女優を演じたキャサリン・ヘプパーンにそのことを暴露されてしまいますが、この破天荒なアフリカロケそのものが、1990年代にはクリント・イーストウッド監督・主演の『ホワイトハンター ブラックハート』として映画にまでなってしまいます(映画ファンにはこたえられないエピソードの連発です)。 

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  私がリエンバに初めて乗ったのは、1979年か1981年か、少し定かでありません。この頃、いったん変えたはずのディ-ゼルはぼろぼろ、しょっちゅう修理で運休していました。JICAの派遣専門家として滞在していた1982~84年にかけては比較的順行で、何度もこの船のデッキパッセンジャーの中に加わった覚えがあります。

 なにしろ、キゴマの港を出ると、途中、本格的な港はほとんどなく、たいてい沖に停船して、カヌーか小型の船に乗り換えて上陸しなければならず、かつ、私が降りる場所はたいてい深夜の到着で、ボートピープルさながらの光景でした。

 その頃を思い出すと、リエンバいかにもボロボロな船で、かつ、めちゃくちゃな運行状況ではありましたが(何しろ、何時通るかわからないと言うことで、浜辺で寝ながらまったことも何回もあります)、そのリエンバがまだ走っている(そろそろ齢100歳ですが、淡水なので、鋼鉄船の寿命は長持ちするのです)。懐かしくもあります。

 ただし、ちょっと間違えると、タンガニイカ湖のきれいだが冷たい水に落ちそうだし、うっかり足でも挟まれれば骨折しかねません。こうして、タンザニアの旅は絶えず気の抜けないもので、一回旅行するたびに疲れ果てます。

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 そんなわけで、キゴマに出る時には、ついつい調査基地所有(といっても、ほぼ100%、日本人研究者が工面した金で作らせたものですが)ボードに船外機エンジンを付け(燃費はなんとリッター1km)、空のドラム缶(スワヒリ語で“pipa tupu”)を10本位載せ、行きと帰りにそれぞれドラム缶1本(ほぼ200l)のガソリンを使い、のこり8本分のドラム缶のガソリンを持ち帰る。

 ボートを走らせるのは夜中(涼しいため)で、そのドラム缶の上で寝ながら旅をする-これが、私の国際援助の現場(一応、JICAの派遣専門家でしたから)です。他の先生方のお話とは、随分違うかもしれませんね。

 おかげで、ドラム缶の容量等にも詳しくなりました。ふつうは200リットルですが、満杯にすると220リットルぐらい入る。政府機関用のガソリンスタンドで、「できるだけ満タンに(スワヒリ語ではzidisha!)」等と叫んで、少しばかり多めにいただく、などというコツも、援助の現場では必要です。

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 これだけ投資したら、ドイツもよほどのお金がかかったのではないか、と思われますが、すべてはイギリス人に(アフリカ人の頭越しに)接収されてしまう、それがベルサイユ条約での結末でした。

“植民地”が残したもの:国際援助の現場から#9-タンザニア編Part2

2010 8/27 総合政策学部の学生・大学院生の皆さんへ 

  Part8からの続きです。今回は、植民地経営の実態について、と題して話を続けましょう。

 前回、タンザニア中央鉄道の建設に関して、Wikipediaの記述を引用しました。「鉄道建設はドイツ国庫からの建設借款により行われていたため、植民地政府は借款返済の大きな負担を抱えることになった。1914年の植民地政府歳入の32パーセントが借款返済に当てられていた」(Wikipedia)。

  また、こんな記述もありました。「1905~08年には、綿花の共同栽培と強制労働に反対してマジ・マジ戦争が起きます」。“借款”=要するに借金です。いずれは返さねばなりません。植民地経営は、意外に金のかかるものなのです。

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 例えば、巨船が入る近代を作らねばならない(輸出入の拠点です)。タンザニアのアフリカ側本土の拠点としては、奴隷商人たちがザンジバルに奴隷や象牙を送り出す拠点として、バガモヨ(Bagamoyo)があり、ドイツ領東アフリカ植民地の最初の拠点ともなりました。

 なお、Moyoとはスワヒリ語で“心”です。英語版Wikipeidaには、“This explains the meaning of the word Bagamoyo (“Bwaga-Moyo”) which means “Lay down your Heart” in Swahili.”とあります。おわかりですか? ある説では、“バガモヨ”とは、本土を離れ、これからザンジバルの奴隷市場に出荷される奴隷たちに“お前たちの心をここに埋めておけ”と宣告する場所だ、というのです。

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 そのBagamoyoから、(ヒューエコ入門でちょっと触れますが)植民都市というまったく新しいタイプの都市として、1895年、ザンジバルのスルタンの離宮があった“Dar es Salaam(平和の地)”建設へと向かうのです。

 なお、私はダル・エス・サラーム等の写真は一切もっていません。私の滞在時代は社会主義政権下で、都市でなにか写真を撮ったら、何時、密告されてぶちこまれるか、わかったものではない、とささやかれていました。

 現に、ダル・エス・サラーム港の写真を撮っているところを捕まって、2日間拘留された日本人がいたそうですが、警察まで会いに行かれた方によれば、まるで犬小屋みたいな牢獄だったと言っていたとJICAダルエスサラーム事務所の方から聞いたことがあります。

 そんなわけで、当時、町に出たら、カメラは封印する、というのが心得でした。

  • 社会主義政権では、いろんなものを撮ってはいけません。鉄道、駅、橋、港、空港。要するに軍事上重要なポイントです。最近は、そうした国も減ったので、トラブルも少なくなったとは思いますが、デジタル機器の発達で、すぐに撮影したがる人がいますよね(あとで整理はどうするんだろう? フィールドワークで大変なことに一つは、映像を“資料”にするため、整理することなのですが、昔は整理だけで大変でした。写真等の整理に追われて、肝心の研究の方がおろそかになりかねない、ということでは本末転倒ですね)。第3世界では、やはり気をつけていた方が良いかと思います。
  •  

 この上、ダル・エス・サラームから内陸部のキゴマまで、タンザニア中央鉄道を敷設し(Part8で述べた、クルップの鉄の枕木を敷き詰め)、さらにタンガニーカ湖畔に奴隷商人の町Ujijiの隣に、これまた新たに植民都市キゴマを造り、駅と港を整える! これでは、お金がいくらあっても足りません。

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   それでは、どうするか? 結局、“未開”の人たちを近代化しなければいけない=無理やりにでも。そうしないと、彼らから“税金”がとれない。

  ちなみに、スワヒリ語では税金は“Kodi”ですが、これは“人頭税”=もっとも単純、植民地政府にはもっとも取りやすい、一人ずつにかかる直接、Wikipediaによれば「所得に対して逆進性の強い税制であるため、現在ではほとんどの国で導入されていない。所得が無くてもそこに住んでいるだけで課税される。そのため、困窮した庶民が逃亡したりすることもあった」。まさに、それが植民地の現実でもありました。

 ですから、みんなKodiを嫌う。独立UhuruでやっとKodiから解放されたはずなのに、国家の経済が傾き(社会主義政権国家は1970年代より、国家経済が傾き出します、まず北朝鮮、そして第3世界の東寄りの国家)、税を復活させるかもしれないという“レディオ”(ラジオのスワヒリ語音)放送に、ある男が私に憤懣やる方ない調子で政府を非難するので、私は「だって、お前らの政府じゃないの。選んだんでしょう。それが政策に失敗したから、そうなってしまうんで、国民の責任でしょうが」と(と、もちろん、スワヒリ語で)会話したことがありました(今の民主党と自民党を見ていると、同じことを口走りそうですが)。

 そして、近代化された人たちは、やがて、圧政者に反抗し、独立していく=世界史でいつも変わらぬ光景です=以下、To be continued (Part3へ).

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...